橋本裕の日記
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去年の暮れだったが、若狭小浜にぶらりと出かけた。小浜は小学生時代にしばらく住んでいたなつかしい土地である。二つの川に挟まれて城跡があり、そこに昇ると、若狭湾が一望できる。小浜に来るたびに城跡にきて、そして誰もいなければ小声で「荒城の月」や「我は海の子」を歌う。
その城跡の近くに私が通った小学校があった。かっての通学路を歩いていると、橋のたもとから下る坂道で、たまたま自転車で坂を登ってくる少年と少女にすれ違った。二人ともまだ小学校の高学年という年頃である。
少年に後ろの少女が「もう少し待って」と声をかけた。この日本語はおかしいのではないかと思ったが、それより私が驚いたのは、少女の声が玲瓏と美しかったことである。若狭の訛があったから、微妙に標準語のアクセントからずれていたが、そこがまたよかった。
私は少し道をよけて二台の自転車と擦れちがったが、なんとなく振り返って、その少女が風の中を橋の上に消えていくまで眺めていた。声だけではなく、すがたも美しく、表情もやさしかった。この少女に出会うことで、小浜という小さな港町がいよいよ好きになった。
玉響 昨夕 見物 今朝 可 恋物 (万葉集巻11−2391)
たまゆらに 昨日のゆうべ 見しものを 今日の朝に 恋ふべきものか
「玉響」は「たまかぎる」とも読むらしい。また、折口信夫は「たまさかに」という言葉をあてはめている。このほかに「たまたまに」とか、いろいろな説があるようだ。私は「たまゆら」という言葉が好きなので、この歌はこう読んでいる。しかし、「たまかぎる」というのも捨てがたい。こんな名歌がある。
朝影に 我が身はなりぬ 玉かぎる ほのかに見えて 去にし子ゆゑに (巻12−3085) たまゆらに見えて去っていった少女によせる思いを詠んだ歌である。柿本人麻呂の若い頃の歌だと思われるが、口ずさんでいるうちに胸がときめいてくる。
「朝影」は朝日によってできる細長い影で、ここでは身のやせ細った様子を形容している。「玉かぎる」のカギルは、カグヤのカグと同根で、玉がほのかに光を出すところから、「ほのか」「はろか」「夕」「日」に掛かる枕詞になったようだ。
古代人は玉に魂が宿ると考えており、玉が触れ合うとき、中から霊魂が出てくると信じていた。「たまかぎる」という言葉にはそうした神秘な時代の響きが残っている。こうした力のある言葉によって、「去(い)にし子」へのほのかではかない思慕が、玲瓏と清々しく描き出されている。
学生時代から万葉集に親しんできた。おかげで、ずいぶん情操がゆたかになった。「たまかぎる」とか「たまゆら」という美しい日本語に出会えたことは、少し大げさかも知れないが、私にはそれこそ「いのち」のあらたまるような、人生の奇跡に思えたものである。
たまゆらの 少女はやさし ほのかなる 笑みを残して 風に過ぎゆく 裕
最近は足が遠のいたが、以前に「志談塾」という、元高校教師で、「教科書裁判」の活動になどに参加して見えた人が主宰している勉強会に毎月参加していた。大学教授や新聞記者、高校の教員など、いろいろな人があつまり、毎回レポーターを変えて、様々なテーマで議論や勉強をした。
名大名誉教授の安川寿之輔さんがゲストに招かれたのは3年ほど前に勉強会で、そのとき福沢諭吉がアジア蔑視のひどい言葉を書いているということ、つまり中国人を豚呼ばわりし、処分などという言葉までつかっているということをくわしく聞いた。
もとより福沢諭吉のファンであった私は、これにいささか驚いて、「福翁自伝」や「学問のすすめ」などを読みかえし、あらたに「文明論之概略」を読み始めた。そうした「アジア蔑視」の言辞がどこから湧いてくるのか、福沢の思想を根本的に研究して見たいと思った。
しかし、今回の平山洋さんの「福沢諭吉の真実」(文春文庫)を読んで、そうした福沢のアジア蔑視の論文がことごとく石河幹明という福沢の門人の手になる著作であり、それが福沢の思想とはまるで別物であることを知った。
平山洋さんの「福沢諭吉の真実」は実に驚くべき、そして愉快な書だ。たとえてみれば「コロンブスの卵」のようなものである。書かれてみれば、なるほどと、だれもがこれまで気付かなかったのが不思議なくらいだ。
そこで、いつものようにこれを自己流の文章にまとめて、HP日記に掲載したところ、思いがけず「福沢諭吉の真実」の著者平山洋さんから、次のようなメールをいただいた。
<私の本をお取り上げくださりありがとうございます。拙著はそもそも三年前の安川寿之輔氏との論争の結果出来上がったものです。お礼のしるしとして安川氏との間に交わされた往復書簡資料集「福沢諭吉はアジア蔑視者か?」と、拙著の新聞紹介記事、それから最近書いた論文の抜き刷りを学校までお送りします>
日記に紹介した本の著者から、こうしたメールをメールをいただくことは以前にもあった。オランダのことを書いていたとき、オランダ在住の倉部誠さんの書かれた「物語オランダ人」(文春新書)を紹介したところ、<橋本さんから戴いたコメントは、「正にそのように読んで貰いたかった」に尽き、大変ありがたく拝読いたしました>というメールをいただいた。
独り合点で勝手に書いた文章が、こうして知らぬ間に著者に読まれ、メールまでいただけるのは、うれしいことである。今回の平山洋さんのメールも、著者に読んでいただいたと分かってうれしかった。そのうえ、貴重な資料までいただけるようで、ありがたいことである。
福沢諭吉は国権皇張論者でさえもなかった。このことを知り、大方の疑問が解けた。心の中にたちこめていたもやもやの霧が、一度に晴れたような爽快さを味わうことができた。これで余計な雑音に惑わされずに、まともに福沢諭吉に向かい合うことができる。ようやく福沢諭吉の原点に立ち返ることができたわけで、これはとても有り難いことである。
私は福沢諭吉の文明観には今日から見れば、問題点があると考える。しかし、福沢諭吉批判はアジア蔑視といった次元ではなく、「文明とは何か」というもっと本質的な視座からなされるべきである。この点について、「文明論之概略」を読みながら、もう少し考察を深めてみたいと思っている。
諭吉自身の手で1898年(明治31年)に出版された「福沢諭吉全集」は1巻から6巻までの構成になっている。「学問のすすめ」や「文明論之概略」など、それまでに出版された彼の主な著作がここに収まっている。
これに対して、諭吉の死後、1925年(大正15年)に石河幹明によって「大正版」として大幅に増補された全集は10巻構成になっている。編纂者の石河は大正版の「端書」にこう書いた。
<今回時事新報の1万5千号の記念として先生の遺文を出版するに当り、是等未載のもの、並びに先生の筆に成れる時事新報社説の抄録とを既刊の全集に加えて都合十巻となし、矢張り「福沢全集」の名を以て刊行することにした>
大正版は分量が倍増している。そしてそのうちの3巻は、これまで一度も福沢の文章だとは考えられたことのない無署名の新聞論説でしめられた。福沢の著作としてあらたに付け加えられた時事新報の論説は1500編に及ぶが、このなかに福沢の手にならないものが多数含まれていて、それはほとんど石河の文章だった。福沢は死後四半世紀を経て、自分の弟子によってこんな不正が行われようとは思ってもみなかっただろう。
しかもこの全集が戦後も形を変えて生き残り、福沢はアジアを蔑視し、侵略を賛美する国権皇張主義者であるというレッテルまで貼られたのだからたまらない。平山洋さんの近著「福沢諭吉の真実」(文春新書)は、この過程を論証して、福沢の名誉を挽回したものだと言ってもよい。ちなみに平山さんは慶應義塾の卒業生である。
さて、ここでだれしも次のような点を疑問に思うだろう。何故、諭吉は自分の思想とまったくあいいれない国権主義者の石河幹明を時事新報の記者としてやとい、大切な論説を大量に書かせたかということだ。石河の読むに堪えないアジア蔑視の論説を、諭吉もまた読んでいたはずだからだ。
諭吉が石河幹明を評価していなかったことは、「新聞の社説とて出来る者は甚だ少し。中上川の外には水戸の渡辺、高橋、又時として矢田績が執筆、其他は何の役にも立ち申さず、不文千万なり」「石河はあまりにつまらず。先ず、翻訳位のものなり」という他の門人にあてた手紙で分かる。(これらの手紙は全集にはない)
しかし、福沢が頼りしていた中上川や渡辺、高橋は次々と社を辞めていった。その殆どは実業界に身を投じて、それぞれひとかどの業績をあげている。福沢にとって、これは慶賀すべき事であったと同時に、困ったことでもあった。つまり新聞社にろくな人物がいなくなったのだ。そして最後まで残ったのが、何かに凝り固まったような、およそ諭吉と肌の合わない国権主義者の石河だった。平山さんはこう書いている。
<後年には「時事新報」の主筆となって、正続「福沢全集」を編んだり「福沢諭吉伝」を著したからといって、彼が言論人福沢の衣鉢を継いだなどと評価するのは誤りである。文章の下手さについての注文が見られなくなる89年以降の書簡にも、福沢は思想家として石河に期待するような言辞を表明することは一切なかった。有能な実務者としての扱いしかしていない。・・・
諭吉が脳卒中で倒れた98年9月以降には、北川が社を去ったため、石河が一手に論説を引き受けたのは事実だろう。つまり、福沢の思想を代弁していると見なせるかどうかはさておき、「時事新報」論説の多くは石河が書いたというのは確かなことである>
石河の存在は諭吉にとって、不快なものだったに違いない。しかし、新聞社にとって石河は必要な人材だった。それは彼が実務家としてすぐれていたからばかりではない。彼の書いた論説は時代の要請に合っていたからだ。とくに日清戦争が始まった頃からは、石河の独壇場だったのではないだろうか。
諭吉はただ石河の独走を手をこまねいていたわけではない。諭吉は明らかに論調の違う社説を論説を署名入りで書いている。そしてそこにはアジア蔑視の表現は片言相句すら見当たらない。しかし、諭吉の真筆の論文は次第にその数は減り、晩年には、新聞社からも足が遠のいた。「福翁自伝」のなかで福沢はこのことを告白している。
以上の事情がわかっても、まだ不審が残るかもしれない。それは石河が「福沢諭吉伝」で引用した文章の中には、諭吉の真筆がいくらか含まれていて、そこで彼は自ら国権主義者らしい片鱗を見せているからである。たとえば石河は諭吉が国権主義者である証明として、「福翁自伝」から次の部分を引用している。
<支那の今日の有様を見るに、何としても満清政府をあの儘に存して置いて、支那人を文明開化に導くなんと云ふことは、コリャ真実無益な話だ。何はさて置き老大国根絶やしにして仕舞って、ソレから組立たらば人心ここに一変することもあろう。
・・・其人心を新たにして国を文明にしようとならば、何は兎もあれ、試みに中央政府を潰すより外に妙策はなかろう。之を潰して果たして日本の王政維新のやうに旨く参るか参らぬか屹と請け合いは難しけれど、一国独立の為めとあれば試みにも政府を倒すに会釈はあるまい。国の政府か、政府の国か、此のくらいの事は支那人にも分かる筈だと思ふ>
ここで諭吉は日本が大陸に侵攻し、会釈抜きに清国を潰せと主張しているようにとれる。しかし、実は諭吉はそんな物騒なことを主張してはいない。政府を潰す主体として彼が考えているのはあくまでもその国の人民だからだ。その証拠に「国の政府か、政府の国か」と書いている。人民による人民の政府を創れと言っている。
石河は1932年の「福沢諭吉伝」の中で、これをあたかも諭吉が日本が中国大陸に侵略し、これを力尽くで「文明化」せよと主張したものとして引用している。こうしたトリックを使って、侵略戦争を鼓舞した国権主義者としての福沢諭吉を創り上げたわけだ。
ところで、戦後有名になったのが、福沢諭吉の「脱亜論」である。1885年3月16日に時事新報紙上に「社説」として掲載されたものだが、これも石河によって新たに全集に収録された論説である。ここに次のような問題の記述がある。
<我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの憂慮ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其の支那朝鮮に接する法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従いて処分す可きのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免れる可らず。我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり>
平山さんもこれは無署名だが文体からして諭吉が書いたものではないかという。そして「なるほどこれを読めば福沢諭吉のアジアへの差別意識はひどいものだ、という感想をもたれるのもある意味では同然である」と書いている。諭吉を国権的侵略主義者として糾弾する人たちが、最期の、そして最強のよりどころと頼むのがこの「脱亜論」である。
平山さんはこれに対して、「脱亜論」がどういう文脈の中で、どういう状況の中で書かれたかを論証し、諭吉の真意がどこにあったのかを明らかにしている。朝鮮人民の独立運動を支援していた諭吉は、清国の介入でその運動が潰され、運動家のみならずその一族や婦女子までも刑場にさらすという残虐な弾圧が行われたことに義憤を覚えた。
そしてその人権蹂躙を野蛮と見た諭吉は、これに対抗するものとして「文明化」の必要を説いている。そこにはもしアジアが文明化しなければ、西洋列強の餌食になるだけだという世界認識があった。
一刻も早く人民はその堕落した政府を倒さなければならないというのが「文明論之概略」以来の福沢諭吉の一貫し主張であり、その延長線上にある「脱亜論」には、「若しも然らざるに於いては、今より数年を出ずして亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分野に帰す可きこと一点の疑いあることなし」とアジアの将来が危惧されている。「脱亜論」もまたその論説を虚心に読んでみれば、決して「アジア蔑視」という低次元の問題ではないことがわかるのである。
