思考過多の記録
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2002年07月21日(日) 「痩せたい、でも食べたい」〜「神」と「悪魔」の顔

 目を覚ませ早く 甘い夢から
 うまい話には裏がある
 目を覚ませ早く 甘い夢から
 溺れているのはおまえだけ
 (中島みゆき「片想い」より)



 その昔、「痩せたい、でも食べたい」というダイエット薬のキャッチコピーがあった。大多数の「痩せたい願望」の人にとっては、現在でもこれは偽らざる心境なのではないだろうか。ダイエットの元々の意味は「食事療法」。食生活を見直して、カロリーや栄養のことを考えた食事をとることにより、体質を変えて体重を減らす方法だ。つまり、はなから「痩せたい、でも食べたい」というのは両立するはずのない欲求、すなわち無い物ねだりなのであった。



 ここ数日話題になっている中国産のダイエット薬もまた、この無い物ねだりの欲求を叶える「魔法の薬」として脚光を浴び、多くの人が飛びついたのであろう。しかも、「漢方」という神秘的なブラックボックスには、そういった魔法を生み出す力があるのではないかと思わせたところがうまかったのである。「漢方」という種によって、このマジックは成立するのではないかと、数々のダイエットに失敗した人や、努力をせずに手っ取り早く痩せたいと考える人達は幻想を抱いたのである。しかし、結局マジックに種はないこと、そして種のないマジックは成立しないことが白日の下に晒されたのだ。



 考えてみれば当たり前のことである。けれど、「ある筈はないけれど、あったらいいな」という願望が、「きっと何処かにあるに違いない」という根拠のない確信にすり替わり、枯れ尾花が幽霊に見えてしまったりするのは、人の世の習いというものだ。そして、願望が見せる幻覚を利用して「夢」を売る商売が栄えるのもまた、世の常というものである。



 本当に僕達は性懲りもなく騙され続けている。構造改革をやると叫びながら自民党党首にとどまる歩く絶対矛盾の自己同一・小泉‘ライオンハート’首相の存在を筆頭に、国民総成金を夢見たバブル時代、人類全体を殺せるだけの量の核兵器を持ちながら、自分達の国だけは生き残れる筈と戦争の準備を怠らない超大国の指導者など、歴史的に見ても殆ど「日本直販テレホンショッピング」ではないかと思わせるような出来事や物・人物のオンパレードである。後になって冷静に考えてみれば「そうだよな、そんな筈はなかったんだよな」と分かることも、その時点ではついつい夢の商売人達の口車に乗って、想像をたくましくして自らを納得させてしまう。
 そして、それが結局は嘘だったと分かっても、「あのとき信じたあなたが悪い」とか、「こっちはそこまで言っていない。あなたが勝手にそう思い込んだのだ」とか言われて、結局商売人達は責任をとらない。彼等はしっかり利益を確保し、ツケだけは信じた物達にしっかり回して姿を眩ますのである。



 人間とはつくづく愚かな存在である。痩せたければ、食事を制限しなければならない。食べたければ少々の体重の増加を覚悟しなければならない。この事実をなかなか受け容れられないのである。だから、ついつい人間を、ひいては私自身を救ってくれる絶対的に正しい「教え」が何処かにあるのではないかと思ってしまうのである。勿論、そんなものはない。「神」は存在しない。けれど、人間はその事実に耐えられない。そこに「悪魔」の付け入る隙がある。



 「神」(人間に希望と救いをもたらすもの)と「悪魔」(人間に絶望と破局、時には死すらももたらすもの)は、多分同じ顔をしている。そして、よく見るとそれは「人間」にとてもよく似た顔をしている。


2002年07月20日(土) 今、ここにいる人の「実力」

 「グローバルスタンダード」という名のアングロサクソン系資本主義の論理が席巻し始めたこの国では、ここ数年俄に「業績主義」がもてはやされ始めている。その人(または組織)の学歴や現在の地位などといったいわば「肩書き」よりも、何ができるのか、また実際に何をしたのかということで評価しようという考え方だ。「実力主義」と言い換えてもいいだろう。
 様々なジャンルに見られるこの流れは、それ自体として悪いことばかりではない。社会の流動性が高まり、結果として社会全体が活性化するということもあるだろう。しかし、全く問題なしというわけではない。



