思考過多の記録
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まさかこんなに長居をする思ってもいなかったのだけれど、気が付いたら勤続10年になっていた。自分の興味・関心と全くかけ離れているわけではなかっものの、特別に就きたい仕事というわけでもなかったし、適性があるとも思っていなかった。僕が今の会社に入ったのは、人の紹介、つまり「コネ」であった。一応正規の入社試験は受けたけれど、特別優秀だったわけでもない。その当時この会社は業務の繁忙期で人員が不足していた。おりしも就職は「売り手市場」といわれていた時代である。どんな人間でもいいからとにかく確保しておきたかった会社と、どんな企業でもいいからとにかく就職しておきたい僕との利害が一致した、いわば妥協の産物としての就職だった。 入社当初は、右も左も分からないのに、まともな研修もなしに突然実務の最前線に引っ張り出され、忙しさも手伝って、いつ辞めようかとそればかり考えていたものだ。芝居に対する思い入れも今とは違った形で強くあったので、フルタイムの仕事は邪魔に感じられたのである。生活費を稼がなければならないことは確かだが、自分のやりたいことでも何でもないことに多大な時間と労力を費やさなければならないことが、どうにも我慢できなかったのである。その上、もともと適性の大してない仕事内容だったので失敗の連続だった。そんなこんなで労働意欲も低く、課長から注意を受け、その場で辞意を伝えたこともあったくらいである。 それでも何とかここまでやってこれたのは、ひとえに職場の人達の支えがあったからだ(別に職場の人間がこれを読んでいるからそう書いているわけではない)。またうちの会社は組合がしっかりしているので、何か問題だと思われることがあった場合は、労働条件も含めて対応してくれるシステムがある。仕事がうまくいかなかったりする場合には、その原因を当該社員の能力だけに帰するのではなく、職場環境や仕事のさせ方、上司の管理の仕方や人員配置などが適切だったかを含めて検討される雰囲気が、建前上ではあるけれど存在しているのである。とはいえ、それぞれの職場ごとに雰囲気の違いがあり、仕事のしやすい所とそうでない所がある。僕の配属された職場はみんないい人ばかりで、会社の中でも雰囲気がいい方の職場だった。だから、仕事が出来ない僕を、周りのベテラン・中堅社員の方々が何かとフォローしてくれた。随分甘えさせてもらったものである。 そうして危なっかしいながらも、僕は何とかそれなりに格好が付くような仕事が出来るようになった。もともと好きなこと意外は勉強しようという気が全くないので、お世辞にもこの10年間でスキルアップが図れたという状態ではない。それどころか、1人分の給料に見合う働きが出来ているのか、甚だ疑問であるといわざるを得ない。それでも、僕は一緒に仕事をしている職場の人に育ててもらったと思っているし、感謝の気持ちでいっぱいである。 今日本の企業では、アメリカ流の能力給や成果給制度を取り入れるのが流行だ。能力や成果に応じて給料を支給するという発想は、確かに分かりやすく、理に適っているように思える。だが、どんな職種であれ、仕事とは基本的には1人でするものではない。営業職のように数字がはっきり出る仕事であれ、物を売るためには、顧客のアフターケアへの対応のようなことを考えれば、他の部署の人間との連携は欠かせない。また、チームで事に当たらなければならない仕事も多いだろう。そのチームの仕事の正否が、他のチームや関連会社の協力にかかっている場合もある筈だ。その場合、どこまでをその人間(チーム)の成果とするのか、線引きは非常に難しい。自分の評価に直接つながらないのであれば、他人と連携したり協力したりすることはない。その分自分の仕事に優先的に精力を傾けよう。そう考えるのはごく自然な感情である。かくして従業員は分断され、職場の雰囲気は悪くなっていく。