思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2005年08月28日(日) 普遍的な作品

 このところNHKのBS2でずっと寅さんシリーズを放映している。言わずと知れた人気シリーズなので、これまでも様々な局で何度も何度も放映されてきた。シリーズの後半の作品の中には、実際に映画館で見たものも何本かある。
 しかし、特に後期になると寅さんも歳を取ってパワーが落ちたことは否めなかった。また、世情と微妙なズレを生じ、初期の頃とは全く違った意味で「浮いた」感じになっていたと思う。設定も逆も古臭く、時代がかって感じられた。そんなこともあって、ここ数年はテレビで放映されてもあまりまともに見ていなかった。
 それが、たまたま今回の放映の2作目か3作目あたりを見てしまったら、何故か引き込まれて毎回見ることになってしまったのだ。もうストーリーも分かっているのに、何故か見てしまう。



 「寅さんシリーズは日本人の心の故郷」などとよく言われた。現在でも言われることがある。それは、失恋の美学や寅さんの旅先の描写、とらやなど周辺の人間模様を指して言われることが多い。僕はこの言い方も嫌いだった。一時期は、意識的に寅さんを避けていたのである。
 しかし、今見ると、確かにホッとするところがある。それは、そこに描かれているものが「古き良き日本の姿」だからなのではおそらくない。少なくとも、僕にとっては違うと思う。僕は「古き良き日本の姿」など知らないし、そんなものはフィクションだと思っている。振り返れば、大抵「昔はよかった」のだから。それでも、僕がホッとしてしまうのは、きっとそれとは別の何か普遍的なものが描かれているからなのだろう。
 確かに、あのシリーズは「結婚=幸福」という甚だ単純な思想が根底にある。そして、それが全く無批判に展開されている。そんな図式はとっくに崩れ去っていることは誰でも知っているだろう。それにもかかわらず、今でも多くの人達を惹き付けるのは、そんな批判を超えた何かが込められているからだと思う。



 ここ数年まともに寅さんを見ていなかった僕だが、改めて見てみると、勿論映画としての技術論的に言ってもよくできていると思う。しかし、それだけではない。
 自分が年齢を重ねた結果、昔見た時には分からなかった心理描写が見えてくるのだ。寅さんをめぐる妹・さくらやおいちゃん、おばちゃんの心理や、マドンナと寅さんの会話等々、若い頃には頭でしか分からなかった、若しくは感受性だけで受け止めていた様々なことが、この年齢になるともっと深い部分で、心にずっしりと響いてくるのだ。
 寅さんが多くの人に支持されたのは、まさにそういう理由からだったのだ。あの映画はまさに大人の、というよりも「生活者」の映画であった。日々の生活に追われ、様々な人間関係に翻弄されながら生き抜いている大多数の生活者の実感に、あの映画はぴったりと寄り添っていたのである。僕はまだまだ生活者としては甘いものだが、それでもこのシリーズを見ていて、初めてホロッとくるところが何カ所もあった。最初に見た時は、寅さんの失恋が哀れで仕方がなかったが、本当はそれだけの映画ではなかったのである。それが分かるようになるには、観客もそれなりの人生経験を積んでいなければならないということなのだ。逆に言えば、見る側がいろいろなことを経験すればする程、味わいを増していく映画なのである。



 僕も脚本を書いたりするが、こうして何年、いや何十年のスパンで鑑賞に堪えうる作品を生み出すことは、残念ながらまだできていないと思う。いや、もしかすると、一生無理なのかも知れない。勿論、みんながみんなそういう類の作品を作る必要はなく、何年か経ったら消えていくことを覚悟で時代と完全にリンクしているものを全力で作ることも、それはそれで素晴らしい。
 僕もこれまで、普遍的な作品を作ることなど考えもしなかった。しかし、こうして何年か経って改めてみた時に、お腹にずんと響くような、そんな作品が一生のうち一つくらい生み出せないものだろうかと感じている。渥美清が亡くなってだいぶ経つが、あの人が演じた寅さんは今でも多くの人達の中に生き続けている。そんなキャラクターを、一生のうち一つくらい作り出すことはできないのだろうかと考える。普遍性を追求するのは、最新のモードを捕まえるよりもずっとずっと難しいことは百も承知なのだが。
 何かを遺したいと考え始めるのは、それだけ年とった証拠なのかも知れない。



