ポニョのもたらしたもの - 2008年08月25日(月) 本当は詳しい事情などまったく知らないが、宮崎駿は、徳間書店のひとびとを食わせるためにポニョをつくったんだと勝手に考えている。 以下にポニョが生まれるまでの流れをまとめた。 再度断っておくが完全な憶測である。 息子名義のゲド戦記は失敗した→もう駿本人じゃないと売れないよね→でももう駿は年だし…→他にめぼしい人いる?→そんなこと言ってる暇ないよ、そろそろ新しいの考えないと→駿に今回もお願いするしかないね→でも年が年だし、まったりやろうよ→リメンバー山田くん→あくまで基本は踏襲しつつね→そうそう、トトロを見て育った世代がそろそろ親になるころだね→それじゃ第二世代のトトロ的存在となるマスコットキャラクターを→トトロは山だったから今度は海だよね→子どもといっしょに親世代も楽しめるようにしないと→海のお話なら人魚姫と絡めてみようよ→それなら親子の会話も弾むね→ひいては収益も上がるね→ポニョ完成 いや、ゲド戦記の公開より前にポニョの大枠が出来上がってたのは知ってるけどさ…。 - 幼児期からの駿ファンのわたしがパンフレットも見ずにポニョについて語ってみる - 2008年08月18日(月) まずわたしはファンというよりもはや信者なので、基本的に駿アニメに対して批判的な見方をしない。 そのうえで、先日観てきたポニョについて書いておきたいと思う。 ●冒頭の「鈴木敏夫」の名 のさばってきたなあ、というのが第一印象。 これまで、この人の名前がはじめに出てくるなんてことはなかったけどな。 別にきらいじゃないんだけどね。 あの「ゲド戦記」をあそこまで上手にプロモーションしたんだから本当に有能な人なんだろうなあ、とは思う。 ●ポニョは結構あっさりと人間になります 韓流ドラマのようなじれったさとは対極にあるワクワクドキドキのスピーディな展開。 「そうすけ、すき!」というそれだけで世界滅亡レベルの天変地異を引き起こし、何がなんだかわからずに命からがら逃げ惑う宗介を津波に乗って追いかけまわすポニョ。島をまるごと飲み込まんと猛威を振るう津波のおそろしさと、猛ダッシュで迫り来るひたすら無邪気なポニョの笑顔のギャップがおもしろくてたまらなかった。効果音だけで笑えるシーンだ。 ●宗介の声優さんはおもしろい いくつぐらいの子どもを起用したのか知らないが、適度にろれつが回っていなかったりして5才っぽさがよく出ていた。 ●声優さんはよかったが、5歳にしては大物だ これについてはたくさんある。 ・ガラス瓶に顔が詰まって抜けられなくなったポニョを「石で瓶を割って助け出す」という発想は5歳には無理だと思う。仮にその知恵があったとしても普通は瓶といっしょにポニョまでつぶしてしまうのが相場ではないか。あのような力加減は正直大人でも難しい。 ・宗介がポニョを瓶から助け出すと同時に、ポニョの父フジモトが魔法でひそかに波を操り、ポニョを奪還しようとする。 間近に迫るおどろおどろしい波の動き。 観客は、どうなることかと固唾を呑んで見守っている。 そこへきて宗介は、至極冷静にひとこと 「へんなの。」 と言い捨て、平然とポニョを抱えて立ち去る。 いくら海辺で育った子とは言え、もう少しうろたえてよいのではないか。 これは間違いなく笑うシーンなのに、なぜ誰も笑わないのか不思議だった。 ここで宗介=ただものではない、という式がわたしの頭の中にできあがった。 ・親を名前で呼ぶのは正直好ましい 「不自然」「違和感」と評する人も少なくないようだが、そりゃ普通にやればお母さんとかママとかになるに決まってるわけで、宗介が普通の5歳児ではないということは登場シーンだけで丸分かりである以上、母親を「りさ」と名前で呼ぶぐらいのことで特に違和感は感じない。むしろ宗介の非凡性をさらに際立たせてよいのではないかと思った。 ・モールス信号とか使える 打てるのもすごいが、耕一からの返信を読み取り 「あいしてる、だって!」 とりさに伝えることができるあたりがやはり非凡だ。 「あの子は天才だ!」と耕一も絶賛していたが、親バカを抜きにしてもまったく本当にそうだろうと思う。 疲れてきたので宗介の非凡性についてはこのあたりで。 ストーリーについて。 ポニョに対する宗介の強い愛着と庇護の念は、人間、というか哺乳類の抱くものすごく原初的な感情に由来するものなのではないかと思う。 宗介とポニョの間にあるのは恋心ではなくて、母猫がよその子猫にも等しく乳を与えるような、あるいは、目の前でうろうろしているひよこを食べずにただ穏やかに見守っている犬のような、そのような種類の愛情だ。 だから宗介は 「魚のポニョも、半魚人のポニョも、人間のポニョも、全部好き!」 と即座に言い切ることができたのだと思う。 ポニョとその妹たちは、親愛の情を確認し合うためにときどきチュッとキスを交わす。ラストのキスもそれに近いもののように思う。でもまあ、やっぱりちょっとどこかくすぐったい感じで、たぶん恋っていう感情もこんなふうな原初的な愛情とか愛着といったものと結びついて生まれてくるんだろうなあ、と思う。「萌え」なんかも、恋とこの感情の間にある感情なのかもしれない。 