これでは逆に生産性の低下につながり、ひいてはその企業の業績に悪影響を与えかねない。 成果の上げられない人間は脱落し、職場を去るのは当然という「弱肉強食」の思想は、確実に人間を疲弊させる(時には命をも奪う)。そんな状態でいい仕事が出来るとは到底思えない。また、経営者や上司の方針に異を唱えにい雰囲気が生まれ、成果が上がるかどうか確実でない仕事に対するチャレンジ精神は失われる。何よりも、周囲に大して気配りや目配りをする余裕がなくなる。こんな時代なので、そういう状況でも我慢して働き続けなければならないというのが正直なところだろう。だが、人間を大切にしない企業は必ず傾く。何故なら、そこで働いているのは生身の人間なのだ。そうであればこそ、仕事には精神面も含めた横のつながりという数字に表れない部分が、非常に大きな要素を占めるということを忘れてはならない。 僕は所謂愛社精神というものをこれっぽっちも持っていない。自分の仕事に対する愛着や誇りもない。ただ、僕は今の職場が好きだ。決して数字には表れない部分に惹かれて、僕はこの会社で働いているのである。それがなければ、今頃はリストラ候補第一号として、肩叩きにあって呆然としていたことだろう。入りたくて入ったわけでもないのに、世の中何が幸いするか分からないものだ、というのが実はこの10年で僕が身をもって学んだ最大の成果なのである。
台風が日本を通り過ぎていこうとしているが、それとは関係なくイギリスの話は続く。 僕がイギリスを含めたヨーロッパの国に行ったときに驚いたのが、美術館、博物館の類の殆どが入場無料だということであった(特別展を開催している場合は、それのみ有料の場合がある)。今回エジンバラとロンドンでそれぞれナショナルギャラリーを見学したが、どちらも無料だった。しかも展示内容は充実していて、有料にしてもおかしくないものだった。日本ならば、この中の一点が来たというだけでも長蛇の列ということになるだろう。 そう、僕が日本で美術館にあまり行かないのは、たまに足を運ぶ「何とか展」の類がいつも混んでいて、入場料を払って入っても殆ど人の頭しか見えないということが多いからだ。その上、客はロープで絵画から遠ざけられ、混雑が酷くならないようにということで立ち止まることも許されない。およそ芸術鑑賞というにはほど遠い、殆ど‘見物’というのに等しい状態だ。そんな所にわざわざ時間と労力を使って出かけたくはなかったのだ。 かの国の美術館には日本でお馴染みのロープはなく、彫刻作品を覆うガラスケースもない。勿論あの忌まわしい行列もない。何しろ広い(特にロンドンの方は半端でなく広かった)し、所謂‘一点豪華主義’ではないので特定の絵の前に人が群がるということもない。スペースがあるので、近付いて説明を見た後にぐっと後ろに下がって全体を眺め、また少し近付いて細部を確認するという見方が平気で出来てしまう。悲しいことにスケジュールの関係で時間が圧倒的になく、全てをゆっくり見ることは出来なかったのだが、それでも久し振りに絵を堪能した。各年代の絵画をいっぺんに見られるので、16,7世紀頃の絵画はかなりはっきりした色調だが、印象派になると相当淡くなり、題材から物語性が消えるという変化も、改めて目で確かめることが出来る。当然のことだが、画集とは色が全く違う。演劇人の端くれとしては、ライブと記録では伝わるものが全く違うということは常識だが、それは絵画にも当てはまるという全く当たり前のことを実感した。絵を見てこんなに面白いと思った記憶は今までにない。 凄いのは、日本では押すな押すなでやっと見られるような著名な画家の作品が、ロンドンに住んでいればいつでも無料で見られるという事実である。1年のうちでも休館日はクリスマスと元旦(と向こうでは言わないだろうが)くらいで、朝10時から夕方6時まで、水曜日は夜9時まで空いている。イギリス人は残業など殆どしないそうなので、ロンドンの中心部にあるナショナルギャラリーなら仕事帰りにふらっと立ち寄ることが可能だ。