したがって、もし福沢諭吉をその本質において批判しようと思えば、彼の主著「文明論之概略」を読むべきだろう。私は諭吉の文明観をすべてよしと考えているわけではない。むしろそこには重大な問題点があると考えている。そこで3年余り前から、この書を座右において研究している。いずれまた、その成果を報告したいと思っている。
2004年09月27日(月) |
国権主義者にされた福沢諭吉 |
1982年(明治15年)3月に福沢諭吉の手で、「時事新報」が創刊された。この新聞は明治時代を代表するクオリティの高い新聞だった。1901年に福沢が死んだ後も、新聞は大正・昭和と生き延びた。廃刊は1936年2月である。
作家の菊池寛も1916年から19年まで、時事新報の記者だったことがある。廃刊にあたり、菊池は自分の経営する「文芸春秋」にこんな文章を著している。平山洋さんの近著「福沢諭吉の真実」(文春新書)から孫引きさせてもらう。
<時事新報が解散した事は、新聞雑誌界に於ける一つの悲劇だ。殊に、僕などは、大正五年から足掛け四年ばかり、同社の粟を食んできた丈に、更に感慨深い。僕の在社当時は、同紙は一流中の一流として、信用品格とも他紙を圧倒するの概があった。
が、その後、大正の末期から昭和の初にかけて、経営に人材を得なかった為に、今日の悲運を招いたのだろう。同紙が有力なる財閥を背景としながら、財政的破綻に苦しんだなど、結局新聞雑誌の経営は、金よりも人の問題であることを感ぜしめる。さるにても、自分の在社当時から、引き続いて奮闘していた老主筆石河幹明氏などの胸中は、察するに余りある。
ただ、自分は同社に居た時から、慊たらぬ事が一つあった。それは、福沢翁の精神の一つは、旧形式の破壊であった。実利本位に、古い形式を破壊することであった。所が、福沢翁を尊敬するあまり、福沢翁のやり方が、同社に於いては、忽ち一つの形式となっていた。そしてその形式を巌として尊重するのであった。
福沢翁の本当の精神は、古い形式の破壊にあったから、たとひ福沢翁のやり方でも、時勢に連れて、どんどん破壊して行くことこそ、福沢翁の本当の精神ではないかと自分は思っていた。福沢翁の本当の精神を掴むことが出来なかった事なども、同社の衰運を招いた原因の一つではなかったかと思ふ>(「話の屑籠」1937年2月号)
菊池寛が戦時中に「話の屑籠」に書いていた文章を、以前に詳しく紹介したことがある。そこに明らかなのは、菊池寛が次第に時局に迎合的になる姿だった。軍部を礼賛し、戦争に協力する言辞が多くなって行った。そうして、「時勢に連れて、どんどん破壊して行くこと」で、文芸春秋は部数を伸ばし、廃刊を免れた。
こうして大方の雑誌や新聞が時局に迎合していくなかで、福沢諭吉にゆかりのある時事新報が読者を失って経済的に破綻し、廃刊に追い込まれたのは、いまから振り返るとむしろ誇りに思ってよいのではないか。戦時中の大新聞の醜態を見れば、私などはついそう考えてしまう。
もちろん、これは時事新報を持ち上げすぎかも知れない。時事新報の側でも、何とか経営を立て直そうと努力をしていたようだからである。その中心人物は主筆の石河幹明だった。彼は福沢の有力な弟子として、福沢存命中から時事新報に論説を書いていた。福沢の死後は主筆として、事実上時事新報の紙面を作っていた男だ。
「福沢全集」は諭吉自身の手で、初版が1898年(明治31年)に出版されている。諭吉の死後、1925年(大正15年)に石河によって「大正版」として大幅に増補され、1933年(昭和8年)に同じく石河の手で「昭和版」に改定された。さらに戦後1966年(昭和41年)に、石河の忠実な助手であった富田正文によって現行版「福沢諭吉全集」が刊行された。
石河は全集の仕事と並んで、他に「福沢諭吉伝」を書いている。そして、これらの仕事を通して、石河は福沢諭吉のイメージを大きく変えようとした。「学問のすすめ」や「文明論の概略」を書いた市民的自由を尊ぶ個人主義思想家である福沢を、アジアへの勢力拡大を声高に主張する国権皇尊論者に仕立て上げようとしたのである。
石河は福沢を日本の中国支配を予言した人物に仕立て上げることで、慶應義塾や時事新報への風あたりをやわらげ、できることなら戦争へと傾く時代の波に乗ろうとした。その手口は、国権主義者であった石河自身が、日清戦争中に時事新報に書いた無署名の論説を中心に福沢の説だとして全集にいれることである。その多くは次のような文章だった。
<思うに日清戦争は我国空前の一大外戦にして、連戦連勝、大に日本の威武を揚げ、世界に名声の嘖々たるを致したれども、支那兵の如き、恰も半死の病人にして、之と戦うて勝ちたりとて固より誇るに足らず。日本人の心に於いては本来対等の敵と認めず、実に豚狩りの積りにて之を遇したる程の次第なれば、外国の評判に対しても密に汗顔の至りに堪へず>
さらにこうした時局に迎合し、アジアを蔑視する一方で天皇制を賛美する文章を全集から引用して、「福沢諭吉伝」を書いた。「全集」も「諭吉伝」も慶應義塾大学からの委嘱で書かれ、出版は岩波書店である。これを手にしたものに、その権威を疑わさせないような巧妙なしくみを整えた上で、石河は「諭吉伝」に次のように書いた。
<日本が自国の安危のために再び国を賭して争わねばならぬ以上、其結果として早晩日韓合併の運命を見るべきことは、先生の予期していられたところであった。否な多年朝鮮問題の一事に其心身を労せられたのも、結局この目的に到達せんがための努力であったといふて差し支えないのである。(略)
思ふに、先生の持論なる国権皇張論は、世間に耳を傾くる者なきに拘わらず、終始一貫多年来これを主張して止まず、遂に朝鮮問題より日清戦争となったに就いては、前に述べた如く先生の心中には此戦は恰も自から開かれたる如き心地せられ、愉快自から禁ぜざると共に其責任の極めて重大なるを感ぜられたであろう>
今日の諭吉研究家であれば、この石河発言を軽々しく否定するわけにはいかないだろう。しかし、当時のほとんどの人は石河のこの計略に乗らなかった。福沢が死んだとき、彼を国権皇張論者として尊んだ者は一人もいなかったからだ。むしろその個人主義を批判する声が多かった。たとえば、福沢の死を知った大町桂月は「太陽」に「福沢諭吉を吊す」という物騒な文章を書いている。
<諭吉の常識は、幾んど円満に発達したりしかど、人は万能なる能はず、惜しむらくは、国体の美を解せざりき。楠公の討ち死にを、権助の縊死と罵りしが如き、・・・・眼中に国家なく、皇室なきに至りては、日本国民として、決して之を許すべからず>
たしかに福沢は「眼中に国家なく、皇室なき」と言われても仕方がなかった。「学問のすすめ」の中で楠木正成を批判し物議を醸したが、その文章をいささかも変えることなく明治版全集に収録しているからだ。また、天皇についてはほとんど無関心を装い、「忠孝論」の中で、次のように書いている。
<国に忠を尽くすとは、即ち其国人に忠を尽くすの謂ひにして、再言すれば、人々自ら己れの為に忠を尽くすと云ふに異ならず>
福沢がこうした文章を書いていたので、戦争中、慶應義塾の出身者は肩身の狭い思いをしたようだ。軍隊でも慶應義塾というだけで差別され、いじめられることもあったらしい。こうした逆風を順風に変えようとしても、なかなかむつかしい。石河の詐術を見透かすように、東大国史学教授の平泉澄は陸軍士官学校の教科書で4ページにわたり福沢の「学問のすすめ」を批判している。
<是れ即ち自由平等の説にして、之を徹底せしむる時は、君臣の関係は畢竟便宜的にして、功に基づくとなす説というべきなり。・・・楠木正成の忠誠、赤穂浪士の義挙は、茲に根本の価値を傾倒し来るは当然なり>(本邦史教程)
こうして、石河が演出した「福沢ルネッサンス」はあだ花と消えた。そもそももはや時代は国権主義者としての福沢など必要としていなかったのである。それを必要としたのは、時事新報であり、慶應義塾だったのだろう。石河が手がけた大正版「全集」、昭和版「全集」と「福沢諭吉伝」、そして「現行版全集」もまた、その見るも無惨な記念碑である。
ところが、戦後、価値が転倒する中で、思わぬことが起こった。自由な個人主義者として福沢を評価した丸山真男らに対して、福沢諭吉は国権主義者であり、アジア蔑視の首謀者であるという批判が起こったのである。そして、そのよりどころは、「福沢諭吉全集」のなかに収められた文章であり、石河の「諭吉伝」であった。
福沢が国権主義者でないことは、時代の要請の中でいかにして全集が作られ、福沢諭吉の虚像が作られていったかを見てみればあきらかである。平山洋さんは「福沢諭吉の真実」でその過程を詳細に記したあと、次のように結んでいる。
<ことわざに、「棺を蓋て毀誉定まる」というのがあるが、福沢諭吉くらいそれにあてはまらない人物も珍しい。卒塔婆さえ朽ち果てた後のこの毀誉の激変の原因は、ひとえに石河幹明に帰せられる。それというのも侵略的絶対主義者としての福沢というイメージを、没後30年の「福沢諭吉伝」と大正・昭和版正続「全集」の「時事論集」で創り上げたのは石河だったからである。そもそも「脱亜論」が後年かくも「有名」となったのも、福沢ならぬ「福沢の威を借りた石河」へのある種滑稽ともいえる糾弾の試みの一幕としてであった>
平山さんがいう「ある種滑稽ともいえる糾弾の試み」のなかには、名大名誉教授の安川寿之輔さんの著書「福沢諭吉のアジア認識」もふくまれているのだろう。この著書が出版されてまもなく、2001年当初に、私はある勉強会で安川さんから直接「福沢諭吉がいかにひどいアジア蔑視の文章を書いているか」詳しく話を聞く機会があった。
当時、安川さんは朝日新聞の論壇に「福沢諭吉−−アジア蔑視広めた思想家」という一文を投じ、その後、慶應義塾大学にも招待されて講演をしたという話だった。私は話を聞きながら、私が親しんできた福沢諭吉と随分違うなと思ったが、そのうち、朝日新聞の論壇にに平山洋さんがこれに対する反論「福沢諭吉−−アジアを蔑視していたか」が掲載されたのを読んで、少し救われたような気がしたものだ。
現行版福沢諭吉全集は学士院賞を受賞した権威ある書だが、その後記には編集者の富田氏によってあたかも全てを福沢が書いたかのような解釈が付されているという。平山洋さんは「おわりに」のなかで、「現行版全集」の「時事新報論集」は早急に改定しなければならないと主張しているが、当然のことだろう。
2004年09月26日(日) |
リーマンの栄光とかなしみ |
ガウスが20世紀に生まれていたら、おそらく相対性理論を発見していただろう。しかし、天才はなかなかよき後継者には恵まれないものだ。彼らはすべてを自分一人でなしとげてしまう。他人と協同で研究することをしないので、弟子も育たない。
ガウスは多忙であった。彼のもとに送られてくる多くの論文は、この大天才の目からすれば、ほとんどが評価に値しないがらくたに過ぎなかっただろう。たまたま評価に値するものを発見しても、それはかって自分が手がけた未発表の業績だったりした。
アーベルの貴重な論文を見逃したこともあって、ガウスは他人の業績に冷淡だと見られているが、そんなガウスの人間像を覆すエピソードもないわけではない。そこで口直しに、ガウスがその最晩年に巡り会い、彼自身の後継者とした天才数学者の話をしよう。
1854年6月10日、ゲッチンゲン大学哲学部の教授たちを前に、ひとりの若い数学者が就職講演を行った。数学者の名前はリーマン(1826年〜1866年)である。リーマンの父は寒村のルター教会の牧師で、彼はその長男だった。リーマン家は6人の子どもを抱え、赤貧洗うがごとしだった。
リーマンは牧師になるため19歳の時大学に入ったが、途中から数学に転向していた。しかし、数学で生計を立てるのはむつかしく、27歳になっても収入がなかった。学位をもっていても、この講演テストを無事合格しなければ私講師にさえなれない。
彼に与えられたテーマは「幾何学の基礎になる仮説について」だった。これをリーマンに与えたのはガウスだった。リーマンにとってこれはいままで研究したことのない新分野だった。しかも、テーマが示された7週間後に、教授達を前に発表しなければならなかった。
哲学科の教授の多くは数学の門外漢である。数式を使わず、問題の本質がなんであるかを、分かりやすく語る必要があった。そしてリーマンはこの困難な講演を完璧にやり遂げた。
5)1直線上にない点を通って、その直線と平行な直線は1本も引けない。
リーマンはユークリッドの第5公準(平行線の公理)をこのように修正しても、新しい幾何学が完全に成立可能であることを明らかにした。それはたとえば球面上にたとえられる。球面の上に描かれた三角形の内角の和は180度よりも大きい。
かって、ヤーノッシュ・ボヤイ(1802〜1860)やロバチェフスキー(1793〜1856)が挑戦した難問であり、ガウスが生涯かけて研究した問題でもあった。意外なことに、他人の才能や業績を滅多に賞賛したことのない冷徹なガウスだったが、リーマンの講演を聴き始めるなり別人になった。
リーマンの講演の見事な美しさに、ガウスは驚嘆し、感動のあまり体を震わせた。そして、大学の帰り道でも、ガウスの興奮はまだ続いていた。彼は友人のウェーバーに、リーマンの講演がいかにすばらしいものだったかを熱心に説明した。そして話に夢中になるあまり、とうとう溝に落ちてしまったという。
ガウスに激賞されたリーマンはゲッチンゲン大学の私講師になった。講演の8ケ月後の1855年2月23日に老ガウスは他界したが、リーマンはその後も順調に出世して、33歳でガウスの後継者として数学科の正教授の地位についた。そして、ベルリン学士院の会員、英国王立協会やフランス学士院の会員にもえらばれた。これは科学者として最高の栄誉だった。
しかし、リーマンにとって、この栄光の数年間は、悲しみの押し寄せてきた歳月でもあった。すでに幼くして母を失っていたリーマンだったが、ガウスが死んだ年には彼自身の父と妹をなくし、その2年後には弟を、そして残された二人の妹までが次々と死んで行った。そして、1866年7月20日、リーマン自身が天国に旅立った。原因は肺結核だった。
リーマンの生涯は40年にも満たなかった。しかし、20世紀に入り、彼の名はさらに高くなった。かってガウスが予想した通り、この世界はユークリッドの考えたような平坦な世界ではないことがアインシュタインによって証明されたからだ。私たちの住んでいるこの宇宙は、まさしくリーマンが創造した球面幾何学の世界だった。彼の名は「リーマン幾何学」とともに不朽である。
