思考過多の記録
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2001年09月24日(月) 海の向こうで戦争が始まる(2)

 世界を震撼させたあのアメリカの同時多発テロ事件からもう2週間が経とうとしている。再開した株式市場で株価は下がり続け、死者・行方不明者の数は日を追うごとに増えつつある。懸命の捜索活動にも関わらず、未だにその数は確定できていない。そして、アメリカ国民のテロ組織とその首謀者に対する憎悪もまた日ごとに強まり、報復に対するボルテージも上がる一方だ。政府や軍は着々と準備を整えつつあり、もはや軍事力による報復は既定の路線となっている。
 瓦礫の山と化したあの事件の現場や行方不明者の家族が涙ながらにその人の無事を祈るのをテレビで見るにつけ、アメリカ国民のやりきれない思いと絶望感、そしてやり場のない悲しみは、海のこちら側の僕達の想像を遙かに超えるものだと実感する。突然もたらされた不条理な死、そして姿の見えない敵への怒り。彼等が国を挙げて報復を叫ぶのもよく理解できる。ブッシュ政権をはじめ世界のメディアは概ね今回のテロを「自由と民主主義」「文明社会」に対する挑戦であるという主張を展開している。この大義名分と罪なき人々が殺されたことに対する悲しみと怒りが、アメリカの報復攻撃に対して表立って批判できないほどの正当性を付与している。アメリカはまさに「永遠の正義」の戦いを始めようとしているかのようだ。
 しかし、待てよと思う。あのテロは本当に「自由と民主主義」や「文明社会」に対して行われた攻撃だったのだろうか。確かにそういう側面もあろう。しかしそのことを強調するのは一種の目眩ましである。犯人とそれを操ったとされるビンラディン氏が標的にしたのは、そんな抽象的な概念ではないだろう。彼等は紛れもなくアメリカ合衆国という国家を攻撃したのである。それは彼等がアメリカを憎んでいたからに他ならない。そして、それには「正当」な理由があるのだ。
 僕は専門家ではないので詳細かつ正確なことは書けないが、犯人達がイスラム原理主義に突き動かされているということは、この事件がパレスチナ(アラブ)対ユダヤ(イスラエル)、イスラム的思想対西欧的価値観、そして貧困対富裕という不公平感等といった問題を抜きには語れないことを意味する。彼等過激派が「聖戦」を叫ぶ背景には、いっこうに向上しない生活水準と縮まらない経済格差、領土を巡る争い(それは殆どの場合「民族紛争」か「宗教戦争」のどちらかまたは両方の要素を含む)、それらに背を向ける大国…といった、彼等が置かれている抜け出し難い状況があるのだ。そして、そういった問題でアメリカがこれまで取ってきた態度(外交政策)は、根本的な解決に対しては消極的であるか、もしくは露骨なイスラエル支持であった(たとえ誰が見てもイスラエルに非がある場合ですら、アメリカはイスラエルの味方をした)。つまり、アラブの人達(特に一般の人々)にとって、アメリカは嫌悪・憎悪の対象になってもおかしくはない存在だったのだ。とりわけ貧困の問題は、勿論アメリカ独りの責任ではないのだが、所謂先進国がこれまでイスラム系の貧しい国々に対してその宗教を理由に経済援助等の支援の手を十分に差し伸べてこなかったのは事実である(その国で石油が出れば話は別であるが)。彼等の強い不満と敵意の源は主にそれだ。アメリカに都合のいい時には利用して、それ以外は自分達がどんな争いをしていようとお構いなし。他宗教に味方し、経済的繁栄を謳歌するアメリカ。それは彼等の目にはまさに「悪の権化」と映るであろう。そんなイスラム世界の人々の心をイスラム教原理主義過激派が捉えたとしても不思議ではない。つまり、今回のテロはアメリカの外交政策の失敗が招いたという面も結構あるということだ。
 そして今またアメリカは「報復」という名の「正義」の戦争を仕掛けようとしている。テロを生み出す根本問題には目を瞑り、とにかく力で押さえつければいいという、殆ど「ならず者国家」といってもいいやり方だ。言うまでもないことだが、そんなことでテロを根絶することはできない。テロと戦うためには武力ではなく叡智が必要なのだ。ビンラディン氏の隠れ家が攻撃される模様をテレビで見て溜飲を下げることはできても、それは本質的な解決とは何の関係もないことだ。そこに新たな憎悪と敵意が生まれ、第2,第3のビンラディン氏が登場するだけの話である。
