思考過多の記録
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少し前から、この「思考過多の記録」をブログに移行するかどうか迷っている。 空前の人気を誇った日記サイトだが、少し前に完全にブログに取って代わられた。そして今や、mixi等のSNSが主流となっている。 僕が迷う理由はただ一つ、「炎上」である。
僕もmixiにページを持っていて、そこでも日記を書いている。しかし、そこで書いているのは本当に日常の雑事であり、当たり障りのないことだ。 それに対して、この「思考過多の記録」では、社会的な事件等を主に取り上げる。当然、人によって考え方は異なる。 それを前提に読んでくれる人ばかりならいいのだが、何故か(というか、理由ははっきりしているが)ネットの世界では自分と異なる意見を表明する人間がいると、とても面と向かっては言えないような罵詈雑言を浴びせ、排除しようとする輩が多い。
ただでさえそうなのに、僕の意見は、「ネット世論」の中ではどちらかと言えば少数派に属する。「ネット世論」の大勢は、どこかの本で読んだ言葉を借りれば「ぷちナショナリズム」とでもいうものだ。 何故か「日本」に誇りを持ち、中国や韓国(挑戦)に対して意味のない嫌悪感や敵愾心をむき出しにする。そして何故か、あの漢字の読めない首相が大好きだ。 少数派を擁護したり社会のあり方を告発したりすると「正義感ぶっている」と思われるらしい。総攻撃を浴びせられる。彼等は「ぷちナショ」な考え方こそが正しいと思い込んでいるようだ。
何か鬱屈した気分を晴らしたい。 そんな雰囲気がネットには蔓延している。秋葉原の事件や今度の元厚生次官宅襲撃事件の犯人に対して喝采を送ったり、「学校裏サイト」に見られるように、特定の人物に誹謗中傷、それも「死ね」などと簡単に書いたりする。 自分が見えない存在だから、相手も見えていない。いや、敢えて見ようとしない。 そんな連中がネットを席巻している。 「2ちゃんねる」がそうしたものの代表的な場所であることは論を待たない。 社会学的な研究対象としてその書き込みを見るのは、社会の実態のある側面を「正しく」反映しているものとして興味深いが、とても進んで入っていけるところではない。 そんなわけで、僕がある社会的な事象についてブログで意見を表明したら、あっという間に「逝ってよし」等の書き込みで溢れ、炎上してしまうだろう。
本来ネットはそんな場所ではなかったはずだ。 まだパソコン通信の頃には、例えば書き込みを苦にして自殺するなどという話は聞いたことがなかった。 多くの人が参加するようになり、ある程度匿名性も保証されているという中で、現実の社会では口に出来ないようなことをはき出す場所に変質してしまったのだろう。 「インターネットは、人間の悪意を形にしたもの」とは、劇作家の鴻上尚史氏であった。
だから僕はまだ迷っている。 でも、このまま守られた環境の中で発言を続けていくだけでいいのか、という思いもあるからだ。 そして、実際にはどんな反響が返ってくるのかという興味もある。 結論はまだ出ない。 論争を恐れるものではないが、相手は殆どが論争するに値しない人間であることが多い(と思う)。 当分はこのまま続けるつもりだが、ある時期が来たら外に出て行くかも知れない。
2008年11月25日(火) |
空虚な闇〜元厚生官僚殺傷事件容疑者逮捕〜 |
例の厚生事務次官経験者とその家族への殺傷事件だが、全く意外な展開になってきた。 僕が前の文章を書いたその日、容疑者が自首したのだ。 小泉毅というその男は、レンタカーに証拠品を残らず積んで、霞ヶ関の警視庁本庁舎前に乗り付けたのだった。 そして、注目されたその動機について彼は、 「幼い頃、飼っていた犬を保健所に殺された。その恨みを晴らすためだ。年金テロではない。」「高級官僚は悪いと大学に入ってから分かった。」と述べているという。 あまりの論理の飛躍に、世間の誰もがついていけていない。
いろいろな分析がある中で、僕が最も説得力があると思ったのは、例の秋葉原の事件の容疑者と重ねたものだ。 二人とも、途中までは優等生コースをたどりながら、その後挫折を経験し、職を転々としている。そして、二人とも人間関係が苦手だ。 何をやってもうまくいかないことを、「社会が悪い」と決めつけ、社会不安を起こすような行動をとることによって鬱憤を晴らし、なおかつ自分に社会の注目を集めさせる。 所謂「劇場型犯罪」といわれるものだ。 こうなると、犯罪自体が目的で、しかも社会が注目し、マスコミが取り上げ、識者達がもっともらしく解説を加える。そのこと自体が犯人の思うつぼ、ということである。