ガウスといえば、ニュートンやアインシュタインと並ぶ何世紀に一人の天才だが、他人の業績についてとても冷淡な人という印象がつきまとう。ボヤイやロバチェフスキーの論文を無視したこともそうだが、何と言っても最大のポカは若き天才数学者アーベルの論文を無視したことだろう。
ノルウエーの若き数学者アーベル(1802年〜1929年)は世界で最初に「一般の5次方程式には代数的な解が存在しないこと」を証明し、その道の大家であるガウスにその論文を送っている。実はこれは後に分かるのだが、数学の歴史を変えるような重要な論文だった。
ところが、アーベルは不注意にも「代数的」という言葉を表題に書かなかった。実はガウスの偉大な業績の一つが、「n次方程式はn個の複素数解をもつ」(代数学の基本定理)ということを証明したことだった。方程式は必ず解を持つことを証明したのがガウスだった。自分の偉大な業績を否定されたと思ったガウスは、この論文の表題を見ただけで怒りだし、「馬鹿げている」と言って、中味を読まなかったという。
アーベルはガウスから無視されたことで、数学界へのデビューも果たせず、職にもめぐまれずに貧窮の中で病を得て死んだ。享年26歳8ケ月だった。哀れなことに、アーベルの死後二日して、友人から「ロシアの文部当局は、ようやく君を大学に招くことに決定しました」というお祝いの手紙が届いた。
もし、ガウスが3年前にアーベルから届いた論文を読んでいたら、おそらく彼はノルウエーの片田舎で野垂れ死にすることはなかっただろう。彼はひよっとしたらガウスのお膝元のドイツの大学で正規の職を得ていたかもしれない。アーベルはそれを望んでいたし、そうすればこの後に起こるガロアの悲劇もなかったかもしれない。
アーベルが死んだ1829年、18歳の青年ガロア(1811年〜1832年)が、パリの科学アカデミーへ「方程式論に関する論文」を提出している。アーベルは「五次方程式が代数的に解けない」ことを証明していたたが、ガロアは「5次以上のすべての方程式が代数的に解けない」ことを証明した。そしてその証明を当時誰も考えなかった「群論」を用いたとても斬新な方法で行ったのである。
ところが、論文を託された科学アカデミーの数学者コーシーはこの論文を紛失してしまった。ガロアは失望したが、翌年再び論文を書き上げて、科学アカデミーへ再提出した。ところがこんどはその論文を受け取った数学者のフーリエが急死して、またもや論文は行方不明になってしまった。
数学の女神はとんだいたずら好きだ。しかし、そのいたずらはとほうもない不幸を一人の青年にもたらした。ガロアはこのあと政治活動に深入りし、刑務所に収監された後、1832年5月26日、謎めいた決闘に敗れて死んだ。享年20歳7ケ月だった。ガロアは死の前にいそいで論文を書き、友人に託した。そしてその最後を次のように結んでいる。
「このわかりにくさのすべてを解読して、前進を手にする人々が出現するものと、ぼくは夢見ている」
あまりに進んでいたために、同時代の人からは評価されなかったアーベルとガロアだが、やがて半世紀も経ってから、彼らの理論が数学界で驚きの目でうけいれられることになる。そして数学の新しい世紀がここから生み出されることになった。ガロアの夢はとうとう正夢になった。女神は結局彼を見捨てなかった。
2004年09月24日(金) |
三角形の内角の和はいくらか |
直線Aがあるとしよう。この直線の外の点をとおり、直線Aに平行な直線は何本引くことができるだろうか。おそらく、一本という答えが返ってくるだろう。私たちが学校でならう幾何学(ユークリッド幾何学)にはそう書いてある。
これが有名なユークリッドの第5公準「平行線の公理」である。公理というのはそもそもものを考えるときに前提となるもので、すべての議論はこの上に組み立てられる。つまりは家を建てる土台のようなものだ。
この土台の上に、柱や庇に相当する「定理」が築かれる。「定理」は「公理」から導かれるので、「証明」が可能だが、土台である「公理」は証明することができない。「平行線の公理」もそのような証明不可能なものだ。
ユークリッドのこの「平行線の公理」を疑う人はまずないだろう。なぜならそれは他の4つの公理と同様に、ほとんど「自明」なことのように思われるからだ。参考のために、5つの公理をすべて掲げておこう。
1)任意の点から任意の点に直線を引くことができる。 2)この直線を両方向に延長することができる。 3)任意の点を中心にして、任意の半径で円を描くことができる。 4)すべての直角は等しい。 5A)1直線上にない点を通って、その直線と平行な直線が1本だけ引ける。
いずれもあきらかなことである。しかし、5番目の「平行線の公理A」については、これを疑う人がいなかったわけではない。その代表が「数学の帝王」とよばれるヨハン・カール・フリードリッヒ・ガウス(1777〜1855)である。
偉大なガウス先生はこう考えた。ユークリッド幾何学によれば、その三角形の内角の和は180度でなければならない。これは「平行線の公理A」を使えば、完璧に証明されることだ。しかし、「平行線の公理A」が成り立たないような世界では、三角形の内角の和は180度とはかぎらない。
たとえばもし世界が閉じていたら、つまりこの地球表面のような有限な球面だったら、平行線は存在できないし、三角形の内角の和も180度よりも大きくなるだろう。そうした世界の幾何学では5番目の公理は次のように書き換えられなければならない。
5B)1直線上にない点を通って、その直線と平行な直線は1本も引けない。
あるいは、この世界が鞍のようにへこんだ無限に広がる双曲面だとしたら、三角形の内角の和は180度より小さくなり、「平行線の公理A」はつぎのように書き換えられなければならない。
5C)1直線上にない点を通って、その直線と平行な直線は無限に引ける。
こうして考えると、ユークリッドの幾何学だけが正しいわけではないことがわかる。それでは、私たちが棲んでいるこの世界が閉じている可能性はないのだろうか。この疑問を解決するにはどうしたらよいか。
ガウス大先生はアルキメデスやニュートンがそうであったように、単なる思索好きの数学者ではない。天文台の台長を努めたり、磁気の研究で偉大な業績を上げた自然科学者でもあった。さっそく彼は遠く離れた3個の山の頂に観測点を作り、この3点を頂点とする巨大な三角形で実際に内角の和を観測した。
その結果は誤差の範囲内で、内角の和が180度だと認められた。ガウスはこの結果に少し落胆したかも知れない。なぜなら、ガウスはすでにユークリッドの平行線公理を否定するような新しい幾何学の構想をもっていたからだ。しかし実験に失敗したからには、こういう非常識な考えを発表して世間を騒がせるわけにはいかない。彼はそう考えたようだ。
しかし、やがて、ガウスの怯懦を笑うように、ヤーノッシュ・ボヤイ(1802〜1860)、ロバチェフスキー(1793〜1856)といった若い数学者が次々と「平行線の定理」を否定する新しい幾何学を発見して、論文を発表する。ちなみに彼らの発見したのは、ここでいうC型(双曲面幾何学)であった。
ところが、彼らの論文はほとんど世間から見向きもされなかった。たとえば、ロバチェフスキーの論文は学会誌に取り上げられたが、書評子にから「判定を下す必要もないほど馬鹿馬鹿しい論文だ」と酷評されただけだった。彼らの幾何学はまったく常識外れであり、荒唐無稽で学問上も価値のないものとして葬られた。
ただ一人、彼らの論文を正しく評価したのがガウスだった。しかし彼もまた結局は、二人の論文を熱心に読んだあと、「実はそんなことはもう自分が何十年も前に考えたことだ」という消極的な反応しか示さなかった。たとえば彼はヤーノッシュの父親ファルカシュ・ボヤイ(数学者)に宛てた手紙にこう書いた。
「ご子息の論文を誉めるわけにはいきません。なぜなら、それは私自身を誉めることになるからです。論文の全内容、ご子息がとった道、結果、どれもこれも私自身が30年も前から行ってきた熟考の結果と一致しているからです」
父親からガウスの手紙を見せられたヤーノッシュは絶望し、猜疑心と妄想から、粗暴な振る舞いが目立つようになり、ついに人生への失望と落胆の中で後半生を終えた。そして、ロバチェフスキーもまた、なんらその業績が評価されることもなく、ロシアの辺境の地で無名のまま生涯を終えている。彼はガウスが友人にあてて次のような手紙を出していることもついに知ることがなかった。
「最近、機会があってロバチェフスキーの『平行線論』を再読しました。ごぞんじのように私は54年前からこれと同じ確信を持っていました。ロバチェフスキー氏の仕事には実質的に新規なものは見当たりませんが、その展開は私自身のものとは別の道で、しかし純粋に幾何学的精神にのっとったマイスターの芸といえます」
ロバチェフスキーがこれを聴いたらどんなに喜んだことだろう。しかしこうしたガウスの見解は決して彼らが存命中に公表されることはなかった。なぜガウスは学会にこれを公表して、彼らの業績を宣揚することをしなかったのだろう。「みずからを誉めることになるから」という理由だけでは、何とも納得がいかないのである。(つづく)
(追伸) お彼岸の日の昨日、妻と娘と3人で、岐阜県にある神崎川の支流の円原というところへ遊びに行った。伏流水がわき出ている清流の里である。そこでおむすびをたべ、わき出している水をペットボトルに詰めた。軟水なので、生水でも飲める。口当たりがよい。
自然の中に身を置くだけで、最近は清々しい気持に満たされる。とくに、深い緑の中の清流は格別である。ただ、水を汲みに川を渡ろうとして、妻が足を滑らせて、清流の中に落ちた。全身ずぶぬれになったが、幸い車に私のジャージやシャツが積んであったので着替えができた
清流で思いがけない「みそぎ」をした妻に、「冷たかっただろう」と訊くと、「びっくりして、冷たいとも思わなかった」と笑顔で答えた。思いがけないハプニングがあったりして、思い出に残る、とても爽やかな一日だった。
夏過ぎて法師蝉鳴く山里の 清き流れにおむすびうまし 裕
世の中には、すべてのことを「競争」という観点でしか眺めない人たちがいる。人生は他者との戦いの場であり、これに勝利を収めることが、何よりも大切なことだと考える。そして敵に勝つためには、ときには仲間で団結し助け合わなければならない。
そこから生まれてくるのは、ひとつのアンビバレンツな感情である。すなわち、外部に対する敵意と内部に対する愛情だ。内部に対する愛情が、ほんものの愛情でないことは明らかである。それは多くの場合、道徳や規範を生む。その行き着く先は、ナショナリズムだ。忠君愛国などというスローガンがここから生まれてくる。
倫理学もそのはじまりはこうした閉ざされた共同体における修身・道徳のローカリズムから始まっている。しかし倫理学が修身・道徳と異なっているのは、それが学問となることによって、普遍性への志向が内包されていることだ。
ローカルからグローバルへ、これが倫理学の志向である。そしてこの志向は、「競争」から「共生」への志向だと言ってもよい。倫理学とは地上の人々がいかに平和に、愛情をもって生きることができるか、その原理を明らかにしようとする。
ある人々は、そのような「共生原理」が、他者と敵対する「競争」から生まれると考える。たとえば、新古典主義経済学者たちがそうだ。過酷な生存競争が生命進化をもたらしたと信じるネオ・ダーヴィニストや「利己的な遺伝子」をベーズに生物の「利他的行為」を説明しようとする一部の生物学者もそうである。
たしかにこれは有力な思想ではある。しかし世界を説明するのに必要な唯一の科学的思想だとはいえない。私はこれとまったく同様な論理的・実証的妥当性をもつ世界観が可能であると考えている。それが「共生原理」に立った世界観である。残念なことに、この世界観はまだ充分認知されているとは言えない。科学的証明も充分ではない。しかし、それだけにこうした世界観を建設する仕事には将来性がある。
私はすべての現象を「共生」という観点から眺めることにしている。そこでこの視点から、もう少し倫理学の問題を考えてみよう。そうすると、おおまかに言って、二つの重要な問題が浮かび上がってくる。
一つは、先に述べたグローバル化の問題である。私たちは助け合ってこの地上に生きている。そしてこの「私たち」というのは、単に父母兄弟でもなければ、友人ばかりではない。家族や地方を越え、国境を越えた広がりを持っている。
さらにそれは、人類という範疇さえも越えている。つまり、「私たち」の中に含まれるのは、この地上に生きるすべての生物だということだ。つまり倫理学の最終課題が、自然との共生だということがわかる。
そして、もう一つの論点は、さらに思想的に深い問題をはらんでいる。それは、私たちは常に他者の犠牲の上に、自己の生を築いているという真実である。共生というのは、たんに仲良く暮らすことではない。助けうということは、実はもっとシビアでかなしい現実を前提にしている。
私たちは魚や家畜を殺してその肉を食べる。そしてそれ以外にも、多くの生命からその命を奪うことで我が生命を支えている。そしてこれは多くの生命の生きる必然であり、運命である。助け合いは、実は他者の死を媒介して成り立つプロセスである。
その意味で、「他者のために生きる」ということは、その裏側に、「他者のために死ぬ」という論理を潜めている。このことを理解するとき、私たちは「共生」ということのもっとも深い真実に触れることできる。そしてこれこそが共生倫理学の真実だと言ってもよい。
ところで、この真実から何が生まれるであろうか。私はそれは「他者に対する真実の愛」であると思う。それは競争から生まれる偽りの道徳から決して生まれることのない、森羅万象に対するほんとうの慈愛であり、感謝である。そして、これは宗教がこれまで私たちに語りかけてきたもっとも深いメッセージでもある。
ひろさちやさんが、最澄と空海について、面白いことを書いていた。最澄は「仏のなかに我がある」と考えるが、空海は「我の中に仏がある」と考えたという。なるほどうまいことをいうなと感心した。.
