アナウンサー日記
DiaryINDEXpastwill


2001年02月28日(水) 麻酔が効かない!!

 前歯に穴が開いた。虫歯である。


 正確に言うと、上あごの前歯の中央部分の2枚・・・よくエビフライのシッポに例えられる部分・・・歯科学的にいうところの「1番」の歯の、自分にとって左側、ヒトから向かって右側の歯の裏側に、米粒大の穴が開いた。

 もちろん、一夜にして開いたわけではない。思い起こせば去年の正月頃から、だんだん歯と歯の隙間が少し大きくなり、やがて徐々にその隙間が穴となって一年がかりで勢力を広げたわけだ。

 ただ、穴が開いていても全然痛みはなかったし目立たない場所だったので、そのうち痛みだしたら歯医者に行こうと思い、これまでほうっておいたのだった。
 

 痛みは、昨夜突然襲ってきた。きょう28日が休みだったので、ちょっぴり夜更かししてHPの更新作業をしようと思い立った矢先・・・「ズキーン!!」という衝撃がワタシの上あごを打ち抜いた。それからはもうひたすら痛い。何をしても痛い。ツバを飲んでも痛いくらいだ。ついに、歯医者に行くときが来たのだ。


 翌日、佐賀に転勤する6〜7年前にかかりつけだった歯科医に電話。「うちは予約制です」と冷やかな受付の女性に頼み込み、午後いちで入る。飛び込みなので1時間半ほど待たされ、診察ベッドに横たわる。

 事前診察でワタシの虫歯を見た歯科衛生士の女性は、「うわーこりゃすごい虫歯ですねー。もう神経とるしかないですね!」とひと言。

 先生が来て、まずは麻酔注射。唇などを中心にじわじわしびれてくる。先生が他の患者を見ている間に、歯科衛生士さんが歯の洗浄・・・い、痛い!「あれーおかしいなー麻酔効いてないみたい・・・先生にもう一本うってもらいましょうねー」

 戻ってきた先生が追加の麻酔注射。「もう痛くないですよー」と言いつつ電気ドリルで「キュイーン」・・・い、い、痛い! 慌てて挙げた右手が先生の頭に当たる。「あれ?痛いですか?じゃあもう一本打ちます・・・はい、これでよし。いきますよ・・・」・・・・・・・・い、い、い、い、痛い痛い痛い!!! 今度は先生の頭に当たらないよう左手を一生懸命挙げてアピールする。

 「もう神経見えるとこまで削っちゃってるんですよ。これ以上麻酔打っても・・・うーん。では直接神経に麻酔打ちますから。それで絶対効きます。ちょっとチクってきますけど、我慢してください」



 思えばワタシは麻酔が非常に効きにくい体質らしく、19才の時には麻酔注射を5本打っても効果がなく、ついに麻酔が効かない状態で治療をしたことがあった。そう言えばあのときも前歯だった・・・普段滅多に泣かないワタシの両目からポロポロ涙がこぼれたっけ。



 それにしても、神経に直接打つ・・・そのコトバの響きの恐ろしさ・・・そして、「チクっ」どころではないその痛みのハードさは、筆舌に尽くしがたいものだったと、ここに記しておこう。



 追伸。先生のおっしゃった通り、その後はほとんど痛み無く治療は終わった。だが、麻酔が切れた後、治療した箇所がずきずきと痛むのはいたし方のないことか・・・。


 


2001年02月27日(火) 日記再開の辞

 10日ぶりの日記である。ここ数日、HPに書きたいこと、やりたいことが多すぎてアレコレ考えてしまい、逆に更新作業に手がつかない・・・という、本末転倒な日々を過ごしていた。とりあえず、考える前にまず手を動かさないとなにも始まらないと言う至極当然のことに気づいたので、きょうから日記だけでも再開しようと思う。とりあえずそれだけ。


2001年02月18日(日) 風呂が壊れた・・・

 風呂が壊れた。
 

 我が家は、築ウン十年の団地なので、シャワーなどという近代的な代物はない。昔ながらに湯船に水を張って沸かすのだ。水道の出が何だか悪いので、まず水を貯めるのに20〜30分。そして沸かすのに冬だと1時間はかかる。このスピード時代に、風呂に入るまで1時間半もかかるわけだが、それでも入れないよりはずっと良い。


