思考過多の記録
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2009年03月21日(土) 目指せ、確定申告!

 「目指せ、確定申告」
 これが今年の僕のキーワードである。
 本当に確定申告をしている人から見れば、あんな面倒なことをなぜ目指すのか、と思われるかもしれない。しかし、僕にとって確定申告は憧れである。それは「自由人」の象徴だからだ。



 僕のような、所謂「給与所得者」にとって、確定申告は無縁である。「年末調整」というのがあるが、それは税金の還付であり、自分の所得を自分で把握し、自分で税額を申告するのとは性格が違う。
 「給与所得者」は、文字通り会社から毎月決まった額の「給与」をもらう。そのかわり、毎日決まった時間に出社し、決まった時間の労働力を提供することを求められる。
 また、保険料を決まった額、毎月の給与から「天引き」されている。
 その代わりに、退職後は「二階建て」の年金を受け取れるし、健康保険もあるので、在職中は医療費の自己負担もたいていの場合は少なくてすむ。
 しかし、税金は「ガラス張り」のため、やはり規定の額が毎月「天引き」されていく。
 また、職種によっても異なるが、基本的に正社員には「ボーナスがある。
 また、今回のような未曾有の不況や会社の業績によってなくなる場合もあるが、基本的には「定期昇給」があり、年齢を重ねると自動的に収入もアップする。
 要は、決まった収入が約束されているので、将来の生活設計も立てすい。
 「街金」などではなく、名のある金融機関から融資を受ける場合でも、安定した収入があることが条件になる。



 自由人となるとそうはいかない。
 仕事がいつもあるとは限らないし、その仕事の量も月によって、また年によってまちまちだ。
 決められた時間に働かなくてもいい代わりに、収入も定まらない。
 また、「納期」を守らなければ、次から仕事が回ってこない可能性もある。
 年金も1階の「国民年金」のみ。収入が多くても少なくても国民健康保険の保険料や介護保険料は徴収される。
 自分の裁量で仕事が決められると思いきや、ある程度ちゃんとした生活を送るためには、不本意な仕事も受けなければならない場面もあるだろう。
 また、決められた労働時間がない、所謂「裁量労働」のため、自分にネームバリューがない場合、もらえる金額を労働時間で均すと、時間あたりの金額は低くなってしまったりする。自由時間は自分で作り出さなければならない。
 要するに、自分を縛る「組織」というものがないので「自由」はあるが、それだけリスクも大きいというわけだ。



 車はトヨタ、電話は固定も携帯もNTT、買うものは殆どが有名メーカー品(唯一パソコンだけはアップル)という「安全運転指向」の僕にとって、確定申告をする職業の人達、就中芸術系の人達は、自分の才能で食っているという面で憧れだ。
 その人の才能や作品を買う人や組織があるというのは凄いことである。
 そうして得た収入を、年度末に確定申告する。
 何ものにも縛られず(人間関係に縛られているかも知れないが)、自由に、自分の才能で生きながら税金を払う。素晴らしい生活ではないか。
 ただし、「リスク」を僕が引き受けられるかというと、そこがネックになる。



 僕が「自由人」のよさを思い知ったのは、病気で休職した時だった。
 あの時は、医者の許可もあって芝居作りは続行していたが、会社は当然行かなかった。
 毎朝決まった時間に起きて満員電車に揺られ、決まった時間に会社に着いて、与えられた仕事をやり、残業をするにしても決まった時間になると退社して家に帰る。
 その繰り返しの閉塞感に、僕は嫌気がさしていたところだったのだ。
 だからこそ、復帰までの9ヶ月間、僕はそれまで感じたことのない開放感に満たされ、充実した幸福な時間を過ごすことができたのだ。
 僕の病気は皇太子妃雅子様と同じ「神経症・適応障害」だが、香山リカ氏によれば本来この病気は、原因となっている因子を取り除けば半年ほどで寛解するのだそうだ。
 しかし、僕は復帰後半年で「再発」した。そこには「鬱」の要因があるというのが香山氏の分析だが、僕自身の考えは、実は僕が適応できなかった環境とは、この「正社員」の生活そのものだったのではないか、ということなのである。
 ただし、休職中に健康保険組合から「傷病手当金」が支給され、リハビリ出社後には会社から「扶助料」が支給されて、なおかつ地位が保たれているのは、正社員だからに他ならない。
 もし「確定申告」が必要な身の上だったら、この間は無収入となり、おまんまの食い上げになってしまう。



 リスクを取らなければ冒険はできない。
 だから、次回の僕の芝居の公演は、ある意味大勝負であり、かなりのリスクを伴う。
 もし成功すれば、それはサラリーマン人生の出口への第一歩になる。
 しかし、失敗すれば、借金だけが残る。それを返すために、一生サラリーマンを続けなければならない。
 本来小心者の僕が今回リスクを取る方に踏み切るのは、「人生は一回だけ」だと思うからだし、「やるとすれば今しかない」と思うからだ。
 本当はもっと前にやっておくべきだったが、それはいっても仕方のないことだ。これ以上遅れると、もうリスクは取れない。
 だから今、なのである。



 近日中に、正式な公演日程をサイトで発表する予定だ。
 もう劇場は押さえてしまった。
 来週には書面での契約となる。
 もう、後には引けない。
 どれ程の「リスク」があろうとも、もう前に進むしかないのだ。
 やるからには勝ちに行く。
 自分の才能で生き残る世界へいくのだ。



 目指せ、確定申告!


