思考過多の記録
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2005年11月19日(土) 観察者・実験者の「闇」

 少し前、自分の母親に劇物のタリウムを飲ませた女子高生が捕まるという事件があった。タリウムを飲ませる過程や手口、母親が体調を崩して弱っていく経過を、自分のブログにアップしていたという。しかも、母親の「病状」の写真まで撮っていたという。
 様々な報道からしかこの女子高生のことは分からないのだが、彼女は中学生の頃から薬品に異常な興味を示していたようだ。また周囲とのコミュニケーションはあまりうまくなかったらしい。
 彼女に対しては精神鑑定が求められているようだ。彼女を異常だと片付けるのはたやすい。しかし、彼女は何も生まれつき「異常」だったわけではないだろう。彼女が薬物にのめり込んでいった背景が、きっとあるに違いない。



 もし彼女が母親を恨んでいたなら、世間は最も分かりやすい「物語」の中にこの事件を回収して、少しだけ眉をひそめるくらいで片付けていたかも知れない。しかし、今の段階では、彼女は母親に対してそのような感情を抱いてはいなかったらしいという。そこに、彼女の「闇」の深さがある。
 しかし、一般に考える心の「闇」のような、何かどろどろとしたものが彼女の中にあるとは、僕にはあまり思えない。僕の受ける印象は、彼女は、まさに彼女が愛した科学物質の塩基の配列のように、極めて「無機質」な精神構造の持ち主なのではないかということだ。



 例えば、彼女のパソコンには、自分が兎の死骸を解体する過程を写した写真が保存されていたという。これは、「死骸」という存在そのものに触れ、血や肉や内臓の暖かみや感触を直に感じる作業でありながら、そこに「可愛そう」「気持ちが悪い」という「感情」が入り込めば、決してできない行為である。母親が弱っていく過程を「観察」し、「「記述」するという行為も然りだ。
 彼女の立場および目線は、外科的手術を行う医師のそれであり、また動物実験を行う科学者等のそれである。つまり、事実を「客観的」に捉えるために、また余計な「感情」が入ることで手術や実験を中断させないように、できる限り「個人」としての自分を排除していく、そんな立場である。



 これは何を意味するのだろうか。「観察者」とは常に物事の外側にいて、それを「ガラス越し」に見つめる存在である。それが実験者であれば、その物事をある程度コントロールする立場にもなる。つまり、自分はその事象に対して傷付くことはなく、優位に立つことすらできる。
 僕は、彼女があの酒鬼薔薇少年のように、世界とそこに存在する自分に現実感が持てなかったのではなかったかと思っている。彼女にとって、世界は全てガラスの向こう側、もしくは試験管の中に存在していて、自分とは隔絶したものとして感じられていたのではないか。友達がいなかったり、授業中教師に激しく反論したりというのは、そのことの現れのように思う。また、父親のことを「小遣いをくれるので好きだった」と述べていることから、彼女にとって人間関係とは、「感情」の交流よりも「作用と反作用」のようなものとして捉えられていたのだろう。
 まるで実験動物のように、一番身近な母親に劇物を投与し続けたのは、それがまさに自分自身がコントロールでき、その過程をつぶさに観察できる場所にいられる、格好の「実験動物」として母親を認識していたからである。しかし、当然のことだが、家庭は試験管ではない。それだけのことだったのではないかと思う。



 考えてみれば、人の「心」といわれるものも、結局は脳内物質の作用で説明が付くものだということができる。完全に解明できていないのは、単にどんな条件によってどの物質がどれだけ作られ、それが脳の何処に作用するのかという「メカニズム」の詳細なのだ。「向精神薬」「精神安定剤」「抗うつ剤」といったものの存在が、そんな考え方を裏付けてくれる。薬ひとつで気分は変わってしまうのだから。
 そして、それを見つめ続けていれば、煩わしい人間の関係性や、不可解な「感情」のぶつかり合いといったものを意識せずにすむ。世界の訳のわからなさ、自分がそこに存在できない理由も考えずにすむ。物質に感情などないのだから。
 さらに、劇物を手にすれば、自分自身が外側にいながらにして、世界に「作用」を与えることができる。すなわち、その世界にとって自分が「神」にも近い存在になることができる。彼女にとって、これ程好都合なことはあるまい。



 彼女が自宅の部屋にいくつかの薬品を隠し持っていた。そして件のタリウムを「お守り」と称して持ち歩いていたという。彼女にとって、薬品は文字通り自分を世界から守ってくれるものだったのであろう。また、イギリスの薬物を使った猟奇殺人犯に彼女が親しみを抱いていたらしい事実、そしてその殺人犯同様、彼女がヒトラー=ナチスに興味を示していたという事実は、彼女の「実験者」としての攻撃の矛先が、母親以外に向く可能性があったことを示している。
 社会に対して劇薬を投与し、それを観察することと、観察者・実験者としての自分の存在を知らしめることで、この世界における究極の絶対者になろうとした。そして、そのことによってしか、彼女は自分自身の存在を守れないと感じていた。僕にはそう思えてならない。
 彼女は取り調べに対して「自分はもういなくなった」と口にしたという。観察者・実験者という立場を離れては、自分は存在し得ない、またはしたくないということを、図らずも告白したのだと思う。



