思考過多の記録
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2003年12月30日(火) 分かりやすい話

 今年も押し詰まったという実感に乏しい今日この頃、大騒ぎになる筈がたいしたこともなく決まってしまった自衛隊のイラク派遣の先遣隊が、ついにイラクの隣国に入った。これから情報収集などをして、年明けには本格的な舞台の第一陣がかの国へ赴くことになる。おそらく、再び全員が無事にこの国の地を踏むことはまずない。



 小泉政権が自衛隊の派遣を決めた頃、日本中で、というか主なマスコミで騒ぎになっていたのは、果たして自衛隊員の安全は確保されているのかと言うことであった。また、自衛隊員が先頭に巻き込まれた場合、どう対処するのかということであった。そして、口には出さなかったけれど、政府の一番の気がかりは、これをアメリカが評価してくれるのかどうかだっただろう。
 日本政府にとって、問題は自衛隊が行けるか行けないかが最初から最後まで最大の関心事だった。行って何をするのか、実際に何ができるのか、そし行ったらどうなるのか、そういったことを論議するふりだけはしていても、そういったことについては半ばどうでもいいとすら思ってるであろうことは、小泉総理や福田官房長官といった閣僚の言葉を聞いていればすぐに分かった。



 そして、多くの人々は、自衛隊員の安全などを心配するようなコメントをテレビのインタビューで喋ったり、それを見ていたりしながら、何となく不安なふりをしてはいても、本音の部分ではこれまた半ばどうでもいいと思っていたであろうことは想像に難くない。
 政府にとっても一般の人々にとっても、行くのは「彼等」であり、「私達」ではないし、行く先はすぐ隣の国ではなく、海のずっと向こうである。武装勢力が対戦者ミサイルを撃ち込んでも、それはどう考えても自分の家を直撃することなどあるわけがない。
 こうして、誰にとっても他人事のように自衛隊の派遣が決まった。しかし、実はこのことは、誰にとってもこの先重くのしかかる大きな曲がり角を、僕達の国が曲がったことを意味している。そのことの意味を、多くの人々は理解していない。



 日々飛び込んでくるイラク各地の惨状を横目に見ながら、「日本も何かしてあげなければ」と付け焼き刃の正義感とヒューマニズムで漠然と思っている人々は、小泉首相が自衛隊派遣を単純明快な論理で話すのを見る。小泉の論理は、論理にすらなっていない稚拙なものだ。ただ言葉だけが威勢がよい。
 曰く、国際社会がイラク復興に協力して当たろうというときに、日本だけが危険だからという理由で何もしなくていいわけはない。そう言って彼は、憲法の前文さえ引用して見せた。
 これ以上分かりやすい話もない。けれど、そこには何故今なのか、何故自衛隊なのか、自衛隊がそこに行って何をするのか、それは現地のニーズと合っているのか、そういった具体的で重要な話はなかった。そして、もっと重要なこと、すなわち、憲法やこれまでのこの国の政策に照らして、果たして自衛隊を派遣すると言うことが妥当な判断なのかどうか、この派遣がどう受け止められ、今後の日本の針路にどんな影響を与えるのかといったことに対する説明も、一切なかった。



 その理由は簡単である。まず、政府の誰もがそこまで考えていなかったであろうこと、そして、それは「分かりやすい話」ではないので国民の耳に届けない方がいいと政府が判断したであろうからである。
 「分かりやすくない話」を国民にしてしまえば、当然そこから議論が始まる。政府はそれを避けたかった。業を煮やしたアメリカが背後にいたからである。僕達の国の政府は、自国民への説明と、それよる議論を喚起することより、親分・アメリカへの忠義を尽くす姿を急いで見せることを優先したのだった。
 そして、僕にはこうも思える。たとえ政府が誠実に「分かりやすくない話」を国民にしたとしても、実は国民の多くはそんな話を聞きたいとも思っていなかったであろう。人々は、政府から「分かりやすい話」を取り敢えず聞き、あとは「難しい話」ということでさっさと他人事にしてしまいたかったのである。
 困っているのは遠い国の人。そこへ赴くのは「彼等」。どちらも「私達」ではない、と。



 派遣を決定するまではあんなに騒いでいたマスメディアすら、イラクでフセインが発見され、派遣の計画が着々と実施され出すと、殆ど沈黙といっていい状態である。いわんや、一般の国民は、もはやイラクという国の存在すら忘れてしまったのではないかと思われる程の冷淡さだ。
 イラク戦争の最中の、あの反戦の盛り上がりは一体何だったのだろうか。戦争と、その後始末はまだ終わってはいないというのに。



 また時が流れ、自衛隊の本体がかの国で任務を開始し、最初の犠牲者が出た時、日本人はまたヒステリックに騒ぎ立てるだろう。マスメディアはまた後追いの政策批判をし、犠牲者は国際貢献に命を捧げた「英雄」に祭り上げられる。センチメンタルな気分に浮かされた人々が反戦「運動」の輪を広げる。
 そして、暫くすると、みんな再び忘れられていく。
 そして、参議院選挙で、「分かりやすくない話」を拒否する大多数の人々が、与党を圧勝に導く。その時、海の向こうのあの国がどうなっていようとも。