 今、僕が寅さんを見て感じることはこういったことだ。
 今から10年、20年先にまた見る機会があった時、僕はまた別のことを考えるかも知れない。そうやって見る年齢によって見方が変わっていくような、その時その時の自分の心を映し出す鏡になるような作品はそう多くはない。そういうものが後世に残っていく。そして、その時代その時代の人々の心に共鳴し、その人達がまた様々な見方をする。
 そういうものが生きているうちに一つくらい作れないかと、僕はだんだんと思い始めている。


2005年08月24日(水) 小泉茶番劇場の忙しい観客達

 郵政解散、だそうである。今月初めに参議院が郵政民営化法案を否決し、小泉首相が「民意を問う」という理由で衆議院を解散してからというもの、自民党の「造反議員」の動向や新党結成、はてはホリエモン立候補まで様々な動きが報じられている。しかし、肝心の郵政民営化問題の中身についての議論が深まったとは、お世辞にも言えない状況である。世間の耳目を集めるのは、というよりもメディアが好んで報道するのは専ら政治的な動きであって、法案の内容や問題点等はどこかに忘れ去られたようである。
 そして、小泉首相お得意の「ワンフレーズ・ポリティックス」の叫び声だけが列島に響き渡る。
「郵政民営化賛成か、反対か。それを問う選挙だ!」



 そもそも、郵政事業は何故民営化されなければならないのか。
 このことについてきちんとした説明をした政治家は、小泉首相自身も含めて殆どいない。当然のことながら、それをきちんと理解している国民も殆ど以内だろう。
 小泉首相が、そして郵政民営化賛成の人々が言うことは殆ど同じである。
 曰く、税金の無駄遣いをやめさせる。民間に出来ることは民間に任せる。そうすれば、より効率的な事業が行え、サービスが向上する。そして、かつての国鉄の例を出したりする。甚だしくは、「郵政事業が役人にしかできないというのは、『官尊民卑』の考え方だ」などと、訳の分からない決めつけ方をする(これは、首相自身の発言だ)。
 そして、多くの国民は、これまで大して郵政事業について考えてもこなかったし、問題だとも思っていなかった。だから、こうした‘分かりやすい説明’=乱暴な決めつけは耳に入りやすい。しかも、自分達から税金をふんだくってのうのうとしている役人達を責める言葉だ。次第に「そうかも知れない」「その通りだ」と思う。



 多くの国民は、知識も少ないし、思慮も浅い。そして、忙しい。
 ついつい小泉首相のような手法を、旧勢力の抵抗を押し切って改革を断行するために戦っている英雄のそれと見間違う。ついつい小泉首相を、新しく、強い国を作って自分達を導いてくれる指導者と信じ込む。その勇ましい言葉は、自分達が言いたくても言えない気持ちを、自分達に変わって叫んでくれているのだと思い、溜飲を下げる。そして、彼と、彼の率いる自民党を熱烈に支持する。重要な論点がすり替えられていることなど、思いも付かない。
 その結果が何をもたらすのか、立ち止まって深く考えることもしない。
 何しろ、多くの国民は忙しい。
 小難しいことを言ったり、たくさんのことを考えなくてはならないようなことを言う政党の党首の言葉など、はなから聞く気もないし、聞いたとしてもそれを理解する時間も思慮もないのだ。
 かくして、反対派との分裂選挙をものともせず、自民党は地滑り的な勝利を収めるだろう。
 その後に、一体何が起こるのか。ことは郵政民営化だけではすまない。そして、そのツケは、自民党を支持していない国民にも回る。



