橋本裕の日記
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先日、もう30年以上も前の卒業生から電話をうけた。同窓会で校歌を演奏し、みんなで歌いたいので、楽譜を送ってくれという依頼だった。さっそくファックスで送ったが、そのあとこんなことを考えた。
楽譜はあくまで紙にかかれた記号である。それを書いたのは作曲家だ。作曲者は自分の頭に浮かんだメロディや楽想を音符に書き留める。おそらく楽譜を書く作曲者の頭の中には生々しい「音楽」が鳴り響いているのだろう。それは豊かなクオリアをもった存在だが、それを記号化した楽譜はもはやそうではない。極言すれば紙の上に記された「黒いインクのしみ」でしかない。しかし楽譜を受け取ったひとは、この黒いインキのしみから、再び質感にあふれた音楽を再現する。
楽譜に書くということは、音楽という色彩豊かなアナログ的具象を、白黒のデジタル情報へ「抽象化」することである。いわば、「色」から「空」への変換だと言ってもよい。しかし、そうして抽象化された情報は、演奏家によって再び生命を吹き込まれ、豊かなクオリアをもった具象へともたらされる。これを「空」から「色」への変換とみなすこともできる。
このことは音楽の演奏に限らない。私たちの言語活動も基本的にはこの、「具象から抽象、抽象から具象」という変換からなりたっている。言葉という色や香りを喪失した抽象的な存在を媒介にして、私たちは豊かなクオリアをデジタル情報に置き換え、またそこからクオリアを再現したりする。私たちが「言葉能力」と読んでいるのは、こうして「抽象化」と「具象化」という二つの過程から成り立っていることがわかる。
文学作品を創作するためには、「抽象化」の能力がすぐれていなければならない。しかし、そうして創作された作品を鑑賞するには、文章を読んでこれをまたもとの現実に戻すという「具象化」の能力が要求される。「抽象と具象」という両者が働きあって、私たちの言語生活が成り立っている。
そしてこの「具象の抽象化」と「抽象の具象化」は言語活動や音楽活動に限らず、私たちのあらゆる文化的な活動の基盤にもなっている。たとえば、ラジオやテレビの原理も、じつのところこのしくみで説明される。ラジオの場合は、マイクロフォンによって、私たちの「声」が抽象的な存在である電気信号に変えられる。そしてこれを電波で飛ばし、最終的にはスピーカーがこの電気信号を「声」へと変換するわけだ。
声(具象)→電気信号(抽象)→声(具象)
現在の情報理論は、文章だけではなく、あらゆる音声や映像までも、「0」と「1」という二つの数字の列に還元する。その結果、私たちを感動させる映画も、じつのところDVDという記憶媒体では無機質なこの二種類の記号の羅列に置き換えられている。しかし、この記号の行列から、色彩豊かなかぐわしいクオリアがふたたび産みだされる。
(今日の一首)
なにごとも色即是空しかれども 空即是色でこの世は楽し
大学生の頃、いろいろあって、一時精神を病んだ。大学を2回留年し、もう生きる気力も失って、間借りしていた寺の庫裏で畳に仰向けになって天井を眺め、ため息ばかりついていた。一応身分は学生だが、勉強しようという気力がわかなかった。今でいうニート状態である。
やがてため息も出なくなった。完全に無感動状態に陥った。見るもの聞くものすべてつまらなく、人生は色とにおいを失い、自然さえも無機質な抽象的存在のように感じられた。食欲さえもなく、なぜ自分が生きているのかわからなくなった。そんな私の耳に、ある日ラジオから犬養孝さんの万葉集の朗読の声が届いた。
信濃なる千曲の川のさざれ石も 君し踏みてば玉と拾はむ
このとき不思議なことが起こった。私のこころに「ああ、いいな」という感情が少しだけきざしたのである。それはほのかなそよ風を頬にうけたときのような、ささやかな感覚でしかなかった。しかしとにかく、このこのかすかな感動がきっかけになって、私のこころにいろいろな感情がよみがえってきた。
私はそれまで自分が失っていたものが何か、その正体に気づいたように思った。ひと言で言えばそれは「生きていることの感触」だった。人生に大切なもの、それはこの感触(クオリア)ではないだろうか。そんなことを思った。
「クオリア」という言葉は、「質」を意味するラテン語に由来し、古くは四世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場するという。しかし現在のような意味で使われはじめたのは20世紀になって、アメリカの哲学者ルイス(C.I. Lewis)の著作「Mind and the world order」(1929)あたりかららしい。その部分をウイキペディアの「クオリア」の項から引用する。
<There are recognizable qualitative characters of the given, which may be repeated in different experiences, and are thus a sort of universals; I call these "qualia." But although such qualia are universals, in the sense of being recognized from one to another experience, they must be distinguished from the properties of objects. Confusion of these two is characteristic of many historical conceptions, as well as of current essence-theories. The quale is directly intuited, given, and is not the subject of any possible error because it is purely subjective. >
(私達に与えられる異なる経験の中には、区別できる質的な特徴があり、それらは繰り返しあらわれているものだと考えられる。そしてこれらには何らかの普遍的なものだと考えられる。私はこれを「クオリア」と呼ぶことにする。クオリアは普遍的だが、様々な経験から得られるものを比較していくならば、これらは対象の特性とは区別されなければならない。この二つの混同は、非常に多くの歴史上の概念に見られ、また現代の基礎的な理論においても見られる。クオリアはダイレクトに直感され、そして与えられるものであり、純粋に主観的なものであるため、何らかの勘違いといった類の話ではない)
その後、ルイスの教え子であるアメリカの哲学者ネルソン・グッドマンらによってこの言葉が広められ、1970年代後半あたりからトマス・ネーゲルやフランク・ジャクソンの研究があらわれた。こうして物理化学的過程の中に還元しきれないクオリアの特性が注目をあつめるようになった。さらにオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズがこの流れを決定付けた。ウイキペディアから引用しよう。
<1995年から1997年にかけてチャーマーズは一連の著作を通じて、現在の物理学とクオリアとの関係について、非常に詳細な議論を展開する。この議論が大きな反響を呼び、今まで一部の哲学者の間だけで議論されていたクオリアの概念が広い範囲の人々(脳科学者のみならず工学者や理論物理学者などまで)に知れ渡るきっかけのひとつとなる>
現代は私の若い頃と比べてもストレスの多い競争社会になっている。こうしたなかで、多くの人々が生きることにあくせくし、その挙げ句、人生について豊かな感触や感動を失いつつある。効率優先の競争社会に適応した勝ち組と言われる人たちのなかには、クオリアを喪失しながら、その事実に気づかない人もいるだろう。金儲けしか頭にない人の心を診断すれば、「クオリア喪失」に見舞われている可能性が大きい。
じつのところ私たちは、クオリアを通して世界に出合う。クオリアは私の魂と世界を結ぶ接触面である。したがってクオリアを喪失するということは、世界を喪失するということだ。お金があっても、知識や教養があっても、世界との生き生きとした接触を断たれ、味わいを失った人生はつまらない。私はクオリア喪失体験から、「人生を味わう」ことの喜びを学んだ。
(参考サイト・文献)
「クオリア」(ウイキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
「哲学的な何か、あと科学とか」(飲茶著、二見書房)
(今日の一首)
清らかに流れる川のほとりにて 空を眺める日差しをあびて
私は若い頃からこの世界は物質からできていると考えていた。いわゆる「唯物論者」だった。ところがここに一つ困ったことがあった。それは私たちの「こころ」の存在である。「こころ」とは何であろうか。それはたしかに存在する。しかしあきらかに「物質」ではない。だから、物質だけが存在するというわけではない。
もちろん、「こころは存在するが、それは私たちの脳神経という物質によって生み出されたものだ。だから、意識も結局は物理化学現象の一種に過ぎない」と主張することはできる。しかし、私はやがてこの考え方では明らかに解決できない問題が存在することに気づいた。
それは「なぜこころが物質から生まれるのか」という問題である。唯物論的にみれば、私の意識現象は私の脳神経に生じた複雑な物理化学的な現象である。しかし、なぜこの物理化学現象がこころを生み出し、私はなぜ夕日をこのように「赤い」と感じるのか。これが大いなる謎だった。そしていろいろと頭を悩ましノイローゼにまでなった。こ謎は現在も解けてはいない。いや、未来永劫、とけることはないだろう。
脳波を精査し、ある種の脳波の形が、私のある種の意識や感情の内容に対応していることを突き止めることはできる。また、脳に電極を差し込んだり、薬物を注入して、私の意識の内容に影響を与えることもできる。現にこころの病気を治療するために様々な薬物が市販されている。
これらのことは、私たちの意識現象そのものが物質の運動や変化によって与えられるということを示している。脳科学者はこれは自明の事実と考え、神経細胞のどのような物理化学的現象が私たちの意識現象に対応しているか、さまざまな実験を通して、これからも興味深い発見をするに違いない。
にも関わらず、この先どれだけ脳科学が発展し、物理化学や生物学が発展しても、人間の知性ではどうしてもわからない謎が残る。それは「なぜこの豊かな味わいをもったこころが生まれるのか」という問題である。私たちは「こころ」のなかで「世界」を何ゆえにまさにこのような「クオリア」として受け容れるのか。
私たちの脳は、ある波長の光をとらえてこれを「赤い」と感じる。またある波形の音を捉えて、これを「ピアノのドの音」だと判断する。しかし、しかしなぜ私がそれを「赤い」と感じるのか、その「赤い」というクオリア(質感)がどこから生み出されるのか。これはどうしてもわからない。
私たちにとって大切なのは、まさにこの人生のクオリアなのである。この物質世界を豊かな色彩と質感をもつ存在として味わうことができるのはなぜか。なぜ、どこからこの豊かなクオリアは生まれてくるのだろう。なぜ、虹はこのように美しいのか。そよ風はこのように快く、青い空に浮かぶ白雲はなぜこうもこころを浮き立たせるのか。
世界はまさにわれわれの心をとおして、まさにこのようなものとして与えられている。私にわかったことは、このいささか詩的で哲学的な問題に私たちは未来永劫だれも答えることはできないということである。私にできることはただこの事実の受け入れ、この豊かなクオリアが生み出される現場に立ち会っているといういのちの不思議に、ただ驚嘆することだけである。
(参考サイト・文献)
「クオリア」(ウイキペディア) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2
「哲学的な何か、あと科学とか」(飲茶著、二見書房)
(今日の一首) 猛暑来て蛙3匹水を浴び 人は働く汗をかきつつ
私たちは自分の気持を「ことば」にして相手に伝える。たとえば私が散歩から帰り、「夕日がきれいだったよ」と妻に声をかけたとしよう。このとき、妻は私の言葉を聞いて、美しい夕日のイメージを自分の心の中に再現するだろう。これを図式で表せば、次のようになる。
私のイメージ→言葉→妻のイメージ