 しかし、これだけは確認しておくべきだろう。たとえイラクで自衛隊が誰も死ななかったとしても、僕達は大きな曲がり角を曲がってしまった事実は消えない。
 本を正せば、それはあの大儀なき戦争にいち早く支持を表明した小泉首相・川口外相をはじめとするあの政権全体の政策判断の誤りに端を発している。
 けれど、「分かりやすくない話」を拒否するこの国の多くの人々もまた、それに荷担していることは明らかだ。そして、そのことがもたらすであろう様々な影響と、その結果起きる出来事は、彼等を含む僕達全てにこれから降りかかってくることになるのである。


2003年12月09日(火) 海の向こうの争乱〜「日本」は標的になった

 治安が悪化するイラクで、2人の日本人外交官が命を落とした。それが大問題になっている最中に、政府は自衛隊のイラク派遣を閣議決定した。「テロに屈しない」「アメリカとの関係が大事」「国際社会が復興で協力しようと言うときに、日本だけが安全ではないから何もしないというわけにはいかない」。小泉首相の説明の言葉は、外交官殺害事件の後のコメントと同じく、全く予想の範囲内であった。上辺だけ取り繕っていて、内容が何もないという意味において。



 自衛隊派遣の問題の前に、外交官殺害事件に関してである。この事件が僕達に衝撃を与えた理由は、彼等が「日本人」であるが故に狙われたということがあまりにも明確だったからである。戦後、日本人は、何かの巻き添えになったり、「国際機関」の一員であったりして命を落としたり攻撃されたことはあったが、「日本人」であるという理由で攻撃されるという経験はあまりなかった。
 これはいろいろな理由があるのだが、憎しみを買う程存在感を示したことがなく、常にアメリカの陰に隠れてうまく立ち回ってきたという側面と、NGOの活動も含めて、経済支援を含めた民生面での協力でそれなりの実績を作ってきたという側面とがある。
 つまり、日本は無視されるか、鼻であしらわれるか、それなりに評価されるかのいずれかの反応以外には殆ど経験していなかった。世界にとって、この極東の島国はそんな程度の存在だったのである。



 けれど、米英が国際社会を押し切る形でイラク戦争が勃発し、日本がいち早くそれに対する支持を表明した段階で、事情は変わったのだ。多くの国々が米英の行動に懸念や批判を持っていた中で、日本の取った行動は国際的に際立った。「顔が見えない」と言われて久しい日本外交は、はっきりとしたメッセージをこの時国際社会に発したのである。僕に言わせれば、恥知らずで最悪のメッセージだった。
 あの時アメリカは「Show the flag」と言った。それに応じて日本は「旗」を揚げたのだ。実際には小泉政権と日本政府が旗を揚げたのだが、世界にとっては「日本」が揚げたことになる。
 僕はその旗を認めてはいない。しかし、戦争は形の上では終わり、日本の有権者はその旗を掲げた小泉政権を選挙で信任したのだ。



 2人の外交官が殺されることは、あの旗を掲げた時点で既に決まっていたと言ってもいい。僕も含めて多くの人が、イラクで日本人に犠牲者が出ることを予測していただろう。それは、小泉政権があの時に掲げた旗が、どんな意味を持つのかを考えれば、必然的に導き出される結論である。
 小泉首相も川口外相も、2人の外交官に直接手を下したテロリストの残虐さを述べ立て、涙で声さえ詰まらせてみせる。しかし、そもそも自分達の政策決定の誤りがなければ、出る筈もなかった犠牲である。勿論罪は第一義的には武装勢力にあるだろうが、小泉、川口、そして日本政府=外務省に全く責任がないなどとは言わせない。何故なら、あの大儀なき戦争を支持した段階で、「日本」は反米勢力の「敵」になったのだから。それまで日本は、中東地域ではどちらかというと「中立」と言うことで好意的に見られていた。だからこそ2人も安全に活動できていたのである。
 武装勢力が「日本」を標的にするようにし向けたのは、小泉政権・日本政府に他ならない。その意味で、小泉首相や川口外相が、2人の外交官に対して哀悼の意を表したりする資格はないと、僕は考える。



 「犠牲になった2人の意志を受け継ぎ、テロに屈することなく。引き続きイラク復興支援のために全力を尽くす」と政府はいい、2人を「日本の誇り」として英雄視する向きもあるようだ。しかし、それこそは死者に対する冒涜と言わねばならないだろう。
 彼等は武装勢力に殺された。しかし同時に、彼等は「旗」を掲げた日本政府に殺されたのである。
 繰り返すが、そのリスクは誰にでも予測できた筈だ。それを知っていてその政策を選択したのだから、その判断をした人間の責任は免れない。その人達のために、「日本」と僕達とは誰かの「敵」になり、標的になっているのである。


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