 だが、今日入れなくなった。風呂釜が壊れたのだ。種火は付くのだが、本格的な点火はしない(うーん、何だか変な表現だ)。現在の団地に移り住んでもうすぐ2年だが、壊れたのはこれで2回目である。

 ワタシたち家族は、毎日風呂に入り、髪を洗う習慣があるので、たとえ一日たりとも風呂をかかすことは考えられない。


 そこで、台所で髪を洗うことにした。まずは代表して一家の主のワタシから。湯沸し器を使い、ガシガシ頭を洗いながら、シャンプーを飛ばさないように結構気を使う。洗いながら、そう言えばかつてのワタシの憧れのお姫様・南野陽子さんも、駆け出しの頃、寮にシャワーがなくて台所で洗髪した時期があった・・・というエピソードを思い出し、嬉しくなる(←バカ)。最後に、固く絞った濡れタオルで体を拭き、フィニッシュ。さっぱり。


 
 明日から、2泊3日で久しぶりの東京だ。楽しみ楽しみ。

 


2001年02月17日(土) 猫を、はねた。

 今日は休みだったので、佐賀県で行われている高校ラグビー新人戦の九州大会を見に行った。その帰り道のこと。

 真っ暗な国道を走っていた私の車のヘッドライトに、いきなり白い影が飛び込んできた。妻が悲鳴を上げると同時に急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。瞬間、嫌な感触を右のフロントタイヤに感じ、遠ざかっていく後ろをバックミラーで見ると、道路の真ん中に小さな白い塊が見えた。


 猫をはねてしまったのだ。


 私はこれまで、猫がはねられるのを何度も目撃し、その度、助けあげたり、お墓を作ってやったりした。いつだったかは、はねられた子猫が血を吐きながら腕の中で死んでしまうのを看取ったこともある。

 だが、一方でいつかは自分が猫をはねてしまうときがくることを確信していた。
ドライバーなら分かっていただけると思うが、道路に飛び出してくる猫をよけるのは、まず不可能だ。どんなに注意して運転していても、猫はまるでヘッドライトに吸い寄せられるかのように車の直前に飛び出してくるし、自分に近づいてくるものを立ち止まってじーっと見てしまう習性が猫にはあるからだ。


 それでも、もしはねてしまったら、最善はつくそうと思っていた。


 Uターンして引き返し、反対車線の路肩に車を停めた。向こう側の車線に横たわっている猫は、全然動かない。多分もう、だめだろう。土曜日の夜8時を過ぎていたがまだまだ交通量は多い。車たちは道路の真ん中の猫を避けながら通りすぎていく。車の列が途切れず国道をなかなか渡れずにいると、一台の白いワゴン車が、勢いよく猫を跳ね飛ばした。猫の体は鈍い音をたてて10メートルも吹っ飛ばされ、アスファルトに落ちた。

 ほどなく車の列が途切れ、道路を横切って猫を抱き上げると、見かけはまったく傷の無いきれいな状態だった。白地に黒と茶のブチが少し入った大人の猫だ。首輪をしていないし、ガサガサした毛並みから見て、多分ノラネコだろう。まだあたたかい体を路肩まで運んで下ろしてやると、右前足が折れていることに気づいた。色々なことが頭をよぎる。「あのワゴンにはねられる前は、まだ息があったかもしれない」「いや、もうすでに息はなかったのだ」「こんな車通りが多いところをなぜ渡るんだろう」「もし飼い主がいるなら、こんな危ないところで何故放し飼いにするのか」「どこに行こうとしていたんだろう」「この猫の帰りを待っているひとか、あるいは猫はいたんだろうか」・・・そして、「ごめん」。


 結局私は、路肩の亡骸に手を合わせ、その場を立ち去ることにした。どこか景色のいいところに埋めてやることも考えたが、やめた。彼は(彼女は?)多分ノラネコだと思うが、もし飼い主がいるとしたら・・・そしてもし私が飼い主だったとしたら、やはり自分で墓を作ってやりたいと思うからだ。それはとても残酷なことだが、私にはほかにどうしようもなかった。


