橋本裕の日記
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2007年05月31日(木) 今月の短歌

 今日で5月もおしまいである。1月1日から始まった「一日一首」も、これで5ケ月続いた。今日が151首目である。この調子で毎日一首ずつなのしみながら作るつもりだ。毎日短歌を詠むだけの心のゆとりは大切にしたいと思っている。

信州の友より届く花便り少女のおもかげ片栗の花

雨のふる田んぼの道はうすみどり歩けばほのか菜の花けぶる

父が逝き祖母も続いて二人して仲良くわたる三途の河原

父と祖母読経ききつつ偲びたり足のしびれもなつかしきかな

家々に灯りがともる夜の道蛙が鳴けば星もささやく

雨蛙葉っぱの上でみどりいろ風にゆられて眼をとじている 

雨音はしみじみとしてよし風呂上りぶどう酒片手にソファで聴く

わが畑で妻の育てたさくらんぼたった五つをみなで味わう

あかかかと沈む夕日を見ていたり携帯を持つ人のかたわら

真夜中に目覚めてみればハエひとつ鼻から降りて頬を歩けり

田んぼではケリの夫婦がけんめいにヒナを育てて初夏を迎える

風さわぐ木立をゆけばなつかしき友がたたづむ明け方の夢

母の日にうなぎを食べる櫃まぶしたらふく食べて娘が払う

庭の琵琶実も青々とふくらんで黄色に色づくその日は近し

家買えばわれに残らずわが稼ぎため息ついて青き手を見る

父の日はアロハがほしいと妻に言うセブの海にはアロハが似合う

妖しくも燃ゆるものありひそやかにこれをつつしみ善き人となる

人生に恋していたりこの頃は見るものすべて美しきかな

馬酔木咲く水辺を行けばなつかしき君の声する夢から覚めても

タンポポを河原に摘んだ若き日の思い出のなかそよかぜが吹く

かなしみを鈍感力で乗り切って今日もたのしく笑って生きる

くちびるの赤きをみなを思い出す木下道に風そよぐとき

若き日は過ちばかり年を経てわが過ちを知るこころさびしく

雨音を聞きつつしのぶ初めての女の狂気われの十字架

はずかしき思い出多ししかれども青春の日はうつくしきかな

北国の海はなつかし遠き日の空の青さや潮のかをりも

玄関の花瓶の花よもの言わず我を見送りわれを迎える

あちこちで蛙がさわぐ散歩道なにやらおかしい求愛のうた

いつしかも髪の毛白くしわがより父の晩年われに近づく

(今日の一首)

 文を書き短歌をひとつしたためる
 このひと時はいのち華やぐ


2007年05月30日(水) K子への手紙(2)

 昨日に引き続き、私がK子にあてて書いた手紙を紹介しよう。これらの手紙は近いうちに処分される。ここにその一部を残しておくことも無意味ではないだろう。これは前回紹介した手紙より4年後の、1988年7月11日の手紙である。

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 拝啓。

 その後、お元気でしょうか。
 暑い日が続いています。私の方は、まあなんとかがんばっています。大学の卒業論文は20数枚書きましたが、どうもうまく書けずに、今はもっぱら参考文献を読んでいるばかりです。

 万葉集は読んでいる分には楽しいのですが、これを対象に何か「研究」をし、論文を書こうと思うと、なんとも厄介なものだということが、しだいに分かってきました。しかも、文献が実にぼう大なのです。まったくかないません。今年の夏は、苦しい夏になりそうです。

 私の夢は国文学の単位をとって、国語の教師になって、生徒たちに文学を教えることですが、できれば研究を続けて論文を発表し、大学の教師になるのもいいなと思っています。それもできれば、京都か奈良の大学の先生がいいですね。こう書いてきて、なんだか笑ってしまいました。高校の教師であることに少し嫌気がさしているようです。

 最近はとくにのどの調子が悪いのですが、高校でさわがしい生徒たちを相手に声を張り上げてばかりいるせいでしょう。大学ならば、マイクも使えるし、それにそんなに生徒たちもやかましくはないと思うのです。そして何よりも大学が魅力的なのは、、好きな「勉強」ができるということです。

 目下、仏教大学の通信部の4年生で、卒業の見込みも立たない私は、こんなことはすべて夢の夢のような話です。しかし、この夢のような話にすがって、私は毎日、万葉集やその周辺の文献を勉強しています。K子さんのほうは、その後どうでしょう。何か面白い本とか、何かしたいことが見つかりましたか。

 面白いといえば、久しぶりに映画を見に行きました。インド映画で「大地のうた」三部作です。大学生の割引を使ったので、6時間の大作を1100円で見てきました。もう30年以上前に作られた白黒作品ですが、とっても新鮮で感動的でした。その感動をワープロで文章にしましたので、ここに同封しておきます。

 学校の方は、受け持ちの生徒が暴走行為をして、鑑別所に入ったりして、その後もいろいろあって落ち着きませんでしたが、今は試験の採点に追われています。成績処理や通知表をつけたり、これからしばらく忙しいのですが、そのあとは夏休みで、少しゆとりができそうです。暑さに負けず、勉強に精を出そうかと思っています。最後に、最近作った短歌をいくつか書いておきます。また、手厳しいご批評がいただければ幸いです。

 若竹に雨ふりそそぐこの夕べ我が家のタニシ子を産みにけり

 夜もすがら蚊を追いて勇み立つわが心のさびしくもあるか

 どくだみの茂る庭べに人ひとり白き下着を干してをりけり

 昼顔のほのかな色に染まりたる女の肌をかなしむ夏の日

 自らを淫して後の淋しさは石になりたし深山川の

 何ゆえにかなしき歌をうたふかと問ふ人もなし夏の日暮れに

 以上です。最近は万葉集ばかり読んでいるせいか、どうも歌が古臭くていけません。K子さんもまた何かできたら送ってください。それでは、さようなら。

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(今日の一首)

 いつしかも髪の毛白くしわがより
 父の晩年われに近づく


2007年05月29日(火) K子への手紙(1)

 K子とはかなりの量の手紙をやりとりした。そこでK子からの手紙を探してみたが、どこにも見当たらない。どこかにしまいこんだか、それともまとめて処分したのだろう。数年前から私は「無一物運動」と称して、身辺整理の最中である。書籍に加え、友人知人からもらった手紙も大方処分した。K子の手紙も処分した可能性がある。

 さいわいなことに、私がK子に出した手紙は何篇かコピーが残っていた。また、日記帳の中にも、その下書きと思われる文章が残されていて、読み返して見ると、当時の記憶がよみがえってくる。あまり、思い出したくはない過去なのだが、残された手紙はK子がずいぶん落ち着いてきたころのもので、手紙の調子も割合のどかである。

 今日はその中から、1984年7月4日の手紙の一部を引用しよう。この手紙は便箋20枚におよぶ大作である。したがってすべてを引用することはできない。引用は冒頭の部分と、最後の部分だけである。

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拝啓。

 お電話をいただき、いろいろと考えてみました。病院であなたが大変苦しんでいる様子を知るにつけ、胸が痛みます。あなたの不幸を少しでも軽くしてあげる知恵が私にあればよいのですが、私自身、人生に迷い、苦しんでいるあわれな一介の人間にすぎません。私の手紙がさらにあなたを迷わせるのではないかと、私は恐れています。

 しかし、あえてこの手紙を差し上げます。あなたがあなた自身の人生の苦闘に勝利するために、わずかでも参考になればと、私はこのことを祈りながら、これを書いています。あなたの心の平安のためにだけではありません。あなたが幸福になることは、私が幸福になることでもあるからです。

 さて、現実的にあなたはいろいろな問題を抱えて苦しんでいて、そこから脱出しようと努力もしているわけですが、その一つ一つの問題について具体的にどうすればよいのか、経験に乏しい私はなかなかあなたを満足させる答えも見出せず、かえってあなたの苛立ちを募らせてしまいました。今回の新しいクリニック先でのトラブルでも、私はあなたにただ「忍耐」をすることをお願いするばかりでした。(略)

 Sクリニックについて、電話では交通費も支給しないようなとこではというあなたの意見でしたが、このことについて、また別の見方もできるのではないでしょうか。人間が薄給に甘んじても働けるとすれば、人間がその仕事に生きがいを持っているときです。高給をエサに人をあつめようとする企業と、むしろ無償のボランティアでまかなわれる事業と、いずれが人間に対して親切といえるでしょうか。

 高給取りの病院の医者と、キリスト教や仏教のボランティア団体の行っているカウンセラーといずれが患者に対して親切であるか、むしろ無償で働く人々こそ、熱意があるのではないでしょうか。金儲けを生きがいとしている人々に、自分の運命をあずけることほど愚かなことはありません。

 キリストは、ある日の午後、10人のライ患者を癒しました。ところがそのうちでキリストに礼を言ったのは、たった一人であると聖書(ルカ伝)は書いています。9人は自分の病が癒されると、一言の礼も言わずに逃げてしまったのです。それでもキリストはそのことで怒ってはいません。もとより自分の行動が愛よりでた無償のものだったからです。

 金のために働いている人々に多くを期待するのは愚かなことです。彼らはただ金に対して義務を果たしているにすぎません。一人ひとりの人間を救うために全生涯をかけ、自分の命まであがなった偉大な人間の思想からこそ、私たちは多くをまなぶべきではないでしょうか。

 あなたが一刻も早く立ち直られることを祈りながら筆をおきます。どうか、病院の先生の指示に従い、先生を信頼して、一刻も早くよくなってください。

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(今日の一首)

 あちこちで蛙がさわぐ散歩道
 なにやらおかしい求愛のうた


2007年05月28日(月) 私の十字架(6)

 K子との交際によって、私は自分に一つの診断を下した。それは「私は恋愛には不向きな人間だ」という自己診断である。まず、私は人間であれ、他の何事であれ、一つのものに没頭し、我を忘れるということができない。

 K子と交際していても、私は他の女性にも関心を持った。そして実のところ、それを不誠実とは考えない。なぜなら「人間は基本的に自由である」というのが私の人生哲学である。

 もちろんこれを裏返せば、K子もまた自由である。彼女が他の男と食事をし、ホテルに行ったとしても、私は「それはよかったね。楽しかったかい」とい彼女を祝福するだろう。これは対象がK子だからということではなく、他のどんな女性に対してもそうである。はっきり言って、私には相手を独占したいという感情も、嫉妬という感情も希薄である。これでは恋愛はむつかしいのではないか。

 こうした私の自由人としての立場は、K子にも、おそらく他の多くの女性にも、受け入れがたいのではないだろうか。じっさいのところ、これを相手に理解させるのは、とてもむつかしいことなのだ。そして結局、「それはあなたが本当に人を好きになったことがないからよ」というのが、大方の結論になる。こうして「私は恋愛に不向きな人間なのだ」というのが私自身の自己認識にもなったわけだ。

 後年、私はK子と大量の手紙のやり取りをすることになったが、その中で、「どうして私と結婚しなかったのか」という彼女の問いかけに、私は「リズム」というたとえを持ち出して、遠まわしに答えている。

