橋本裕の日記
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10月は学校では文化祭などがあり、忙しい日々であった。しかし、9月の猛暑が嘘のように過ごしやすいひと月だった。それは日々の短歌を読み返しても感じられる。散歩にも一番良い季節である。これから次第に寒くなるが、木曽川堤の紅葉が楽しみだ。
いつのまにサンダル寒い散歩道歩けばゆれる秋の草花 衣替えわれも今日より長袖で河原歩けばこころも秋色
あきあかね我を追い抜き振り返る大きなまなこモノ問いたげに
稲の穂の黄金に熟れてほのかなるかをりただよふ野中の小径
美酒のごと心に薫る旅の歌海の青さよ砂の白さよ
大空をはるばるとゆく白鳥のすがた爽やかこころ慰む
初秋の河原にそそぐ日のひかり小石の影も鮮やかに見ゆ
銀の鈴あたえし娘は今もなお海底深く闇に眠れり
コスモスのゆれる畑にモズがきて高らかに鳴く秋は来にけり
人生はたのしむものなり憂き世さえ生き方変えればしあわせの園 たのしみは日記書き終え青白き障子の明かりなにげに見るとき
なにごとも控えめがよし減食で心身かるくこころも虹色
病得てはじめて分かる憂きことを忍んで耐える人のつらさを
この社会勝者はみんなサイコパスまともな人は心病みをり
めずらしくワインを飲んで人生に乾杯をする妻と二人で
人生の伴侶と慕う書を捨てるその寂しさを誰に語らん
幼さにいつも少女とたわむれてある日気がつくからだの違い
原発にたよらず生きる港町駄菓子屋もあり人のぬくもり
数しれず辛きことあり壊れたる人の心に風吹きつのる
死にたくてならぬ時あり家を出て道端の花そっと見てみる
モズの鳴く木立をぬけてひとやすみ空の白雲旅にいざなう
若人の働く姿さわやかで我が家も国も明るき未来
人はみないつか死に行く風ふけば老いも若きもかげろうのごと
朝食はご飯味噌汁卵焼き海苔とたくわんあればしあわせ
子どもらの姿かくして秋の日の河原のススキ風にそよげり
妻と行く田んぼの前の喫茶店午後の日差しに稲穂が黄金
人生は手ぶらがたのしそうすれば空の青さが心にしみる
身を捨てて浮かぶ瀬もあれ世の中はいろいろあって楽しき人生
プラトンを心のささえに今日もまた満員電車で唯我独尊
新米をうましと食べる妻は馬年天高く馬肥ゆる秋
(今日の一首)
刈田より黄蝶ひとつ現れて かろやかに舞う空の青さに
妻が近所に畑を借りて、野菜を作っている。その上、妻の実家が田んぼを持っていて、米はそこから毎年もらっているので、我家の食料自給率はかなり高い。
これから食糧危機の時代を迎えるかもしれない。妻の実家が田畑を持ち、自給自足できることはなにかと心強い。しかし親の財産に頼ってばかりいると、人間がだめになる。独立自尊の心意気も大切だ。
25年ほど前に結婚したとき、100坪ほど平地があるのでそこに家を建ててはどうかと、妻の両親から打診があった。私たち夫婦は乗り気だったが、父がこれを断った。そのころ、私の田舎でもゴルフ場ができ、山が売れる話があった。父はこれで私たちの家を建てるつもりだった。
ところがバブル経済が終わり、山は売れなかった。結局、私は実家からの援助はあまりあてにせず、25年の住宅ローンを組んで、当時住んでいた名古屋市からかなり離れた一宮市に家を買った。しばらくして妻の母親から田んぼを売って2千万円ほど援助してくれる話もあったが、これも断り、地道に働いてこつこつと借金を返してきた。
そのためにこの20年間、我家はかなりの緊縮財政だった。二人の娘には高校も大学も近隣の国公立しか選択肢はなかった。部屋の電気の消し忘れにも妻は目を光らせ、私もがみがみ叱られた。私は散髪も自前でするようになり、もう何年間も理容店には行っていない。
たまの家族旅行も青春18切符をつかった倹約旅行である。これで一家四人、倉敷までいったことがある。駅前の木造のぼろ旅館にとまったが、今ではこれも楽しい思い出である。こうした一家を挙げての倹約生活が堅実な我家の家風を育てた。子育てには良かったのではないかと思っている。
ところで、「幸福」という言葉は、「幸」と「福」という二つの言葉から成り立っている。ともに「しあわせ」と読むが、この二つは違った意味の幸せだという。「幸」は「海の幸」というように、「恵まれたよろこび」である。一方、「福」の旁は米俵を積み上げた形をしている。これは人間が努力をして作り上げたしあわせである。この両者があいまって「幸福」な人生が実現する。
(今日の一首)
新米をうましと食べる 妻は馬年 天高く馬肥ゆる秋
昨日からパン食をやめ、朝食もご飯を食べるようになった。しかもおいしい新米だ。味噌汁と卵焼き、焼海苔、山葵漬けで、私も朝から食べ過ぎてしまった。
車谷長吉さんは慶応大学の独文科を卒業している。卒業論文はカフカ論だったそうだ。大学院に進みたかったそうだが、実家の協力が得られなくて断念した。そして、東京日本橋にある広告代理店で働きはじめた。そこでこんな体験をした。「漂流物」(文春文庫)から引用しよう。
<ある日、私が外回りから帰社すると、私の机の引き出しの中に仕舞ってあるはずの一冊の文庫本が、上司の滝川氏の机の上においてあった。それは私が通勤の往き帰りに、電車の中で少しずつ読んでいたものだった。新潮文庫のプラトーン・田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」だった。
滝山氏に呼ばれ、「こんな本は、お前が読むような本じゃないだろう。俺はお前が週刊誌読んでいるの、一遍も見たことねえぞッ」と、面罵された。滝山氏は、文庫本を返してくれた。私は薄笑いを浮かべて、その本を滝山氏の前でごみ箱に捨てた。が、会社からの帰りに、まったく同じ文庫本を求めた。求めないではいられなかった>
たしかにプラトーンはサラリーマンが通勤途中に読むような本ではないかもしれない。しかし、車谷さんは、プラトーンを読むことでどうにか精神のバランスをとっていた。それは「会社員のくさぐさに、何かもう一つ物足りないものを感じていた」からだった。
しかし、「もう一つ」が何であるか、彼にもわからなかった。ところが、思いがけず、上司にとがめられたことで、その「何か」がはっきりしだした。プラトーンが彼の心に迫ってきた。
<また一から読み始めたプラトーンの言葉は、まったく違っていた。新鮮だった。それは特に深い思いもなしに読んでいた時には、ないものだった。言葉が心に沁みた。滝山氏は、氏の意図とはあべこべに、私に私の鈍感な自己欺瞞を思い知らせてくれた。
そのころから、私は少しずつ文章を書きはじめた。私の古里の、無名の人々の生死について書きはじめた。書くことによって己れを慰める以外に、精神の均衡を保つことが出来なくなったが、浅はかな私においては、それは同時に、会社員生活の均衡を破るものだった。私は会社生活に身が入らなくなり、退職した>
<あとは無一物の腑抜けになるまでは、一瀉千里だった。三十の身空で、冬が来ても、身に付けるセーター一枚なかった。文章を書きはじめたことが、次々になり行くいきおいを呼び込み、私をそこまで追い詰めたのだった>
結局、車谷長吉さんは書くことも断念するしかなかった。書いた小説は何十回書き直して投稿しても没になり、生活に行き詰った彼は、31歳のとき、両親をたよって実家に逃げ帰った。しかし、故郷も彼の安住の地ではなかった。
<私は書くことは捨て、播州飾磨の在所に帰った。やがて姫路で旅館の下足番になり、その後、料理場の追い回し(下働き)となって、京都、神戸、西ノ宮、尼ケ崎、大阪曽根崎新地、泉州堺、ふたたび神戸三ノ宮町、さらに神戸本町と、風呂敷荷物一つで、住所不定の九年間を過ごした>
37歳のとき、車谷長吉さんがは料理屋の下働きをしながら、その体験をもとに「萬蔵の場合」という小説を書いた。これが「新潮」に掲載され、芥川賞の候補になった。その翌年、車谷長吉さんは再び文士になることを決意して上京した。
それからも貧乏暮らしが続いたが、十年後の47歳のときに新潮に発表した「鹽壷の匙」が翌年、芸術選奨文部大臣賞、三島由紀夫文学賞をとった。48歳で車谷長吉さんは結婚した。相手の高橋順子さんはひとつ年上で、二人とも初婚だった。
そして50歳のとき書いた「漂流物」がふたたび芥川賞の候補になる。これは芥川賞には落選したが、平林たい子文学賞をとる。そして平成十年、53歳のとき上梓した「赤目四十八滝心中未遂」(文藝春秋)で直木賞受賞。ようやく生活が安定し、それまで続けていた外校正の内職を止めたのだという。
こうしてみると、車谷長吉さんの漂流物人生はなかなかのものである。その出発点が、プラトンの「ソクラテスの弁明」だったというところが面白い。私もプラトーンを読むことでどうにか精神のバランスをとっていた時期がある。私も教職という仕事に「何かもう一つ物足りないものを感じていた」からだろう。もっとも、それで叱られたことはない。
(今日の一首)
プラトンを心のささえに今日もまた 満員電車で唯我独尊
車谷長吉さんの自伝小説「贋世捨人」(文春文庫)を読んでいたら、西行の次の歌にであった。「山家集」(岩波文庫)は座右において読み返しているが、この歌があることは知らなかった。
あはれみし乳房のことも忘れけり我悲しみの苦のみおぼえて
いま、「山家集」を開いて探してみると、この歌に続いて、次の歌があった。
ひまもなきほむらのなかのくるしみもこころおこせばさとりにぞなる
西行は23歳のとき突如出家した。その理由はつまびらかではないが、「ひまもなきほむらのなかの苦しみ」からの逃避ということもあったのかもしれない。西行にはこんな歌もある。
心から心に物を思わせて身を苦しむる我身なりけり
妻子を捨てての強引な出家だったようだが、これを悲しんだ妻もやがて尼になった。西行はこれを喜び、涙を流して再会し、法文などを教えたという。
西行は芭蕉や良寛とともに私の最も尊敬する詩人であるが、社会の底辺を這うように生きてきた車谷長吉さんの西行を見る目はかなり厳しい。彼は西行ばかりでなく、鴨長明や兼好法師、芭蕉も「贋世捨人」ではないかという。
<西行はうちのお袋が言うたように、荘園の百姓に働かせておいて、その上がりで自分は好き勝手に行動し、無一物が一番ええ、というような歌を詠んだ男である。下司などは、人間の内には算えていなかったのだろう。
また長明も兼好も貧乏が好きで、そういう窮乏生活を経験した人だが、併しこの人たちも下級とは言え貴族である以上、なにがしかの社領からの上がりはあったのだ。だから飢え死ぬところまでは行かなかった。
芭蕉は全国各地の弟子に連句・発句の教授をすることで、謝礼を受け取っていた。こう見て来ると、これらの人たちも、その言葉は兎に角、生活面ではみな贋世捨人だったのではないか。一休が女にうつつを抜かしたように>
よく寺の坊主が「無一物がよい」「無欲で生きよ」などと説教するが、そういう彼らが無一物かどうか、無欲かどうか、あやしいものだ。本当に世を捨てるということは、つまり「飢死にする」ということなのかも知れない。すくなくともその覚悟がなくてはいけない。
私自身の考えを言えば、西行や芭蕉は「贋世捨人」とは言えないと思う。なぜなら、彼らは決して「世を捨てた」わけではないからだ。芭蕉が弟子に説いたように、「俗を出て、俗に還る」ということが彼らの真骨頂だった。事実、西行はこんな歌を詠んでいる。
世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ
花を愛した西行の心事は、つきつめるところ「色即是空、空即是色」の一事であった。彼らはこの世から背を向けたのではなく、この世におおきな恵みを齎すために、もっとも徹底的に現世的に生きた人たち人たちなのだ。
(今日の一首)
身を捨てて浮かぶ瀬もあれ世の中は いろいろあって楽しみ多し
通勤の途中、名古屋駅でJRから地下鉄に乗りかえる。そこで、2時間ほど早めに家を出て、名古屋駅の地下街にある「三省堂書店」に立ち寄ることがある。そして、書店の隣にある「BOOKS & CAFÉ」という喫茶店に、書店の本を持ち込んでゆっくりと読む。