 僕はテロリズムを肯定するつもりはない。勿論あの日、あの場所で犠牲になってしまった人達には何の罪もないことは言うまでもない。だが、だからといってアメリカが「正義」でテロリストが「悪」という一方的な図式がこれ程まかり通るのもどうかと思う。しかもそれをアメリカ国民が挙って支持している様を見ると、彼等は本気で問題を解決しようと思ってはいないのだと思わざるを得ない。少なくともこの問題に対する自国の責任に思いを致せば、「正義」を振りかざして「報復」するなどという安易な政策がとれるはずもないだろう。
 海のこちら側から見ると、「正義」とは所詮力関係に過ぎないということがよく分かる。そんな政治力学の犠牲になったのがあの事件の被害者だともいえよう。そしてアメリカは、他国の領土でまた同じように犠牲者を生み出そうとしている。


2001年09月16日(日) 海の向こうで戦争が始まる(1)

 世界で唯一の超大国・アメリカで起きた同時多発テロ事件は、文字通り世界を震撼させた。この事件を知った僕の周囲の人間の反応の殆どは、「怖い」というものであった。事件から数日が経過し、かの国では犯人の絞り込みと報復の準備が着々と進行している。よく言われることだが、あの国は建国以来本土に外国からの攻撃を直接受けた経験がない。しかも狙われたのはあの国の経済的繁栄と軍事的強大さの象徴であるワールドドレードセンタービルとペンタゴンである。また、実はホワイトハウス若しくはキャンプデービット山荘も標的になっていたという情報もある。勿論被害は甚大だ。アメリカ人が受けたショックは想像を絶するものがある。
 僕は最初この事件の映像をテレビのニュースで見たとき、何とも言えない違和感を覚えた。確かにそれはニュースであり、今初めて見る映像なのに、奇妙な既視感があったのだ。そして、それとは一見矛盾するようであるが、現実に起こっていることなのに何だか全く現実感がないのである。ワールドドレードセンターに突っ込む旅客機、そして大爆発。ツインタワーの倒壊。同じシーンがいくつもの異なるアングルから繰り返し映し出される像は、どうしても最新のSFXを駆使したハリウッド映画のプロモーションにしか見えない。
 そういえば、以前こんなストーリーのハリウッド映画を見た。旅客機を乗っ取ったイスラム原理主義者たちが、飛行機ごとニューヨークに突っ込ませようとするのを主人公達が阻止するというものだ。その他にもテロやハイジャックを取り上げた映画は枚挙に暇はない。また、高層ビルの火災もパニック映画の格好の題材だ。勿論それらはフィクションであり、最新の映像技術を使ってより「本物」らしく見せようと苦心してある。逃げ惑う群衆のシーン等と合わせて、あまりの「本物」らしさに、逆に見る側は「虚構」の世界に出来事だと安心してスリルとサスペンスを楽しむことができる仕掛けになっているのだ。
 ところが、あの日テレビに映されたのは紛れもない「現実」だった。その映像は僕達が映画館やビデオの映像で繰り返し繰り返し見てきた出来過ぎた「虚構」のイメージそのもので、それがあの既視感と現実味のなさの根底にあったのだ。しかも、それが紛れもない僕達の「現実」に飛び込んできた「本物」の映像だったことが、何とも言えない違和感の正体だったのであろう。おそらくこの感覚は、ワールドトレードセンタービルとペンタゴンにいた人達以外の、アメリカも含めた全世界の人間の多くが瞬間的に感じ取ったのではないかと僕は推測する。それ程あの事件には現実味がなかった。つまり、あのビルやペンタゴンに旅客機を衝突させるなどという暴挙を、一体誰が正気で考えつくだろうか。映画や小説といった絵空事=「虚構」の世界だからこそ「あり得る」ことだったのだ。