日本の公共の美術館・博物館の殆どが平気で5時で閉館するのとは偉い違いだ。民間の美術館では6時頃まで開いている所もあるが、規模では比べものにならない。それに、何と言っても「無料」というのは大きい。僕は決して自分の経済的な状況だけでこれを強調しているのではない(勿論それも大きい)。そこにあるのは、「芸術」というものに対する思想の違いである。ナショナルギャラリーのプランと呼ばれる館内の案内資料には「これらの絵画は公共に属する(belong to public)」とはっきり書かれている。芸術作品は公共の財産だから、それを維持するためのお金は政府(や自治体)という「公共」機関がみんなのお金である税金から出費する。したがって入場するためのお金は取らない、ということなのだ。これはエルミタージュでもオルセーでも基本的には同じである。日本の場合は、「芸術作品はそれを見る人に利益を与える(その他の人には関係がない)。したがって鑑賞する人達からその見返りとしてお金を徴収する」という発想に立っているように思われる。より多くの人が気軽に見られるようにとの配慮に欠ける点があるのではないか。 芸術、ひいては文化は社会全体のものであり、誰もがそれを享受する権利を保障するというのがかの国々の歴史が育み、人々に共有されている思想だ。そのことと、ナショナルギャラリーの入り口にあった「無料を維持するために、寄付にご協力ください」という募金箱の存在とが両立しているところが、かの国の人々の文化に対する成熟した姿勢を感じさせる。文化を大切にする国こそ、真に豊かな国であるといえると思う。 かつて成金国家日本の企業やブローカーは、バブルの金余りに乗じて美術品や絵画を買いあさった。それは勿論豊かな精神生活のためではなく、多くは右から左に転がして金を手にしようとしたり、「豊かさ」=経済力の象徴として誇示することが目的だった。そして僕達は、展覧会のチケットを買ってショーケースの前に群がり、それで「文化的」な生活を謳歌していると思っていたのだ。そしてバブルの崩壊とともに、美術品はあれよあれよという間に海外に出ていってしまった。僕達は、文化を「公共の財産」ではなく「商品」だと思い込んでいたのであろう。そして今、僕達にはどんな財産が残ったというのか。 複雑な思いで僕はナショナルギャラリーの募金箱に1ポンド硬貨を入れたのだった。
夏休みを使ってイギリス周遊8日間の旅に行って来た。スコットランドの首都エジンバラから北イングランドの湖水地方、そして南へ下がってコッツウォルド地方を経てシェイクスピア生誕の地であるストラトフォード・アポン・エイボン、そして南イングランドのカンタベリーとリーズ城見学、そして当然首都ロンドンまで巡るという、本当に目の回るようなツアーだった。今回の旅行の行き先にイギリスを選んだのは全くの気紛れで、正直言ってヨーロッパならどこでもよかったのだが、行ってみるとここを選んで正解だったと思わせるものがあった。イギリスは数年前にロンドンに半日いたことがあるだけだったのだが、どこも自然が美しく、またエジンバラなどは町の半分が中世のままのたたずまいを残していたりする。総じてかの国は伝統を重んじるお国柄で、どこにいっても石造りの建物が並び、さすがにロンドンあたりまで行くと大都会の様相を呈するが、それでも近代的なオフィスビルなどというものは数えるほどである。 思うにこれは、イギリス人(ヨーローッパ人)に特徴的な「使えるものは使える限り使い続ける」というポリシーからきているのであろう。町を走る自家用車も年季の入ったものが多いし、バスやタクシーも最近はやりのラッピング(全面広告)車こそあるけれど、車両自体は昔のままだ。日本にいるとどうも「新しいものはよいもの」という頭があるせいか、携帯も1年前の機種でさえ随分古いもののように思えてくる。このへんは多分に石の建物に住む民族と木の建物に住む民族の感性の違いではないだろうか。