 ところで、僕は「趣味」で芝居などをやっているのだが、前にこの場所でも触れたような要因もあり、現在のところ、自前の創作集団(=劇団)を持つには至っていない。だが、自分の作品を上演するには、どんな形であれ自前の集団が必要だ。そこで、HP等を使って呼びかけてみた。
 しかし、現在までのところ、反応は殆ど無い。



 原因はいろいろあるだろう。まだまだ募集の告知も限られた範囲にとどまっているし、実際の上演時期も先である。勿論、僕達のこれまでの活動や方向性に賛同が得られていないというシビアな現実もあることは率直に認めなければならない。
 けれど、それ以上に結構大きな要因だなと僕自身が考えているのは、これまでの僕の「集団」および声をかけた主体である僕自身に、演劇人としての「実績」がないことなのではないか、ということである。



 先程「趣味」で、と書いたが、僕自身は所謂「趣味」のお楽しみサークルとして芝居をやるつもりはない。とすると、ターゲットは実際に「プロ」もしくは「プロ」を目指す人達ということになる。けれど、僕には悲しいかなこれまで「プロ」の現場で芝居を作った「実績」がない。具体的にいえば、どこどこの劇団で役者(もしくはスタッフ)をしていたとか、どこどこの劇団の養成所、もしくは研究所に何年間いましたとか、演出家の誰々さんについて何年間やっていましたとか、そういった経験である。
 僕が1回だけ参加した劇団が、その後「プロ」に近いスタンスで活動を続けてはいるけれど、僕がいたのはそうなる前だし、おそらく誰もその劇団の名前を知るまい。また去年は劇作家の平田オリザ氏の講義形式のワークショップに参加して脚本の書き方を勉強したのだが、それをもって「プロ」に参加したとはおこがましくてとても言えない。



 どんな形であれ「プロ」の現場を踏んだという「実績」があれば、人の募集はかなりやりやすくなる。何故なら、そのことがある程度その人(またはその組織)に「実力」があることを保証することになるからだ。かつて学歴がもてはやされたのも全く同じ理由による。そして、より高い学歴(または学校歴)を持つ人間の方が、そうでない人間よりもある種の能力において優れているということもまた事実である。
 自分がその中に入って(またはその人に付いて)、少なくとも「プロ」並みに活動していきたいと思うときに、その手段ないしはその人自身に「プロ」としての実力がなければ話にならない、と考えるのはごく自然なことである。
 もしそうでなかったとしても、劇団それ自体に勢いがあって、コンスタントに公演もうち、外部のフェスティバルに参加したり、役者が客演したりして、観客動員も一定以上の人数がコンスタントにあるという状況が望ましいだろう。自分の限られた時間と労力を注ぎ込むわけであるし、それでなくても不安定・不確実な世界である。自分のやることが少しでも無駄にならない場所を探すのは、こうした世界に生きる者にとっては基本的な処世術である。
 そして、残念ながら、僕と僕の「集団」はこれまでそのどちらも持ち合わせてはいなかった。少なくとも、そう見られても仕方がない状況があったことは事実である。



 「実績」のない者には「実力」もない。また、「実力」がないからこそ「実績」もない。
 本当にそうだろうか。過去に何も積み上げられなかった、もしくは評価に値しないことしか積み上げられなかった者は、今現在も何もできない、能力のない人間なのだろうか。
 事故の犠牲者の遺族に対する賠償金のように、過去から判断してその人の未来の価値を計算することしか方法はないのだろうか。
 そしてそれは、今、ここにいるその人を、その人の持っている「実力」を正しく評価していることになるのだろうか。
 いや、そうではない筈だ。
 とはっきり否定できる確信(=「実績」)が、今の僕にはない。


