思考過多の記録
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2002年03月31日(日) 「新しいこと」に対するキャパシティ

 僕の家のネット接続環境がISDNからADSL変わった。僕はネット導入時にアナログ回線からISDNに変えたため、パソコンのネット接続環境自体が変わるのは今回が初めてである。これまでもTAやパソコン本体を変える度に、接続やメールの設定等をし直してきたわけだが、今回の場合はそれよりも大きな変化だ。
 しかも、OSまで変えてしまったので、本当に基礎の部分を理解するところから始めなければならなくなった。



 何につけ、環境が新しくなれば、それ以前よりも快適だったり、高度なことが実現可能になったりする。より速いスピードで、より高度なことが実現可能になる。より低いコストで、より快適な環境を手に入れることができる。それまでは限られた人しかできなかったことが、より多くの人にとって当たり前にできるようになったりする。
 コンピュータ関連に限らず、あらゆる分野でこうした夢を具体的に形にした商品やサービスが次々に提供されてきた。僕達消費者は、「夢」を追い求めてより新しいものを手にしようとしてきた。両者のとどまるところを知らない巨大な欲望とエネルギーが、数々の技術革新を生んできたのである。



 新しいもの受け入れるには、当然それまでのものを捨てなければならない。
 それまで築き上げてきたものが全くの無駄になり、本当に一からやり直さなければならない場合もままある。また、新しいものへの転換はリスクを伴うことも多い。
 それならば、慣れ親しんだそれまでのものでもいいではないか。ほんの少々の不便に目を瞑りさえすれば、今のままでも十分やっていける。新しい者が無条件にいいわけではない。そう考える人間がいたとしても少しも不思議ではない。



 また一方、新しいものを手にすることは、わくわくすることでもある。まるで子供が新しい玩具を手に入れた時のように、触っているだけでも楽しく、時を忘れさせてくれる。新しいものは、それまでの自分が体験しできなかった世界を見せてくれる。昨日までは素晴らしかったことが、新しいものを手にした今、とても陳腐なものに思えることもあるだろう。
 僕達は新しいものが与えてくれる高揚感を知っているから、次にはどんなものが出てくるだろうと期待を持つ。多少のリスクは引き受けても、それによって実現できることの方をとろうとする。そういう人間もまた、確実に存在している。



 問題は、新しいものを受け入れる時に、精神的・肉体的な「しんどさ」をどの程度感じるかということだ。それは、自分に変化を受け入れるキャパシティがどれくらいあるのかということである。
 たいていの場合、精神的・肉体的エネルギーに満ち、思考も柔軟な若い世代の方がキャパは大きい。そして、それは年齢に反比例する。この「しんどさ」の増大が、新しいものを受け入れることのハードルになる。僕自身、そうなりたくはないと思いながらも、年々このハードルが高くなっていると実感する。現状でもさほど不便を感じないのなら、わざわざエネルギーを使って高いハードルを越えることもなかろうと、つい思ってしまうのだ。



 かくして、人は精神的・肉体的に老いていくのだとつくづく思う。新しいことにわくわくできる精神的な柔軟性を失い、記憶力・理解力の衰えが壁となって、もはや新しいことに価値を見出せなくなるのだ。
 勿論、新しいことが全ていいことではないけれど、せめて何故その「新しいこと」が生まれてきたのか、そしてそれが広く求められているのかを考える力だけは失いたくないと思う。



 古い価値観を捨てられずに、それにしがみついている人間は多い。それを自覚しているならまだしも、その古い価値観を絶対的なものだと思いこみ、あまつさえそれで社会を動かそうとしている人達の醜悪さは目を覆うばかりである。新しいものに対する自分のハードルが一定の高さを超えたら、それは第一線を退く潮時がきたことを意味する。悲しいことだが、それは冷徹な事実である。
 しかし、新しいことに無条件に順応したり流されたりすることが正しいわけではない。その微妙なバランスを保っていくことが、常に新しいものを生み出し続ける高度資本主義社会のただ中を生きる僕達の課題である。


