思考過多の記録
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野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」という舞台を見に行った。初演から数えて3回目の上演である。坂口安吾の原作を野田さん流にアレンジした作品で、高い人気と評価を得ている。僕自身大好きな作品で、いろいろと印象的なシーンや台詞があるのだが、その中でも最も心に残るのは、「愛するものは、呪うか、殺すかしなければならない」という台詞である。 ドラマでも映画でも小説でも、勿論舞台でも、登場人物はいとも簡単に「愛してる」という言葉を口にする。歌でもそうだ。まさに「愛」のオンパレードである。安売りの感さえある。ちょっとした「好き」という感情を「愛」と取り違えているのではないのだろうか。宗教が説く「愛」など語ろうとも思わないけれど、おそらく「愛」とは、ドラマや映画や小説が垂れ流しているイメージのような、ロマンチックで甘美なだけのものではない。そこには一種の厳しさというか、退っ引きならない凄みとでもいうようなものがある。 例えば、「愛」は一切の見返りを求めない。言葉で言うのは簡単なのだが、普通僕達は意識的に、また無意識的に何らかの見返りを求めてしまう。そして、自分が愛した分と同じだけ相手が返してくれることを期待し、もしそうならなければ失望し、憤慨し、また相手を責めるかも知れない。だが、それは単に相手を自分の欲望を満足させる対象として見ているに過ぎない。大抵の恋愛関係にある(お互いに「愛し合っている」と思っている)男女の関係の実態は、おそらくこれである。そこにはある種の力学が働いていて、お互いの思いが強まったり弱まったりしながらうまく釣り合う所を探っているのだが、それは本来的な意味での「愛」のあり方とは何の関係もないことだ。かといって、一方的な気持ちの押し売りとも違う。ストーカー行為は断じて「愛」ではないのだ。「愛」はあくまでも「相手のため」であり、そのために自分の身をも捧げる態度である。それを「重い」とか「うざい」と感じてしまう人間は、「愛」に関してはまだまだ腰が定まっていないということになるのであろう。 そうはいっても、人間は基本的には弱い存在なので、ついつい誰かの好意に甘えてそれに寄りかかってしまったり、 相手と傷を舐め合ったりする自閉的な関係に安住したくなる。こうした関係は、往々にして人を腐らせ、堕落させるものだ。だからこそ、野田さんの台詞になるのである。 この台詞は、主人公の飛騨匠の木彫り職人にいい仕事をしてもらうために、自分を愛してくれている彼の手にかかってわざと殺される飛騨の王の娘にして天皇の后・夜長姫の、愛する人に刺された死に際の台詞である。現在の状況に安住し、姫との楽しい生活にも慣れて、慢心から職人としての腕を失いつつあった彼が、自分を殺すことでいい作品を生み出す力を取り戻すのなら、自分はそのために身を捧げよう、という姫の匠に対する「愛」から出た行為である。普通の生活をしている僕達現実の人間にはとてもできないことだ。しかし、だからこそ「愛」というものの本来持っている厳しさがある切実さを持って伝わってくる。野田さんの別の作品には「愛するものに差別をつけろ」という台詞が出てくる。これは主人公の少年がそう教えてくれた父親を、自分の手で刺し殺すときの台詞なのだ。 ことは恋愛に限らない。「愛する」とはかくも困難な、そして命懸けの営みである。抱きしめることだけが「愛」ではない。突き放すことも、傷付けることも、そして時には殺すことさえもひとつの「愛」の形だ。そこにあるのは、血を流しながらも直向きに誰かを求め、その相手と向き合う人間の生々しい、そして汚れのない心の有り様である。そしてそれは、誰にでも簡単にできることではない。誰かを「愛する」という時、そこにはそれ相応の覚悟がなければならない。そうでなければ、人間の精神のいろいろな営みの中でも、間違いなく一番崇高なものの一つである「愛」に対して、またこれまで全身全霊を賭けてそれを実践してきた人類史上の多くの人々に対して失礼というものである。 僕などは本当に小心の、ちっぽけな存在だ。だから、今好きな女性のことを、呪うことも、ましてや殺すこともできない。じゃあ、あなたは私を愛していないのね、とその人に問いつめられたら困るけれども。