伝教大師・最澄(767〜813) が804年に入唐して日本に持ち帰ったのは、天台教学だった。これは法華経を諸経の中心と見る大乗仏教の一派である。これに対して、弘法大師・空海(774〜835)が持ち帰ったのは「大日経」を最高聖典とする「密教」である。
空海によれば、仏教は顕教と密教に分かれる。顕教とは経典に現れている教えで、小乗仏教と大乗仏教に分かれている。しかし、これらとは別に、経典には語られていない秘密の教えがある。それが密教と呼ばれるものだ。空海は弟子にこう語った。
「密教の奥義は、文章を得ることのみを尊しとはしない。ただ、心から心に伝えることが大切である。文章は、糟粕(かす)や瓦礫(がれき)に過ぎない。もしそうした文章を得てそれのみを愛すれば、純粋な要点は失われてしまう」(性霊集巻の10)
最澄は経典のなかに真理が語られていると考えた。しかし、空海は真理は自らの心の中にある、それを修行によって明らかにしなければだめだと考えた。だから、最澄のように経典をいくら学問的に研究しても本当のところ(密教)はわからない。いな、むしろますます真実の法から遠ざかるばかりだと考える。
空海は若い頃、大学に学んだが、やがて中退し、山水をあまねく渉猟した。そうした中で、深く自得するところがあったのだろう。後年、空海は仏教の修行は深山に限ると考え、山岳信仰の霊場であった高野山に修行の場を求めた。816年6月19日、空海は朝廷に「高野山を請う上奏文」を提出している。 「壮麗たる伽藍や僧坊は櫛の歯のごとくに、いたるところに並び立ち、教義を論ずる高僧は寺ごとに聚をなしております。仏法の興隆ここにきわまった感があります。ただしかし、遺憾に覚えることは、高山深嶺で瞑想を修する人乏しく、幽林深山にて禅定するものの稀少なことでございます。これは実に、禅定の教法いまだ伝わらず、修行の場所がふさわしくないことによるものであります。いま、禅定を説く経によれば、深山の平地が修禅の場所として最適であります。
空海、少年の頃、好んで山水をわたり歩きました。吉野山より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること二日ほどのところに、高野とよばれる平原の幽地があります。はかりみまするに、紀伊の国伊都郡の南に当たります。四方の山は高く、人跡なく小道とて絶えてございません。いま、上は国家のために、下は多くの修行者のために、生い茂っている笹やぶを刈りたいらげて、いささか修禅の一院を建立したいと思います」
ところで空海が持ち帰った密教なるものの正体は何か。それはインド仏教がその土着のヒンズー教の神々と習俗し土俗化した末路の姿に他ならない。インドの仏教は、釈迦が唱えた小乗仏教から大乗仏教へ、そして、やがてはインド古来の土着的な呪いの宗教へと姿をかえていた。その最新の仏教バージョンが「密教」だったわけだ。だから「密教」ほど本来の釈迦仏教と遠いものはない。
しかし、当時の仏教界は、インド伝来の最新の「仏教」に魅力を覚えた。どうじに、何やらそこに懐かしい匂いをかぎつけた。なぜなら、それは日本の民間信仰の世界にあまりに似ていたからだ。自然の中から生まれてきたインドの古い神々が、そのまま日本の古い神々に重なったせいだろう。こうして、空海の開いた真言宗は神道に溶け込み、日本の土俗的な山岳信仰とも融合して、ここに神仏習合という独特な信仰世界をもたらした。
名は体をあらわすと言うが、最澄は「もっとも澄む」と書く。人柄が高潔で、小事もゆるがせにしない性格の人なのだろう。東北の会津にいた法相宗の徳一から論争を挑まれたときも、これに律儀に答えて、何やら息の詰まるような論戦を展開している。
ところが空海は、その名の通り、「空と海」のように広大で茫漠としており、とりとめがない。徳一から論争を挑まれても、「そなたの説も立派である」と持ち前の包容力ではぐらかしている。弟子によると空海は笛や太鼓のように、相手によって変幻自在、大きくも小さくもなるという。小うるさい議論などより、深山幽谷に遊んだほうが余程修養になると考えたのだろう。
空海にとって修行とは、自然の中に身を置き、自然と一体となることで、本来持っている宇宙のエネルギー(仏性)を自己の中にわき立たせることであった。最澄のように学問を究めることで、何か得ようということではなかった。妄念や煩悩を修行で絶とうということでもない。もっとダイナミックで、パワフルな活力を得ることだった。
空海は「一切経開題」で「本心は主、妄念は客なり」と書いている。本心をしっかり持った上で、煩悩や妄念も客として大事にもてなそうという。こうした人生に対するおおらかさが、空海の魅力なのだろう。日本の仏教がたんなる小難しい学問ではなく、人生を生きるための独自なパワーを持つ信仰に生まれ変わったのは、空海という天才によるところが大きい。
ひろさちやさんは、空海は日本人ではなく、地球人でもなく、「宇宙人」だったという。その意味は、彼が宇宙の心を持っていたということだ。そして実は私たちも、実は日本人であり、地球人である前に、宇宙人なのだ。空海の教えは、我々も宇宙人であれということだ。そうした広大な心を持って生きると、人生がかわってくるに違いない。
たまたまラジオの番組で聴いた話だが、樹木葬というのがあるそうだ。生前、樹を植えておき、死んだらその根元に骨を埋めてもらう。縁者は命日に、その樹を訪れて、死んだ人を偲ぶ。夫婦で木を植えて、ともにそこに葬られるようなこともあるようだ。こういうことは、生前から死を意識しなければできないことだ。
私も50歳を過ぎた頃から、死を強く意識するようになった。いつ死が訪れてもよいように、身辺や気持を整理しておこうという気持になった。これは自分自身の死についてばかりではなく、肉親や友人たちの死についても同じである。
もとより、私は死後の世界や霊魂などというものを一切信じていないので、死そのものに恐れはない。ただ、この世から未来永劫、自分という者がいなくなることだと思っている。余計な心配など何もない。
死ぬことはなるべく避けたいし、健康で長生きしたい。しかし、未来永劫、生き続けたいかと問われれば、とんでもない。適当な時期が来たら、潔くこの世にお別れをして、安らかな死を迎えたいと思う。
死は永遠の安らぎであるから、基本的に歓迎すべきものだ。それはこの世に生まれてきた者が最後に味わうことができる楽しみであり、ご馳走だと思っている。しかし、生あるものが息をひきとるのは、そうたやすいことではない。断末魔の苦しみを軽減し、やすらかに死に臨むこと、これは多くの人が願ってきたことだ。
安楽かどうかは別にして、一番自然な死に方は何かと問われたら、それは餓死することではないかと思う。動物の場合は歯が抜け落ちたり、肢体が自由を失って、物が食べられなくなれば、それが即ち死である。人間の場合も、昔はそのような死に方がふつうであった。
たとえば、原ひろ子の『ヘヤー・インディアンとその世界』(平凡社)には、厳寒の雪原を移動する生活に耐えきれなくなったインディアンの老人が、移動していく家族や隣人についていくのを断り、キャンプ地に一人残って静かに死を迎えるエピソードが書かれている。
人々は老人と抱擁を交わしたあとで、その地をあとにする。そして、1ヶ月後に帰ってきて老人の遺体を収容する。インデアンたちは守護霊をもっていた。霊に教えられて自分の死期を知った者は、親族を集めて思い出話などをし、絶食して死を待つ。そして、霊の助けによって「よい顔で死ぬ」ことを願うのだという。
餓死という「自然死」を人為的に行うのが「絶食死」である。古来から、多くの賢者たちもまた、自分の死期を悟ったとき、絶食による死を選んだ。たとえばインドのジャイナ教の聖者は誰もがこのような死を選んでいる。
中国でも多くの賢者が食を断って死んだ。たとえば、17世紀半ばの儒者、劉宗周は68歳の時、絶食して死んだ。彼は弟子3千人をかかえる大学者だったが、10日間はお茶だけを飲み、10日間は一滴の水も飲まず息絶えたという。
その間、寝台のまわりの知人や弟子達とともに会話と作詩にふけったという。「門人と問答すること平時のごとし」と伝えられている。実際、死の前日に作ったという詩を読んだことがあるが、じつに素晴らしいものだった。彼もまた、門人達に見守られるなか、「よい顔」をして死んだことだろう。
日本でも、多くの高僧たちが絶食死を選んでいるが、なかでも有名なのは空海であろう。彼は死の四ケ月前、弟子たちを集めて、「吾、入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅の刻なり、もろもろの弟子等悲泣するなかれ」と告げた。そして絶食して、予告通り、835年3月21日寅の刻に、高野山で即身仏となった。
こうした聖人たちのような立派な死に方ができればすばらしいが、私が憧れているのは、インデアンの老人や、あるいは深沢七郎が描く「楢山節考」の主人公のおりん婆さんのような死に方である。とくに雪の楢山に欣然と死に赴くおりん婆さんの姿の中に、私はある懐かしい法悦を覚える。そしてわが生涯もかくあれかしと願う。
願わくば風のみ渡る草原の 月の光りに我を捨てたし 裕
ギリシャのアテネでパラオリンピックが開催中である。様々な障害を持つ人たちが、まるで障害を楽しむように競技する姿は見ていてとても清々しい。私たちに健常者以上に健康的で、ひたむきに生きている彼らの笑顔は、この陰鬱な世界にあって、私たちの未来をも明るく照らしてくれているようである。
アメリカではイチローが年間最多安打の大リーグ記録に迫りつつある。残り14試合で21本打てば、記録に並ぶのだという。一試合に1.5本以上打てばよいことになる。イチローはこれまで147試合で236安打を放っている。1試合平均1.6本である。
この割合でいけば記録達成できそうだが、気がかりなのは9月のイチローはこれまで18試合で24本しか安打を製造していないことだ。3打数連続で敬遠されたりして、打たせてもらえないこともあるが、1試合平均にすると1.33・・である。これでは残り14試合で18本しか安打を上乗せできないので、記録達成はならない。がんばってほしいところだ。
リーグ・ヤンキースの松井秀喜も18日(日本時間19日)、地元ニューヨークでの対レッドソックス戦に4番バッターとして先発出場し、5打数3安打1打点をあげた。これで松井は昨年に続き今季も100打点を記録したことになる。何かと暗い話題が続く中で、こうしたヒーローがいるのは、子どもたちにとって大きなはげみになると思う。
一方、日本のプロ野球は1リーグ制をめぐるオーナー側と選手会の対立で暗礁に乗り上げている。この土日は日本プロ野球史上初のストに突入した。私自身はほとんどプロ野球を見ないが、この連休中、プロ野球をたのしみにしていた人たちは残念だろう。もっともファンの多くがストを支持しているようだ。選手あってのプロ野球だと考えているからだろう。
「たかが選手が・・」というナベツナの言葉は、とてもプロ野球を愛する人の言葉とは思えない。「たかが社員が・・」と考える社長がいて、「たかが国民が・・」と考える政治家がいるかぎり、日本はよくならない。
昨日は一昨日に引き続き、テニスの試合に行って来た。ブロック決勝戦に進出したY君はこれに勝てば県大会出場だったが、残念ながら、地区ランキング3位の他校の選手に敗退した。これで今年も県大会に行けないことになったが、しかし、決勝戦に二人残ったのは初めてなので、立派だとほめてやりった。
試合が終わって、Y君を家まで送り届けてから、少し遅い昼食をその近くの食堂で食べた。「おばん」という店だけあって、おばさんが二人で働いていた。鯖の煮付けに一口カツが二枚、サラダ、みそ汁、煮物の小鉢とつけもの付きで500円だった。この安さと、家庭料理の味に感激した。
そのあと、図書館へ行き、夕食はラーメンですませた。それから、自分で散髪をして、風呂入り、そのあと、ビデオでER(緊急救命室)を見た。まだ1巻と2巻しかみていないが、このあと何十巻とある。4巻まで借りてあるが、秋の夜長、またビデオ中毒にならないように、10時には床についた。
今朝の目覚めは、3時50分。まさに理想的な睡眠である。今日は9月5日以来、久しぶりの休日である。今、次女が起きてきて、朝食を作り始めた。妻が帰るのは今晩遅くになりそうだ。愛犬リリオがうろうろと探し回り、ときどき私の顔を見て切なさそうになく。
「お父さんも、お母さんいなくて、淋しいでしょう」と次女がいうので、「お前がいるので淋しくない」と答えておいた。淋しいかどうかは別にして、何かと不便なことは事実だ。学生時代4年間自炊し、新聞配達をして、自主独立を誇っていた私が、もう何もできなくなっている。情けないことだ。
いつもは朝4時に起床し、2時間ほどかけてこの日記を書いている。今日は2時に目が覚めてしまった。少し早すぎるので、トイレに行ってからもう一眠りした。そして起きたら、何と6時になっていた。あわててパソコンのスイッチを入れた。
昨日の土曜日はテニス部のシングルスの試合だった。2年生の二人の部員が他校の選手4人を下し、ブロック決勝戦まで進んだ。あと一人勝てば県大会出場だ。がんばれ、と応援したが、一人は惜しくも敗退。彼は去年も決勝で敗れている。
もう一人のY君は、雨で中断。今日、あらためて決勝戦がある。ところが、今朝も生憎雨模様である。試合はどうなるのか。その連絡が本部から顧問宛に6時に送られてくる。さっそくメールを見ると、「本日、予定どうりに実施します」とある。それを電話で、Y君に報せた。
