思考過多の記録
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2006年04月23日(日) |
生きてきた彼女、生きていく僕達 |
それは、前日までとは打ってかわって、冷たい北風が吹きすさぶ、よく晴れた日だった。僕の後輩が久々に僕の家まで車でやってきた。彼と芝居を作っていたのは、今から10年以上も前のことだが、その頃彼は稽古帰りによく僕を家まで送ってくれていたものである。 その頃と車は変わった。また、彼は結婚して2人の子持ちである。前日に彼の家に電話して背後にまだ小さい彼の子供の声を聞いたとき、時の流れを嫌でも感じさせられた。そしてその日、車から降りてきた彼は、喪服に身を包んでいた。時の流れの中でいなくなってしまった人のもとへ、僕と彼は向かおうとしていたのだった。
僕と彼女は、僕の実家の近くを走る私鉄の、ある駅の側にあるファミレスで待ち合わせをして、いろいろ話をしていた。3年前にやった『レコンキスタ』という芝居の立ち上げのための打ち合わせもそこでやったのだった。僕は実家から彼女の待つファミレスへ向かうために、何度か車を走らせた。 それと同じ道をたどって、彼女の不在を確かめるために、僕と後輩は車を走らせていた。いったん彼女の家の近くを通過して、僕達は少し離れたJRの駅に行った。そこで、一緒に彼女の家に行く人達と合流した。 みな、一様に喪服または地味な服を着ている。バイト先から駆けつけたという後輩が、大きな花を用意してくれていた。かなり遠くから高速道路をとばしてきた後輩もいる。
10年以上前、僕が書いた『明るい反抗』という芝居で彼女と共演、またはスタッフとして関わっていた懐かしいメンバーが僕を入れて5人。そのうち1人を除いて全員同じ高校の演劇部員だった。演劇部時代にそれぞれ彼女と一緒に芝居を作ったりその活動に関わったりした期間を持っている。今では全員が結婚して家庭を持ち、住んでいる場所も仕事もバラバラだ。 さらに後から合流してきたのは、『レコンキスタ』の出演者として彼女が僕に紹介してくれた劇団(ユニット)を主宰する女性と、その劇団の公演で彼女と共演したことのある男性。この人と僕は初対面である。また、主宰の女性とは、今年の初めに芝居を巡って行き違いがあり、何となく疎遠になっていた。 「きっと、彼女が会わせてくれたんだよね」 と誰かが言った。月並みな台詞なのだが、確かにそんなこともあるかも知れないと思ってしまう。 なかなか会えないかつての仲間が集うのは、たいていがイベントの時だ。しかし、今回は「結婚」などのめでたいイベントでないのが悲しい。
夕方になって、風はさらに冷たくなった。日が落ちる頃、僕達は彼女の実家に到着した。ファミレスで会った後、何回か彼女を車で送ってきたことのある場所だ。 ご両親と妹さん、そして従兄弟の方と大人しい犬が僕達を迎えてくれた。 玄関を入って廊下を進んだ突き当たりの居間に隣接した部屋に、まず僕達は案内された。 そこに、たくさんの花に囲まれて、彼女の遺影と、彼女の骨の入った白木の箱がおかれた、簡単な祭壇があった。その前には、線香立てと線香、鐘と数珠が置かれていた。
「どうぞ」 とまず年長者である僕が勧められて、彼女の遺影と向き合って座った。 まるでこちらに笑いかけているような写真が目の前にあった。しかし、それと彼女の「死」とが、どうしても僕の中では結び付かなかった。彼女は、たまたまそこにいないだけなのではないか。線香をあげながらも、僕にはそう思えて仕方がなかった。 線香に火を付け、鐘を鳴らし、手を合わせても、それが彼女と関係のある行為だということが、どうしても自分の中に落ちてこなかったのだ。 悲しいという思いも、寂しいという思いも、悔しいという思いも、僕にはわいてこなかった。ただ、何とも言葉に表すことのできない、言いようもない「気分」が僕を支配していた。 みんなは、僕に女性陣は、目に涙を溜め、すすり泣き状態になっていた。僕も泣いてしまうかも知れないと思っていたのだが、とにかくその状況がよくのみこめず、涙は出なかった。