2002年03月24日(日) 働く「母親」という不条理

 国の少子化対策の一環としての男女雇用機会均等法改正に伴い、育児をしながら働く共働きの(多くの場合)母親に対して、時短を認める期間がのびた。これまでは満1歳の誕生日の前日までだったのだが、この春からは3歳の誕生日前日までとなる。またこの間は、残業時間についても、本人の申請があれば上限を設けることができるとされている。
 法律的にはここまでだが、僕の勤務する会社では母性保護の要求を組合が出し続け、これに該当する人達が声を上げてきた結果、母性保護については「権利」という位置付けであるとの一定の共通理解ができあがっている。よって、この時短は有給保証となっている。規模の小さな会社ながら、こうした労働条件はある程度の先進性を持っていると思われ、僕自身誇りに思うところである。



 この労働条件の前進を巡って、うちの会社の複数の職場にいる母親達が意見交換をしたところ、実に意外なことに、この改善を「有り難迷惑」と受け止める意見が出されたというのだ。その人達の言い分は、現在の条件の下でさえ十分恵まれているのだから、これ以上要求はしたくないというものだ。
 しかし、よくよく聞いてみると、どうやらそれは周囲の人間関係や職場環境に起因しているのだと分かった。すなわち、そうした母親達の立場への職場の理解度の違いによって、彼女達の意識に差が出ていたのである。



 ご多分に漏れずうちの会社もここ数年業績は思わしくない。なので、当然人間を増やさない。退職者が出ても補充しない。けれども、仕事の量はさほど変わっていない。いきおい1人1人の労働は過密になる。フルで働けるだけではまだ不十分で、残業をして何とかこなせるかどうか、場合によっては休日出勤も、という状態が半ば当たり前になってくる。
 周囲がこんな状況だからといって、自分の子供の状態が変化するわけでもない。ある程度の年齢までは熱も出しやすいし、麻疹やお多福風邪といったお決まりの病気にも罹る。ダウンすれば長い上に、兄弟姉妹がいれば必ずと言っていい程移されるし、場合によっては親本人もダウンする。配偶者と交代で休めるような家庭の場合はまだしも、相手が全くあてにならない場合はどうしても母親に負担がいく。いずれにせよ、結果的に休みが増える。育児特別休暇や有給休暇を使い切っても足りない場合も出てくる。
 そして、周囲の人間にとっては、事情はどうであれ、休むことで仕事に穴を開けたことに変わりはないのだ。



 彼女達は、周囲の視線を嫌という程感じている。それがプレッシャーになる。中には彼女達に面と向かって攻撃の言葉を浴びせかける同僚もいるそうだ。そんな状況の中、彼女達は追い詰められ、自分は会社にとって不要な、いやそれどころか邪魔な存在なのではないかという思いを抱くようになったのだ。
 そこに降って湧いたように法律の「改正」である。確かに条件が整備されていくことは、そのこと自体大変好ましいことであり、彼女達にとっても朗報である。しかし、「人並み」に働けていない自分達が、なおも自分達を保護する法律や労働条件の改善によって「恵まれた」存在になることは、今以上に自分達が周囲に迷惑をかけることを「権利」によって正当化していると見られてしまうのではないか。彼女達の懸念はそこにある。



 勿論、そこには育児の問題以外の部分での人間関係という要素が絡んでおり、それが問題をより複雑化していることは否めない。しかし、この「懸念」を全面に出して「企業にとっては、雇用するには独身の男性が一番いい」と当のワーキングマザーの1人が言い、比較的このプレッシャーが弱い職場のワーキングマザーが「何故私達の側がそんなことを言う必要があるのか」と食ってかかり、険悪な言い合いになってしまったという話を聞くに及んで、僕はとてもやりきれない、悲しい気持ちになった。