この雨の中、試合会場に行っても、いつ試合が再開れるかわからない。最悪の場合は、さんざん待たされたあと、明日に延期ということになるかもしれない。外で行われるスポーツの中でもテニスはグランドコンディションが問題なので、雨に左右される。
この三連休、妻は長女のもとに行っているので、次女と二人暮らしだ。その次女も6時に馬術部の練習に行った。長女の作ってくれた朝食を食べた後、いつもより随分遅くこの日記を書き始めたが、この後犬の散歩をして、テニスの試合会場にかけつけなければならないと考えると、おちついて構想を考えることもできない。
愛犬のリリオがさきほどから、散歩い行きたいと、しきりに情けない声を出している。どうも、今日は「リズム」がよくない。頭の回転も悪い。そこで、もう20年以上前に日記に書いた「リズム」という自作の詩を引用して、今日の日記のしめくくりとしよう。
宇宙にはリズムがある そして そのリズムの中に 私がいる 私の小さなリズムが 宇宙のリズムと呼応するとき 私の心は 生き生きとよみがえり 清められる
存在とは何か それはリズムである リズムが一切である 物質と精神は 様々なリズムの 変奏に過ぎない
神の幾百もの名のなかに 「リズム」の三文字を あらたに加えよ
2004年09月18日(土) |
「冬のソナタ」が好きな理由 |
友人のtenseiさんから「冬のソナタ」のDVDを借りて、一気に見たのはもうかなり前だ。それから、韓国映画にはまって、「ホテリア」「愛の群像」をみた。「夏の香り」や「秋の童話」もいずれ見たいと思っている。
「冬のソナタ」のあらすじをいうと、女子高生のチョン・ユジンの前に、ある日、ソウルからの転校生カン・ジュンサンが現れ、二人は恋に落ちる。しかし、大晦日の夜、待ち合わせしていた場所に、彼はやってこない。そして、彼が交通事故で死んだという訃報が届く。こうして、突然の事故で、初恋に終止符が打たる。
彼女には幼なじみで、家族ぐるみのつき合いをしているキム・サンヒョクという幼なじみの友人がいた。10年後、建築デザイナーとして活躍する彼女は、放送局で番組のプロデュースをしているサンヒョクと婚約する。しかし、まさに婚約披露宴の催されるその夜、雪の舞い散るソウルの街角で、彼女はカン・ジュンサンと生き写しの青年とすれちがう。そして、彼女は狂ったようにその青年の後を追う・・・。
青年の名前はイ・ミニョン。彼はアメリカ育ちで、カン・ジュンサンとは生い立ちが違っていた。もちろん、彼女のことも知らない。しかし、二人は仕事をとおして、急速に親しくなっていく。そして、二人は恋に落ちるのだが、そこにイ・ミニョンの意外な生い立ちが絡んでくる。
結局イ・ミニョンは失われた記憶を取り戻し、自分が彼女の初恋の人のカン・ジュンサンであることを知る。しかしそのとき、彼は再び交通事故にあい、脳に決定的なダメージを受けていた。そして彼はふたたび彼女の前から姿を消そうと決意する・・・。
・・・笑顔でいたいのに 涙があふれてくる 君を思うと何ひとつ 思い通りにならない 君に会いたくなるたび ぼろぼろに僕は傷つく こんなに君のことを 忘れてしまいたいのに
ひとりの人を 愛することが こんなにも つらいなんて・・・
主題曲の「はじめから今まで」の日本語の歌詞の一部を紹介した。このドラマのどこがいいのか。それは爽やかで詩情あふれる映像にくわえて、脚本と役者と音楽の三拍子がそろっていることだろう。
カン・ジュンサン役のぺ・ヨンジュン、チョン・ユジン役のチェ・ジウの清潔感と情感にあふれた自然な演技、そしてサンヒョク役のパク・ヨンハの善良な好青年ぶりも光っている。これら主役級の役者をもり立てるわき役達もいずれもいい演技をしている。
しかし、以上のことを踏まえて、さらに「冬ソナ」の魅力に迫るには、ユン・ソンク監督自身が「冬ソナ」について、NHKの番組の中で語った言葉が一番雄弁なのではないかと思う。彼はこんな風に語っている。
「今の世の中は強い者が有利ですが、善良さ、素直さ、純粋さ、美しさを持つ人にも希望があることを伝えたかった」
私は「ハリウッド映画」があまりすきではない。そしてあきらかにハリウッドの影響を受けて作られている日本の映画やドラマにもほとんど魅力を感じない。その理由は、あまりに他者にたいする攻撃的な暴力とセックスがあふれているからだ。
戦争とテロにあけくれるこの世界で、あきらかに映画やドラマにも「暴力」の陰が覆っている。人々は高額の料金を払ってまで、映画館で殺人や暴力のむごたらしいシーンを見ようとする。その感覚が私には理解できない。
レンタルビデオ・ショップで、暴力とサディズムにあふれたビデオばかりが人気を集め、氾濫しているのを眺めた後、「冬ソナ」の置いてあるひっそりとした一画に足を運んだとき、私はほっと息をつき、そして、私が求めていた美しい世界がまだそこにあるのに、少しばかり安堵して涙ぐむのだ。
昨日は5000年前に生きていた縄文人のミトコンドリアDNAの話をした。そんな昔の骨からDNAが採取できるとは驚きだが、ヨーロッパでも5000年前に生きていた人の骨からDNAが採取され、話題になったことがあった。
1991年9月19日のことだ。この年はたいへん温かい年で、アルプス・チロル地方の氷河が融けだし、そこから一人の男の遺体が発見された。発見したのはドイツ人のベテラン登山家ジーモン夫妻だった。
ジーモン夫妻は氷から突きだした男の遺体を見て、最初は遭難した登山家だと思ったそうだ。しかし、彼がもっていた古めかしいアイスピックから、彼がかなり古い時代に属する人物だという想像がついた。
「アイスマン」と呼ばれるようになったその死体は、冷凍保存され、オーストリアの法医学研究所に運び込まれて精密検査された。放射性炭素元素の測定から、その遺体は約5000年前の人類だということがわかった。
世界で初めて人骨の化石からDNAを取り出すことに成功していたオックスフォード大学のブライアン・サイクスもこの研究に参加し、アイスマンの骨からDNAを取り出した。そのときの様子を、「イヴの7人の娘たち」から引用しよう。
<調査対象として与えられた材料は、病理学標本につかわれるような小さな壷に入れられていた。見かけは、どうということもなかった。灰色のどろどろとした物質だ。当時わたしの研究助手をしていたマーティン・リチャーズと一緒に壷を開け、ピンセットを使って中味をつまみ上げてみると、どうやら皮膚と骨が混ざったもののようだった。
見た目はたしかにぱっとしなかったが、それが腐敗しはじめている様子も見られなかった。そこでわれわれは、熱意と希望的観測を持って仕事にとりかかることにした。オックスフォードに戻り、小さな骨のかけらを、かって古代の化石で行ったのと同じ抽出プロセスにかけたところ、思った通り、DNAがみつかった。しかも、ふんだんに>
これだけなら、どうということがない。しかし、問題は、このアイスマンのDNAとそっくり同じ塩基配列をもつ人物が、現代のヨーロッパ人のなかに発見されたということだった。それはサイクス博士の友人のマリーという女性だった。彼女はイングランド南部にすむアイルランド人だった。このことはさっそく「サンデー・タイムズ」に「アイスマンの親戚、ドーゼットで発見」という見出しで報じられた。
<わたしはマリーがアイスマンとのあいだに感じた絆に強く惹きつけられた。どんな記録にも残されていない、何千年も昔に死んだ人間と遺伝学的につながっているいるのは、なにもマリーひとりではないはずだ。もしかすると、いまこの時代に生きている人間に目を向けるだけで、過去の謎を解明できるのかも知れない。(略)
そうとなれば、研究の幅を広げて現代人全体を対象とするのが不可欠だ。いま生きている人間のDNAをさらに解明してはじめて、人類の化石の調査結果からなんらかの文脈を組み立てられるようになる。
そこでわたしは、現代ヨーロッパ人をはじめとする世界各国の人々から集めたDNAについて、できるかぎりのことを見つけるための研究に取りかかった。そのなかになにを見つけようが、それはそれぞれの先祖から直接届けられたメッセージなのだ。過去は、わたしたち全員のなかに眠っている>
このことがきっかけになって、サイクス博士は普通の医学遺伝学者から、まったく新しい科学分野に転出することになった。それは人類の歴史をDNA解析によって検証するというとほうもない試みだった。
博士のこの研究から、10数年のうちに、これまでの人類史の定説を覆すさまざまな新事実があきらかになって行った。その成果が「イヴの7人の娘たち」であり「アダムの呪い」である。この両書はすばらしく面白い。その内容について、この日記でおいおい紹介しよう。
2004年09月16日(木) |
ミトコンドリアは語る |
私たちの細胞の中には、ミトコンドリアというバクテリアが棲みついている。正確に言うと、大昔にバクテリアだったものだ。今は、すっかり独立性を失い、細胞の一器官として機能している。これが一つの細胞に約2千個あり、私たちの体は約60兆の細胞から出来ているから、総数でいうと12京個ものミトコンドリアが私の中で活動しているわけだ。
どうしてミトコンドリアが私たちの細胞の中に棲みつくようになったのか、それは、大変興味のある生命進化のドラマだ。詳しいことは省略するが、私たちの細胞は、約20億年ほど前に、ミトコンドリアの前身となる小さな細菌(αプロティオ)を内部に取り込み、これと共生することで、酸素からエネルギーを作ることができるようになったと考えられている。ミトコンドリアは細胞のエネルギー生成工場なのである。
私たちの細胞がミトコンドリアを持たなかったときは、それではどうやってエネルギーを調達していたのだろう。それは簡単にいえば、酸素を必要としない「解糖」(発酵)による方法でだった。現在でも酸素のないところでこうしたやりかたで生きている原始的な細菌が存在するが、これは「酸素呼吸」に比べればとても効率の悪い方法である。ミトコンドリアと共生することで、細胞は酸素呼吸ができるようになり、見違えたように活力を振るうようになった。
ところで、大昔にミトコンドリアがバクテリアであった証拠は、彼らが今でも彼ら独自の遺伝物質DNAを持っていることからわかる。これは細胞核のDNAとは別のものだ。そしてミトコンドリアはこれを自分自身で複製する。ミトコンドリアのDNAも、こうして親から子供へとうけつがれるのである。
ただ私たちは、ミトコンドリアは母親からしか受け継がない。その理由は、父親の精子の中にはミトコンドリアがないからである。私たちは母親の卵細胞のなかにあるミトコンドリアをのみそのまま受け継ぐ。
だから、私のミトコンドリアのDNAは、私の母親のミトコンドリアのDNAとそっくり同じ塩基配列をしている。そして、私の母親はそれをその母親、つまり、私の母方の祖母から受け継いでいるわけだ。
もし私のミトコンドリアのDNAをしらべて、それがAさんとそっくり同じなら、私とAさんは共通の女性を先祖としてもつことになる。つまり、ある人間のルーツを母系に限って探ることができるわけだ。
たとえば、国立遺伝学研究所の宝来聡さんは、埼玉県戸田市から出土した縄文人の骨からミトコンドリアのDNAを取り出した。そしてこれを現代人のそれと比較した。その結果、色々なことがわかってきた。
結論をいうと、6000千年前に生きていた戸田の縄文人とそっくりおなじミトコンドリアDNAを持つ人たちがいたのである。それがアイヌの人々だった。さらにかなりの日本人の他、マレーシア人、インドネシア人のなかにもいた。
このことは何を意味しているか。戸田の縄文人とアイヌ人、そして多くの日本人や南方の人々が同じ母系の先祖を持っているということである。しかも、DNAの配列は突然変異によって入れ替わるから、その配列が完全に一致したということは、かなり近い近縁関係にあるということがわかる。
ちなみに、韓国人、中国人も調べたが、いずれも3ヶ所以上で違っていた。これからアイヌ人が縄文人の直系であり、その血が現代の日本人の中に受け継がれていること、そして、縄文人のルーツが中国や朝鮮ではなく、マレーシアやインドネシアであることがわかる。
さて、地球上のすべての人種のミトコンドリアDNAを調べると、その類縁関係がさらに明らかになる。そしてその系統樹をどんどんさかのぼって行くと、私たちは遂に、ただ一人の女性にたどりつく。この女性こそ現在地上に生きているすべての人々を生み出した「太古の母」(ミトコンドリア・イブ)である。
オックスフォード大学の遺伝学教室教授ブライアン・サイクス教授は、「イヴの7人の娘たち」という本の中で、ミトコンドリア・イブが15万年前にアフリカで誕生し、現代ヨーロッパ人の90パーセントはイブの子孫の7人の女性を共通先祖として持っていると述べている。
また、その後の研究では、日本人の95パーセントが9人のイブの娘たちの子孫と判定できるそうだ。日本人が9人ものイブの娘を共通祖先を持つということは、日本人が決して単一民族ではなく、むしろおそるべき多様性をもった混血種であるということだ。こうしてミトコンドリアは日本人の意外な秘密を語り始めた。
(参考文献) 「イヴの7人の娘たち」 ブライアン・サイクス著 ソニーマガジンズ 「ミトコンドリアはどこからきたか」 黒岩常祥著 NHKブックス 「パラサイト日本人論」 竹内久美子著 文芸春秋
どんなに忙しくても、毎日欠かすことがないのが、日記と英語の学習である。貧乏な私にとって、日記を書くことはとても安上がりの趣味だ。学ぶことは何でも楽しいものだが、英語の学習もほとんどお金をかけないで楽しんでいる。