 自宅に戻り、家の片隅に盛り塩をして、小さい茶碗に水をそそぎ、私と妻と娘の家族3人でもう一度手を合わせた。今度生まれてくるときは、きっと長生きして、猫の寿命をまっとうしてほしい・・・。これは感傷だろうか。いや、命の重さ尊さに、人間も猫も、いささかも違いはないのだ。そして、ニコニコ笑って手を合わせるまだ赤ん坊の娘には、命の大切さを知る人間に育ってほしいと、心から願う。
 


2001年02月16日(金) 父ちゃま

 「父ちゃま」は、私の母方のおじさんの愛称である。母の長姉の夫だから、血のつながりはない。父ちゃまは母の実家の平戸島の人である。一代で、自営のスーパーと魚などの卸売業を発展、成功させたパワフルなひとだ。

 父ちゃまは、古き良き日本人の、典型的な頑固親父の拳骨親父だった。怒らせるととても怖いひとだったし実際よく怒るひとだったので、みんないつも顔色をうかがっているような感じだったが、それ以上にリーダーシップと気風の良さで大変な尊敬も集めていた。だが、子供のころ夏休みのたびに平戸に帰省していた私と姉は、とても可愛がってもらっていた記憶がある(怒鳴られた記憶もありますが・・・)。

 その父ちゃまが、先週亡くなった。81才だったそうだ。

 頑固親父の父ちゃまも、経営を息子たちに譲り隠居したあとは、ただただ孫を可愛がる好いおじいさんになったということだ。父ちゃまは、新聞などで私がテレビに出る日をしっかりチェックしていて、私がテレビに映ると家族を大声で呼んだということだ。そんなこと、父ちゃまが亡くなるまで知らなかった。

 父ちゃまとは、もう何年も会っていないので、私は父ちゃまの晩年を知らない。
私の記憶の中では、父ちゃまは、頭に豆絞りを巻き、腰までのゴム長を履いて、赤ら顔で何か怒鳴っている、あの日の父ちゃまだ。

 ずうっとあの日の、頑固親父の、元気なままの父ちゃまなのだ。

 
 


2001年02月13日(火) お茶漬けも好きなんだ

 ワタシが日本人に生まれて良かった理由ベスト10のひとつが、お茶漬けを食べられることである。


 お茶漬けの好みは人によって色々あろうが、ワタシのフェイバリットは、お茶碗に少なめに盛った白飯に、濃い目に出した玄米茶をたっぷりと注ぐ、もっともプレーンなタイプだ。漬物を箸休めに、はふはふ言いながら食べる。もう最高である。

 そうするうちに先にお茶だけ無くなってしまうので、新たに玄米茶を注ぐ。すると、さっきまで白くにごっていたお茶漬けが、鮮やかなグリーンに染まる。なんと美しい・・・これぞ、日本伝統の美である。


 杉浦日向子さんの著書によると、この食べ方は江戸時代の夕食の基本であったらしい。江戸時代の人々は、昼にたっぷりとご飯を食べ、夜はあっさりと済ませたそうである。


 現代の村山君は、夕食の「シメ」でお茶漬けを食べることが多い。これもまたあきらかに体重増加の原因のひとつだが(お茶漬けっておなかいっぱいでも食べられますから・・・)、今夜もきっとお茶漬けしてしまうだろう。

 さて、たまには塩辛をトッピングしてみようか、それともなめたけ、梅干・・・つまみは白菜の一夜漬けでシャキシャキ感を楽しむとしよう。ああ、シアワセ。日本人に生まれてよかった。


2001年02月12日(月) 親ばかイラストその2

 はい。めでたく13日で1才6ヶ月になる、うちのお姫様です。お暇な方はトップからどうぞ。

 はっきり言って、まだ手直し中。まだちょっと雑な感じであります。
 前回と同じく、ピグマ(極細のサインペン)で描いた線画をスキャナで取り込み、ウィンドウズ標準ソフトの「ペイント」で修正アンド色付けをしています。この作業はアニメのセル画塗ってるみたいで結構楽しい。しかし・・・ここにきて、マウスの限界を感じ始めたワタシ・・・やっぱりタブレット買っちゃおうかなー。どしよかなー。フラッシュもやってみたいなー。夢はひろがるなー。その前にとりあえずこの日記を毎日書かなきゃなー。