コーヒーが一杯450円と高いが、まずまずの味である。そして何よりも、書店の本を何冊でも無料で読めるというのがよい。本を読んでいるのは、若い女性が多いので、目の保養にもなる。好きな本に熱中している人たちの満ち足りた表情はなかなかよいものだ。
静かで読書には最適な環境である。しかしたまに空気が読めない客が侵入することがある。おしゃべりをやめない中年の女性たちだ。こういう日は、厄日と思ってあきらめるしかない。
その三省堂の喫茶店で読んだ本のなかに、加島祥蔵さんの「求めない」という詩集がある。店頭に山積みされているのは、人気があるからだろう。「求めない」という書き出しのシンプルな短詩からできた素敵な詩集だ。
求めない すると 簡素な暮らしになる
求めない すると いまじゅうぶんに持っていることに気付く
求めない すると いまもっているものが生き生きとしてくる
求めない すると それでも案外生きてゆけると知る
(略)
求めない すると 自由を感じる
簡にして要を得た、それでいて味わいの深い詩だ。現代人は余計なものを求めすぎている。そしてその「求める心」にふりまわされている。「求める心」を捨てれば、私たちはもっと自由になれる。そして心が澄み、美しいものが見えてくる。
(今日の一首)
人生を手ぶらで歩く そうすれば 空の青さが心にしみる
2007年10月26日(金) |
田んぼの見える喫茶店 |
定時制夜間高校は授業が始まるのが5時過ぎだ。しかし今年の4月から勤務が1時15分からはじまるようになった。これに間に合うためには12時前に家を出なければならない。昼食を食べた後、一休みしたいのだが、これができない。
そこで、私はよく時休を取るようになった。そして午後3時頃に学校に着くようにする。そうすると授業が始まるまで2時間ほどである。これが4時間もあると、授業をする前に疲れてしまう。それに帰りは11時近くだから、体力も温存しなければならない。50歳を過ぎて、体力がおちてきているので、昼間から夜おそくまでの勤務はつらい。
1時間ほど時休をとれば、昼食の後、のんびりできる。ときには妻を誘って、近所の喫茶店に行く。350円のコーヒーを注文すると、シホンケーキがついてくる。コーヒーを飲み、ケーキを食べながら、1時間ほど妻と会話し、雑誌をよむ。
喫茶店には、私が愛読している「週刊現代」が置いてある。その他にも「週刊ポスト」「週刊新潮」「週刊文春」などがそろっていて、これらを読めば日記の材料にもこと欠かない。コーヒー代のもともとれる。最近では週に2回ほど、昼食後に妻とこの喫茶店を訪れる。
妻の分も私が払うので、700円の出費だ。セブに行ったとき妻から借りたお金がまだ7万円も残っている。これを返して、しかも来年用に20万円貯めなければならない。しかし、この春に次女が就職して、私の小遣いが3万円アップした。そのおかげで、こんな贅沢ができるようになった。
もっとも年休ばかりとっているので、年間20日ある年休が、残り5日間を切ってしまった。セブに行って、まとめて年休を消化したせいもある。英語の勉強に行っているのだから、研修あつかいにしてくれればよいのだが、数学科の教師は英語の研修はできないのだという。3年後の停年退職が待ち遠しい。
(今日の一首)
妻と行く田んぼの前の喫茶店 午後の日差しに稲穂が黄金
車谷長吉さんの「赤目四十八滝心中未遂」の主人公が、ある理不尽な事件にまきこまれていくきっかけは、若い女との出会いである。その若い女は同じアパートの一階に住んでいる。
<見るのが怖いような美人である。眼がきらきらと輝き、光が猛禽のようである。私は目を逸らす。併しその目を逸らすふりのうちに、この若い女の全身を見て取る。すると女は目敏くそれと察知して、右手で軽く胸をかばうような仕草をし、また私を見遣って目を伏せる。その目を伏せるときだけ、この女の中に隠されているらしい暗いものが顔に現れる>
若い女が目を伏せるときにだけ現れる「暗いもの」は何か。その得体の知れない不気味なものに、主人公の青年は引かれていくが、小説を読んでいる読者にも同じ誘惑となってそれは襲いかかってくる。主人公はある日、その少女を街中で見かける。そして彼女を尾行する。
<アヤちゃんはアパートへ帰るのとは逆の方向へ曲がって、そこから阪神尼崎駅のほうに続く、淋しい裏通りを歩いていった。私はその後姿を見ていた。するうち私も傘を開きアヤちゃんの背中を見ながら、歩き出していた。しばらく行くと、不意に胸がどきどきしはじめた。あとをつけて歩いている、という意識のせり上がりが、そうさせるのだろう。アヤちゃんの雨傘は華やかな赤の花模様で、肩に垂れる黒髪が見えた>
私も金沢の学生時代、若い女を尾行したことがある。女はそれに気づき、ある商店に飛び込んだ。店の中から男が飛び出してきた。その男ににらまれて、私は正気に返った。
この頃、私は学生運動に挫折し、留年をくり返していた。親から勘当されて、朝刊と夕刊を配りながら生計を立てていた。心のなかに空洞をかかえ、精神的に変調をきたしていた。女を尾行していた私は、犯罪者になりかねない状況だった。車谷長吉さんの小説を読みながら、そんなあふなげな場所に立っていた自分の青春時代を思い出した。 (今日の一首)
子どもらの姿かくして秋の日の 河原のススキ風にそよげり
日本の食料自給率は年々下がり続け、いまやカロリーベースでわずかに39パーセントだそうだ。これは他の先進国と比べてもとびぬけて低い数字である。先日、NHKの討論番組でこの問題を取り上げていた。農家の人が「もっと米を食べてください」と哀願するように言っていた。
我が家の朝食はもともとご飯と味噌汁の和食が基本だったが、私が定時制高校に転勤した2年半前から、パン食に切り替わった。お昼にごはんと味噌汁を食べるので、ダイエットも念頭に置きながら、朝食は簡便にということだった。
しかし、NHKの番組を見ているうちに、私は朝食も米を食べたいという気になった。そこで日曜日の夜、妻や娘にこう宣言した。
「明日から朝食はおむすびを食べることにする。おむすびは俺が握るから、ご飯をたいておいてくれ。あとは玉子焼きも俺がつくる。母さんは味噌汁だけ用意してくれ」
もとより私はパンよりもご飯が好きだ。やはり朝はご飯と味噌汁がないと、食べた気がしない。妻や次女はパンでいいというが、「日本人なら米を食べるべきだ」と、強引に押し切った。
ところが肝心の月曜日の朝、寝坊をしてしまった。いつものように4時に起きて日記を書いたまではよかったが、この日に限ってそのあとまた眠ってしまった。次に眼を覚ましたら6時を過ぎていた。それも妻の「ごはんができましたよ」という声で眼が覚めた。
キッチンに行くと、すでにトーストが焼いてある。いまさらむすびを握るともいえず、私はおとなしくいつものようにコーヒーを飲み、トーストを齧った。大言壮語しただけに決まりが悪くて、何も言わなかった。
そして、火曜日の朝、私は6時前に妻や娘の声を聞きつけて、さっそくキッチンへ行った。そして「さあ、むすびを握るぞ」と言うと、「ご飯が炊いてないわよ」と妻のすげない答えが返ってきた。
「昨日、せっかくご飯を炊いて待っていたのに、あなたは起きてこなかったでしょう。そして何事もないようにパンを食べていたわね。どうせ三日坊主だと思っていたけど、最初の日からこれだもの。まあ、予想した通りだったけど」
家事など無縁な私が朝食を作るといっても、容易に信じられるものではない。それでも妻は月曜日にはご飯を炊いて、私が握り飯を作るのを待っていたようだ。私はその大切なスタートで躓いてしまった。そして家人の信用をなくしてしまった。これからも朝食はトーストが続きそうだ。
(今日の一首)
朝食はご飯味噌汁卵焼き 海苔とたくわんあればしあわせ
2007年10月23日(火) |
「虚無」を生きる作家 |
一昨日の日曜日に、妻と金華山に上った。そのあと、自転車で近くの市立図書館に行った。そこでたままた車谷長吉さんの「赤目四十八滝心中未遂」を見つけた。かねがね読みたいと思っていた小説なので、迷わず借りた。
読み始めると、ぐいぐい引き込まれた。力のある文章である。たとえば、冒頭ちかくにこんな描写がある。まずはこれに瞠目した。
<ある日、こんなことがあった。百貨店で私の求めた鋏を包んでくれた、目の前にいる女を、突然殺害したいという欲望に囚われた。見た目には美しい、併しどこか顔色の悪い女だった。「どうかなさいましたか。」と問い掛けられて、往生した。それはその女の包み方がぞんざいだったとか、手渡しの仕方が悪かったとかいうようなことではない。その女からじかに伝わって来る、何かきわ立ってうすら寒い感じが、私の隠された苦痛を呼び醒まし、その女もろとも私自身をいきなり奈落へ突き落としたい欲情を覚えたのだ。不条理な狂気の欲情である。私は私の中の物の怪を恐れた。併しいったん私の心に立ち迷い始めたこの生々しい欲情は、も早いかにすることもできなかった>
じつは私も若い頃、これと似た感情を体験している。私もまた、「私の中の物の怪を恐れ」て生活していた時期があった。いや、いまでも「不条理な狂気の欲情」に襲われそうになる。それだけにこの小説の主人公の運命は他人事とは思えない。
主人公の男は東京の有名な私立大学を卒業している。しかし、サラリーマン生活は破綻し、落剥して故郷へ帰るものの、そこでも人生の敗残者として受け入れられず、料亭の下足番をはじめ、下積みの様々な仕事を転転とする。そして心が次第にすさんでいく。いや、もともとこの男は心のなかに大きな虚無を抱えて生きていた。その虚無が、彼に世捨て人の人生を余儀なくさせている。
小説に描かれた主人公の下積み生活は車谷長吉さんの若い頃の経歴にかなり重なっている。彼はこうした下積み生活を長年経験したあと、49歳ではじめて妻を娶り、それから、その独特の経験を活かして文壇にデビューした。しかし、51歳のとき強迫神経症に襲われ、精神科に入院したりしている。
脅迫神経症の発作がどれほど苦しいものか、私も高校時代と大学時代に経験しているのでよくわかる。車谷さんの場合は、靴やスリッパや下駄が頭上の空間を漂流して飛びかい、彼はそれをはたき落すべく家のなかを走り回ったのだという。
その苦しい発作のなかで後ろを見ると、彼の妻が同じように後をついて走りまわっている。車谷さんの狂気を否定するのではなく、その幻覚が生み出した架空の怪物たちと、一緒に戦ってくれている。その姿をみて、車谷さんは「よくできた女房をもらった」と涙したそうだ。
こうした経歴を持つ作家だけに、文章はごつごつとして陰影が深く魅力的である。彼は若い頃から「世捨て人」に憧れていて、小説家になったのも小説家は世捨て人だと考えたからだそうだ。虚無の嵐はいまだに彼のなかで吹き募っているのだろう。それが彼の造形する人物たちに、独特の熱気と生命力をあたえている。
(今日の一首)
人はみないつか死に行く風ふけば 老いも若きもかげろうのごと
次女はこの9月末に警察学校を卒業した。妻が卒業式に出席して、写真をたくさん撮ってきた。制服姿の次女を見るのは初めてである。卒業式では成績優秀者の一人として名前を呼ばれ、賞をもらったのだという。これは校内の剣道大会で優勝したのが大きいらしい。
次女は中学はバスケット部、高校はテニス部、大学は馬術部なので、剣道とは無縁である。本人によると、たまたま試合運がよくて、強い人たちが潰しあって、彼女が成り行きで勝ってしまったらしい。もっとも幼い頃から運動神経はいい方なので、まったくまぐれというわけでもないのだろう。
十月からは名古屋市の警察署に配属され、そこから派出所に出向している。ところがもうすぐ剣道大会があるらしく、次女は新人でまだ段位さえないのに署の代表選手の一人に選ばれてしまった。おかげで勤務をした後、毎日有段者を相手に特訓をしなければならなくなった。
昨日の日曜日も非番なのに特訓を受けに朝早く出かけて行った。今度は機動隊を訪れ、そこで特訓を受けるのだという。出掛けに次女の足を見ると、そこにサポーターが痛々しく巻いてある。足を痛めているようだ。声を出しすぎたのか、喉も痛いという。
それでも「いってきます」と元気よく出かけて行った。この元気、いつまで続くか心配である。しかし、こうして両親とともに暮らし、自宅から通勤できるのは救いであろう。仕事のことをあまり口にしないが、話すと日記にかかれると思って、警戒しているのかも知れない。