 そして当初から指摘されていた通り、どうやらこのテロには宗教的な背景があるらしいことが分かってきた。宗教はある種の「虚構」の世界である。少なくとも「現実」の話ではない。神の教えの実現のために、神の理想の導くままに、自らの命と引き替えに彼等はこの絵空事を実行した。それも、かなり長期にわたる準備期間と綿密な計画、そして多くの資金を費やして。神という「虚構」の存在(と言い切ってしまって差し支えないだろう)に操られる形で、彼等は聖戦という「虚構」をテロという「現実」にすり替えたのだ。そしてまるであのツインタワーのように、僕達があの事件の前まで抱いていた「現実」認識は突然の攻撃で土台から崩されてしまった。あの燃え盛るペンタゴンと爆発するツインタワーという「日常」の裂け目から、「戦争」という「非日常」が噴き出してくるのを、あの日全世界が目にしたのだ。
 そう、僕達は今や「虚構」を「現実」として生きなければならなくなったのである。
 こうして、僕達の平和な「日常」は破壊されてしまった。勿論、かの国の人々のダメージはさらに大きい。しかし、言うまでもないことだが、おそらく夥しい数になるであろうあの事件の犠牲者こそ、それまでの「日常」を突然、劇的かつ暴力的に永遠に奪われた人達である。そこで流された血は、紛れもなく「現実」のものだ。そして、多くの命が失われた事実もまた、冷徹なる「現実」である。あのテロの作戦を立て、その実行のために訓練を行っている時、彼等の頭の中にはその生身の人間が生きる「現実」が見えなくなっていたのではないか。そして今、報復のための軍事行動の作戦を練るアメリカ政府と、それを熱烈に支持するアメリカ国民もまた、同じ状況に陥りつつあるように思えてならない。
 「虚構」という「現実」を生きる人間には、この大きな落とし穴が見えなくなってしまう。これこそが「戦争」という「非日常」の恐るべき「現実」なのだ。
 (この話は次回も続く。)


2001年09月08日(土) 「印象」という現象

 僕の会社の、職場は違うが同じフロアーで働いているある中年の男性社員は声が大きいため、よく部屋の仕切を越えて外部との電話でのやり取りや部下のと会話が聞こえてくる。僕はその人と一緒に仕事をしたことは一度もないし、その人がどんな性格や考え方なのかも知らない。だから現象面でしか語ることが出来ないのだが、その人の話し方を聞いていると、大抵の場合、相手に対して尊大で居丈高な態度をとっているように感じられるのだ。僕はその部署の仕事内容を知らないので、取引先との関係がどういうものか厳密には分からない。しかし端で聞いていると「外部の人に対して、何もそんな言い方をしなくても…」と思えるときが結構ある。本人にその意識があるかどうか定かではないが、常に相手を自分より下に見ているかのように受け取られそうな物言いなのだ。部下に指示や注意を与えるときの言動も同様である。
 その人にはおそらく悪気はなくて、与えられた仕事をきちんと滞りなく遂行するためには、部下や関連会社がちゃんと動いてくれなくては困る。だから何か問題が起きたらそれが大きくならないように、また起きるのを未然に防ぐために、厳しさと緊張感を持ってシビアに指示を与えているだけなのかも知れない。1つのチームの責任者という彼の立場からすればごく当たり前の行為である。それは認めるが、それにしてももう少し言葉の使い方や発し方があるだろうと思ってしまう。仕事には厳しさが必要だが、それと同じくらい「気持ちよく仕事をする」ということも大切である。また、部下が萎縮してしまっては、新しい発想や意見も出にくくなる。気分も奮い立たない。それは仕事の硬直化と職場の空気の沈滞を招き、仕事がうまくいかなくなる。すると彼はさらに厳しくハッパをかける…という悪循環に陥る可能性もある。僕がそんな彼に対して抱くイメージは「仕事の鬼」である。だが僕には、仕事とは相手との関係で進めていくものであり、その相手とはまさに喜怒哀楽を持つ血の通った生身の存在なのだということが彼の念頭にはないとしか思えない。そうでなければ、40を過ぎた大の大人が、あれ程自分の「怒」ばかりをストレートに相手にぶつけるとは考えにくい。