 きょうの日記は、本当にひとりごとのようになってしまった・・・。

 でも日記書き始めて、ワタシってラジオで喋ってないことがたくさんあるんだなーと、改めて気づきました。毎週3回、3時間もしゃべってんのに(爆)。


2001年02月10日(土) 無名なワタシ(笑)

 こういっちゃ何だが、ワタシは長崎のアナウンサーの中では顔が売れてないほうだと思う(爆)。


 ワタシの仕事がラジオ中心だからだろう。これでも週に何度かは、短い時間ながらテレビに映ったりもしているのだが、「お茶の間の顔」として定着するためには、やっぱりテレビの帯番組に出ないとだめだ。NBCで言えば「アップル・トゥデイ」とか「報道センターNBC」とか・・・。

 かと言って、それらの番組に出たいとは全然思わない(お呼びもかからないけど・・・笑)。ワタシには、はっきり言って「有名になりたい」という欲望はほとんどない。じゃあなんでアナウンサーやってんの?と言われそうだが、それはこの仕事が面白いからだ。別に有名になりたいからではない。まあ、有名になりたくてアナウンサーになっちゃったヒトなんて、限りなくゼロに近いと思いますけど・・・なかにはいるか(笑)。

 なぜ有名になりたくないかというと、一般市民の平穏な生活を失いたくないから。これに尽きる。いつもいつも、四六時中、周囲の視線を気にしながら生きていくなんて、ワタシには無理だ。ワタシは、普通のパパとして家族と一緒に買物を楽しみたいし、時には、きれいなお姉さんがたくさん載っている雑誌を立ち読みしたりもしたいのである(爆)。


 あと、無名でいるほうが、色々と気づくこともある。


 きょう長崎駅前で行われていた新車の展示会で、べたべた車を触ったり、シートに座ったりしていたら、若手セールスマンがじーっとワタシの顔を見て、「長崎市内の方ですか?」とさわやかに声をかけた。非常に感じの良い笑顔の青年だ。当然、ワタシの素性には気づいていない。

 これですよ、これ。こっちがマスコミの人間だって分かると、態度が変わるヒト結構多いですからねえ。こちらの素性に気づかずに親切な対応をしてくれるお店は、スポンサーじゃなくても、ついついラジオで喋っちゃうもんね。実名入りで。一方、感じ悪い店は・・・さすがに電波使って仕返しなんてしませんけど・・・仲間内では「あの店、行かないほうがいいぜ」って言いますよん。でも、こんな噂はすぐに広がる。特にマスコミのネットワークは侮れないのダ・・・。


 結局、結論としては、「客を見て態度を変える店」はいつか滅び、「どんな客でも心からもてなす店」はいつか陽の目を見る・・・という当たり前のことでしょうか。あれ?いつのまにか話がずれた(笑)。


2001年02月07日(水) 杉浦日向子さんと座談会!ほか

 いやー。感激でした。
 ワタシは、はっきり言って、単なる一ファンになっとりました・・・。
 詳しくは近日中にリポートにまとめますが(今日はトップ絵更新で時間切れ・・・爆)、杉浦先生、とっても気さくないい方でした!

 ところでトップのウチのお姫様はいかがでしょうか。めずらしく可愛い写真がとれたんで、いつか絵にするぞ・・・とねらっていたのです。

 今後、親ばかイラストが増えそうな予感・・・。

 さ、ふろ入ろ。
 
 
 今、2月8日の午前2時・・・もちろん村山家は全員起きてマス。


2001年02月04日(日) ラジオとテレビ その4 ラグビー中継

 きょう、高校ラグビー新人戦決勝「長崎南山×長崎北陽台」のラジオ実況をした。この試合、去年まではテレビで中継をしていたが、今年は諸事情によりテレビはなし。それじゃラジオでやろうじゃないの、ということで先月末、急遽ラジオ中継が決まったのだ。正直なところ、アナウンサーにとって真にやりがいを感じるのはラジオだ。しかも、ラグビーのラジオ中継は難しい。相手にとって不足なし、ますます燃えるというもの。

 でも、急なことでスポンサーも無く、当然予算はなし。なるべく低予算、少人数でがんばらないといけない。結果、アナウンサー1人(ワタシ)・技術1人(イワモト)のミニマム体制でラジオカーに乗り込み、決勝当日の朝、会場の佐世保市東部スポーツ広場に向かったのだ。試合開始は午後1時、録音した実況を午後4時から「スポーツサンデー」枠でオンエアというタイムスケジュール。

