日記...マママ

 

 

「コインロッカー・ベイビーズ」 - 2009年03月21日(土)

年明けから仕事絡みで余裕をなくし張り詰めていた神経を一度しっかりと休ませ、生活のリズムを立て直す必要に駆られていた。
そのために、この連休は絶対にひとりで過ごさなければいけなかった。

「コインロッカー・ベイビーズ」を読んだ。
近所の古本屋で、上下巻セットで200円で売られていたのを先日たまたま見つけて安いなあと思って買って、しばらくそのままにしていた。
前も書いたような気がするけど村上龍本人は好きではない。
高校のころ嫌いだった人種(なんていうか、温室育ちのただのマザコンなのは誰の目にも明らかなのに懸命にワルな自分をアッピールして目立ちたがる人、みたいな…)と直感的に同じ匂いがするというのもあるし、無用に多くの人を敵をしてしまいがちな薄っぺらなことを賢しげにべらべら人前でしゃべっちゃうようなところを見るともしかしたらこの人はただのアホなんじゃないかとか思っちゃって、好きじゃない。

だいたいこの人だけじゃなくて小説家とか、あとはロックやラップなどそのへんの音楽で生活してる人もそうだけど、さんざん反社会的、反体制的な思想を織り込んだものを広く世の中に送り出して世間の風潮に影響を与えておきながら、自分はしっかり既得権益のなかでぬくぬくと生活してるなんて、ほんとろくでもない連中だと思う。うらやましいよな、ちくしょう。(←本音)まあそんなろくでもない人間が書く文章だから、ひどく人の心を打ったり惹きつけたりすることもできるんだろうなあ。くやしいことに。

わたしだけかもしれないが「村上龍の本っておもしろいよね!」ってなんか正面切って言いづらい気恥ずかしさというか、かっこ悪さがあるように思えて、本を読んだと宣言するときにはこういう言い訳を述べたくなる。



で本の感想なのだけど、まずは「紙が足りなかったのかな…」という印象が拭えない。
いろいろ後付けの解釈はそりゃできるけども、やっぱりそれでもいらんことをさんざん書き連ねたわりにクライマックスがあっけないというか、終盤のあまりの急展開、締めくくりの強引さと中途半端さは否めないと思う。
クライマックスの舞台は東京の超高層ビル群なのだが、主人公がなかなか肝心の東京まで行かせてもらえない。だらだらと脱獄に失敗したり南海の孤島でサメと戦ったり老人の回顧に付き合ったりするばかりで「ま、まだ東京に戻らんの!?」と、残りのページ数を見直してはたったこれだけでどう物語を収束させるのかとハラハラしていた。そしたらなんかもう、案の定というかね。

話の軸になる思想はまあ端的に言えば「人生はロックだぜ」って感じなのですが、1980年が初版なのを見るに、この思想も時代の風潮を色濃く反映してのものだったんだろうなあ。
親に棄てられた子どもの精神構造に焦点を当てることではなく、この世代の若者が広く持ちうる思春期・青年期にありがちな葛藤がこの話のメインテーマなのだと思った。

まあそういう殺伐かつ荒涼としたお話なのはわかっていたけれど、その中にふいに挟まれている里母の死があまりにも突然で不条理で、これはもう無理。だめ。唯一そばにいた主人公が、幼さゆえ事態を冷静に判断できず、十分な対応ができていないのも読んでいて辛い。里母が死んだことに主人公が気付いたときの描写が悲しすぎる。思い出すだけで涙が出て来てしまう。ちくしょう、村上龍に泣かされるなんて…(まだ言ってる)。
のちに出てくる里父との絡みも泣かせるが、この里母の死は本当にいかん。
辛すぎる。