<最近、ある週刊誌を読んでいたら、人間が最終的にうまくいかないのは、相手のリズムが合わないからだということが書いてありました。かなり高名な人生評論家の意見だったように思います。その人が言うには、人間はみなそれぞれ固有のリズムがあって、そのリズムが乱れると大変不愉快になり、ついには病気にもなるそうです。

 ところで、人と付き合うには、うまく相手のリズムに合わせなければなりません。相手のリズムに合わせるタイミングを心得ている人は、人から好かれるわけです。しかし合わせて貰っている方はいいが、合わせる方はそれなりの努力がいる。そこで不満が生じたり、喧嘩になったりします。

 人間関係を円滑にするには、こうしたお互いのリズムを尊重し、それを乱さない範囲で交際するというのが一番いいようです。そしてたまにはお互いのリズムに合わせたり、合わせられたりして、相手のリズムを楽しむのです。

 私は自分の生命のリズムを大切にしたい人間です。そして、自分のリズムに干渉されるのを嫌うので、なるべく他人のリズムにも干渉しないように心がけています。しかし、それでは淋しくなる。そこで、自分のリズムに相手を誘い込んで、たまには一緒に踊ってくれる人を欲しがったりします。

 人間、リズムがぴったり合うというのは幻想だと思います。たとえそう思われるような瞬間があっても、それはほんのわずかの間に過ぎません。そうでなければ、どちらかが無理をしてあわせているのです>(1985年9月26日の手紙から一部引用)

 人はそれぞれ独自の生き方があり、独自のリズムを持っている。そうしたお互いのリズムを尊重しなければならない。ところが、ときには外部に強力な磁場がかかり、個人のリズムを狂わせようとする。恋愛であれ、社会的強制であれ、個人の自由な生き方を否定する強制は、私のもっとも嫌う存在だった。K子にはこれが理解できなかった。

(今日の一首)

 玄関の花瓶の花よもの言わず
 我を見送りわれを迎える


2007年05月27日(日) 私の十字架(5)

 私は文学に憧れ、小説など書いていながら、女性の心理というものについてほとんど知らなかった。人を恋することがどんなに苦しくて、そして時には理性を失わせ、自己をも相手をも傷付けずにはおかないか、それがどれほど恐ろしく破壊的なものか、私には何の知識もなかった。

 私はただいっとき彼女を所有し、自分の男としての欲望を満たせばそれでよかった。自分を崇拝し、慕ってくれるK子に好感と愛情は感じていたが、それ以上に私を突き動かしたのは、この男の欲情であった。そしてこの男の欲情はそれが満たされてしまうと、次第に薄められていく。そして私は本来の自分に帰って行った。

 ところが彼女はそうではなかった。彼女もまた欲情におぼれた。私には女が、とくにK子のような理知的な女が、これほど激しく我を忘れてあられもない表情をたたえながら男を求めるものだということは驚きだった。その欲情の強さは、おそらく私をもはるかに上回り、さらに途方もない深さをたたえていた。

 ホテルを出て、私はK子をタクシーで栄まで送った。そこで簡単に朝食をすませて、それから地下鉄でおのおのの家に帰ればよいと思っていた。ところが彼女は、「こんな時間に家には帰れない」という。父親と二人暮らしをしている彼女は、無断で外泊したことを、どう言い訳したらよいか悩んでいる様子だった。そして喫茶店の窓際の席で途方にくれたように泣き出した。

 私は仕方なく、ふたたびタクシーを拾い、彼女を私の下宿に連れてきた。タクシーの中でも、彼女は泣いた。私には彼女がホテルでの一夜を境に、まったく別の人格になったとしか思えなかった。

 私の薄暗い8畳間の下宿で、私たちはまた自然な成り行きで体をあわせた。私が彼女を求めている間、彼女はやすらかそうな美しい表情をしていた。しかし、私が体を離すと、眉間にしわを寄せ、身悶えるように激しく泣きだした。

 私が不審に思って問いただすと、「私はもう、むかしの私ではなくなったの」と答えた。これはあとで分かったことだが、彼女はすでに一つの恋愛を体験していた。彼女はこれに失敗し、おそろしい地獄を味わった。私との交際も、また同じような経過をたどり、悲しい結末になるのではないかと恐れていたようだ。

 この不安が、私との交際を通して次第に増幅し、彼女を精神異常の世界に追い立てた。私はそんな彼女を受容できるほどの人格者ではなかった。そして彼女の不安は結果として的中することになった。それは彼女にとっても、私にとっても、ぞっとするほどの厳しい試練に満ちた茨の道であった。

(今日の一首)

 北国の海はなつかし遠き日の
 空の青さや潮のかをりも


2007年05月26日(土) 私の十字架(4)

  K子は私の始めての女だった。当時私は大学院の博士課程で理論物理学を専攻していたが、またおかしな「文学病」にとりつかれて、「作家」という同人誌に小説を書き始めていた。結局物理学より小説の方が面白くなり、博士課程を2年で中退して、高校の教師になった。

 高校の教師になったのは、夏休みなど休日がふんだんにあり、小説を書くのに最適な職業だと判断したためだが、教師になってみるとこれはそれほど生半可な仕事ではないことがわかった。結局、私は教師という仕事にエネルギーの大半をとられて、その残りかすで小説を書くはめになった。

 これでは本格的な作品は書けない。結局、二つの同人誌にあわせて40本ほどの短編小説を書いて、朝日新聞に顔写真つきで作品が紹介されたり、「文学界」の同人誌評で何度か取り上げられ、その月のベスト5に名前が挙がったりしたが、結局それだけだった。それなりのテクニックは身についたが、技術だけで小説が書けるわけではない。

 物理の研究をさぼり、小説を書き始めた大学院生の頃、私は読書会でK子と知り合い、私たちは喫茶店で二人で会って話をするようになった。大学院で物理の研究をし、小説も書いている私は、夜間大学の文学部を卒業したK子にとって、尊敬とあこがれの対象だった。星の世界の神秘から、サルトルやハイデガーの哲学、万葉集の愛とロマンの世界、そして現代小説にいたるまで、私の守備範囲は広かった。

 彼女は私をうっとりと見つめ、「こんなすごい人がいるなんて、思いもしなかった」とため息をついた。私は調子に乗って話し続けた。K子を相手に話をしていると、自分がとてつもなく巨大な才能を持つ思想家であり、自然科学者であり、文学者であるような気がした。そして、いつかこうして自分を慕ってくれるK子に愛情を感じ始めていた。

 やがて私たちは居酒屋で飲むようになった。向かい合って座っていた彼女に、「こちらにおいで」と誘うと、素直に私の横に身を寄せて座った。私ははじめて彼女のからだに触れた。スカートの下の素肌に触れたとき、私の指が震えた。素人の女性の体にふれるのははじめてだった。

 私は次第に大胆になった。そして私はその日のうちに、彼女をホテルに連れて行った。ホテルに一泊し、私は何度も彼女を求めた。私に心酔していた彼女は、ほとんど抵抗を示さなかった。言われるまま、一糸まとわぬ素裸で従順に身を横たえている彼女を見下ろして、私は世界を征服したような高揚感に襲われた。しかし、この高揚感も長く続かなかった。このあと、K子の態度が豹変したからだ。

(今日の一首)

 はずかしき思い出多ししかれども
 青春の日はうつくしきかな


2007年05月25日(金) 私の十字架(3)

 何時ごろからだろうか、心が弱ったとき、私は鏡の前に立って、自分の良いところを数え上げ、自画自賛する習慣ができていた。たとえばこんな風に、自分を励ましながら、心のなかでつぶやいてみる。

「私は健康な体と優秀な頭脳を授かった。私は人並み以上の容姿と、性格のよさを持ち、経済的にも不足はない。世の中にはいろいろなハンディを背負いながら、それでもけなげに生きている人たちが大勢いる。あらゆる点で恵まれている私は、ほんとうにしあわせである」

 このいささか鼻持ちならない「自画自賛」は、K子に「人でなし」と罵られていたときも、たしかによくきいた。鏡の前に立ち、この呪文を唱えていると、不思議と自信が回復し、元気があふれてくる。

 私は今でも、困難な情況におかれて心が沈んだときなど、「自分は何と恵まれた、しあわせな境遇なのだろう」と考えることにしている。ただし、鏡の前には立たないほうがよい。白髪やしみの増えた貧相な自分の顔を前にすると、さすがにこの呪文の効果が薄れかねないからだ。

 K子を精神病院に強制入院させることができたのも、私の強運があった。その頃、私はたままた精神病院の院長の長女の家庭教師をしていたからだ。私は家庭教師の折、おやつを運んできた奥さんに、世間話でもするような調子で、K子のことを話した。奥さんは私の話を親身になって聞いてくれた。そして、さっそく、私の苦境を救うべく、院長に働きかけてくれた。

 私が精神病院の院長の娘を個人的に教えていたことは、私にとって大きな助けとなったが、K子にとっては、思ってもいない不運ということになろうか。彼女はおかげで白昼堂々、衆人環視のなかで身柄を拘束され、有無を言わさず精神病院に連行されることになった。

 しかし、精神病院で彼女は落ち着きを取り戻した。どんな治療が行われたのかは知らないが、彼女の攻撃的な性格は大幅に矯正された。その後20数年間、私はもはや彼女の破滅的な言動や脅しに、以前ほど悩まされることはなくなった。私はときどき病院に面会に行き、彼女と静かに話し合うこともできた。そして電話や手紙のやりとも再開した。私は彼女の人生相談にも応じ、仏教やカーネギーの本をプレゼントしたりした。

 私は5年ほど前から年賀状を廃止しているが、アパートで淋しい一人暮らしをしている彼女にだけは書き続けた。それもパソコンは使わず、「手書き」を貫いた。もう大分前から、彼女からの手紙も賀状も届かなくなっていたが、私は去年の暮れにも、自分から彼女に年賀状を送った。しかし、それが今回初めて「宛先不明」ということで戻ってきた。

 彼女は私に告げることもなく転居したのだろうか。それとも、もっと重大なことが彼女の身に起こったのだろうか。返された自分の賀状を眺め、彼女の身を案じつつも、どこかに解放感を感じ、30年以上続いた彼女との苦く辛い歴史を思いかえした。

(今日の一首)

 雨音を聞きつつしのぶ初めての
 女の狂気われの十字架


2007年05月24日(木) 私の十字架(2)

 名古屋市の郊外の豊田よりのところに、米野木という地下鉄の駅がある。私は日曜日の午後、k子とそこで会うことにした。米野木は私の通勤路にある。だからそこで会うことにK子は疑問を抱かなかった。これまで会うことを拒否していた私の方から、突然会いたいという電話をもらって、K子はうれしかったようだ。

 約束の時間より少し前に、K子が現れた。駅の駐車場にいる私を見つけると、少し駆け足になってやってきた。たしか、初夏のさわやかな日だった。あたたかい日差しを全身に浴びて、K子は明るく弾んで幸せそうだった。しかし、この幸せは、次の瞬間に崩れた。K子の進路を、3人の男がさえぎった。