つまり、言葉を媒介にして、私が心に抱いたイメージや感情が妻の心の中に移されるわけだ。もっとも、この転換はかなり自由に、おおまかに行われる。私のイメージがそのまま妻のイメージに重なるわけではない。私の言葉によって妻の心の中に喚起されたイメージや感情は、私のものと同じものではない。
しかし、私と妻とは何度も一緒に木曽川を散歩し、夕日を眺めている。こうした共有体験の積み重ねがあるので、私と妻の場合は、そのイメージがかなり似通っている可能性はある。
日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり (松瀬青々)
この俳句を読んで、私は青い空へと登っていく二羽の白い蝶を思い浮かべる。それが空中でかろやかにたわむれあっている。「蝶のふれ合ふ音すなり」が秀逸である。昼下がりの明るい静寂が聞こえてくるような、初夏のすがすがしい光景だ。多くの読者も、おなじような光景をイメージし、そのさわやかな美しさに魅了されるのではないだろうか。
優れた俳句や文学作品は、私たちの心の中に鮮烈なイメージや感情を喚起してくれる。もちろんその感情は、作者が体験したものとは微妙に違っている。読者はそれぞれに自分の人生経験のなかで他者の言葉や体験を受け止めるからだ。作者もまたそのことを知っていて、慎重に言葉を選び、この世の片隅にささやかな感動の小宇宙をつくりあげる。
(今日の一首)
手水鉢蛙があそび月宿る 虫の鳴くねもあはれなるかな
我が家の猫の額ほどの庭に、蛙が何匹か住み着いている。そして夏になると、庭に置いたバケツや水槽の中に頭を出して気持ちよさそうに浮かんでいる。その中の一番大きい蛙を、私たち夫婦は「おやぶん」と呼んでいる。
「おやぶん」は悠然としていて、私たちが近づいてもほとんど逃げようとしない。よほど近づいて指を差し出すと、面倒くさそうに水中にもぐる。そしてそれきり浮かんでこない。水の底でそうやって何時間でもじっとしている。蛙というのは不思議な生き物である。
バケツや水槽の中には水草が茂り、メダカやドジョウ、タニシが自然繁殖している。妻がときどきエサをやっているようだ。これとは別に室内の水草にもメダカやドジョウがいる。以前にはウナギの子どもやヨシノボリ、カワエビなどがいたが、大方はもとの川や清流に逃がしてやった。寿命が尽きて死んだのもいる。
かってカワフグを飼っていたが、これは熱帯地方の魚らしく、指を入れると食いついてくるほど獰猛なくせに、寒さには弱かった。ヒーターで水槽をあたためていたが、温かい日が続いたのでヒーターのスイッチを切ったところ、あくる日の朝にははかなく死んでいた。夜中に少し冷えたのがいけなかったようだ。生き物を育てることは大変である。そして、「もののあはれ」ということを、折に触れて感じる。
手水鉢月をやどして虫の声
むかし、どこかで拾った句のようにも思うのだが、勝手に自分の句にしてくちずさんでいる。この世のものである手水鉢に、この世を越えた世界の月が宿る。このとき、虫の声までもが、生き生きと聞こえてくる。こうして私たちは「もののあはれ」の奥深い世界へと誘われる。
手水鉢はもともとは寺社に備えられて、水浴みによって身体の汚れとともに心の罪やけがれを清めるためのものだった。それが茶の湯の影響もあって、いつか民家にも庭の小道具として石灯篭の同じように持ち込まれた。そしてやがて不浄のあとの手洗い鉢として日常的に使われるようになった。
福井の私の実家にも手水鉢があり、子どもの頃私たちはこれをトイレのあとの手洗い鉢として使っていた。水は手水鉢に落ちる。それを祖母は柄杓で汲んで朝顔など庭の草木に与えていた。祖母が死んで、朝顔を世話をする人もいなくなり、やがて父が死んで家も手放した。手水鉢もとうになくなった。そういえば、あの手水鉢にも蛙が浮かんでいたような気がする。
(今日の一首)
水甕に蛙がお昼寝うとうとと やがて日が暮れ月影浮かぶ
梅雨の季節になると、散歩が億劫になる。それでも傘を差して出かける。そうすると気分が次第にほぐれてくる。血液の流れもよくなり、鬱屈していた気分もほぐれだす。昨日は一日雨だったが、木曽川を越えて笠松まで歩いた。
さみだれをあつめて早し最上川
橋の上から、木曽川を眺め、芭蕉の句をくちずさんだ。芭蕉は貞享元年(1683)から翌年にかけての「野ざらし紀行」の旅で何度か岐阜を訪れ、最上川ならぬ木曽川を下って、笠松で一泊している。「最上川」の句より5,6年前のことだ。
笠松には木曽川へ下る坂道に往時を物語る石畳が残っている。傍らにはくちなしの花が匂い、紫陽花も咲き始めていた。なかなか風流である。私はこの石畳を踏んで、河原に下り、芭蕉のむかしをしのんだ。この笠松の地で、芭蕉はかなりの句を詠んでいる。たとえばこんな句がある。
時雨ふれ笠松へ着日なりけり
春かぜやきせるくはへて船頭殿
この笠松の句から2年後の貞享3年(1686)に、芭蕉は「古池や」の句を読む。この句によって芭蕉は俳諧に新しい境地をもたらした。
古池や蛙飛びこむ水の音
この句の2年後、芭蕉はいよいよ「奥の細道」の旅に出る。そして冒頭の「さみだれ」の句をはじめ、数々の名句を生み出す。そのなかでもひときは名高いのが、次の句だろう。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
この名句について、長谷川櫂さんが、「国民的俳句100」のなかで、こんなことを書いている。なるほどと感心したので、引用しておこう。
<この句、芭蕉が3年前に読んだ古池の句とそっくり同じ構造をしている。古池の句は蛙が水に飛び込む音を聞いて、心の中に古池の面影が浮かんだという句だった。一つの音「蛙飛び込む水の音」がきっかけになって「古池」という心の世界が開けた蕉風開眼の一句。
その蕉風の世界をさらに広げるために芭蕉は「奥の細道の旅」に出かけた。そこで古池の句の朦朧たる世界の中から、この宇宙的な静寂の一句を生み出した。「岩にしみ入る蝉の声」が「蛙飛び込む水の音」に、「閑さ」が「古池」に当たるわけだ>
芭蕉の俳句の凄さは、なんでもない日常の世界のただなかに、奥深い静寂の世界を開いてみせたところだ。いわゆる「色即是空」である。「色」の世界から「空」の世界へ深まりは、「動」から「静」への、「物」から「こころ」への深まりだ。
しかし彼はその宇宙的な静寂の世界をふたたびこの現世に呼び戻す。これが「空即是色」の真実世界である。芭蕉はこれを「往きて還る心」と表現している。
芭蕉はこの創作上の秘密を西行に学んだのではないか。西行ににとってこの世の真実は「花」であった。そして「花」の発見が、この世に新しいものをもたらした。この「花」ゆえに、この世そのものが美しいのである。芭蕉のいう「見るところ花にあらずといふことなし」という尊い世界がそこに現れる。
<西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶における其の貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし>(笈の小文、1687)
俳句に限らず、上等の文学は、猥雑で混沌とした現実世界を写しながら、その奥底にもうひとつの真実世界を開いてみせる。芭蕉の名句はこの文学のいとなみを明晰に私たちに示してくれる。芭蕉の俳句が名句たるゆえんをひと言で述べるとすれば、それが「心の世界を開くすぐれた触媒」だということだろう。
私たちは芭蕉の句に触れることで、それぞれの「心の世界」が開かれる。そしてこうして目覚めた「奥深い精神」を通してまわりを見渡してみるとき、世の中の景物は様子を一変させる。これが私たちおのおのにとっての「蕉風開眼」ということである。昨日は雨の木曽川を散歩しながら、こんなことを考えた。
(今日の一首)
雨の日に河原に下りて花を見る おぼろにかすむみどりさわやか
6月23日は沖縄にとって特別な日だ。62年前のこの日、沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は消滅した。しかし、この後も凄惨な戦闘は続いた。沖縄戦の3ケ月の犠牲者は20万人を超える。そして民間人の犠牲者の方が多い。
<爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ>
これは牛島中将の最後の命令である。「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないものだ。そしてその後、民間人もふくめて犠牲者が増え続けた。ひめゆり学徒隊をはじめ多くの島民は行き場を失って、軍から与えられた手榴弾で自決したり、崖から飛び降りて自決した。こうした悲劇が軍が解散命令を出したあとも続いた。
戦後、これらについて多くの証言が残されている。しかしそれもほんの一部に過ぎない。こうした凄惨な戦場の記憶を語ることは生存者にとってあまりにつらいことだからだ。しかし、ここにきて沖縄では証言を残そうという動きが活発化している。そのきっかけは、文部科学省の検定で、教科書の「集団自決」に関する記述が変えられたことだった。
検定でこれまでのように「集団自決は軍に強いられたものだ」という記述ができなくなった。軍の強制を証明する文書が見当たらないからだという。そこで、これまでの教科書には「日本軍に集団自決を強制された人もいた」と書かれていたが、検定後は「集団自決に追い込まれた人々もいた」と変えられた。
米軍が最初に上陸した慶良間諸島では700人もの人々が集団自決をした。父親や母親が子どもを手にかけ自らも死んだ。一体誰が人々をこうした凄惨な集団自決に追い込んだのか。そこに「軍の関与があった」というのが沖縄の常識である。それはこれまでに残された生存者の証言があきらかにしている。ところが文部科学省の検定意見は「軍が関与したかどうか明らかではない」という。
これに今、沖縄の人々は驚きと怒りを覚えている。怒りは沖縄県全域を覆い、集団自決の生存者たちも次々に重い口を開き始めた。皮肉なことだが文部科学省の検定がきっかけで、私たちは歴史の真実に向かい合う貴重な機会を得たわけだ。沖縄県議会も「集団自決は日本軍の関与なしに起こりえなかった」として、22日に検定の撤回を求める意見書を全会一致で採択した。すでに沖縄県の9割の市町村議会が同様の意見書を採択している。
軍や政府の公式文書だけが資料ではない。私たちは現場を体験した人々の生の声にも耳を傾けたい。体験者の証言にも多くの記憶違いや誤謬はあるだろうが、そこに貴重な真実が宿っていることも認めなければならない。そのような証言を子どもたちに教え、後世に残すことも教科書の大切な役割だろう。そうすることで日本は近隣諸国からも信頼に値する国として尊敬されるのではないだろうか。
(今日の一首)
青い海白き砂にも沖縄の いくさの記憶は今も凄絶
昨日の衆院本会議で国会の会期を12日間延長することが与党の賛成多数で可決された。そして参院選の投票日も22日から29日に繰り延べになる。この国会で社会保険庁改革法案や国家公務員改正案などを成立させるという。年金問題などで傷ついた内閣の威信を回復させたい安倍首相は「どうしても成立させなければならない」となかなか強硬である。
野党側はこれに反発した。民主党の菅直人代表代行が記者会見で「年金問題への国民の注目を、何とかほかのものに移したいという政治的意図をもっての強引な延長だ」と批判した。異例の会期延長には与党内部からさえも「投票日の変更は不安材料が大きくなる」(古賀誠)などと批判の声が上がっている。
たしかに22日実施で動いていた自治体や請負業者はたいへんである。会場の確保や印刷物や看板の変更もしなければならない。すでに予定されていた民間のイベントにも支障が出てくるだろう。また、これによって自治体は余計な費用を捻出しなければならなくなる。過労や精神的重圧で自治体関係者に自殺者がでるのではないかと心配する人もいる。
国会の会期延長で私が思い出すのは、米英開戦の翌年、昭和17年4月30日に行われた総選挙だ。じつはこの総選挙は本来は前年の昭和16年に行われるべきものだった。ところが当時の近衛内閣は、日中戦争が思うような成果をあげず、世論が政府に批判的だと判断して、特別立法で総選挙を1年間延長した。
その間に戦争準備を進め、太平洋戦争を開始した。真珠湾攻撃のあと、連勝祝賀でわきたつ世論を背景に、東条内閣は万全の下準備のもと総選挙を行った。この翼賛選挙で、政府の推薦候補はひとりあたり5千円の資金援助をうけるなど、政府や軍部から手厚い援助をうけた。在郷軍人会や町内会、隣組の常会が開かれ、内相自らがラジオを通じて全国民に「翼賛選挙」の意義を訴えた。新聞や雑誌もこぞって翼賛選挙を応援した。