 僕はその人を誤解しているのかも知れない。そうだとすればなおさら、「印象」とは恐ろしいものだと思う。ちょっとした言葉の選び方、口調(声の高さや強弱、柔らかさ等)、表情(目の動き、笑顔の度合い等)、仕草といった情報を読み取ることで、人は相手がどんな人間なのか、自分にとって敵か味方か等を、出来るだけ短い時間で判断しようとする。テレビというメディアが怖いと言われる所以はそこにある。情報の発信者が本来伝えようとしたこと以外の様々な副次的な情報が伝わり、時にはそちらがメインの情報として受け取られてしまうことすらある。そんなわけで政治家などはとみにテレビ映りを気にするようになり、服装やロケーションなどの演出に余念がない。しかしそれでもなお、意図せざる情報を受け手が読み取ってしまうことは避けられないだろう。
 先日逮捕された眼鏡と髭の外務省の課長補佐は、逮捕前の取材でテレビカメラを向けられて「ふざけんじゃねーよ!いい加減にしろよ!」と怒鳴りつけ、マイクを振り払っていた。これを見た視聴者の殆どは、彼が尊大で傲慢な人物だという「印象」を持ったであろう。そして、逮捕後の報道の内容を見る限り、それはどうやら間違っていなかったらしい。官僚である彼にとっては、カメラを向けるマスコミも、その向こう側で彼を見つめている多くの国民も、蔑むべき対象だったのだ。そして、そう思っていることを隠す必要性を彼は感じていなかった。そういう輩からどんな「印象」を持たれようと、外務省という閉じた世界での彼の確固とした地位は揺るがないと彼は考えていたに違いない。‘公僕’としての自分が本来は仕えるべき相手であり、血の通った存在である国民の姿を、彼は全く見失っていた。それが公金(すなわち国民の税金)を私的に流用してはばからなかった彼のメンタリティーである。それが図らずも態度に出てしまったと考えても、あながち間違ってはいないと思う。
 人を「印象」で判断することには危険がつきまとう。誤解されやすい人もいるし、緊張のためにうまく言葉が出なかったり表情が強ばってしまったりする場合もあろう。しかし、そこになにがしかの真実が含まれていることも事実である。嘘の笑顔は見る人が見れば見破ることが出来るだろうし、怒りの裏に愛情が隠されているのが伝わるときもある。「印象」という表面的な現象を取り繕うことに労力を使うより、相手に対する自分の目線や気持ちを変えていくように勉めることの方が、遠回りなようではあっても、より本質的なことに思える。
 とはいえ、せっかくの相手に対する気持ちを、より効果的に見せる‘技術’はあるに越したことはない。同じことならよりよい「印象」を与える方がいいに決まっている。このあたりが人間関係の面白さというか難しさなのだと、「印象」で損をすることの多い僕はつくづく実感するのだ。


2001年09月07日(金) 「メジャー」と「マイナー」

 どんな分野にも「メジャー」と「マイナー」という区別がある。より多くの人に認知され、また多くの人の人気を獲得したものが「メジャー」(もしくはポピュラー)と言われる。音楽業界で言えば、CDの売り上げや有線でのリクエストが多い曲、及びそれを生み出したアーティストが、「メジャー」な存在ということになるだろう。
 音楽でも小説でも、勿論芸術以外の分野であっても、その道で活動している人間、または活動しようと準備している人間の数は膨大である。そしておそらく殆ど全ての分野で、作品もしくは製品は、アイディアやプロトタイプの段階にとどまっているものも含めて、完全な供給過剰である。そのようなシビアな状況下において、製作者達に何よりも求められ、また事実彼等の最大の関心事となっているのは、作品の質を高めることもさることながら、それ以上に自分の作品を如何に多くの人々に「認知」してもらえるかということではないだろうか。どんなに優れた作品を作っても、それを誰も知らないのでは話にならない。まずは作者及び作品の存在を、できるだけ多くの人間に知らしめることが第一だ。そのために彼等は、どんな手段でも使う。例えば、どこかのスポンサーとタイアップするとか、CMやドラマといった万人の目に触れる可能性のあるメディアを利用するのが、最も手っ取り早く、かつ有効な方法であることは論を待たないだろう。