 3人のうちの一人は白衣を着た精神科の医者だった。彼は医者だということを強調するように、白衣のポケットから聴診器を取り出して周囲に振ってみせた。残りの二人はスーツに身を包んでいたが、この医者の助手だった。彼女の顔色が変わった。そして、叫びだした。

「助けてください。この人たち、私を誘拐しようとしています」
「誘拐でありません。私は医者です」
「違います。助けてください」

 人々は好奇心で寄ってきたが、白衣を着た医者が聴診器を振り回しているのを見て、だれもK子を助けようとはしなかった。私は釘つけになって、K子が取り押さえられ、病院の車に連れ込まれるのを見た。最後にK子は私の名を呼び、助けを求めた。私は近づいて、「お医者さんの言うとおりにするんだよ」と声をかけた。

 K子を精神病院入れることについて、私は彼女の父親と姉の承諾を得ていた。私はすべての手配を周到に整えて、彼女をここにおびきだしたわけだ。泣き喚くK子を目の前にして、心が痛んだが、計画を中止するわけにはいかなかった。

 車に押し込まれながら、K子は足をばたつかせた。それでスカートがまくれ上がり、水色のショーツと太ももが丸見えになった。医者が注射器を取り出して、K子の腕に刺した。それからしばらくして、K子はおとなしくなった。

 K子が精神病院に収容されて、私の生活にようやく平和が訪れた。私はもはや電話線をはずして寝る必要もなかった。学校でも苦情をきかないですんだ。しかし、この平和な生活のなかでも、私の心はけっして平安ではなかった。

 私は次第に憂鬱になり、「人生はこんなにまでして生きる価値があるのだろうか」と思いつめるようになった。いっそ、アパートでK子に刺されて死んでいたら、よほど楽だったろうと考えた。しかし、一方で、「こんなことには負けないぞ」という闘志も腹のそこから湧いてきた。K子さえいなければ、人生はまだ捨てたものではないようにも思えた。(続く)

(今日の一首)

 若き日は過ちばかり年を経て
 わが過ちを知るこころさびしく


2007年05月23日(水) 私の十字架(1)

 もう、20年以上前のことだが、女性問題で死ぬほど苦しんだことがある。その女性をK子としておこう。K子とは読書会で知り合い、やがて肉体関係を持った。しかし、結局、いろいろないきさつがあって別れたが、その後も、K子から電話や訪問があり、完全に関係が途絶えていたわけではなかった。

 私は関係を切りたかったが、K子の方でいろいろな口実をつけて合いたがった。私はこれを拒否していたが、そうすると、「今から、あなたを殺しに行きます」という電話が入った。当時教員になったばかりで、アパートで一人暮らしをしていた私は、これまでK子が来てもドアを開けなかった。警察に連絡し、パトカーがやってきたこともある。しかしこのときはドアの鍵を開けたまま、K子が来るのを待った。

 K子とは結婚をしてもよいと思った時期もあったが、K子が私に結婚を強要するようになって私の気持ちは冷えた。K子と結婚をするくらいなら、殺される方がましだ、と思い定めた。K子がそんなに私を殺したいのならそれも仕方がない。「殺されてもよい」と覚悟を決めたわけだ。夜中にドアがノックされ、いよいよ来るべきものが来たかと思った。しかし、ドアを開けると、そこに父と母と弟が立っていた。

 私は殺されると覚悟を決めた後、福井の実家の母に電話を入れていた。何を話したのかは忘れたが、最後に母の声を聞いておきたいと思ったようだ。そのなかで、「これまでいろいろとありがとう」という意味のことを話したのかもしれない。とにかく母は何かを直感し、父と弟に「なんだか裕の様子がおかしい」と話したようだ。3人はすぐに高速道路を使って車でやってきた。

 私は父や母に、K子とのことをありのままに話した。昔から学問が好きで、大学院に学び教師になった私を、父も母も「できた息子」として誇りに思っていたに違いない。それが、「女が殺しに来るかもしれない」というのだから、驚いたことだろう。父は黙って聞いていた。そして明け方近く、3人は帰って行った。

 あとで母に聞いた話だと、父はアパートの外に出ると、何回か吐いたという。古風な考えの父からすれば、「女と肉体関係を結び、気に入らないから別れる」という私の行動は、とても容認しがたいことだったのだろう。それは母もおなじだったに違いない。私にも言い訳があったが、結局は「気に入らないから別れる」ということには違いなかった。

 K子にしてみれば、体と心をもてあそばれ、そのあげく無慈悲に捨てられたという恨みが残ったことだろう。「あなたのような不道徳な人が教師をしていることは許せません」と電話口で何度も私をののしったが、実際、教育委員会にも電話をしたらしい。私の学校にも1日に何十回もいやがらせの電話がかかってくるようになり、「これでは学校の業務に差し障ります」と事務から苦情をいわれた。そこで私は、K子を呼び出すことにした。(続く)

(今日の一首)

 くちびるの赤きをみなを思い出す
 木下道に風そよぐとき


2007年05月22日(火) 鈍感力で生きる

 昨日は学校でたくさんの失敗をした。まず、試験監督の教室を間違えた。試験開始時間がはじまって、あわてて該当の4年生の教室にたどり着いたが、こんどは試験用紙が大幅に足りない。生徒に聞くと、二教科同時に実施されるのだという。私は自分の教科(数学)の分しか持っていなかった。

 そこであわてて、職員室に駆け込んで、残りの教科(国語)の試験用紙を探した。それは非常勤講師が出題した問題で、金庫の中に大切にしまわれてあった。それを持ち帰り、「ごめん、ごめん」といいながら、残りの生徒にようやく配り終えた。そのとき、私の携帯電話が鳴った。試験中は携帯の電源を切ることになっている。

 私はあわてて電源を切ると、「君たちも携帯の電源を切るように」と指示した。すかさず生徒達から「先生に言われたくはない」と返されてしまった。ふたたび私は「ごめん、ごめん」と誤らなければならなかった。

 考えてみると、私が国語の試験問題を探しているあいだ、教室は数学の答案がくばられたまま、監督者がいない状態になっていた。つまりカンニングのし放題である。さいわいそういう横着な生徒はいなかったようだが、これも対応としては非情にまずいことであった。

 試験を終えて、ため息をつきながら職員室に帰ってくると、私の失策で盛り上がっていて、「血圧はだいじょうぶですか」と隣の先生に言われた。「いや、もうすっかりぼけてしまいました」と笑いでごまかすしかない。このほかにも、提出する書類の期限をまちがえるなど、たくさんの失策をした。昔ほど落ち込まなくなったのは、「鈍感力」がついてきたからだろう。

 そのあと、去年担任した女生徒と話した。彼女は1年生の最後の数学の試験で100点をとった。そこでごほうびにランチをおごってやったりした。本来はとても元気がよく、勉強もできる生徒だが、最近になって、「先生、もう、学校やめたい」と言いだした。試験も受けなかったし、明日も、明後日も、受ける意志はないという。どうやら嫌なことが重なり、投げやりになっているようだ。

 私は自分の失敗談など話し、「人生いろいろあるからな。そんな気分になることもあるさ」と慰めた。何だか自分を慰めているようなしんみりとした口調になった。「一休みするのもいいけど、木曜日の数学の試験は受けろよ」というと、「またランチおごってくれる?」と訊くので、「100点とったらな」と言うと、「今回もがんばって100点とる」と、表情が少し明るくなった。

(今日の一首)

 かなしみを鈍感力で乗り切って
 今日もたのしく笑って生きる


2007年05月21日(月) 私を救った夜間高校(2)

 結局、私は豊田の新設高校に2年間勤務したあと、テニスで知り合った先輩教師のアドバイスにしたがって、名古屋市内の定時制夜間高校に転勤した。たしかにそこは先輩教師が言うとおり、別天地だった。私はもはや理不尽な規則で管理されなかったし、私も生徒を細かな規則で管理する必要もなくなった。私はここで初めて、自分の良心の自由にしたがって行動することができた。これは実に爽快なことだった。

 生徒も、同僚の教師も、生き生きとしていた。私は当時理科を教えていたが、教材の一つとして、近所に咲いていたタンポポを教室に持って行った。タンポポには在来種と外来種の二種類がある。外来種のセイヨウタンポポが増えつつある。それがどのような場所で、どのようにして増えるのか、実物を見せながら話した。

 このタンポポの授業は生徒たちに好評だった。そしてこの日から、私は「タンポポ先生」と呼ばれるようになった。1年後、最後の授業を終えると、生徒たちが教壇に次々とやってきて、「タンポポ先生、一年間ありがとう」「楽しかったよ」「タンポポ先生、また来年も、教えね」と声をかけてくれた。こんなことは教師になってはじめての経験だった。

 職員室の雰囲気もよかった。和気藹々として、いつも冗談が飛び通っていた、教員が出世競争に明け暮れていて、悪口が飛び交っていた前任校とはまるでちがった。そこでは足のひっぱりあいが横行していた。たとえば、私がうっかり学校の不満を漏らすと、それをすかさず誰かが校長に知らせ、校長から教頭に指示が降り、私は直接の上司である指導部長から「君はこんなことを言ったそうだね」と苦情をいわれた。

 定時制高校では、教師はおたがいに助け合っていた。年2回も宿泊の職員旅行があり、これも愉しみになった。これとは別に、気のあった仲間で、よく旅をした。これは私がその定時制高校から転勤したあと、十数年を経た今も続いている。こうした仲間の教師や生徒たちに恵まれて、「教師を辞めたい」と思いつめていた私は、「これなら教員を一生続けてもよい」と思うようになった。

 もし私がこの夜間高校に出合わなかったら、私は教師として挫折していただろう。自分には教師の才能も資格もないのだと思い、絶望して転職していたかもしれない。ところが夜間高校へ来て、私は自信が持てるようになった。そして、「教師という仕事も捨てたものではないぞ」と将来に希望がわいてきた。

 もちろん、これは昼間の高校と比べて、夜間高校の仕事がやさしいということではない。実際、私は夜間高校で、さまざまな辛い経験もした。私のクラスには暴走族の幹部もいたし、鑑別所や裁判所にも足をはこばなければならなかった。職員室でワイシャツをひきちぎられるという暴行を受けたこともある。しかし、そうした苦労や困難はむしろ私を奮い立たせてくれた。私は再び「教師を辞めたい」と弱音をはくことはなかった。

 私は8年間、その夜間高校に勤めたあと、ふたたび全日制の昼の勤務に戻った。二人の娘が小学生になり、夕食を家族で囲みたいと思ったからだ。そして、次女が高校を卒業した5年前に、再び定時制夜間高校に転勤希望を出した。二年間この希望は無視されたが、ようやく3度目の正直で二年前に実現した。

 おどろいたことに、私が赴任することになったのは、二十数年前に私が赴いた、おなじ名古屋市内の定時制夜間高校だった。私に教師としての自覚を与え、私を一人前の教師に育ててくれたなつかしい夜間高校である。こうして私は定年を前にして、ふたたび私の「ふるさと」に里帰りすることができた。

(今日の一首)