これに加えて、非推薦の候補には官憲による厳しい取り締まりや恫喝、いやがらせが加えらた。その結果、東条政権をささえる翼賛政治協議会が推薦する466名の候補のうち381名が当選した。これによって、東条政権は戦争を遂行する上で独裁的な地位を掌中に収めた。
しかし、予定通り昭和16年に選挙が行われていたら、結果は違っていただろう。このころ国内には泥沼化する中国大陸での膠着した戦況に国民の間で厭戦気分が蔓延し始めていたからだ。たとえば前年の昭和15年2月2日、斎藤隆夫議員は時の米内光政内閣に対して「支那事変処理に関する質問演説」を行っている。
「一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであろう。
・・・此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」
傍聴席は超満員で、議場は拍手の連続、感極まってすすり泣きの声さえ聞こえたという。これに軍部は激昂した。そして軍部の圧力のもとに議会において斎藤議員除名動議が出され、傍聴人を退場させた秘密会議において決議された。しかしこのときでも、3分の1の議員が棄権し、なお堂々反対票を投じた議員が7名いた。
その後ますます、大陸の戦況は膠着した。昭和16年になると、さすがに政府も軍部も手詰まりだった。戦争気分を盛り上げていたジャーナリズムの論調も変わり始めた。国民の厭戦気分はさらに広がっていった。このムードを一変させたのが、日米開戦であり、その後の華々しい戦果の報道だった。作家の阿川弘之は当時を振り返ってこう話している。
「ぽろぽろ涙が出てきた。支那事変というものは、はっきりとした情報があたえられていないにもかかわらず、憂鬱な、グルーミーな感じだったのに、それがなにかすっきりしたような、この戦争なら死んでもいいやという気持になりましたね」
東条内閣はこうして昭和17年の開戦後の選挙で大勝した。しかし、この選挙でも「反軍」を貫いた人たちはいた。国会で反軍演説を行い、議員の身分を剥奪された73歳の斎藤隆夫も除名決議をものともせず、再び立った。当局は斎藤の演説用印刷物を「有害」として押収するなど、さまざまな妨害工作を図ったが、齋藤は堂々但馬選挙区の最高位で当選した。
連続当選20回、東京市長をはじめ、文部大臣、司法大臣を歴任した尾崎行雄はすでに82歳だったが、いささかもひるむことなく、無所属で立候補した。これをよしとしない官憲は、尾崎の応援演説の中に天皇に対する不敬があったったとして、投票1週間前に逮捕し留置所に拘置する。にもかかわらず、彼も獄中で当選した。
じつのところ、翼賛会「非推薦」で当選したのは85名にも登った。419万票、34パーセントの票が非推薦候補に投じられた。これだけの人たちが、東条内閣に批判的だった。その中には東条は手ぬるいというさらに過激な軍国主義者もいたが、反軍の立場に立ち、議会政治を守ろうという代議士や、これを応援する良識のある国民も大勢いた。
国政選挙を1年間も繰り延べするなどということは、憲政上きわめて異常なことだが、この間に太平洋戦争が勃発し、世論が一気に政府や軍部に友好的になって、東条内閣は助けられた。これにくらべて、今回の投票日の繰り延べはわずか1週間だ。これが安倍内閣にとってはたして吉と出るかどうかもわからない。
(今日の一首)
朝刊をひろげてみればおおかたは 痛ましきこと恥ずかしきこと
2007年06月22日(金) |
戦争を望むフリーター |
「フリーターの希望は戦争か?」というトークライブが渋谷であった。トークライブをした雨宮処凛(かりん)さん、赤木智弘さん、杉田俊介さんの3人はいずれも1975年生まれのフリーターだという。その様子が、6月18日の朝日新聞の「ポリティカにっぽん」(早野透)に紹介されている。そこに引用された若者たちの本音を興味深く読んだ。
「平和な社会なんてろくなものじゃない。夜遅くバイトに行ってろくな休憩もとらずに明け方帰ってきて、テレビとネット、昼ごろ寝て、またバイトに行くくり返し」
「戦争は社会の秩序を破壊して流動化させる」
「平和な社会で差別と屈辱に苦しむよりも、みんなが平等に苦しむほうがいい」
企業は未曾有の好景気で、大手会社のボーナスも史上最高額だそうだ。そして今年のボーナス商戦は「高価格、高品質」が売りだという。こうした富裕層がふえた反面、低所得層も拡大し、平均所得は減少している。
非正規社員はいまや全体の3分の1をしめ、低賃金にあえいでる。こうした若者や失業者が「平和な社会なんてろくなものじゃない」と考え、現状秩序の破壊をもとめて「戦争賛美」に走るのも無理もない。事実、いつの時代にもこうして社会は右傾化し、戦争へと突入していった。
英米開戦のときの総理大臣だった近衛文麿は、26歳の頃に「英米本位の平和主義を排す」という論文を雑誌『日本及日本人』に執筆している。
<第1次大戦は既に成立した強国とこれから強国となる国の争いだった。現状維持が有利な国と現状破壊を目指す国の争いだった。現状維持の方が利益と思う国は平和を叫び、現状破壊に利益がある国は戦争を唱えた。平和主義なるがゆえに正義でも人道的でもない。軍国主義なるがゆえに必ずしも正義とか人道に反しているわけではない。
英米の平和主義は現状維持が利益になると主張する事なかれ主義で、正義とか人道に関係はない。日本の知識人は英米の宣言にみられる美辞麗句に酔って平和イコール人道と考えがちである。しかし日本は国際的地位からすればドイツと同じく現状打破を唱えるべきだろう。
英米本位の平和主義に影響され国際連盟を天から来た福音のように尊重する態度は卑屈そのもので正義人道の視点からみればむしろ嫌悪しなければならない。国際連盟で最も利益を得るのは英米だけであって残りの諸国は正義人道の美名に誘われたとしても得るものは何もない>
(http://ww1.m78.com/topix/konoe%20thesis.htmlから現代語訳を引用)
近衛はインテリなので難しい表現をしているが、やさしくいえばつまりは「平和な社会なんてろくなものじゃない」ということなのだろう。平和を望むのは恵まれた人々であり、恵まれない人々はそのいつわりに満ちた平和を根底から破壊してくれる「戦争」を心の底で待望する。
そういえばトルストイも「戦争と平和」のなかで「不幸な者が戦場を目指す」と書いていた。作家の松本清張さんもそうした不幸な若者の一人だった。彼の『半生の記』(新潮文庫)から引用しよう。
<そのときの召集は久留米だったが、令状通り三カ月の教育期間で一応解除になった。 ところが、この兵隊生活は私に思わぬことを発見させた。「ここにくれば、社会的な地位も、貧富も、年齢の差も全く帳消しである。みんなが同じレベルだ」と言う通り、新兵の平等が奇妙な生甲斐を私に持たせた。
朝日新聞社では、どうもがいても、その差別的な待遇からは脱けきれなかった。歯車のネジという譬があるが、私の場合はそのネジにすら価しなかったのである。ところが、兵隊生活だと、仕事に精を出したり、勉強したり、又は班長や古い兵隊の機嫌をとつたりすることでともかく個人的顕示が可能なのである。
新聞社では絶対に私の存在は認められないが、ここではとにかく個の働きが成果に出るのである。私が兵隊生活に奇妙な新鮮さを覚えたのは、職場には無い「人間存在」を見出したからだった。兵営生活は人間抹殺であり、無の価値化だという人が多い。だが、私のような場合、逆な実感を持ったのだ。
三カ月の期間といい、その後三カ月してすぐに召集が来て復員するまでの二年間といい、私は自分がそれほど怠けた兵隊ではなかったと考えている。これはなにも軍人精神に徹していたからではなく、それまでの「職場生活」への反動だったと言える>
軍隊におなじような希望を見出した若者たちが当時の日本に少なからずいたのではないだろうか。軍隊では三度の食事が食べられ、世間の上下関係が解消して実力本位に生きられる。そして現代でも世界にはそうした理由で軍隊や武力組織に身を投じ、戦場に赴いた若者たちがいる。私たちは日本をこのような社会にしてはいけない。
(今日の一首)
戦争にあこがれる人あまたあり 社会がうみだす不平と不満
2007年06月21日(木) |
南国で見つけた居場所 |
一昨日の「朝日新聞」の朝刊に「南国で見つけた居場所」という記事を見つけた。小松みゆきさん(59)は母親の須田ヒロさん(87)とハノイで暮らしている。母親は5年ほど前に夫を亡くし、そのころから認知症の症状があらわれはじめた。しかし地もとで施設を探したが空きがなかった。そんな母親をみゆきさんはベトナムに連れてきて、ハノイで二人暮らしをはじめたのだという。
二人は毎日夕暮れになると、自宅近くの公園の湖のほとりを30分ほどかけて散歩する。風は生暖かく、ねっとりとしている。それでも40度を超える日中より過ごしやすい。天秤棒を担いだバナナ売りや、遊具で遊んでいる子どもたちを見て、母親は、「みんな、伸び伸びしていていいねえ」と目を細める。
物価は安く、4DKの家賃は4万円、食費は2人で約2万円で、生活費は月約10万円だ。みゆきさんの収入約3万円とヒロさんの年金約5万円、それに東京のマンションの家賃収入でまかなうことができる。そして何よりもいいのは、「お年寄りを大切にする習慣」がベトナムの社会に根付いていることだ。ここでは人々が親切であり、お年寄りが大切にされる。
出発前に撮ったパスポートの写真のヒロさんは目元がくぼみ、ほおが落ちていたが、いまは表情が明るくなった。みゆきさんがわざと「国に帰ろうか」と持ちかけても、「ここがええよ」とヒロさんは応える。「高度成長期前の日本のよう。この雰囲気がリラックスさせるのでしょう。認知症が進んでいないように思えるんです」と、みゆきさんは語る。
みゆきさんやヒロさんの収入では、日本で認知症を抱えた親と二人暮らしはむつかしい。しかし、まだベトナムではそれができる。二人は故郷を遠く離れた異国で、ようやく幸せに暮らすことができる「居場所」を見つけた。これからこうした日本人が多くなるのかもしれない。
私も最近「家庭」や「職場」のほかに、心の居場所をもう一つ与えられた。それはフィリピンのセブにある英語学校CPILSだ。今年も7月22日にセブへ旅たって3週間ほど滞在する。将来退職したら、毎年数ヶ月ここで暮らしたい。その日がくるのが待ち遠しい。
昨年セブに語学留学したときは、夫婦で暮らしているIさんと出会った。銀行に1000万円ほど預けて、その利息で生活しているという話だった。生活費は夫婦合わせて年間80万円。Iさんは近所の子どもたちをあつめて、バスケットを教える毎日で、子どもたちの笑顔を見るのが生きがいだと語っていた。
これもまたすばらしい人生だ。私はバスケットやサッカーは無理なので、数学や理科や日本語を子どもたちに教えてやりたい。フィリピンに私塾のようなものが開けたらなと、夢をふくらませている。
(今日の一首)
異国にて英語を学び旅をする 野ざらし人生老後のたのしみ
2007年06月20日(水) |
「夜回り先生」の言葉 |
水谷修さんは定時制高校で社会科の先生を長いあいだやってきた。そして92年の頃から深夜の繁華街に子どもたちに合いに行くようになった。
04年に刊行した「夜回り先生」がたちまちベストセラーになり、水谷さんはその年の9月に教師を辞めて、いまは講演活動や著作活動を通して、青少年の非行や薬物汚染防止に尽力している。
水谷さんの講演会や「夜回り」の様子は、NHKでも「夜回り先生」と題して放送されたことがある。そのビデオがあったので、去年1年生の「総合」の時間に生徒たちに見せた。
横着な1年生の生徒たちが一同に会し、かなりさわがしい総合の授業が、このときばかりは静かになった。前半だけ見せるつもりだったが、「もっと見たい」という生徒たちの要望をいれて、次の「総合」の授業で後半も続けて見せたが、教室がしんとしていた。中には涙を流している生徒もいた。
たまたま喫茶店で週刊ポスト6/22号を読んでいたら、そこに水谷さんのインタビュー記事が載っていた。そのなかから、水谷さんの言葉をいくつか拾ってみよう。
<子どもは親を憎んでなどいない。何をされてもいつかは愛してくれると信じているんだよ。だからこそ親は親であることに甘えちゃいけないんです>
<子どもを産んだだけでは親じゃない、教員資格をとっただけでは教師じゃない。子どもたちに生きる力を与えられて、初めて親であり、教師なんです>