僕達は居間に通された。彼女の家の方が、食事と飲み物を用意してくださっていた。 こういう突然の「死」の場合、残された肉親の反応は大きく分けると二つあると思う。すなわち、故人の生前の写真等の記録は、見ると辛くなるので一切見たくないとして避ける場合と、永遠にいなくなってしまった故人に「会える」方法として、こうしたものを積極的に見ようとする場合である。彼女のご家族は後者の方だった。 彼女が、生前彼女の妹さんのために選曲して編集したというMDをBGMに流し、彼女の生前の演技を記録したビデオを僕達に見せてくれた。そのうちの1本は、例の『明るい反抗』の本番の記録だった。2時間半にも及ぶ長大な舞台の中で、彼女の父親が選んだ場面は、僕と彼女が掛け合うシーンだった。もともとはそうなるはずではなかったのだが、ハプニングのため彼女が「代役」として急遽演じたシーンである。そして、ラストシーン。そこにいたメンバーのうち3人が、彼女と一緒に映っていた。 とにかく、みんな若かった。勿論、彼女もそうだった。
引き続いて、彼女が数年の社会人生活を経て再び演劇の世界に復帰した、山の手事情社という劇団の養成所時代の研究生発表会のビデオ、そしてその後に入ったP.A.I.という主にコンテンポラリーダンスを主体とする表現活動をする団体に入り、そこでの発表会公演の様子を記録したビデオを見せていただいた。 この頃になると、その表現方法は独特なものになり、ご両親には理解できない方向になっていたようだ。しかしそれは、彼女が自分自身の求める表現をさらに深く模索し始めていたことを意味している。実際にこれを見ていない後輩がしみじみと、 「ちゃんと‘女優’の顔になってるもんなあ。凄いよな」 と言った。 「明るい反抗」から流れた年月が彼女を変えていた。それを、その場にいた誰もがはっきりと確認できたに違いない。 また僕達は、彼女がP.A.I.の個人発表会向けに書いた作品が、ある雑誌に載ったものを見せていただいた。そこには、決してストレートではないけれど、彼女の思いが言葉になって残されていた。中には、まるで彼女がこうなることが分かっていたのではないかと思われるような作品もあり、何ともいえない気持ちになった。
それから、僕達は彼女の思い出話に花を咲かせた。 その日の顔ぶれの中で、僕は比較的彼女と接していた時間が長い方で、それだけエピソードもたくさん持っていた。勿論、他の人達もそれぞれが彼女との思い出やエピソードを持っている。その多くが、みんなが笑い転げてしまうような話で、いったいその場が何なのか分からない程盛り上がった。彼女のご家族も、懐かしむように、慈しむように、ときには少し苦笑も混ぜながら、僕達の話を聞いていた。時折一段と高く笑う彼女の妹さんの声が、急に彼女自身の声に聞こえることが何度かあって、僕はその度にどきりとした。 話せば話すほど彼女の「生き様」がくっきりと浮かび上がり、確かに彼女が生きていたということの証しがそこにあるような気がした。そう、あのとき僕達は、みんなで彼女の進んできた轍、もしくは航跡を探しながら、それを辿っていたのだ。話している間は、彼女が側にいて、去っていかないような気がしていた。そう思って、僕は話し続けた。 「みなさんの話を伺っていると、娘は本当にみなさんと楽しい時間を過ごしていたんだなと分かってよかったです」 僕達の話をひとしきり聞いた後、彼女の母親が言った。 「一つのことに打ち込めて、充実した、中身の濃い人生を送ったって言ってました」 と彼女の父親がしみじみと付け加えた。 その言葉は、僕が彼女からもらった最後のメールに書かれていた言葉だった。
僕が彼女から最後のメールをもらったのは、彼女の死の10日くらい前だと、そう思っていた。しかし、彼女の家に行く前日にもう一度メールを開いてみたら、まさに死の前日の夕方から夜にかけてのものだった。彼女は、そのメールの翌日の午前中に様態が急変し、午後には死亡が確認されたというから、ほぼ半日から1日前にやりとりをしていたということになる。 文字通り、それは彼女からの最後のメッセージだったのだ。第1信で彼女は、 「演劇部に入ったことは、私にとって人生の大転換期です。常に何かに情熱を傾け続けてこられたことを、本当に充実した幸せな人生だったなあと思います」 と書いた上で、僕に対しては、 「仕事と演劇の両立は本当に大変だと思いますが、また『明るい反抗』のような観る人の心を揺さぶるような名作を生み出すべく、頑張って続けていって下さいね。」 