 タンポポを河原に摘んだ若き日の
 思い出のなかそよかぜが吹く


2007年05月20日(日) 私を救った夜間高校(1)

 教師になって3年目、私は豊田市にある新設高校に転勤になった。大変規律のきびしい学校だった。生徒は校門を入るとき、校舎の上に掲げられてある「日の丸」に敬礼する。私たち教員も立ち止まって、この旗の方に敬礼しなければならない。こうした敬礼は学校のいたるところで行われた。

 たとえば校庭にも「三旗掲揚塔」があり、国旗、県旗、校旗が日直の生徒と教師の手で毎朝掲揚された。そして私がその運営を担当する係りに任じられた。毎朝、しっかり三旗が掲揚されているか監督しなければならない。豪雨のときは中止されるが、途中で雨が上がると、日直の先生に急遽生徒を招集してもらって掲揚してもらう。

 一度これを忘れて、校長に職員室で「旗はどうなっている」と叱られたことがあった。校長は私を直接叱らないで、教頭を叱る。そして、教頭が指導部長を叱り、指導部長が私を叱る。私は日直の先生のところに行って「しっかりやっていただかないと困りますよ」と苦情を述べるわけだ。こういう上下関係ができていた。たまに校長が直接叱るときがあったが、それは教師がこうした命令系統を無視したときだ。

 たとえば、社会科のM先生は職員朝礼の席で、「M、おまえはなぜ物を机の上に放置して帰るのだ。教頭の命令は私の命令だ」と叱られた。彼は国語辞典を机の上に一冊置いて帰った。学校のきまりには、机上は一切物を置いて帰ってはいけないということになっていた。だから机の上が空になっていたら、「ああこの先生は帰られたのだ」と一目瞭然である。私も「なんでそんなばかな規則にしたがわなければならないのか」と疑問を持っていたが、M先生のように行動に表す勇気はなかった。

 校長に叱られたあとも、Mさんの辞書置き行動はしばらく続いた。教頭が毎日その辞書を彼の机の下に置く。私はその様子を見て、「なんともばかばかしいことだ」とため息が出た。こうした不愉快な事がこの学校にはたくさんあった。

 たとえば生徒は昇降口の下足箱に靴を入れるとき、その向きが指定されていた。毎朝、生徒指導部の担当の教員がこれをチェックし、違反があると、名評にチェックして担任に連絡が入る。私のクラスの生徒の一人がこの違反の常習者だった。私が注意しても、「どうして靴の向きが反対ではいけないのですか」と聴く耳を持たない。私は「学校の規則だから」というしかない。私自身、なぜこんな規則が必要なのか説明ができない。

 彼はとうとう職員室に呼び出され、指導部長にこっぴどく叱られた。ところが、「どうしてこんな規則があるのか、納得できません」と動じる風がない。指導部長は怒り出して、「自分で分かるまで、担任のところで正座しておれ」と私に彼を押し付けてきた。私の足元で正座する彼を見て、「もう、いいかげんに降参したらどうだ」と進めてきたが、生徒も意固地になっていた。「困ったな」と思いながら、こうした学校のあり方に、私はますます疑問を募らせた。

 この頃、女生徒を中心に「過呼吸」がはやりだした。授業中に突然、呼吸が早くなり、体を硬直させて倒れる。そんな生徒が続出するので、タンカーが常設してある教室まで現れた。下足の入れ方まで神経質にチェックされ、授業中にカバンの中を総点検されたりする。もちろん授業中、私語は厳禁である。常に緊張を強いられる学校生活に身心が耐え切れなくなるわけだ。

 そうした中で、この学校にきて親しくなった社会科のS先生まで学校にこなくなった。どうやらこの息苦しさに耐えられなくなって、精神的におかしくなったようだった。私も学校に行くのがだんだん憂鬱になり、「教師を辞めたい」という思いが募ってきた。この思いを私はテニス仲間の先輩の教師に打ち明けた。

「せっかく教師になったんだ。学校にもいろいろあるから、そう短気をおこさないほうがいい」
「しかし、どうにも、もう限界のようだ。病気になりそうなんだ」
「だったら、夜間学校に転勤しろ。別天地だぞ」

 彼は名古屋市内の定時制夜間高校の教師をしていた。そんな学校があることは知っていたが、自分の勤務先としてそうした選択肢は今まで浮かばなかった。問題の多い生徒がいるのではないか。それに夜の仕事は敬遠したい気分があった。しかし、制服さえもなく、自由そのものだという夜間学校に、私の気持が動いた。そんな学校があるのなら、そこでもうすこし教師を続けてみてもいいと思った。(続く)

(今日の一首)

 馬酔木咲く水辺を行けばなつかしき
 君の声する夢から覚めても


2007年05月19日(土) 学校嫌いの教師

 昔から、勉強は好きだったが、学校はあまり好きではなかった。それはいろいろなことを強制されるからだ。そしてテストをして、何かと他の生徒と比較をする。強制されたり、人と比較されることが不愉快だ。テストも苦手である。何だか息苦しくて、過呼吸に襲われそうな気分になる。

 学校を卒業してこの息苦しさから解放された。いちばんうれしかったことは、もうつまらぬことを強制されたり、テストを受けなくてよいということだった。ところが、どいう縁か、学校嫌いの私が教師になって、生徒を強制したり、テストをつくる側になった。どうも人生は思うようには運ばない。

 私のクラスに教師になりたいという生徒がいる。その理由を聞くと、「中学校や高校で教師にひどいことをされたり言われてとても傷ついた。いじめをうけていても先生は見て見ぬふりだった。これでは生徒がかわいそうだから、僕が先生になって、僕のようなつらい思いをしている人たちを救ってあげたい」ということだ。

 ちなみに彼は、退学になった高校に復讐した。夜中に進入して、ガラス窓を壊したり、器物を破壊したりした。警察に捕まり、鑑別所に送られたが、そこでいろいろ考えたようだ。そして感情に任せて短絡的に復讐しても何の益にもならない。自分が立派な人間になることで自分に冷たかった学校や社会を見返してやりたいと考えるようになった。彼は夜間高校にやってきて、ガソリンスタンドで働きながら、今は私のクラスでがんばっている。

 夜間高校には、経済的な理由で昼間の高校に行けなかった生徒のほかに、こうした学校嫌いの生徒、学校や教師に反感を持っている生徒、学力やいろいろな面で学校に適応できなかった生徒たちも多くやってくる。登校拒否やひきこもりの子どもたちの受け皿にもなっている。だから、昼間の高校とおなじことをしていたら、夜間高校の教師はつとまらない。

 大切なのは、まず学校に対して、不信感や反感、恐怖心を持っている生徒の気持ちを理解できることである。この点で、私は同じようなみじめな思いをかずかず経験しているので適任ではないかと思っている。というより、私自身が教師を続けていられるのも、じつは夜間高校のおかげである。明日はこのことについて書いてみよう。

(今日の一首)

 人生に恋していたりこの頃は
 見るものすべて美しきかな


2007年05月18日(金) 文学の魔力

 最近、また小説を書きたいという思いが強くなっている。書きたいテーマもいろいろとある。そこで、「作家」や「象」という同人誌で一緒だった小説好きの友人に、「新しい同人誌をはじめよう」と誘いをかけている。自前の同人誌を舞台に、思い切り文筆の筆を揮ってみたい。

 しかし、考えてみれば、これは危険なことである。小説を書き始めると、どんどん深入りして行きそうだからだ。筆が走り、興が乗ると、途中でやめることができない。おそらく学校を休むことも多くなるだろう。休まないまでも、勤務中も小説のことが頭から離れなくなり、生徒や職場のことがおろそかになる。

 さらに「小説を書きたい」という気持ちが高ぶると、「教員を辞めて,これに専心したい」という思いが切実になる。妻は「定年まで勤めてください」と、反対するに違いない。そうすると、夫婦間がぎくしゃくし始める。ここで私が小説を書き出したら、おそらく家庭崩壊が現実のものになるのではないか。

 こういう恐れがあるので、新しい同人誌を始めることにもどこか腰が引けている。友人には去年から「ぜひやりましょう」と声をかけてはいるが、掛け声ばかりで、先に進んでいない。同人誌を出すにはそれなりに資金も必要だ。妻に「お小遣いの大幅値上げ」を持ちかけているが、容易に実現しそうにない。これはやはり神様が、あとしばらく辛抱せよとのメッセージを発しているのだろうか。

 定年まで4年を切った。小説は退職してから書き始めるのが無難である。それこそ毎日が日曜日で、好きなだけ、誰はばかることなく文筆に打ち込むことができる。この30年間、この日が来るのをどのくらい待ちわびたことだろう。それがようやく手の届きそうなところに見えてきた。あとしばらくの辛抱である。

 そういうわけで、最近はあまり小説を読まないようにしている。これ以上創作意欲を刺激されてはたまらないからだ。君子危うきに近寄らず、という作戦である。しかし、ときおり衝動がこみ上げてきて、この忍耐が壊れそうになるときがある。

 まあ、壊れたときはそのときだ。忍耐ばかりが人生ではあるまい。もう30年近くも忍耐してきた。それに、人の命は明日をも知れない、はかないものなのだから。

(今日の一首)

 妖しくも燃ゆるものありひそやかに
 これをつつしみ善き人となる


2007年05月17日(木) 楽しさを夢見て

 体調がすぐれないと、考え方も自然と悲観的になる。そこで、今日の日記には何か楽しいことを書いてみようと思った。浮かんだのは、7月22日から予定しているセブへの3週間の語学留学である。あと二ヶ月あまりすればセブへ飛び立てる。そう考えて、心を浮き立たせることにした。

 3月末から書き始めた英語日記もかなりの分量になった。これをセブに持って行って、マンツーマンの先生に批評してもらうことにしている。英語日記という敲き台があれば、そこから議論が深まり、私の英語世界も深まっていくのではないか。

 もっとも、セブに滞在する3週間のために、私は二十数万円を出費しなければならない。これは私の年間のお小遣いの半分である。年間20日しかない貴重な年休の大半もこれでなくなる。

 学校のあまりおいしくない食事を3度食べ、午前中も午後も英語の授業がある。風呂につかることもできず、洗濯もじぶんでしなければならない。3週間も不自由な生活が続くせいで、体重もかなり目減りする。にもかかわらず、セブのことを考えると、心が浮き立つ。

 セブへ行けば、日本から仕事は追いかけてこない。携帯電話に24時間縛られた不如意な生活からも、しばらくはおさらばである。休日には泊りがけで、セブの海岸のリゾートに行き、白い砂と青い空の下で、Tシャツと短パンで、風に吹かれながら自分を思い切り解放することができる。この自由な感覚は素晴らしい。

 こう書いてきて、どうしてセブが魅力的なのか分かってきた。つまり、そこには精神の自由がある。学校のことも、生徒のことも、家族のことからも開放されて、まったく一人でいられる。この天涯孤独の感覚がたまらないわけだ。これは裏返せば、日本での私がいかに精神的に抑圧され、不自由を余儀なくされているかということだろう。

(今日の一首)

