思考過多の記録
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2008年09月30日(火) |
自民党三題馬鹿話 その1 |
自民党の総裁選は、事前の予想通り麻生氏の圧倒的勝利に終わった。「選挙の顔」として期待されていて、本人もまんざらではないらしい。 総理大臣に選ばれ、国連総会の会場では満面の笑みで演説をしていた。 前にも書いたが、「国民目線」から程遠い麻生氏を首相にいただく政権が、この時期に発足したことに対して、驚きを禁じ得ない。自民党・公明党は、どうやら党ぐるみ「KY」になってしまったようである。
この麻生首相の施政方針演説がまた酷かった。 勝手に総選挙モードに突入し、民主党に対する攻撃や逆質問など、さながら政府に対する「代表質問」のようであった。そのくせ、自分の方の政策となると、まるで具体性がない。「日本は明るくなくてはなりません」から始まって、「努力します」などと語尾は曖昧。「財源の裏付けのない公約」と民主党をあれ程攻撃しておきながら、自らの政策の財源も明らかにしなかった。
内閣の顔ぶれもまた凄い。 麻生氏自身も含め、2世議員のオンパレード。殆ど「貴族院」かと思ってしまった。 しかも、多くは麻生氏に近いタカ派の論客で地味な存在。小渕の娘で彩りを添えたつもりだったろうが、マスコミ各社が実施した緊急世論調査では、内閣支持率は軒並み50%前後となった。 つまり、国民にしてみれば、「ご祝儀相場」どころではないのである。とにかく喫緊の課題を何とかしてほしい、そういう思いでいっぱいなのだ。そして、それに相応しい顔ぶれでは必ずしもない、ということを見抜いている国民も多い。 この点では、日本の民主主義も徐々に成熟しつつあるのかな、と思える。 それでもまだ、この政権に「ご祝儀」をやろうという人間が半数近くいることに驚く。 もういい加減目を覚ましてもいい頃だと思っていたのだが。
僕はこの内閣を、「俺が俺が内閣」と名付けた。 悪霊名簿をわざわざ自分で読み上げ、何をすべきか「自分が」指示したことをいちいち述べていくあのやり方を見ていても、とにかく自分を売り込もうということしか考えていないのはみえみえだ。 それが自民党の総選挙の戦略でもあると思うが、もうそろそろそれも通じなくなりつつあることに、自民党はまだ気付いていないらしい。
病気が再発して以来、4ヶ月にわたる休職期間が、間もなく終わろうとしている。 来週にも、医者が段階的な復帰を認める方向になっているからだ。 扱いとしては休職中に変わりはないが、徐々に出社して、体を慣らしていこうというわけだ。
正直言って、会社に戻りたくはない。 今の上司はとてもいい人で、僕の立場に立って物事を考えてくれる。また、僕を守ろうとしてもくれる。 仕事だって、まだまだ慣れないが、ここの作業は別として、大きく見れば僕に全く向いていない訳でもない。 それでも、僕は会社に戻りたくはない。 それは、社会と関係を絶って過ごしたこの数ヶ月が、昨年の休職期間も含めて、とても生き生きと過ごせたからだ。 とどのつまり、社会に戻りたくなくなってしまったのである。
とはいえ、社会と関係を持っていなければ、生きていくことはできない。 食い扶持を稼がなければ、いずれは餓死する。 その前に、ライフラインが止められ、通信手段も奪われるので、この日記の更新もままならなくなる。 しかし、僕が社会と関係を持たなければ、と思えるのはそういう理由だけだ。 自分が活かされることをやっているのでなければ、社会と繋がっている意味はないと思う。 それならば、樹海でも彷徨っている方がましだ。
これは、ほとんどひきこもりの論理である。 この調子で、僕は復帰についての話し合いを会社の人とまともにすることができるのだろうか。 自分に嘘をつきながら、僅かな金を稼ぐために生きていくのは、正直言って嫌になった。
それでも僕は生き続けなければならないのだろうか。 あの息苦しい場所に戻るために。