 どうしてそんなにも周囲に対する「現実感」を彼女が失ってしまったのか僕には知る術もないが、それさえも彼女の脳内物資の作用に還元されてしまう話なのだろうか。
 それとも、それはなおも得体の知れない「闇」として、僕達、そして彼女自身の前に存在し続けるのだろうか。


2005年11月13日(日) 「妄想」の中の彼女

 今週末、立て続けに「恋愛」をあつかった舞台を2本見た。一つは恋愛における自分を縛る「妄想」をあつかっており(それが主要なテーマではないと思うが)、もうひとつは、「愛」と「嫉妬」「憎悪」に関するファンタジー色の濃いものだった。
 その舞台を見ながら、そういえば最近、誰かに恋したり、誰かを愛したりということがなかったなと漠然と考えていた。そしてすぐに、いや、そんなことはなかった、と思い直した。そしてまた、僕は今でも彼女に恋したり、愛したりしているのだろうかと考えた。



 先々週、僕が芝居を打った画廊に、彼女は客として現れた。会場で僕に声をかけた彼女は、とても静謐な空気を纏っていた。普段賑やかだと思われ、また先日自分の劇団のPRのために出演していた地域のケーブルテレビの番組では、実際に弾けた司会ぶりを発揮していた彼女とは、まるで別人のようだった。そしてそれは、夏前の僕の公演が終わった直後、新宿で二人であったときと同じ静謐さであった。
 たった一つ違うのは、季節が巡って、僕と彼女が共有した時間と場所から、二人がさらに遠ざかっていたことだろうか。僕と彼女をつないでいたのは、ごくたまに交わされる、それぞれの関わっている芝居に関する情報交換とお誘いの、短いメールだけだった。



 その日の公演が終わり、出演者・スタッフを交えて彼女と飲み屋に行ったときも、彼女とごく親しい出演者と漫才のようなやりとりを交わしながらも、彼女は奇妙な静けさを身に纏ったままだった。飲み屋の喧噪の中で、まるで鏡のように波一つ立たない水面のように、彼女の存在の奥底は静けさをたたえていた。それは何故なのか、僕には少しも分からなかった。
 みんなより先に帰ろうと、他の一人と一緒に店を出るとき、彼女は立ち上がろ、手を振って僕達を見送った。今度はいつ彼女に会うのだろう。その時、僕達はあの時間からどれだけ遠ざかっているのだろうと、半分酔った頭で僕は考えていた。



 ある演劇仲間から、もう随分前に「あなたは、自分の一番奥にある部分は、決して立ち入らせないようにしている人だ」という趣旨のことを言われた。同様に、僕は相手の一番奥には、意識的にも無意識的にも、踏み込まないようにしている。
 僕の愛が誰にも届かず、また僕を愛した人が誰もいないのは、(外見的なこと等の要因を考えないことにすると)おそらくそれが原因だろうと思っている。心の奥底同士で結びつくという、最も不安定で危険なコミュニケーションを取ることを、僕は避けてきたのだ。僕は、その重みに耐えられないのだと思う。
 そんな僕の一番奥にある扉の鍵を、いとも簡単に開けたのが彼女だった。僕はあのときそう思った。



 けれども、それはひょっとすると僕のただの「幻想」であり、「妄想」だったのかも知れない。
 あるいはまた、多くの人にとって彼女はそういう存在で、彼女はいろいろな人の奥底の扉の鍵を持っているのかも知れない。
 いずれにしても、僕は僕の「妄想」に苦しんでいたのかも知れない。これまでの僕の恋愛と同じように、相手は僕の妄想の中でだけ生き続けていたのかも知れない。僕がその妄想を抱えたまま生身の相手に向き合ったとき、相手は僕から離れていった。今回も、そういうことだったのかも知れない。



 けれども、それでもなお、彼女が僕の一番奥の扉の鍵を持っていたこと、その扉の鍵をいとも簡単に開けたこと、それは本当のことだと僕には思える。そして、彼女が僕にとって特別な存在になったことも、きっと本当だと思う。
 たとえそれが、僕の「妄想」に過ぎないとしても、僕の「妄想」の中でそれは事実なのだ。