 僕は、郵政事業の民営化に反対でも賛成でもない。国民新党にも新党日本にも賛同しない。
 ただ、小泉首相のあのやり方に、そしてその術中にまんまんとはまってしまっているかに見える多くの国民の反応に、これまで以上の危うさを感じるだけだ。
「郵政民営化(本来は、郵政民営化法案に、と言うべきだが)に賛成か、反対か」
という、「白か黒か選べ」式の論の立て方は本当に乱暴だ。まるで、「正義と悪」に世界を色分けしてテロとの戦いに突っ込んでいったブッシュのアメリカを彷彿とさせる。そして、その図式の単純さに人々の思考は停止する。



 本来なら、何故郵政事業は民営されるべきなのか、した場合のメリットとデメリットは何か、しない場合は何が問題なのか、その問題は民営化すれば本当に解決するのか、民営化がベストな選択なのか、等々について、緻密な議論がなされ、その情報やデータが全て公開されなければならない。そうでなければ、国民はきちんとした判断が出来ないのである。そういうものが必ずしも十分に与えられない中で、例えば竹中大臣の
「郵政民営化に反対なのは、公務員でいた方が楽だと思っているからだ。」
といった全く推測に過ぎない、雰囲気だけの言葉が国民の耳に届く。すると、恰も小泉内閣は「構造改革」を推し進める「改革派」=正義の味方で、それに反対する者は「守旧派」=悪者という印象だけが、多くの国民に植え付けられる。
 そんな「白か黒か」の図式の中で「郵政民営化の選択」が行われることになるのである。つまり、郵政事業の中身とは全く関係がない「その時だけの印象」で、政策(そして政権)が選択されてしまうのである。そして、そんな無茶苦茶なことをしようとしていることに、多くの国民は気付かない。
 第一、これまで財政投融資を通して郵便貯金が無駄な公共事業に流れてきたのは、官僚のせいというよりも、官僚を使って利権を得る道具にしてきた政権政党=自民党の議員達だった筈だ。その同じ政党が、ちょっと目玉の候補を立てただけで「改革派」の政党面しているのは噴飯ものでさえある。そして、こんな単純な目くらましにさえ、多くの国民はいとも簡単に騙されてしまう。



 ヒトラーを例に引くまでもなく、いつの時代も弱い立場であるはずの大衆は、強い指導者を待望し、熱烈に支持する。そして、彼のすることと発せられる言葉に酔いしれる。
 強い者と同化すると、自分達も強くなったように錯覚してしまうのだ。
 小泉首相は勇ましく戦う。しかし、自分達のために戦ってくれていると思っている多くの国民は、実は自分達の生活の基盤を脅かされていること、そしてこの国の将来が歪められていることが見えていない。
 反対する言論を封じ、排除する。それが「毅然とした態度」だとして評価さえされる。いつしか、自分達自身の口さえ封じられることには考えも及ばない。
 自分達を攻撃している人間を、英雄として応援し、弾丸の補給さえしてしまう。
 ここは、そんな人達の国になってしまっているのだ。
 小泉首相が仕掛けた茶番劇を感動巨編だと思い込み、拍手喝采する。本来主役である筈の自分達が観客席に座らされていることに、何の疑問も不満も持たない。そんな人達の国なのだ。



 何しろ、多くの国民は忙しい。そして、勿論僕も。


2005年08月14日(日) 彼等の声

 毎年8月15日が近くなると、戦争を巡って様々な言説がメディアに登場する。今年は敗戦60年にあたる節目の年ということで、いつにも増してそういう企画が多いようだ。
 60年といえば、敗戦の年に生まれた人が還暦を迎えるというくらいの年月である。これまでも言われ続けてきた「記憶の風化」が現実のものとなりつつある。戦場での体験はもとより、空襲や敗戦当日のことを語れる世代がどんどん上になってきている。そのうち、直接体験した人から直接話を聞けた世代が高齢化してくることになるだろう。そうなれば、風化はさらに進むことになる。