コメンテーターとして時々テレビに登場することもある劇作家が日本の近代演劇について語っているのを聞いた。その人によれば、日本の近代演劇は所謂「新劇」に始まるわけだが、歌舞伎や能といった伝統演劇に対するアンチテーゼとして登場した新劇では、「理性」や「論理」に重きが置かれていたという。これはどういうことかというと、例えば新劇の俳優がある台詞を喋るときに、その根拠となるものは彼が演じる役の心理や思想であった。それに対して、その新劇へのアンチテーゼとして登場した「アングラ」「小劇場」演劇では、「情念」や「肉体」を中心とした表現が行われた。アングラや小劇場の俳優がある台詞を喋るとき、そこに論理的な必然性や役の心理といった裏付けがなくても、役者の生理や演劇的な要請に基づけば不可解な行動や絶叫などの台詞回しが可能とされたのである。さて、その次に出てきたのが「静かな演劇」というムーブメントである(この話をした劇作家は、このジャンルに分類されている)。この人達の方法論は「環境」や「関係」を表現の中心に据えているのが最大の特徴だ。この方法の場合、俳優がある役の台詞を喋るのは決してその役の内面的な動機や論理的必然性からではなく、勿論演劇的なエレメントや物語進行上の要請からでもない。彼は、彼の置かれている「環境」(=状況)や相手役との「関係」によってその内容を喋るように促されているのである。こうした考え方を持つ立場からすれば、「新劇」も「アングラ」「小劇場」演劇もともに批判されるべきものとなる。これらは、「静かな演劇」から見ればあまりにも人間の主体性を重用視しすぎなのだ。「人間はそんなに主体的に喋るものではない。」これが彼等の思想の核心である。 ところで、これは演劇という1ジャンルの話に留まることではない。そもそも演劇という営みは世界の根元的な姿をいかに写し取るかということを最大の関心事としているので、不遜な言い方になるが、演劇の表現手法が変化したということは、取りも直さず世界の姿(特にその根本にある構造)そのものが変化したことを意味する。伝統の呪縛から解放された確固とした‘主体’=‘自己’の存在を誰も疑わなかった、そして自己と近代的な価値観(例えば「自由」や「民主主義」「科学的合理主義」)との齟齬を誰も感じずにいられた幸福な時代が去り、その近代合理主義に疑問を呈し、「近代」によって殺されていた人間の内的衝動や生命力を武器に(時にはドラッグの力まで借りて)、世界の変革を目論んだカウンターカルチャーの徒花も散り、消費社会の爛熟の宴の中での朦朧とした理性を頼りの「自分探し」ごっこさえもバブルの崩壊とともに費え去った今、僕達には一体何が残されているのだろうか。演劇が出した一つの仮説が、「人間は、環境や関係に左右されて存在する」というものだったのだ。 今のところ大きな流れとしては一番新しいムーブメントであると思われる「静かな演劇」のこの仮説は、ある種の妥当性を持っていると僕は思う。人間の主体性などというものはある種のお伽噺に過ぎないと思わせることは、自分の日常を振り返ってみればいくらでもあるからだ。回りの雰囲気によって何となく至った結論を、恰も自分が前々から考えていたことであるかのように自らも錯覚していたりするのもその例だ。また、反射的に思ってもいないことを口にしてその場を納めたりするのも、「自分」を欺く行為という側面だけではなく、「環境」によって作られた「自分」の行動だということもできる。偉そうに胸を張って見せびらかせる「自分」など、大抵の人は持ち合わせていないのが実情なのではないだろうか。 とはいえ、人間はなかなか鏡に映った自分の姿を自分であると認めようとしない。「静かな演劇」は1つのムーブメントだが、圧倒的な支持を得ているとまでは言い切れない。それどころか、その舞台は観劇の玄人以外にとっては甚だしく退屈なものだ。劇場にかかる芝居の圧倒的多数は、「主体性」を持った人間が「自分」の考えを「自分」の言葉で語る、極めて「近代的」な構造である。人は「主体性」という夢を舞台や映画、ドラマや小説といった芸術作品の中に求め続けている。それが人間と芸術双方にとって本当にいいことなのかどうかは分からない。けれども、ともかく僕達は世界が理性と論理で動いているという「物語」や、確固とした個人の内面や主張という「主体性」に対する願いにも似た思いにどうしようもなく縛られ続け、結局は解放されることはないのだろう。そしてそれは、「人間はそれほど主体的に話すわけではない」というのが真実であるのとほぼ同じくらいのレベルで、人間の真実の姿に近いと言えるのだ。 ところで、僕はこのサイトをある人から紹介され、与えられた自分のスペースを埋めるために文章を書いているわけだが、それではここに書かれた言葉は、僕が「自己」の主張を表現するために「主体的」に書いたものといえるのだろうか。