2002年07月13日(土) エアコンを切ろう、テンポを落とそう

 このところ暑い日が続いている。まだまだ夏本番というには甘い感じもあるが、それでも梅雨寒に慣れた体には少々きつい。こうなると、まとまったことなどそうそう考えられない。考えることが癖となっている僕なので、何も考えないでいられる体ではないけれど、それでも思考がなかなか深まっていかないのを感じる。、あっちこっちへ飛んだかと思えば、突き詰めもせずにおざなりの結論に着地する。また、昨日、一昨日に考えていたことをぐるぐる考え続け、その度に同じ結論に達する。「試行錯誤」ならぬ「思考錯誤」な状態が続いている。



 こうなると、熱帯地域にある国々の人達のテンポが我々と違っているというのも、実感として分かる。そして、何故北半球に所謂「先進国」が集中しているのかも、そのあたりから何となく想像がつく。この国の夏の何倍もの暑さが日常となっている国々では、いかに人々の体が我々以上に暑さ慣れしているといっても、おそらくある程度以上は労働密度を上げられないのだ。そういう国々では、ゆっくりしたテンポで動き、考えるしかない。もし「先進国」並みの勢いで行動したとしたら、熱射病か脱水症状でやられるのが落ちである。また、短時間に思考を働かせ、深化させるという作業を行える程の集中力が出せない。もしそうしたことをやろうとするなら、かなり強力なエアコンを1日中付けっぱなしにしなければならないだろう。けれど、そもそもそこまでしてあくせく働かなければならない理由はないと、多分かの国々の住人達は思っているのではないだろうか。



 今回のワールドカップで、カメルーン代表チームが予定より何日も遅れて、しかも真夜中に到着したという「事件」があった。大切な試合があるというのに、何日もパリに足止めされたり(一説によれば、選手に支払う‘ボーナス’の交渉が未決着だったからだという)、飛行許可を取っていなかったとかで何回も他の国の空港に寄ったりと、殆ど日本では考えられないテンポだった。けれど、選手達はそれで特にイライラしたりしたりした形跡もない。おそらくあの国と僕達の国とでは、「体感」時間の単位が違うのではないだろうか。「暑いカメルーン、そんなに急いでどこへ行く」という感じだろうか。
 まあ、最近ではフランスのとある駅に設置された「世界最速」の動く歩道で、転倒者が続出したために僅か数ヶ月で閉鎖になったという「事件」があったくらいなので、ヨーロッパあたりでも人々のテンポは徐々に落ちてきているのかも知れない。



 本来は歩かなくてもすむことを目的に設置された動く歩道の上を、僕達は歩いたり、時には走ったりさえしている。その気力、そのパワーがこれまでのこの国の繁栄を支えてきた。しかし、それもそろそろどん詰まりに来つつあると多くの人々が気付き始めている。
 折しも地球は温暖化している。年間の平均気温は上昇するばかりだ。マラリアを媒介する蚊の北限が沖縄や九州あたりまで上がってくるのも時間の問題だという。ならば、この国に暮らす僕達も、熱帯の国々のテンポに近付いていくいいチャンスかも知れない。エアコンをガンガン利かせたオフィスの中で働くだけ働き、心身共に消耗させられた挙げ句に過労死するような生き方より、暑さに見合うテンポでゆっくりと生き長らえていく方がよっぽどましではないだろうか。



 これからますます暑くなる。そうなると、こんな陳腐な文章すら考えられないようになるだろう。ぐったりしていられればいいのだが、僕の性分としては、エアコンのスイッチを入れてもなお考え続けたいと思ってしまうだろう。
 南の国の人々の心境に達するには、僕もまだまだ「先進国貧乏性」が抜け切れていないようである。


2002年07月07日(日) 本当の政治家

 長野県の田中康夫知事が、脱ダム等の政策を巡って県議会と対立し、とうとう不信任案を突きつけられたという。今朝の僕某局の番組で飯島愛が「ぶっちゃけた話、何のことかよく分かってないんですよね」という、脳天気な芸能人にありがちの大ボケなコメントをしていたのだが、全国的には結構そういう人もいるかもしれない。
 確かに、ことは長野県の県政の問題であり、別の県に住んでいる大多数の人々にとっては直接的には関係ない。しかし、ここには数々の重要な問題が含まれている。一括りに言ってしまえば、それはまさしく「政治とは何か」という問題なのだ。