我が家では長女が看護婦をし、私が教師をしているので、警察官をしている次女とあわせて、すべて「3K職業従事者」である。いずれも社会の最前線と向かい合う、なかなかしんどい職場だ。社会の底辺をささえるやりがいのある仕事ではあるが、それだけにストレスから精神疾患にかかる人の割合も多い。あまり自分を追い込まず、がんばりすぎるなと、娘たちには言っている。
(今日の一首)
若人の働く姿さわやかで 我が家も国も明るき未来
昨日は学校の創立100周年記念日で、御園座に歌舞伎を観劇に行った。演目は「毛抜き」「かさね」「権三と助十」である。市川団十郎、尾上松緑、市川海老蔵、尾上菊之助、市川左團次など、豪華なメンバーである。
貧乏人の私はこういう機会でもないとなかなか歌舞伎が見られない。ちなみに前回見たのは十二年ほど前で、やはり学校の創立記念日の祝賀行事のときだった。創立記念日に歌舞伎を見るというのはひとつの流行なのだろうか。いずれにせよ、若い人たちが日本の伝統芸能に親しむのはよいことである。
今日の予定はまだないが、さわやかな好天が続いているので、どこかに山登りでもしたくなった。妻をさそって、久しぶりに金華山でものぼってみようかと思っている。
(今日の一首)
モズの鳴く木立をぬけてひとやすみ 空の白雲旅にいざなう
2007年10月20日(土) |
自殺を思いとどまる方法 |
世界では毎年100万人ほどの人が自殺をしている。日本でも3万人以上の人が自殺をしている。毎日100人近くの人が自ら命を断っているわけだ。これは交通事故死の3倍以上、殺人事件の20倍以上である。
私の友人や知人にも自殺をした人がいる。大学の友人、大学院の友人、教員の友人、それから中学校の同級生と、まずは4人の名前と顔が浮かぶ。身近な人を自殺で失うのは淋しいことだが、さいわい30年近く教師をしてきて、自分の教え子から自殺者を出さなかったのが救いである。
死にたくてならぬ時あり はばかりに人目を避けて 怖き顔する
これは石川啄木の歌だが、私も死にたいと思ったことは何十回とある。たとえば小学6年生の頃に、屋根裏部屋でロープで首吊りをして失敗した。これは自伝「少年時代」にも書いたことだ。
一番最近では10年ほど前である。教師をしていることに嫌気がさし、肉体の不調に次々と襲われ、精神的にも追い込まれて、毎日朝起きるたびに「死にたい」と考えていた。今考えてみると、かなりうつ状態だった。
そしてある朝、その欝が高じて、今日こそ「死のう」と決意した。ところがその日、学校で思いがけないことが起こった。受け持ちの女の子が泣きながら、「今、おばあちゃんが死にました。帰らせて下さい」と言ってきたのだ。
その女生徒の泣き顔が、同じ年頃の自分の娘たちの顔と二重写しになった。私が死んだら、娘たちはやはり泣きながら家に帰っていくのだろう。どんなつらい思いをして、これからの人生を生きていくことになるのだろう。妻や福井にいる母もどんなに悲しむだろう。
自分の受け持ちの生徒の泣き顔を見て、私はそのことに思いをはせた。そうすると「これはとても死ねない」と思った。そして、「あと一日だけがんばってみよう」と思った。
それからもうつ状態は続き、苦痛なことが重なって、毎日のように「死にたい」と思った。しかしそのたびに「もう一日だけ生きてみよう」と考えて、どうにかその辛い時期をのりこえることができた。
人生に浮沈はつきものだ。辛いときもあるし、楽しいときもある。死にたくなる人の気持はわかるが、生き延びているとそのうちに良いこともあるだろう。事実、私はいま人生で最高と言ってよいほど幸せである。あの辛い時期を知っているだけに、心身ともに健康であることの幸せが身にしみる。
だから 死のうとしている人には、「いつでも死ねるから、もう一日のばしてみてはどうか」と声をかけてやりたい。「一日だけ」というところがポイントである。その一日で気持が変わるかもしれない。かわらなくても、辛抱しただけのことはある。
一日一日をなんとか辛抱して生き延びていくことで、いつか暗いトンネルの向こうに出られるかもしれない。そしてそこにはまた、新しい人生の風景が広がっている。それは死ぬほどの苦しみを潜り抜けてきたものだけが知る、悦楽の世界である。
(今日の一首)
死にたくてならぬ時あり 家を出て道端の花 そっと見てみる
すぐにカッとして怒り出す中高年がふえている。17日、18日の朝日新聞の特集「キレる大人たち」にはその具体例が紹介してある。喧嘩を仲裁していきなりこぶしで顔面をなぐられた駅長や、患者から暴言を浴びせられた医師や看護婦など、どれも私が身近で経験したり、友人や家族から聞いた内容とそっくりである。
警察庁の統計によると暴行事件の検挙者数はこの数年間で、30代、50代が5倍にもなっているそうである。朝日新聞の特集記事から引用しよう。
<98年から06年までの推移をみると、10代がほぼ横ばいなのに20代以上は軒並み増加。60歳以上は約10倍、30代と50代が約5倍と大幅に増加し、実数でも中高年の増加が目立つ>
ちなみに、各世代の暴行事件検挙者数は98年には、十代が一番多く1800人ほどだった。これが06年には1500人ほどまで減少している。ところが98年に1000人ほどしかいなかった30代が06年には5000人近くにまで増えている。これに続くのが20代、40代で、ほぼ3500人と、実数でも10代を2倍以上多くなっている。もはやキレるのは若者の特権ではなくなってしまった。
これについて、東京メンタルヘルス・アカデミー所長の武藤清栄さんは「職場でためた不満を、地域や公共の場で爆発させているのではないか」と指摘している。怒りをぶつけたい相手は他にいるのだが、それができない。そこでその不満を公共の場でぶちまけるわけだ。
早稲田大学教授の加藤諦三さんは、中高年がキレる根本には、「会社や家庭も思うようにならない、というコントロール感のなさ、むなしさがある」という。この10数年間で日本社会はおおきくかわった。その直撃をうけているのが中高年である。これからもますますキレる中高年は増え続けるに違いない。
それでは、こうした怒りに身を任せている人を前にして、私たちはどう対処したらよいのだろう。そうした人を前にして「失礼じゃないか」と相手を非難してみても余計に怒りの炎に油をそそぐだけだ。少し距離を置いて、「この人はいまとてもつらい体験をしているのだろうな」と同情してあげてはどうだろう。
駅の構内で駅員に難癖をつけて殴りかかったり、デパートの店員に食ってかかったり、公共の場所でさえカッとなって暴言を吐き、暴力に走ってしまうのは、それだけ内面に鬱憤をためこんでいるからだ。それが今、コップから水があふれるようにして流れ出している。
こう考えて、まずは「寛容と忍耐」である。その上で、主張すべきことがあれば、感情的にならずに落ち着いて誠実に話すことが大切だ。相手の怒りに対して怒りを返すのではなく、思いやりと愛情を返すのが理想的である。しかし、これは私のような凡人にはむつかしい。
(今日の一首)
数しれず辛きことあり壊れたる 人の心に風吹きつのる
毎年、春、夏、冬と、年に3回青春18切符を買っている。そしてその度に必ず行く場所がある。それは若狭の小浜である。小浜は私が小学生の3年間を過ごしたなつかしい場所だが、私が小浜に行きたくなるのは、ただ幼年時代の思い出をなつかしむためではない。
海と山に囲まれたこの鄙びた港町のたたずまいが、文句なしに好きなのである。この町には巨大なモールがない。だから昔なじみの駄菓子屋や呉服屋、酒屋さんなどが残っている。駅前の商店街も健在だ。そしてたくさんのお寺がある。ここにくると、古きよき日本に出会えたようでほっとできる。
小浜が古きよき日本のまま残ったのは、ある意味で奇跡的なことである。若狭は「原発銀座」と呼ばれている。いたるところに原発関連施設が林立するなかで、小浜だけが原発、原発関連施設を持たないでいる。
しかし、この町にも原子力発電所が何度か作られそうになった。しかしそのたびに小浜市民は反対運動を組織し建設を阻止した。2004年に行われた市長選でも、反対派の前市長が原子力関連施設誘致推進派の市議だった市長候補に勝利している。
たしかに原子力関連施設の建設を受け入れば、市の財政は潤い、この余沢は市民にも及ぶだろう。漁業組は巨額の保証金を手に入れることができる。原子力の資金によって小浜の町を作り変え、近代化すするというのも一つの道だが、小浜市民はこれを退けた。
亡くなった小田実さんはこうした小浜を評価し、小浜には人間にとって何よりも大切な「自由」があるといい、この小さな港町を「若狭のアテナイ」と呼んで愛していた。毎日新聞に連載されたコラム「西雷東騒」(2005年7月26日)にもこう書いている。
<私が若狭の小浜を好み、興味を抱き、さらにその未来に希望をもつのは、人口三万人余の日本海に臨む小都市が自然の美しさと豊かさに恵まれ、歴史ある古刹をあまた持ち(その数百三十だという)、「食のまちづくり」を目指すだけあって食い物も抜群、豊富でうまい―というだけの理由ではない。小浜には敦賀を始めとして他の若狭の都市にはない「自由」があるからだ。どのような自由か――それは原発、あるいは原発関連施設を持たない自由、そこから生まれてくる自由だ>
<この若狭で、ただひとつ、原発、原発関連施設を入れてこなかった都市が小浜だ。小浜は経済の活性化を必要としない都市ではない。しかし、その活性化も、市の未来も、そこに住む市民の未来も、原発、原発関連施設の導入によってつくりだそうとしないで、自然の美しさと豊かさに基づいた「食のまちづくり」でやってのけようとしている>
<この「食のまちづくり」による小浜の未来がどうなるかは未知数だ。しかし、今、小浜には若狭の他の都市にない自由が感じとられるのはたしかな事実として言えることだ。小浜で、原発反対運動の中心人物として活動しているのは、世に知れた古刹・明通寺の住職、中嶌哲演氏だが、過日、私が関西の市民何人かとともに小浜を訪れたとき、彼がキモイリとなって小さな市民集会を開いてくれた。
そのとき私を感服させたのは、そこには彼のような原発反対派とともに、反・反対派の人も来ていて、おたがいが自由に発言していたことだ。これは民主主義社会として当然のことだが、その当然のことが他の若狭の「原発銀座」の諸都市にはないと、これは出席者のひとりが言った。
私はそこで「若狭のアテナイ」かも知れないと思った。古代アテナイの民主主義を支えたのは、自然の恵みを基本につくり出された社会全体の、またそこで生きる市民の豊かさと、そこにあった自由だった>
http://www.odamakoto.com/jp/Seirai/050726.shtml
小浜に来ると、私は潮風ともにこの自由の雰囲気を呼吸することができる。人々の生活のぬくもりが、どんなに小さな路地にもしみついている。国際経済のグローバル化とは無縁の何百年もつづいた暮らしのゆたかさが、私の心をくつろがせてくれる。そして今は天国にいる小田さんと一緒に、「小浜よ、がんばれ」と応援したくなる。
(今日の一首)
原発にたよらず生きる港町 駄菓子屋もあり人のぬくもり
小学生の頃、若狭地方に足掛け5年ほど住んだ。そのうち3年あまりを小浜市で過ごした。小学校の3年生から5年生までである。
その頃父は警察官をして、小浜では警察官の官舎に2年ほど暮らした。官舎といっても粗末な長屋で、そこに4所帯が薄い壁を隔てて、ひとつの大きな家族のように助けあって過ごしていた。
お風呂も一つしかなく、4世帯が輪番で湯を沸かし、当番の家族から順番に入った。自分たちが入り終わると、次の家族に「おさきに失礼しました」と伝えに行く。これは子どもの役割だった。
私の家には隣の潮ちゃんがきた。私より一つ下の快活な少女で、私は彼女とよく遊んだ。年下の癖にどこかお姉さん風を吹かすところがあって、そんなところも彼女の魅力だった。もちろん恋というにはあまりに幼い感情だが、それに近いものを双方に感じていた。
あるとき潮ちゃんと遊んでいて、潮ちゃんが前かがみに物を取ろうとしたことがあった。そのとき風がいたずらをして、彼女のスカートをまくりあげた。私は目の前に彼女の薄い下着につつまれた魅力的なもののかたちを認めた。
