日記...マママ

 

 

- 2010年05月20日(木)

教室に新しい問い合わせが続々と入る。
子ども手当すごいなあ。
冗談抜きでそのうち日本滅びるやろ、これ…。




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- 2010年05月14日(金)

陽一君からのメールが届き、何気ない雑談がぽつりぽつりと続き、自分のダメージが予想以上に深いことを自覚する。感情がこぼれ出さないように蓋をしている。毎日忙しく、わたしは物思いにふけっている暇がない。そして非常に眠りが浅く、日中は一日中ひどい眠気が続く。これでよかったのか?と自問する。よかったのかどうかは、今はまだわからない。けれどもよかったと言える結果にしなければならないと思っている。必要な別れだったと思う。陽一君のことを考えると涙がこぼれる。何も考えられなくなる。好き。すきすきすきすき。ずっとそばにいて、そばにいてそばにいてそばにいて。すきすきすきすきすきはなれないでそばにいてはなれないでそばにいてそばにいてそばにいてそばにいてそばにいて。あなたが悲しむのはわたしは耐えられない。ずっと笑っていて。笑ってしあわせでいて楽しくすごしていてほしい。本当にこれでよかったのか?大切な人を傷つけて何が「幸せ」だ。そんな幸せなんかうそっぱちだ。

でも本当は、そうではないことをわたしは知っている。
幸せはひとつじゃなくて、新しくてまだ知らない幸せがどこかにある。
それはわたしにとってだけではなく、陽一君にとっても。
「これでもう最後なんだろう」と思っていても、また次はあるんだよ。
だから前に進もうと思う。


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「五等」の価値 - 2010年05月05日(水)

小学3年生の頃、読書感想文のために「わたし、五等になりたい!」という物語を読んだ。
足に後天性の障害を負った律子という女の子のお話で、彼女は、運動会のかけっこでいつもびりなんだけれども、次こそはびりではなくそのひとつ上の「五等」になりたい、と作文に書く。
結果として彼女はやはり最下位だったのだが、障害への無理解からかつて彼女をいじめていた子や他のクラスメイト、苦悩を重ねてきた両親、かかりつけの主治医、担任の先生らのあたたかい声援に包まれながら最後まで走りきり、テープを切るシーンで物語は終わっている。

たぶん大人になっても覚えているセリフって本当のセリフだと思うのだけど、この本の中でわたしが覚えている場面とセリフ。

・足のことで何事にも意欲を失い、思いつめた母親との関係もぎくしゃくしていた律子に、主治医の先生(人情派)がある日病室で「ほれ、ここまで来てみろ!律子!」と、自由に歩けない律子を挑発するかのようにからかい、やっとのことでたどり着いた律子が「先生のばか!いじわる!」とわんわん泣くのをしっかりと抱きしめて「そうだ、律子。悔しいよな。悔しいときは思いっきり泣いていいんだぞ。思いっきり泣いて、そして、すっきりしたらまた(リハビリを)がんばろう。先生と一緒にな」とかそういうあたたかい言葉をかけるのだけど、実は、先生も目に障害を持つ人で、だからこそ障害者の生きづらさを誰よりもよく理解してやれる存在だったのだ、というくだり。

・学校でいじめられているのを誰にも言えずにいた律子を、思いつめるあまり母親がついしかりつけてしまうのだけど、それに対して父親が放つ一言「いじめられていることを話すのがどんなにつらいことが、わからないのか!」そして母の反論「何よ!あなただって仕事仕事で、わたしや律子がどんなに辛い思いをしているのか、どれだけわかってるっていうの?!」そしてその言い争いを子ども部屋の布団の中で泣きながら聞いている律子。

・「アメリカでは『ハンデ』ということばがあります。障害を持つ人には最初から少し進んだところからスタートするなどの『ハンデ』を与えて、みんなが平等にスポーツを楽しめるよう工夫しています」との帰国子女(ハーフだったかも)の発言。


ところで巻末の解説文を読んでいて、当時のわたしはどうにも腑に落ちなかった。

『あなたは、はじめにタイトルを読んでふしぎに感じませんでしたか?ふつうは「わたし、一等になりたい!」なのではないでしょうか。どうして「五等」なのだろう、とは思いませんでしたか?』

まったく思わなかった。
物語とは常に何らかの意外性を孕んでいるもので、ましてや読書感想文の課題として選ばれるような物語に普通の子の普通の日常生活が描かれているわけはないのだし、「五等」という数字の持つ意味など読めば自然とわかるに違いないのだし、実際もうわかったのだからいいじゃないか、と、まあそのときは子どもだからそこまではっきりとは考えなかったけれども、あえて言葉にするとしたらそういうようなことを思った。

ていうか、子どもなら当たり前のように「一等」を願わないといけないのだろうか、わたしだってかけっこで一等を取ったことは一度もないが、別にそれで傷ついたり悲しんだりしたことはなく、まあわたしの能力ならそんなもんだと思っていたわけで、このタイトルに何ら疑念を抱かない自分の感受性は異端であると否定されたような気がして、そっちのほうにむしろ子ども心に傷ついたのを覚えている。

大人が子どもの気持ちを推し量るときに、かように思い込みや先入観が邪魔をすることが大いにありえるのだということを常に肝に銘じておかなければならない。子ども相手でなくとも同じだ。


なぜこの本のことを思い出したのかというと、弟が今日、近所をランニングしてきたが久しぶりで疲れたとかそういう話をしていて、そういえば小さい頃から足速かったよねー、運動会でもリレーのアンカーで3人抜きとかしてすごかったよねー、わたしは違うけど、とかそういう話をしたからだ。あのごぼう抜きのシーンは今でもよく覚えているが、弟は小6のとき、運動会で団対抗リレーのアンカーに選ばれたのだ。緑色の団旗を掲げた弟は小学生離れした脚力であっという間に4位から1位になり、そのままテープを切った。せまい運動場があふれんばかりの歓声に沸いた。わたしは唖然とした。リレーの選手に選ばれたことすら一度もないわたしとは大違いである。自分の身内にこんなに足の速い人がいるとは知らなかった。でもまあ、彼は彼で、わたしはわたしである。

だからなんだ、というわけでもないが、とりあえずそんなことを今日思い出した。



会わないでいればそのまま忘れられるのかもしれない、と思っていたけれど、会うとやっぱり押さえ込んでいた感情がいろいろ出て来て、今日はなんだかぼんやりしている。いつも、わたしの勝手で振り回してばかりだ。虫のいいことを言っているのはわかっているが、どうか、新しい幸せを見つけてほしい。互いにこんなに辛い思いをして別れたのだから、わたしは絶対に幸せになるし、どうかあなたも。


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