石は長い年月の風雪に耐えるが、木はやがて朽ち果てる。石の家に住む民は、傷んだところを少しずつ補修しながら同じ家に住み続け、その家の形を愛するようになる。木の家に住む民は、補修して住み続けるには痛みの激しすぎる家に住み続けるのを諦め、より丈夫でより住みやすい素材の新しい家を建てることに精力を傾けることになる。新しい家は、当然前の家よりは使いやすい形になっているだろう。どちらのやり方にも長所と短所がある。非常に単純化して言えば、伝統を大切にすることは、その重みが社会全体を覆って硬直性につながり、新しいもの、便利なものを追い求めると昔ながらのものは時代遅れ・非合理的なものとして切り捨てられることになりやすい。イギリスは明らかに前者のタイプである。かつては大英帝国として世界の覇権を握っていた栄光の時代があるため、自分達の方法論に改善すべき点があることになかなか思い至らなかったのかも知れない。それが産業革命と資本主義を生み出して世界をリードしながら、所謂「英国病」に蝕まれて逆に後れをとる結果を生んだのだ。 しかし、伝統を大切にするということは、停滞だけを意味するのではない。その伝統の継承と発展のために全力を注ぐことで、その国のアイデンティティは保たれ、国民はその国の歴史や文化に誇りと愛着を持つことが出来るのだ。それは国全体の力になると同時に、その国に暮らす人間の心を豊かにする。 イギリスはそのお手本のような国だ。どこかのんびりしていて、でも威厳を感じさせる。そこがあの国の魅力である。そんなことろが、僕は好きである。できればもう少し水洗トイレの水の流れ方をよくしてくれれば文句はないのだが。
2001年08月12日(日) |
「あの日」が二度と訪れないために |
昨日に引き続き長崎の話である。そこでは被爆者の人達だけではなく、核兵器廃絶のための運動(所謂「反核運動」)をしている人達の話を聞く機会がたくさんあった。両者に共通していたものは「若い世代に運動が継承されていない」という危機感だった。確かに被爆者の方々は高齢化している。被爆2世の方々もそろそろ中年世代に入ろうかという状況である。また、その方々を支援しながら核兵器廃絶を訴える運動を担う人達も、残念ながら全体として高齢化している。この先運動が先細っていき、組織として動くことが出来なくなれば、被爆体験の継承それ自体が難しくなっていくのではないか。そんな危機感を多くの人が口にしていた。 こうした事態への対策として言われていたのは、より多くの人に被爆の実態を知らしめ、運動に参加してもらうようにする。そのためには、被爆直後の惨状(例えば黒焦げになった少女の姿)の写真をパネルにしたものをそれぞれの地域で運動をしている人達が購入し、それを展示したり、それを見せながら被爆体験を語る機会を設ける。駅頭等での署名活動でより多くの署名を集める等々であった。 そのことが全て間違っているとは思わない。しかし、それだけで運動が若い世代に継承され、多くの人々に広がっていくとは僕には到底思えない。これには様々な問題が絡むのでとてもこのスペースでは書ききれないが、問題と思われることを2点だけ指摘しておこう。 第1点は、運動の手法が現代の感覚とマッチしていないということである。僕の組合が所属している上部団体は、某革新政党の強い影響下にある。それで、今回僕が参加した原水爆禁止世界大会も、その政党の指導の下に運動をしている組織の人達の集まりだった。彼等のやり方は、街頭や職場での署名、集会、コンサート等のイベント(「歌声運動」と彼等は呼んでいる)、広島・長崎への「平和行進」と呼ばれるデモ等々…1950年代以来の伝統的な左翼運動の手法そのままである。しかも、彼等は組織の名の下に整然と運動することをよしとしている。これは今の若い世代に最も嫌われるやり方だ。そのセンスはあまりに古くさい。この点を改善しなければ運動は広がらないだろう。