 午前10時半すぎ、現地につくと本格的な雨ふり。一向にやむ気配なし。ワタシとイワモト氏は黙々とカッパに着替え、ずぶぬれになりながら機材のセッティングを行う。足元はぬかるんでいる。それにしても寒い・・・滅茶苦茶寒い。手がかじかんでマイクの延長コードを結んでいる紐をほどけず、苦労する。風も強く、ヘッドセットマイクが入った箱が飛ばされ、慌てて拾う。もう散々。それでも、30分もかからずに長机2台分の機材・・・ミキサー、無線機、集音マイク2本その他のセッティングを終える。このあたり、毎週「引越しラジオ」で中継をしているので手馴れたものだ。(準備はほとんどイワモト氏がやりましたが)

 正午。ベテラン解説者・深堀徹也さん来場。カッパ持参、さすがである。キックオフを前にヒトも増える。テレビ中継がないと分かり、がっかりする生徒・教師多数。「ラジオで、しかも録音かー」という教師の声にちょっぴり傷つく。しかし「すみませんねー。でも、クロウトはラジオですよ」と返すワタシ・・・なんのこっちゃ・・・。でも、「帰りの車で聞きます!」と目を輝かせた一部生徒のためにガンバローと思うワタシ。ああ、けなげ・・・。

 午後一時すぎ。キックオフ。実況開始。天候は依然として最悪。強い雨と風が本部テント下の実況席にも入ってくる。気象台の発表では気温6.9度だが、体感温度は限りなく氷点下に近い。手がかじかんでメモをとれない。口がこわばって動かない。長靴の靴底からしびれるような冷たさが伝わってくる。選手たちの背番号はあっという間に泥に隠れる。テントに溜まった大量の雨水が、時折音を立てて実況席に落ちてくる。それを解説の深堀さんが雑巾でぬぐう。深堀さんに頭を下げながら、もうこうなると笑うしかない・・・。中継は何度もやったが、ここまでバッドコンディションなことは滅多に無い。

 午後2時すぎ。試合終了。前半14対7のリードで折り返した南山が、後半はノートライに押さえられ、逆転負け。長崎北陽台が平成6年以来久々の優勝を果たした。スタジオ電波受け担当の早田Dの指示により、2分間のオンエア用インタビューおよびエンディングトークを録音して、実況もノーサイド。後は撤収・・・これがまたつらかった・・・。

 4時からのオンエアは、早田Dの的確な判断もあって、ばっちり終了。ちょうどエンディング放送中にスタジオに帰りつき、オンエアにも立ち会うことができた。


 今回、アナ1人・技術1人・スタジオディレクター1人のミニマム体制だったが、実況の内容はさておき(?)、ノイズと実況のバランスなどの音作りも含め、なかなかイイモノを作ることができたと思う。また、時間の都合により、後半部分のみをオンエアしたが、結果的に飽きさせない長さだったのではないかと考えている。今後の参考にしたい。


 ・・・きょうの日記は、なんだか社内向けの報告書みたいになってしまった・・・この文章、そのうちもうちょっと推敲して、写真入で独立させマス・・・。

 


2001年02月02日(金) Shall We Dance?

 テレビで映画「Shall We Dance?」を見た。


 映画館でも見たし、テレビで放映されるたびに見ているので、もう何回見たかわからないほどだが、見るたびに感動させられる。まあ細かいことを言うとちょこちょこあるけど、そんな少しばかりのアラを忘れさせてしまうほどの素晴らしいストーリーと映像、スピード感だと思う。


 劇中、杉山さん(役所広司)が「踊ったことがない奴に気持ちがわかるもんか」と、口さがない会社の同僚たちを一喝するシーンがある。

 恥ずかしながら、ワタシも大学時代にミュージカルをやっていて、杉山さん以上にダンスには苦労させられたので(はっきり言ってつらい思い出デス・・・クラブで一番下手だった自信アリ)、そのセリフが一際胸に響いた。