 子供を産みながら働く人達には、それぞれに事情がある。自己実現のための仕事を棄てたくないという思いから働き続ける人達もいれば、経済的なことが理由である人達もいるだろう。たしかにそれは個人の選択であるけれど、だからといってそこから派生する問題の何もかもを、その人達に押し付けていいものだろうか。
 もし、問題は全てその個人が抱え込んで、悩み苦しむのはその個人だし、解決も個人の力でしろということになったら、一体誰が子供を産んで育てたいなどと思うだろう?そう、これは「子育て」という、プライベートに見えて実は非常に社会的な行為に関わる問題なのだ。彼女達が育てているのは、他でもないこの社会の未来を担っていく人間達である。



 働く「母親」が、一見当たり前に見えるくらい社会に広まっていながら不条理な存在になっているのは、「子育て」とフルタイムの責任ある仕事が両立しないという、物理的な制約に裏打ちされた漠然とした「思想」がまだまだこの社会に支配的だからであろう。だから、それをしようとする女性は「ワガママ」に見えるのだ。だから、周囲も本気で助けようとしない。勿論、社会も。そして企業も。
 そのくせ彼等は少子化を憂いてみせる。そしてそれすら、最終的には個人の責任に帰そうとするのだ。



 けれど、僕の母親がそうであり、そして今同じ職場で働く者として彼女達を間近で見ている僕には、彼女達だけが悩み、苦しみ、そして争っているのがどうしても納得がいかない。
 これは本当に彼女達だけの問題なのだろうか。


2002年03月23日(土) 誰もが嘘つきの社会

 社民党の辻元清美衆議院議員が、公設秘書の給料を詐取していたのではないかという疑惑が降って湧いた。辻元氏といえば、先日の国会で鈴木宗男議員を「嘘つき」呼ばわりして一躍有名になった、自民党批判の急先鋒だった人である。
 これまで攻撃される一方だった与党、とりわけ自民党は勢いづき、この問題を徹底的に調査し、国会の場で真実を究明すると息巻く。この前、自分達の身内が批判に晒されていた時とは手の平を返したような積極的な対応である。あまりの分かりやすさに思わず笑ってしまう程だ。



 国会議員の秘書については、かなり前から様々な形での不正が行われていたようで、しかも与野党を問わずかなりの政治家がこの制度を悪用していたと言われている。勿論、だからといってこの件についての真相究明をしなくていいというわけではないのは、鈴木議員のケースと同じである。与党であれ野党であれ、疑惑をもたれたならば、それを晴らす努力はしてもらいたいし、仮に法に触れる行為や道義的に問題がある行為があった場合は、当事者はきちんと責任をとるのは当然である。
 けれども、上記のことと同じくらいに、何故この時期に、与党議員を攻撃していた本人に対する「疑惑」が浮上してきたのかを考えることもまた重要であると僕は思うのだ。



 今回の場合、難しく考えることはない。先にも書いたように辻元議員は鈴木議員批判の急先鋒だった。そして、鈴木問題と、それと前後して表面化した加藤元幹事長の問題が、自民党にとってはダブルパンチになってしまっていたのだ。このままでは政権や党の支持率の低下は避けられず、選挙への影響も懸念された。いくら言い訳をしても、生まれ変わると宣言しても、これまでの経過を踏まえれば、それを信用する国民は少ないだろう。
 かなりの危機意識が自民党およびその支持勢力にはあった筈だ。
 この危機を乗り切る最も効果的な方法は何か。それは、攻撃している側のイメージを傷付けること。そのことによって攻撃の手を緩めてもらうことに他ならない。
 こうして、「辻元疑惑」はリークされたのだ。



