- 2012年10月06日(土) 被災者の心のケアに取り組む専門家を追ったNHKの番組を見た。 トラウマから本当の意味で立ち直るには言葉にして語ることなんだそうだ。 時間が経って生々しいショック状態から抜け出しつつあるときに辛い記憶を掘り起こす作業に難色を示す人も、当事者・親族ともに少なくないそうだが、だからと言って蓋をしてしまうと、そこで止まってしまうのだと言う。 わたしにとってのトラウマは学のことだが、確かにそれは言えてるな、とは思う。 普段のわたしは、まるで学のことなんか忘れたみたいにのほほんと生活している。 記憶の上に、時間という名の強固な蓋ができている。 この蓋は、これからさらに分厚く、重たいものになっていくんだろう。 けれど中の膿は、ぐちゃぐちゃのまま。 身体の傷と心の傷は、まったく同じなのだという。 膿だらけになった部分を、切り落とす必要がある、と、その専門家は言っていた。 重たいものをぶら下げたまま動き回るのではなく、切り落とすのだ、と。 そんなことが、可能なんだろうか? 震災で大切な人を失った人の中には、自責の念に駆られている人がたくさんいるはずだ。 しかし第三者から見れば、それらの中にはきっと、人の力でどうにかなるものではなかったことも、たくさんあるだろう。 本当の意味での不可抗力。 自分の身に置き換えてみて思うのだ。 わたしは、違うよね?と。 わたしは違うんだ。 あの瞬間のわたしは、むしろ積極的に、彼の背中を押したじゃないか。 やはりどうあがいても、わたしが彼を殺したことは、疑いようがないのだ。 だから、わたしが救われる筋合いはない、わたしは記憶とともにこれからも苦しみ続けるべきなんだというのが自分の中での結論めいたものになりつつある。 さっきの専門家が、手元の文房具を使って 「自分の心」と「重し」を切り離すイメージを示している映像が浮かんでくる。 切り離せば、心は軽くなる。 自由に動ける。 わかりやすい。 わたしも本当は切り離したい? 学から、自由になりたい? それを許さない自分もいるんである。 わたしは彼女から、泣くことを許されていない。 泣くという行為はこの場合、自己愛、自分かわいさからくるもので、学を殺したわたしには、そのような動機で涙を流し、何がしかの解放感やカタルシスを得るなどという自己本位的な行動はあり得ないものである。 自己の生が続く限りは、学の苦しみや孤独、絶望に寄り添い、苦しみ続けるべきである。 そういうふうに考えている。 しかし、そうすれば、学は戻ってきてくれるのか? 学が帰らないという事実がある限り、わたしの悔恨も自責の念も、やはり自己満足以上の何物でもない。 何も変わらないのだ。 いくらわたしが反省しようと。 ならばわたしは、解放されてもよいのではないか? 学は、戻ってこないのだ。 -
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