<たしかに心に余裕がなくて失敗することもありますよ。そんなとき素直に「ごめんね」と言える人間に、まず大人がなってみせることが僕には大事だと思う。ごめんのひと言が言えない大人が今は多すぎますよ>
<子どもを信じて、裏切られたら泣けばいい。応えてくれたら笑えばいい。その泣き笑いに、子どもは生きることを学ぶんです>
<悪さをする子も、暴れる子も、そばにいさえすれば、その子の哀しみが透けて見える。親からも社会からも叱られ続け、否定され続けてきた彼らを、怒っても仕方がない>
<先人は子どもは10褒めて、1叱れと言ったけれど、今の子どもは既に10叱られているから、100褒めなくちゃ間に合わないんです>
安倍総理の諮問機関である「教育再生会議」は、「道徳」を正式な教科に格上げしようと提言している。しかし「道徳」や「愛国心」を先生が教室で教えれば、非行やいじめが少なくなるのだろうか。
「夜回り先生」は、子どもたちがなぜ非行に走り、辛い思いをしているか、それは親や社会の「愛情不足」であるという。私も30年近く教師をしてきて、切実にそう考えるようになった。
(今日の一首)
七転び八起きの人生どこまでも 転んでわかる人のやさしさ
演劇部の夏の合宿予定地が決まった。私がセブにいく都合で、日程がきつくなったが、とにかく8月の23、24、25の二泊三日である。場所は木曽川沿いにある公共の宿泊施設だ。1泊1500円である。
木曽川がすぐそばで、私の家からだと車で20分ほどで着く。となりが公園になっていて、バーベキューをする場所やテニスコート、プールもある。体育館や会議室もある。レストランもあり、私と妻は先日ここで600円のランチを食べた。その折にバーベキューの施設や、体育館と会議室の予約もしておいた。
去年は同僚のS先生の別荘を使わせてもらった。そのおかげで2泊3日で4000の出費ですんだ。すでにS先生は退職されたので、お願いするわけにはいかない。生徒の希望は1万円以内でということだったので、まずは安い合宿場所が見つかってほっとしている。3泊したいという部員の希望もあったが、すでに予約で一杯で、8月で連日で空いているのはこの両日だけだった。
去年はシナリオが未定のまま合宿に入ったので、演劇の練習はほとんどできなかった。バーベキューなどをして、楽しく遊んだだけで終わったが、今回は初日のお昼にバーベキューをするくらいで、あとは施設の食堂を利用するから食事の準備はしなくてすむ。練習時間はたっぷりある。したがって大切なのは台本を決めることだ。
去年は9月に入って文化祭の2週間前にやっとシナリオが決まり、そこから突貫工事だった。「今年は早めにシナリオを決めよう」と呼びかけたところ、部長が一本持ってきてくれたが、あまりインパクトがない。もっと娯楽性のある面白いものでなければ、だれも真剣に見てはくれないだろう。
そこでインターネットの「脚本ダウンロードサービス」を利用して、面白そうなものを物色した。その結果、これならと思うものが一本見つかった。これを顧問のM先生や部員たちに読んでもらったら、「面白そう!」ということになった。
http://haritora.net/look.cgi?script=4952
主人公の少女はアルバイトでベビーシッターをすることになった。ところが世話をするのは子どもではなくて「人形」である。そして母親はその「人形」を生きた子どものように扱い、「しばらく留守にするので世話をお願いします」という。
主人公は戸惑いながら、その「人形」の世話をする。そして数日後、母親が父親と一緒に家に帰ってくる。主人公の少女が人形を母親に返すと、母親はびっくりしたように、「それは人形でしょう。私の大切な息子はどこ?」と詰め寄る。父親も驚いて、「息子をどこにかくした」と少女に疑惑の目をむける。
少女はびっくりする。最初から子どもはいなかった。人形だけだった。そのことを言うが、母親は「ちゃんと預けた」という。こうして主人公の少女は窮地に追いやられる。ミステリー100パーセントの、サスペンス劇だ。劇の名前はまだ未定だが、「身代わり人形殺人事件」とでもしようかと思っている。
骨子になるシナリオが決まり、夏の合宿の日程や宿泊先も決まって、ほっとしている。これでこの2ケ月あまり、私の心にのしかかっていた重荷の一つがとれた。
(今日の一首)
夢の中あそんでいたり公園で まわりの木立もむかしとおなじ
2007年06月18日(月) |
食い物にされた老後保障 |
社会保険番号に統合されていない、いわゆる「宙に浮いた年金」が5000万件もあるということが問題化したのは、民主党の長妻昭議員が、去年の6月16日に国会で追及したことがきっかけだった。日曜日に放送された「サンデープロジェクト」によると、このとき長妻意議員は2343万件という具体的な数字を上げたそうである。(下記のサイト参照)
「文藝春秋」7月号に掲載されている岩瀬達哉との対談によると、長妻議員は岩瀬さんの書物などを読み、もともとは年金が給付以外に浪費されている問題に関心があったのだという。ところが一般の人から、「自分の年金記録が消えた」という手紙を受け取った。議員はその意味がわからず、直接その人に面会して、年金記録消滅の事実をはじめて知ったのだという。
さっそく社会保険庁や厚生労働省に掛け合ったが、歯牙にもかけられなかった。しかし、長妻委員はその後も調査を行い、ねばりつよくこの問題を訴え続けた。国会でも追及したが、それでも政治問題化することはなかった。一介の野党議員がいくら騒いでも、厚生労働省の役人は微動だにしなかった。マスコミも反応しなかった。
厚生労働省はようやく今年の2月になって、公文書で回答して来た。何と「宙に浮いた年金」が5000万件もあるのだという。そこで長妻議員は2月14日の衆議院予算委員会で、この件についての「徹底調査」を求めた。しかし、安倍首相は、「国民の不安を煽り立てる」として、この調査を拒否した。
しかし、5月下旬になって、官邸をあわてさせる出来事が起こった。内閣支持率が10ポイントも落ち込みをみせたのだ。そしてこれまで沈黙を守ってきた新聞やテレビが年金問題を報道し始めた。これを境に、与党の自民党も危機意識を高め、官邸や厚生労働省の対応や雰囲気も一変した。
自民党は民主党の菅直人議員が厚生大臣だったこと、年金管理の杜撰さは社会保険庁の労働組合の労働サボタージュが原因であるなどと責任転嫁を図ろうとしたが、あえなく挫折した。
社会保険庁の労働の実情を見てみると、現在に至るまでシステムエンジニアをひとりもおかず、プログラムのい製作管理はすべて外部に丸投げ状態だった。こんなずさんな労働体制で職員に年金業務をしろというほうが問題である。問題を職務怠慢に矮小化することはできない。
こうした状態を放置したのは厚生省の歴代の幹部であり、さらにいえば長い間自民党厚生族のドンであった橋本龍太郎であり、彼なきあとこの地位を引き継いだ小泉潤一郎だ。しかも丹羽雄哉自民党総務会長も、石原伸晃自民党幹事長代理も、有力な厚生族だし、安倍首相もそうだ。
つまり現在の内閣や自民党は年金を食い物にしてきた厚生族の巣窟だといってもよい。したがってこの問題には現在の自民党と執行部と内閣がもっとも深くかかわっている。この事実を否定したり、言い逃れをすることもできないし、下手をすると政権のアキレス腱になりかねない。
年金特別会計には年間21兆円もの保険料収入が入る。厚生族議員はこの巨大な利権を使って自分たちの権力を築き上げてきた。その結果が「グリーンピア」をはじめ全国に256ケ所もある年金施設である。これらの建設のために、1兆5700億円もの年金積立金が流用された。
その余沢はこれらの年金関連施設や企業に天下った役人にもおよんでいる。1985年に社会保険庁は二人の課長の連名で「紙台帳」を破棄してもよいという通知を出しているが、長妻議員がその一人について調べてみると、彼は旧年金事業団、ついでNTTデータの役員に収まっていたという。
国家の礎は「安全保障」と「社会保障」である。そして「社会保障」の礎は何と言っても私たちの老後の生活を支える「年金」である。これを磐石にたもつことが、国民の国に対する信頼をつなぎとめる要件であり、国の国民に対する責務でもある。安倍首相は「愛国心」や「道徳」を説く前に、憲法に定められた政治家としての本務をしっかりと果たすべきだ。
(参考サイト)
「2007/6/17 サンデープロジェクト 年金問題 長妻昭 vs 大村秀章」 (1/4) http://www.youtube.com/watch?v=DA6gXYoVzzY
「2007/6/17 サンデープロジェクト 年金問題 長妻昭 vs 大村秀章」 (2/4) http://www.youtube.com/watch?v=fJkesrszhbM
「2007/6/17 サンデープロジェクト 年金問題 長妻昭 vs 大村秀章」 (3/4) http://www.youtube.com/watch?v=FxqOVAUJXmU
「2007/6/17 サンデープロジェクト 年金問題 長妻昭 vs 大村秀章」 (4/4) http://www.youtube.com/watch?v=pCfzwvfw71w
(今日の一首)
一杯のグラスの水を飲み干して はじまる一日今日は雨の日
2007年06月17日(日) |
国民を収奪するシステム |
社会保険庁の杜撰な年金管理が問題になっている。14日の参議院厚生労働委員会で、柳沢厚生労働大臣は共産党の小池晃議員の質問に答えて、これまで社会保険庁の情報システムの構築や運営に、05年だけで1100億円を費やしていたことを明らかにした。
67年度以来の積算では、公費や保険料が1兆4千億円も投じられていた。その内訳は、NTTデータ関連に1兆632億円、日立関連に3558億円である。これだけの巨費を投じて運営されていながら、5000万件も年金記録の不備があり、これとは別にまだデジタル化されずに放置してある記録がまだ1千万件以上あるという。
さらに、厚生労働委員会の審議の中で、これらの年金システム発注先のNTTデータや日立製作所の子会社に社会保険庁の歴代幹部15人が役員や部長として天下りしている事実も明らかになった。たとえば社会保険庁の社会保険業務センター副所長と庁総務部地方課長がNTTデータシステムサービスの常務取締役についていた。日立公共システムの部長として再就職した3人も、社会業務センターの出身だという。こうした官民の癒着の構造が年金行政の不祥事の背景にある。
現在の厚生年金保険法の前身である労働者年金保険法が制定されたのは、戦争中の昭和十六年のことだ。老後を保障するというのは建前で、本音は戦費調達が目的だった。そして戦後は復興資金として年金システムが使われた。老後を保障するというのはやはり国民から金を取り立てるための建前にすぎなかった。それが証拠に、労働者年金保険法の起案者の花澤武夫氏が、1986年に「厚生年金保険の歴史を回顧する座談会」でこう述べている。
<年金の掛け金を直接持ってきて運営すれば、年金を払うのは先のことだから、今のうち、どんどん使ってしまっても構わない。使ってしまったら先行困るのではないかという声もあったけれども、そんなことは問題ではない。将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいい>
私たち国民は政府の建前を本音と思い込み、戦前はせっせと軍部に協力し、戦後は公共事業の推進に協力してきたわけだ。もちろん政府の美しい建前はいずれ化けの皮が剥げ落ちる。週刊誌が「年金が危ない」と騒ぎ出し、これに便乗して、政府は次々と年金法の改悪をはかった。
昨年の3月、経済産業省の傘下にある経済産業研究所が「国民年金をの全額国庫負担にすれば、これによって年金業務や簡素化され、大幅なコストダウンが可能になり、保険料を2割安くしても、現行並の給付額が維持できる」というレポート「年金制度をより持続可能にするための原理・原則」を発表した。
私は経済産業研究所の案に賛成である。年金の業務を行う社会保険庁には1万7千人あまりの正規職員の他に、非常勤職員が1万1千人以上いる。あわせて2万8千人あまりの職員がいるわけだ。これだけの公務員がいれば人件費も厖大になる。研究所の試算によれば、年金業務の簡素化で少なくとも年間3千億円の経費が削減できるという。また、厚生労働省からの天下りや、不要な施設も処分できる。
民間企業の従業員を3300万人を対象にした厚生年金には現在156兆円の積立金が残っている。一人当たり472万円である。一方公務員500万人を対象にした共済年金は現在52兆円の積立金がある。これは一人当たり1040万円である。両方あわせれば総額で200兆円、一人当たり平均で526万円になる。まずはこれだけのお金をその支払額に応じて納付者に返してもらいたい。