という言葉をくれている。「明るい反抗」以来、僕は何本も脚本を書いて上演しているわけだが、そのどれもが彼女の心には響いていなかったのかなと思うと、少し寂しい気もする。彼女が外出できなくなってからの芝居は当然見てもらってないので、彼女がどんな感想を持つのか聞いてみたかったのだが、それは結局叶わなかった。 2信目で彼女は、「演劇部時代で思い出すことは」として、部活の日常の何気ない光景に関して触れている。そして、最後となる3信目で、僕が毎年公演を打つようになったことを喜び、『明るい反抗』のときの自分を振り返り、「役不足で申し訳ありませんでした」と書いています。それに続いて、 「では、体に気をつけながら頑張って下さい。」 という言葉でメールは終わっている。僕はこのメールに対して返信したが、それに対する彼女からの返信はなかった。 よく読むと、3つのメールには殆ど「過去」のことしか書かれていない。彼女には珍しいことだ。既に彼女は、この時点で自分の命の終わりを悟っていたのかも知れない。
夕方集合したJRの駅に戻った僕達は、またそれぞれの日常に帰って行った。 帰り際、後輩が持っていたという彼女の高校時代の写真を、みんなにカラーコピーして渡してくれた。 僕達には明日という日がある。しかし、映像や写真の中の彼女の時間は、そこで止まったままだ。彼女に明日という日は、永遠にやってこない。 彼女の遺影と対面した前日、僕は誕生日を迎えた。僕は生き延びた。彼女の死を知った後に迎えた誕生日は、とても不思議な日に感じられたのだ。自分が生きているというごく当たり前に感じられることが、実は奇跡的なことなのだと、だからこそ生き延びた日々を自分や周りのために大切に使っていかなければならないのだと、彼女は教えてくれたのだと思う。
彼女の死を知らされてから間もなく2週間、彼女の実家を訪れてから1週間が経った。これまで経験したことにないような、長く、重い時間だった。 前に読んだ本の中に、「衝撃的な出来事は、‘記憶’や‘歴史’として記録され、回収されることができない。それは、まさに生々しい‘出来事’なのだ」という趣旨のことが書いてあったのを思い出す。僕にとって彼女の死は、いまだに整理できず、まさに‘出来事’としか言い様のないものとしてある。それを言い表す言葉を、僕は持っていない。 あの日のことを表面的にでも書き記すのに、僕は1週間の時間を費やした。その間に、彼女の魂は、僕達の世界からさらに遠ざかっているのだろう。そして結局、僕は彼女の死を的確に語る言葉を持たずに終わるに違いない。一人の人間の生命が終わること。それに完全に対応し、拮抗する言葉など、所詮生きている人間には生み出すことなどできないのだから。 ただ僕は、彼女との‘約束’を果たそうと思う。「観る人の心を揺さぶるような名作を生み出すべく」、何があっても頑張り続けようと、僕は決心した。それが、演劇的な‘同志’でもあった彼女との最後の、そして永遠の‘約束’なのである。そして、彼女の墓前にいい知らせを報告することが、僕の目標である。 時間を止める暇はない。 桜の満開を待たずに、彼女の命は散っていった。そして、その桜も散り、春の嵐が吹き荒れる。春の嵐に八重桜の花が落ちる。 季節は移ろっていく。
今日、彼女の実家から、花とお供え物のお返しが届いた。 そこに添えられた彼女の母親の手紙の筆跡に、僕はまたしても明らかな彼女の残像を見た。
もう跡形もないけれど、確かに、彼女はこの世界に存在していた。彼女は、常に姿を確認できなかったけれど、確かに僕達の人生と伴走し、僕達と同じ時間を生きていたのだった。
その電話は、昨日の夜、出先に唐突にかかってきた。久しく会っていない後輩の名前が液晶画面に表示されたとき、僕には意味が分からなかった。そして、彼女が話していることが、さらによく分からなかった。 僕も知っている彼女の友人から連絡があり、その友人宅へ、やはり僕の後輩で僕の芝居にも出演してくれていた女性の死を知らせる葉書が、その女性の父親の名前で届けられたと、僕の後輩は告げた。後輩も、友人も、その女性とは久しく音信不通だったため、いったいそれがどういうことなのか、事実なのかどうか分かりかね、とりあえず一番連絡を取っていそうな僕に確認を求めてきたということだった。