のと、閉鎖病棟の中で正気を取り戻したハシが「キャベツ」に歌を歌ってきかせるシーンもだめだった。


なんていうか、やっぱりトラウマなんだよな。たぶん。
自分の中で想起される部分が、あるんだ。
たぶん。
噛み合う部分があったんだな。


誰にも看取られず、気付かれずに死んでいった人のことを、その人と閉鎖病棟で交わした会話を、思い出さずにはいられないし、いくら泣いたって死んだ人は生き返らないけど、そうだから余計に涙は止まらないのだ。
泣くたびに彼の悲しみと怒りと、思いやりが、尊い自己犠牲の精神が、やさしく空に溶けてあたたかく誰かに迎えられ、受け容れられ、癒されていくのなら、いいのに。
いっしょに殺してくれればよかったのに、とか、自己本位なことを考えたりしてしまうわたしなどのために、君が死ななければいけない理由などなかったんだよ。なかったんだよ。くそったれなわたしが生きていて、君が死ぬなんて、変だ。おかしい。まちがっているよ。
甘ったれていると罵倒されてもしょうがない、筋を通さなければいけないのもわかっている、でもね、わたしは生きていたくない、生きていたくない、あんな尊い犠牲を払ってまで生きていたくない、いっそ死なせて、死なせて、楽にさせて。悲しみの輪を広げてはいけないから、わたしは生きている。生きることが贖罪ならわたしはやはりせめて出家しなければいけないのだが、こうして一人前に世俗の幸せを享受すること自体が間違っているのだが、それを捨てられないのはわたしがただ弱いからで、それだけで、こんなずるい、どうしようもないわたしを守るために、あー、わかった。「ハシ」と「ニヴァ」の関係が、似てたんだね。きっと。今わかった。死にたいんだよ。本当は。わかってるよ。死ねないよわたしは。でも死にたいんだよ。死ぬしか解決する方法はないんだよ。しょうがないんだよ。いつになったら死ねる?おばあちゃんになったら?家族がみんな死んだら?地球が滅亡したら?



でもわたしは死なない。
吐き出せば、楽になるから、大丈夫。
たぶん媒体は問わないのだ。
泣くことを思い出させてくれるなら。
こういうのが知らないうちに溜まっているから、たまにひとりにならないといけない。
そうすればまた生きていける。


支離滅裂な文章になってしまったが、とりあえず、親にはやさしくしようと思った。
親孝行、したいときには親はなし。


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春の風 - 2009年03月01日(日)

ここ数日の陽気にあてられたのか、週末はひたすら眠った。
日曜の夕方、久しぶりに学の夢を見た。
一人暮らしをしていたころの部屋に学がいる。
学はこたつに入って寝転がって寝ている。
「学、元気?」
と尋ねると、うーん、と気持ちよさそうに伸びをして
「元気」
と答えた。
わたしはとてもうれしかった。
なんだ、よかった。
学が死んだのは気のせいだったんだ、とわたしは思った。

「学、エビフライたくさん買ってきたよ。食べて。」
学は食べない。
うつむいたまま、ただ黙っている。
鳥のから揚げだったら食べてくれたのかな。
小さなサラダも横に添えた。
けれど弱ってるときに、こんな脂っこいものを買ってくるなんて、わたしは気が利かない。
しかしわたしの財布はもうからっぽで、これ以上健康に良いものを安く買うことがもうできなかった。
わたしは立って、部屋を見渡した。
そこはわたしの部屋ではなく、学の部屋で、学の身体が横たわっていた場所の床が黒く変色している。
ああああーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!
とわたしは金切り声を上げて、部屋を飛び出した。
逃げているのか。
どこに向かっているのかわからない。

学、何もできなくて。
何もできなくて、ごめんね。
力がなくて、ごめんね。
無力でごめんね。
何もできなくて、ごめんね。

限界が訪れたのはわたしが弱く無力だったからだ。

もう、どうでもいい。
くらい、くらい、まっくら、まっくら。
わたしなんか、家族がいなくなったらもうひとりで生きていけばいいんだ。
それがいちばんお似合いなのだ。
「誰かを守るための強さ」なんて。
自分の中に信じていた私がばかだった。






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