 NHKのBS2で、著名人の昭和20年の証言を集めた番組を放送中だ。節目になる日の自分や周囲の状況を語るという内容だが、今日は8月15日だった。敗戦を伝える玉音放送の日ということで、まさに全ての流れが変わるときのことなので、非常に印象的な証言が多い。14日夜半から15日未明まで空襲を受けた都市の焼け野原で玉音放送を聞いたという早乙女勝元さんの話や、宮城の前に多くの人が土下座していて、中には切腹しそうになっている人もいたのに、少し歩いて銀座まで来たら、町が妙に明るく華やいでいたという関根元ヤクルト監督の話などが特に印象深いが、どの人の証言にもそのときの自分や周囲の戸惑い、喜怒哀楽が折り込まれていて生々しかった。あれは教科書の中の話ではなく、本当にあった出来事なのだと実感した。



 あの日1日の話を聞いただけでも、そこにいたる戦争の日々の中で、如何に人々が翻弄され、多くの命が失われていったかがよく分かる。被爆者の証言を聞いても思うが、戦争は数え切れない人間の人生を狂わせた。そして、数え切れない程の悲しみも生み出した。そして、誰も明確な責任をとらなかった。
 今、あの戦争の正しさを言い立てようとする人達さえ存在する。そして、その声は日増しに大きくなっているように感じる。それを声高に叫ぶ人達の殆どは、あの日、この国に存在していなかったのである。



 空襲で親兄弟を失い、あずけられていた親戚の家で敗戦を知ったという人が、
「あなたの親も兄弟も、結局は犬死にだったんだね」
とその親戚から言われて、子供心にズキンとした、と語っていた。
 確かに、認めたくはないことである。誰も、愛する人の死が無意味だなどと思いたくもない。
 しかし、残念ながらそれは事実だと僕は思う。
 特に兵士だった人なら「国に殉じた」と綺麗な言葉で語られるだろうが、実態は犬死にである。ましてや、戦闘に巻き込まれた一般の人々の死は、不条理以外のなにものでもない。年頭の御前会議で天皇が降伏を決断していれば、東京大空襲も広島・長崎もなかったのである。そこで命を落とした人々や、南方の島で見捨てられて飢えや病気で死んでいった兵士、特攻隊で敵艦に突っ込む前に撃墜されてしまった兵士、バンザイクリフから身を投げた人達の死に何の意味があるのだろうか。残された彼等の身内の悲しみに、どんな意味があるというのだろうか。



 もしも、彼等の死を「犬死に」ではないと言える理由があるとすれば、それは戦後60年、不戦の誓いを立てたこの国が、曲がりなりにも平和を保ってきたことではないだろうか。いや、それを除いて、彼等の死に意味を与えるものなどない。
 もし今、あんな思いをして勝ち取った平和な社会を、僕達が歪める方向で変質させていっているとすれば、それはあまりにも傲慢不遜な態度だと言えないだろうか。無意味に失われた命に大して、あまりにも驕った、無神経な振る舞いではないだろうか。自由で平和な社会が築かれているその土台の下に、どれだけの屍が眠っているのかが想像できない程、僕達の想像力は貧困になってしまったのだろうか。



 彼等の死を無駄にしない方法、それはこの平和を僕達が守り抜き、確実に後世に遺すことである。そして、あの時代の人達のような辛く、悲しい思いをする人が今のこの世界から一人でも少なくなるように、今を生きる僕達一人一人ができるだけのことをしていくことである。失われた命や、狂わされた人生の重みに対して、僕達ができることはそんなことくらいだろう。
 もしも平和だったら、死ななくてもすんだ人や、もっと違った人生を歩めた人は数知れない。当然だが、その一人一人にとって、人生はそのとき1回きりだったのである。そしてそれは、もしかしたら僕達だったのかも知れなかったのである。



 あの時代を生きた人々、そして死んでいった人々の「記憶」と「思い」の火を消してはならない。
 8月の暑さの中には、彼等の魂の声が溶け込んでいるようである。


2005年08月08日(月) 「命」を語る

 入社以来ほぼ14年間所属していた部署から、今月新しい部署に異動になった。年齢が0に戻ったこの年に、まさに0からのスタートである。前の部署の仕事を極めた感は全くなく、逆に極めていい加減にやっていた感じがあったのだが、さすがにそれだけ長く勤めていると、変わるにあたってはそれなりの感慨もあった。
 当然、職場の環境も変わる。そして仕事の内容も変わる。周囲の見方は、以下の2点でほぼ一致している。今度の職場の仕事内容の方が、僕の特性に合っているのではないかということ。そして、今度の上司の方が、これまでの上司よりも、一緒にやっていくのが難しそうだということである。