 僕が彼女に感じる静けさは。裏を返せば、彼女を見つめる僕の心の平安を意味しているのかも知れない。彼女がそこに存在すること、そのことが一切のわだかまりを鎮める。
 僕は彼女を守れはしないだろうし、彼女は僕を必要としないだろう。
 そして、僕が彼女の奥の扉を開ける日が来るのかどうか、誰にも分からない。
 だから僕は、無邪気に彼女への愛なんか叫べないし、彼女を愛する時間を謳歌することもできない。僕と彼女の間を隔てる時間と空間の壁は、日に日に厚く、そして高くなるばかりだ。
 彼女への思いが果たして愛と呼ぶべきなのかどうかすら、今の僕にはもはや分からない。



 けれど、ただひとつ確かなことは、僕の一番奥の扉を開ける鍵は、依然として彼女が持っているということだ。僕自身ですら覗いたことのないその扉の向こう側を、おそらく彼女だけが知っている。
 それまでもが僕の「妄想」なのだろうか。けれど、この「妄想」は、これまでのものと違って必ずしも僕を苦しめない。彼女の静謐さの謎を解く鍵は、おそらくその辺にあるのだと思う。



 けれど、彼女はここにはいない。
 それは、紛れもない事実、いや、「現実」なのである。その「現実」だけが、唯一僕を苦しめる。


2005年11月06日(日) 「ちょっと前向き」な芝居

 僕の演劇公演「Noisy Gallery〜絵は口ほどに〜」が終わって1週間が経とうとしている。今回は上演時間も稽古期間も短く、出演者もスタッフも最小限という小規模な公演だったので、まさにあっという間に駆け抜けたという感じである。
 今回は、僕自身が企画した公演ではなく、外からお話をいただいて行ったものだった。それも、芝居とは無関係の、どちらかというと僕の「仕事」の人脈からだったのだ。僕が以前仕事でイラストをお願いしていたイラストレータの本橋靖昭さんという方が、お仲間のイラストレータさんや編集者さんと一緒に「大人の文化祭」を企画され、その「出し物」のひとつとして芝居の上演のお誘いがあった。
 そういうわけで、今回は「大文化祭」の会場である池袋のアーティストガーデンという画廊が、僕達の芝居の上演場所になったのである。



 せっかく画廊でやるのだから、芝居の内容も絵に関係したものにしたいということで、実際にそこに飾られる予定のイラストを芝居の中に組み込ませていただくことにしたため、野沢まりこさんというイラストレータさんのご協力も得ることになった。描きおろしの作品ではなく、愛地球博に出品されていたというものだが、そのイラストレータの方は快く使用に応じて下さった。
 また、そのイラストはもともとサイズが小さく、上演に使うためには拡大が必要だった。ここでも僕は「仕事」の繋がりを生かした。仕事上で取引のある出力センターに業務上のルートでお願いして、かなり安めのお値段と短い納期で作成することができたのである。
 こう考えてくると、この芝居は僕が今の会社で仕事をしていたから実現したものともいえる。これまで仕事と芝居とは常に対立していて、その両立に頭を痛めるケースばかりだったのだが、こんな形で二つが結びつくことになるとは思ってもいなかった。この大文化祭を企画した人達の意図は、まさにそういうところにあったようであるが、こういうことがあると、今の仕事も悪くはないなと思えてくるのである。



 会場となったアーティストガーデンは、普段は絵や彫刻といったアートの展示を行っている。カフェのスペースもあり、気軽に芸術に親しんでもらおうという場所である。そこで演劇公演を行うにあたっては、様々な問題点が生じたが、画廊の方にはいろいろとご協力、ご配慮をいただいた。無理をきいていただく形になったこともいくつかあったが、
「(使用方法の)いろいろな可能性が広がっていい」
と画廊の方は前向きに受け止めてくださった。その方は、新しいものとの出会いを心から楽しんでいただいているように、僕には思えた。
 絵と芝居、画廊という空間と役者。できることは限定されてしまうが、なかなかに刺激的な組み合わせであったことは確かだ。僕の力不足故、どこまで効果的に使えたかは分からないが、基本的に「言葉」を使わない芸術作品と、言葉に依拠する部分が大きい演劇とが出会う、濃密な空間にその画廊はなっていたと思う。
 僕自身、画廊に足を運ぶことはまれで(大抵は美術館に行ってしまう)、その意味でもいい経験をさせてもらった。これからは画廊がより身近な場所に感じられるだろう。そして、機会があればまた劇場以外のこうした空間で、僕の作品を上演してみたい。



 出演してもらった役者さんのことなど、語りたいことはまだあるが、それはまた別の機会に譲ろう。
 いずれにしても今回の芝居は、小品ながらその製作過程や内容も含めて「ちょっと前向き」な雰囲気に包まれている。これまでと違ったことに、「ちょっと」だけ挑戦してみた結果であろうか。
 その意味で、今年6月の「Stand Alone」に比べてあっさりとした、しかし軽やかな後味である。お客様の評判もそれなりにいい。日常ではまだまだきつい生活が続く中、たまにはこういう芝居があってもいいだろう。



 こうして、僕の心のギャラリーに、新しい絵がまた1枚増えた。


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