 とはいえ、その種の媒体に載るためには、いくつかの条件をクリアしていなければならない。どの分野のものにも共通していえることは、その作品が万人に受け入れられる魅力とインパクトを持っているということである。書いてしまうと簡単なことのようだが、実際はなかなかにたいへんである。例えば、ある楽曲がCMに起用されるためには、売り込もうとする商品のイメージに合っていなければならないし(その楽曲が逆に商品のイメージを作ることもあるが)、多くの人々に不快感を与えたり、理解不能なものだったりしてはまずいだろう。なおかつ、視聴者にその商品の印象を残すために、ある一定の範囲を僅かに越えるくらいのインパクトが必要とされる。このあたりの匙加減は微妙である。「分かりやすいけれど、ありふれすぎていない」というのが「メジャー」の条件の1つである。これを満たす作品を生み出すのには、ある種の職人芸が求められる。アーティストはある場合には己を虚しくする必要に迫られるかも知れないが、そのことを苦痛に感じていては「メジャー」にはなれないのかも知れない。
 こうした、いわば作られた「メジャー」(作者本人が共犯者の場合もある)の他に、‘天然’ともいうべき「メジャー」も存在する。アーティストの感性が、その時代の空気をうまく捉えている、もしくは本人にそんな意図は全くなかったのに、時代が彼の感性と共振した場合に、それが生まれる。作品や本人及びその周囲にとってこれは全く幸福なことであるが、実はこれは「マイナー」の図式とネガとポジの関係にある。すなわち「マイナー」な作品とは、作者本人に時代を捉える力が備わっていないので時代の空気と共鳴できないもの、もしくは作者本人にそもそも時代や多くの人々の求めるものに対する興味がなく、ひたすら作者自身の感性との対話において作られたものだ。いずれの場合も、作者達の多くは「分かる人間にしか、俺の作品は分からない。それでいいのだ」と嘯く。
 メジャーなものの中には、単にマーケティングや売り方の勝利で、実は中身はたいしたことがないものも多い。ネームバリューだけで売れているけど、これがもし全く無名の作者によるものだったら、誰も見向きもしないだろうというやつだ。しかし、メジャーになるからには、より多くの人間を引きつけるだけの何かを持っていることも事実で、作品自体にも、また作者にもそれだけの再起とパワーを感じられるものだって結構あるのだ。反対に、「マイナー」なものの中にも、これをより多くの人の目に触れさせたら確実に「メジャー」になっていくだろうと思われるものもあれば、成る程これでは「マイナー」でも仕方がないなというものもある。多くの人には受け入れられないだろうけれど、クオリティーは高かったり、独特の魅力的な世界を持っているものも多い。だから、一概にどちらがいいなどとはいえない。要は、受け手が何をいいと感じるかであり、またそういう受け手が多いか少ないかということである。「メジャー」や「マイナー」というレッテルには、作品それ自体の実態を変化させてしまう一種の目眩まし的な効果がある。だから作り手は「メジャー」を目指して、いい意味でも悪い意味でもなりふり構わなくなっていかざるを得ないのであろう。
 言葉で作品を作る僕としては、この「メジャー」「マイナー」という争いからはできれば降りたいと思う。という前に、とっくの昔に脱落しているという話もある。どう足掻いてみても、所詮は多くの人を引きつける力のない「マイナー」な存在である僕の言葉は、いずれは人知れず退場を余儀なくされることになるのであろうか。


2001年09月02日(日) 単純な世の中

 僕がこれまで書いてきた台詞の中で結構気に入っているもののひとつに、
「正義の味方が正義に味方するほど、この世の中は単純じゃない」
というものがある。
 話題としては些か古くなるが、小泉‘らいおんハート’総理が靖国神社に参拝した。彼が終戦の日の靖国参拝の意向を表明してから、国の内外で喧しい議論が起こったことは記憶に新しい。結局彼のとった行動は、批判の強い終戦の日より前に参拝し、神道形式のお参りをせず、公私の別は明らかにしないという、何とも中途半端なものだった。この問題は国内では一段落したように見えるものの、外交問題としては今なお尾を引いている。