2009年03月19日(木) 反「共産党」宣言

 「妖怪がヨーロッパに出没する。共産主義という妖怪が。」
 この有名なフレーズで始まるカール・マルクスの『共産党宣言』を、僕は十数年前に読んだ。太田出版から新訳が出たときである。
 僕は読みながらとても興奮した。
 当時は、所謂「失われた10年」の最中であり、時代は今とは違った意味で閉塞感が漂っていた。今、ワーキングプア、ハウジングプアと呼ばれる状態になっている世代が就職氷河期に直面していた時である。



 読み進むうちに、この書物は1848年に発表されたのだけれど、まさに現代そのものを語っていると思った。そして、最後のフレーズに、僕は身震いがした。

「共産主義者は、自分の見解や意図を隠すことを恥とする。共産主義者は、かれらの目的が、これまでのいっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってしか達成され得ないことを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に慄くがいい。プロレタリアには、革命において鉄鎖のほかに失うものは何もない。かれらには獲得すべき全世界がある。

全世界のプロレタリア、団結せよ!」
(金塚貞文訳)



僕が前に書いた、「革命には武装闘争は必要」ということの根拠はここにあったのだ。
 そして、『蟹工船』でも述べられていたように、労働者が動かなければ資本家の利益は生まれないのだ。



 それはさておき、この『共産党宣言』のくだりのすぐ前に、こういう文章がある。

「共産主義者はどこにおいても、すべての国の民主主義政党との連携と強調に努力する。」

 もともとこの文があるのは、最終章である「第4章 種々の反対党に対する共産主義者の立場」という部分である。
 そこで、今僕は日本共産党のことを考えている。
 今回の小沢民主党代表の「不正」献金疑惑が報じられたとき、多くのメディア(朝日新聞とNHKを除く。このことについては稿を改めたい)は「何故この時期に?」と懐疑的な報道をした。
 また、国会内では、自民・公明の与党は当然「真相究明を」と言ったが、特に自民党は自分の政党の人間の名前も取りざたされていたため、トーンが低かった。また、野党共闘を組む社民党、国民新党は「よく説明を」「検察の意図が感じられる」と、どちらかといえば民主党に同情的だった。
 これに対して、同じ野党である共産党は何と言ったか。
「自民党も民主党も根っこは同じであると分かった。」と厳しい口調で小沢氏と民主党の対応を批判したのであった。



 今回のことに限らない。
 共産党は、政府・与党の批判はもちろんするが、野党第一党である民主党の批判もよくするのである。記者会見や街頭演説などで、必ずといっていいほど民主党批判にも時間を割く。
 2大政党制の中に埋もれてしまうのを避けたい気持ちは分かる。
 しかし、「ねじれ国会」の中でも、他の野党は結束しているのに、共産党だけ「我が道を行く」場面が多くみられる。例えば、他の野党が与党の対応を批判して委員会の採決を欠席しても、共産党だけは出席して反対する、という具合だ。
 政権交代に邁進する民主党にしてみれば、後ろから鉄砲を撃たれるようなものだ。
 要するに、「自分たちだけが正義だ」と信じているのである。
 だから、自民党も民主党も、「悪事」を働けば同じように糾弾する。



 しかし、本当にそれでいいのだろうか。
 前にも述べたし、メディアでも言われているが、今回の「小沢疑惑」はそのタイミングといい中身といい、極めて「政治色」が強い捜査である。そのあたりへの言及がまるでなく、ただ正義を振りかざし、「原則論」のみを述べ立てる。
 そのことで、民主党への風当たりが強くなったり、国民の間に失望感が生み出されたりしこそすれ、対する与党・自民党へのダメージは弱く、また当の共産党に対しての評価が上がるわけでもない。
 つまり共産党は、「政治をよくしよう」という本来の意図とは無関係に、むしろ自民党を助けていることになるのだ。
 結果的に日本共産党は、公明党に続く自民党の第2の別働隊として働いていることになるのである。
 よく地方の選挙などでも、他の野党が統一候補を出しているのに、共産党が独自候補を立て、結果的に保守系候補が当選してしまうことがある。それも同じことだ。



 日本共産党は一体何をしようとしているのだろうか。
 他のすべての政党を批判し、自分達の正しさを訴える割には、その「正しい」政策を実現しようとする素振りも見せない。
 本気で自分達の政策が正しいと信じ、それを実現しようと考えているのなら、ある部分妥協をしてでも他党と組み、まずは目前の敵である自民・公明両党を政権の座から引きずり下ろす。
 そして他党と連立政権を組み、その中で自分達の政策を国政に反映させていけばいい。
 たとえ10の政策すべてがパーフェクトに実現できなくても、3の政策が少し修正されて法制化されるだけで、この国は少しは変わる。
 何もしなければ、何も変わらない。



 この間の共産党を見ていると、自分達の政策なんてどうでもいいと思っているとしか思えない行動が多い。
 例えば、前回の選挙の時の共産党のスローガンは、「確かな野党を」だった。
 民主党を意識したスローガンだが、あれを見た国民の多くは、「ああ、共産党は野党のままでいいと思ってるんだ」「政権を取る気がないんだ」と思ったに違いない。
 実際、前回の選挙で共産党の票は伸びなかった。
「2大政党制の中で、私達の訴えが受け入れられなかった」
と確か志位委員長は総括していた。
 しかし、それは間違いだ。正しいことを言っていれば受け入れられ、自分の政党が単独過半数を得られる筈、というのは学生運動の論理である。
 共産党が受け入れられない理由、それはまさに共産党自身が批判していたブッシュ政権時代のアメリカさながらのその単独行動主義であり、鼻につく「正しい主張」である。
 「左翼小児病」という言葉があるが、これは日本共産党のためにあるようなものだ。
 政治は学校の生徒会活動ではないのである。