そのとき僕の頭の中に、いつだったかに会った彼女の、痩せ衰えた姿が蘇った。体力がなくて、ここまで出てくるのが精一杯だったと、彼女は言っていた。 後輩からの電話を受けたとき、僕は別の人と話をしていた。自分の知り合いが亡くなったらしいと言った僕に、相手は軽く「あ」と言っただけだった。その人は、その女性とは全く面識がなかった。 相手が席を立ってから、僕は彼女の実家に電話をかけた。出てきたのは、僕も会ったことがある彼女の妹さんだった。「お姉さんのことですが…」と切り出した僕に、妹さんは「葉書、着きましたか?」と言った。 それで初めて、僕は後輩の電話の内容が事実だったと分かったのだった。 彼女の死の日付は、先月の26日になっていたそうだ。つまり、彼女はもはや骨になっていたのだった。
僕と彼女の出会いは、18年前に遡る。それ以来、僅かな期間を覗いて、僕と彼女は何らかの形で連絡を取り合っていた。彼女は現役の高校生時代に2回、そして高校卒業後に2回、僕の書いた役を演じた。 ファミレスや飲み屋で話し込んだ時間ははかりしれないほど長い。ランチタイムが終わる頃に入店し、そのまま夕食を食べて夜遅く店を出るということを、いったい何回繰り返しただろうか。高校入学から病に倒れるまで、その波瀾万丈な人生を、僕はかなり近くから見続けてきたし、時にはその目撃者ともなった。 一昨年の秋、既に体調を崩し気味だった彼女は、個人作品の発表のための合同公演を行ったが、そのときに共演者になったのが僕だった。たった1日、1時間にも満たない1回限りの小さな舞台だったが、結果的にこれが彼女にとって最後の作品となった。 終演後、近くの飲み屋で小さな打ち上げがあった。しかし、終演時間自体が遅く、すぐに終電の時間になった。「始発までカラオケボックスとかで付き合ってもいい」と彼女に引き留められたが、あまり体調のよくなかった僕は終電に乗るためにビール1杯で中座した。 もしもこの日が来ることが分かっていたら、朝まで一緒に語り合いながら飲んだものをと、今更ながらに悔やまれる。
彼女の不在を、僕に電話してきた後輩も、そして僕も、まだ実感できない。おそらく、横たわる彼女の亡骸を目にしないまま、情報だけが僕達にもたらされたからだろう。実感のないままに、僕とその後輩は電話で喋り続けた。きっとこうして冗談を交えながら喋り続けないと、どうにかなってしまうかも知れないと、僕は知っていたからなのかも知れない。分析を続けることだけが、迫り来る悲しみの刃を鈍らせることができるのだ。 はたして、後輩との電話を切り、電車に乗り込んでから襲ってきた沈黙の中で、彼女の「死」という事実が、僕にのしかかってきた。小説か何かで読んだ表現だったと思うが、それはまさに僕の頭に張り付いた状態になった。正気を保とうと僕は自分に言い聞かせた。そうすればする程、彼女が駆け抜けた短いけれど激しい人生の重みが、そしてその不在が、僕を支配していった。 彼女を知らない人には、その不在が「あ」というリアクションしかもたらさない程の、どこにでもいる一般人としての彼女の存在。そして、にもかかわらず、そこに刻まれた彼女の軌跡。そのときふいに、どんなに無名でどこにでもいると思われる人間でも、意味のない人生を送っている人間などいないのだという思いが、満員電車に押し込まれた僕の中で湧き上がってきたのだった。
僕は彼女にゆかりの人達へ、お知らせのメールを打った。次々に返信されてくる驚きのメールが、彼女の不在の衝撃波が伝わっていく様子を表しているようだ。そして、それらを受けたと同じ携帯のメールボックスに、亡くなる10日ほど前に彼女とやり取りした最後のメールが残っていた。 最初にその文面を見たとき、僕は何か奇異なものを感じた。何故ならそれは、死の床についた人間が、自分の人生を振り返って書いたような内容だったからだ。そして、そこに書かれていた僕への言葉も、なにやら遺言めいた言葉遣いだった。思えばそのとき、彼女は既に自分の死期を悟っていたのかも知れない。あの世に旅立つ前に、この世を振り返ってみた。そんな匂いがした。 そして、彼女が食欲もなく、外出することも人に会うこともままならず、ずっと実家で静養していたという事実と、あの痩せ衰えた姿と、メールの文面から、僕にもある種の‘覚悟’が無意識のうちにできていたのではなかったかと、今となっては思われる。だからこそ、僕は今も正気を保っていられるのだろう。