 首相としての参拝を決意した理由を、彼自身は「国のために犠牲になった人の霊を慰めることは、ごく自然な感情ではないか」という趣旨の言葉で語っていたように記憶している。この参拝に対して世論は二分されていたが、マスメディアの報道を見る限りでは、賛成派の殆どの人はいうに及ばず、反対派の一部の人でさえ、彼のその発言に対して理解を示していたようだ。しかし、僕自身はそれに対して賛同しない。何故なら、先の大戦で犠牲になったのは、所謂「国のため」に戦って命を落とした人だけではないからだ。空襲や原爆の犠牲者などの非戦闘員や、朝鮮などから強制連行されて働かされていた人達の霊は、靖国にはない。この事実を知らない人が意外と多いので、先の首相の発言につい惑わされるのだ。靖国信者には、古くは戊辰戦争で明治政府のために戦って命を落とした官軍の兵士達の霊が祀られている。しかし、幕府側の犠牲者の霊は1人も祀られていない。理由は簡単だ。彼等は「国家」(明治新政府)、ひいては明治天皇に対する反逆者だと見なされたからである。あの神社はそういう場所なのだ。
 おまけにA級戦犯の問題がある。こちらはだいぶ報道されたので知っている人も多いだろうが、この件についても首相は「死んだ人に区別をつけるのはおかしい」という趣旨の反論をしていた。単純に考えればそうかもしれないと思わされる。しかし、A級戦犯とは、先の大戦で国民を戦争に巻き込み、その結果夥しい数の人々の命を奪うことになった責任者達のことだ。地獄に堕ちて当然と思えるそんな人々が、何故「神」として祀られなければならないのだろう。国のために戦ったと見なされれば、その罪は問わないのが靖国流らしい。また彼等は日本がアジアの国々を侵略したときの指導者だ。その霊に対して現在の日本の首相が祈りを捧げれば、侵略された側はどう思うか、そんなことは誰が考えてもすぐに分かることだ。それに対して「内政干渉だ」などという批判をすることはできない。戦争が絡む以上、靖国問題は常に国際問題なのである。
 僕が問題だと思うのは、こういう複雑な背景を無視して、先に挙げたようなごく分かりやすい、心情に訴えかけるような言葉でこの問題について語る首相の、政治家としてのあまりの無責任さと、そこに見え隠れする狡猾さである。一国を代表する立場なのだから、個人的な信念や心情を貫くということだけで行動することはできない。それが分かっていて敢えてああいう言辞を弄するのは、分かりやすい言葉が国民を味方につけるためには最も効果的だと知っているからだ。成る程、国民が支持すれば何でもできる。何しろここは民主主義の国である。こうして彼は、不十分ながら目的を達した。しかし、間違いなく彼はこのことによって国益を損ねることになったのだ。
 僕達が肝に銘じなければならないのは、一見単純で当たり前と思われることほど、疑ってかかった方がいいということだ。この世の中に単純なことは殆ど存在しないといっていいだろう。色々なことのいちいちについて深く考えていると頭がパンクしそうになるので、なるべく結論を急ぎたいと思うのが人情だ。分かりやすいことがあれば、ついそれに飛びつきたくなる。しかし、それで問題が解決するわけではない。僕達はいつの時代も、正義の味方が正義に味方しない世界を生きているのである。
 それを全く忘れている人達が、靖国の境内で参拝にきた首相を見つけて「キャー、小泉さん!」などと脳天気な声援を送ってしまうのだ。新世紀は始まったばかりだというのに、早くも世も末という感じである。


2001年09月01日(土) 「愛」のお伽噺

 夏も終わりというこの時期になって、スピルバーグ監督の「A.I.」を見てきた。封切りして大分立ったので地元の映画館には空席が目立ったが、それがこの映画の評価をストレートに反映しているのかどうか、僕には分からない。ただ、全米ではそれなりにヒットしたというこの作品を見て、ハリウッド映画のある種の限界を感じたのだった。