この国ではこれまであまり起こらなかったような凶悪犯罪が、ここ数年立て続けに発生している。あまりにもその頻度が高くなっているので僕達の感覚も鈍ってきている程だが、先週末に起きた大阪の小学校での小学生大量殺傷事件は、白昼の学校で幼い児童が襲われ、何人もの犠牲者が出たということで、少なからぬ襲撃を僕達の社会に与えたようだ。この「エンピツ」でも、あの事件について書かれた文章がいくつもアップされていたようである。亡くなったり怪我をしたりした人達に対する同情や労りの気持ち、また犯人に対する怒りや憎しみ等がその主な内容であろう。メディアの取り上げ方も概ねその方向性だ。だが、殺されたり傷付けられたりした子供達が可哀想だとか、犯人を即刻死刑にせよというのは、言ってみれば感情論である。あのような悲惨な事件に対してどんな論理的分析も無力であるという主張も分かるが、これは思考過多の記録である。感情論の殆どは被害者側の視点に立つものだが、小文では敢えて犯人(容疑者)の側に焦点を当てたい。 現時点で報道されている内容から感じられるのは、恐ろしいまでの自己中心・自意識過剰的な彼の生き方・考え方である。それは、自分が気に入らない人や物事に対して執拗なまでの攻撃性を発揮していることにも現れている。彼は中学の卒業文集の自分のページに一切の言葉を書かず、高校中退後は職を転々としている(その中には、「人を殺せるから」という理由で入ったとされる自衛隊も含まれている)。そして、どの職場でもトラブル(殆どが暴力事件だ)を起こして辞めている。何度も結婚しては離婚をし、親しくなった人の養子になったと思えば、間もなくトラブルを起こしてそれを解消する。同僚のお茶に薬を混入する。自分から人間関係を作ってはそれを自分から壊すことの繰り返しだ。周囲とのコミュニケーションがうまくとれず、自分を取り巻く環境と折り合いを付けることもできず、その都度その苛立ちを爆発させていたのがよく分かる。 彼にとっての悲劇は、常に自分を世界の中心に置いておきたいと願っていたにもかかわらず、実際の彼は世界の周辺部の、どこにでもいて他人と交換可能な存在に過ぎなかったことである。学生時代に医者になりたがったり、IQに興味を示したりしたとの報道は、それを裏付けているように思われる。上昇志向と劣等感。彼の苛立ちの最大の原因はこれなのかも知れない。その苛立ちを誰にぶつけても、彼が彼自身である限り、いつまでたっても事態が解決されることはない。だとするなら、必然的に唯一の解決法は‘死’ということになる。それならば何故彼は自殺をしなかったのか。 僕の勝手な解釈はこうである。彼は自分がこの世界から消えるにあたって、どうしても自分の存在を周囲にアピールしておきたかった。あのサカキバラ少年が書いた「透明なボク」の存在を社会に認めさせるという発想と同じように、自分1人がひっそりと世界の片隅から消えていくのではなく、自分の存在を世界から消すことが、逆に自分の存在を際立たせることになるような方法を彼は選んだのだ。恋人への当てつけのために手首を切る人間の心理である。この目的を成就するためには、世界=社会にできるだけ大きな衝撃を与え、自分に衆目が集まるようにし向ける必要があった。その時彼は、初めて世界=社会との関係に置いて絶対的に優位に立つことができる。何故なら、彼のやった行為の衝撃が大きければ大きいほど、彼は世界の中心に立つことができるからだ。彼がこれまでにも多くの罪を犯しながらも少しも反省することもなく、むしろ法律を勉強したり精神障害を騙ったりすることで自分を守る術を身につけようとしていたのも、何をしても咎められないような存在になることで、自分を世界の中心に置きたいという願望の現れだったのかも知れない。そして、出口が見えない状況の中でいつしかブレーキが利かなくなっていったのだろう。 その意味で、彼が小学生を、それも所謂「エリート」校の児童を狙ったというのは象徴的である。彼は自分に(自分が望んだような)未来がないのを知っていた。だから、その全く逆の存在、すなわち前途洋々たる希望に満ちた未来の可能性をたくさん持っている存在である小学生が妬ましかったに違いない。実際彼は何人もの人間の未来を奪い、また多くの人間の将来に暗い影傷を引きずらせることに成功したのだ。そして、そのことによって彼は自分の未来を永遠に殺すことになったのである。