しかし、それでもなおかつ、今回の事件には不可解な点がある。 一番分からないのは、容疑者の男がどこから生活費を得ていたのかということである。昼夜逆転の生活で、特に何もせずにぶらぶらしていながら、家賃を滞納したことはないという。 親とは全く音信不通になっていたので、仕送りもなかったであろう。 職を転々としている間に蓄えたというのも、ちょっと考えにくい。 実はここに、この事件の核心があるのではないかと思えてならない。 同時に、大きな謎でもある。 本当に犯人はこの男だけなのだろうか。
いずれにしても、彼は明確に官僚経験者をターゲットに選んでいた。図書館で住所を調べ上げ、入念に下見をし、凶器も使いやすいように改造している。 何が彼を殺人に駆り立てたのか。 34年前の犬の話は、おそらくこの事件には直接関係がない。捕まったらこの話をしようと考えていたのではないだろうか。 犬の殺処分と官僚機構とは、全く結びつかないからだ。 しかし、彼の捕まった後の堂々としたふてぶてしいまでの態度は、秋葉原の事件の犯人とは全く異なる。 秋葉原の事件の犯人は、どこか追い詰められたような感じがあった。それに対して彼は、自分の信念を貫いたという自信に満ちたような態度である。
僕も、この国の社会も、まだこの事件を理解できないでいる。 その不可解さが、殺傷という行為の理不尽さを大きくしている。 犬の命を大切に思う優しい心がある人間が、何故何の関わりもない人間の命を奪ったのか。また奪おうとしたのか。 彼の闇の奥にあるものは何か。 あるいは空虚かも知れない。 真相などどこにもないのかも知れないのである。
いずれにせよ言えることは、僕達はこうしたモンスターを生み出す社会を生きているということである。
2008年11月22日(土) |
「見えない憎悪」と「暴力」に支配されている国 |
元厚生省(現厚労省)の事務次官夫妻と、別の元次官の妻の殺傷事件から何日かが過ぎた。 犯行の詳細などが徐々に明らかになりつつあるが、奇妙なことに犯行声明が出てこない。 この事件は、ターゲットがいずれも厚労省がらみの人物のため、厚労行政に恨みを抱く人物による政治的な事件である可能性が高まっている。また、その手口から、かなりの殺意を持った人物であることも分かってきている。 そうなれば、犯人は自らのメッセージを社会に知らしめるために、また自らの影響力を誇示するために、何らかの手段で犯行声明を出すのが普通である。 しかし、この事件の場合、今のところ犯人は沈黙を守っている。
無差別殺人で最近よく聞かれるキーワード「誰でもよかった」という「殺すこと」自体が目的の犯罪とは、今回は少し違うと思う。 ターゲットに共通点があることが偶然とは思えないからだ。 犯人は、周到に計画を練り、実行したに違いない。 しかも、指紋は残さずに足跡だけ残していることも不気味だ。 自分が捕まってもいいと思っているのか、逃げおおせることを意図しているのか、どちらともとれるからだ。
こうした事件があり、関係者の自宅に警察官や警察車両が24時間警備のために常駐しているのを見ると、改めて日本は「見えない憎悪」と「暴力」に支配されている国だと認識させられる。 この事件の前に、道を歩いていた人が目を刺されて意識不明になる事件があった。これは不特定多数を狙った、所謂「誰でもよかった」事件の例である。 こうした所謂通り魔的な事件は、ここ数年確実に増えている。 この「見えない憎悪」は、格差や不景気といった社会的背景の中で、やり場のない「怒り」や「閉塞感」が日本社会を覆っていることを示している。今や、社会の至る所に地雷や起爆装置があって、それが時々事件となって爆発している状態なのだ。 本来、こうした人々のすさんだ状態を鎮めるのは、精神的には宗教、現実世界では政治の役目なのだが、今の日本ではどちらも機能していない。 だから、非正規雇用労働者の中から、「希望は戦争」などという、究極の「暴力」を望む声さえ出てくるのだ。
元事務次官とその妻の殺傷事件を考えても、厚労行政とは最も生活に密着したものだ。それに対して何らかの不満を抱いている人物の犯行と仮定するなら、決して犯人の肩を持つわけではないが、現在の厚労行政が一般の国民のことを本当に考えたものになっているのか、政治はもう一度振り返って考えた方がよい。 もしかすると犯人は、厚労省のみならず、官僚機構そのものをターゲットに考えている可能性も捨てきれない。 だとすればそれはまさに政治的テロリズムである。 これは「誰でもよかった」殺人とは、明らかに一線を画す。
今回の事件が、日本の社会のある意味での転換点になるようなことのないことを祈るのみである。 僕達は、間もなくルビコン川を渡ろうとしているのだろうか?