 この「疑惑」を最初に報じたのはある週刊誌だが、この雑誌は所謂‘イエロージャーナリズム’の老舗的存在であり、田中真紀子攻撃は言うに及ばず、日本社会の「保守本流」的なあり方を逸脱するものに対しては、個人といわず団体といわず徹底的に攻撃を加えてきた。挑発的なタイトルで目を引き、露悪的な記事で部数を稼ぎ、自民党などの保守勢力に恩を売ってきたのである。
 今回の「暴露」も、この文脈で語られなければならない。先に書いたように、秘書制度を悪用していた(と疑われるようなことをしていた)のは辻元議員だけではなく、また今回問題になった1997年以前にも、勿論自民党議員を含めて多くの議員が行っていたことなのだ。もし本気で「秘書制度に関わる不正」という観点から問題を調査し始めたら、今大はしゃぎしている自民党議員達の中にもただでは済まない人が出てくる(そういう輩はもっと巧妙にやっているだろうが)。けれど、その部分を隠したまま、敢えて辻元議員だけに焦点を当てたところがポイントである。そこには、突出するものを貶め、ことの主導権を自分達の手に取り戻すことによって、‘彼等’にとっての「秩序」を回復しようとする意図が見える。
 勿論、政治とジャーナリズムの間に何か密約があったのか、それとも‘阿吽の呼吸’というやつか、本当のところは分からない。



 ‘彼等’にとって、「真実」はどうでもいい。ただ、与党を激しく批判していた張本人が「何かやったらしい」という印象を国民に与えられれば、所期の目的は達したことになる。
 僕達に必要なのは、情報を流し、それを利用する人々のこうした意図を見抜く目である。どんな情報にも、純粋な「真実」などあり得ない。その流されるタイミング、発表の場所、強調のされ方等々、様々なバイアスがかかる。だからといって、僕達は情報と無関係に生きることはできない。そうであれば、僕達はこうした背景にあるもの(文脈)等を含めて情報を読み解く能力を身につけなければならないのである。そして、情報の「質」を判断する自分なりの基準を持つことが求められる。



 メディアが力を持つ情報化社会とは、誰もが「嘘つき」ではないかと疑わなければならない社会に他ならないのかも知れない。


2002年03月17日(日) 僕達の未熟さ

 ある男性の妻と幼い娘を、未成年だった1人の少年が殺害した。男性の妻をレイプしようとして抵抗され、その女性を殺してから犯し、側にいて母親にすがりついてきた娘を床にたたきつけて殺害するという、身勝手かつ残忍きわまりない反抗だった。
 被害者の遺族であり、原告である男性が、少年法に守られた未成年の犯人に対して死刑を求めて裁判所に提訴した。1審、2審ともこの男性の事実上の敗北だった。



 男性はこの間一貫してメディアの取材に積極的に応じ、犯行の残忍さと自分の無念さを訴えてきた。同時に彼は、未成年である犯人に対して死刑が適用されないのはおかしいと繰り返し表明してきた。「もし国家が彼を死刑にしないのなら、自分が彼を殺すまでだ」とまで言ってきた。そして2審判決の夜、彼は生放送のニュース番組に出演し、インタビューに答えて、犯人が死刑にならないことの理不尽さについて、自説を蕩々と語っていた。



 この男性の気持ちは分からないではない。これから幸せな家庭を築きあげていこうという矢先に、自分の最愛の妻と娘を惨たらしく殺され、その犯人は大して反省している様子もない(とこの男性には思われた)のに、未成年だというだけで命が助かり、軽い刑でいずれは社会復帰することになるのだ。割り切れない思いはあるだろう。この男を殺してやりたいという気持ちで自分が支配されてもやむを得ない。
 にもかかわらず、僕はこの男性の主張に対して違和感を抱いてしまう。それは、彼の立場があまりにも「正当」で、反論を許さないものだからかも知れない。



 彼の言い分は、おそらくこうである。
 人を殺した犯人が、罪を償うために国家によってその命を奪われる仕組み、それが「死刑」である。もし誰かの命を奪ったものが死刑に処せられないとしたら、それは国家がその犯人の命を保証したことになる。つまり、人を殺しても自分は死ななくていいのだという価値規範が国家によって認められることになる(彼は本当にこういう言葉遣いをした)。だとすれば、殺された人間の命の重みは、殺した人間よりも軽いことになるのではないか。そして、そのことが殺人に対するしゃかいの抑制力を弱めはしないか。
 「自分という人間の無力さを感じる。家族を守れなかったばかりか、その家族を殺した人間を極刑にしてほしいという訴えを聞き入れてもらうことができなかった」。彼は2審の判決後の記者会見でそういう意味のことを語った。