芸能界は華やかな世界である。テレビ・ラジオ・雑誌にWeb等の媒体を賑わし、CDやDVDの音楽や映像の中から様々な「芸能人」(自称・他称‘アーティスト’も多数存在する)のイメージが溢れ出す。極彩色のライトが彼等を照らし、カメラは常に彼等に向けられる。レポーターの差し出すマイクの群れが彼等の言葉を拾おうと、彼等の動きに合わせて波打つ。世間的には彼等の商売は、一般人と同等か一段低い地位のものと見なされている。だが僕は彼等を軽蔑しない。何故なら、彼等は僕達大衆の欲望の集合体となり、いろいろな意味において慰み者にされることを決然と選び取り、日々その役割を完璧に演じきっている人達だからである。その意味で、彼等はまさに「夢を売る商売」人だと言っていいだろう。なんの変哲もない僕達の日常の閉塞感を、彼等の肢体は慰め、時に不満を解消してくれる。また、活力を与えてもくれるだろう。一般社会は芸能界を蔑みながらも、それを強く求めているのだ。しかし、一般社会に夢を与える芸能界は、勿論薔薇色の世界ではない。その内実は、おそらく一般社会を濃縮したようなドロドロの世界である。 知り合いに聞いた話だが、その人の友人で子供の時から歌手になるのが夢だった女性がいたそうだ。彼女は努力して歌などを学び、念願叶って芸能界入りしたそうである。歌唱力はそこそこあったようで、夢だったCDデビューも果たした。だが、勿論それだけではやっていけない。結局彼女はタレントとしては売れなかった。それどころか、芸能界にいる間に神経を患い、引退を余儀なくされたということである。そこで何があったのか、具体的なことは分からない。しかし、芸能人というのは自分があってないようなものだという話もきく。つまり、自分の意思でやっていないにもかかわらず、恰もそれが自分の意思から出た行動・言動であるかのように、また時にはそれが自分の地の性格であるかのように振る舞わなければならなかったりするのだ。もしその人のファンといわれる人達が彼女の寂しそうな顔を望んでいれば、どんなに楽しいことがあっても、カメラが回ったらその顔をしなければならない。現在はそれがもっと巧妙になっていて、「裏の顔」まで演出しなければならなかったりする。そして、殆どの場合、それは事務所の方針であろう。事務所にとっては彼もしくは彼女は列記とした「商品」なので、一番売れそうな状態でいてもらわなければ困るわけだ。ただし、彼もしくは彼女が飽きられてしまった後の替わりの商品を調達できれば、その人の利用価値はなくなってしまう。まさに人間存在そのものを消耗品として扱うわけで、これは精神的・肉体的にボロボロにされて過労死に追いやられるサラリーマンと同じか、考えようによってはそれ以上に酷い世界だ。 また、よくいわれることだが、芸能界には独特の「しがらみ」というものがある。所謂「あの人には逆らえない」というやつだ。それは事務所の力だったり、その芸能人自身がドンとして睨みを利かせるような存在になっていたり、いろいろなケースがある。そんな中、嫌なやつにおべっかを使ったり、実力もないのにドラマの主役に起用された若手より格下の扱いを受けたり、それを妬んだ方が今度はその若手への包囲網を敷いたり、対立している芸能人のどちらに味方する方が得なのかと風向きや顔色を読んだり、過去の異性関係を暴露されたりと、人間が荒んでくるような事態は日常茶飯事のように起きている。なおかつ、そんな状態で彼等は夢を売らなければならない。魑魅魍魎が跋扈する世界を生きていながら、ドラマや映画では普通の人間の生活を感動的に演じなければならないし、恋愛や希望の歌を元気に歌わなければならない。たとえマネージャーやプロデューサーと情事に耽る日常でも、売る側の方針ならば「清純派」のイメージが振りまかれる。そして、芸能界の住人はそれを間近で見聞きしながら、それを当たり前のこととして振る舞わなければならないのだ。