 僕は、共産党の主張や掲げている政策の「正しさ」を否定しない。
 ただ、問題点を指摘するだけでなく、具体的に行動して国政をちゃんと動かしてほしいのである。そのための行動計画を国民に明らかにしてほしい。
 そして、「自分達だけが正しい」という思想を捨ててほしい。
 今の共産党は、日本を悪い方向へと導く力に手を貸しているのと同じだ。
 そんな政党は僕達には必要ない。むしろ害悪だ。
 とても彼らの下に団結することなどできない。



 だから僕は、敢えて宣言しよう。
 僕は「反共産党」主義者だ、と。



 真に暮らしやすい国をつくるための仕事を真面目にこなす、そのためには、ときには清濁併せ呑むことも辞さない、そんな政党を僕は、そして多くの国民は強く求めている。


2009年03月17日(火) 無知・無教養・無能な「先生」

 自民党の笹川尭総務会長が、今月14日にあった自民党大分県連の会合で講演し、その中で教育問題に触れた上で、
「学校の先生で、鬱病で休業している人が多い。国会議員には1人もいませんよ。気が弱かったら、務まりませんから」
と発言したという。また、それに続けて、
「苦しいときこそ知恵が出る」などと言ったそうだ。



 この笹川という代議士は、これまでも大学のラグビー部で起きたレイプ事件に関して、
「レイプするぐらいの元気が必要だ。」
といった趣旨の発言をして物議を醸す等、失言癖の多い人物だ。
 今回の発言も酷い。
 まるで、「気が弱い人間が鬱になる」と言っているようである。というか、はっきりそう断言しているも同じだ。
 勿論、笹川氏の中では「気の弱い人」=「悪」という図式があるのは目に見えている。そういう人間は教師になるべきではない、という意味もあるだろう。



 ここには二つの問題がある。
 第一に、何故ここ数年、教師に鬱病が多発しているのかという問題、第二には鬱病は「気が弱い」人が罹る病気なのか、という問題だ。
 後者に関しては、日本生物学的精神学会というところが、「鬱病は誰でもなる病気」「気の弱さ、強さとの関係は指摘されていない」などとする声明を出している。
 確かに、鬱病になりやすい人となりにくい人という傾向はある程度あるだろう。しかし、この病気はどちらかと言えばパーソナリティより「環境」の問題である。だからこそ、「誰でもなる」可能性のある病気なのだ。
 鬱病をはじめとするメンタル不全が「弱い」人間のなるものだというのはこの時代にもまだ一般に多くある偏見であり、笹川発言はこれを助長するものだ。
 おそらく、いやほぼ確実に、笹川氏には鬱病に関する専門的な知識はゼロである。知識がないことを断定的に、それも当事者(鬱病で休職中の教師)を攻撃するかのような文脈で使うのは、代議士、それも与党の総務会長という養殖にある者が決してやってはいけないことだ。
 それでなくても、鬱病や心の病で退職を余儀なくされている人達がたくさんいる。
 本来それは間違った対処の仕方なのだが、笹川発言は、まるで鬱病になった責任をその個人に押し付ける論理、すなわちそういう人が職場を追われて当然とする論理である。
 同じ心の病を患った人間として、許しがたい発言である。
 勿論、その後の「苦しいときこそ知恵が出る」などというのは全くの見当はずれな意見であり、小泉元首相の言葉を借りれば「怒るというより、笑っちゃうくらい呆れる」類のものだ。



 第一の問題に戻れば、何故教師に鬱病が多くなったか、そこにはどんな構造的な問題があるのか、といった論議にならなくてはならない。
 先にも書いたように、鬱病は誰でもなる。
 それは、そういう環境があるからだ。
 では、今教師を取り巻く環境とはどのようなものであろうか。
 巷間いわれるように、今では学校や教師の「権威」がなくなり、保護者は学校に不条理なクレームや要求を突きつけるようになった。また、所謂「教育の自由化」によって学校や現場の教師が「評価」の対象となり、例の「全国学力テスト」等の実施と相まって、教育現場に競争原理が導入された。
 これらのことによって、教師は雑務に忙殺され、またお互いが「競争」相手となり、自分の学校、自分のクラスのことで手一杯になってしまった。
 自分の担当するクラスの成績が悪ければ内外から非難され、孤立していく。
 教師には真面目な人が多いから、現状を変えようとして頑張ってしまうが、それが結果に結びつかず、空回りとなる。
 そして、精神を病んでいくのだ。



 こうした背景があって、教師の鬱病、そしてメンタル不全による休職、退職は増えている。
 それをフォローする政策を提案し、現場の声も踏まえて論議して実行していくのが政治家の役割である。
 それを、こともあろうに教師個人の資質に還元するような発言をして憂いているような素振りを見せてみるだけの政治家に、果たして政権を担当する能力があるのだろうか。



結局笹川氏は、この発言で自分の無知・無教養・無能ぶりをさらけ出している。
 現状を正しく把握する能力もなく、ただ思いつくままに喋りまくり、偏見に充ち満ちた思想の持ち主を総務会長にいただく自民党という政党に、本当に政権与党としての資格があるのか、我々有権者はよくよく考えてみる必要がある。
 そして、笹川氏を国会に送り出した群馬県の有権者は、これだけ失言癖のある政治家を選び続けていることに対して、何も感じていないのだろうか。
 自分たちの投票行動が、政治家としての資質に疑問符がつくような人間を国政に参加させ続けていることを反省してもらいたい。
 そして、次の選挙では、もっとまともな人物を選べるように、選択眼を養ってもらいたい。



 繰り返すが、笹川氏に限らず、自民党の国会議員は、首相を筆頭に失言癖がある人間が多すぎる。
 偏見と傲慢さの固まりのような人物、弱者への配慮が微塵も感じられない人物が非常に多いこの政党に、今後の日本を任せていいのか、今回の発言をきっかけに今一度我々有権者は考え直すべきなのではないだろうか。