まずはNHKラジオの英語講座である。「基礎英語」「リスニング入門」「レッツ・スピーク」の三講座をカセットに録音して、45分間、毎朝、通勤途中に聴いている。それから、NHK教育テレビの番組を2講座、月から木まで30分ずつ録音し、2時間ぶんを土日にまとめて見ている。
こうしたことをもう6年以上続けてきた。おかげで耳で聞いて少し英語が分かるようになった。DVDの洋画を英語の音声と英語の字幕だけでなんとか楽しめるようになった。もちろん、まだまだ発展途上である。
何しろ私は一度も海外に出たことがない、しかも暗記の嫌いな私は、英語は大の苦手であった。そんな凡才の私でも、何とか英語をものにすることができるかもしれないという淡い期待をもてるようになった。
英語学習について必要なことは何だろう。私のこの6年間の乏しい経験によれば、とにかく続けることではないかと思う。そしてそのためには楽しむのが一番である。論語にも、「これを学ぶ者は、これを好む者にしかず。これを好むものは、これを楽しむ者にしかず」と書かれている。
それではどうしたら楽しめるのだろう。私の場合は、たとえば英会話講座のテキストは一切買わず、ただ聴くだけに徹している。わからないところは、想像力で適当に補う。「だいたいこんなことをいっているのだな」でよしとする。
あとは、なるべく英語の文章を読むことにしている。それも楽しめる読み物を選ぶ。「大草原の小さな家」とか、夏目漱石の「こころ」などを英語で読んだ。それから英語のメールマガジンも3つほど読んでいる。外国の新聞記事の抜粋で、時事問題をとりあっかったものなど、とくに興味があって参考にもなる。これは毎日チェックしている。
私は滅多に辞書を引いたりしない。分からない単語はそのうちにわかるだろうとやりすごすのである。こんないい加減な学習法だから、大学の入試問題などは解けない。ろくにスペルが書けないし、文法も知らない。しかし、そんなことはどうでもよい。書くことは二の次で、まずは聴くこと、そして読んで大意をつかむことだ。
私の英語学習のモットーは、「無理をしないでたのしむ」ことだ。そうすれば挫折することもない。とにかく大切なのは続けることで、私は何事も「継続は力なり」と信じている。そして、英語についても、いつかさらにスキルアップして、世界の人々と人生や社会問題について大いに語りたいと思っている。
2004年09月14日(火) |
日本語のゆたかな大地 |
日本語は「漢字」「ひらがな」「カタカナ」で表記される。これらの表意文字と表音文字をたくみに組み合わせて、私たちは深遠な思想から、繊細な感情まで自在に表現することができる。
アルファベットだけの欧米の言語や、漢字だけの中国語に比べて、はるかに読みやすく、理解しやすいのではないだろうか。日本人に失読症が少ないのもうなづける。その上、漢字と「かな」の組み合わせは、美的にもすぐれている。
日本の思想は神仏習合だといわれる。本来あった神道的なものの上に、仏教や儒教が取りいれられた。これを言語表記の上からみると、「かな」と「漢字」の併用ということになる。一つの文章の中で、こうして異質のものが融合し、統一されている。
明治維新の前後から、西洋の思想や技術が入ってきた。「漢字・かな・カタカナ」表記は、これにも見事に適応した。私たちが短期間のうちに西洋文明を吸収・消化できたのも、日本語というこの健啖家の言語があったからである。
もちろん、そこに多くの日本人の努力があったことはいうまでもない。たとえば福沢諭吉は適塾でオランダ語の翻訳を緒方洪庵より学んだ。その方法は、全体の文意を自然な日本語に移し替えることだったという。
福沢は洪庵のもとで1856年ごろ、オランダの軍事技術書である「ペル築城書」を翻訳しているが、この訳文はまだ自然な日本語というにはほどとおい。しかし、10年後の「幕末英字新聞訳稿」になると、流麗な日本語になっている。諭吉は翻訳という作業を通して、新しい日本語の文体を創っていった。そしてこの偉業をわずか10年で完成させている。
今日、日本語に翻訳された外国の書物は数を知らない。だれかが日本語こそ、世界最大の「国際語」だと書いていた。その理由は、日本語が読めれば、世界のどんな国の書物でも読めるからだという。日本語には英語やフランス語やドイツ語にはない、こうした「国際性」をもっている。
私たちは古代の中国語から漢字を取り入れ、これを吸収してあたらしい日本語を誕生させた。しかし、現在の中国語には数多くの日本語が取り入れられているという。「科学」「歴史」「革命」「自由」など、その数は数えきれない。
早稲田大学の王瑞来さんは「日本語からの外来語の逆輸入が、今日の中国語の基礎を築いたともいえる。これは近代日本語の誇りであろう」と書いている。その上で、「戦後多くの外来語が音訳のカタカナで日本語になだれこみ、難解な言葉も急増している」とカタカナ外来語の氾濫に警鐘をならしている。
明治時代の知識人は、外来語を安易にカタカナで表記しなかった。そして西洋文明と格闘して、「真理」「自由」「平和」「人権」などの言葉を創り出し、日本語を豊穣ななものに育てていった。こうしたことが出来るのが、漢字と「かな」いう表記をもつ日本語の強みである。
この美点を活かす努力をしないで、安易に外国語をカタカナで置き換えるのは、怠慢だといわれても仕方がない。私たちは将来の子孫のためにも、日本語という豊かな土壌を荒廃させてはならない。
2004年09月13日(月) |
歴史を学ぶということ |
東京都教育委員会は「新しい歴史教科書をつくる会」が執筆した扶桑社の歴史教科書を、来春新設する都立初の中高一貫校の中学校で採択することを決めた。一般公立中としては、昨年開校した愛媛県立中高一貫校3校に続く採択となり、来年夏の一斉選定に影響を及ぼしそうだという。
8月26日に都庁で開かれた定例会には、清水司委員長と米長邦雄、内館牧子、鳥海巌、国分正明の各委員、さらに横山洋吉都教育長の6人が出席し、8冊の中から6人による無記名投票の結果、同社の教科書に5人が賛成したのだという。
教育委員会のこのメンバーは、さきに国歌斉唱問題でも、不起立の職員の処分に踏み切るなど、高圧的な姿勢が目立っていた。とくに強硬な発言を繰り返しているのが、棋士の米長邦雄と作家の内館牧子らしい。この二人はとくに石原知事のお気に入りである。
「つくる会」の教科書は、私も以前に一読したことがあるが、自分の子供たちにはこうした教科書をつかって欲しいとは思わなかった。その理由はいくつかあるが、簡単言えば、「真理と平和を希求する人間の育成を期する」とした教育基本法の精神に反しているからである。それは太平洋戦争についての記述を見ればよくわかる。
「日本の戦争目的は、自存自衛とアジアを欧米の支配から解放し、そして、『大東亜共栄圏』を建設することである」
たしかに当時、このような宣伝文句が声高に叫ばれていた。そして、この宣伝に乗って、多くの人々が戦地へと赴いたのである。しかし、これは本当だろうか。今日、多くの事実が明らかになり、私たちは先の戦争がそんなきれいごとではなかったことを知っている。ところが、「つくる会」の人々は、そんなことはどうでもよいのだという。前書きから引用しよう。
「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたのかを学ぶことなのである。・・・歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることはやめよう」
私たちが歴史を学ぶのは、単なる過去の事実を学ぶことではない。それは私たちが生活しているこの社会が、どのようにして創られてきたかを検証することである。つまり、私たちの社会認識力を深めて、さらによい社会を将来に向けて築いていくことが大切なわけだ。そうした科学的な視点と方法を持つことで、歴史の真実が見えてくる。そして学習が面白くなるわけだ。
ただ、過去の人がどう考えたか、それを記述しても歴史とはいえない。そもそも過去の人が、戦争をどう眺めていたか、どうしてわかるのだろう。一つの事件でも、加害者と被害者では感じ方が違う。「つくる会」が教科書を書くのに参考にした過去の人とはどんな人たちなのか。
侵略され、虐殺された他国の人々が、「日本が戦争をするのは大東亜共栄圏の建設のためだ」と思っていたとでも言うのだろうか。販売戦略を優先させて戦争を美化し続けた大新聞の当時のインチキ記事をいくら引用しても、それは事実でさえもなく、まして歴史とは言えない。
昨日の土曜日は、テニスの新人戦の第一日目だった。一回戦はA高校に5−0で圧勝したが、二回戦は去年優勝した第一シードのK高校に1−4で負けた。1−1になったときには、もしやと思ったが、まあ、これが実力から言って、順当なところだろう。
テニス場では女子の試合も並行して行われた。ときどき隣のコートのコスチューム姿の可愛い女高生の方に視線が流れた。試合に負けて大泣きしている選手もいる。肩を抱いて慰めているパートナーの選手の優しい顔。青春ドラマの一こまを見るようだった。
朝方は曇っていたので、うっかり帽子をかぶらなかったのが大誤算だった。途中から陽射しが強くなり、テニスコートの監督席に坐っている私の頭上に、直射日光が容赦なく照りつけた。
試合が終わってから、頭が痒くてきた。家に帰って鏡を見たら、頭の皮膚が真っ赤になっていた。髪の毛が薄くなっているので、その分、ダメージが大きかったようだ。ますます頭髪が薄くなりそうで、思わず鏡の前で頭を抱えてしまった。
整備工場から愛車の修理が終わったという連絡が入り、妻と喫茶店に行きがてら、愛車を受け取りに行った。喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら雑誌を見ていたら、いつのまにかうとうととしていた。目を覚ますと、向かいの妻が笑っていた。
整備工場で4日ぶりに愛車カリーナのハンドルを握った。コンプレッサーを交換したのでかなり請求されると思ったが、2万数千円ですんだのでほっとした。もっとも車をなおしたのはこの2ヶ月で3回目である。合計すると6万円以上もかかっている。人間同様、高齢の車にも診療保険がほしいところだ。
ここまで書いたところで、妻が朝刊をもってきてくれた。第一面に「義務教育で留年も」という見出しの記事がある。河村文部大臣が「研究」を指示したという。「教える基準」とされてきた学習指導要領を「到達目標」を示す基準に改定し、この基準に到達しない場合は、留年も否定しないしくみをつくるのだという。
「日本は国際的にも上下の学力差が小さく、その中での留年は劣等感や差別につながりかねない」という藤田英典・国際基督教大教授の意見が紹介されていたが、小学校の高学年ではすでに学力が開いているのではないだろうか。
これまではかなりいい加減に進級させてきたわけで、留年制度が学力低下の歯止めになればよいと思う。もちろん学校の怠慢で安易に生徒を留年させるようなことはあってはならない。こちらの歯止めも必要だろうが、これによってあまり学校が息苦しくならないようにしたいものだ。こどもは伸び伸びと育てるのが一番だと思っている。
さて、今日からはテニスの個人戦である。まずダブルスの試合である。幸いというべきか、お天気はよさそうだ。今日はしっかり帽子をかぶって、大切な頭をガードしたい。
この一週間、いろいろなことが集中して、とても忙しかった。月曜日と火曜日は文化祭の準備があった。私のクラスは文化祭で「焼き鳥」と「ホットドッグ」を作ることになっていたので、月曜日には生徒たちと「ホットドッグ」の試食会をした。
二種類のパンとウインナ・ソーセージを買ってきて、教室でみんなで食べた。と書けば簡単だが、これだけのためにずいぶん走り回った。包丁やまな板、ガスコンロ、その他いろいろな物を準備しなければならない。試食会と並行して、クラスの応援旗の製作、ゴミ箱の製作、そして応援の振り付けもあったので、よけいに目が回った。
火曜日には台風による暴風雨警報が出て、午後には生徒全員が帰ったので、大量の買い出しを私一人でする羽目になった。焼き鳥用の木炭を買ったり、まな板や包丁も3本買った。キャベツを3個、それからケチャップや塩こしょう、紙製の皿を60枚、コップ60個、それからパンを120個、メモをみながら次々と買っていく。一度には運べないので、二度も紙袋を抱えて駐車場を往復した。
学校からの帰り道、「焼き鳥」用の金網が買ってなかったのを思いだし、スーパーに寄った。ちょうど金網の半額セールをしていて、600円の商品が300円で買えた。こういうのは何だかとても得をした気分である。さあ、これで準備万端と上機嫌で車に乗り込んだが、好事魔多しで、車の様子がいおかしい。
すさまじい金属音が聞こえ、エンジンが止まってしまう。三度ほど繰り返すうちに、とうとうエンジンがかからなくなってしまった。ボンネットをあけると、焦げ臭い匂いがする。ベルトが焼き付いているようだ。しかたなく、車を駐車場に置いたまま、吹きつのる暴風のなかを最寄りの整備工場まで歩く羽目になった。
故障の原因は、コンプレッサーのボウリングが破損したためだということだ。車を整備工場に置いて、荷物を持って家まで歩いた。家に帰るともうくたくたである。心配になって血圧を測ると、下が110を越えていた。上は170もある。薬を飲み忘れたわけではない。「もうダメだ、おれも壊れそうだ。死ぬかも知れない」と思わず夕食の席で弱音をもらした。