観音様ことグランマンマーレとフジモトについてはほとんど説明がないし、老健施設のおばあちゃんたちが普通に目の前の超常現象を受け容れてりさを励ましたり宗介に警告したりしてるのはいったいどういうことだ、というのもちょっと難しい。 この説明不足感だが、千と千尋あたりから少しずつそんな兆候が見え出して、ハウルで一気に加速して、その勢いでポニョにも来てるんだなあ、という感じがする。「試練」ということばが繰り返し出てくるが、これは本当に「試練」と言わなければならなかったのか、ここだけはどうにも疑問が残る。グランマンマーレはまあ「観音様」的存在ということでいいと思うし、フジモトも元人間の魔法使いということでよろしい。ただ、わたしがまだわからないままでいるのが、肝心のその「試練」の中身だ。 フジモトとグランマンマーレとりさのいる老健施設にふたりがたどり着くことだったのか? ポニョのすべてを宗介が受け容れるかどうかだったのか? あるいは両方? ポニョが人間になるためには宗介のその一途な気持ちがなくてはならなかったわけだが、ではなぜ、宗介とポニョは四苦八苦してあの老健施設までたどり着かなければならなかったのか?グランマンマーレとりさとの間で話がまとまった時点で、立会人のおばあちゃんたちも含めてみんなで宗介たちのところまで行ってやってもよかったのではないか。そのくらい、あのグランマンマーレならチョチョイのチョイであろう。「かわいい子には旅をさせよ」的発想なのだろうか。 そろそろ寝ないといけないので続きは明日にするとして、あとひとつだけ。 りさカーを発見したものの中には誰もいなかったとき、宗介が無言でシャツのすそをぎゅっとにぎりしめていたのがすばらしい。まぎれもない5歳児だ。 - 死んだように眠る弟 - 2008年08月07日(木) 内定を取ってからというもの遊びほうけて生活が不規則になっている弟。 こないだ、コピー機の置いてある作業部屋に入ったら誰もいないはずなのに冷房が効いていて、あれ?と思ったら弟が寝ていてびっくりした。作業部屋の隣にある弟の部屋はエアコンが壊れているので、暑くて移動してきたのだろう。 弟はまるで死んだように眠っていて、生活が不規則だからか寝顔も変にやつれている。うーむ、と思った。 こういうイメージが積み重なると、学の夢を見る。 学からメールが届いた。 やっぱり生きてたんだ。ほっと安心するわたし。 あるいは天国からだって、メールは送れるのだ。 メールには彼の描いた漫画が添付されていた。 ふしぎな味のある面白い漫画だった。 そのまま本にしてもいいように思えた。 外を思うように出歩けない彼に代わって、わたしがこれを世に出すべきなのかもしれない、と思った。 わたしは友人や家族に漫画を見せた。 意外に皆おもしろがってくれなくて、わたしは残念に思った。 いつもわたしひとりが読みながら笑っている。 夢の中でも、本当はわかっているのだ。学はもういないということは。 ある瞬間にそれを悟り、わたしはにわかに、わあわあ声を上げて泣き喚く。 泣けばすべてが元に戻ってくれるとでも思っているかのようだ。 現実では、わたしは学のことで泣くことはない。 泣きたくなることがあっても涙が出てこない。 お線香もあげに行かないなんて、薄情な人だね。 来年は行ってもいいだろうか。 もしも迷惑でなければ、わたしの顔を見て悲しい記憶が眼前に蘇っても大丈夫ならば、行かなければならないと思う。 ありがちなたとえだけれども、指にささくれのとげが刺さったまま抜けなくなったようなあの感触に近いような気がする。 ただまあ、ささくれが刺さるのは、からだの外側からの一種の攻撃だけれども、今話題にしているのは「ささくれ」じゃないよね。 これを抜こうとすれば、わたしは死ぬような気がする。だから抜けない。 いや、そんなに簡単に死ぬことはないな。 体力も根性もないくせに、実は周りの人よりずっと図々しくてあつかましい。前も書いたが、人類が滅亡することになって周りの善良な人たちがばたばたと倒れていく中で、わたしはまるでゴキブリみたいにしぶとく生きながらえていくのだ。でもゴキブリは普通にえさを食べて生きていくけれど、善意を食いつぶして生きていく存在はそれよりまずいと思う。どちらがまっとうに生きているかと言えばそれはゴキブリに決まっている。 善意とは、もとをたどれば、父と母の善意? わたしは、もっと周りの人たちにやさしくするべきだと思った。 ちゃんと生きて、くいつぶした善意を少しずつでも周りに返していかなきゃ。ちゃんと生きなきゃいけないんだ。カントみたく人間時計になるぐらい、友人を見殺しにしてでも真実を守るぐらい?いや、後者は違う。昔の偉い人が何と言おうと、大切なものを犠牲にして守る真実に意味はない。ないのだ。そうなんだ。じゃあ大切じゃないものは?わたしにとっては大切じゃなくても他の人にとっては大切なものかもしれない。それは守らなくてもいいの?でもわたしには、そこまで手が届かない。わたしにはわたしに近いものしか守れない。半径1m以内ぐらいの存在しか守れない。だからそれだけは、本当に、守らなければいけなかったのにね。 -
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