 父の日はアロハがほしいと妻に言う
 セブの海にはアロハが似合う


2007年05月16日(水) 風邪と怠惰に効く薬

 4月に入って、何年かぶりにひどい風邪を引いたが、その後も、咳がとまらず、体調がよろしくない。妻には「どうやら肺がんになったようだ。今のうちにおとうさん孝行しておかないと、くやまれるよ」と、暗に「お小遣いの値上げ」をほのめかして、冗談半分に言っている。

 体調が悪くなるのは、土日である。夜中に咳き込んで、「こんなにつらい思いをするくらいなら、死んだほうがましだ」などと思う。しかし、月曜日の朝になると、かなり気分がよくなる。学校にたどりつくころにはほとんど咳も出ず、体調もかなり回復している。だから学校は休まないが、勤労意欲は大幅に減退している。

 妻は病院に行けというが、医者嫌いの私は行く気になれない。夜中に辛い思いをしているときには、「仕方ない、行くか」と思うのだが、あくる日になり、体が少し楽になると、「面倒だからやめた」ということになる。そして市販の風邪薬を飲んで、なんとかしのいでいる。

 体調が悪い原因の一つには、この4月から勤務時間が1時間延びたことがある。それまで昼食を食べ、一休みして12時30分頃に家を出ればよかった。ところが今は、昼食を食べ終わるやいなや、12時前に家を出なければならない。この「食後の一休み」がなくなって、生活のリズムがすっかり狂った。

 体調が悪いと、仕事も思いようにはかどらない。勤務時間が1時間増えても、やる気が半減しては、かえって仕事量は減る。最近、クラスの生徒が毎日7,8名も休んでいるが、これも私の気力の減退が大きい。

 昨日は久しぶりに出てきた生徒がいたが、「やあ、よくきたな」と声を掛けただけで終わった。それ以上、生徒と深くかわろうという気力がわかない。以前は休んだ生徒には必ず電話を入れて「がんばるんだよ」と励ましていたのに、これもさぼっている。電話をするのが億劫で、生徒と話をしたいとも思わない。これでは担任失格、いや教師失格だ。

 これまで2年間、雨の日を除いて、自転車で家と木曽川駅を往復していた。ところが最近は妻に車で送迎してもらっている。学校からの帰り、疲れた足取りで駅の改札口を出ると、車が迎えに来ている。これはありがたい。一度この安楽を味わうと、もとには戻らないだろう。妻がやさしくなったのは、「おとうさん孝行」の一言がきいたのかも知れない。

 もっとも、小遣いのほうは、4月も据え置きだった。次女が就職して家計がずいぶん楽になった。そこでお小遣いの大幅値上げを要求しているのだが、妻は家のローンの返済が先だという。これも最近の体調不良と勤労意欲喪失の原因の一つだろう。今日は給料日である。私の健康と勤労意欲の回復には、「お小遣いのアップ」が最良の薬だと思うのだが、お小遣いのアップは5月も見送られそうだ。

(今日の一首)

 家買えばわれに残らずわが稼ぎ
 ため息ついて青き手を見る


2007年05月15日(火) 国民投票法が成立

 昨日、国民投票法が自民と公明の与党の賛成で参議院を通り成立した。投票法の成立を受けて、日本国憲法ができて60年、これから日本の姿が大きく変わろうとしている。今回成立した法案の骨子を朝日新聞の記事から引用しよう。

●投票テーマ
   憲法改正に限定
●投票年齢
   18歳以上
●周知期間
   国会発議から60日以降180日以内に投票を実施
●運動の規制
   公務員・教員の地位を利用した賛否の勧誘の禁止
●広告規制
   投票14日前からテレビ。ラジオによる広告を禁止
●施行時期
   3年後。施行まで衆参両院の憲法審査会は
   改正案の審査・提出をしない。

 国民投票法には最低投票率の問題をはじめ、公務員や教員の運動に対する規制など、大きな問題がある。こうした大切な問題を煮詰めないまま、国民的な議論も中途半端なまま安倍・自民党は押し切ってしまった。安倍首相は7月の参院選で改憲を問おうとしている。

 自民党が作ろうとしている新しい憲法案では9条2項の戦力不保持や交戦権否認の規定は削除されている。代わりに「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する」といった文言が入る。自衛隊は軍隊として認められ、そして海外派兵も可能になる。

 さらに9条の2の3で、「国際社会の平和と安全を確保するために国際間に協調して行われる活動に参加する」としているからだ。この文言は集団的自衛権よりさらに広い。国際社会の安全と平和のためにという名目があれば、自衛隊は世界中で武力行使ができる。

 小泉政権になってから構造改革が進み、ここにきて格差問題が深刻化している。東京都の15歳から24歳の若年層は男女合わせて4割から5割が非正規雇用と失業だという。国民健康保険料未納による保険証剥奪問題や、ワーキングプアの深刻な状況がある。

 こうした国民の医療や福祉、労働問題を解決することが安倍政権の先決課題ではないのか。財界上層部の強い後押しを受けた安倍・自民党政権の強引な改憲戦略は、こうした日本の庶民がおかれた厳しい現状と、あまりにもかけ離れている。この政権が一体誰のための政権か、私たちはしっかり見極めた上で、来るべき7月の参議選挙に臨むべきだろう。

(今日の一首)

 庭の琵琶実も青々とふくらんで
 黄色に色づくその日は近し


2007年05月14日(月) 労働と仕事、ボランティア

 最近は派遣労働が多くなってきたようだ。これを派遣労働と言わずに「派遣のお仕事」と言ったりする。「労働」という言葉より、「仕事」の方が語感がよい。ところで「労働」と「仕事」はどう違うのか。私はこの両者を分けるのは「生きがい」があるかないかだと思う。

 教師も、教育に「生きがい」を見出すことができればそれは「仕事」になる。しかし、単なる給料のために働くということであれば、それは「労働」である。同様のことは「派遣」にも言えるだろう。そこに生きがいを見出すことができれば、それは労働ではなく、仕事になる。たんなる労働者ではなく、仕事師と呼ばれていいだろう。

 労働の場合はお金を稼ぐのが目的だが、仕事の場合は、たんにお金を稼ぐことばかりが目的ではない。それは一種の社会参加であり、自己実現であり、この世に何か有用な価値を生み出すことである。

 ここで思い出すのは、ハンナ・アレントが人間の行為様式を「労働(labor)」と「仕事(work)」と「活動(action)」に分けていることだ。彼女も「労働」よりも「仕事」を上位においている。ただ、彼女のすぐれているところは、「仕事」よりもさらに上位概念として「活動」を準備していることだ。

 世の中には「仕事」よりも大切なものがある。それはたとえば投票所に赴くといった政治的な活動である。仕事一筋といえば聞こえがいいが、それだけでは視野が狭くなる。社会の一員として政治に参加していくことも大切なことだ。またその知見を育てるための学習活動や、啓蒙活動に参加することも大切である。

 政治学者のアレントは「活動」として主に政治的なものを念頭においているが、「子育て」であったり、福祉などのボランティアも「活動」として認めてよい。また趣味で俳句や短歌を作ることでもよい。これらの活動はお金にはならないが、私たちの社会をより文化的に居心地のよいものにしてくれる。また、私たちの人生に奥行きを与えて豊かにしてくれる。

 労働者としてではなく、仕事師として生きることは格好がよいが、それと平行して、自らの趣味やボランティア活動家として生きる道もあってもよい。私も高校教員を30年あまり勤めて定年退職した後は、趣味で小説を書いたり、ボランティアで日本語教師をしたいと思っている。そして4年後をめざして、今からその準備をはじめている。

(今日の一首)

 母の日にうなぎを食べる櫃まぶし
 たらふく食べて娘が払う

 婦人警官になった次女が土曜日に名古屋のデパートでチーズケーキを買ってきた。昨日の母の日には、うなぎ屋で贅沢をして、いつもは食べない櫃まぶしを食べた。そのあと喫茶店でコーヒーを飲んだ。これらは看護婦をしている長女のおごりである。「父の日にはおれにプリウスを買ってくれ」と言ったら、「今日は父の日もかねているのよ」と長女に言われてしまった。


2007年05月13日(日) ミタル帝国の脅威

 5月1日から株式交換による企業買収(三角合併)が日本でも解禁され、いよいよ本格的な買収の時代に入った。外国企業が日本企業を買収するとき、これからはお金は必要ではない。自社の株券を印刷して、買収先の株主にこれとの交換をもちかければよい。株主はもうかると思えば、株券の交換に応じる。

 三角合併はお金を介さないという意味で、昔の物々交換に似ている。ただ交換されるものが、物ではなく株券だというところが大きな違いである。ミタル製鉄は去年6月27日に世界第二位の鉄鋼メーカー・アルセロールを買収した。ラクシュミ・ミタル社長は1月に「株を高値で買い取る」と一方的に宣言して、わずか半年で買収を成功させた。

 ミタルがヘッジファンドなどを介してアルセロール買収に要した資金は数兆円だといわれているが、これも実際にそれだけの現金が動いたわけではない。自社の株券をそれだけ手放しただけである。しかもそのあと企業合併することでミタル社の株はさらに上がり、その時価総額は今や6兆円で、世界第二位の新日鉄の2倍以上ある。

 ラクシュミ・ミタルはインドで小さなくず鉄工場を経営していた。それがわずか十年たらずで世界の25ケ国に製鉄工場を持つ現代の鉄鋼王になった。ミタル帝国といわれるゆえんである。一代で4兆円もの資産を築き上げ、娘の結婚式もベルサイユ宮殿を借り切って行われたという。その費用は75億円だったそうだ。

 鉄鋼王と呼ばれながら、彼自身はじつは一つも製鉄所を作っていない。すべて買収したものだ。その手法は、買収によって自社の株価を上げ、これをてこにさらなる企業買収をしかけるというものだ。たとえば、アルセロール買収を宣言した2006年1月27日のミタル社の株式時価総額は2兆3886億円である。それがアルセロール買収後の11月1日は二倍以上の5兆9979億円にまでふくれあがっている。わずか1年も満たないうちに、ミタルはこうして巨人化した。
 
 現在世界一の技術力を持っているのは、明治以来100年以上の歴史を誇る日本の新日鉄である。ミタル社が開発した特許はわずかに38件にすぎない。ところが新日鉄は1038件もの特許を持っている。この新日鉄の高度な先端技術が通常の鋼板よりも4倍も強度を持つというハイテンなどの驚異的高品質の鋼板を生み出し、日本の自動車産業の繁栄を支えてきた。

 新日鉄はこの最高レベルの技術をアルセロールに供与してきた。アルセロールがヨーロッパの自動車産業に限り販売を認めるという厳しい条件付である。これによって、ヨーロッパに進出した日本の自動車工場は高品質の鋼板を供給されていたわけである。アルセロールがタミルと合併されても、日本の自動車産業はこの構図に依存するしかない。

 タミルはアルセロール時代に新日鉄から供与された技術で鋼板を作り続け、これをヨーロッパの自動車産業に輸出している。しかも、この鋼板をヨーロッパ以外の工場で使用したいとしている。新日鉄の三村明夫社長はミタル氏とのトップ会談でこれを拒否したが、これによってミタルの新日鉄買収がいよいよ現実味を帯びてきた。