家に帰った僕を迎えたのは、おそらく後輩の友人が受け取ったものと同じ、彼女の父親の名前で書かれた葉書だった。その宛名書きの文字を見たとき、肉親のどなたが書かれたのか分からないけれど、その字体のどことはいえないどこかに、彼女の独特な筆跡の面影を僕は感じ取った。 僕の元には、彼女と作った芝居のビデオや、そのときの写真、高校時代の彼女の写真、肉声を納めたテープやMDなど、彼女の生きた痕跡を残すものがたくさん残された。僕の演劇活動を記録しているWebサイト上にも、彼女の写真や彼女との活動の記録、そして彼女自身の文章が今もアップされている。 彼女があの世へと旅立ち、もう姿形が消え去った今、それを知らせる葉書が届く。そして残された僕は、彼女の記録に囲まれて、人生の存在を彼方に感じる。それはまるで、消えていった星の光が、長い年月を経て地球に届くのに似ている。 僕は今、失われてしまったものを感じているのだ。
彼女のことを語らせたら、おそらく僕は饒舌だろう。彼女の死にまつわることも、おそらくたくさん書けるに違いない。しかし、どれだけ言葉を連ねても、何か手応えがない。何も表現できない。 それが一人の人間の「死」ということなのだろう。と書いてみて、やはり何も表していないこの虚無感に、僕は呆然とするばかりだ。 この週末、僕は彼女の実家を訪れ、彼女の遺影と対面する予定だ。
そのときこそ僕は、彼女の不在と本当に向き合うことになるのだろう。
2006年04月08日(土) |
健全なナショナリズム〜イチローの罪〜 |
少し前のことだが、WBCで日本が優勝する過程で、「イチローの様変わり」が話題になった。これまでは感情をめったに表に出さず、クールという印象が強かった彼が、一転して感情を高ぶらせ、子供のようにはしゃぎ回り、「熱い男」のように振る舞った。多くのメディアからこの質問を受けた彼の答えは、 「『日の丸』を背負ってやったことがこれまでなかった。」 という趣旨のことだった。つまり、「日の丸」=「日本という国」を代表しているという思いが、彼をこれまでになく興奮させ、奮い立たせたようなのである。 勿論、大リーガーとして何シーズンも過ごしてきたイチローにとって、久々の日本人だけのチームということもあって、気心が知れ、気持ちが高ぶったということもあるだろう。異国の地で、普段どれほどのプレッシャーの中で彼が戦っているかということの証左でもある。 しかし、マスコミの取り上げ方は殆どが「イチローの愛国心」というものだった。本人もそれを否定していない。「日の丸」が彼を興奮させた。そして、韓国に対して「戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」という‘妄言’を吐かせたのだった。
「日本の野球が世界の頂点に立ったことを誇らしく思う」という趣旨の彼の発言と、こうした彼の言動と「優勝」に酔いしれる形で巷に氾濫した「日本人として誇りに思う」という一般の人々の発言。マスメディアはこれを称して、 「久し振りに日本人に元気を与えた。」 「健全なナショナリズム」 と持て囃したものだ。折しも経済は(少なくとも表向きは)上り調子。冬季五輪の惨敗や、耐震偽装問題等の暗い話題の中で鬱積してきたものを晴らすかのように、世論はこのイチローの‘気分’を熱烈に支持したのだった。 しかし冷静に考えれば、これまでサッカーや野球のオリンピック代表に見られる「○○ジャパン」というチームの場合と同様、勝ったのはその「チーム」であり、素晴らしかったのは個々の選手の力とチームワークなのであって、その強さと「日の丸」は、基本的には関係ない。ましてや、それを見ている一般の国民が、同じ日本人として喜ぶまではまあ分かるが、日本という「国」に誇りを持ったり、何か自分達まで「日本人として」自信を持ってしまったりするに至ると、もはや滑稽ですらある。