アメリカの次期大統領が、バラク・オバマ氏に決まった。 初のアフリカ系大統領の誕生である。これは画期的なことだ。アメリカの歴史をひもとけば、黒人をはじめとする有色人種がどれだけ迫害を受けてきたかが分かる。あの有名なキング牧師の「私には夢がある」という演説からかなりの時が流れた。 オバマ氏は、選挙戦を通じて「Change」を叫んでいたが、それが第一段階で現実のものとなった。そして、彼等の合い言葉「Yes, we can!」もまた、正しいことが証明された。 アメリカは、少なくともマケイン氏が選ばれた場合よりは、国際的な信用度が上がり、自信を取り戻したであろう。
よく言われることだが、オバマ氏を大統領にした陰の立て役者は、ブッシュ政権の8年間だった。ネオコンと呼ばれる人達が政権の中枢を占め、市場万能主義の元、福祉を切り捨て、金持ちを優遇した。また、無謀にして大儀なき二つの戦争を起こした。CO2削減目標を盛り込んだ京都議定書に参加しなかったり、国際軍事裁判所の設置に反対するなど、自分勝手な行動も目立った。 その結果、国内的には貧富の格差がいっそう広がり、サブプライムローンが破綻して家を失う人が増えるなどした。また、そういうリスクの高い債権を組み込んだインチキ金融商品を世界中にばらまき、今現在問題となっている世界的な金融システムの混乱を招いた。 また、アフガンとイラクの二つの戦争はどちらも泥沼と化し、どちらも引くも地獄、残るも地獄という状態になっている。そして、多くの兵士や民間人の命が失われた。 今やブッシュ政権の支持率は歴代ワースト1を記録している。
「大きな島国」と言われるアメリカ人といえども、自分達の頭に幾重にも火の粉が降りかかってくるに及んで、漸く政権を、つまりは国の政策を「Change」しなければならないと気付いたのだろう。 勿論、そこにはインターネットを活用したオバマ陣営の巧みで地道な選挙活動があった。これもまた大統領選史上画期的な方法であったし、そうして草の根に浸透していくほどに、オバマ氏の政策というか存在そのものが、多くの人を引きつけたのであろう。 とはいえ、代議員数でこそオバマ氏はマケイン氏を大きく引き離したが、得票率ではそれ程の差はなかった。まだまだ白人保守層や富裕層を中心に、「黒人大統領」への拒絶感は強いのだろう。 オバマ氏にとっては、こうした人達にも納得してもらえるような、それでいてドラスティックな改革を如何に断行していけるかが今後問われる。
今日、ブッシュ大統領は市場万能主義を擁護して見せたが、「カジノ資本主義」とまで言われた投機マネーの跳梁跋扈を招いた新自由主義が破綻したことは明らかだ。今後、オバマ新政権は当然そこからの脱却をはかるだろう。 翻って、我が日本は、小泉政権の元、当時の竹中経済財政担当大臣の指揮下で新自由主義の路線をひた走ってきた。 その結果、日本社会は壊れた。「改革なくして成長なし」と小泉氏は叫んでいたが、「改革」をしても「成長」どころか、アメリカ同様貧富の格差を拡大させ、社会保障やセーフティネットは「自己責任」の元に縮小され、挙げ句の果てにアメリカ発の金融危機にまともに巻き込まれるという、とんでもない結果になっている。 この点に関しては、是非「戦犯」である小泉・竹中両氏の謝罪の言葉を聞きたい。
僕はこのブッシュ政権の間、アメリカを批判する文章をここでたくさん書いてきた。 勿論、オバマ氏が選ばれたことによって、全ての問題がたちどころに解決されるわけではない。人種間・宗教間の対立は今後も続くだろう。二つの戦争の後始末にも相当手こずるに違いない。しかし、アメリカはこうしてちゃんと「Change」する力を持っている。そのことを、アメリカ人は世界に示した。 このことに関しては、敬意を表するべきだろう。 少なくとも建前上は、アメリカ建国の精神である民主主義は死んではいなかったのだ。