2009年03月11日(水) 夜行列車礼賛

 先週土曜日(7日)から今週火曜日(10日)まで九州旅行をしてきた。
 といっても、観光地を回るのが目的ではない。僕はもともと鉄道マニアだったが、徐々にその傾向も薄らいでいた。ただ、鉄道というものに対しては、一貫して関心を抱き続けていた。
 そんな時、今年3月14日のJRグループのダイヤ改正で、東京口に最後まで残っていたブルートレイン「富士・はやぶさ」が廃止になるというニュースが飛び込んできた。



 ブルートレインといえば、僕がマニアだった小学校高学年から中学生の頃にかけて一大ブームを巻き起こした。
 当時はたくさんのブルートレインが走っていた。
 東京口では下関行き、博多行きの「あさかぜ」2往復、鹿児島本線経由西鹿児島(現在の鹿児島中央)行きの「はやぶさ」、日豊本線経由西鹿児島行きの「富士」(当時、最も長距離を走る寝台特急だった)、山陰本線直通の出雲市行き「出雲」2往復、瀬戸大橋完成前の宇高連絡船経由で四国方面への足になっていた宇野行き「瀬戸」、長崎・佐世保行き「さくら」と併結された熊本行き「みずほ」、そして寝台急行「銀河」、これだけの列車があったのである。
 上野口でも、常磐線経由青森行き「ゆうづる」数往復や金沢行き「北陸」、秋田行き「あけぼの」2往復があった。もう一つ、東北本線経由青森行き「はくつる」は電車寝台特急だったが、後に客車になった。
 他にも、名古屋、新大阪、大阪から九州・東北方面を目指すブルートレインや寝台電車特急が多数運行されていた。
 どの列車も10両を越える堂々たる編成で、前面にはヘッドマーク、最後尾にはテールマークを掲げて走っていた。
 また、ブルートレインではないものの、寝台を連結した急行列車も多数運行されていた。
 その雄姿をカメラに収めるのが、僕達マニアの「仕事」だった。
 僕はよく朝早く起き、始発電車で上野や東京に行って、ホームで列車を待っては、ちゃちな安物カメラで写真を撮っていた。



 東京や上野といったターミナル駅が混み始めたので、途中駅の横浜や新橋、また当時住んでいた常磐線の綾瀬駅から北千住方向に行ったところにある荒川鉄橋でカメラを構えるときもあった。
 しかし、当時は暇はあっても金がない。
 一眼レフなど買えるはずもなく、そうした高性能のカメラやレンズを使って撮った写真が紙面を飾る「鉄道ファン」などの雑誌をなけなしの小遣いで買い、読みふけった。
 そして、いつかはこの憧れのブルートレインに乗りたい、ずっとそう思っていた。



 上野からのブルートレインについては、当時はなかったものの、青函トンネルの開通と同時に、「ゆうづる」に代わって誕生した「北斗星」に僕は一昨年に乗車した。
 夢がかなったわけである。
 しかし、東京口のブルートレインにはなかなか乗る機会がなかった。
 最大の理由は、新幹線の存在だ。西に行くには新幹線と相場が決まっていた。新幹線の運賃に比べて、寝台料金は高かった。
 また、九州は単純に東京から遠く、なかなか腰が重かった。



 しかし、そうこうするうちに、JRの発足とともに、利用率が低迷する寝台列車の整理が始まった。
 東京口で見ても、まず「あさかぜ」が姿を消し、続いて「出雲」が1往復になった上、瀬戸大橋の開通に伴って行き先が高松に変更された「瀬戸」と併結する電車寝台「サンライズ瀬戸・サンライズ出雲」になった。車体はブルーではない。
 そして、「さくら・みずほ」が姿を消し、「富士」と「はやぶさ」が編成を短縮して併結されるようになった。
 さらに昨年、長い間走り続けてきた寝台急行「銀河」が廃止され、東京口のブルートレインは「富士・はやぶさ」だけになっていた。
 それがついにこの14日で姿を消し、東京駅からブルートレインが消えることになった。
 ずっと憧れて、写真を撮っていたあの頃を思い出す。
 ブルーの車体を力強く引っ張る機関車の姿。輝くヘッドマーク。
 その列車がなくなるのである。
 何としても乗らなければ、と思った。



 しかし、こういうことの常として、廃止が決まると切符が突然手に入りにくくなる。
 僕は「ネットオークション」という裏業を使った。
 そして、7日の東京発の「はやぶさ」のAデラックス寝台券と、9日大分発「富士」の寝台券を、ともに定価の5倍以上の値で落札して手に入れた。
 勿論本位ではなかったが、とにかく券が欲しかった。もう二度と乗れないことを考えれば、手に入れることが最優先だった。
 もともと僕は、昨年12月の改正で、この列車がなくなるのではないかと思っていた。だから、まだリハビリ出社をする前の10月頃に、この列車に乗る計画を立てていたのだ。
 しかし、なかなか踏ん切りがつかず、そのうちにリハビリ出社が始まり、さらに12月の改正でこの列車は生き延びた。
 そんなこともあって、僕の計画は頓挫した形になっていたのだ。
 あの頃なら、容易に切符を手に入れることもできただろう。しかし、そんなことを今更言ってみても始まらない。
 それに、普段の列車もいいが、こういうちょっとしたイベント気分の時に乗るのも決して悪くはない、そう思って決断した。



 旅の様子は別のブログに書いたので、そちらを参照してほしい。

 「息吹肇の革命前夜」
 http://ameblo.jp/fbi-kk/



 今回僕が改めて発見したのは、ブログにも書いたが、列車に揺られているとそれだけで精神的にとても落ち着くと言いことだった。
 列車といっても、普段使っているような通勤電車ではダメだ。
 通勤電車は日常を運んでいる。頻繁に止まり、人がわさわと動く。デッキもないので外界と直結している。とても落ち着ける空間ではない。
 ここでいう「列車」とは、長距離を走る、いってみれば自分を日常から遠ざけてくれる、旅に出る列車だ。
 ことに、夜行列車のそれは最高のものだ。
 ガタンゴトンという規則正しいレールの響きは、頭の中の余計なものを一切取り払ってくれる。