いきなり被爆写真のパネルを見せたり、垂れ幕や旗の下に署名をさせることよりも、例えば中田選手が自分のHPに「核兵器はこんなにたくさんの人々を苦しめているんだ。核をなくすために、みんなも出来ることから始めないか」というメッセージを載せる方が、何百倍ものインパクトがあるということ、またそれに賛同して始まった全国各地の個々人の自主的な運動が、やがて連帯していく方がよほど広がりのある運動を形作れるという現代の状況に、運動をしている人達や某革新政党の方々は早く気付いてほしいものだ。組織や政党が表に出て、昔ながらの左翼の方法でやっていると、まるで平和について考えたり行動することそれ自体が何らかの政治的イデオロギーに与する行動であるかのように運動の外側の人達に受け取られてしまう。これほど悲しいことはない。 2点目は、運動のあり方そのものの問題である。現状では、被爆の実態の悲惨さを訴えることが最優先にされており、だから原爆は2度と使われてはならない、という具合に極めて情緒的な主張が叫ばれる。そして、「とりわけアメリカのブッシュ政権は…」という風に、核兵器を捨てようとしない大国を批判するのが常道だ(何故かアメリカだけがいつでも名指しである)。これは、東西冷戦時代に形作られた左右のイデオロギー対立の図式をそのまま受け継いだ主張である。確かに、ある時期まではこれでもよかったのかも知れない。しかし、冷戦終結後の新たな世界秩序の下、この種の運動には次なる展開が求められている。何故アメリカ等の超大国が核兵器を捨てようとしないのかと言えば、それは核の悲惨さを指導者達が理解していないからでは必ずしもない(そういう面も勿論あるだろう)。核兵器なしでは自国の安全と世界秩序を守ることは出来ないと彼等は考えているのだ。そして、それは現時点ではある意味で正しい。だから、もし本気で核兵器の廃絶を求めるのなら、核抜きの世界秩序を構築するにはどうすればいいのか、その新たな方法を模索しなければならないだろう。そのためには、政治家だけではなくあらゆる国々の多くの人々の叡智を結集しなければなるまい。核廃絶を求める運動は、その一翼を担える筈である。情緒に訴え、悲惨さを伝えるだけではなく、クールに政治的な戦略と方法を考え、核廃絶までの具体的なプログラムを作って政府や国際社会に向けて提案していく。そこまで視野に入れて活動を組み立てるなら、自ずと運動は深まり、広がっていくと思うのだ。 確かにこのままでは、核廃絶を求める運動は先細り、実際に被爆を体験された方々がいなくなってしまったら消滅することさえ考えられる。そうなったら、被爆者の体験や今日に至るまで続く彼等の苦しみは何の意味もなかったことになってしまう。そうならないために、僕には何が出来るだろう。原爆投下の時刻、長崎の蒸し暑い空気の中で、黙祷を捧げながら僕はそのことをずっと考えていたのだった。
7日から9日まで長崎に行っていた。会社の組合の関係で、原水爆禁止世界大会およびそれに関係する勉強会に参加するためである。僕自身はそういったトピック自体には興味はあるものの、組合が加盟している上部団体の運動のやり方や主張には必ずしも賛成できない点がある。ただ、実際に原爆が投下された時間に現地にいるという体験をしてみたかったし、現場に飛び込めば運動の弱点がはっきり見えてくるだろうという思いもあった。 それに加えて、被爆者の方の体験を生で聞く機会を持ちたかった。僕は高校時代に修学旅行で広島に行き、そこで被爆体験を伺っている。だが、残念ながら殆ど記憶がない。問題意識は持っていた筈なのだが、その前後に遊んだ記憶の方が結構残っているのだ。今にして思えば、苦しかった自分の体験を語っていただいた被爆者の方に大変申し訳ないことをしたものである。その罪滅ぼしの意味でも、僕はもう一度生の被爆体験を聞きたいと思っていた。テレビなどの媒体を通しては嫌という程聞いてきた話でも、現実に体験した方を目の前にして聞けば、また違った思いがあるだろうと考えた。それで僕は長崎行きを決意したのだ。