ところが、マスメディアはそれがあたかも普遍的な事実であるかのごとく伝えた。「日の丸」と「この国」とこの国に住む人々を、「日本」という等号で何の躊躇もなく、無邪気に結んで見せたのである。 「日本のチームが韓国のチームに勝った」ことが、「日本という国が韓国(朝鮮)という国に勝った」ことになってしまう。それを「凄く気持ちいい」という興奮気味のイチローのクローズアップが裏打ちするというわけである。あのイチローがあんなに喜んでいるんだから、「日本」が勝つことは間違いなく喜ばしく、凄いことなのだ。一般の人々の無意識にそれがインプリントされた。その点では、自民党の政治家が脂ぎった顔で「愛国心」を説くよりもはるかに大きな効果があったわけで、その意味でイチローの罪は重いと僕は思う。 もともとスポーツマンは「日の丸」に弱い傾向があるが、彼もまた正しい「スポーツマン精神」の持ち主だったというわけだ。
「健全なナショナリズム」などというものがあったためしはない。それはまるで「正しい犯罪」といっているようなものだ。世界には異なる文化や歴史を持ったたくさんの人種・民族が存在・混在し、多くの「国」がある。そのことだけ考えても、ナショナリズムが如何に不健全なものであるかが分かるだろう。 ただし、困ったことに、人間は健全な環境では生きていけないのである。宗教だけではなく、ナショナリズムもまた人民のアヘンなのだ。そして近年、その依存症はますます酷くなりつつある。 警戒すべきは「偏狭なナショナリズム」であると、知識人やリベラルといわれるマスメディアはよく言っているが、そんな警鐘はアリバイ作りのために鳴らされているに過ぎない。何故なら、偏狭でないナショナリズムなどあり得ないからだ。そんな当たり前のことの忘れてしまってはしゃぎ回るこの国の人々は、よく言えばあまりにも無垢、有り体に言えば救いようのない無知である。
「このWBCを通じて、日本人は久し振りに一体感を味わったということではないか」 と無邪気なメディアはしたり顔で解説し、日本人自身もそんな気になっている。まさにそこが「ナショナリズム」の落とし穴だ。「日の丸」を掲げ、その元にいる自分達に恍惚となるとき、常にそこから排除される人々がいるということを忘れてはいけない。 例えば、在日の様々な国・民族の人々は「日の丸」を共有できない。ましてや、かつて「日の丸」に支配された歴史を持つ中国・朝鮮の人々が、このナショナリズムの気分を共有することは難しいだろう。勿論、日本人の中にだって、僕のようにこの気持ちの悪い雰囲気を好きになれない人々はいる。 問題は、「日の丸」にはしゃぐ無垢にして無知な人々が、こうした謂わば「少数派」を攻撃してくることである。「日の丸」=「日本という国」と一体化していると信じる「多数派」の彼等は、「日の丸」を認めない人間を認めない傾向が強い。政治の反動化と相まって、近年この傾向はますます顕著になってきている。つい今日も、北海道のある市では、入学式で教職員が「君が代」斉唱に抗議して着席するのを防ぐために、会場に教職員の椅子自体を置かなかったという報道があった。因みに、出席している保護者には「起立」を促すアナウンスがあり、全員がそれに従ったという。 「日の丸」「君が代」の前には良心や信条の自由はない。異なるものを排除する。これが「健全なナショナリズム」の正体なのだ。寛容さがますます失われているこの国の社会にあっては、ナショナリズムはまさしく凶器=狂気そのものである。
イチローは、野球選手としては優秀である。なにも「日の丸」など背負わなくても、彼は超一流だし、力もある。同じ日本人として応援したいという人もたくさんいるだろう。彼のプレーは僕達を楽しませ、力を与えてくれるかも知れない。でも、日本人を鼓舞するためや、「日の丸」に箔を付けるために彼はプレーしているわけではあるまい。 いや、もしかすると今回のことで、彼の中にそういう「愛国者」としての意識が芽生えてきているのかも知れない。その意味では、彼の中にひとつの不気味な「怪物(エイリアン)」が生まれたということだろう。 感情に身を任せることは心地よく、大きなものとの一体化することは安心感と高揚感を与えてくれる。まさに麻薬だ。イチローがエイリアンの吐き出すこの麻薬の中毒患者にならないことを祈るばかりだ。
そしてこの国では、人々の病状はもはや手遅れである。
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