 三村社長も「ミタル帝国が完成するのは新日鉄が買収されたときでしょうね」と、最近放送されたNHKの番組で述べていた。さらに、「短期的な経営を狙った買収や技術の獲得を狙った敵対的買収に対しては、非常に危険だと思います」とも述べている。高い技術を持つ魅力的な企業であればあるだけ、買収されるリスクが高まるわけだが、三上社長はこうしたマネー万能の論理を批判して、去年10月にアルゼンチンで行われた国際鉄鋼会議でこう演説している。

<鉄鋼業界の再編は鉄に携わる者の手で行わなければならない。ヘッジファンドに代表されるマネーの論理によるべきではない。彼らは短期の利益だけを追求し、企業の価値を破壊してしまうからだ>

 三村社長は徹底抗戦の構えだが、最近、タミル社長は極秘に日本を訪れ、日本の自動車メーカーのトップと会談している。国際化した日本の自動車産業が新日鉄を見捨てる日も近いかもしれない。新日鉄の社内の企業買収研究班による分析資料には、ミタルによる株式交換による敵対的買収を仕掛けられた場合、「安全な防御策は存在しない」と記されている。新日鉄の看板が塗り替えられる日が近づいている。

 なお、「三角合併」のしくみや、マネー資本主義の脅威については、すでに「企業合併・買収(M&A)入門」でくわしく述べ、「高い技術力をもつ日本の企業はもっと危機感をもつべきだ」と警鐘を鳴らした。残念ながら、2年前に私が懸念した通りのことが現実に起こりつつあるようだ。

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/M&A.htm

(今日の一首)

 風さわぐ木立をゆけばなつかしき
 友がたたづむ明け方の夢


2007年05月12日(土) 嵐の中の人身事故

 一昨日の木曜日、前線が通り過ぎて、雷が鳴り、嵐が吹き荒れた。その風雨が少し収まったころ、12時近くに、妻の運転する車で家を出たが、JR木曽川駅に近づくに連れて渋滞がひどくなってきた。これでは学校に遅刻するので、私は車を降りて徒歩で駅に急いだ。

 ところが、駅の構内で人身事故があったらしく、電車が全面的にストップしていた。復旧の見込みはなく、名鉄の新木曽川駅まで行けば代替運送の切符がもらえると駅員に言われて、事情がよくわからないまま、雨の中を傘を差して15分ほどさらに歩いた。今朝の朝日新聞を読むと、若い女性が線路に立ち、貨物列車にはねられて死んだようだ。

<10日午前10時25分ごろ、愛知県一宮市木曽川町のJR東海道線木曽川駅構内で、線路内に立っていた女性(22)が、梅田発富士行きの上り貨物列車(37両編成)にはねられ、死亡した。この事故で同線の上下線が一時不通となった。JR東海によると、上下線計27本が運休、特急「ワイドビューしなの」を含む計15本が最大131分遅れ、約1万1000人に影響が出た>

 新聞を読んだ限りでは自殺の可能性が高いようだ。現在木曽川駅は改修工事の真っ最中で、多くの作業員がいる。彼らには線路に立っていた女性を助けられなかったのだろうか。

 もっとも、少し時間がずれていたら、私も現場に立ち会う羽目になっただろう。私にしてもプラットホームから飛び降りる勇気はなかったに違いない。プラットホームから転落した人を助けようとして死んだ男性や、遮断機の下りた踏み切りに留まっている自殺願望の女性を助けようとして殉職した警官がいたが、こうしたことはなかなかできることではない。

(今日の一首)

 線路立つ若き女は死出の旅
 嵐のなかに雷が鳴る


2007年05月11日(金) 田んぼでケリの子育て

 毎年、この時期には田んぼで、二羽のケリ(チドリ科)が雛を育てている。ケリのヒナは土色をしているので、よほど眼を凝らさないとわからない。しかし、ケリのヒナがいることは分かる。田んぼに近づくと、二羽の親鳥がけたたましく「ケッケッケッ」と鳴きだすからだ。

 http://shorebirds.exblog.jp/i6 (ケリの写真が見れます)

 鳴かなければわからないのに、馬鹿だなあと思うが、親鳥たちにしてみれば必死である。ときにはカラスにでも人間にでも襲い掛かってくる。一昨年死んだ愛犬リリオも散歩の途中襲われていた。

 もっとも、小柄な可愛い鳥なので、襲われても怖いとは思わない。この鳥の一番の武器はその「ケッケッケッ」という甲高い声である。この声で威嚇されると、カラスでさえ少しだけたじろぐ。そして面倒くさそうに、場所を変える。

 このケリという鳥を私は長い間「イソシギ」だと思っていた。2005年6月23日の朝日新聞の「声」の欄に、私の投稿が掲載されているが、そこではイソシギ(シギ科)と書いている。こんな具合だ。

ーーーー 子育てに成功、イソシギ一家 −−−
         2005,6,23 朝日新聞掲載

 毎朝、散歩をしている。田んぼに早苗がすくすくと育ち、民家の軒先にはアジサイが咲き始めた。木曽川が近いせいか、カモやシギの姿もみかける。

 畑の中にイソシギの巣があり、2カ月ほど前にヒナがかえった。私が近づくと、親鳥が「チッ、チッ、チッ」と警告し、ヒナたちが田んぼの方にはねるようにして、かけていく。

 やがてヒナ鳥も大きくなり、空も飛べるようになった。そして突然、畑からイソシギの親子の姿が消えた。そのかわり、近くにイソシギのものと思われる羽が落ちていて、草陰には黒猫がいた。

 私は胸騒ぎを覚えた。しかし、木曽川の河原に見覚えのあるイソシギの親子がいるのに、胸をなで下ろした。親子は舞い上がると、あいさつでもするように私の頭上をかすめていった。

 田んぼが埋められ、畑も姿を消す中で、イソシギや他の鳥たちも、安心して子育てできる環境ではなくなりつつある。それでも、人家のすぐ近くの小さな畑で、めげずに立派に子育てを成功させた彼らに、エールを送りたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 投稿から2年を過ぎ、田んぼはますます埋め立てられた。それでも残された田んぼで子育てをするけなげなケリの姿を、今年も見ることができた。この季節、散歩をするのが楽しみである。今日は双眼鏡を片手に出かけてみようかと思う。

(今日の一首)

 田んぼではケリの夫婦がけんめいに
 ヒナを育てて初夏を迎える


2007年05月10日(木) 癌死も生命の摂理

 厚生労働省の「平成17年人口動態統計」によると、日本人の死亡数108万人のうち、32万人以上の人がガンで死んでいる。死因を多い順に並べると、悪性新生物(癌)についで、心臓疾患、脳血管疾患、肺炎と続いている。

1  悪性新生物  ……325,941人  (30.1 %)
2  心疾患     ……173,125人  (16.0 %)
3  脳血管疾患  ……132,847人  (12.3 %)
4  肺炎       ……107,241人   ( 9.9 %)
5  不慮の事故  …… 39,863人   (3.7 %)
6  自殺       ……30,553人   (2.8 %)
7  老衰       …… 26,360人  (2.4 %)
8  腎不全      …… 20,528人   (1.9 %)
9  肝疾患     ……16,430人   (1.5 %)
10 糖尿病      ……13,621人   (1.3 %)

 ガンの部位別で見ると、男性の1位は肺ガンで、4万5千人(女性では3位で1万7千人)が死んでいる。肺ガンと診断された人の平均生存期間は9ヵ月、1年生存は20%、5年生存は8%だそうだ。肺がんや喉頭がんは喫煙との因果関係が考えられる。喫煙者の喉頭がん発生率は喉頭がんで22倍、肺がんで12倍、食道がんで7.5倍だという。

 体に悪いとわかっていてなかなかやめられないのが喫煙である。私の友人で、「喫煙をやめると、ストレスがたまる。だから、よけいに癌になりやすくなる」と主張する人がいる。小野寺時夫さんの「がんのウソと真実」によると、これは科学的根拠のない迷信だそうだ。「がんになった人はみな、どうしてがんになったのかと悩み、過去の生活の影響を考えがちになると思いますが、ストレスや性格が大きな原因とは現時点では考えにくいのです」と書いている。さらにこうも書いている。

<喫煙が、がんの発生を促進することは疑いありません。しかし、喫煙を続けて、100歳を超えても元気な人がいる一方、喫煙しないのに三十歳代で肺がん死する人もいます。このように、癌は他の病気と違って、注意しても予防できない運命的な要素が強いといえます>

 それでは癌はどうやって作られるのか。私たちの体は60兆の細胞からできていて、毎日8000億個もの新しい細胞が作られている。このなかに母細胞と違った細胞がある。その数はじつに100万個だという。これが癌細胞のもとになる。小野寺さんの本から引用しよう。

<発がん物質と言われる、強い放射線や紫外線、熱、ある種のウイルス、タバコのバンツピレン、PCB、ダイオキシン、アスベストなどの作用が続くと、とくに遺伝子が傷つけられて、元の細胞と著しく格好の違った細胞が作られる率が高くなります>

 こうした理由で毎日100万個も生まれている変異種の細胞の多くは細胞の核にあるがん抑制遺伝子の働きで正常細胞に修復される。しかし、この遺伝子の働きが弱いと、この変異種の細胞が生き残る。

 もっとも、これらの生き残った細胞にも険しい前途が待ち受けている。今度は体の免疫力を担当するリンパ球が、これを異物だと感知し、仲間を大急ぎで増やして総攻撃をかけてくるからだ。リンパ球の猛攻撃によって、この変異種の細胞はほとんど全滅させられる。

 ところがまれに、細胞分裂でさらに自分の姿を変えて、このリンパ球の眼をくらます細胞が現れる。これが癌細胞である。リンパ球もこれにはお手上げである。癌細胞はゆっくりと増殖し、100万個くらいになると、1ミリ程度になる。ここまでになるのに普通は20年から30年ほどかかるので、発見された癌が1年や半年前に発生したわけではないのだという。だから老年になると、癌が多くなる。

 なぜ癌が生まれるのか。小野寺さんは「がんは誤って発生したのではなく、もともと人の命をコントロールするように仕組まれているのです」と書いている。癌もまた集団の新陳代謝を促進するために自然界が用意した個体抹殺の仕組みである。大自然の見地に立って眺めれば、癌の発生も「人間があまりに長生きしすぎないように、個体の寿命をコントロールする生命の摂理」ということなのだろう。

(今日の一首)

 真夜中に目覚めてみればハエひとつ
 鼻から降りて頬を歩けり

 うるさいハエだなと思いながら、また眠ってしまった。そのハエがいまも私の肩に止まっている。私を大きな餌だと勘違いしているのだろうか。なれなれしい蝿である。蝿に好かれても少しもうれしくない。


2007年05月09日(水) 恐ろしい死顔

 昨日の日記に、「人は生きたように死んでいく」という言葉を引用した。医者として2000人以上の患者の臨終に立ち会った小野寺時夫さんは、「がんのウソと真実」(中公新書)のなかで、死顔の恐ろしい場面をいくつか描いている。