 夜行列車、特に客車列車の、それも個室になると、その響きが防音設備の関係もあるのか、こもったような音になり、耳に心地よい。
 使い古された比喩であるが、僕達がまだ母親の胎内にいる頃、羊水の中で聞こえていた母親の心音に似ているからなのかも知れない。
 どんな精神安定剤よりも、僕の尖った心を沈静化させ、安らかな世界へと導いてくれた。
 暗い夜の闇の中を、時折流れていく通過駅の灯りや、遠くに見える街の灯りや道路を走る車のヘッドライトが照らし出す。そしてまた、闇に戻る。
 何度も書くが、本当に落ち着ける空間だ。
 もう小沢も麻生もどうだっていいというか、そもそも何も浮かんでこない。
 20年以上前、僕が電車寝台の「ゆうづる」で北海道に向かったとき、3段寝台の中断の狭い空間で、僕は夜行等の下、処女戯曲を書いた。
 しかし今回、僕は列車の中で脚本の構想を練れなかった。本当はそれを使用と思ってノートを持って行ったのだが、どうしてもそういうモードにならなかったのだ。
 僕がしたのは、ブログの更新と島田雅彦の小説「エトロフの恋」を読んだこと、そして音楽を少しだけ聴いたことだった。
 それ以外の時間は、ただただ列車の振動とレールの響きに身を任せていた。



 何故寝台列車は消えていくのか。
 いろいろと理由が考えられるが、効率重視の世の中になり、また新幹線網が拡大し、飛行機もごく普通に乗れるようになった現在、わざわざ寝る時間を移動時間に充てなくても、目的地に早く、しかも格安で到達できるようになったのが大きいと思う。
 また、夜間高速バスの影響も大きい。
 典型的なのが「あさかぜ」だ。この列車は、新幹線の最終より遅く東京を出て、新幹線の始発より早く博多に着くのが売りだった。しかし、「のぞみ」の登場でその価値が消えてしまった。
 スピードを要求される現代にあって、寝台列車はもはや前世紀の遺物になってしまった感がある。
 今や寝台列車は、一部の愛好家のためのもの、いってみれば「豪華客船クルーズ」のようなものになってしまったのだ。当然、需要は限られる。しかし、夜行を運転するには運転手や保守・点検の人員等、経費・人件費がかかる。となれば、民営化したJRにとってはお荷物だ。
 今後、寝台列車は「シベリア鉄道」化していくしかないのだろうか。



 しかし、僕にとっては夜行列車は精神の安寧をもたらしてくれる貴重な存在だ。日常を忘れ、ストレスも感じなくて済む、心のオアシスである。
 僕は新たな目標を立てた。
 今日本には、寝台列車は急行も含めて7種類の寝台列車が走っている(客車列車の本数。電車寝台はまだ急行「きたぐに」等がある)。
 その全てに乗ろうと思う。
 どの列車も、使用している客車が老朽化してきており(豪華列車「カシオペア」は比較的新しいが)、需要も限られている中、いつ廃止になってもおかしくない。
 だから、できるだけ早く、全ての列車を体験したいと思う。
 まずは、今日本で一番長距離を走る寝台特急「トワイライトエクスプレス」(大阪〜札幌)に乗ろうと考えている。この列車は定期列車ではないようなので、よく運転時期を調べていきたい。



 鉄道に人が郷愁を感じるのは、それが「人生」に似ているからではないだろうか。
 誕生という「始発駅」を出発し、いろいろな分岐点を経て、いろいろな列車を併結し、また分離しながら進む。さまざまな景色の中を走り抜けた列車は、やがて人生の「終着駅」にゆっくりと滑り込む。そこから先にレールはない。
 人生という列車のダイヤグラム(列車運行表)を僕達は知らない。しかし、確実にそれは存在している。それを「運命」と呼ぶ人もいる。
 駅は人生の節目節目になぞらえられるだろう。
 そう考えていくと、鉄道とは人生そのものであり、だからこそ僕達は、飛行機にも船にもバスにも感じない何かを、鉄道の旅から感じ取るのではないだろうか。
 寝台列車は、それを最もよく表しているものだと思う。
 普通、人生の始まりを夜明けに例え、終わりを日没に例えるが、寝台列車はその逆を行く。人生の終わりに近付くに従って、次第に夜が明けていく。
 素晴らしいことではないだろうか。



 時代が移り、スピードが今以上に求められることになっても、鉄道の役割は終わらない。
 それは単に効率的に大量輸送ができるエコな乗り物だからというだけではない。
 いつでも、人間の中には列車が走っている。
 闇夜に汽笛を響かせ、規則正しくレールのリズムを刻みながら。


2009年03月06日(金) 検察ファッショを許すな!