そのうえで、今後の年金は税金から全額だしてもらう。その増税分はじつのところこれまでサラリーマンが強制的に徴収されていた保険料と総額ではほとんどかわらない。このことからも、年金は「かくれた税金」だったことがわかる。そのまやかしの建前をやめればよいのだ。
これによって打撃を受けるのは天下り先を失った高級官僚や、これと癒着して甘い汁を吸っていた政治家や民間企業である。私たち勤労者はこれ以上政府の甘言や苦言に騙されていてはいけないし、年金の全額国庫化は早ければ早いほどよい。
ちなみに2004年度の公的年金給付の支払いは総額46兆円で、年金保険料収入は29兆円。バランスシートは17兆円もの赤字だ。こうしている間にも、国民年金、厚生年金の積立金はどんどん目減りしていく。つまりそれだけ年金納付者に対する還付金が目減りしていく。
今回政府が提出した社保庁改革法案では社保庁は3年後に新しい組織に移行することになっている。これによって公務員をリストラし、年金業務を民営委託しようとしている。しかし、従来の年金体系や理念は温存するわけで、これはどうみても看板の掛け替えである。社会保険庁を解体しても年金システムそのものがかわらないかぎり、勤労者を収奪する構造の本質は変わらない。
むしろ民営化によってもっと厄介な問題が生じてくるだろう。なぜなら民営化のほんとうの狙いは社会保険庁が握っている巨大な利権を外資を中心とする「民間」にただ同然で譲り渡すことに他ならないからだ。この点では郵便局の民営化とそっくり同じ利権構造である。私たちはいま、貴重な国民の財産である350兆の郵貯資金に加えて、虎の子の年金積立金200兆円を奪われようとしている。
(今日の一首)
雨上がり散歩をすれば紫陽花の 色ふかまりて絵心うごく
小学生の頃に夢中になったことの一つに電磁石やモーター作りがある。電磁ベルの原理を知ったときには大変感動し、さっそく近所の模型店に行ってベルの組み立てキッドを買ったものだが、モーターの原理を知ったときも、「じつにうまいこと考えたものだな」と感心した。
子供向けの科学雑誌をよむと、そこにいろいろなモーターの作り方が書いてあった。もっとも簡単なモーターは、エナメル線を輪にしたものを磁石の近くに針金の支柱をたてて乗せる。輪にしたエナメル線を電流が流れると、そこに電磁石ができる。そのN極が近くに置いた棒磁石のS極と引き合って輪が回転する。
ここで軸の部分の銅線のエナメルを片面だけそぎ落としておく。そうすると途中でスイッチが切れて電流が流れなくなる。しかし輪はそのまま慣性で半回転する。そうするとまたスイッチが入り、N極が現れて回転する。こうしたことが瞬時に繰り返されて、エナメル線の輪は回転し続ける。
これなら私にでも作れそうである。しかしほんとうに、これで動くのだろうか。私はさっそくエナメル線と棒磁石を買ってきて、自分でこのモーターを組み立てはじめた。数時間で装置が出来上がった。そして電池につなぐと、私の目の前でそれがぎこちない動きをはじめた。
私はおもわず「やった!」と叫んだ。理屈は分かっていたが、その理屈どうりに動いているのを確かめて、私は感動した。それを母や祖母に大威張りで披露したことはいうまでもない。いまネットで調べてみると、当時私が作ったものと同じ簡易モーターの作り方が紹介されていて、その様子を動画で見ることができる。
http://chem-sai.web.infoseek.co.jp/motor.html
私の作った不恰好なモーターは、私には何かの「生き物」のように感じられた。じっと眺めていると、何だかむしょうにいとおしくなってきた。その素朴さが市販のモーターになない生命力に満ちていて、見ていて飽きなかった。私はそれからいくつかのモーターを作ったが、どれもいとおしい子どものようだった。
(今日の一首)
手作りの電磁モーター音を立て きしんで動くいのち宿りて
これは自伝「幼年時代」にも書いたことだが、幼い頃の不思議体験のひとつとしていつも思い出すのは、ラジオから流れ出してくる音のことである。
<不思議と言えばラジオで、あの黒い紙で出来たスピーカーからどうして人間の声やピアノの音が自由自在に出てくるのか、さっぱりわかりません。後ろから覗いてみると、奇妙な形をしたガラス管が何本も並んでいて、オレンジ色の光を放っています。私にはその様子がどんなおとぎ話よりも神秘的で幻想的に思えました>(幼年時代、6.ひとり遊び)
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/younen.htm
当時は真空管ラジオで、後ろのカバーをはずすと、真空管が何本かオレンジ色の光を出していた。その光景が何とも幻想的だった。しかし、それ以上に私を驚かせたのは、黒い紙でできたスピーカである。なんとその紙から、人の声や小鳥のさえずり、風の音、水のせせらぎ、そしてピアノやバイオリンなど、オーケストラの音楽まで華麗に流れ出してくる。黒い紙の振動がどうしてバイオリンの音色まで作り出すのか、こうしたことが私には不思議でならなかった。
スピーカーの原理は簡単である。ただ電気磁石を使って黒い紙を振動させているだけだ。しかし、その物理的な振動が私たちの耳には美しい音色として響いてくる。これは何としたことだろう。子供心にこのことが不思議でならなかった。そこで大人に聞いてみるのだが、だれもこれを説明できない。
説明できないどころか、「へんなことに疑問を持つ子どもがいるなあ」という反応しかしめしてくれない。大人がこれを不思議に思わないのが、私にはさらに不思議だった。大人ばかりではなく、まわりの子どもたちもこの現象をべつだん不思議と思っていないらしい。こうしたわけで、私はこの不思議体験をあまり口にしなくなったが、それでも疑問は疑問として私の胸の中に居座り続けた。
私が後年、大学や大学院で物理学を専攻した遠因はこうした幼い頃の「不思議体験」にあったのだろうと思う。「音の不思議」からはじまって、「光の不思議」や「電気の不思議」、そして「物質と生命の不思議」、「数の不思議」へとどんどんワンダーワールドは拡大し、私の疑問はふくらむ一方だった。そして今もなおワンダーワールドは私のまわりに神秘的な姿で広がっている。
ところで、スピーカーの不思議については、高校で「波の重ね合わせの原理」というのを習って、「ああこれか」とその本質が理解できたように思った。複数の波がぶつかっても、それは干渉しないでそのまま重なり合い、またわかれて、もとの波の形をそれぞれに取り戻すことができる。スピーカの上で重なっていたそれぞれの音色が、ふたたび分かれて私たちの耳に届いてくるわけだ。
ピアノやバイオリンはそれぞれ固有の「音色」を持っている。この音色を電気磁石をつかって固有の電気振動にかえるのがマイクロフォンである。マイクロフォンをオシロスコープに繋ぐと、ブラウン管の上にその「音色」を独特の「波形」として眺めることができる。音色の正体がこの固有の波形だった。
バイオリンの音色であれ、それはひとつの固有の振動数をもつ「波形」にしかすぎない。たとえ紙であれなんであれ、この「波形」が再現できれば、それは「空気の振動」として私たちの耳に届き、それを私たちの鼓膜が受け取り、脳が「バイオリン」の音色として聴き取るわけだ。このことに気づいて、私の頭の中に立ち込めていた霧が晴れた。
バイオリンやピアノの音色も、「情報」という観点から眺めるとき、しょせんそれは「空気を伝わってくる振動の波形」でしかない。そしてこの認識はさらに先に進めることができる。じつはその「波形」は「0」と「1」という2進法の数字の羅列に還元される。これが「アナログ」から「デジタル」へという情報の転換である。音だけではなく映像も同様にデジタルへと抽象化することができる。
高校教師になって、生徒に物理を教え始めたとき、私はオシロスコープを使った実験を生徒たちに見せてやった。それぞれの振動数をもつサイレンを鳴らすと、そこに規則的なサインカーブがあらわれる。これを音叉の音に変えたり、自分たちの声やピアノの音に変えたりして、ブラウン管に現れた波形の変化を観察した。
私はオシロスコープの画面に映し出された音波の独特の姿を眺めて、幼い頃から胸の中にあった疑問が氷解する快感を覚えた。そしてこの実験を教室で繰り返したものだった。「どうだ、面白いだろう」と得意だったが、生徒にとっては迷惑なことだったかも知れない。
(今日の一首)
イヤホーンを耳に当てればたちまちに あふれる音の不思議な世界
顕微鏡ではいろいろなものを観察したが、そのなかでも印象に残るのは「血液」や「精子」を眺めたときだろう。とくにじぶんの「精子」を観察したときは興奮したものだ。それは中学3年生のころではないかと思う。夏の暑い日だった。
まずは精子を採取しなければならない。はっきりした記憶は残っていないが、クラスの可愛い女の子や近所の幼馴染の少女のことでも思い受かべて、せっせとひとり孤独な作業に励んだのだろう。
採取した精液を大急ぎでスライドグラスの上に一滴貼りつけてカバーガラスをかけ、対物レンズを近づける。反射鏡の角度を変え、調節ねじを操作してピントを合わせる。そうすると、そこにおたまじゃくしの形をした小さな生物が無数に泳ぎまわっているのが見えた。
わあ、すごいな、と素直に感動した。いつもなら母や祖母を呼んで来て見せてやるのだが、物が物なので、そういうわけにはいかない。感動を共有できないのが残念だった。
人の男子の精巣では,10才くらいから精子を作り始め,1日約5千万〜数億個ずつ,死ぬまで作られる。男子が一生のうちに作る精子の数は,1兆〜2兆個にもなる。1回の射精で放出される精子の数は、数億個にもなるという。運がよければそのなかの1個が卵子と結合するわけだ。
顕微鏡で精子を観察していると、やがて活発だったおたまじゃくしの活動が衰えて、ほとんど動かなくなった。そして精子の死骸とおぼしきもので一杯になった。自分の分身がこうして次々と死んでいくのを眺めるのは淋しかった。
(今日の一首)
わが精子あふれている顕微鏡 わが分身と思えばいとしい
小学生の4年生の頃、どうしても欲しいものがあった。それは顕微鏡である。とうじ若狭の小浜市に住んでいた私は、その目抜き通りにある一軒の店先のショーウインドウにそれを見つけて、その黒光りする磁力に引き寄せられた。
顕微鏡は一番小型のものでも定価が700円あまりした。私は何ヶ月かお小遣いをため、さらに母から援助もしてもらって、ようやくそれを手にした。小学校4年生の12月、たぶんクリスマス・イヴの日ではなかったかと思う。私にとってそれは、生涯で最高のクリスマス・プレゼントになった。
私はその顕微鏡で、ありとあらゆるものを観察した。まずは手近なところで花粉や片栗粉、植物の葉脈などである。それから池の水を掬いに行った。アメーバーやゾウリムシなど、胸をわくわくさせて眺めたものだ。同じ長屋に住んでいる少女たちや、同級生にも見てもらった。
この顕微鏡の接眼レンズは、翌年天体望遠鏡を作るときに、その接眼レンズにもなった。これによって私は高倍率の天体望遠鏡を作り、月や惑星の世界を観察することができた。それはそれでわくわくするような出来事だったが、やはり私の脳裏に最初に刻み込まれたのは、顕微鏡で眺めたミクロな世界の繊細で豊かな美しさである。
中学生になって、私は2000円ほどするもうすこし性能のよい顕微鏡を手に入れた。初代の顕微鏡は解体され、どこかに紛失してしまったが、二代目の顕微鏡は今も私の手元にある。神秘な輝きをもって私を夢中にさせた顕微鏡だが、今眺めてみると古ぼけたみすぼらしい骨董品だ。しかしこれは私の青春時代の貴重な宝物である。
顕微鏡の歴史をネットで調べてみると、少なくとも1〜2世紀には、ガラスレンズにものを拡大する力があることがわかっていたようだ。そして、10世紀頃のイタリアでレンズの製造法や研磨法が開発されたのだという。15世紀になるとそれまでの不透明な着色ガラスにかわって、透明無色なクリスタルガラスが登場し、多種の光学レンズが作られるようになった。「顕微鏡の進歩と生物学」から一部を引用しておこう。
<1550年、オランダのガラス研磨師ヤンセン親子は、偶然2枚の凸レンズを組み合わせると遠くが間近に見えることを発見し、「不思議な眼鏡」として売り出した。
1610年に、この「不思議な眼鏡」のうわさを聞いたガリレイによって望遠鏡が作られた。この望遠鏡は逆さに覗くと小さなものを大きく見ることができる顕微鏡となり、ガリレオの顕微鏡と呼ばれた。