 そう。ダンスは、ある程度の年齢になってからはじめると、とても難しいし、なんだか恥ずかしい。そしてきつい! ワタシがやっていたのはジャズダンス系だが、例えば30分間踊り続けるということは、30分間グルグル腕を振り回しながらマラソンを続けるようなもので・・・多分、やったことがないヒトには想像を絶する世界だ。そのくせ、基本的にダンサーは、疲労を表情に出しちゃいけない訳で。見た目と違って、ナンパな世界じゃないということデスヨ。



 この映画は様々なメッセージを投げかけてくれる。
 ワタシは、「人間いざ心を裸にすれば、必ずどこかに自分を分かってくれる仲間たちが現れる」ということを教えてもらったような気がする。


 アナタのハートには何が残りましたか?・・・なーんてね。

   

 あ、ちなみに役所さんの似顔絵ありますから、みてくださいねー(違う映画ですけど)。


2001年02月01日(木) アニメや漫画は子供向け?

 局内では、「アニメや漫画の話なら村山くん」と思っているヒトがどうにも多いようだ。多分新人の頃、一個上の林田ANなんかとそうゆうラジオ番組を作ってたイメージが、よっぽど強いんだと思う。

 今日も某先輩アナから「村山くんタイムレンジャーの主題歌教えて」と聞かれ、「知りません」と応えたら、「だって仮面ライダーのこととか詳しいんでしょ?」と、とても意外そうな顔をされた。

 「仮面ライダー」と「タイムレンジャー」は随分違う。

 かたや「ウルトラマン」と並び称される、1億日本国民全員が見た経験があるといっても過言ではない、ゴールデンタイムに放送された日本特撮界の古典中の名作。かたや子供たちのテレビ離れが進む深刻な状況の中、東映や円谷の特撮ドラマを見て育った若きスタッフが作った、早朝放送の現在進行形の作品。全然違うのだ。そして、残念なことにワタシは、最近の特撮作品をさっぱり見ていない。つまり「タイムレンジャー」も「仮面ライダークウガ」も「ウルトラマンガイア」も全然語ることが出来ないのだ。

 だが、そもそもアニメや漫画、特撮に普段まったく興味が無い人々は、「ウルトラマン」も「タイムレンジャー」も、ついでにいうと「お邪魔女ドレミしゃーぷ」も「エヴァンゲリオン」も「少年ジャンプ」も「りぼん」も全部、並列の関係なのである。そして、ひとたび「あいつはアニメとかが好き」と決め付けられると、「そいつ」は、あらゆるオタクっぽいことに精通していることになってしまうのだ。そこにはなんだか一種差別めいた、また、そーゆーヒトを一段低く見ているような気配を感じるときすらある。

 これは全くおかしな認識である。

 まず、「アニメ」「漫画」「特撮」のそれぞれが表現方法として大きく異なるというのはもちろんのこと。

 そして、「映画」や「文学」をひとくくりで考えてはいけないように、アニメ・漫画・特撮についても、それぞれの作品単位で認識すべきだということだ。よくいう「映画ファン」にしても、手当たり次第に上映中の作品を全部見るヒトはよっぽど特殊なヒトで、普通はなにか趣味嗜好があるはずだ。読書にしてもそう。よっぽどの本好きでも、ベストセラーから幼年童話、エログロまでバランスよく読んでるヒトはそうそういないだろう。さらに言えば、小説に芥川賞をとるような作品もあれば、スポーツ新聞のエロ小説、インターネットのアマチュア小説と様々あるように、アニメ・漫画・特撮についても同じことが言えるのだ。つまり、表現媒体がなんであれ、ジュッパヒトカラゲは大きな間違いなのである。大体、アニメ・漫画・特撮の日本における黎明期はとっくの昔に終わっているのだ。


 なぜこんな簡単なことが世の中の常識となっていないのか、ワタシは非常に理解に苦しむところである。


 誤解を恐れずに言えば、ワタシはあらゆる表現媒体の中で、一番才能を要求されるのは間違いなく漫画家だと思う。漫画家は、小説家よりも映画監督よりも画家よりも、アーティストとして絶対上である。(ジュッパヒトカラゲはダメと言いながら、一方でこの発言・・・理由はまたいつか述べるつもりデス・・・)


 近年、これまでの表現手段すべてを内包して登場した、パソコンによる個人作業は、今のところまだまだ発展段階だと思っている。

 


メインページへ→ |HomePage

My追加