そして次の瞬間、自分でも意外な行動に出ていた。そのふっくらと丸みを帯びたふたつの丘のくぼみに、自分の鼻先を犬のように押し当てていた。私を振り返った潮ちゃんは、目を見開いたまま、しばらくは言葉もなかった。
その後、どんなやりとりがあったのか忘れてしまったが、風のいたずらに便乗して出来心でやったことである。それほど叱られた記憶もない。ただ、そういうことがあってから、彼女の私を見る眼が少し変ったようだ。
官舎の狭い五右衛門風呂に一緒に入っていたりしたが、そんなこともなくなった。私の前で平気で着替えをしていた彼女が、スカートの裾を気にするようになった。しかし、私にはそんな彼女が可愛く見えた。
彼女の写真を一枚だけも持っている。私が6年生になってしばらくしたころ、父が警察官をやめて小浜を離れた。その当日に見送りに来てくれた彼女を、私がカメラで撮ったものだ。その写真を眺めるたびに、小浜で彼女と過ごした時間をなつかしく思い出す。
(今日の一首)
幼さにいつも少女とたわむれて ある日気がつくからだの違い
蔵書の整理を始めてもうずいぶんになるが、このところスピードが鈍っている。全体の3分2ほど整理したせいで、かなりすっきりした。残っているのはかなり思い入れの深い蔵書ばかりだから、なかなか捨てる気にならない。
そうしているうちに、月に一度の資源ごみ回収の日が通り過ぎていく。考えてみればこの数ヶ月はただの一冊も整理してない。このままでは「蔵書0運動」が掛け声倒れになりかねない。今年中に大整理をして、書斎に3本残っている本棚を、なんとか2本に減らしたい。そして来年中にはすべての蔵書をなくしたい。
五千冊売って涼しき書斎かな
これは長谷川櫂さんの句である。私の書斎にはそんなに書物は残っていないし、もとより売れる本はないので、この句のようにはいかない。それでもこの句をくちづさむと、なんだかさわやかな気分になる。「涼しき書斎」という語感がよい。
私が初めて本格的な本棚を買ってもらったのは高校生1年生の夏だった。それから書店で文庫本を買い始め、そこに一冊ずつ並べていった。そうして3年間ほどかけて、私の書棚はほぼ文庫本で一杯になった。そのとき感じた充実感は今でも覚えている。
当時の本の一部は今でも残っている。文庫本の背に購入順に番号を記入していたので、よくわかるのだ。たとえば今座ったまま書棚を見てみると、すぐ手の届くところにルソーの「孤独な散歩者の夢想」(新潮文庫)が見える。背表紙の番号は「69」となっている。番号からして、高校二年生の頃に買った本だろう。手にとって調べると、定価は90円だった。
こうした背番号つきの文庫本がまだ書棚に20冊ほど残っている。捨てるに捨てられない愛着のある本ばかりだ。しかしこれを捨てなければ「蔵書0運動」は進まない。来月の資源ごみの日には、まずこの手垢のついたルソーの本を、真っ先に捨てることにしよう。
(今日の一首)
人生の伴侶と慕う書を捨てる その寂しさを誰に語らん
最近の精神医療は、心の病気を脳の機能障害と捉え、これを薬物で処理しようという傾向が主流になっている。たしかに私たちの意識は脳にある神経細胞の働きによって生みだされている。意識に障害が生じるのは、脳のはたらきに異常があるからだ。
しかし、脳に生じる物理化学的な変化は、私たちの意識活動の結果でもある。神経細胞の活動と、意識活動はコインの両面のように一体化している。だから私たちの意識は脳の物質的な活動に一方的に依存しているわけではない。
精神の障害を取り除くために、薬物を使って脳をコントロールするのは即効性があるが、薬が切れればまた症状があらわれる。副作用によって他の臓器にも影響が及び、長期的に見ればかえって精神障害を常態化させかねない。
一般に脳の機能障害が原因といわれる外因性の精神障害であっても、内臓疾患の場合と同じく、多くの場合は内因性をはらんでいる。つまり、さまざまな心理的なストレスが原因となって、脳に機能的な変化があらわれ、精神障害が発症する場合が多い。
(心理的なストレス)→(脳の機能障害)→(精神障害)
したがって、精神障害の直接の原因は脳の機能障害かもしれないが、さらにさかのぼれば心理的ストレスにたどりつく。根本的な治療を考えるのならば、このレベルまでさかのぼらなければならない。
しかし、心理的ストレスが恒常的に生じる原因は、その人が体験してきた親子関係や置かれている社会的環境に深く根を下ろしており、これを解きほぐしていくのは容易ではない。またその解決も一朝一夕にできるものでもない。したがってどうしても手軽で即効性のある薬物治療に走ってしまう。
もちろん薬物治療の有効性は認めるが、これにあまりに依存しすぎるのはいけない。薬物によって脳の機能を一時的に回復させながら、あわせて、そうした機能障害をもたらしている根本原因にも眼をむける必要がある。そこから逃避していてはいけない。
精神的なストレスから自由になるのはむつかしいが、これをある程度軽減することはできないことではない。私の場合は自分のことであまりくよくよしないで、自分の外に広がっている自然や社会に眼を向けることにしている。
風通しのよい広々とした場所に自分を置き、おおらかな視野をもつことが心の健康にとって大切なことはではないかと思っている。こうした意味で、毎朝散歩し日記を書くことは、私のささやかな「心の健康術」である。友人と歓談したり、ぶらりと旅に出るのもいいものだ。
(今日の一首)
めずらしくワインを飲んで人生に 乾杯をする妻と二人で
妻が貰ってきた赤ワインを、妻と二人で飲んだ。久しぶりのワインで、コルク抜きを探し出すまでにかなりかかった。二人でワイングラスを傾けたのは、十年ぶりくらいだろうか。何の記念日でもなかったが、子どもたちを社会人にとして無事に巣立たたせた。「よくやったね」と、お互いの健闘をたたえあった。
2007年10月14日(日) |
サイコパス社会の健康術 |
高血圧をはじめ、頭痛、歯周病、腰痛など、私もこの10年間、いろいろな体調不良になやまされた。そのたび市販の薬を飲んだり、病院で治療を受けて処方された薬を飲んでいた。それで一時的に症状がおさまりはするが、やはりかりそめの対症療法でしかない。
私たちの体は基本的には交感神経と副交感神経によってコントロールされている。心にストレスがかかると、こうした自律神経が乱れ、ホルモンのバランスが崩れて、さまざまな肉体的不調が現れてくる。昔の人は「病は気から」と言ったが、この言葉には真理がひそんでいる。
ガンなどの病気も体が健康で免疫力があれば発症しにくい。ところが精神に不安を抱え、過度のストレスにさらされていると、神経系が乱れ、免疫力がおちて、ガンになりやすい体質になる。
そしてたとえガンを外科手術で取り除いてしまっても、ガンは次から次へと生まれてくる。とくに無理な手術をすると免疫力がさらに衰えるので、新たなガンを誘発しやすい。「転移」といわれているものも、こうしたメカニズムで生まれた新たなガンの可能性がある。
肉体的変異の背後に、患者が抱えている生活習慣上の問題や、精神上の問題がある。「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉があるが、これは「健全な肉体は健全な精神に宿る」と言い換えてもよい。心の健康は、肉体の健康のためにも必要である。
それでは、どうしたら心の健康は実現できるのだろう。この点について、私はかなり悲観的である。私たちがこのストレスの多い競争社会で、こころの健康を維持することはむつかしい。平気でいられるとしたら、それは鈍感力の発達した人か、サイコパス(性格障害者)くらいだろう。ちなみにサイコパスは次のような特性を持っているそうだ。
○他人への思いやりがない。 ○人間関係を維持できない。 ○他人への配慮に無関心。 ○利益のために嘘を続ける。 ○罪の意識がない。 ○社会規範や法に従えない。
病気にならないためには、サイコパスになるか、鈍感力を養う必要があるという、こうした非道徳的で殺伐とした社会を、「サイコパス社会」と呼ぶことにしよう。そこではサイコパスたちが成功者として出世し、華やかなスポットライトを浴びて賞賛される。ときには一国の首相にもなる。
その一方で、非人間的な環境に適応できない多くの人たちは、精神を病んで薬漬けの生活を余儀なくされる。現代の日本は無慈悲な勝者をのさばらせ、心やさしい弱者が生きにくい社会へと、次第に傾斜しているように思われる。
(今日の一首)
この社会勝者はみんなサイコパス まともな人は心病みをり
9年前の今ごろ、私は高血圧からくる眩暈や動機、不眠などに苦しんでいたが、それ以外にも、歯茎の腫れによる痛みや、腰痛にも襲われ、いわば満身創痍の状態だった。とくに苦しかったのは腰痛である。
朝起きると、まず起き上がれない。少しでも腰を曲げると激痛におそわれるからだ。それでどうするかというと、寝たまま体を横向きに90度回転させ、それから膝を曲げる。そしてさらに90度回転して、うつ伏せのまま腕の力を使って起き上がるわけだ。
着替えをするときも腰を曲げることができないので大変だった。靴下を履くときは椅子に腰掛け、足を膝の上に持ち上げてどうにか靴下をはいた。食事の後、車で学校に出かけたが、運転をしながらも腰の鈍痛に悩まされた。
学校に着くと、仕事に追われているうちにしだいに腰痛を忘れていたが、それでもときおり襲い掛かってくる。歯茎が腫れて医者に行ったときも、診察台の上で起き上がれなくて困った。口を水ですすぐために、いちいち体を半身にして、腕の力で起き上がるのだから大変である。
こういう体験をしているので、腰が痛いという人の話を聞くと大いに同情する。これは体験者でなければわからない辛さである。
腰痛は腰の筋肉が退化もあるのだろうが、やはりこの時期に発病したのは、過労によるストレスが主な原因だと考えられる。長い教員生活のなかでも、この一年間は私にとって特別だった。新しい高校に転勤して最初の年で、問題の多い1年生のクラスをかかえ、それこそ毎日のように発生する問題に追われ、精神的にも苦労した一年だった。
このストレスを私は押し殺して、家人にも友人にも告げなかったが、私の肉体は正直に悲鳴をあげて、これが腰痛や歯痛などの症状として現れたのだろう。それが証拠に、次の年に担任を外れて心が軽くなると、腰痛も歯の痛みも嘘のように消えてしまった。
ただ、高血圧だけはそう簡単におさまらなかった。この後遺症を克服するために、現在に至るまでおよそ9年間も要したたわけだが、今から振り返ってみればこれも貴重な体験だった。こんな悲惨な一年を体験し、これを乗り越えたので、もうたいていのことには驚かない。
たんに精神的に強くなっただけではなく、人生を見る視野が広がり、いろいろなことを深く考えられるようになった。実のところ、こうしてインターネット日記を書き始めたのも、その頃からである。この足かけ9年間におよぶ日記も、その貴重な人生体験の果実だといえないことはない。
(今日の一首)
病得てはじめて分かる憂きことを 忍んで耐える人のつらさを
12年ほど前から血圧が上がり始め、9年前にはとうとう最高血圧が180を越えるまでになった。耳鳴りや眩暈に襲われるようになり、心臓に不整脈があらわれ、夜中も熟睡できなくなったので、近所の市民病院に行った。病院で医者から、「心臓肥大や動脈硬化もはじまっていて、このまま放置しておくと心臓病や脳機能障害もおこしかねない」と脅かされた。
そこで降圧剤を飲み始めたが、そうすると体がだるくなったり、眠くなったりと、いろいろと副作用が現れてきた。それでも下がらないので、1錠を2錠にふやしてもらい、毎朝せっせと飲み続けた。そうすると今度は胃痛がおこり、降圧剤に加えて胃薬まで飲むはめになった。
これではいけない。なんとかこの薬物依存から脱却したいと、高血圧関係の医学書をよみあさった。そうしているうちに、高血圧の原因がわかってきた。結論を言えば、心臓が頑張りすぎているのである。だから心臓の負担を軽くする生き方をすればいいわけだ。
