思考過多の記録
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2001年11月24日(土) パンドラの箱

 海の向こうのあの国で戦争が始まってから1ヶ月以上が経過した。当初長引くのではないかと予想されていたタリバン・アルカイダ掃討作戦は、執拗に続くアメリカ軍の空爆と、それに乗じた北部同盟の陸上からの攻撃に曝されたタリバンが、都市を次々と放棄したことにより、一つの段階が終了したような雰囲気になっている。ただし、アメリカが追っているあのテロリストの行方については情報が錯綜しており、その居場所は未だに特定されていない。


 タリバン・アルカイダという「悪者」が山中に逃げ込み、絶望的なゲリラ戦を展開しながら徐々に勢力を弱め、やがて消滅していくという事態は、アメリカが、そして「文明社会」の側に立つ(あるいは立ちたがっている)国々が望んでいた通りの結末だろう。この上ビンラディンが拘束されるか、もしくは殺害されるという大団円が付けば申し分はない筈だ。彼らは高らかに「正義」「自由」「文明」の勝利を宣言するだろう。


 しかし、何度も書くようだが、それは決してこの戦争の「結末」ではあり得ない。テロリストを追い詰め、裁き、殺してしまえば「報復」という目的は果たされ、人々は溜飲を下げ、「強いアメリカ」を再確認し、歓喜する。やがて、自分たちから遠く離れた海の向こうのあの地域のことなど忘れてしまうだろう。だが、ビンラディン一味とタリバンがこの世界から抹殺され、アメリカ軍がかの地から去った後も、住む場所を失い、肉親や愛する者を殺され、新たな支配者から追われる多くの人々が、国境や難民キャンプを目指すだろう。


 タリバンが去った各地では、早くも「無秩序」という名の新しい支配者が跳梁跋扈し始めている。新政権樹立のための会議や多国籍部隊の展開が具体的なスケジュールに上ってはいる。しかし、それらはかの地に一時的な「平和」をもたらしはしても、真の意味での平安の永続を保証するものではない。逃げ遅れたタリバン兵に対する虐殺はもう始まっているし、タリバン残党への攻撃も収まっていない。また、新たな政権を巡って、北部同盟各派の思惑は食い違っている。共通の敵が消えてしまえば、彼らは自分のグループの利益を第一に行動し始めるだろう。もともとはお互いに内線を戦っていた同士である。これまでの経過の中で抱いた相互の不信感や蟠りはそう簡単には消えない。既に前戦で、彼らは全く統率の取れていない動きを見せている。
 さらに、タリバンの弱体化に伴って、タリバンと同じ民族の反タリバン勢力も台頭してきた。彼らもまた、新政権で自分たちの発言力を確保しようとするだろう。


 たとえ新政権協議が何とかまとまっても、問題はむしろその後だ。実際に政府が動き出してから、各派の間で不協和音が出始めて、それがもとで結局は内戦状態に逆戻りというシナリオは、決してあり得ないことではない。アフガンの歴史は、まさにその繰り返しだったのだから。


 タリバンが崩壊へ向かい、ビンラディンが追われる今の状況は、問題解決への過程ではない。それは、パンドラの箱があの地域にばら撒かれつつあることを意味する。アルカイダとつながりを持っていた世界中のテロ組織は、あのテロリストの遺志を継ごうとするだろうし、新しい支配者の椅子を巡って、昨日の友も今日は敵となりうる。
 戦争はまだ終わったわけではない。国際社会が今までと同じ様にその場凌ぎの対応をするなら、パンドラの箱の蓋が次々と開かれていくことになろう。


 思えばこの戦争は、ニューヨークの同時多発テロから始まった。あれこそ、アメリカがこれまで全世界にばら撒いてきたパンドラの箱の、一番大きな物の一つの蓋が開いた瞬間ではなかったか。タリバンによる抑圧の「秩序」を、自由という「無秩序」に変えることで、アメリカは復讐と罪滅ぼしをしたつもりかもしれない。
 だがアメリカも、そして僕達の国を含めた「文明社会」の国々も、自分達が世界中に撒かれたパンドラの箱に取り囲まれていること、力で無理矢理それを破壊しようとすると、かえって箱は増えていくことを、肝に銘じておく必要があるだろう。