 彼はいかにも理路整然と語っているように見える。だが、実のところ彼は、自分の家族を殺した人間に対して「復讐」することしか頭にないのではないか。
 平たくいえば、犯人を殺したいということだ。だが、自分でそれをすれば「犯罪」である。だから自分に替わって国家に彼を殺してほしいのだ。復讐心が彼を完全に支配している。そして誰も反論することのできない彼の境遇が彼の「正当性」を保証する。彼の復讐心は「使命感」の衣を身に纏う。そしてそれは、私的な怨恨、すなわち「情念」の問題を「死刑」や「少年法」といった「制度」の問題に変えてしまう。「情念」を「情念」のまま吐露することの多い他の殺人事件の被害者の遺族のコメントや反応と明らかに違う点は、おそらくここである。
 そして、彼の反論を許さない立場が彼の主張の「正当性」を担保する。その主張は「死刑廃止反対論」や「少年法改正賛成論」へと転化し、彼の境遇はそれらの思想の「正当性」をも担保することになる。
 僕が彼とその主張に対してどうしようもなく違和感を抱いてしまうのは、おそらくこうしたことが原因であろう。



 自分の愛するものが殺された。だから殺した相手を殺す。繰り返しになるが、法律を介そうが介すまいが、結局それは「復讐」の論理である。「復讐」はいかなる場合でも正しいということになれば、あのイスラエルとパレスチナの争いのような事態を招く。
 彼の最愛の家族を殺した当時18歳の少年は、その罪の重さをと自分がしてしまったことの重大さを理解し、それを受け止めるにはまだまだ若く、精神的に未熟に過ぎた。それと同じように、彼もまたこの事件をより深く、広い視野で捉え、それを受け容れるにはあまりに若く、それ故に悲しみと憎しみという「情念」により強く支配されてしまったのだと思えてならない。それは僕がそういう辛い経験をしていないからだと言われてしまえばそれまでかも知れない。



 彼が出演していたニュース番組では、以前、全く別の死刑囚に関する取材に基づく特集を何度か組んでいた。それは、自分の弟を殺された男性が、死刑が確定した犯人の男性の死刑の執行を停止させるために奔走するという話だった。
 その人は、犯人と何度も手紙をやりとりする中で、犯人に対して、決して許すことはできないが、むしろ生きて罪を償ってほしいと思うようになったという。結局、この人の願いも虚しく、死刑は執行されたそうである。



 人の命の重さについて。何が正しくて、何が間違っているのかについて。それを受け容れるには、僕達は皆あまりに若く、未熟すぎる。


2002年03月10日(日) 他者のいない国

 国連のある機関がまとめた報告書によれば、現在日本の平均年齢は世界1高いのだという。50年後にはさらに上がるそうだ。この急激な高齢化の進行の一因は「先進国の中でも類を見ない閉鎖的な移民政策」にあると、この報告書は書いている。



 たとえば、アメリカなどは元々移民の国だが、他の先進国と呼ばれる国々でも、確かに大抵は移民を受け入れている。それがその国の社会にとって負担となり、世界経済全体の悪化も手伝って、様々な摩擦を引き起こしているのは事実だ。「経済大国」の中で、このような社会的な矛盾からこの国だけは一応無関係である。勿論、日本国内にも様々な矛盾や格差がある。また、不法入国・不法滞在の外国人(石原東京都知事流に言えば「第三国人」)が起こす犯罪も増えつつあり、保守派の論客は吼えている。