心臓ががんばらざるを得ない原因として、「仕事のやりすぎ」がある。もう若くもないのに、仕事を抱え込んでいた。周囲の期待に応えようとしてつい能力以上の仕事をひきうてしまう。これがストレスとなって心臓にのしかかっていたわけだ。
そこでもう見栄を捨てて、適当に仕事をこなし、年休もぎりぎり年間20日間とることにした。生徒や同僚や上司から「あいつは教師失格だ」と陰口を叩かれるかもしれないが、そうしたあまりありがたくない評価も自分の健康のために甘受しようと決めた。こうしてオーバーワークからくる心の負担やストレスをできるだけ減らそうとした。
これと同時に、体重を減らすことも考えた。ものの本を読むと、体重を減らすことで心臓の負担はかなり軽減されると書いてある。そこで当時70キロあった体重を60キロまで減らすことにした。一日3食ではなく、朝と夜は0.5食にして、「一日二食」を目差した。
さらに、毎日30分は散歩することにした。仕事と体重の減量、そして適度の運動、この3つを実行するようになって、しだいに血圧が下がり始めた。2錠飲んでいた降圧剤は1錠になり、やがて半分に割って服用するようになった。
そして今年の春からはもう薬はまったく飲んでいない。それでも最高血圧はたいがい140未満におさまっている。こうして私は薬物依存から脱却した。眩暈や耳鳴り、不眠に悩まされていたのが嘘のようである。できることなら、今後も薬物とは無縁のすこやかな生活を送りたいものだと思っている。
(今日の一首)
なにごとも控えめがよし減食で 心身かるくこころも虹色
向精神薬のひとつであるリタリンの乱用が最近日本でも問題になっている。9月18日には新宿区の診療所「東京クリニック」が、医師のずさんな手続きにより向精神薬「リタリン」を大量に処方していたとして、東京都と新宿区の立ち入り検査を受けている。
リタリンは塩酸メチルフェニデートという成分を有効成分とする中枢神経興奮剤で、これを飲めば一時的に気分がよくなるらしい。しかし、これは麻薬の一種で、これを飲み始めると、やがてこの薬なしには社会生活も行えなくなる。
もともとこの薬は、アメリカで注意欠陥多動性障害(ADHD)と診断された児童への治療薬として用いられていた。ADHDの子どもは落ち着きがなく、ひとつのことに集中することができない。これは前頭葉の障害で感情の抑制がきかなくためだとされた。
そこにADHD治療の決定打として登場したのが、向精神薬のリタリンだった。そして米国のリタリン消費量は1990年から1995年までの6年間で6倍に膨れ上がった。1995年には、米国の6歳から14歳の全ての少年のうち、10〜12%がADHDありと診断され、これらの子どもたちに積極的にリタリンが処方されたのだという。
学校の保健室にはリタリンが常備され、これを飲んだ子どもたちは「リタリンを飲めばハイになれる」ということを学習した。やがて仕事に追われた教師たちも、精神をハイにするためにこれに依存するようになり、この薬の評判はたちまち広がっていった。
やがて大人たちもわれがちにリタリンを求めるようになり、アメリカ一国でのリタリンの消費量は、3億錠をこえた。製薬会社はこれで莫大な利益を上げたが、これによってアメリカ社会は完全な薬物依存社会になってしまった。1990年から1999年の10年間で、世界でのリタリン生産量は700%増加、その90%が米国で消費されていた。
リタリンを飲めば気持がハイになり、たしかに仕事もばりばりできる。しかしそれは最初のうちだけで、やがて依存が深まると、さまざまな副作用があらわれてくる。妄想が現れ、自殺や犯罪に走る人たちも出てくる。
1999年、コロンバイン高校の銃乱射事件の犯人の一人である18歳のエリック・ハリスもセロトニン抑制剤の服用しており、有害な幻覚を体験していたという。その少し前、ジョージア州の高校で銃を発砲し6人のクラスメートに重軽傷を負わせた15歳の少年も、リタリンを服用していた。
なお、1998年にADHDの世界中の権威が集まった米国国立衛生研究所の大会で、「ADHDに関する、有効な、独立したテストはなんら存在せず、ADHDが脳の機能障害であることを示すなんらの証拠もなく、ADHDの原因に対する我々の知識はまだ推測である。」と結論付けられた。ADHD が脳の機能障害であるという学説も現在では科学的根拠がないものとして否定されている。
こうしたことから、アメリカでは現在、ADHDの生徒に対するリタリン投与を禁止する動きが広がっている。「仮にその子どもがADHDだとしても、それは訓練を受けた学校スタッフの余裕ある、きめ細かな教育姿勢で対応していく」という潮流が少しずつ広がってきているのだという。「子どもを落ち着かせたい」という大人の都合で薬物を投与するのは、ある意味で教育や育児の放棄だとみなされてもしかたがない。
アメリカで生じた悲劇が日本でも起こりつつある。東京都内のある心療内科の医師は、現在日本の精神病院で行われていることは、「構造的には麻薬の売人が中毒にさせて、ヤクを売りつけるのと変らないでしょう」(「プレーボーイ」10/15号)と告発する。たしかに営利主義を追求すれば、こうした恐るべき医療破壊が日本の医療機関で常態化しないとも限らない。
日本でもようやくリタリンの規制がはじまろうとしているが、薬害はすでにもっと広く日本社会を蝕みつつある。私たちは「あらゆる薬物が毒である」という基本的な認識をもつ必要がある。大切なのは、私たち一人ひとりが自覚して、薬物にたよらなくてすむ生き方をすることだ。そして薬物に依存せずに暮らすことができる健全な社会を目差したい。
(参考サイト)
http://allabout.co.jp/children/ikujinow/closeup/CU20070920A/index.htm
(今日の一首)
たのしみは日記書き終え青白き 障子の明かりなにげに見るとき
経済のグローバル化(アメリカ化)で得をするのは大企業や裕福な人たちで、彼らは収入もふえるし、国境を越えて資産を移動し、国際的なファンドに投資して儲けることができる。
しかし、庶民はこのグローバル化で職を失い、労働力まで買い叩かれ、物価は上がり、賃金は下がるという究極のデフレを体験することになる。医療難民や介護難民もこれから増え続けるだろう。
森永卓郎さんが言うとおり、日本はこれからもますます格差社会になり、やがて私たち庶民の平均年収が300万円を切る時代がくるのかも知れない。
そこで、私たち庶民にもいろいろな生き残り戦略を考えなければいけない。節約してお金をため、これで株を買ったり、ファンドに投資することも一つの方法だろう。しかし、これがうまくいくという保障があるわけではない。あまり欲気をだすと、虎の子の年金や退職金までむしりとられないとも限らない。
そこで私が考えたのは、お金や地位がすべてという価値観を捨てる生き方である。お金がないからと言って卑屈にならずに、貧乏もまた気軽でいいものだと割り切るのだ。そうすれば利殖のことであくせくすることなくなる。お金や資産があっても幸せとは限らない。財産よりも大切なものがたくさんある。そうしたものに眼が向けば、人生の視野が大きく開ける。
現に、フィリピンなどへ行くと、貧乏をしているのに、みんな結構たのしそうにしている。それは人と人との間に、あたたかい相互扶助の関係があるからだ。おそらく、少し前までの日本にもあったような、なつかしいぬくもりと優しさが、そこここにあふれている。
しかし、お金がすべてではないからといって、これを否定して、清貧に甘んじるということもなかなかむつかしい。お金の価値を否定するのではなく、むしろこれを便利なものとして使いこなし、人生をゆたかにする一助として活用したらどうだろう。
そこで私がおすすめしたいのは、狭い日本から飛び出して、自分自身も思い切ってグローバル化する生き方である。日本から飛び出すといっても、日本人をやめるわけではない。日本人でありながら、同時に地球市民として、大きな視野や志をもって生きるのだ。
年収300万円といえば、日本でこそ低所得だが、海外の標準からすればまだまだ高所得である。それなら、日本で稼いだお金を、もっと別の、物価の安いところで使えばよい。たんに自分の生活のためだけではなく、ボランティアとして活動する事だってできる。
たとえば、フィリピンなら年間100万円もあれば夫婦で悠々と暮らすことができる。私の知人の夫婦は年間80万円足らずで暮らしながら、現地の子どもたちにバスケットを教えたり、経済的な援助までしている。
少ない年収でそんなゆとりのある生き方ができるのも、フィリピンでは日本の100万円が500万円ほどの価値があるからだ。日本はお金を稼ぐにはよくても、お金を使うにはあまりよいところではない。お金の価値に比べて物価が高いからである。そうするとお金の使い道が自ずから限られてしまう。自分だけの生活で精一杯になり、ますます視野狭窄に陥るわけだ。
というわけで、私は定年後は1年の半分はよその国で過ごそうと思っている。そうすれば年収300万円でもゆとりのある暮らしができる。それに豊かな自然や、あふれる人情につつまれて、精神的にもゆたかになれる。地球市民としての視野をもてば、いろいろな工夫も浮かび、面白おかしく人生をたのしむことができそうだ。
(今日の一首)
人生はたのしむものなり憂き世さえ 生き方変えればしあわせの園
2007年10月09日(火) |
コスモスとモズと富有柿 |
今頃はコスモスがきれいだ。風に揺れている風情がとてもよい。散歩道にもコスモスが咲いて、一斉に風に揺れている。まるで私に微笑みかけているようだ。
そのコスモスのかたわらを抜けて、妻の畑に足を運ぶ。そして、私が2年前に植えた富有柿を見る。植えたときは私の膝ほどだったのが、今は私の背丈を越えている。
ただ枝ぶりはよくない。ただひょろひょろと上に伸びて、先端ちかくに大きな葉を何枚も茂らせているので、とても不安定だ。すこし強い風が吹くと折れてしまいそうなのが心配である。
その危険性は柿も感じているのか、最近は伸びるのをやめて、栄養を本体の幹にまわしはじめた。緑色だった茎の色も、いくらか茶色になって、木の肌らしくなってきた。この調子で少しずつ幹が太っていけば、なんとかこの冬は越せるのではないか。
山国に火色の赤き富有柿
これは森澄雄さんの句である。私の植えた富有柿にも来年あたり赤い実が一つか二つは生ってくれるかもしれない。来年のことを言えば鬼が笑うだろうが、これは私のささやかな楽しみであり、願いなのだ。
柿木の今日は高みにかたつむり
これは飴山實(あめやまみのる)という人の俳句である。柿の句のなかでも私が好きな句である。飴山さんは細菌学の研究者で、俳人の長谷川櫂さんのお師匠さんだというくらしか知識がない。この句も長谷川さんの「俳句的生活」(中公新書)という本で見つけたものだ。
柿木の高みに探すかたつむり 裕
飴山さんの句が念頭にあるので、柿木を見上げるたびに、なんとなくカタツムリをさがす。そして、こんな駄句をつぶやいていると、いきなり近くで鳥の鋭い叫び声がした。見るとモズである。棹の上に止まり、もう早々と高鳴きをしている。
このモズとも長い付き合いだ。私たちは夫婦とはすっかり顔なじみになっている。今年もよろしくと、私たちに挨拶をしているようにも聞こえた。
(今日の一首)
コスモスのゆれる畑にモズがきて 高らかに鳴く秋は来にけり
昨日は久しぶりに関西に旅をした。豊中市の「よみうり文化ホール」で「銀の鈴」という演劇を鑑賞するためである。8:20にJR木曽川駅を出て、岐阜、米原と乗り継ぎ、新大阪に10時半ごろついた。そこで少し早い昼飯をたべた。
地下鉄御堂筋線で千里中央駅へ着いたのが12時少し前。開演の1時まで少し間があったので、喫茶店でパンフレットを読み返しながらコーヒーを飲んだ。
「銀の鈴」は学童疎開船「対馬丸」の悲劇を描いている。劇団ARKの主宰者で、脚本・演出を担当している斎藤さんの文章をパンフレットから一部引用しよう。
<物語は昭和19年8月に沖縄を出発した学童疎開船「対馬丸」をベースにした作品です。8月22日夜半、米潜水艦の攻撃を受け、1418名(そのうち学童738名)の犠牲を出した痛ましい事件です。奇しくも今年は沖縄返還35周年、そして海底に沈む対馬丸発見から10年目の節目でもあります>