 不信任を突きつけた県議会側の言い分は、「脱ダムに象徴される田中県政は、破壊ばかりで建設的でない。公共工事をやめた結果県の経済が停滞し、県政それ自体の停滞を招いている。また、反対派を排除し、支持者の声ばかり聞いて政策を進めるやり方は、知事とし相応しくない」といったものだ。
 けれども、今朝のテレビ番組で当の田中知事が出演して説明しているのを聞いていると、決して知事は「破壊」ばかりしているのではなく、教育・福祉・環境という分野の政策を打ち出し、実際に仕事を作り出し、予算をつけている。「脱ダム」はいわばシンボル的な政策であるが、これも実は国土交通省の政策の方向性と一致しており、世界的な潮流もまた然りである。対して、議会側は従来(旧来)の政策を述べるばかりで、ビジョンがなく、何ら建設的ではない。政策の違いというより、自分達を蔑ろにする手法に対する感情的な拒否感、そして、自分達の利権を守りたいという下劣な考えから、知事と対立しているとしか思えないのだった。



 田中知事の政策のいちいちをここで説明することはできない。ただ、その理念はよく分かる。「脱ダム」に象徴されるのは、中央からの金(国民の、しかもその多くが都市部の人間が納めた税金)によって、ダムや「はこもの」を作ることによって経済を成り立たせるという「あなた任せ」の産業構造事態を変えようということなのだ。
 ダムを一つ造れば、その工事費で一時土木業者と地方財政は潤うかもしれない。しかし、その工事が終われば収入は断たれる。そこで、ダムが造れる別の場所を探し、またダムを造る。道路にしても然りだ。こうして、日本中の特に地方部に、必要性が疑問視される鉄とコンクリートの固まりが次々と建設されることになるのだ。
 こうしたものは自然に負担をかける。破壊された環境はそう簡単には元に戻らない。かくして、日本列島に無数の「傷跡」が残る。それは孫子の代にわたって影響を及ぼす。今日明日の収入を得るために、未来永劫取り返しのつかないことをしているのだ。しかも、国民の税金を使って。
 笑ってしまうのは、こういうことを推進している張本人達が、「子供達にもっと郷土愛や愛国心を教えるべきだ」と声高に主張していることが往々にしてあることである。川をせき止め、山を切り崩し、森林を切り開いてダムを造ることと「郷土愛」とは、どこでどう結びついているのだろうか。



 田中康夫知事は、まさにこうした現状に対して問題を提起したのだった。それは、「政治とは、誰のために行われるものなのか」という、あまりに当たり前な問題である。「洪水を防ぎ、県民の生命と財産を守るため」と県議会側が主張するダム建設は、建設地の地元の人達への世論調査でも「建設不要」が多数なのだ。それにもかかわらず、「ダムは必要」と強弁する県議会は、明らかに県民の声を代表していない。つまり、現在の県議会は本当に県民の代表なのか?という疑問符が付く。今回の騒動が明らかにしたのは、長野県政の停滞でも田中知事の強引で独り善がりな政治手法でもなく、県民以外の「誰か」のために存在している県議会の姿だった。彼等は派手に騒ぎ立てることで、そのことを全国に喧伝してしまったことになる。どこまでも間が抜けた人達である。



 こんなくだらないことが起こらないような国に早くなってほしい。そのためには、「政治とは、誰のために行われるものなのか」ということについて正しい答えと実践ができない人達が当選できないようなシステムを確立する必要があるだろう。まずは僕達が、「政治」とはどこか遠いところで偉い人達が勝手にやっているものだという考えを捨てなければならない。
 田中康夫は作家であり、政治に対しては素人だと今でも思っている人がいるだろう。けれど、彼こそ最も愚直なまでに「政治家」たらんとしている人のうちの一人だということが、これまでの彼の実践を見ているとよく分かるのである。


hajime |MAILHomePage

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