翌水曜日は妻の車に、「焼き鳥」用のコンロやコンクリートのブロックを載せて早朝出勤をした。それから生徒達とテントを組み立てて、買い出しに走った。予約しておいた焼き鳥180本を受け取ってほっとした。同時にホットドック用のウインナ・ソーセージ120本も買おうとしたが、こちらは予約してなかったので開店まで待って欲しいとのこと。10時まで駐車場で時間を気にしながら待った。
慌ただしく文化祭が終わり、テントなどの片づけおわったときにはほっとした。最後、ホットドック用のパンが足らなくなり、スーパーに走ったりしたのは毎年のことだ。考えてみると、私は3年連続して3年生の担任をしているから、これで食品バザーも3年連続ということになる。去年は「焼き鳥」と「うどん」だった。その前の年は「カレーうどん」だけだった。毎年少しずつむつかしくなっている。やはり二種類はつらい。
木曜日は体育祭だった。ところがこの日もとんでもないことが起こった。応援の係の生徒がよりにもよって全員分の衣装を家に忘れてきたというのだ。しかたがないので、午前の部が終わったあと、その生徒を車に乗せて家まで取りに行った。昼食時間は40分しかない。車の往復でこれがすべてつぶれた。
学校に帰ってきたとき、すでに集合時間の2分前だった。駐車場に車を置いて、いそいで生徒とグランドに走った。クラスの生徒を整列させ、点呼を確認する。ぎりぎり時間に間に合ったものの、空腹と疲労でいまにも倒れそうだった。血圧はおそらく200を越えていたかも知れない。
炎天下での体育大会が終わり、教室で解散したときは全身汗で、極度の脱力感があった。54歳の年齢でこの激務は応える。隣のクラスはご褒美にジュースを飲んでいるらしい。「先生、ジュースはないの」の生徒の声に、「ばかやろう、先生を破産させるつもりか」と思わず切れてしまった。
同じ職場の北さんに職員室で、「生徒は楽しそうだったけど、橋本さんは不機嫌だったね。もっと楽しくやればいいのに」と言われてしまった。たしかにその通りだが、忙しいと心理的余裕がなくなる。とても生徒達と一緒に文化祭や体育祭を楽しむという気分にはなれなかったが、修行がたりないといわれればそのとおりだ。
この日は、成績不振科目をかかえる生徒の保護者を呼んであった。本人と保護者に校長から「このままでは卒業できない」と警告や指導をしてもらった。もちろん担任も同席し、そのあと教務主任の注意を受け、さらに担任指導ということで三者懇談をした。それが終わって、すっかりエネルギーを使い果たした私は、もう部活動を見にテニスコートまで足を運ぶ気にはならなかった。
昨日の金曜日は1限目大掃除。そのあと6限目まで授業。「先生、疲れた。もうだめ」と生徒が次々と保健室に行き、「帰宅もやむなし」という養護教諭のコメントを書いた紙を持って返ってくる。生徒は気楽に帰れるが、教師はそういうわけにはいかない。授業の合間に、その日に生徒に渡す調査書の準備をしたり、テニスの公式試合の会場に行く電車の時間をインターネットで調べてプリントを作ったりした。
清掃・終礼のあと、3人の生徒の進路相談をしてから、テニスコートまで歩いた。そして、学校に帰り、前日同様、成績不振生徒と保護者の訓戒に立ち会い、そのあと教務主任指導と担任との三者懇談。すべてが終わったときには6時を過ぎていた。
この土日は少しゆっくりしたいが、そうも行かない。テニスの新人戦がいよいよはじまるからだ。今日も明日も、そしてさらに来週の土日も、場合によったらそれから先も、当分の間テニスの公式戦のために休日はおあずけということになる。これはかなりつらいことだ。
それにしても、私の愛車はいつになったら戻ってくるのだろう。10年間で16万キロを一緒に走ったこのパートナーも、私と同様にガタが来始めている。妻は「新車に替えたら」と言ってくれる。しかしもう一踏ん張りしてもらおう。はやく愛車の元気な姿が見たい。
もう10年間も乗っている愛車のカリーナが突然動かなくなって、車屋に見て貰うと、コンプレッサーのベアリングがつぶれたせいだという。そのため、この2日間、妻の愛車を借りて職場に通勤している。
いつも英会話のテープを聴いて運転しているが、この二日間はラジオを聞きながら通勤した。妻の車のラジオが民報にセットしてあったので、そのままそれを聴いた。気分を変えるのも悪くはない。
たまたまブルネイ皇太子の結婚式の話題が紹介されていた。この国には石油や天然ガスが豊富にあり、その大半は日本に輸出されているようだ。そのおかげで、ブルネイの王様は世界でも有数の資産家だという。
そしてこの国には税金がない。国民も一家に車を何台も所有するほど豊かに暮らしている。住宅も国から支給され、しばらく家賃を払ってそこに住み続けると、自分のものになるらしい。教育や医療も無償で、勤労者の7割が公務員だというから、それこそゆりかごから墓場まで国が面倒を見てくれるわけだ。
イスラムの国で、王様は同時に宗教の最高権威者でもある。その上、総理大臣も国防大臣も自分が兼務し、残りの大臣もほとんど王族が占めている。イラクのフセイン大統領顔負けの独裁者だが、だれも王様を批判しない。それどころか王様は人気の的で、映画スター並に国民から慕われ、行く先々で握手を求められたり、体に触られたりするのだという。何ともお伽噺に出てくるようなほのぼのとした国である。
これが最初の話題だったが、その他にも、政治、経済、スポーツから生活全般、いろいろな話題が取り上げられ、民報のラジオを聴くことはほとんどないのでちょっと新鮮だった。しかし、こうしたものを毎日聴いていたいとは思わなかった。聞いているうちに、少しずつ退屈になって、まあ、もういいやという気分になってきた。
たとえば、外貨準備高が世界でダントツだという紹介があった。平成16年8月末における我が国の外貨準備は、827,954百万ドルとなり、平成16年7月末と比べ、8,751百万ドル増加したという。なぜこんなに増えたのか。それについて、銀行の研究機関につとめる専門家がでてきてわかりやすく解説してくれる。
「円高にならないように、円を売ります。それで外貨(ドル)がたまるのです。外国に出た円の一部で、日本の株が買われるので、日本の株価がこれでいくらかささえられます。しかし、円を売るために、政府は円を調達しなければなりません。だから、国の借金もふえます。だから、マイナスの面もあります」
こうしたものは眺める視点でずいぶん解釈も違ってくる。国際的な視点に立てば、円高はドル安ということになる。なぜドル安になるかといえば、アメリカがドル札を印刷して世界にばらまいているからだ。これを日本政府は必死で買い支えている。その結果、外貨準備高や国の借金がが異常にふくらんでいる。
また、外国に出た円が日本に環流して日本の株価を買い支えているというのも、その実態をみる必要があるだろう。外国の投資家のなかには随分いかがわしい手合いが多いからだ。日本の企業がどんどん外資の手に落ちていくのを、ただ株価がもちなおしてよかったと単純に評価することはとてもできない。
こうした世界経済の構図は、国の中だけで考えていては見えてこない。時間に制限のある解説者はそこまで触れることはできないので、どうしても通り一遍の解説にならざるをえないのかも知れない。しかし、それ以上に、マスメディアにはこうした視点から問題点を掘り下げようという気迫がほとんど感じられない。
それどころか、人々にまったく違ったストーリーを信じ込ませようとしてしているようにさえ思われる。そうした意図を薄々感じるようになったのは5,6年ほど前からだ。その頃から、私の関心はテレビやラジオから次第に遠のいた。そのかわりに、マスメディアとはなるべく違った視点で、こうして毎日日記を書くようになった。
8月に友人5人と一緒に、小淵沢へ遊びに行った。そして夜遅くまで語り合ったのだが、とくに隣りに寝ていたTさんとは遅くまで寝物語をした。Tさんは2年前に高校の数学教師を定年で退職している。その後の生活ぶりをいろいろと語ってくれた。
退職して、一番変わったのは、考え方の幅が広がったことだという。以前ならば受け付けなかった考えや発想にも、「そうか、そうした眺め方があるのか」と素直に感動できるようにになった。人の意見にも耳が傾けられるようになり、生きることが随分楽になったという話だった。
Tさんはもともとそんなに狭い考えの人ではない。だれとでも親しくなり、私などよりはるかに社交的で明るい人柄だと思っていたので、こうした告白は少し意外だったのだが、それでも話を聞いているとなるほどと頷くことができた。
Tさんは在職中はいろいろと人に合わせて生きて生きたが、本質はかなり頑固な部分があったのだという。それは一口で言うと、「正しいことは正しい」というような頑固さである。そうした芯の強い誠実さを貫いて生きてきたわけだ。そうした生き方は立派かも知れないが、かなり不自由な生き方でもある。
そこで私はこんな話をした。人生は数学や科学で割り切れる部分とそうでない部分がある。数学や科学で割り切れるのは、因果律や論理が支配する世界である。私たちのように学生時代から数学や自然科学に親しんできた理系人間は、往々にしてこうした合理的な必然性で人生を割り切ろうとする。
しかし、人生にはそうした合理性で割り切れない部分がある。物理化学的な因果律や数学的な必然性の論理だけではこの世の中に起こっていることは説明ができない。そうした因果律の必然性に加えて、外部からさまざまな偶然的な要素が「縁」として働く。その人が本来もっている「因」に加えて、さまざまな「縁」との出合いによって、私たちの人生模様が豊かに織りなされていくのではないか。
こうした話をしていると、すでに眠っていたと思っていたKさんが起きあがり、ここから宗教や恋愛の話になってさらに話は進化し、深更にまで及んだ。それでも早起きの私は翌朝5時に床を抜け出し、住職をしているMさんを起こして、約束通りに一緒に宿の外の赤松林を散歩した。
仏教では人生とは因(必然)と縁(偶然)が縦糸と横糸のように織りなして創られると説いている。つまり、内因とか外縁というのは、もともと「仏教」の「因縁果の説」からきている。この<因−縁−果>の弁証法は、現実世界での真実を求める上でもとても役に立つ考え方だ。林間を歩きながら、僧職にあるMさんとそんな話をした。
そのあと宿の露天風呂の温泉に浸かっていると、TさんやKさんたちもやってきた。だれもが少し寝不足である。しかし、湯に浸かりながら、やはり人生がすばらしいのは、自然や人との出合いがあるからだろうと思った。これもすべてゆたかな諸縁のおかげである。
歳をとると頑固になって、人の意見に耳を傾けなくなる人がいる。しかし、定年退職してから、考え方の幅がひろがったというTさんのような人もいる。できることなら私も、他者の意見に耳を傾け、対話し、学ぶことを、生涯のたのしみにしたいものだと思った。
オウム真理教の松本智津夫が「教祖」として多くの信者たちに君臨したのは、彼自身が発する何かの強力なオーラがあったからだろう。信者の中には東京大学の大学院で素粒子を研究していた豊田亨のような知的エリートもいた。
早稲田大学大学院を卒業した広瀬健一は自動小銃を製造し、さらにはサリンの製造にも成功している。彼は大学、大学院で自然科学を学び、物理法則を熟知していた。数学や論理的思考にも長けていたはずである。
にもかかわらず、「空中浮揚」を売り物にしている教祖に心酔し、教祖の指示に忠実に従って、ついにはサリンを地下鉄に持ち込んで多数の一般市民を死にいたらせている。いったい彼らに何が起こったのだろうか。いったいどんなオーラを松本智津夫が発していたのだろうか。
ここで先に手品の種明かしをしよう。じつは私たちが学校で学んでいることとは別に、もっと大切な「人生への問いかけ」がある。ところが、多くの人々はこの「問いかけ」を忘れている。そして学校の教師も親も、だれもこの問いかけを真剣に問おうとはしない。
ところが、たまにこの問いかけを真剣に問いかける人たちがいた。ソクラテスがそうであり、釈迦やキリストがそうだった。こうした人たちは「人生の教師」と呼ばれている。この世のなかに、いかにパンを得るかという現実的な問の他に、もっと種類の違う問いかけが存在することを彼らは教えてくれた。
松本智津夫もまた、こうした「人生への問いかけ」を信者達に問いかけたのである。そして、世の中にそうした「問いかけ」があることを初めて知った人たちのなかから、彼を偉大な教師として尊敬する者があらわれた。そうした問いかけの大切さに気付いた彼らが、その重大さを知らせてくれた男に釈迦やキリストのようなオーラを感じるのも無理はない。
しかしここで問題は二つある。一つは彼らが松本智津夫に出会うまで、人生への問いかけを真剣に考えたことがなかったことだ。そしてもう一つ、これが決定的だと思うのだが、その教祖がその問いかけについて、自分であれこれ考えることを弟子達に禁じたことである。松本智津夫が人類の偉大な教師と違っているのはこの点である。
幹部の一人、石井久子は法廷で、「麻原さんが言っているんだから、そうなんだと思った」とくりかえしている。豊田亨は「自分の考えを持つこと自体が、自己の煩悩、汚れだから、私たちはつとめて考えないようにしていた」と証言している。
松本智津夫は「ものを考えること」をではなく、「ものを考えないこと」を信者達に要求していた。それが「悟り」への道だという。そして信者達はそれを信じて、「自分でものを考えること」を放棄してしまった。そしてただ教祖のいうがままのロボットになったのである。
こうした信者達を見て、私たちはどこか異常だと思うだろう。しかし、実のところ、この異常さが私たちの日常を覆っていることにはあまり気付かない。私たちは大学や大学院で、高度な知識や技術を学ぶことはできるが、「自分でものを考える」ということだけは学ばない。