1665年には、レンズを組み合わせた複式顕微鏡によって、ロバート・フックが細胞を発見している。彼の用いた顕微鏡は150倍ほどのものであったと考えられている。しかし、この複数のレンズを組み合わせる顕微鏡は像がぼやけ、性能がよいものではなかった。
一方、17世紀の後半(1650年頃〜1710年頃までの間)にレーウェンフックは、自ら磨いたレンズ1個を使用した単式顕微鏡を作製した。この顕微鏡は大変優れたもので、最高のもので270倍もの倍率であったといわれる。彼はこの顕微鏡を使ってバクテリア、精子、赤血球なども発見している。 この後200年間、顕微鏡は進歩しなかった。レンズを支える方の金具は進歩したが、肝心のレンズについてはそのままであった。19世紀の前半にはいくつかの生物学上の重要な発見がなされたが、いずれも使用していた顕微鏡は相変わらず単式顕微鏡であった。
ブラウンによって、1827年にブラウン運動が、1831年には核が発見されている。また、シュライデンとシュバンにより、1838年と1839年には細胞説が唱えられた。その解像力では、細胞を観察することはできても細胞の構造を観察することは困難であった。シュライデンは、核は細胞の結晶化の中心であり、核のまわりの液体から細胞が結晶化すると核は見えなくなると主張していた。
シュライデンは研究の限界を感じていた。その壁をうち破るべく若きカール・ツァイスに新しい顕微鏡の開発を依頼した。1846年、30才のツァイスは顕微鏡の開発を始めた。1866年までには単式顕微鏡の性能を越えた複式顕微鏡(600〜700倍)の開発に成功した。 これ以降、物理学者アッベとガラス職人ショットの協力を得て、1886年までに光学顕微鏡のほぼ限界である開口数1.4の対物レンズの開発に成功した。
シュライデンによる細胞説の提唱から50年の間に複式顕微鏡は飛躍的に進歩し、細胞の染色技術と相まって、細胞内の構造についても観察が可能になっていった。それと時を同じくして、1860年パスツールによるアルコール発酵に関する報告、1875年コッホによる炭疸病原菌の発見、1879年フレミングによる有糸分裂の発見、1883ベネデンによる減数分裂の発見など、生物学上の重要な発見が相次ぐ。
このようにして、19世紀末には優れた顕微鏡を武器にした細胞学上の知見が急速に蓄積していった。有名なパスツールやコッホの業績も顕微鏡の発達に支えられたものである。さらに、1865年に発表されたメンデルの遺伝学が一般には全く受け入れられなかったのに対して、1900年に再発見されたときには、すんなりと受け入れられた。この間わずかに35年である。この背景には顕微鏡の進歩に伴う細胞学の発達があったと言えるかもしれない>
http://homepage3.nifty.com/ymorita/hist2.htm
(今日の一首)
顕微鏡のぞいてみれば神秘なる いのちの世界おもしろきかな
2007年06月12日(火) |
赤はなぜ「赤い」のか |
数日前から、「色覚」についていろいろ考えている。私はひとつのことを考え出すと、あるていど納得できるまで調べたり考えたりしないと気がすまない。そういうわけで、私の日記には同じようなテーマがしばらく続くことが多い。
色覚について、私が以前から不思議に思うのは、なぜ「青」「赤」「黄」の3原色で無限とも思われるすべての色調が得られるかということだ。これは色の世界が3次元空間になっている考えればよいわけだが、なぜ3次元なのかという疑問は残る。
私がこうした疑問に取り付かれたのは高校時代のことだ。その後、大学、大学院で物理学を学び、さらに教師として30年近く生徒たちに理科や数学を教えてきた。その間、このテーマに関係のある様々な書物に眼を通したが、今もってこの問題については未解決である。
ただ、ひとつ分かってきたのは、色調の3次元構造については、3種類の視覚細胞だけではなく、私たちの脳の働きや個人的体験が大きく関わっているということである。さまざまな波長の光を、まさにその「色調」として認識するのは、私たちの「脳細胞」の主体的な活動によるものである。そしてこの分野での研究はまだ緒についたばかりだということだ。
さらにこんな問題もある。私はある波長の光を「赤」として認識する。そして妻もまたおなじ波長の光を「赤」として認識する。しかしよく考えてみれば、私が「赤」と感じている内容と、妻が「赤」と感じている内容が同じものである保障はない。
私と妻が散歩に行き、木曽川の堤で美しい夕日を見たとしよう。私が「夕日が真っ赤に燃えているね」と妻に語りかけ、妻も「本当ね。真っ赤に燃えているみたいね」と答えても、私の見ている夕日の「赤」と、妻の体験している「赤」が同じものだとは限らない。
じつのところ私たちは自分の主体的体験を「客観的」なものだと考えがちだが、それはあくまでも私という一個人の主体的な体験でしかない。そして、<赤はなぜ「赤い」のか>という疑問は、どうしても残る。
(今日の一首)
夕日が空を真っ赤にそめる この夕焼けを君と見ている
小学生の頃、犬や猫の視覚は人間と違って白黒の世界だと聞かされて不思議な思いがした。同時は映画やテレビが白黒の時代だったから、色のまったくない世界というものも想像はできた。しかしそうした世界しか知らない犬や猫は、気の毒な気がしたものだ。
実際は犬や猫も多少は色を感じているらしい。私たちの網膜にはcone(錘状体)とよばれる色を感知する細胞がある。錘状体にはそれぞれ光の吸収波長が異なるL錐体(赤錐体)、M錐体(緑錐体)、S錐体(青錐体)という3種類のものがあり、これら錐体の興奮の割合の違いを利用して色を区別している。
そしてこれとは別に、私たちの網膜はrob(杆状体)と呼ばれる細胞をもっている。そしてこれによって、明暗を感じたり、急激な動きを感知する。錘状体は明るい場所でしか色を感知しないが、杆状体は薄暗い場所でもよくはたらく。犬や猫の先祖はどちらかというと夜行性であり、この杆状体の密度が多い。これによって暗いところですばやく動くものを捉えることができる。
犬や猫の網膜にも錘状体はまったく存在しないわけではないが、その密度は小さいので、どちらかというと色盲に近いのだろう。実のところ彼らは緑色と赤色の識別は困難であるといわれている。しかし彼らはこれを補ってあまりある暗闇での動体視力や嗅覚、聴覚を持ち、優秀なハンターとして生き残ってきたわけだ。
ところで哺乳動物の中で「眼の大きさ÷ボディーサイズ」値が最も大きいのは猫だという。実のところ瞳孔を拡大させたときの猫の目は人間よりも大きい。これによって暗闇でも多くの光を感知し、人間の6倍もよく見えているらしい。小学生の私は色盲だという犬や猫をあわれに思ったものだが、そう同情すべき存在でもないようだ。
(今日の一首)
風景画眺めているとなつかしい この色感はいずこより来る
哺乳類の人間と、軟体動物の蛸はまったく違った生物だが、ただひとつとてもよく似ている部分がある。それは眼である。水晶体のレンズを持ち、網膜をそなえている。見かけもそっくりだが、解剖学的な構造的もほとんどかわらない。それぞれまったく別の進化の道をたどってきたこの二つの生き物の眼の構造の、この正確な相似はどこからきたのだろうか。
じつのところ、蛸の目を作るDNAの塩基配列と、人間の目を作るそれとは、ほとんど同じものだという。問題はこうしたDNAの配列が進化の過程でどのように獲得されたかである。
原生生物のミドリムシには眼はない。しかし、光を感じるセンサーは持っている。ミミズも目はないが、体の表面に光を感じる細胞が点在している。これらは「眼点」(がんてん)と呼ばれている。この光センサーはロドプシンと呼ばれるタンパク質で、じつはこれが私たち人間の網膜にもある。
網膜の起源はミドリムシやミミズの体表にあるこの特殊なたんぱく質らしい。しかしこの原始的な網膜で得られる情報は光の明暗や色合いくらいで、正確に外界のようすを捉えることはできない。そこで生物はその周辺の細胞を変化させて、原始的な眼の構造を作り上げた。それがピンホールの眼である。
たとえばプラナリアや貝などはこのピンホールと同じ原理を利用した原始的な目を持っている。このピンホール眼が、やがてレンズ眼に進化したのだと考えられている。だから私が小学校でピンホール暗箱を作っていたとき、じつは原始的な眼を作っていたわけだ。
ヘビは私たち同様に立派なレンズ眼を持っているが、これとは別に眼と鼻の間には頬窩(loreal pit)と呼ばれる小孔があり、じつはこれがピンホール眼になっている。ピンホールの底には熱を感じるピット膜があり、ここに映し出された像の情報は、脳の視覚野に送られる。これでヘビは「赤外線視覚」を獲得し、夜間に獲物を捕らえることができるわけだ。
ピンホールカメラが生物の原始的な眼だったことがわかったが、人間と蛸、昆虫はまるで進化の過程が違うのに、どうしてこのようなそっくりの精巧な器官が生まれたのか。これをダーウィン流の自然淘汰説ではどのように説明しているのか。眼の進化については、勉強不足でよくわからないことが多い。
ただわかっているのは、眼は脳とともに生物の進化の最高の産物だということだ。私たちがものを識別する微細な視力を持ち、天然色の世界を持っているということは、とてもすばらしい奇跡のようなできごとなのだ。
(今日の一首)
なんというすばらしきこと両眼で くまなく見える君のほほえみ
2007年06月09日(土) |
ピンホールカメラの不思議 |
むかし、小学校の頃に、ピンホールカメラを学校で作った。ボール紙で立方体をつくり、一方の面に針で穴を開ける。そして反対側を四角の窓をつくり、そこに不透明のセロハンを張ればできあがりである。そうすると不思議なことに、そこに天然色の風景がさかさまになって浮かび上がってくる。
カメラと言っても実際に印画紙に写すのではなく、すりガラスやセロハン紙に映して眺めるだけだが、しばらくはこれに夢中になった。なぜ、風景が、それも逆さまになって映し出されるのか、先生は黒板に図を書きながらこんな説明をしてくれた。
「一人の人間が立っているとします。人間の頭から出た光線は、穴を通って暗箱のセロハン膜の下側に当たります。どうように人間の足元から出た光線は穴を通り抜け、膜の上側にあたります。外界と暗箱に、穴を頂点として上下が逆さまになった相似形の二つの三角形ができます」
ピンホールは穴を大きくすると象がぼやけてしまう。だからシャープな映像を写すには、穴を小さくすればよいが、そうすると光の量が弱くなって、映像が暗くなってしまう。このかねあいがむつかしい。
先生の説明によれば、基本的にはレンズもピンホールと同じような働きをするのだという。ただ、レンズの場合はピンホールとくらべて、直径が何十倍も大きい。だから何十倍も明るい風景を映し出すことができる。人間の目はこのレンズを使った暗箱構造になっている。そしてセロハン紙が人間の目では網膜だという。これは人間の目の構造についてのとてもわかりやすい説明だった。
レンズがピンホールとおなじ働きをするというのも大きな発見だった。そうしてそうなるのか、小学生の私にはよくわからなかったが、このことがきっかけになって、私は祖母の老眼鏡からレンズを取り出して実験をするようになった。
これは祖母からたちまち苦情がきた。そこで私は小遣いを蓄えてレンズを買うことにした。そして5年生の夏休みの課題に、そのレンズで望遠鏡つくり、学校に持って行った。ボール紙の筒には黒いエナメルが塗ってあり、見掛けは立派な天体望遠鏡である。私の天体望遠鏡は担任の先生によって教室の片隅に飾られた。私は誇らしくてうれしかった。
(今日の一首)
風景がさかさに浮かぶ暗箱の 不思議な世界ピンホールカメラ
職員室で隣に座っている理科のS先生に、「アルゴンガスは何に使われているのですか」という質問を受けた。S先生は生物が専門である。授業でアルゴンについて教えたところ、「何の役に立つの」と生徒に質問されて立ち往生したのだという。
私は物理が専門だが、実用方面の知識に乏しい。「ネオン管などの放電管ではないでしょうか」と答えながら、さっそくインターネットで検索してみた。そうすると「蛍光灯」に使われていることがわかった。
アルゴンガスを入れたガラス管の中で放電させると、高速度の電子がアルゴン原子に衝突する。このときアルゴン原子から紫外線が放出され、管の表面の蛍光塗料にあたって発光する。これが蛍光灯の発光原理である。ネット検索でこうした情報が得られた。