 けれども、世界の矛盾の大きさは、日本国内のそれの比ではない。アフガンの一件で、先進国はこれまで自分たちが忘れていた所謂「南北問題」が殆ど解決されていなかったことを思い出させられた。先進諸国を覆っている‘不景気’に目を奪われている間にも、難民キャンプでは寒さと飢えで毎日確実に何人かの人々が死んでいたのだ。
 先進国における移民や少数民族など、所謂マイノリティの問題は、こうした世界全体の矛盾の縮図である。世界に格差や矛盾が存在する以上、それがより豊かな部分でも現れてくるのは当然であるといえる。しかし、日本はこれまで自国の法律を盾にこうした矛盾の進入を拒み、基本的には「日本人」以外に門戸を閉ざしてきたのだ。
 日本は、純粋な「日本人」のための国だったのである。



 四方を海に囲まれたこの国は、長い間自国民以外の‘他者’がいない、温々した社会を形成してきた。それは、日本人同士だけに分かる言葉で話し、日本人同士の間だけに通用する規範に基づいて行動することで維持される社会だった。この国が世界から「不思議の国」として見られる所以である。
 だが、海の向こうには別の島があり、大陸がある。その世界の中に日本が存在する以上、日本が「日本人」だけの国であり続けることはできないだろう。もしそうあり続けるなら、逆説的に聞こえるかも知れないが、それは日本の衰退につながっていくだろう。何故なら、日本人同士にしか通じない言葉で話し続けてきた僕達には、世界を相手に会話する能力が備わっていないからだ。また、日本人の「常識」にとらわれた行動は、世界の「常識」から外れていると批判され、強く再考を迫られるだろう。それを拒否することはできるかも知れないが、その時日本の存続は非常に厳しいものになる。北朝鮮を見ればそれがよく分かるだろう。



 もし日本が移民を受け入れた場合、その初期における社会的な混乱は想像を遙かに上回るものになるだろう。それは日本人があまりにも長い間ぬくぬくした社会的空間で生活してきたからである。移民という‘他者’と日本人との間には様々な軋轢が生まれ、数々の悲劇が起こるだろう。間違いなく社会は、生きていくのにしんどい場所になる。
 だが、長い目で見れば、我々が彼等を受容し、社会の中で同等の地位を与えていけば、彼等は「日本」という社会の新たな一員となり、社会に新しい活力を与えることになろう。何故なら、彼等は自分の能力を発揮する新たな場所を求めて進んでこの地にやってきた人々なのだから。チャンスさえ与えられれば、彼等は日本人よりも優秀な働きをするかも知れない。かくして新たな人材を得たこの国は国際競争力を取り戻す。また、すぐ隣の‘他者’とのコミュニケーション能力を身につけた日本人は、国際社会で活躍し、全く新たな貢献をすることで地位を確立するかも知れない。



 繰り返しになるが、世界には様々な人種、様々な文化、様々な信仰が存在している。地球が一つであり、限られた資源と土地と食べ物を分け合っていくことが宿命づけられている以上、我々は自分とは異なる存在である‘他者’と共存していかなければならない。「共存」というのは美しい言葉だが、実際には綺麗事だけではない。争い・搾取・騙し合い・差別…。異なる者と共に生きるとは、手を携えることばかりではない。
 けれども、日本以外の場所では、ずっと昔から人間はこの困難と向き合い、生きてきた。その過程で人々は様々に知恵を絞り、話し合い、何とか「共存」の方法を模索してきた。
 この国に済む僕達は、移民受け入れの初期において大いに苦悩するだろう。しかし、僕達はこうした人類の歴史上の苦悩を身をもって知らなければならないのだ。それを経て、漸く僕達日本人は人間として成長することができ、日本国憲法の前文で言うところの「専制と隷従、圧迫と偏狭を永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占め」ることができるのである。



 それでもなお、実際に‘他者’が大量に流入し、現在の安定した社会を脅かす時、僕達日本人はそれに耐えられないだろう。僕達自身が生まれ変わろうとする過渡期におけるこの苦しみを乗り越えられるのだろうか。また、その過程で僕達はどれだけ多くの‘他者’を踏みつけ、苦しめるのだろうか。