<膵臓癌のEさん(53歳女性)が亡くなったとき、今まで見たことがないほど怖い死顔だと思いました。上目づかいに射るように見開いている瞼を私が指で閉じたのですが、指をはなすとまたすぐ開き、内心ゾッとする思いでした。屍体処置をした準夜勤の看護師二人は、病院に隣接する寮に住んでいるのに、看護師休憩室に泊まると言ってききません。理由を尋ねると、「寮に帰ると、怖い顔をしたEさんが窓から入ってくるような気がしてならない」と話したのです。彼女たちも怖さを感じていたのでした>

 Eさんは息子が5歳のときに夫を失い、それから働きずくめで息子を育て、大学を出した。息子は一流会社に就職して結婚もしたが、母親が入院しても忙しいと言って顔も見せない。彼女は自分の病気よりも、自分が手塩にかけた子どもの仕打ちに絶望した。その無念さが彼女の死顔に現れたのだろう。

 スキルス胃癌にかかり、会社員の夫と高校生の娘二人と中学生の息子を残して死んでいった45歳の主婦Oさんは、「いよいよ死ぬとき、我慢して言わなかったことや、不満だったことが抑えきれなくなって、一気に喋ったりしないか心配だ」と言っていた。さいわいそんなことはなかったが、死顔は怖かったという。

<ほとんど食べられず、腹水窄刺をくり返し、衰弱が進んで寝たきりになりましたが、Oさんはやがて、単に衰弱によるとは思えない「怖さ」が全身に漂いだしました。最後には、長く伸ばした髪の一本一本にも「怖さ」がにじんでいる感を受けました。重態になって、父親が子供たちを連れてこようとしたとき、中学生の息子が「お母さんが怖いから行くのは嫌だ」と言ってこなかったとのことでした。臨終のときは息子も来ていましたが、窓の外を見たり本を読んだりと、母親のほうは見ないようにしていたのです>

 これに対して、長く苦しい闘病生活を送った人でも、死顔がおだやかな人たちがいる。小野寺さんは、「大勢の家族と仲よく生活した高齢者の死顔はなんとも穏やか」だと書いている。「社会奉仕的精神を持ち合わせて生きてきた人や、仕事、芸術、文学、研究などでやり甲斐を持って生きてきた人、個の確立した人の死顔には、崇高さがあります」とも書いている。

 死において、その人の生がいやおうなく赤裸々に映し出される。ある哲人は、「生きることは死ぬための準備だ」と言ったが、その言外の意味は、人は生あるうちに利己的な人生から脱却せよということだろう。この世に執着を残していては、安らかな死を迎えることはできない。

(今日の一首)

 あかかかと沈む夕日を見ていたり
 携帯を持つ人のかたわら


2007年05月08日(火) 死ぬことの準備

 人はいろいろな理由で死ぬ。事故死、殺人、自殺、老衰死、飢餓による衰弱死、戦死、ときには処刑死もある。しかし、一番多いのは癌や心臓病、脳溢血などによる病死であろう。病死にもゆるやかな死と、突然の死がある。いずれにせよ人間は死を免れない。昨日紹介した「自然死ハンドブック」には次のような一節がある。

<In the world of nature, death provides a service because it makes room in an ecological niche for a young one. People are part of nature, too, and when people die, they make room for more people>

(自然の世界では、死は若い世代へのサービスである。それは若い世代に生きる場所を譲ることを意味する。人間もまた生物界の一員であり、人間の死も同じような意味をもっている、それは残された多くの人々への役に立つ貢献なのだ)

 今日のように人口が増え、資源問題が深刻になる時代にはとくに、このことはわかりやすい。自らの死をこのように社会や自然の中に位置づけることができれば、私たちは個人の死について過度に恐れることもなく、おおらかな気持で死に望むことができるのではないだろうか。

 60歳を超えればもういつ死が訪れても不思議ではない。私たちはなるべく早いうちに、その準備をしなければならない。そうすれば、いざそれが目前に迫ったとき、うろたえなくてすむ。そして死ぬまでの時間を、有意義なものにすることもできる。

 心の準備ができていれば、不慮の事故でさえも、もはや不慮ではない。ガンジーは暗殺されたが、彼は放たれた弾丸に対して、とっさに神の名前をつぶやいたという。私たちに不慮の死に見えても、彼にあっては覚悟の死であった。それは日頃から彼が死の問題を考え、心の準備をしていたからだろう。

 外科医・ホスピス医として2000人以上の癌患者の死を看取り、自らも癌体験をもっている小野寺時夫医師は、「がんのウソと真実」(中公新書ラクレ)のなかで、「人は生きたように死んでいく」と書いている。

 死に面して、人は人格まで変わることはない。急に人格者になったり、聖人になることはなく、むしろ人は「それまで生きてきた線上で途切れる」ことになる。それだからこそ、平素からの生き方が大切だという。

 利己的な生き方が身にしみている人は、結局自らの利己主義から逃れられず、自らの生に執着して、悲しい終末を迎えることになる。つまり、死を考えることは、「いかに善く生きるか」を考えることである。死は生の延長であり、美しく生きたものが美しく死ぬということらしい。

(今日の一首)

 わが畑で妻の育てたさくらんぼ
 たった五つをみなで味わう

 3年目にして、小さなさくらんぼが実った。たった5つだ。私は妻から1個もらって食べた。口の中にやわらかい甘味が広がった。私の植えた柿木も3年目である。こちらの方も元気に若葉を茂らせている。しかし、実がなるのはまだまだ先だ。


2007年05月07日(月) 自然死ハンドブック

 昨日の日記について、断食体験のある北さんから、さっそくこんなコメントをもらった。大変参考になる意見だと思うので、ここに全文を引用させていだたく。

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おはようございます。

今日の日記は、私がぼんやり考えていたことをそのまま言葉にしてもらったような文章で、驚きました。「絶食死」が最高の「安楽死」であることが、これで私の中で、確信となりました。

私は若い頃、「断食」を2回体験しています。1回目は9日間、2回目は10日間、水以外何も体内に入れずに過ごしました。最初の4日間ほどは飢餓感が激しく、断食反応としての身体のだるさなどに苦しみましたが、5日目くらいからは舌苔が出て、肉体的な飢餓感はほとんどなくなります。苦しいのは食物の「思い出」によってであって、もしこの時点で「死」が覚悟されていたのであれば、そういう「思い出」は断ち切られて、そうとう楽なのではないかと思います。

9日くらいたつと、私の場合「思い出」にも慣れて、本当にさわやかな心境になりました。飢餓感というものはマヒしてなくなってしまいます。もしこのまま過ごせば、体力はどんどんなくなって、生のエネルギー自体が減退していきますから、まちがいなく苦痛は少なくて死が迎えられると思います。ローマ皇帝の何人かが、この「絶食死」をしていることに注目した塩野七生さんも、「食物を断って死ぬのはあんがい楽なんですよ。衰弱するとだんだん眠くなってくるんです」と語っていました。これは本当だろうと思います。

ただ、「断食」療法の場合は、水だけは十分に補給します。水を断てば、5日と持たないのじゃないかな。そして水を飲まなければ絶対に「安楽死」にはならないと思います。地獄の苦しみだと思います。「安楽死」にするためには、水は少しずつ量を減らしてでも飲み続けることが必要だと思います。

私も、死の病にかかったならば、「絶食死」をしたいと思います。

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 「絶食死」を自分流の人生のけじめだと考えている私は、北さんの投稿を読んで心強かった。とくに断食体験の記述は参考になった。昔の東洋の宗教者や文人は空海にしろ西行にしろ死期を自覚したら「断食して死ぬ」というのが理想だったが、ストア派の賢人たちもそうだったのだろう。ローマの貴族や皇帝も「優雅な死に方」として断食を選んだのではないかと思われる。

 北さんのいうように、断食の場合でも水は必要に応じて飲むべきだろう。そうすれば安らかに、眠るがごとく死んでいけるのではないかと思う。この点について、「死も出産と同じように、人間の自然な営みである」という考え方から“英国自然死センター”を設立した三人の心理学者がまとめた「自然死ハンドブック」(ニコラス・オールバリー、他)が参考になりそうだ。

  http://www.globalideasbank.org/natdeath/ndh0.html

 そこには、釈迦やソクラテスから現代までのさまざまな死のモデルケースが上げられ、次のように書かれている。

 A number of studies indicate fasting and even dehydration are not painful ways to go.

(多くの研究が断食や脱水症によって苦痛のない死がもたらされることを示している)

 私も1ケ月間1日2食のダイエットをして、体重を10キロほど落としたことがあるが、ひもじい思いをしたのははじめの一週間だけで、あとはさわやかな気持ちだった。断食をするとしばらくして、「飢餓感というものはマヒしてなくなってしまいます」というのも、その通りではないかと思う。

(今日の一首)

 雨音はしみじみとしてよし風呂上り
 ぶどう酒片手にソファで聴く


2007年05月06日(日) 安楽死としての絶食死

 私は「絶食死」を死の理想形と考えている。動物は食物が食べられなければ死ななければならない。絶食して死ぬことは自然界ではありふれたことだ。しかし「絶食死」をネットで調べてみると、「悲惨な絶食死」「みじめな絶食死」と書かれている。これは絶食死を惨めで悲惨なものにしている現実が存在するからだ。

 たとえば東京都庁のお膝元の新宿区だけでも年間60人以上の人が「孤独死」をしているが、その中に栄養失調で死んでいく餓死者がいる。餓死もまた絶食死である。世界中では毎年何百万という人々が餓死しているわけで、これでは「みじめな絶食死」と書かれてもやむをえない。

 先の大戦でも、日本軍人が何十万と餓死した。ガダルカナル島は「餓島」とまでよばれたくらいだ。戦死の大部分が餓死ではないかといわれているが、彼らは食を断たれてやむなく死んでいった。英霊だとおだてられて靖国神社に祭られてみても、本人や遺族にとってこれは悲惨というしかない。

 ただし、人間は死ぬ瞬間は肉体的には見かけほどは苦しくはないようだ。それは苦痛がある限界点を越えると、それを緩和するシステムができあがっているからだ。具体的にはエンドルフィンというモルヒネに似た脳内物質が分泌されるのだという。

 最近小野寺時夫さんの「がんのウソと真実」(中公新書)を読んだが、そこに癌患者の末期の様子が具体的に書かれている。がん患者の場合はかなり苦しむこともあるようだ。しかし、絶食死は自然死の一部と言ってもよい。自然死である以上、それほど苦痛はともなわないのではないかと思っている。

 オランダでは医者が薬物で患者に安らかな死を与える「安楽死」が認められている。しかし、日本を始め多くの国は、医療行為としての安楽死は認めていない。これは安楽死を認めると、多くの人々が安易にこれに走るのではないかと危惧されるためだろう。また国家権力による「安楽死」強制はもっと恐ろしい。オランダのように医療・福祉制度が充実し、政治的にも成熟した市民社会であれば大丈夫だろうが、日本やアメリカではむつかしいだろう。