アメリカと似たような状況になっている日本だが、果たして「Change」する力は国民にあるのだろうか。 よく聞かれる言葉だが、「自民党は嫌だが、民主党は頼りない」とかいうのは、僕は「Change」を恐れる言い訳に過ぎないと思う。今回の給付金の顛末を見ても、自民党だって十分頼りない。 繰り返しになるが、何より「失われた10年」以降の自民党の政策によって、国民の暮らしは確実に苦しくなった。それでもなお現政権を支持するというのは、質の悪いニヒリズムか思考停止としか言い様がない。 おそらく、日本の国民が「民主主義」というものを戦後アメリカから「押しつけられた」ために、その精神が完全に根付いていないのだろう。また、ヨーロッパ諸国に見られる「主体性を持った個人の連帯」にも乏しい。今、日本のネットを支配するのは、オバマ氏の支持者達のような社会変革を現実のものとするための横の連帯ではなく、「ぷちナショナリズム」と言われるような、匿名性に守られた上での無責任で非常識な、言論とも呼べない言論と、それを許す共犯関係だけである。
日本が「Change」する日は来るのだろうか。 オバマ氏の勝利演説の格調高さと、漢字を読み間違えるべらんめえ口調の似非セレブ首相の違いを見るにつけ、政治意識におけるアメリカ人と日本人の意識の差が分かる。 古くから言われていることだが、国民は自分達に相応しいレベルの政治家しか持ち得ないのだ。 しかし一方では、プロレタリア文学の「蟹工船」が再評価される等、地殻変動の兆しはある。 それを表に出し、大きな流れにしていく力こそ、日本国民は今こそ発揮すべきではないだろうか。 さもなければ、我々の置かれている状況は悪くなるばかりである。それを甘んじて享受する我慢強さより、変革の意思を我々は持ち、それをアメリカのように行動に移すべき時期に来ていると、僕には思えてならない。 我々に本当にそれが出来るのか? 「Yes, we can!」 そう言える日が来ると信じたい。
2008年11月08日(土) |
青春は遠い彼方へ〜筑紫哲也氏逝く〜 |
ジャーナリストの筑紫哲也氏が亡くなった。 僕にとって筑紫氏は、今はない「朝日ジャーナル」編集長という印象が強烈である。何故なら、ちょうど僕が大学に入学する頃と、筑紫氏が朝日ジャーナルの編集長をやっていた時期が重なるからだ。 あの当時は、毎号のように楽しみにしながら買って読んでいた。 自分の脚本の処女作に、朝日ジャーナルの記事のエピソードを脚色して使ったりもしていた。 筑紫氏が生み出した言葉、「新人類」とは、まさに僕達の世代のことだったのである。
「若者達の神々」や「新人類の旗手達」といったインタビュー記事も、毎号食い入るように読んだ。 いつか自分が「若者達の神々」や「新人類の旗手達」の1人になりたい、いや、なってみせる。 畏れも己も知らない若い僕はそう思いながら、「神々」や「旗手達」の言葉を読んで、影響されていた。 あの雑誌が僕に与えたインパクトは計り知れない。 それを作っていたのが、他ならぬ筑紫哲也氏だったのだ。
報道番組の筑紫氏を、僕はあまり見たことがない。「NEWS23」ではなく、「ニュースステーション」をずっと見ていたからだ。テレビジャーナリズムの開拓者と言われているが、テレビ特有のスピード感を生かすという意味では久米宏の方が勝っていると思ったからである。 しかし、文章を読むと、さすがジャーナリスト、と唸らされることが多かった。一時期ジャーナリズムの世界を目指そうと思ったのも、筑紫氏の影響が結構ある。 常に時代を見つめ、現場を踏み、問題点に鋭く切り込んでいた筑紫氏。しかし、病魔には勝てなかった。
今後、筑紫氏のような反骨ジャーナリストは出てくるのだろうか。 我々は、日本社会にとって貴重な人材を失ったと思う。 勿論、「編集者」とはいいながら、その実態は平凡なサラリーマンに過ぎない僕が後に続けるわけもない。 これから何か大きな事件がある度に、筑紫哲也氏なら何とコメントするかと考えてしまうだろう。
1人、また1人と、僕の青春時代を彩っていた人が去っていく。 その度に、僕の青春時代は遠い彼方の方へ押しやられていく。
筑紫哲也さん、本当にお疲れ様でした。 ゆっくりお休み下さい。
2008年11月05日(水) |
魂を悪魔に売り渡した男の末路 |
音楽プロデューサーの肩書きを持つ小室哲哉氏が詐欺容疑で捕まった。 小室氏といえば、90年代には「泣く子も黙る」と言われた程影響力のあった人物である。 もともとはTMネットワークというバンド(?)で活動していたのだが、アイドル歌手などをプロデュースし始めてからの方が、皮肉にも有名になり、彼の楽曲は世の中に広がっていった。当時の「小室ファミリー」には安室奈美恵やtrf、華原朋美、そして自身もそのメンバーだったglbeなどがいたが、みんなドラマの主題歌などになってヒットし、僕の知り合いもよく小室サウンドを歌っていたものである。