私は名古屋で斎藤さんとお会いしている。そのとき、「銀の鈴」の脚本をいただいた。これはとてもすばらしい作品である。ぜひとも劇を見たいと思っていたら、斎藤さんから招待券を送っていただいた。ありがたいことである。開演の1時が待ちきれない思いで、少し早めにホールの席についた。
劇の前に、対馬丸の生き証人の一人である上原妙さんが舞台に現れ、63年前の体験を話してくださった。疎開学童は軍艦で運ばれると聞いていたが、実際は輸送船だった。対馬丸は全長が100メートルをこす貨物船で、その真っ暗な大きな船倉に千名あまりがおしこまれた。
潜水艦の魚雷を受けて沈没するとき、多くの子どもたちはその船倉にとじこめられた。甲板に上がろうにも、4つあった梯子はどれもちぎれて、這い登ることさえできない。
「ちょうど、このホールくらいでしょうか。壁が絶壁のように高いのです。そこに水が浸入してきました。私はたまたま甲板で寝ていました。でも、多くの学童は船倉にとりのこされ、泣き喚いていました。その声が聞こえてきたのです」
上原さんは当時14歳だったという。甲板から海に飛び込み、台風で荒れる海に3日間漂流したあげく、奇跡的に生還した。戦後は美容学校を卒業して、沖縄で50数年間美容師をしているのだという。上原さんの生々しい証言を聞きながら、私たちはもうすでに非日常的な異時空間にひきこまれていた。
「銀の鈴」は若者たちの荒々しいダンスから始まった。舞台のうえ一杯に、50人ほどの若い娘たちが野獣のように身をくねらせ、踊り狂う。その生命の乱舞に、まず度肝をぬかれた。そして彼女たちの乱舞が終わると、舞台は一転して静寂につつまれる。
そこに子どもたちがあらわれ、教師があらわれる。そして能の夢幻劇のような印象的な会話がかわされ、生と死が交錯する中で、対馬丸の悲劇が語られていく。私はたちまち63年前の沖縄に連れだされ、そして対馬丸の船倉に閉じ込められたような重苦しさを味わう。私自身がいつのまにか、その事件の中に巻き込まれているような緊張が、臨場感あふれた迫力となって伝わってきた。
舞台は無駄を省いて、簡潔そのものだ。舞台装置らしいものは何もない。生演奏を奏でるピアノと管弦楽の人たちを除けば、そこにはただ何もない空間だけがある。ところが登場人物の会話がそこに、まざまざと事物を浮かび上がらせる。
お国のためを思い、自らを省みようとしない純真でひたむきな児童たち。そして危険と知りながら生徒や親を説得して輸送船にのせる教師たちの苦悩。市長や軍人が登場し、こうして劇はクライマックスの悲劇へと流れていく。悲劇を知り、慟哭する教師。私も泣いたが、観客席から多くのすすり泣きの声が漏れていた。
この深い悲しみのあと、舞台にふたたび、沖縄の民族衣装を着たきらびやかな踊り子たちが登場する。そして沖縄から参加した「沖縄かりゆし会」の豪壮な太鼓や小太鼓、三味線が鳴り響き、最後は総勢113名の登場人物がすべて勢ぞろいして踊り戯れる。私たち観客も手拍子でこれに参加する。
戦争は悲惨だが、この地獄の体験を乗り越えて、沖縄の人たちはたくましく生きてきた。もはやふたたび「お国のために」という言葉をはびこらせてはいけない。軍人をのさばらせてはいけない。なぜなら私たちはお国の奴隷ではない。人殺しの機械でもない。人を愛し、平和を愛する「人間」なのだから。
そして人間とはほんらいすばらしいものだ。人生とは生きるに値するものなのだ。生命より他に尊いものはない。最後の大団円はそんな力強いメッセージで私たちの心に勇気を与えてくれた。なんとも感動的な舞台だった。
対馬丸の悲劇は当局によって隠された。この事件が知られるようになったのは、戦後になってからだ。しかし、戦後62年がたった今も、対馬丸は悪石島近海の水深871メートルの深海に、多くの子どもたちの命を抱いたまま沈んでいるのだという。 (今日の一首)
銀の鈴あたえし娘は今もなお 海底深く闇に眠れり
2007年10月07日(日) |
夕べに死すとも可なり |
小学生の頃、空に浮かぶ雲に乗ってみたいと思ったことがある。私は雲が水蒸気の塊で、その上に乗ることができないことは知っていた。私はたちどころに地上に落下し、死んでしまうだろう。それでも乗ってみたいと思った。
子どもの頃の私がどうして自分の命までかけて「雲に乗りたい」と思ったのか、今の私には理解できない。しかしそうした強力な感情を持ったことを、私は思い出すことができる。それはなんだか、ひりひりするような、焼け付くような欲望だった。
中学生になって、私は今度は「月面に立ちたい」という渇望を覚えた。月面には空気はなく、呼吸できないのでたちどころに死んでしまう。それどころか、真空だと圧力もないので、私の目は飛び出し、皮膚は破裂し、血液は瞬間的に沸騰するだろう。
SF小説に熱中していた中学生の私には、月面に立つとどうなるのか理解していた。それでも、その一瞬の死の間際に、月面の世界を見ることができる。そしてその一瞬のため、死んでしまってもかまわないと思った。
さすが高校生になって、私はそんな無邪気な考えを捨てた。もはや命を犠牲にしてまで雲に乗りたいとも、月面に立ちたいとも思わない。そのかわり、私はもっと別のものに憧れるようになった。それは「人生の真理」について知りたいと思ったのである。
「論語(里仁篇)」に、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(朝聞道、夕死可矣)という孔子の言葉がある。「朝に真理を知ったなら、もうその日の夕方死んでもかまわない」というこの言葉に、私は強く引かれた。
その頃の私は、真理というものは啓示のようにして天から与えられるものだと考えていた。もしその神秘的な啓示によって、人生の真理が私の心にあきらかになれば、もうそれだけで満足である。たとえその日のうちに死んでしまってもかまわないと、ある瞬間、本気でそう考えたことがあった。
現在の私は、こうした心境からはずいぶん遠くにいる。自然界の神秘にも、人生の真理を探求したい気持もないではないが、それに命をかけようなどとは思わない。神様も仏様も、基本的には信じていない。そもそも人生に意味があるのかどうかさえ疑っている。
それでも、散歩していて美しい雲を見ると、ふと童心に返り、昔の憧れを思い出す。月を見れば、かすかに心が動く。そして「論語」の孔子の言葉をつぶやいていると、心が美しく澄みとおるようで、なんだか朗らかな気分になる。
(今日の一首)
初秋の河原にそそぐ日のひかり 小石の影も鮮やかに見ゆ
あれはいつのころだったのか、小学生の高学年だったと思うのだが、「人はみんなお芝居をしているのではないか」とふと、疑問に思ったことがある。その頃の考えでは、「お芝居をする」というのは、「本心を隠して、嘘をつく」というくらいの、ネガティブな意味だった。
そんな疑問を持ったのは、私自身が「お芝居」をして、人をだましてばかりいたからだ。そして自己不信がやがて他者不信となり、回りの人間がみんなお芝居をして生きているように見えたのだろう。
この「みんなお芝居をして生きている」という思いは、それから折に触れて、私の中によみがえり、強化されていった。そしてそんなことを考えているのは、自分だけでないことを知った。シェークスピアもくり返し「人生は舞台で、我々はその役者だ」と登場人物に語らせている。
「人生は舞台だ。ひとはみな役者」(お気に召すまま) 「人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、舞台の上でおおげさにみえをきっても、出場が終われば消えてしまう。」(マクベス)
このシェークスピアの言葉に出会って、大いに我が意を得たりと思ったものだ。そして、「みんなお芝居をしているのだから、自分もお芝居をすればいいのだ」と思うようになった。そしてそうした眼でまわりの人たちを見渡すと、なかなかどうして、たいした俳優たちではないか。
そこで、私も人生という舞台で演技力を磨き、できることなら名優といわれる役者になってみたいと思うようになった。鏡の前で表情を工夫してみたり、歩き方とか話し方にも気を使い、なるべく魅力的なキャラを演じる努力をする。そしてみんなと一緒にお芝居をして、このつかの間の人生を楽しもうというわけである。
こうなるともう、「人生は舞台だ」という意味は、「人間不信」といったネガティブなものではなくなっている。私たちはそこから、人生に対するポジティブな姿勢さえ導きだすことさえできる。
どんなつらい状況に置かれても、「ああ今自分は、その辛い役を引き受けて演じているのだ。それなら、精一杯その役を立派に演じて見せればよい」と考える。そうすると、不思議にそのつらいことさえ、たのしめるようになる。自分というものをすこし突き放して、客観的に眺められるからだ。
世界という大きな舞台で、私たち一人一人は多くの場合、しがない脇役である。日のあたらない日陰の役かもしれない。しかし、たとえ脇役でも、その与えられた役を精一杯演じればよい。脇役に名優ありという意気込みで、自分の演技に磨きをかけてはどうか。こんな風に前向きに考えて生きてみてはどうだろう。
小学生の頃、ふと生じた疑問からはじまった私の「人生は舞台だ」という思想は、こうして私の中で次第に成熟し、ひとつの人生哲学にまでになった。しかし、役者としての私は、いつまでも二流である。おそらくこのまま、不器用な大根役者として、舞台の端っこでまごまごしながら生きて行くのだろう。
人生芝居 人生は筋書きのないドラマ、 私たちはみんな役者だ。 筋書きはみんなでつくる。 そしてみんなで演じる。 時には善人になり、人を助け、 時には悪人になり、人を貶める。 すべては、めぐりあわせ。 嘘つきがいて、正直者がいる。 美人がいて、不美人がいる。 主役がいて、端役がいる。
いろんな役者がいて、 面白いお芝居ができあがる。 みんな一人ひとり、 かけがえの役者なのだ。
運不運も、つらい試練も、 すべてはお芝居だとおもって、 その役をちょっと気取って演じてみる。
悲しいときは、悲しい役を楽しみ、 嬉しいときは、嬉しい役を楽しむ。 そんな心がけで生きていけば、 こころが少しだけ軽くなる。 どんな人生でも それなりに面白い。 (今日の一首)
大空をはるばるとゆく白鳥の すがた爽やかこころ慰む
今年の元旦から「今日の短歌」と題して、日記に毎日一首ずつ短歌らしいものを連載している。短歌は自己流に気楽に作ることにしている。つたない作でも、あとで読み返してみると楽しい。そのときの気持がよみがえり、なつかしくなる。しかも、時がたつにつれて熟成するようだ。
日記はセブに3週間滞在したあいだも書いていた。こうしてセブ滞在中の短歌も20首あまり生まれた。今日はこれらの短歌を「セブの形見の歌」と題して、まとめて掲載しよう。
「セブのかたみの歌」(2009,7,22 〜8.15)
異国へと旅たつ朝は格別にコーヒーうましひとり味わう
一人旅なれどいつしか二人旅そして無数の出会いもたのし
あたたかき風につつまれ南国の街を歩けばいつか夕暮れ
椰子の木の葉陰に立てる少女ありわれも憩へり少女の笑みに
学校の韓国料理食べ飽きてしばし外食これもたのしみ
真夜中に雨の音きく南国の森のみどりを訪ねてみたし
椰子の葉を揺らしていたり潮風がわれにささやくかかる日はよし
ロボックの川の流れはゆるやかで椰子の葉しげる岸辺は異郷
いたるとこ泉がありてロボックの川はみどりを映していたり
ま裸の少年ひとり泳ぎ来て船べりに寄る白き歯を見せ
滝壷に舟を浮かべてあれ見よと異国の青年花を指したり
小夜ふけて異国の街をさまよえば心もただよふ月の明りに
滝つぼを背にして微笑む男女あり異国の青年君と寄り添う
雨上がりムーン・カフェでビール飲むワサビタコスを皆で食べつつ
はっぴ着て鉢巻をするおとめらのりりしき笑顔なつかしきかな
肌の色言葉もちがう異国人なれどわれらはみんなひとつ
肩並べ夜景を見れば花火見ゆ娘のごとく君をいとしむ
浜辺にて夜空を見ればひさかたに天の川見る椰子の葉陰に
椰子の葉の家に泊まれば星月夜風の音までやさしく届く
あたたかな人の心にいくたびも触れ行く旅はたのしくあるかな