 となれば、「安楽死」を自分で演出しなければならないわけで、そのためには「絶食」が最適ではないかと思っている。オランダでも「安楽死」が認められていないとき、病院で「絶食」して死んでいった人がいた。私は病院で死のうとは思わないが、やむをえなければ病院で絶食して死んでもよいと思っている。

(今日の一首)
 
 雨蛙葉っぱの上でみどりいろ
 風にゆられて眼をとじている 


2007年05月05日(土) 夜の散歩

 散歩は午前中にすることにしているが、休日などはたまに夕方出かけることがある。ときには、すっかり日が落ちて、あたりが暗くなってからのこともある。朝の散歩はすがすがしい。そして考えることも明るいことが多い。

 ところが、夜の散歩には朝の散歩のようなすがすがしさはない。散歩をしながら考えることも、ずいぶん違っている。民家の明かりを見つめていると、何だか子ども時代にもどったような懐かしさがよみがえってくるし、暗い堤防を歩いていると、そこはかとない孤独感や、いまにも神隠しに合いそうな恐怖心も忍び寄ってくる。いずれも子ども時代に夜道を歩いていて感じた感情だ。

 それから星を眺める。そうすると中学時代に熱中した科学空想小説や、高校時代に星空を眺めて味わったはるかな世界に対する畏敬や神秘の思いがよみがえってくる。つまり、夜道を歩いていると、私は5歳のよるべない子どもに戻ったり、神秘な思索に没頭した高校時代に戻ることができる。

 高校生や大学生の頃は、家の中にじっとしていられなくて、昼といい、夜といい、よく散歩に出たものだ。散歩に出ると、いろいろな考えや感情が押し寄せてくる。ときには夢遊病者のようにその波に漂い、熱に浮かされたようになって、やみくもに歩き続けたものだ。

 50歳をすぎて、その情熱も体力もない。ただ、そこはかとない追憶の中に漂いながら、その余情をしみじみとあじわい、しばし星空を仰いで、人生の感慨に耽る。そして我が家の明かりが見えてくると、「ああ、はるばると人生を旅してきたのだなあ」と、よろこびとも安堵ともつかない思いに心が満たされる。そして、「ありがとう」と何者かの前に頭を垂れたくなる。

(今日の一首)

 家々に灯りがともる夜の道
 蛙が鳴けば星もささやく


2007年05月04日(金) 法事が終わる

 父が生きていた頃は、正月と盆に一家で福井に帰省した。毎年福井で除夜の鐘を聴き、正月を迎えていたわけだ。お盆に帰省したときは田舎の寺に墓参りに出かけ、越前海岸で泳いだ。二人の娘たちも幼かったので、一家揃っての行動が容易だった。

 父が死んでからも数年間、一家で福井に帰省していたが、やがて娘たちも高校生になり、大学生になると、それぞれ都合ができて、正月や盆に一家でそろって帰省することがむつかしくなった。とくに正月の帰省は、弟夫婦の生活にも干渉することになるので、すぐにとりやめになった。

 最近は盆の墓参りにも一家4人が揃うことは珍しくなった。盆以外には私が一人でふらりと母の顔を見にでかける。それも泊りがけではなく、日帰りである。母の元気な顔を見て、話が聴ければ安心する。

 今回は父と祖母の17回忌だったので、一家4人の帰省ということになった。これも最初は私と妻の二人だけの予定だったが、娘たちが自分たちの方から「都合をつけて参加する」と言ったくれた。死んだ父や祖母もさぞかしよろこんだに違いない。

 母は去年の暮れに体調を崩して入院した。その後遺症か「物忘れがひどくなった」と言っていたが、どうにか健康を回復して、今回の法事を采配した。弟の4人の息子も母が育てたようなものである。いつもながら母のパワーには脱帽するしかない。しかし、法事が終わり、一段落着いて、母も疲れがでてくるのではないかと心配である。

 今回、父と祖母の両方の法事に、母の妹の配偶者の岩村さんが、不自由な体を引きずるようにして参加してくださった。重度のパーキンソン病の上、骨粗しょう症で骨折をし、最近は肺病にかかって入退院を繰り返していた。しかし、是非、法事に参加したいというこだった。

 岩村さんには私の結婚の仲人もしてもらっている。父が死んだあとは、私たちの父親代わりのような存在だった。今回の法事には、岩村さんの一人息子とその奥さんも京都から泊りがけで参加してくれた。父や祖母も大変喜んだことだろう。

(今日の一首)

 父と祖母読経ききつつ偲びたり
 足のしびれもなつかしきかな


2007年05月03日(木) 父と祖母の17回忌

 今日と明日は父と祖母の17回忌で、妻や二人の娘を連れて福井の実家に帰る。私は葬式や法事は苦手なのだが、長男として父や祖母の17回忌は欠席するわけにはいかない。福井の家に10時までに着くためには、我が家を7時までには出なければならない。せっかくの連休だが、朝から何だか慌しい。

 しかし、一家4人の旅行は久しぶりである。母も孫娘の顔が揃うのでよろこぶだろう。それに法事の席には父や祖母の法事でもなければ会うことができない親戚の顔もそろう。坊さんの説教や読経は苦手だが、これは大きな楽しみである。

 父と祖母は16年前に死んだ。父が死んでその葬式が終わったあくる日に、祖母が死んだ。父が祖母を誘って、一緒に三途の川を越えていったのではないかと、私たちは祖母の通夜の席で語り合った。こう書くと父と祖母は仲が良かったようだが、実際はそうでもなかった。

 母方の祖母は父が自分の長女と結婚することに反対だった。父もそのことを知っていて、祖母には最初からよい感情を持っていなかった。いつだったか、若狭に住んでいた頃、祖母が福井から遊びに来たとき、父が当時小学生だった私に辛く当たった。これを見ていた祖母が、「私が来たので、子どもに当たっているのかしら」と、母に申し分けなさそうに言ったそうだ。

 父はいつも私に辛く当たっていたから、これは祖母の誤解だ。小学2年生のとき若狭に転校してきて、「教科書は同級生を探して、自分で写してきなさい」と言われて途方にくれた。これを皮切りにさまざまな辛い思い出がある。祖母が来たときも私は夜道を使いに出された。そして、お金を落としてしまった。

 たいした額ではないが、父はそれを探しに行けという。小学生2年生の私は田舎道を懐中電灯を持って探し回ったが、小銭は見つからない。泣き泣き帰ってきた私を見て、祖母も途方にくれたのだろう。

 中学生、高校生の頃は山仕事に駆り出され、休みがなかった。私は父を何という鬼のような親だろうと恨んだものである。その反動で、大学生の私は父と衝突した。ときにはとっくみあいになることもあった。

 しかし、父はその後、少しずつ温和になった。癌を発病したあとは仏様のようにやさしくなった。祖母もおなじで、二人とも死顔がおだやかだった。私は子ども時代の父の厳しさも、いまは愛情だと考えている。父のスパルタ教育のおかげで、私は一人前になることができたのだから。

 仲の悪かった父と祖母だが、父は病院へ寝たきりの祖母を見舞っていたし、祖母にも家族の一員としてそれなりの愛情を持っていたようだ。「そろそろ、一緒に行かないかね」と、父が祖母を誘い、祖母もこころよく応じて、丑年うまれの父と、鼠年うまれの祖母が、仲良く二人して三途の川を渡って行ったのではないか。17回忌を前にして、再びそんな想像をしてみた。

(今日の一首)

 父が逝き祖母も続いて二人して
 仲良くわたる三途の河原


2007年05月02日(水) 英文日記を続ける

「Virtues of Early Rising 」という題で、3月28日に英語で日記を書いて以来、もう1ケ月あまり毎日英文らしいものを書いている。最初は週に2,3回と思っていたが、書き始めるとついやめられなくなり、毎日書くことになった。しかし、無理はしないで、こちらの方は時々休筆したいと思う。

 日本語の日記をただ訳すのではなく、同じテーマをまた別の視点で書きたいと思っている。結果として日記を2回書くことになるわけだが、その分、テーマについてじっくり考えを深めることができる。

 英文日記は外国人の読者を念頭に書いている。母国語で書いた日記より、さらにグローバルな視点や表現が求められるわけだが、私の拙劣な英語ではなかなか思うように書けない。ものを深く、しかも分かりやすく表現するためには、知性や感性に加えて、やはりそれなりの語学力が求められる。

 ただ、英文を書くことに毎日1時間以上頭を使っていると、頭や眼が英語に慣れてくる。また、必要に迫られてインターネットの英文資料も参照するので、自ずから英語の勉強になり、視野も広がる。日本語と英文で同時に日記を書くことは、ある意味でこうした個別の言語を越えた普遍的な言語の世界に身を置くことでもある。これはとてもよい体験である。

 ところで、今年もセブの英語学校CPILSに3週間ほど留学することにした。セブはこれで3回目である。MIXIにある「CPILS」のコニュニティの掲示板に7月23日に入校することを書き込んだら、さっそく東京の女性から、「同じ日に入校します。どうかよろしく」というメールをもらった。他に入校期間が重なる二人の方からも「セブでお会いできそうです」とメッセージをもらった。今年もどんな出会いがあるか楽しみである。

(今日の一首)

 雨のふる田んぼの道はうすみどり
 歩けばほのか菜の花けぶる

(英文日記)

 http://9128.teacup.com/hasimoto/bbs


2007年05月01日(火) かたくりの花

 昨日は2年生の生徒4名とランチを食べに行った。2月の学年末の試験で、私の数学で100点を取ったらランチを奢るといったら、女生徒が二人100点を取った。それで彼女たちとランチを食べに行こうということになったが、双方の都合で伸び伸びになっていた。

 新年度になり、この話もう時効かと思ったら、そう甘くはなかった。彼女たちがしっかり覚えていて、彼女たちと仲の良い演劇部の男女2人もくわえて、5人で名古屋のファミリーレストランへ行くはめになった。妻にこの話をすると、「ギャルたちと食事ができていいわね」という。

 たしかにギャルに囲まれてランチを食べるのも悪くはなかったが、つい太っ腹なところを見せようと、食後のスイートまで大盤振るいして、財布が軽くなった。思い切り身軽になって、風に吹かれながら自転車で家に帰ってくると、「楽しかった? 今度は私に奢るのよ」と、妻が厳しい追い討ちをかける。

 あたふたと自室に閉じこもり、パソコンのメールを見ると、信州のMさんから、「家の回りの山々が良くて、今日も仕事が手に付かなくて困ります」といううらやましいメールが届いていた。昨日も山登りをして、そこにカタクリの花の小群生地を見つけたそうである。

 Mさんは「カタクリの花は、何か陰のあるほっそりとした美人を連想します」と書いている。たしかに片栗の花が風に吹かれてゆれているさまは、その可憐な風情がなんともいえずよい。さっそくこんな句を作って、Mさんに届けた。

 かたくりに少女の影さす片思い   裕

(今日の一首)

 信州の友より届く花便り
 少女のおもかげ片栗の花 


橋本裕 |MAILHomePage

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