しかし、そんな彼は10年で犯罪者に転落した。当時の栄華は見る影もない。 そういわれてみると、2000年代になってから、小室サウンドを聴かなくなった。バブル崩壊後のあの10年、ヒットチャートを席巻し続けたというのに。あらためて芸能界の浮き沈みの激しさを見せつけられる思いだ。 また彼の場合はそれが極端である。 一時は20億とも30億とも言われる収入がありながら、今では口座に6000円ちょっとしかないというのである。 一体どういう使い方をすればこんなに金がなくなるのかと思えば、自宅は豪邸、高級外車を何台も買い、自前のレコーディングスタジオを国内と海外に持ち、飛行機もファーストクラス借り切り。 借金を抱え、カードも止められた今になっても。六本木の一等地のマンションに住み、1ヶ月の生活費は数百万だという。 ちょっと、いや、かなり常軌を逸している。
結局彼は、自分には所有権のない自分の楽曲の著作権を売ろうとして詐欺容疑で逮捕されたわけだが、この姿勢を見る限りでは、彼は自分の楽曲を「作品」ではなく「商品」もしくは「消費財」と考えていたのではないかと思われる。 だいぶ前に雑誌「AERA」に小室氏のインタビューが出ていたが、そのとき彼は、 「TMのときには、自分達の曲がカラオケであまり歌ってもらえなかった。どうしてかな、と考えて、もっとみんなに歌ってもらえるような歌を作ろうと思った。」 という趣旨の発言をしている。 つまり、彼にとって自分の曲は一部のファンに「受容」されるだけでは不満で、より多くの人達(マス)に「消費」してもらいたかったのである。 言い換えれば、ファンは「消費者」というわけだ。 消費をすれば、当然お金が入る。彼にとってはそれが一番大事なことだったに違いない。 「曲に込められた思いを届ける」のではなく、「曲を使って(お金に換えて)もらう」。 それが彼の音楽を制作する動機になっていたのではないか。
90年代、彼の目論見は成功した。「消費者」はどんどん彼の楽曲を「消費」した。そして、莫大な富を彼にもたらした。 しかし、彼は一つだけ気付いていなかった。 消費者は飽きやすいということを。 大量に同じ種類のものを消費すれば、いつかは飽きてしまい、別の新しい商品を求める。これは資本主義下の消費社会における鉄則である。 彼は、あまりにも短期間に大量のものを供給しすぎたため、自分自身が消費されてしまったのである。 結果、彼の楽曲は飽きられ、忘れ去られた。 彼がプロデュースしていたアーティストも彼の元を離れたり、芸能界を去ったりした。
そして彼は、消費者が求める新しいものを供給できなかったのである。 僕は、今回のことは、小室哲哉が自らの才能を「作品」のクオリティを高めるためにではなく、売れる「商品」を作ることに使ってしまったことに対する、「芸術」の側からのしっぺ返しだと思えてならない。 「売れること」が全ての芸能界に身を置いた者の宿命かも知れないが、「時代と寝た男」は、「時代」が変わってそっぽを向かれてしまえば終わりだ。 それに対応して自分も変わって行けなければ、消えていくしかない。 だから、時代とともに走り続ける柔軟性と持久力を持つか、もしくは時代を超えて受容される普遍的な表現を探るか、そのどちらかしかないと思う。 そのどちらにしても、自分の作品を「芸術」と「商売」の境目の綱渡りに耐えうるように作り込まねばならない。 一時に何十億という金を手にした小室氏は、それで目が眩んでしまい、自分の才能に酔ってしまったのかも知れない。 そして、二日酔いの頭で周りを見渡せば、もう誰もいなくなっていた。 自分の楽曲も、そして自分自身も、「商品」としての価値を完全に失ってしまったのである。 その後には、借金以外何も残っていない。
自分自身を「商品」として市場に差し出してしまった男の悲劇。 まるで、魂を悪魔に売り渡した男の末路を見るような、そんな思いがする。
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