今回の旅費や宿泊費は、全て職場の人達のカンパによって賄われた。その意味でも、いい加減な気持ちでは行けないぞと肝に銘じていた。 出発に先立って、東京で参加者の顔合わせがあり、その席で、事前学習ということで広島で被爆された方のお話を伺った。僕にとっては19年ぶりに生で聞く被爆体験だったが、これが非常に印象に残る話だった。 その方はもう80を超えるお年の女性だった。その方は広島市内の住んでいて、小さなお子さんを抱えてあの災難にあった。崩れ落ちた自宅の下から血だらけの隣家のご夫婦に救出され、ご自身も勿論怪我を負いながら、お子さんを抱きかかえて隣家のご夫婦と市内を脱出したそうである。途中、全裸だったその方に見ず知らずの若い女性が防空壕から毛布のようなものを持ってきて自分に貸してくれたこと、その人達とはぐれて1人で逃げる途中、市の中心部で被爆した人達が壮絶な姿でやってくるのを目にしても何の感情も湧かなかったこと、顔が膨れあがり片目が飛び出してしまった小さな男の子が「お母さん」と言って自分の足に縋り付いてきたのを足で振り払っても、可愛そうだとも思わなかったこと、道に横たわる死体を踏みつけながら水を求めて何とか川に辿り着き、河原に横たわる夥しい死体をかき分けて流れの側に行き、「水をください」と呻いたり叫んだりしながら息絶えてゆく大勢の人達を無視して、ひたすら自分と自分の子供のために手で水を汲み続けたこと等を、その年老いた女性は淡々と語った。 「あの日の私は、鬼ですらありませんでした。どんな酷い光景を見ても、死んでゆく子供や死体を見ても、可愛そうだとか、怖いとか、そういうことは全く感じなかったのです。私はお隣のご夫婦や見ず知らずの若い女の方に助けていただいたのに、ただ自分と子供が助かることしか考えられませんでした。」そして、その日の自分を語ることが、自分が見捨てた人々へのせめてもの供養になると思う、しかしそれは自分が死んだ後、あの世で自分を恨んでいるであろう人達に出会ったときにどんなことをされるか分からないという恐怖心からなので、どこまでも私は自分勝手なのだ、と最後にその方はおっしゃったのだった。 彼女は最後まで戦争や原爆に対する憎しみを口にしなかったし、お決まりの「二度とこのようなことがあってはならない」という趣旨の言葉もなかった。しかし、そのことが逆に原爆の悲劇性と、それが体だけでなく心にも深い傷を与え、それによって何十年にもわたって人間を苦しめるものだという事実を浮かび上がらせる。 あの日の彼女の行動は誰にも責められないだろう。「人間らしさを失い、鬼ですらなかった」と彼女は言うが、僕はそれもまた人間の姿だと思うのだ。自分も大怪我をしながら必死に他人を瓦礫の下から救い出すのも人間なら、最後の力で懇願する人々を無視して自分と子供のためだけに必死に水を手で掬い続けるのも人間なのだ。勿論、その悲劇を生み出した元凶である原爆を作り出し、人々の頭上に投下したのも人間なのである。 56年を経てもなお忘れることの出来ない自分のあの日の行動を、多くの人々の前で告白し続けることは、想像を絶する精神的な苦痛があるだろう。心の苦しみに耐え、残された命を身を削るように自己の体験を語ることに費やし、そのことで心の傷を忘れ去ることを自らに禁じた彼女は、もはや十分すぎるほど罪を償ったのだと僕は思う。
連休の夜、花火大会の見物客が駅に通じる歩道橋上で将棋倒しになり、赤ちゃんやお年寄りを含む11人が亡くなる事故から、もう2週間が経とうとしている。当初錯綜していた情報は、現在でも全貌が明らかになっているわけではない。ただ、少しずつ分かってきたことは、当日の人間の流れをうまくコントロールできていなかったという実態だ。そのやり方のまずさは事前の交通規制の計画段階からのものだったらしいことも分かってきた。こうしたいわば主宰者側の責任は言わずもがなのことであるが、それと同じくらい重大な原因は、大会の会場から駅へ向かおうとして、交通規制を無視して一方通行の歩道橋を逆行した人達の存在である。