 小沢一郎民主党代表が、準大手ゼネコンの西松建設から違法な政治献金を受け取っていたとして、小沢代表の公設第一秘書が逮捕されたというニュースが、週末から週明けにかけて日本列島を駆け巡った。
小沢代表は翌日記者会見をし、「自分にはやましいことはない」と疑惑を否定した。
 報道の内容を見ると、政治献金はダミーの団体を通して小沢代表の政治団体になされており、これが企業や政治団体以外による献金を禁止する政治資金規正法に違反するのだという。
 また、朝日新聞の報道では、西松建設はダム工事の受注に便宜を図ってもらう目的で献金を行っていた疑いがあるという。
 もし事実とすれば、贈賄容疑も出てくる。
 おまけに西松建設は、下請け会社に小沢氏への献金分を上乗せした工事代金を支払い、その分をダミーの団体に寄付していたという疑いや、小沢氏の第一公設秘書が西松建設側に献金の「催促」をしていたという証言まで出てきた。



 真実の解明は、今後の捜査を待とう。
 しかし、今回の一件で見逃してはいけないポイントが2つある。
 1つは、検察もまた国家権力の一部であり、中立ではあり得ないこと。2つ目は、何故この時期にこの一件がリークされたのかということである。



 一つ目のことで言えば、「検察は弱いものの味方」という考え方が庶民にはある。しかし、それは願望に過ぎない。
 今から20年以上前に、政・官・財を巻き込んだ一大疑獄事件である「リクルート事件」というのがあった。新興企業だったリクルートの社長が、ビジネスを有利に展開できるように、政・官・財の有力者達に値上がり確実な未公開株を譲渡していたという事件だった。
 この事件では、元内閣総理大臣・中曽根康弘氏をはじめ、自民党の大物代議士の名前が何人も挙がった。
 しかし、実際に検察が起訴したのは、文部事務次官、労働事務次官、そして政治家では中曽根内閣の官房長官だけだった。
 「政界ルート」の捜査には圧力がかかったという味方が専らだった。
 また、当時も今と同じように解散が近かったため、選挙に与える影響を考慮して、検察が立憲を自粛したとも言われた。
 ことほどさように、検察は「政治的」に動く。検察庁長官は列記とした官僚であり、その上司は政治家だ。
 今回、民主党がすぐに「国策捜査だ」との見解を発表し、多くのメディアもそれを疑うような報道をしたのは故なしとしない。
 たとえ麻生政権の誰かが直接検察に指示しなかったとしても、検察は「空気を読む」。ことに、政権与党の空気を。
 このような政治疑獄でなくても、検察は勝つのが難しそうな裁判となると、遺族や被害者の感情を無視して「控訴断念」をすることがよくある。また、事件の核心部分を「立証が困難」として裁判で争わなかったりもする。
 要するに、「お役所」なのだ。
 そんな検察に、僕達は過剰な期待を抱いてはいけない。
 報道によれば、西松建設は小沢氏以外にも、自民党の森元首相をはじめ、何人かの国会議員に献金をしていた。
 額が突出していたとはいえ、何故小沢氏だけ立件したのだろうか。
 そこには、麻生政権との「あうんの呼吸」があったと勘ぐられても仕方があるまい。
 まるでそれを裏付けるのかのように、今日の報道では、麻生政権の高官が「自民党の強制捜査はない」と言ったという記事が載った。
 語るに落ちたとはこのことである。



 二つ目の、「何故この時期に」というのは、もう明確すぎるくらい明確である。
 昨年からずっと、麻生政権と与党は追い詰められっぱなしだった。閣僚の辞任、本人の発言のぶれ、年金問題、そして評判の悪い定額給付金と増税等々、野党からの攻撃材料には事欠かなかった。
 支持率も下がりっぱなしで、今や10パーセント台、不支持率はのきなみ7割前後というていたらくである。
 これに引っ張られるように、自民党の支持率も低下、今や各種世論調査で民主党に逆転を許している。さらに、「次の総理にふさわしい人は?」という問いに対する答えは、麻生氏より小沢氏の方が上という惨憺たる有様だ。
 「今選挙をすれば、確実に負ける」
 自民党・公明党の誰もがそう思っていたに違いない。そして、逆に民主党は、「今度こそ政権交代の千載一遇のチャンス」と考えていただろう。
 麻生政権は解散権を行使できず、いずれは「麻生おろし」の声が高まり、のたれ死ぬ運命だった。
 そこに、今回の「小沢スキャンダル」である。
 自民党にとってはまさに「神風」であろう。
 ちょうど20年度補正予算と21年度予算が国会を通る目処が立ったことだし、予算成立を待ってすぐに解散すれば、イメージダウンした民主党との戦いは有利に進められるだろう。
 また、もしかすると民主党の中から「小沢氏では戦えない」と「小沢おろし」の声が出て、党内が混乱し、選挙への力がそがれるかもしれない。
 麻生首相は今回のことが明らかになった際の記者との「ぶらさがり」インタビューで、
「このことで政治不信が国民の間に広がるとしたら、悲しいことだ」と涼しい顔でコメントしていた。
 しかし、内心は違うだろう。
「しめしめ、国民の間に政治不信が広がれば、『どこに投票しても同じだ』『自民党も民主党も変わらない』という考え方が広がって、無党派層が投票に行かない。そうすれば投票率が下がり、足腰が弱い民主党よりも、公明党・創価学会の組織票がある我が方が有利だ。選挙には負けない。」
 こういう計算が働いたに違いない。



 政権交代がかかった選挙の前に、次に総理になるかも知れない人物の「事件」を誇大に取り上げることで、政権交代を阻止し、与党から点数を稼ごうというのだろう。
 この種のことは、所謂「形式犯」で、わざわざ公設第一秘書を逮捕したり、事務所を家宅捜索したりする程のものではないというのが一般的な見方だ。
 また、ゼネコンと政治家、なかんずく与党・自民党との癒着は今に始まったことではなく、手口はもっと巧妙に、多くの議員が手を染めていることであろうと思う。
 それを、わざわざ」「次の総理」を選挙間際にターゲットにしたというのは、先ほどの政府高官の話ではないが、タイミングとしては絶妙で、そのほとぼりが冷めないうちに麻生総理が解散総選挙に打って出る選択肢を与えたことになる。
 そしてもし、その選挙で目論見通り自民党・公明党が勝てば、大手を振って「民意」の正当性を笠に着た横暴が国会で繰り広げられることは明らかだ。
 このような社会悪に検察が手を貸すとは言語道断である。
 今のところ検察の公式見解は、「時効が迫っていたから」ということであるが、だったらもっと前にやってもよかったのだ。
 あまりにタイミングがよすぎる。「何かある」と思うのが普通だろう。