 岩井俊二監督「スワロウテイル」を見ながら、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。


2002年03月01日(金) アメリカの、アメリカによる、アメリカのための五輪

 今週初め、ソルトレイク冬季オリンピックが閉幕した。
 いつもそれ程熱心に見る方ではないのだが、今度のオリンピックは何だかとんでもない大会だったという印象がある。これだけ派手に判定にイチャモンがついたり、メダルが剥奪されたり、順位が変わったりした大会はちょっと記憶がない。何故こんな事になったのだろうか。



 そもそもケチのつき始めは、開会式のブッシュ大統領の余計な一言付き開会宣言だった。決まった言葉以外に何も付け加えてはいけないという規定を無視して、ブッシュは「ヒトラーも使わなかった」(テリー伊藤市曰く)露骨な自国礼賛の言葉を頭に付けて、誇らしげに開会を宣言したのだった。イランの選手が入場してきた時、NBCテレビのアナウンサーはその映像に、「悪の枢軸国から唯一の参加です」という失礼極まりないナレーションをかぶせたという。
 その後の様々な競技でも、再三ジャッジがひっくり返り、そのたびにアメリカやカナダの選手に優位な結果がもたらされてきたことは記憶に新しい。アメリカ以外の国の不服申し立てはことごとく却下され、そういう国々では当然アメリカに対する反感と怒りがわき起こったものだった。
 地元の観客も、アメリカの選手に不利な判定にはブーイングが起き、アメリカ以外の選手が勝つとまばらな拍手、アメリカの選手が勝つと嵐のような拍手と歓声を送るという、これ以上分かりやすいものはないというリアクションを示して、アメリカ以外の国々の顰蹙を買った。



 オリンピックはスポーツの祭典なのだが、少なからず政治的に利用されてきた。しかし、今回程露骨に政治宣伝の道具になった大会はなかったのではないだろうか。それもこれも、今や世界唯一の超大国・アメリカで行われ、アメリカが仕切ったことが最大の原因である。
 それにしても、オリンピックを国威発揚と政権の支持拡大に使うというのはあまりにも使い古された手で、それもあそこまで露骨にやると、さしものアメリカ人もみんな笑って相手にしないか、冷めてしまうかのどちらかだろうとばかり思っていた。しかし、あれ程真正面から捕らえて熱狂してしまったところを見ると、どうもアメリカ人は余程純粋=単純な人々だとみえる。



 半年前の同時多発テロ以降、アメリカは必死に「強い」超大国としての自信とプライドを回復しようと躍起になってきた。オリンピックについ力が入ってしまうのもよく分かる。しかし、それにしても今回のやり方はあまりに露骨でいただけない。どんな手を使っても、またそのことで他国にどう思われようと、是が非でも自国の「強さ」を確認したいという集団ヒステリー状態に陥っているかのようだ。ここまでくると、例の「ならず者国家」を通り越して、単なる図体の大きい「だだっ子」のようである。
 アメリカ国内のイベントでいくら騒いでもらっても構わないが、オリンピックは国際的なスポーツイベントだ。世界を巻き添えにして無理矢理自分の土俵に登らせ、そこで自分の強さを誇示して自己満足に浸るのは、見苦しいし、迷惑なのでやめてもらいたい。
 このところ政治・経済の面で見られるアメリカ=世界という勝手な思い込みで突っ走るあの国の悪い部分が如実に反映されたオリンピックだったと思う。終盤まで見た段階で僕が思い浮かべたのと全く同じ言葉を、韓国のあるメディアが使っていた。
「アメリカの、アメリカによる、アメリカのためのオリンピック」。



 もし今回のオリンピックが「お手本」となり、今後の大会が全て開催国の国威発揚のために利用され、ルールをねじ曲げても自国の強さを誇示するための舞台にされるのなら、オリンピックなどいらない。
 それは、自分やチームの可能性を信じて何年間も精進してきたアスリート達を冒涜する行為である。


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