 扱われている題材は、非常に興味を引かれるものであった。人間の「母親」に対する愛情をインプットされた人工知能(A.I.)搭載の子供のロボットが、捨てられた後も母親の愛を得ようと人間になるための冒険をするというお話は、実に様々な問題を含んでいる。人類とロボットとの共存は可能かというトピックもそうだが、最大のテーマは言うまでもなく「愛」である。この映画にはその設定からして、プログラムに基づいてインプットされ、学習機能を通じてより人間らしく実体化されていくロボットの「愛情」は、果たして人間の「愛情」と同じものか否か、といった大命題が潜んでいるのだ。「愛情」の一歩手前にある「感情」をロボットに持たせようという研究は現実にあって、AIBOなどはそのごく初期段階のモデルということになるのだろうか。給仕用のロボットや介護ロボットも今後本格的に登場してくるという。そういうロボット達が示す「感情」は、人間の感情と同じものと言っていいのだろうか。また、そもそも人間のかなり複雑な感情のあり方(悲しみつつ怒ったり、愛するが故に憎んだり、その逆だったり)を人工知能は完全に再現できるのだろうかという、純粋に技術的な問題もある。仮に完璧に再現できたとしても、それは厳密な意味で感情と言えるのか、甚だ疑問だ。すると、そもそも感情とは何か、という根本的な話に立ち戻っていくことになる。
 愛についても同様だ。いや、ことは感情よりも厄介(?)である。「愛」の全てのパターンを人工知能がプログラムとその後の学習によって再現したとすると、例えばロボットの男性と人間の女性の間に「愛」が芽生えたりすることもあり得るだろう。その時、ロボットの抱いた(この表現が適切かどうかも疑問だが)相手に対する「愛情」は、電気信号の処理によって生まれたある種の命令(コマンド)とその実行の集積の結果である。それは端的に言えば、僕がキーボードを使って打ち込んだある種のコマンドを、日本語変換プログラムが処理することで文字データに変え、それが「言葉」になっていくということと、レベルは違っても本質的には変わらないと思う。人工知能は自ら「学習」する機能を持っているが、それはあくまでも最初に与えられたプログラムの範囲内のことであり、それがどんなに高度になっても究極的には0と1との組み合わせの反応である。それを「愛」と呼べるのかどうかと考えることは、「愛」とは何かという非常に深遠で哲学的なテーマに人々を誘うことになろう。言わずもがなのことだが、これはそう簡単に結論が出る問題ではない。事実、有史以来世界中の哲学者や宗教家、芸術家といった人々が膨大な時間と労力を費やし、時には人生をかけてこの問題と格闘してきたが、未だに誰も「真の愛」を発見してはいないのである。
 こんなに深遠な問いかけの入り口に誘いながら、何とも残念なことのこの映画はそれを実に安易な方向でより深い思索に発展するのを回避するのだ。それは、ロボットの抱いた「愛」の本質を問わないという「思考停止」によってである。長い長い年月がたち、人類が滅びてロボットが支配する世界に蘇った主人公のロボットは、その時代のテクノロジーの力で彼の母親が実は彼のことを愛していたことを知り、ほんの短い間だが彼はその愛情に包み込まれることが出来るという結末になるのだ。殆どお伽噺の世界である。
 ハリウッド映画はエンターテインメントであることが最低条件になっているらしい。だから、今回のストーリーの中に潜んでいた筈の先に述べたような魅惑的な問いかけは、作り手にとっては物語を盛り上げるための単なる調味料に過ぎなかったのであろう。映画を見てまで深く考えたくはないと客が望むのなら仕方のないことだが、せめてもう少し哲学と娯楽のせめぎ合いを見せてほしかった。何とも食い足りなさが残る作品である。
 とはいえ、こうも考えられるだろう。この映画の中で人工知能の抱く「愛情」は、最初にインプットされた相手を対象とするものであり、それを変更することは出来ないという設定になっている。つまり、彼は壊れるまで同じ相手を「愛し」続ける。これこそ究極の「永遠の愛」といえるのではないか。生身の人間(映画では「リアル」と呼ばれる)の現実(リアル)の愛が往々にしてそういうものではないことを、僕達はよく知っている。それにもかかわらず、そんな愛が存在してほしいとどこかで夢見てしまうのもまた事実なのだ。その意味でも、この映画は「永遠の愛」=「真の愛」を巡るお伽噺だといえるだろう。そして、それがまさにお伽噺としてしか成立しないという事実が、本当の「真の愛」の姿を浮かび上がらせているように僕には思て仕方がないのである。


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