 再度確認しておこう。
 検察もまた、国家権力の一部である。
 決して我々の味方ではない。
 そして、正義でもない。
 そして、何故検察が自民党の窮地を救うようなことまでするのかといえば、これまで政権交代がなかったからである。
 だから自民党にしっぽを振るような体質が出来てしまったのだ。



 ある政治家が、「検察ファッショ」という言葉を使ったことがある。
 「疑惑」があるとされ、強制捜査が入れば、それだけでもう悪いイメージが出来上がってしまう。
 犯罪者を1人作り上げることは、検察にとっては容易いことなのだ。
 こんなことを許してはならない。
 権力の一部である検察に、権力を裁くことはできない。
 これから起きることを、我々はよく見ておくことだ。
 誰が陰で笑っているのか。
 検察の捜査は、皮肉にもそれをあぶり出してくれるかも知れない。


2009年03月05日(木) メランコリー

 最近、意味もなく憂鬱である。
 先週あたりまで、例の「チェ・ゲバラ」に自分の演劇に臨む姿勢や現代の日本の状況を重ねあわせ、気分的に高揚していたのだが、まるでその反動のように、ここ数日落ち込んでいる。



 3月14日のJRグループのダイヤ改正で姿を消すブルートレイン「はやぶさ」と「富士」に乗りたいと思い、ヤフーオークションでチケットを取り、楽天サイトで探したビジネスホテルを予約した。
 九州内の移動用の特急列車の切符も買った。
 今週土曜日が出発の日である。
 本来ならうきうきしていい筈なのだが、どうも気分が沈んでくる。
 やめてしまおうかとさえ思ってしまう。
 最近いつもそうだ。
 前々から取っていた芝居のチケットも、当日が近付いてくるにつれて行くのが面倒に感じられてくる。
 それで結局行かなかった芝居もいくつかある。
 大抵は、「やっぱり来てよかった」となるのであるが、その行くまでがとても気分が重いのだ。
 行くことを自分で選んだにもかかわらず、「義務」に感じてしまうからである。



 僕のメランコリーの原因は、仕事への復帰の途上ということと、「芝居」から遠ざかっていることにある。
 今は「慣らし出社」ということで、1日2時間、午後1時から3時まで出社している。
 ただ、扱いは「休職中の自主的な慣らし出社」ということなので、賃金は出ない(「扶助料」という名のお金は支給される)かわりに、業務をする義務もない。
 2時間を、メールチェックや組合の資料、もって来た本等を読むことに費やしている。
「まず、そこにい続けることを目標にしましょう」という医者の指導にもかなっている。
 この不景気の中、派遣切りや正社員切りが問題化するご時世に、こんな恵まれた環境にいて何が不満なのかと言われるかもしれない。
 それはそのとおりだ。
 僕の会社は組合がしっかりしているし、経営者も建前上は従業員や組合の意見を最大限尊重するという立場にいてくれるので、こうなっているのだ。
 僕の雇用は確保され、いずれ仕事に復帰できるだろう。



 だが、それこそが「憂鬱」の種である。
 またこの会社で、あの日々が戻ってくるのかと思うと、正直反吐が出る。
 嫌いな会社ではない。
 社員も、概していい人が多い。苛められた課長とは離れた。
 しかし、それでも憂鬱である。
 それは、「義務」としての労働が発生するからだ。
 勿論、僕は労働力以外に売るものはない。
 本当は「才能」を売って暮らしたかったのだが、今のところ買ってくれる人はいない。
 しかし、「義務」の2文字が僕を押し潰す。
 一体僕は誰のために働くのだろうか。
 そして、誰のために生きるのだろうか。



 来年の秋、(僕にとっては)壮大な芝居の計画がある。
 まもなく、第一報をサイトで発表できるだろう。
 それが動き出せば、このメランコリーから抜けられるだろうか。
 しかしそれは(僕にとっては)莫大な資金を必要とし、一緒に暮らす年金暮らしの父母からはまた疑惑と非難の目が向けられるであろう。



 今僕は、鬱憤を晴らすために、狂ったようにネットショッピングをしている。
 毎週2,3日回は宅配便業者が僕宛の荷物を運んでくる。
 どう考えても異常だ。
 しかし、僕は自分を止められない。
 原因は薬だろうか。それとも、別の何かだろうか。



 とにかく、何か出口のない場所に閉じ込められてしまっているという幹事が拭えない。
 どこにも進めないので、同じ場所であがいているという感じだ。
 それが僕を買い物に走らせ、毎月の返済額を増やす。
 収入は減ったにもかかわらず。



 まるで全てが他人事のようだ。
 自分の憂鬱すら他人事に感じる。
 父や母の憂鬱が乗り移っているかのようだ。
 この状態からいつ抜け出せるのだろうか。
 このままでは、自らの体に傷を付けてしまいかねない。


2009年03月02日(月) 「説得」の政治

 先週、オバマ大統領の就任後初となる議会演説が行われた。
 新大統領はまず、アメリカ国民を鼓舞するフレーズから始めた。
「我々は立ち直る」。
 しかし、それで終わっていてはただの精神論だ。ここからが新大統領の真骨頂である。
 前政権の施策(無策)を批判し、「しかし、我々は未来に対し責任を取るべき時が来た」とはっきり述べた。
 そして、予算案では3つの分野、すなわち、エネルギー、医療、教育に重点的に投資すると述べ、具体的な政策の内容と金額について提示していった。
 何故現状がこうなのか、そして、どうするべきなのか。どうするつもりなのか。
 それをひとつひとつの分野について細かく指摘していった。
 そして、例の「戦争」についてである。公約通り、イラクからの撤退を表明。ただ「撤退する」だけではなく、期限を切った。そして、「武力」よりも「交渉」すなわち「外交」で世界と関わり合っていくという方向性を打ち出した。
 ただ、アフガンについては、やはり兵力で武装勢力と対抗する姿勢を鮮明にした。