これまた言わずもがなのことだが、事件の直接の原因は彼等の行動であり、その責任は免れない。11人の犠牲者は、彼等のその行動がなければ命を落とさずにすんだ人達なのである。勿論、心や体に傷を負った人達についても同様である。 報道によれば、海岸から駅に向かうには、問題の歩道橋を通らなければかなりの迂回をする必要があった。時間が余計にかかる上に見物による疲労もある。出来るだけ歩きたくないし、早く家に帰りたい。そんなときに、目の前の近道は一方通行…。こんな場合、必ず‘チョンボ’する人間が出てくる。そして、それに多くの人が続く。いったん流れが出来てしまえば、多勢に無勢の警備員の呼びかけなどは全くの無力だ。「ルールは破られるためにある」という言葉がある。誰かがそれを破り、さらにそれに続く人達によってその流れが決定的なものになれば、今度はそれが新しい‘ルール’になる。初めのルールは、人の流れをスムーズにするためには個人の都合(近道)はある程度犠牲にするというものだった。そして新しく生まれたルールは、基本的には個人の都合を優先するというものだ。「赤信号みんなで渡れば…」という言い古された心理が働いたのだ。みんなが渡れば、たとえ実際の信号は赤でも、実質的には青信号と同じになる。駐車禁止や速度制限の標識も同じことだ。 しかし、「みんな」が歩道橋を逆行したといっても、その流れは自然現象のように発生したのではない。最初に「みんな」の流れを作った個人(またはグループ)は確実に存在する。彼(もしくは彼等)は自分が‘ルール’を変えたことによって大惨事が起こったことに対して当然責任を負うべきである。だが、おそらく彼(もしくは彼等)は責任を問われることはない。極端にいえば、罪悪感を抱くことすらないかも知れない。何故なら、最初の人間が倒れたとき、多分彼(もしくは彼等)はとっくにその場所を離れ、帰路に就いていたと想像されるからだ。彼(もしくは彼等)が何ものであるのかを特定できる人はいないだろう。‘群衆’という顔のない集団の中に紛れることが出来れば、人は他人を犠牲にしても自分の欲望を満たすことを最優先に行動する。個々人がそれぞれに違う利害と欲望を持ち、それを最優先に行動すれば群衆は混乱に陥り、最終的にはごく少数の人間を除いて最低限の欲望すら果たせなくなる。それを避けるための‘ルール’を、‘群衆’という匿名性を隠れ蓑にして責任を回避しながら、彼(もしくは彼等)は自分達に都合がいいように変更する。彼(もしくは彼等)にしてみれば、自己は自分達が現場を離れた後に起きたのであり、直接の原因(将棋倒しの最初の転倒者)ではない。何よりも、逆行したのは彼(もしくは彼等)だけではない。「みんな」がその流れに乗ったのだ。悪いとすれば、それは自分達に続いた「みんな」だ、ということになる。 けれども、この事故の引き金を引いたのは、やっぱり最初に逆行して人の流れを作った彼(もしくは彼等)だと言わざるを得ない。たとえ刑事的・民事的に責任を問われなくても、たとえ良心の呵責などこれっぽっちも感じなくても、彼等の行動とその意味を消し去ることは出来ないのだ。 僕達は‘群衆’になると、責任感と方向性を失う。自分の利害と欲望だけが明確に意識される。そうして、流れに身を任せる。だが、果たしてこの流れはどこに行くのか、本当に自分や周りにとっていい方向に行くのかを常に考えている必要がある。そして、その流れの出来た原因、先頭に立つ人間、音頭をとる人々をしっかり見極めることが大切だ。その信号は赤なのか青なのかをクールに判断できないような状況は、かなり危ういだろう。 そうはいっても、いったん流れの中に入ったら客観的に全体を見るのは極めて困難だ。だから僕はできるだけ‘群衆’を避けるようにしている。ただ「国」という群衆だけは、そこから逃れる術がない。
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