思い出の写真眺めてしみじみと出会いの幸を噛みしめている
異国にて英語を学び今日もまたわれをゆさぶる新たなことば
いつしかや異国になじみ友人と会話たのしむ拙なき英語で
友と飲み語れば楽しセブの夜ナイトクラブのやさしい歌声
セブ島の白き浜辺を見下ろして別れを告げる雲の上より
思い出の白き貝を耳に寄せセブの海鳴りなつかしく聴く
家族そろいひさかたぶりの団欒に旅の写真も彩り添える
異国語を学べばたのし美しき世界が見えるわれらはひとつ
ものくれと痩せたかいなを突き出して挑むまなざしセブの子あはれ
飢えた子の哀しき瞳はいつまでも心に残りさびしかりけり
蒼白き時の流れに身をまかせ息をしている星のかたすみ
旅すればそこがふるさとしみじみとなつかしきかな異国の町も
この3年間、セブの英語学校で学んで、どうにか英語でサバイバルできる自信ができた。来年の夏は英語学校は一休みして、セブのダイビングスクールに2週間ほど滞在しようかと思っている。そこでダイビングの国際ライセンスを取ろうと思う。妻もダイビングに乗り気なので、来年は夫婦でセブへということになりそうだ。
(今日の短歌)
美酒のごと心に薫る旅の歌 海の青さよ砂の白さよ
2007年10月04日(木) |
生かされて生きる人生 |
42歳の頃、父を亡くし、それからしばらくしてから「自伝」を書き始めた。毎日、500字くらいを4年間書き続けた。こうして「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「就職まで」の4部作を完成した。
「自伝」を書いてよかったことがある。自分を振り返り、自分がいかに多くの存在に守られ、支えられて生きて生きたか、そのことに気づいたからだ。自伝を書きながら、自分は何と幸せ者だろうと思った。
それまでの自分は、大学や大学院に合格できたのも、難関だった教員試験に合格できたのも、すべては自分の才能と努力の結果だと思っていた。
ところが日記を書いていて、この認識が崩れた。自助努力の部分はむしろわずかで、むしろ私が「幸運な偶然」と呼びたくなるような「ご縁」のおかげが大きいことに気づいた。私の人生を織物に例えると、それは様々な人々との出会いによってもたらされた「ご縁」の糸によって紡がれていた。このことが痛いほどわかった。
仏教ではこうした人生のあり方を「因縁」という言葉で説明する。人生は因果論が支配する必然の糸だけでできているのではない。これを縦糸とすれば、もうひとつ「縁起」という自己を越えた偶然性に支配された横糸が重要である。この必然と偶然という二つの糸で独特の形に紡がれたのが私の人生であったわけである。
たとえば、私が大学で物理学を専攻し、理科の教師になったのは、私が中学1年生のとき出合った井上さんの存在があったからである。福井大学の物理学科の学生である井上さんが私の家に下宿したのは本当に偶然である。しかし、私は彼から物理の面白さを学んだ。
美しき未知の世界や物理学
彼は半紙に筆でこう書いて、床の間に掲げていたが、中学生の私はそれを眺め、彼から自然科学の魅力を学んだ。井上さんとの出会いがなければ、私の人生は別のものになっていただろう。
これは一例で、私の人生はこうした偶然な出会いによって紡がれてきた。もちろん私自身の努力もあったが、よく考えてみれば、私が努力家になれたのも、こうした人々の支えや励ましがあったからだ。
こうした視点から書いたのが、「人間を守るもの」という300枚ほどの文章である。これを4ケ月ほどかけて、毎晩2時間ほどパソコンの前に座り、こつこつと書いた。
ハイデガーや道元、親鸞など、古今東西のさまざまな書を引用して、かなりむつかしく書かれているが、その主張を要約すれば、「人はいろいろな存在に支えられ、守られて生きている」ということである。
これを書いたことで、自分の思想的立脚点がさらにはっきりした。政治や経済についてもはっきりとした視点が得られ、こうして「橋本裕の経済学入門」「共生論入門」がかかれ、「何でも研究室」に置かれているさまざまな論文がいまも書きつがれている。
こうして考えてみると、45歳の頃から4年間を投じて「自分史」を書いたことが、その後の自分の人生を変える転換点だったのだろう。そしてここにも、「父の死」という偶然が関わっている。
この話をある人にしたら、「必然と偶然の割合は?」と聞かれた。私の答えは、「必然が1とすれば、偶然が9かな。そもそも必然も偶然の賜物だし、その逆もいえる。この二つの糸は不可分に綯い合わされて人生の織物を作り出しているのでしょうね」というものだ。
偶然も仏教ではたんなる偶然ではない。それは「ご縁」なのだ。「袖摺りあうも多少の縁」というときの「ご縁」である。これをより高次な必然、すなわち天の配剤と考えることもできる。私たちは親鸞のいう「絶対他力の世界」に生かされているのかも知れない。 (今日の一首)
稲の穂の黄金に熟れてほのかなる かをりただよふ野中の小径
2007年10月03日(水) |
日本企業の社会負担率 |
日本経済新聞の調査によると、大企業経営者の7割が「税制の抜本改正」を望んでいるそうである。税制改正のテーマとして、法人税率引き下げを柱とする「企業の国際競争力」をあげた経営者は95%にのぼっているらしい。
<調査は13日から14日にかけて実施。メーカー、金融機関、流通、商社など大手43社のトップから回答を得た。企業に課す各種税金の合計実効税率(1月時点)を見ると、日本は40.7%(大手会計事務所調べ)と経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の27.8%を上回る。調査は法人減税に対する産業界の期待を裏付けた。
企業に課す各種税金の合計実効税率(1月時点)を見ると、日本は40.7%と経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の27.8%を上回る。調査は法人減税に対する産業界の期待を裏付けた>(日経新聞9月16日)
この統計だけ見ると、欧米と比べていかにも日本企業の負担が大きいように受け取れるが、ほんとうにそうだろうか。統計をもう少し批判的に見てみよう。
まず、<実効税率(1月時点)を見ると、日本は40.7%(大手会計事務所調べ)と経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の27.8%を上回る>というのは間違いない。財務省の統計をみれば一目瞭然である。
ただしOECD平均値が低いのには理由がある。それは欧州がとくに低いからだ。アメリカの場合を見ると、日本よりも実行税率が高くなっている。たとえばニューヨーク州の場合は45パーセント。カルフォルニア州でも41パーセントだ。
それではなぜ、フランスやドイツなど欧州の法人税率が低いのか。それには2つの理由がある。一つは消費税率の違いだ。日本企業の場合は5パーセントですむが、欧州の企業は20パーセントを超える税率をかけられている。消費税は「付加価値税」と呼ばれ、企業も物品を購入した場合など、かなり払っている。財務省の統計を見れば、その様子がわかる。
たとえばイギリスは法人税の実効税率は30パーセントだが、そのかわり、付加価値税は17.5パーセントもある。様々な優遇措置はあるとしても、建前としては日本の3倍以上の消費税を欧州の企業は支払っているわけだ。
さらにもう一つ、企業の公的負担として大きくのしかかっているのが、社会保険料だ。これが欧州の企業では大きい。したがって企業の社会負担率をいうのであれば、単に法人税の実効倍率でいうのではなく、この3者の綜合値で判断すべきである。その負担率(GDP比)は次のとおりになっている。
日本 7.6パーセント ドイツ 9.1パーセント フランス 14.0パーセント
フランスの企業は日本の2倍くらい社会負担金を払っている。これでは競争にならないということで、とうとうサルコジが政権をとった。
いま企業には金があまっている。経済誌「エコノミスト」によると、企業の余剰金は04年の一年間だけで16.2兆円も発生し、82兆円にも積み上がっているそうだ。企業の負担を増やすと国際競争に負けるなどという財界の言い分はどうみても現実とあっていない。森永卓郎も「構造改革の時代をどう生きるか」で、こう書いている。
<2002年から2007年の5年間で、名目GDPは22兆円増えた。つまり、今回の景気拡大期に我々は成長の成果を22兆円手にしたことになる。その成果は、どのように分配されたのか。
GDP統計では雇用者報酬という項目で労働者が手にした報酬の総額を見ることができる。この雇用者報酬を5年前と比べると、5兆円減少しているのだ。つまり、成長の成果が22兆円もあったのに、働く人へは一銭も分配されなかったどころか、5兆円も分配をへらされていたのだ。
しかも、5年間で家計部門は5兆円の増税を受け、4兆円の社会保障費負担増を受けている。家計は合計14兆円も手取りが減ったことになるのだ。
一方、成長の成果を独り占めし、さらに労働者への支払いを5兆円も減らした企業部門は、当然ながら絶好調になる。上場企業の決算が5年連続で増益になったのも、そのためだ。そのなかで、企業が株主に支払う配当金は5年で3倍になった。そして大企業の役員の一人当たりの報酬は5年で倍増した。
その一方で、サラリーマンの年収は8年連続で減り続け、さらに年収100万円程度の非正規社員層が劇的に増えた。「労働調査」によると、2007年3月の非正規社員数は1726万人で、5年前に比べると320万人も増えている。非正規社員の占める比率は34パーセントで、働く人の3分の1以上が低賃金層になってしまったのだ。
OECDが06年に発表した加盟国の貧困率ランキングでは、日本は米国に次いで第2の貧困率の高さになっている。一億総中流社会は、はるか彼方に去り、日本はすでに格差国際大会で銀メダルを獲得しているのだ。
富める者はますます富み、庶民がズルズルと沈んでいく。それにもかかわらず、相変わらず国民は構造改革路線を支持し続ける。それは一体何故か。
小泉構造改革がもたらしたのは、単に格差拡大だけではない。拝金主義も同時にもたらしたのだ。その拝金主義が構造改革を支える原動力になっている>
森永さんが独協大学のゼミで、学生に「自分が社会に出た後、いわゆる勝ち組になれると思っている人」と質問したら、20人中2人だけだったそうだ。ところが、「それでは、一夜にしてホリエモンのような大金持ちが生まれるような、弱肉強食だけどチャンスがある社会の方がよいと思う人」と聞くと、今度はほぼ全員が手を上げたという。
9月17日の朝日新聞によると、電話による無作為世論調査(有効回答1152人)の結果は、小泉前首相から続いてきた経済成長や競争重視の改革路線について、「受け継いでほしい」という回答が54パーセントで、「そうは思わない」の36パーセントをかなり上回っているらしい。
たとえ格差が広がっても、一攫千金のチャンスがあるほうがよいと多くの人が考える社会を、評論家の二木啓孝さんは「パチンコ型社会」と呼んでいる。パチンコ社会の住民は、負けが込んでも、パチンコを止めることはできなくなる。
小泉式のアメリカ式構造改革を続ければ、日本はさらに貧困率の高い格差社会になっていく。新しく誕生した福田政権のキャッチフレーズは「自立と共生」「希望と安心」だという。掛け声だけに終わらず、国民生活優先の政策を実行すべきだ。日本の政治は企業と株主優先の弱肉強食社会ではなく、庶民にやさしい共生社会を目差してほしい。
(今日の一首)
あきあかね我を追い抜き振り返る 大きなまなこモノ問いたげに
5年半にわたる小泉構造改革がもたらしたものは何か。それは日本経済を大企業と株主優先の体質につくりかえ、庶民からお金持ちへと所得移転を恒常的に可能にするシステムをつくりあげたことだろう。
これによって日本は世界でも有数の格差社会へと変貌してしまった。たとえば1997年から2007年までの10年間で、国民所得においてつぎのような顕著な変化が見られた。
1.勤労者の所得は、20兆円減る。(5兆円以上増税。社会保険料7兆円以上アップ) 2.企業利益は27兆円増加。(1兆円以上減税) 3.株主は配当が増え、12兆円も潤う。(優遇税制で増税は1兆円未満)