蛍光灯にアルゴンガスが入っていると聞いて、「すごく身近にあるんですね」とS先生もおどろいていた。アルゴンガスはじつは私たちのもっと身近にもある。空気の成分のうち、窒素、酸素に続いて、3番目に多いのがアルゴンだからだ。じつは二酸化炭素よりもはるかに多量に空気中に存在している。私たちはこれをいつも肺に吸い込んでいるわけだ。ウイキペディアから「アルゴン」について引用しておこう。
<1894年にレイリー卿 (Lord Rayleigh)(ジョン・ウィリアム・ストラット (John William Strutt))が、大気分析の過程で発見。しかし、その100年も前に、ヘンリー・キャヴェンディッシュが存在に気がついていたと言われている。なお、レイリー卿は気体の密度に関する研究、およびこの研究により成されたこのアルゴンの発見により、1904年にノーベル物理学賞を授与された。
アルゴンという名称は、ギリシャ語で「不活発、不活性」という意味のαργ?ν (argon) に由来する。「働く」という意味のεργον(ergon)にanをつけたan ergon(働かない)が語源とする説もある。また、ギリシャ語で「怠け者」という意味のargosが語源とする説もある。
希ガス元素の一つ。常温、常圧で無色、無臭の気体。希ガス元素のため不活性である。融点は摂氏189.2 ℃、沸点は摂氏 185.7 ℃(融点、沸点とも異なる実験値あり)。比重は、1.65(233 ℃ : 固体)、1.39(186 ℃ : 液体)、空気に対する比重は、1.38。固体での安定構造は、面心立方構造 (FCC)。
空気中(地表)に 0.93% 含まれているのでアルゴンは空気を液化、分留して得ることができる(酸素の沸点が近いので、これとの分離が少々面倒)。空気中にアルゴンが存在するのは、自然界に存在していたカリウム 40 が電子捕獲によってアルゴン 40となったためである。
希ガスの中では最も空気中での存在比が大きく、空気を構成する物質では第2位の酸素の 20.93% についで第3位の 0.93% である。第4位は二酸化炭素だが、現在得られる資料では 0.03% でありその差は大きい。
アルゴンは、水銀灯、蛍光灯、電球、真空管等の封入ガス、アルゴンレーザー、アーク溶接時の保護ガス、チタン精練などに利用される。分析化学の分野ではガスクロマトグラフィーを行う際に移動相として利用する。テクニカルダイビングにおいて、ドライスーツ用ガスや混合ガスとして使用される>
このあと、「電波はどうして発生するのか」という質問などが飛び出して、私は昔生徒たちと行ったヘルツの実験の話をした。それから「光とは何か」という話になり、ラジオやテレビのアンテナの話になった。S先生に質問されたおかげで、私も思わぬ勉強をすることになった。
(今日の一首)
かりん酒を朝晩飲んでほろよいの こころよき日々たのしんでいる
咳止めに「かりん酒」がいいと教えられ、少し前からこれを朝晩、オンザロックで飲むようになった。咳は数日前に収まったが、かりん酒は飲み続けている。香りがよく、口当たりもよいので、やみつきになりそうである。
2007年06月07日(木) |
年金は全額国庫補助で |
年金記録の不備が5000万件というのには驚いたが、今日の複雑な保険制度のもとでは、こうした不備はあるていど避けられないのではないだろうか。私は以前より、年金は全額国庫補助にすればよいと主張してきた。
つまり60歳、もしくは65歳になったら、国民は一律にきまった額を老齢年金として受け取るのである。たとえば65歳になったら月5万円の年金を支払うことにしよう。そうすると納税者の負担額は、現在の国民年金の保険料である13,580円とほとんどかわらない。
5万円だと夫婦で月10万になる。年間で120万円である。これで生活するのは大変だが、国が保証するのはあくまで最低レベルの生活でよい。老後にもっとよい生活をしたければ、貯蓄をしたり、民間の年金に入ればよいわけだ。
現行制度にくらべて、支給額が1万8千円ほど少なくなるが、現行の制度では今後、年金の受給資格のない人たちが増えてくる。こういう人たちも5万円の年金を一律に支給されるわけだから、低所得者は大変たすかる。現在急増中だという高齢者で生活保護を受けている人を減らすこともできる。
年金の掛け金を払わず、老後になって生活保護を受ける人が増えている。正直に掛け金を払った人が、払わなかった人より少ない給付金で生活しなければならないという矛盾も現れている。こうしたことは勤労意欲を減退させ、モラルハザードの原因になる。最初から全員に5万円給付するシステムの方が公平だ。
全額国庫補助にすれば年金業務が簡素化されて、公務員の仕事を減らすことができる。それから年金基金といった天下り先が必要なくなる。特殊法人もいらない。もちろん今回の社会保険庁のような不祥事は起こりようがない。こうしたことで、年金に関する行政コストは限りなく0にすることができる。これによって、年金未納問題も解決し、若い世代に年金負担のしわ寄せが回避できる。
企業にとっても朗報だ。これまで勤労者と折半で払っていたお金を払わなくてすむ。これは雇用形態を正常化するのに大きなたすけになるだろう。問題は、これまでまじめに保険料を払ってきた人たちの扱いだが、これはしかるべき金利を上乗せし納付者に戻せばばよい。
国民年金の場合、加入していても払わない人や、未加入の人が年々ふえている。2001年度でこれが400万人だ。これらの人に免除されている人たちも加えると、4割の人たちが国民年金を払わなくなっている。とくに、20代から30年代の国民年金納付率を見ると、50パーセントを割っている。
その一方で、未加入者の6割、未納者の5割は個人年金や生命保険に加入している。つまり、公的年金はもうあてにせず、自己責任で老後を考えるという人たちが増えているわけだ。現在の年金制度は若い世代の保険料で高齢者の給付金をまかなうという賦課制度になっている。しかし保険料収入では支出をまかなえない状況だ。しかもこの赤字額が拡大している。
この赤字を補填するために、国民年金については国庫補助を1/3から1/2に上げるわけだが、それでも格差そのものが残る以上、将来さらに厳しい状況に追い込まれることは必死だろう。こうした矛盾を解決するには、思い切って全額国庫補助にするしかない。くわしいことは以前に「年金問題を考える」に書いたとおりである。
http://hasimotohp.hp.infoseek.co.jp/nenkin.htm
(今日の一首)
壊れ行くこころをかかえ子どもらは 苦しんでいる救われぬまま
少し前に民間の保険会社の保険料不払いが明らかになり、その悪質な手口に憤りを感じたが、今回は社会保険庁のずさんな仕事ぶりが次々とあからかになっている。基礎年金番号に統合されていない年金記録が5000万件もあるという。私は5000件かと思っていたが、4桁も違っていた。実にこれは国民の4割に相当する数字である。
これは手書き台帳からコンピューター入力したさいのミスや、市町村から社会保険庁に届いた書類そのものの不備などが原因だというが、数があまりに膨大である。とても単純な人為的ミスとは思えない。システムの根幹にかかわる問題だとしか考えられない。
これを放置した庁や行政府の責任は重大である。しかもすでに手書き台帳は上の指示で処分されている場合が多いという。安倍首相は国会で「保険料を払ったことを証明できれば年金を払う」と答弁したが、「保険料を納付した」という領収書も個人の手元にかならずしも残っていない。そもそも役所のミスを、なぜわれわれ国民が尻拭いしなければならないのか。「救済措置」などというが、そもそもわれわれは救済されるべき対象なのだろうか。
今後も大量のデータが正しく処理されることはなく、行き先不明で宙に浮いたままになりかねない。この結果、本来受けとれるはずの年金より少ない額が支給されたり、年金の受給資格そのものが得られないという「年金支給漏れ」問題がすでに起こっている。これからその数はますます増えそうだ。
こつこつと保険料を支払いながら、それに相当する年金が受け取れない人が何百万人と出てくる。安倍首相はこうした人たちを「救済」するために当面60億円必要だというが、「週刊ポスト」の試算によれば、保険金未払いの額は20兆円にもなるだろうという。60億円で済む話ではない。
また、保険料未払い問題で行政処分を受けたある大手の生命保険会社の場合、数百万件の物件を精査するために要した費用は1000億円にもなったという。安倍首相は10億円が必要だというが、5000万件もの物件を本気で精査しようとすれば、この額ですむとは思えない。その莫大な費用も私たちの保険料から出て行くのだろう。
じつは我が家でも社会保険庁の杜撰さについてあきれた経験をしている。長女が大学に入学し、さっそく年金の支払い猶予の手続きをすました。しかし、長女が大学を卒業する頃になって、「年金が不払いです」という通知が我が家に届いた。妻がおどろいて、「支払い猶予の手続きをしました」と電話をしたところ、「そのような記録は残っていません」といわれた。
そこで、妻は長女の年金手帳を探し出した。そこに支払い猶予の手続きをした日付と担当者の名前がメモしてあった。それを見ながら電話口で、「何月何日にそちらに伺い手続きをしました。そのときの担当は何何さんです」と告げたところ、役人の態度が一変し、「申し訳ありません」と急に下手になった。
同じようなことが、次女の場合も起こった。さすがこのときは妻も怒り心頭に達したという。そのことを聞いて、私も「こんな杜撰な役所は信用できない」と思ったが、今回の5000万件もの年金記録不備事件である。社会保険庁はここまで無責任で腐っていたのかと、怒りを通り越してなんだか悲しくなってしまった。
(今日の一首)
紫陽花のさ青にひかれ立ち止まる いのちなりけりこころふかまる
今年の4月に、前の高校で同僚だった数学科のT先生から、「3月に退職しました」という葉書をもらった。在職29年だという。まだ定年まで5年以上残している。T先生はいつも物静かで、それでいて、教科指導であれ、部活であれ、クラス運営、学年運営、どれをとっても誠実に仕事に向かい合っていた。
前任校で7年間一緒だったが、一度も愚痴や泣き言を聞いたことがない。率先して難しい仕事も請け負い、精力的にこなしていた。いわば教師の鑑のような存在である。そんな彼が早期退職すると聞いて驚いた。
私は前任校の頃から「退職して世界放浪したい」が口癖だった。そんな私をさしおいての早期退職である。私の心中がおだやかであるはずはない。T先生も気が引けるのか「おさきに失礼します」と書き添えていた。それにしても、どうして彼が私よりも先にやめなければならないのか。
私のようなやくざな教師が辞めることは教育界にとって歓迎すべきことだろうが、彼のような優秀な教師を失うことは、大いなる損失である。しかし、彼は彼なりに考えるところがあったのだろう。葉書には「これからスローライフを楽しみたいと思います」とある。これで少し謎はとけた。
これまでの蓄えや、株式の運用などによるたくわえはあるのだろうが、それでも教師を辞めれば収入は減る。年金生活までには10年以上あるので、倹約をよぎなくされるだろう。しかし、その分、時間にゆとりが生まれる。じぶんの好きなことを、ゆっくり腰を落ち着けてできるわけだ。
最近、私の周りで教師を辞めてこういうスローライフを楽しむ友人がふえている。昨年は大学時代からの友人で、やはり愛知県で数学の高校教師をしていたS先生が、定年まで4年を残して教職を去っている。彼はいま中国の大学に留学して、中国語や中国美術を勉強している。こういう実例がたくさんあるので、私の心がゆれうごく。
多くの有為なベテラン教師が定年前の退職を希望し、実行しているのは、それだけ教職に魅力が感じられなくなったせいだろう。最近の教育再生会議のピンとはずれの提言など見ていると、私も絶望的な気分になる。もし、定時制高校に転勤していなかったら、たぶん私も今年あたり重大な決断をしていただろう。
(今日の一首)
遠くよりわれを呼ぶ声ひとりいて こころ澄ませば星のささやき
4月はじめからどうも体調がすぐれない。咳や鼻水が続いている。熱があるわけではなく、ただ咳が苦しいだけなので、仕事もやすまず、ふつうに生活しているが、毎朝散歩をしていてもいまひとつ気分が爽快ではない。原因の一つに、「黄砂」があるのではないかと考えている。
3月末から例年にない黄砂に見舞われた。黄砂は5月末の週末にも襲来した。黄砂を吸い込んで、いったん快方に向いていた私の咳も、またぶりかえしたような気がする。
もっとも、最近はかなり調子がよい。今朝もほとんど咳が出なかった。久しぶりに「はれたる青空、ただよう雲よ」と大声で歌を歌いながら、木曽川の堤防を散歩した。