2001年11月18日(日) 「さよなら」は別れの言葉じゃなくて…

 どんな関係の人とであろうと、出会いがあれば、当然別れがある。肉親、友人、恋人、配偶者といった比較的関係の深い人達にせよ、単なる知り合い、職場の同僚、顧客、取引相手といった自分と関係性の比較的薄い人達にせよ、一旦出会ってしまった以上、いつかはその関係が終了する日が来ることは必然である。それはある日突然訪れることもあるし、前もって予告されていることもある。相手が自分にとって好ましい人物であるか否かを問わず、人は必ず出会った相手と別れなければならない。

 ある程度長く続くと予想された関係が、何か突発的な事故や予想外の出来事によって、不意に途切れてしまう場合もある。相手もしくは自分の死という形で終わるのも、この範疇にはいる。ある程度前から予測できたり、予告されいてたりすれば、人は心の準備を自分の中で徐々に行っておくことができる。しかし、そうでない場合、突如としてやってきた別れと人は強引に向き合わされることになる。
 突然であれ、予告されていたことであれ、それまであった関係性がなくなるという事態に直面して初めて、人はその相手の存在と自分の中での相手の占める位置や重み、そしてその喪失感を明確に意識する。所謂「ぽっかりと穴が空く」という感覚である。


 僕は「さよなら」という言葉が、あらゆる日本語の中でおそらく一番嫌いだ。この言葉を口にした時、人は否応なしに相手との関係の終了という事実を突きつけられることになるからである。その意味合いを薄めるために、「さよなら。またいつか、どこかで」という曖昧な約束を装った言葉を添える場合もある。しかし、多くの場合、「いつか、どこか」は二度と巡ってこない。

 どんな関係の相手であれ、出会ってしまった人間とは、いつか確実に別れなければならないという事実は、僕に出会いの喜びの半分を奪ってしまった。「初めまして」と言った瞬間から、その相手が自分にとって好ましい人間であればあるほど、すなわち、その出会いがいいものであればあるほど、僕はその相手との「さよなら」に怯えてしまうのだ。


 だけれども、一度出会った相手とは決して別れないということになると、それはそれで困ったことになる。人間はその関係性の中で日々変化し、成長していくものである。もし関係性の更新がなければ、人は皆新しいことへの挑戦をやめ、何もかもが既知で刺激のない生活に埋没して行くであろう。ある意味で楽だが停滞した関係性に安住していると、その人が自分では気が付かない可能性や、まだ発揮されていない才能を見いだせないままに終わることになる。それはその人にとっても、社会(集団)にとっても損失だ。それ故人は、主体的にせよ外的な要因によってにせよ、自分を取り巻く関係性を少しずつ変化させることで、「ぽっかりと空いた穴」を埋め、何とか生き延びてきたのだとも言えるだろう。
 昔見た芝居(「青い実を食べた」市堂令)の中の台詞に、
「不思議なものですね。今まであったものがなくなると、初めのうちは悲しむけれど、そのうち悲しんでいたことを忘れてしまって、忘れたことさえも忘れてしまうんですね」という内容のものがあった。忘却もまた、喪失感から脱却し、失われたものの呪縛から人間を解き放つために有効に作用する。


 これは人間関係だけの話ではない。住み慣れた故郷を離れる時、愛用していたものをなくしてしたり壊したりした時、人はこれと同じ作業を自分の中で行う。ある作家はこれを「悲哀の仕事」と名付けた。この世界に永遠であるものが何一つない以上、喪失感からの脱却はどうしても必要なことだ。ぽっかりと空いた穴を意識しつつも、それを新たな関係性の構築の礎に変えていく強さを持つこと。「さよなら」はそれを宣言する言葉なのであろう。


 そう頭で理解してはいても、僕は「さよなら」が嫌いだ。どんな人にこの言葉を言う時でも、僕は胸の軋みを押さえることができない。まだまだ人間ができていない証拠なのかも知れない。