こうした事例は、おそらく枚挙に暇がない。並の人間なら精神に何らかの異常を来すだろう。実際、自ら命を絶つする芸能人も結構いる。 政治の浄化という公約を掲げて立候補した議員の候補が、裏では自分の意志に反して当選のために金を使ったりする事務所のやり方に苦悩するという芝居を見たことがある。理想と現実とのギャップは誰しも多かれ少なかれ抱えているものだが(そして、それが生きていくということなのだが)、それが甚だしいと多大なストレスがかかってくる。そして、その人間は壊れていく。それを防ぐためには、その世界からきっぱり足を洗うか、何も感じなくなるように努めて、その世界に完全に順応していく以外に道はない。その意味でも、芸能界の人々は、我々一般人とは違う感性の持ち主であり、どこかが壊れてしまっている人達だと思われる。そして、彼等をそうしてしまった大きな原因の1つは、紛れもなく僕達一般社会の側にあるのだ。 芸能界を引退した僕の知り合いの友人は、その後病も癒えて結婚し、子供も産んで、今では幸せな家庭を築いているそうだ。それもまた彼女の夢だったそうである。
2001年06月02日(土) |
夢の中で現実を見る人間、現実の中で夢を見る人間 |
前にこの日記でも書いたが、夢の実現には気力や根性の類ではどうにもならないことがある。夢はどこか他の想像上の世界で実現させるわけではなく、他でもないこの現実の中で形になっていくものだからだ。夢の現実化のためには適切な戦略が求められる。その意味では、本気で夢を実現したいと思っている人間こそが最もクールな現実主義者なのである。もしそうでなければ、夢は夢のまま終わってしまい、ついにはこの現実世界に姿を現すことができずに潰え去る。勿論、彼はそれを潔しとはしない。 一方、現実に生きながら夢を棄てられない人間もいる。夢の実現のための戦略が立たず、またその実力もないために、現実を生きるのに精一杯になってしまうのだ。にもかかわらず、いつかはその夢が現実になることを願い、後生大事に抱えている。それこそが自分の存在意義であると信じることで、自分の置かれた現実の辛さを何とか帳消しにするためだ。そして、自分の現実を犯さない範囲で(ということはつまり、その人間の能力の範囲内で)それを実現しようとする。結果としてできあがったものは彼の夢からは程遠いが、彼はそれで満足するしかないことをよく知っている。 残念ながら僕は明らかに後者の種族にはいる。だが、一つだけ違うのは、夢を現実化する能力を持たないのに、その能力を持った人達と組もうとすることだ。僕は自分の分相応のものを作るだけでは満足できない。それは自分が目指すものとは違うし、それで満足することは、とりもなおさず現在の自分の能力の限界を認めてしまうことになるからだ。諦めが悪いと言われればそれまでだし、単なる見栄っ張りだと指摘されれば返す言葉もない。虫のいい「いいとこ取り」との批判も甘んじて受けよう。しかし、僕のやっていることは間違っているだろうか。僕はただ辛い日常という現実から逃れるために夢を抱えているだけの存在なのだろうか。 けれども、僕の望みを実現しようとすれば、不可避的に夢を現実化しようとする人達の足を引っ張ることになる。そういうことに対して、現実主義者である彼等は非情である。彼等の判断基準はただ一つ、自分の夢の実現にとって有意義であるか否かである。勿論、彼等を責めるわけにはいかない。それは誰が見ても真っ当な判断であり、間違えているのは僕の方である。他人の夢の実現に対して障害になるようなことは慎まなければならないだろう。 けれども僕は、本当は彼等と共に歩みたかったのだ。そして、彼等と同じレベルのものを作っていた筈だ。もし自分に力があれば、そしてもっと多くの時間が残されていたなら、僕は間違いなくそうしているだろう。現実を幻だと自分に言い聞かせるために夢を見るつもりなどさらさらないのだ。 けれども、現実はそうではない。悔しいけれど、これが現実なのだ。 夢を諦め、夢を追うことからきれいさっぱり足を洗って、現実の中に生きている人達も多い。それも僕よりかなり若い人間達がである。けれども僕はそこまで潔くはない。これが僕にとっての「第3の現実主義」である。
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