 僕は全部を見ていたわけではないが、ニュースの映像などから見ると、とにかく日本の政治家とのギャップを強く感じた。
 まず、オバマ大統領は、スピーチの原稿があるにもかかわらず、殆どそれを見ずに、議員達の方、すなわち、その後ろにいる「国民」の方を見ながら喋っていた。
 そして、どの分野にどのくらいの資金を投入し、それは何故必要なのか、どこから財源を持ってくるのかをきちんと数字を上げながら話した。
 例えば、大統領の政策チームが連邦予算を精査した結果、「10年間で2兆ドルの歳出削減の余地がある」ことが分かった、とか、「子ども達の将来の負債から救うため」(というのは、国債を意味するのだろう)「国民の2%の富裕層の減税をやめる」といった具合だ。
 全てが分かりやすく、矛盾点がない。
 そして何より、明確で中・長期的なビジョンに基づく具体的な政策があるということが、国民に安心感を与えるだろう。
 また、例えば共和党やその支持者のように、具体的な内容について反対の人間に対して、具体的な議論が出来る土台を提供している。



 さて、我が方の国会審議であるが、特に本会議での首相の所信表明演説、代表質問およびそれに対する政府側の答弁を見ていると、だんだん飽きてくる。
 何故なら、所信表明演説でも、代表質問に対する閣僚の答弁でも、殆ど全部が官僚が作った原稿の棒読み。顔を殆ど上げようともしない。
 中には先頃辞任した中川元財務・金融担当相のように、原稿を20カ所以上間違えて読んでしまう者もいる始末だ。
 質問する方も、民主党でも共産党でも、「無駄を省き」「軍事費を削減し」などと抽象的なことはいうものの、では「無駄」とは何で、それはいくらで、防衛費をどの程度抑制するのか、何をいくら削るのか、不明なことが多い。
 全体として、政府も野党も、中・長期的なビジョン、すなわちこの国をどうしていくのか、どの方向に向かわせようとしているのか、真摯で具体的な言葉で語ろうとしていないのだ。



 アメリカと日本のこの違い、いや、具体的にはオバマと麻生の違いは、国民を「説得」しようとする姿勢があるかないかの違いに還元されると思う。
 オバマは、その語り口からも誠実さが伺えるが、とにかく政府が今考え得るベストと思って出した法案を、何とか議会で承認してほしい、また国民に理解と協力を求めたいという、ある種の「情熱」に裏付けられたスピーチをしている。
 それに対して麻生は、「どうせ衆議院で3分の2があるんだから、結局は予算は無傷でとおるんだよな。だから、こんなのセレモニーに過ぎないんだよな」と思っているのがありありである。当然、国民を「説得」しようなどという感覚はさらさらない。
 ただ、「代表質問」という時間があるからやってます、という感じなのだ。
 だから、見ていても胸に響いてくる言葉も政策もまるでない。
 勿論、中・長期的なビジョンなど語られない。
 この国をどうするかというより、来るべき選挙でどう票を取るかだけを考えているような政策が並ぶ。それも、財源がはっきり決まっていない。「定額給付金」がいい例だ。



 これは、直接選挙で選ばれる大統領と、与党から選ばれる首相の違いがあるかも知れない。
 大統領も首相も国のリーダーであり、国民を幸福にする政策を打ち出し、実行していくためにいる。
 しかし、どちらも民主主義の国でありながら、一方は主権者たる国民に語りかけ、「説得」に精力を傾けるのに対して、こちらではもっぱら「永田町」という「ムラ」の中を向いていて、国民が目に入っていないかのようである。
 だから、与党内の各勢力や公明党さえ説得できれば、取り敢えず安泰なのだ。
 だから、演説で誰を「説得」する必要もない。野党の存在は数で押し切れると思っている。
 何と貧困な政治だろうか。



 景気が大きく後退し、収入が伸びず、雇用すら危うい中、税金を必死で払っている国民には目もくれず、その国民からの税金の使い道をきちんと明確なビジョンのために使わない政治家達に、この国は支配されている。
 国民は国の決めたことに従えばいいと考えているのかも知れないが、それは全く発想が逆だ。
 もっと説得力のある政治家がこの国にも求められているのではないか。
 世界的な経済危機、そして小泉政権時代の政策の負の遺産に苦しめられる多くの貧困層。
 問題山積のこの国の未来を、そして現在をリアルに、信念を持って語るリーダーが今こそ必要なのだ。
 そこからしかこの国の再生の道は開けない。
 よく首相や細田自民党幹事長は「政局よりも政策」と言って暗に野党を批判するが、「政局」をやっているのは与党も同じだ。
 仲間内ではなく、国民を説得できるような政策と言葉を持ってほしい。
 選挙のために、「子ども達の将来の負債」になるようなばらまきはやめ、「我々は諦めない」と強く決意を語る政治家を、我々は求めている。



 だからもう、政治から距離をおくのはやめようではないか。
 国民が見ていないと思うから、政治家は好き勝手をするし、原稿の棒読みもする。
 間もなく総選挙がやってくる。
 我々有権者も、もっと自分達の声を聞き、それを政策に活かしてくれるような、そして我々を「説得」してくれるような人間を国会に送り出したいものである。


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