これでは庶民は浮かばれない。それではどうやったらこの富者優先のしくみを変え、大多数の国民が幸せにくらせる国づくりができるか。この点について、私は日本青年会議所の「経済復興プラン(案)」がよくできていると思う。一部を引用する。
<市場原理とは本質的に非情な弱肉強食の世界であり、強い者は勝ち続け、最終的には一握りの「勝ち組」と大多数の「負け組」で構成される階層社会に行き着く。そんな市場原理の欠陥を補い、全ての国民を救うのが日本の経済政策のあるべき姿である。またそのように国民を救ってこそ、国民は国家を愛することができる。国民の幸せを祈る天皇を象徴とする日本ならではの経済システム(全国民を一人前に育てる仕組み)の確立に向け「経済復興プラン」を提言する>
<日本経済を立て直すため小泉内閣は「小さな政府」を標榜し、構造改革による財政再建を計った。しかしその結果は政権発足後5年間たってもデフレを脱却できず、逆に170兆円の借金増という無残な結果に終わっている。なぜ構造改革は成果を上げることが出来なかったのか。それは「構造改革の欠落」が日本経済低迷の根本原因ではなかったからである>
<政府の借金の残高である政府債務残高の規模も、名目GDP比でみると先進国中最悪の水準である。国と地方の長期債務残高は06年度末には約775兆円に達する見通しである>
<格差が拡大するのは経済規模が拡大しない中で、規制緩和による過当競争が繰り広げられるからである。政府が景気対策を実施し、十分に景気が拡大すれば経済的背景に起因する諸問題は自然に解決の方向へと向かう>
<十分な景気拡大とはその恩恵が全雇用の7割を占める中小企業や、地方に波及することである。そのためには政府が率先して投資を促し名目成長率を上げる手立てを施す必要がある>
<法人所得税の見直し・・・現在大企業は史上最高益を上げ、キャッシュフローの中で債務を縮小し、なおかつ設備投資を行っている。しかも関連中小企業に利益を還元する気配はなく、相変わらず締め付けを行っている。強い立場をいいことに明らかに儲けすぎである。もはや大企業(資本金1億円超)に対しては特例税率30%を維持する理由はなく、即座に本則税率の34.5%に戻すべきである。さらに外形標準課税を強化し所得の再配分を計るべきである>
<個人所得税の見直し・・・所得税に関して高額所得者の税率を上げ、中低所得者の減税を実施し、富の再配分を強化するべきである。一世帯が生む子どもの数には限度がある。したがって全ての世帯が安心して子どもを生めるよう配偶者控除、扶養者控除を強化する必要がある。さらに人口減少に歯止めをかけるために第3子以降には分厚い扶養控除を与えるべきである>
<経済成長にはもう一つのアプローチがある。それは我々国民が消費を拡大することである。個人消費はGDPの6割を占める。つまり国民が今より10%多く消費を楽しめば、それだけでGDPは6%押し上げられ、国の財政問題などはたちどころに解消する>
<「貯蓄が悪、消費は美徳」という話ではない。ただ必要以上の貯蓄(お金を貯めること自体が目的化している貯蓄)は景気に悪影響を与えること。逆に自分たちの生活の質を向上させる(環境に配慮しつつ豊かな消費を楽しむ)ことが経済を発展させ、ひいては自分たちの所得を上げることを理解する必要がある>
<日本経済を発展させ、格差を是正するためには国内でお金をグルグル回すことが必要である。現実的には民間にお金を使えと命令することができない以上、国が財政出動を行うしかない。つまり現在の緊縮財政から積極財政へと政策転換をしなくてはならないのである>
<物価が上昇する中で、金利が低く抑え続けられると、預金の実質的価値が目減りする。その結果投資が過熱してバブルを引き起こす危険性が出てくる。バブルは弾けると一気にデフレへ突入するため、未然に防がなくてはならない。しかしながらこのような心配はデフレを脱却し、景気が過熱気味になってからすればよい>
<小泉政権による構造改革は財務省主導による歳出削減、規制緩和による市場原理の徹底と不良債権処理と称する弱者切捨てといえる。国民は2年間痛みに耐えるように言われたがが、その結果は二極化の加速であった。05年の貯蓄ゼロ世帯は23.8%と小泉政権発足前の00年の12.4%から2倍増となり、生活保護世帯は105万世帯に達している>
<本来の税制は所得の再配分の観点から考えると、高所得者が多く支払い、所得の少ない人を優遇すべきである。しかし政府は「税制の簡素化、フラット化」という口実で、富裕層を優遇している。所得再分配機能が停止し、所得格差がどんどん開く仕組みになった日本の税制は、強者が弱者をいたわるという日本の伝統的価値観を完全に見失っている>
<特に小泉政権が発足してからは株式譲渡益と配当に対する課税を時限的に半減(20%→10%)し、相続税の最高税率を70%から50%に引き下げる一方で、配偶者特別控除の上乗せ部分の廃止、定率減税の全廃、サラリーマンの医療費窓口負担を三割に上げ、厚生年金と国民年金の保険料も値上げを行うなど、高所得者に優しく、中間層、低所得者に対して厳しい内容になっている>
<「経世済民」という経済の語源が指し示すよう、日本において経済政策とは国民を救うための手段である。上に立つ者は常に弱者のことを考え、富の再配分を十分に考慮し、極端な格差を是正することが安心して暮らせる社会を実現する。高潔で利他のこころ溢れる日本の伝統的価値観を取り戻すことが「美しき日本」を甦らせる>
個人消費のGDPに占める割合は60%もある。これに対して外需はわずか2%程度に過ぎない。ところが多くの国民はこの実態を知らない。外国に製品を売りつけて利益を出さなければ景気はよくならないと思い込んでしまっている。
こういう誤解があるので、景気が悪くなると外需中心に生産性をあげて供給を増やそうとする。小泉構造改革路線がまさにこれだった。ところが、リストラや賃金カットをして生産性を上げると、供給は過剰になり、個人消費が落ち込んだことに加えてますます需要は逼迫する。
こうして小泉政権の構造改革はますますデフレを長期化させてしまった。それでは日本の景気を回復させるにはどうしたらよいのか。それは小泉構造改革と反対のことをすればよい。つまり性産性を上げて供給を増大させるのではなく、需要を増大させる政策を優先的に展開することだ。
そのために国民所得の公平な分配をうながし、福祉・教育や医療のセーフティネットを構築し、国民が安心してお金がつかえる社会を実現すること。そうすれば内需を中心に経済は活性化し、財政再建も不可能ではない。「経済復興プラン」のこうした主張はまさに正鵠を得たものだと思う。
http://www06.jaycee.or.jp/2006/soul/economic/uploads/plan.htm
(今日の一首)
衣替えわれも今日より長袖で 河原歩けばこころも秋色
2007年10月01日(月) |
格差解消でデフレ脱却 |
9月29日の朝日新聞朝刊が一面で「年収200万円以下1023万人、民間平均、9年連続減」と報じている。部分的に引用してみよう。
<民間企業で働く会社員やパート労働者の昨年1年間の平均給与は435万円で、前年度に比べて2万円少なく、9年連続で減少したことが国税庁の民間給与実態調査で分かった。
年収300万円以下の人の層は5年前の34.4%から年々増加しており、昨年は全体の38.8%を占めた。年収300万円から1千万円以下の人の割合は一昨年の57.6%から56.3%に減少した。
一方、年収が1000万円を超えた人は、9万5千人増加して224万人となり、格差の広がりを示す結果となった>
格差が広がり、低所得層がこれ以上拡大すると、家計の支出が抑えられ、消費が冷え込むおそれがでてくる。たしかに石油の高騰や円高といった要因で名目の物価は上昇しているが、そうした特殊要因をのぞくと、いまだに消費者物価は低迷している。
たとえば全国消費者物価指数(CPI)は前年同月比で8月まで7月連続で下落している。9月24日と25日の産経新聞も、短期だった安倍政権の経済政策の結果をつぎのように報じている。
<安倍内閣が25日総辞職する。安倍晋三首相は「成長なくして財政再建なし」を旗印に、高い経済成長を実現して財政再建を目指す「上げ潮」路線を展開した。だが、成否の鍵を握る名目成長率は下方修正され、“公約”とされた平成18年度中のデフレ脱却はいまだ果たせぬまま幕を降ろす。安倍政権の経済運営の評価は、専門家の間ではおおむね厳しいものとなった>
<8月には23年度の経済見通しを名目3・7%に下方修正し、足元の4〜6月期は名実ともマイナス成長に落ち込んだ。景気拡大は続いているが、物価が継続的に下落する「デフレ脱却宣言」もできないままだ。そもそも成長戦略とデフレ脱却は矛盾した政策だったともいえる。規制緩和は値下げ圧力につながり、財政再建は公的需要の削減となる。ともに短期的には物価下落の方向に作用するからだ>
なぜデフレが解消されないのか。これについては、中国から安い製品が入ってくるせいだという説をよくきくが、これはデフレ要因としては主なものではない。どうように中国製品を大量に輸入しているアメリカなど他の国でデフレは起こっていない。デフレに陥ったのは世界中で日本だけだった。むしろつい最近までアメリカやヨーロッパは景気の過熱によるインフレを警戒していた。
規制緩和による競争が激化して、価格崩壊が起こった点は見逃せないが、これも低価格の中国製品の影響よりも、むしろ国内的な要因が大きいのではないか考える。なぜなら個人消費のGDPに占める割合は60%もある。これに対して外需はわずか2%程度に過ぎないからだ。
企業が合理化を進め、収益があがっているが、一方で労働者の賃金が低下している。これによって購買力が減少し、「ものあまり」が生じてくる。つまりお金が足りなくなり、物が売れなくなるわけだ。今後、格差が拡大すると、日本はますますこうした方向に進むのではないだろうか。そして次のようなサイクルが繰り返されることになる。
(格差を広げる政策) ↓ 庶民の収入が減る ↓ モノが買えない ↓ モノが売れない ↓ 物価が下がる。企業のリストラや経営破綻。 ↓ 庶民の収入が減る
このサイクル(デフレスパイラル)が働くあいだ、庶民の収入は減り続ける。そして、ますます格差が拡大する。そしてデフレはお金持ちをもっとお金持ちにし、庶民をどんどん貧乏にする。
この悪循環を断ち切るためには、「庶民の収入をふやす政策」を実施すればよい。そのために、これまで政府は金利政策を発動し、公共事業を行ってきた。私はこれも大切だが、やはり累進課税強化などによる格差是正の政策こそ必要ではないかと考えている。この場合は、シナリオはこうなる。
(累進課税を強化など、格差解消) ↓ 庶民の収入が増える ↓ 購買力が高まる ↓ 売り上げが増える ↓ (景気が拡大。デフレが克服される) ↓ 庶民の収入が増える
賃金格差を容認した上で、デフレを脱却することもできないわけではない。アメリカのように戦争をして需要を喚起したり、大減税をしてお金をばら撒いたり、債権を証券化して、低所得層まで高額の借金ができるようにするわけだ。しかし、こうしたアメリカ流の方法はいつか行き詰りまる。
また、少し前の日本のように、無駄な公共投資に巨額の税金をつぎこむのもばかげている。そうした愚かな時代錯誤の政策をやめて、庶民の賃金破壊をこれ以上容認せず、さらに将来に対する不安を取り除き、安心してお金をつかえるような社会環境を整備しなければならない。その意味で年金の問題も重要になる。
それからもうひとつ大切なことは、日本の宝物である1500兆円もの個人金融資産をできるだけ有効に活用することだ。アメリカの国債を買って戦争に加担したり、外国のハゲタカファンドに流れて、企業買収の資金になっているようでは、日本経済に明るい未来はない。
(今日の一首)
いつのまにサンダル寒い散歩道 歩けばゆれる秋の草花
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