2001年11月06日(火) 真っ直ぐな線

 このサイトを通じて知り合ったとある女性が、ある日自分の日記に「この歳になって初めて信じることができる人に出会った」という趣旨のことを書いているのを読んで、僕は愕然とした。僕はこれまでそんなことを真剣に考えたことがなかったからである。
 彼女が何故これまで人を信じることができなかったのか、詳しい事情を僕は知らない。おそらく僕などには想像できない何かがあったのだろう。全くの推測だが、彼女は僕が恋愛や未来に対して絶望しているのと同じように、人間の「関係性」に絶望しているのだろう。いや、正確に言えば絶望していたのだ。そしてそれは、おそらく彼女の「関係性」に対する誠実さと、絶望の裏返しの大きな希望を持っていることの現れであろう。
 僕達は実に様々な「関係性」を結んでいる。友人をとってみても、「親友」「悪友」「仲良し」「知り合いより少し仲がいい人」…といった順序を自分の中で無意識のうちに付けている。そしてそれは日々少しずつ変化している。昨日の敵は今日の友、という言葉もある通り、些細なきっかけで犬猿の仲だった筈の人と親友になったり、結婚してしまったりすることさえあるし、その逆もまたよくあることだ。そういう極端な場合だけではなく、ある人の自分の中での位置付けが微妙に変化するのは日常茶飯事だ。それもまた些細なきっかけである場合が多い。たとえ本人にその意図がなくても、その人の態度や言葉遣いによって、親友だと思っていた人間に裏切られたと感じる場面もあるだろう。その場合、その人の自分の中での地位は確実に変化し、それに伴ってその人に対する自分の態度も変化する。それを察した相手との「関係性」は何らかの影響を被らざるを得なくなる。

 総じて人間関係とは狐と狸の化かし合いである。そこに利害関係による結びつきが加わるので(というよりも、日常の人間関係の主流はむしろそちらである)、問題はよりややこしくなる。だから、世の中を器用に渡っていくために、または自己防衛本能の結果として、僕達の「関係性」はより浅く、表面的で密度の薄いものが中心になる。相手を信じられるか否かという問いは、日常の中で風化していく。もしその問いが日常の中で意味を持つとすれば、それは相手が自分に利益をもたらしてくれる人間として、または最低限自分の敵に回らないという意味において信じることができるか否か、ということでしかない。

 僕は彼女の日記をよく読むのだが、その中で彼女は、そういう表面的で通り一遍の「関係性」に居心地の悪さを人一倍強く感じているように僕には思える。HPやメールの文面だけから判断して彼女と「関係性」を結ぼうとする人達に対する彼女の感想などからもそれを感じる。それがある種の‘一方通行’の「関係性」だと彼女は見抜いているからだ。

 彼女の日記には、彼女を巡る実に様々な「関係性」が描かれている。それは彼女が意識的にか無意識のうちにか、「関係性」に並々ならぬ関心を抱いていることを表している。それは彼女の日記が当初「言葉」という人間関係のツールを主題にしていたことからもうかがえる。その中で彼女は本当に信じられる誰かとの完璧な「関係性」を求めているのだと僕には思える。
 勿論、純粋で完全な「関係性」などこの世の中に存在しない。そんなことくらい彼女も分かっているだろう。それでもその存在を信じ、望みを棄てずに求め続ける。彼女がこれまで「本当に信じられる人」に巡り会わなかった本当の理由は、おそらくそこにあるのだ。
 そして、そんな彼女の生き方・考え方に僕は敬意を表したいと思う。

 というここまでの文章は、彼女の姿をどこまで捉えているのだろう。決めつけられるのが大嫌いな(というのもある種の決めつけだが)彼女のこと、これを読んで怒っているかもしれない。けれど、それは僕と彼女の「関係性」が未成熟なためであるとご理解いただきたいと思う。そうやって誤解を少しずつ解きながら、「関係性」は徐々に変化・進化(深化)していくしかないのだから。


 真っ直ぐな線を引いてごらん
 真っ直ぐな線なんて引けやしないよ
 真っ直ぐな定規をたどらなきゃね

 あんたの胸の扉から あたしの胸の扉まで
 ただの真っ直ぐな線を引いてみて
 それがただ一つの願い
 (「真っ直ぐな線」中島みゆき)