黄砂は昔からの自然現象だが、最近はこれに化学汚染物質などが付着している。これを吸い込むと、アレルギーなどを誘発する恐れがあるのではないかと思っているが、まだこの方面の研究は十分ではないようだ。
とにかく、今後中国はますます経済大国になるだろうし、大量の汚染物質が日本海を越えてやってくる可能性がある。そうなると日本でも健康被害が深刻化するだろう。やはり、日本を脱出するしかないのかなと考えてしまう。
中国の将来については、いくつかのシナリオが取りざたされている。ひとつはバブルがはじけて、中国は混乱し、共産党政権が崩壊するというものだ。中国崩壊説は主に日本の保守的な立場の人が流している。その潜在意識には、中国が崩壊し、日本がいつまでもアジアのナンバーワンでありたいという願望があるのだろう。
もう一つ、これと対照的なのが、中国は今後も経済的発展し、2020年頃にはGDPでもアメリカを抜いて、世界一の経済大国になるだろうという予測である。さらに中国は経済面だけではなく、軍事的にもアメリカを凌駕するという予測もある。
こうした中国繁栄説の出所は、おもにアメリカの保守層である。そして世界的に見ると、この中国繁栄説が主流になっている。東谷暁さんの近著「世界金融経済の支配者」(祥伝社新書)から引用してみよう。
<中国崩壊説は誰が唱えているのだろうか。あっさり言ってしまえば、中国の反日政策に怒りを覚えている、日本における保守派系論壇の政治学者や評論家か、中国政府と対立する反体制派中国人がほとんどだといってもよい。世界的に見れば、中国はいずれ日本を凌駕してしまうと予測する議論の方が圧倒的に多く、崩壊説は必ずしも主流ではない>
中国脅威説の出所はアメリカの国際経済学者や研究機関らしいが、最近では国防総省も熱心に説いている。彼らが繁栄説や脅威説を熱心に説く背景には、これによってアメリカの軍事費を維持しようという軍部や産業界の意図もみえかくれしている。繁栄説にしろ崩壊説にしろ、その根底にあるのは中国敵視の対立思考である。
黄砂現象ひとつみてもわかるように、いまや世界は一体化している。中国が崩壊するとき、アメリカや日本が安泰でいられるはずはない。また、中国の繁栄はアメリカや日本の経済協力がなければ実際上不可能である。こういうグローバルな経済知識があれば、中国について語られる極端な繁栄説や崩壊説が、いかに信頼するに足らない妄説であるかわかる。
(今日の一首)
うたたねに女をひとり犯したり 草いきれのする川のほとりで
2007年06月03日(日) |
じゃがいもの花と救急救命室 |
庭の琵琶の実が熟し始めた。ヒヨドリがさっそく食べている。私も食べたが、今年の琵琶は実がおおぶりで、しかも甘い。ただし数は去年より少ないようだ。少ないといっても、ずいぶん大きな木なので、たっぷりある。これから毎日、琵琶の実の食べ放題である。
妻が借りている近所の畑には、私が3年前に植えた富有柿があるが、こちらはまだ若木で、私の首の高さしかない。今勢いよく若葉を茂らせているが、実をつけるのはまだ数年先だろう。この柿の木を私は「うま柿くん」と呼んで、散歩の帰りに立ち寄り、その成長をたのしみにしている。
昨日も散歩の途中立ち寄ると、「いいところにきた」とばかり、妻から収穫したばかりの玉ねぎをいれた袋を二つ、両手に持たされた。畑から家までかなりあるので、これはかなりきつい運動になった。
畑には少し前までジャガイモの花が咲いていた。これからジャガイモも収穫期にはいる。そのほかにんじんやレタスなどたくさんできていいる。妻によると、6月は「収穫の月」だそうである。
私は畑仕事はほとんどしない。妻が作るのを傍らで眺めているだけだが、これがなかなか楽しそうである。趣味と実益をかねていて、健康にもよさそうだし、畑つくりをとおして近所の人たちの交流もできる。妻はなかなかいい趣味をみつけたものだと思う。
私の趣味は、いまのところ「英語」である。3月末から毎日英文日記を書いていたが、先日、久しぶりにレンタルビデオに行ったら、「ER緊急救命室」の新しいDVDが並んでいるのが目についた。私はこれが大好きで、すでに第8シリーズまで見ていた。その続きの第9、と第10シリーズが置いてある。おもわず手がのびた。これを見始めてから、英文日記がかけなくなった。
「ER」は緊急医療に従事する医師や看護婦たちを描くアメリカの人気テレビドラマである。第8シリーズでは、ベントンとグリーンがついにカウンティを去ることになった。とくにグリーンの最後がすばらしい。妻コーデイと先妻の娘レイチェルの確執、そして脳腫瘍の再発などのトラブルに次々見舞われながら、彼は最後まで誠実に生きた。とくに英雄でもないし、ルックスがいいわけでもない。人間としてのもろさや不器用さももっているが、それだけに彼の生き方には共感を覚えた。
グリーンが抜け、第1シーズン以来のレギュラーはカーターのみになった。「ER」はこれで魅力半減かと思われたが、そうでもなかった。カーターががんばっているし、アビー、ルカ、ルイスも、それぞれの人生の葛藤をかかえながら、ときにはくじけそうになりながらも、おのおのの人生を精一杯生きている。その人生模様の奥深さに瞠目した。「ER」は現代のアメリカ社会そのものを映し出している。この骨太の社会派ドラマに、すっかりはまってしまった。
(今日の一首)
ジャガイモの薄紫の花が好き 地味な花だがなにやらゆかしい
K子は最初、豊田の病院に入院していたが、その後、名古屋の病院に転院した。私は年に何度か名古屋の病院に見舞いに行った。当時、私は結婚していたから、もちろん妻にも事情を話し、許可を得ての話である。
あるときK子が電話で、「誕生日に指輪をプレゼントしてほしい」と言ってきた。そこで、指のサイズを聞き、デパートでプラチナの指輪を買った。病院に持っていくと、「ほんとうに買った来てくれたのね。ありがとう」と涙ぐんでいた。
面会に行っても、話が弾むわけではない。手紙ではいろいろと書いていたが、面会すると私の口は重く、彼女も頭の調子が悪いわけで、舌もなめらかには動かない。私たちは無言のままただ向かい合っている時間が多かった。
以前の彼女は私の前で車道に飛び出し、あやうく車にひかれそうになったことがあった。あるいは助手席に乗っていた彼女が私からハンドルを奪って、あやうく私たちは大事故になるところだった。彼女と何年か交際しているあいだに、私は何度も生命の危険を感じた。
彼女のいやがらせは、私が結婚してからすさまじい状態になった。朝出かけようとドアを開くと、そこに彼女が立っていたこともある。あわててドアを閉じようとしたら、彼女の手が伸びてきた、それをどうにか押し返し、ドアを閉じた。彼女は怒り狂い、何やらわめきながら傘でドアをたたき続ける。その音が団地中に響き渡った。
私は警察に電話をし、パトカーが来るあいだ、妻と二人で部屋の中で息をひそめていた。警官が来ると彼女は姿を消したが、すぐに公衆電話から「奥さんに死んでもらいます」と脅迫の電話がかかってきた。こういう状態なので、妻も家にいるわけにはいかない。私や妻のあいだも険悪になってきた。そして妻の妊娠を機会に、私たちは別居生活に入った。
その頃、私はすでに豊田の高校に転勤していたが、新しい職場になじめずつらい思いをしていた。さらにK子のことがあり、しかも、家庭もうまくいかず、三重苦にあえいでいたわけだ。彼女が精神病院に収容されたあと、私も夜間高校に転勤し、妻は5ケ月の長女をつれて約1年ぶりに戻ってきた。こうして私の「三重苦」はひとまず解消された。
精神病院に入ってから、彼女は別人のようにおとなしくなった。その理由を聞くと、「蛇が怖いから」という返事だった。私を非難しようとすると、蛇があらわれて恐ろしい目でにらみつけるのだという。だから怖くなって、足がすくんで、何もできなくなるらしい。蛇は妄想の産物だろうが、おかげで私は平和な生活ができた。
もし、彼女の病気が快方に向かい、「蛇」が出てこなくなったら、彼女はまた私や妻への攻撃を再開するのだろうか。私はその不安を消すことができなかった。彼女の病気が治ることを望みながら、一方でそれを恐れるという、アンビバレントな心理状態おかれていたわけだ。
さいわい、彼女の病気はすぐには完治しなかった。彼女は「蛇」の呪縛から逃れることができなかった。そして、17年前に、私たちの一家は名古屋から一宮市に引越しをした。これで彼女との距離が少し遠くなった。
その後も電話や手紙のやりとりはあったが、もう再び病院に彼女を見舞うことはなくなった。彼女も私に来て欲しいとは言わなくなった。こうして私の存在感は彼女のなかでようやく希薄になって行ったようだ。しかし、私の中で彼女の存在は決して小さくなったわけではなかった。彼女はいまも棘のように、私の心を刺し続けている。
(今日の一首)
おそろしき蛇ににらまれ身をすくめ 髪乱したる女はかなし
K子にあてて書いた20年以上前の手紙を読み返すと、私の当時の日常生活が浮かんでくる。日記に書かれていないディテールも書いてあって、いずれもかなり長い手紙である。今日引用する1984年11月28日の手紙も、便箋14枚に細かい文字で書かれている。そのなかで「ケルビン発電機」や「たつの落とし子」について書かれている部分を引用しよう
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拝啓。
もうすぐ物理教師の研修会で発表しなければならないので、そのレポートを書いたり、実験等で忙しい日が続き、体を酷使したせいか、肺に炎症を生じたらしく、先日病院でx線撮影や血液検査を受けてきました。現在も肺に痛みがあり、片腕が自由にならない状態でこれを書いています。
しかし、レポートはようやく仕上がりましたし、実験もほぼ終わりました。本当を言うと、あともう一つ、フランクリンの静電モーターというのを製作する予定だったのですが、体調が崩れて気力も衰え、これは断念しようと思っています。
こう書くと、悲惨な毎日のように思われるかもしれませんが、忙しい中にもたいへん充実した、それなりに楽しい日々でした。そして仕事が一段落ついた気の緩みで、それまでの無理がたたって体をこわしたようです。
レポートの題は「ケルビン発電機の製作と実験」というものです。この製作に2ケ月を要しました。しかしとにかく装置は出来上がり、実験も成功したのでほっとしています。あとは教育センターでの本番の発表を待つだけです。(略)
現在、家の水槽で「たつの落とし子」を二匹飼っています。8月に生徒が海でとってきて職員室でもらったときには、まったく飼育に自信がなくて、それで一度は半田の海にまで返しに出かけたのですが、そこの海もたつの落とし子が棲めそうな海ではなかったので、また家に持ち帰りました。それから2ケ月、二匹とも元気に生きています。
毎日エビの卵を人工海水で孵化させ、それをスポイドで吸って、エサとして朝晩や与えます。水槽やバイブレーター、サーモスタット、ヒーターと出費もかさみましたが、エサをやるのが毎日の私の日課になって、けっこう楽しいものです。
疲れたときなど、30分あまりも、ぼんやり眺めていることがあります。二匹の性別がはっきりしないのですが、オスとメスなら子どもが生まれるかもしれません。水槽でたつの落とし子の子どもを育てられたらと夢が膨らみます。
たつにお落とし子という珍しい魚の生態をじっくり観察していると、いろいろと楽しい発見があって、世界が広がります。こんな小さな片隅にも、不思議な命のドラマがあるのだなあと、感心します。
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たつの落とし子にも個性があった。一匹は活発に水槽をうごきまわり、孵化したエサのシュリンプをたべる。もう一匹はもの静かにじっと構えていて、近くにやってきたシュリンプをすばやく食べる。生活のスタイルが動と静で対照的だった。ただ、いつも静かな一匹も、もう一匹に誘われてダンスをしはじめるときがある。二匹が楽しそうに水槽でダンスに興じるさまは見ていて面白かった。
残念ながら、たつの落とし子は翌年の1月に死んでしまった。当時の日記によると、正月早々、私はインフルエンザらしい大病を患い、数日間寝込んでしまった。この間、たつの落とし子の世話がおろそかになった。ある朝、私は水槽のそこに沈んでいる彼らを見つけ、あわてて介抱したが、すでに死んでいた。
(今日の一首)
琵琶の実が色づきにけりひよどりや 雀が食べるわれも味わう
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