福田首相が政権を投げだし、自民党では「総裁選」という空虚な祭りが始まっている。 この一年で阿倍・福田と二代続けて首相が政権を任期途中で放り出すという前代未聞の不祥事を覆い隠そうと、何とか国民の健忘症を誘おうとしているようである。 しかし、今回のことは、自民党と公明党の連立政権が、もはや政権担当能力を失ってしまったことを雄弁に物語っている。いくら総裁選挙で多くの候補者を立てたところで、この事実はもはや覆い隠しようもない。
それでなくてもこの数年、日本の社会時代の劣化は進んでいた。 小泉改革の「負の遺産」ともいえる格差の拡大(ワーキングプアの問題等)や、後期高齢者医療制度にみられる老人のあからさまな切り捨て政策、そして、消えた、いや、消された年金の問題、食の安全の問題、燃料や資料等の原材料の高騰が原因の物価の急騰、そして、金融不安。 数え上げただけでも、政治が動いて国民、ことに弱者を救済しなければならない問題が山積みだ。 そんな中、「緊急経済対策」なるものをまとめ、国会で審議も始まろうという矢先に「ねじれ国会」を理由に政権を放り出すこの国の総理大臣。 辞任会見でも、国民への謝罪の言葉は結局聞かれなかった。 これは、福田政権(自公政権)が「国民の目線に立って」といいながら、実は国民など眼中になかったことを図らずも露呈したということであろう。 大体「ねじれ」の原因は何だったのか、そこのところの反省が全く不十分である。
そして始まったお祭り騒ぎ。 大本命はもう決まっているのに、小沢民主党との差を出したいがための「出来レース」に、国民は半ば呆れているのではないだろうか。 実際、自民党が望んだほど、総裁選は盛り上がっていない。 第一、各候補者の「公約」とやらが、どれをとってみても抽象的で、具体的にどういう政策を打つつもりなのか、その財源はどこから持ってくるつもりなのか、それは本当に可能なのか、疑わしいことばかりだ。 例えば、小池百合子は「永田町をぶっ壊す!」と連呼しているが、そんなことが本当にできると思っている人間は殆どいまい。その前に、具体的に何をしようと思っているのかも分からない。 例えば大本命の麻生幹事長は、赤字国債によらない景気対策をやると言っている。「必要なところには、必要な手立てを」と言っている。では、どうやってやるのか。「必要なところ」とはどこか。 石原良純は「地方に優しい、暖かい構造改革」と言っている。これなどはもはや、何のことやらさっぱり分からない。その前に、その地方を苛めることになった構造改革をやった小泉政権の時、彼は閣僚だった。いや、彼だけではない、今候補者として立っている人間みんなが小泉内閣の閣僚経験者だ。 自分達のかつての政策で疲弊し、破壊されてしまった日本を、同じメンツで立て直すという。 その前に、自分達の責任をどう考えているのだろうか。 こんな茶番劇につきあっている暇は、はっきり言ってないのである。
現在の情勢では、麻生太郎が総裁に選ばれることはほぼ確実だ。 しかし、誰が選ばれようと、先に書いたとおり、自公政権はもはや政権担当能力を失ってしまっている。 自民党は、新総裁のご祝儀相場が期待できるうちに、すぐざま総選挙に打って出る構えのようだ。 愚かな国民は、「ご祝儀」をくれるかも知れない。 しかし、その財布はもうカラに近い。 毎日の生活の苦しさに悲鳴を上げている。 先日の失言にもあったように、国民の目線どころか、国民を上から見下ろして悦に入っているあの麻生が、国民重視の政策を打ち出せるはずがない。どの面を下げて自民党総裁の椅子に座るつもりだろうか。
あの五人が選挙カーの上からマイクを握ってしゃべっている姿を見るだけで吐き気がする。 もう彼等の顔など見たくもない。 日本の社会を壊し、大多数の国民を窮地に追い込んだ自公政権は、もう終わりにするべきである。 本来なら、自ら責任をとって身を引くのが当たり前なのに、まだ自分達が自ら恥をさらしていることに気付いていない。
ここまでコケにされた僕達が望むことはただ一つ、政権交代である。 ここで変わらなければ、もうお仕舞いである。 そのあたりのことをよく考えた上で、今のお祭り騒ぎを見ておくべきである。 僕達は、麻生のべらんめい口調などに騙されないように、もっともっと賢くなるべきである。
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