2001年11月03日(土) 明日のことは分からない

 言うまでもないことだが、人はこれから自分や世界がどうなるの
かを知らない。後になって「ああしておけばよかった」「こうして
おいて正解だった」と分かるのだが、それらは全て結果論である。
将来自分がどうなってしまうのか分からないということは、人を不
安にさせる。見えない未来を楽観的に描けばそれが希望になり、逆
に悲観的に照射すればそれは絶望と呼ばれる。多くの人々は、この
2つの状態の狭間のグレーゾーンで揺れ動く。
 明日が今日の延長である保証はどこにもない。昨日の繰り返しに
見える今日という1日の奥底にも、変化は確実に忍び寄っている。
しかし、世界や自分がどこに向かっていくのかを正確に言い当てら
れる者はいない。生きているということは、それ自体不安なのであ
る。

 かくして、人は宗教を発明し、それに縋る。この世界に「神」
もしくはその残像を探し出し、その予言に耳を傾ける。この世に現
れた「神」は様々な形をしている。ある人にとってそれは「占い」
であり、ある人にとっては「メディア」であり、「科学」であり、
「親」であり、「アーティスト」であり、「カリスマ」である。
勿論本物の(?)「神様」であったりもする。自分が信じる神の描
き出す未来を信じ、その世界に生きていくと決めてしまえば、取り
敢えず「未来」の時間の中にその人間は居場所を見出すことになる。
同時にそれは、現在の自分の位地を(その世界の中で)正確に教え
てくれる。人は先の見えない不安からつかの間でも解放される。

 しかし、繰り返すが、未来を正確に見通せる者はいない。創造主
ですら、自らの最高の作品であった筈の人間の増長を予測できず、
大洪水を起こして調整せざるを得なかった(現状を見る限り、それ
すらも失敗に終わっている)。信じていた「未来」と現実にやって
きた未来は、ある場合には微妙に、またある場合には著しく異なっ
ている。初めのうちは何とか取り繕うことも出来ようが、時が立つ
につれてそのズレは決定的になるだろう。
 その時、人が取る態度は概ね2つ。すなわち、「神」を見限るか、
「現実」を見限るかである。「神」を見限った人の中には、「未来」
それ自体から背を向けて、現在を生きることにより大きな価値を見
出す者もいれば、また別の「神」を探し出そうとする者もいるだろ
う。また、現実を見限った者の中にも、新たな「神」の提示する
「未来」に望みを託そうとする者と、「神」に頼らず現実を「未来」
の姿に変えてしまおうとする者とが出てくる。僕にはどの道がより
よいものなのか分からないし、その判断をすることは出来ない。確
かなことは、どの目論見も完全に成功しはしないということだ。
こうして人は永遠に未来についての希望と絶望の狭間を揺れ動く宿
命にある。

 人々は性懲りもなく「未来」を見ようとし、様々な想像図を描き
出す。またその精度を上げようと躍起になり、より確からしい「未
来」を語る「神」を探す。また自分にとってより望ましい「未来」
を求め、それにしがみつく。そうしてもなお、不安からは逃れられ
ない。そのことが様々な悲喜劇を生み、僕達の人生を彩る。しかし、
本当に正確な「未来」が見えていたとしたら、果たして人は生きよ
うとするだろうか。どんなに悲惨な運命が今の幸福の絶頂の向こう
側に待っていようと、また救いようのない現在がある日突然終わり
を告げて新しい時代の扉が開かれることになろうと、それを知らな
いからこそ僕達は今日を生きてしまう。そうして人は生き延びてい
るのだと思う。

 明日なき人々にも、確実に明日はやってくる。それがどんな明日
なのか誰も知らない。それが生命力の源である。未来が見えない
ことだけが、人間の未来を約束する。何とも皮肉な仕掛けである。
しかしそれは「神」の仕業ではなく、他でもない人間が長い歴史の
中で無意識のうちに自らの中に組み込み、発達させてきた仕掛けな
のだ。それに絡め取られてもがいている人間は、神など必要としな
い非常に狡猾な存在か、もしくは神さえ見捨てる救いようのない愚
かな存在かのいずれかであると言えるだろう。
 この人間に本当に未来はあるのか。勿論それは誰にも分からない。


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