 そんな新しい職場の仕事内容に関わる初めての対外的なイベントが先週あった。「教育フォーラム・今こそ“人間の命”を考えよう」という催しで、僕の勤め先が後援に名を連ねている。内容は、命をテーマにした講演と、パネルディスカッション。講師は、全身に転移した癌と闘いながら執筆活動を続けるエッセイストの絵門ゆう子さん、日々瀕死の救急患者と格闘する墨東病院救急救命センター部長の浜辺祐一さん、そしてベトナムからアフガンまで世界の戦場をカメラで記録し続けてきた報道カメラマンの石川文洋さんである。それぞれ短い時間ながら、印象的なお話をして下さった。
 皆さん、何らかの形で直接「命」の現場に身を置いている方々なので、お話にも迫力と説得力がある。3人とも、どちらかといえば「命の終わり」=「死」に近い場所にいて、そこから「命」を見つめているという感じである。それだけに、本当の意味で「命」の重みを知っているのだろう。浜辺先生がおっしゃっていたが、傷付いたり死に直面して初めて、健康や生きていることのありがたさを知るのでは手遅れである。でも、悲しいかな、失われて初めてそのものの尊さを知ることの方が圧倒的に多い。それは、平和が失われて初めてその大切さを知るのと同じである。人間とは、なかなか学習しない生き物だ。



 後半は、主に学校・家庭という現場で「命」をどう子供達に教えていくかという話で、現役小学校教諭の深澤久先生、現役中学校教諭の大村隆之先生、そして教育ジャーナリストの青木悦さん。横山験也さんの司会で、それぞれ子供の現場からの報告があった。
 こちらは、実際の現場から離れた場所で、如何に「命」に関することを教えるか、実感させるかという話が中心になった。特にここ数年は、子供達に「命」の実感が急速に失せている。いとも簡単に誰かを傷付け、ときには殺す。それがどんな重大なことなのかを理解しない。環境の変化などからやむを得ない面もあるが、そうとばかりもいっていられないので、それぞれの方々が、様々なアプローチで子供に「命」を伝えようとしている。この場合、通り一遍の言葉や押しつけでは、決して子供の心には届かない。「人殺しはいけない」といくら口で言ったところで、無関係の人々を大量に殺戮する命令を下した人間が、圧倒的な支持で大統領に再選されてしまう国があるのがこの世界である。



 では、どうするのか。そう簡単な処方箋はない。結局、少しでも子供が「命」に関して真剣に考える機会を増やしていくしかないのだろう。そんな機会は、実は結構転がっているものである。ただ、それを見ないようにしてみんな通り過ぎているだけだ。実際、僕自身も気が付かないうちにそういうことに鈍感になっている。
 ある意味、石川さんのお話にあったように、戦場では毎日死体を見るので、次第に死体に対して鈍感になり、死体の隣で弁当が食べられるようになるという状態に似ているだろう。「生」の希薄化が言われて久しいが、それは同時に「死」の空洞化にも繋がる。「生」も「死」も実感を伴って受け入れられない人間が増えているのだ。つい先日も、人が苦しんでいるところを見て性的興奮を味わう目的で、自殺系サイトを通じて知り合った人間を何人も窒息死させた男がいた。
 「命」について伝えようとする親や教師が、自分達や身の回りの「命」に関する体験や出来事を、できるだけ生の言葉で語り、子供達にぶつけていくという正攻法しか、今のところなさそうだというのが僕の感想である。



 新しい職場では、これまでと違って、仕事を通じてこういったことを考える機会が増えていきそうである。これまでの仕事からはかなりの質的な転換であるが、大変そうな中にも何かしら面白味を発見できるかも知れない。
 頭の中のこれまでと違った部分を働かせなければならないというのは、面倒な反面、それだけでも楽しいものである。これもまた、僕の「生」=「命」が持続していればこその体験である。


hajime |MAILHomePage

My追加