広瀬や豊田らの知的エリートには、「自分がどのように生きたらよいのか」という信念がなかった。だから、松本智津夫のような男に、人生について問いかけられて、立ち往生してしまうのである。
一方で、松本智津夫は知的エリートのこの弱さがよくわかっていた。そして、彼自身はひとり「人生の意味」を解し、「信念を持って決断する」ことを演じ続けることで、尊師としての威厳とオーラを独占することができたのである。
明治維新とは何であったか。ひとつの答えは、武士階級をなくすことであった。これを武士階級のなかでも下層にあった人々が行ったわけだ。どうしてこれが可能だったのか。それは社会にとってもはや武士などというものが無用の長物になっていたからだ。
ところが、武士達は自分たちが無用の長物だとは思いたくない。だから、自己の存在を正当化するために、「忠義」などということを強調し、いろいろとむつかしい理屈をいう。今はやりの「武士道」などというものも、大方はこうして生まれたわけだ。
三井財閥の三代目、三井高房は「町人考見録」に、「武士は計略をめぐらし、勝つことをもっぱらとす。これ軍務の戦いなり。町人はほどよきに見合わせ、金儲けをして残銀を得んと思へども・・・・」と記している。そして、こんなことも書いている。
<商人はその極まりたる事もなく利益次第、欲次第、働き次第にて、風水旱の患もなく、年貢もなく、公役もなく、誠に当世にては上もなく勝手を得たるものなり>
士農工商は建前で、商人は一番豊かであった。武士が藩にしばられ、農民が土地に縛られているなかで、町人は経済活動の自由を得て、自分の才覚次第で巨万の富を得ることもできた。そしてその富によって、実質的には武士をも支配していた。
明治維新のときも、これらの豪商が維新政府側についた。薩摩や長州が強くなったのも、彼らの経済援助があったからである。明治維新は表向きは武士によって行われたように見えるが、やはり背景として、商人階級の隠然とした力が働いていたと考えなければならない。
その証拠に、明治維新で一番利益を受けたのは商人たちだった。三井や三菱という豪商が、やがて財閥となって日本を支配していく。こうした豪商による日本支配を面白く思わない人々がいた。それは没落した武士達である。
彼らは反乱を起こしたが、これも政商達の支援を受けた明治政府の圧倒的な力の前に、西郷隆盛の「西南の役」を最後に影を潜めた。そして世の中は豪商たちの手に委ねられた。明治時代と言えば「天皇制」が確立され時代であり、ともすれば天皇制イデオロギーですべてを見てしまいがちだが、そうすると時代の本当の支配者が誰であったか見誤ることになる。
昭和に入って、大不況がおそいかかると、財閥たちはこれをのりきるために、海外侵略を考えるようになった。戦争によって生じる軍需景気をあてにするようになった。しかし、これは皮肉にも、軍部の独裁を生んだ。そして、5.15事件、2.21事件によって、ふたたび「武士階級」が復活し、忠君愛国の「武士道」が叫ばれる時代になった。
そしてその先に、敗戦があり、武士達は完全に姿を消した。そこでふたたび、商業が復興し、財閥が力を得て、今日の経済大国が築かれたわけである。ところで、最近、ふたたび「武士道」が世の中にもてはやされるようになった。歴史は繰り返すのだろうか。
(参考文献) 「日本資本主義の精神」 山本七平 光文社
2004年09月06日(月) |
小さな政府の大きな借金 |
財務省が国の財政状況を、年収650万の平均的な家庭にたとえて説明している。それによると、ローンの残高が6800万円で、返済額は年間250万円に達している。使えるのは400万円しかない。
ところが支出を見ると、生活費が675万円もかかるるうえに、お金を貸してくれという親や親戚親兄弟がいて、彼らへの仕送りもしなければならず、結局あらたに毎年520万円も借金をしなければならない。これではいずれ、一家は破産する。
それではどうしたらよいのか。収入を増やすべく、もっと働く必要がある。しかし、世の中が不景気なのでなかなかそうもいかない。そこで、教育費や医療費を減らした。親たちへの仕送りもカットした。こうしてどんどん財政規模が縮小していく。
一家の主は何を考えているのだろう。「なあに、そのうちに景気が良くなれば収入が増えるさ。あと10年もすれば借金しなくてすむようになるだろう。それまでの辛抱だ」と楽観的だ。しかし、膨らむ一方のローンを見ていると、子供たちは未来に不安を覚えないわけにはいかない。借金を子どもの世代に押しつけようとする親たちはあまりに無責任ではないか。
04年度の政府予算は82兆円だが、税収は45兆しかない。残りの36兆円あまりを国債という借金で賄っている。国債残高が483兆円あり、これに地方の長期債務を加えると、国民の債務合計は719兆円になる。これはGDPの1.6倍である。さらに特別会計まで含めれば債務合計は1000兆円を超えている。
歳出が82兆円もあっても、借金の返済に必要な経費を差し引けば、使える分は限られてくる。しかも、この先、借金の返済に占める割合がさらに増えそうだ。東京大学教授(財政学)の神野直彦さんは、8月12日の朝日朝刊で、<日本の財政には、税収面での「小さな政府」が「大きな赤字」を抱えている矛盾がある>と言う。
借金が増えれば増えるほど、「小さな政府の大きな借金」という矛盾が深まっていく。この悪循環から抜け出すにはどうしたらよいか。神野さんは大型公共事業などの無駄な歳出を減らして、歳出の重点を教育や福祉を重視する方向に転換せよという。財政をその本来の目的である国民の福祉や教育に向ければよいわけだ。それからもうひとつ、アメリカへの仕送りを即刻止めよう。
2004年09月05日(日) |
アメリカを支配する人々 |
もうすぐ911多発テロが起こって3年目になる。これに先だってニューヨークでものものしい警戒のなか、8月30日から9月2日まで共和党大会が開かれた。ここで正式にブッシュが次期大統領の候補者として指名された。
大統領候補を指名する党大会をニューヨークで行うことは、3年間前の911事件のあと決められたらしい。大会には全国から共和党支持者が集まってくる。これでニューヨークの経済に活を入れ、その復興を支援しようという思惑があったようだ。
しかし、ニューヨーク市民はこの大会をあまり歓迎しなかった。連日反ブッシュのデモが繰り出し、これを取り締まる警官隊とのいざこざが続いた。逮捕された市民の数は1800名を越える規模になった。
最終日の演説で、ブッシュ大統領はイラク戦争を正当なものであると自画自賛し、「このNYの地にビルは倒れた。だが、同じこのNYの地から我が国(ネイション)は立ち上がった」と勇ましくしめくくっった。この演説の間にも、反対の声を上げた若い女性が現行犯逮捕され、ひきずられるようにして連れ去られたいう。
アメリカでは今、次期大統領選に向けて、世論を二分する熱い戦いが行われている。その熱気がテレビの映像やこれらの記事に読みとれる。まさに二大政党制が機能する民主主義の国のようだ。しかし、私はこうした「対立」をかなり「演出されたもの」だという風に醒めた目で見ている。
大統領選挙には莫大な金がかかる。問題はそのスポンサーだが、共和党に限らず民主党の場合も、そのスポンサーの大御所は世界の3大財閥である。つまり、いずれの党の候補者もロスチャイルド、ロックフェラー、モルガンという大富豪の息のかかった人物なのだ。
これらの財閥は同時に両陣営のスポンサーになっているので、どちらが勝利しようと、実はどうでもよいことである。勝った方に、自分たちの利益を代弁する腹心を送り込み、政権の中枢部をしっかりかためるまでだ。そして大統領はほとんど彼らの操り人形にしかすぎない。
たとえば、ケネディ以前のアメリカ政界を牛耳っていたダレス国務長官はロックフェラー財団の理事長であり、初代ジョン・D・ロックフェラーの孫ネルソン・ロックフェラーは、共和党のフォード政権で副大統領になっている。
ニクソン時代を動かしていたヘンリー・キッシンジャー国務長官もまたロックフェラー兄弟基金のプロジェクトリーダーをつとめ、個人生活では、デヴィッド・ロックフェラーの秘書ナンシー・マギネスと結婚して、公私にわたりロックフェラー家と親密な関係を築いていた。
現大統領の父親であるパパ・ブッシュは、テキサス州でロックフェラー財団に利権を売っていた石油採掘者だったが、ネルソン・ロックフェラー副大統領によって中央情報局(CIA)長官に抜擢され、そして大統領に担ぎ出された。
一方で、ウェストヴァージニア州知事のジョン・D・ロックフェラー4世は、民主党のカーターをホワイトハウスに送り込み、ネルソン・ロックフェラーの弟ウィンシロップ・ロックフェラーはアーカンソー知事になったあと、民主党員のビル・クリントンをアーカンソー知事としたあと、ホワイトハウスに送り込んでいる。
国際ジャーナリストの広瀬隆さんは「アメリカの経済支配者たち」(集英社新書)のなかで、次のように書いている。
<ホワイトハウスと情報収集・軍事体制は、投資銀行の化身である。時の政権が民主党であるか、共和党であるかにによって、対外工作が変化することは、CIAとペンタゴンにとって、あってはならない出来事である。CIAの人事を監督する財閥と遺産相続人にとって、アメリカという国家の経済的威信が揺らぐことは、財産の目減りを意味する重大事となる>
「アメリカには、財閥党というひとつの政党しか存在しないメカニズムがある」と広瀬さんは書いている。大統領選挙はこの事実を隠蔽するために、全国民を巻き込んで繰り広げられる滑稽なお祭り騒ぎでしかないのだが、私たちはこうした異国のパーティ・ショーを面白がってばかりはいられない。日本の場合はどうなのだろうか。
2004年09月04日(土) |
ブッシュとシャロンは双生児 |
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏911」を見た。これをみると、ブッシュ家がサウジの王家と石油ビジネスを通していかに親密かということがわかる。そしてこのことが、アメリカ政府の911事件への対応を誤らせたといわんばかりだ。
しかし、私はブッシュはサウジの王家と親密なのはあくまでもビジネスの話だと思っている。イラクの独裁政権を倒し、アメリカ流の「民主主義」を世界に押しつけようというネオコンの主張に、一番警戒心を持っているのはサウジアラビアの王家だろう。実のところ、サウジアラビアはアメリカのイラク攻撃が迷惑だったはずだ。
ブッシュの朋友は、じつは別にいる。それはイスラエルのシャロン首相だ。イラクを潰して欲しいと一番願っていたのは、シャロンである。イラクが一番敵視していたのがイスラエルであり、フセインはパレスチナの武装勢力を資金的に援助していた。彼はパレスチナの自爆テロ実行者の家族に、1万ドルから2万ドルの見舞金を出していたという。これは当地では数億円に相当するお金だ。
フセインが倒されて、パレスチナ解放戦線は資金源を絶たれ、活動が鈍った。アメリカのイラク攻撃で一番利益を上げたのは、他でもないイスラエルであり、アルカイダの標的になったサウジアラビアはじつは被害者でさえある。
2000年の大統領選挙を振り返ってみると、11月の大統領選挙を目前にした9月のある日、当時野党リクードの党首だったシャロンは突然アメリカを訪れた。このときシャロンはブッシュサイドとコンタクトを持ったとされている。そして、その1週刊後の9月26日に彼は突然、1000人ものお供を連れて、エルサレムの丘に姿をあらわした。
これにパレスチナ人が反発し、争乱状態になった。最近の中東危機がここから始まった。自爆テロとイスラエル軍の報復でどのくらにの人命が奪われたかしれない。和平に向かっていた流れは逆転し、このどさくさの中でシャロンは翌年3月に労働党から政権を奪い、今日に至っている。
シャロンのエルサレムの丘訪問にはじまる中東の危機が、石油価格を押し上げ、アメリカの株式市場が急落した。これが当時のクリントン政権を直撃し、次期大統領確実と思われていたゴア陣営に大打撃を与えた。つまり、シャロンのエルサレムの丘への訪問は、ブッシュを大統領にするために仕組まれた巧妙な戦略だったように思われる。
結果から見ると、この作戦は大成功だった。ブッシュもシャロンもこうした混乱を利用して、政権の座についたからだ。ブッシュとシャロンは「一卵性双生児」だという人がいるが、うまい表現だと思う。この二人を合わせ鏡にすると、とんでもない歴史の真実が浮かび上がってくる。
ブッシュのイラク攻撃の有力な動機の一つに、シャロンへの恩返しがあったことが考えられる。しかし、こうした政権をめぐるかけひきのために、この4年間でどれだけの血が流されたことか。マイケル・ムーア監督は「華氏911」で、サウジアラビアとブッシュについて語ってはいるが、残念ながらもっと重大な巨悪の真相については沈黙している。
ところで、8月28日にアメリカのCBSテレビが奇妙なスパイ事件をスクープした。国防総省でイランに関する諜報や政策立案を担当するラリー・フランクリンが、政府の機密文書をイスラエル政府に流した容疑で、FBIが捜査を進めているという。
なぜこのスパイ事件が奇妙かというと、国防総省の幹部がこそこそとスパイ活動などしなくても、ブッシュからシャロンへいくらでも超一級の情報が流されそうなものだからだ。実際、アメリカ政府の情報に詳しい国際ジャーナリストの田中宇さんも「田中宇の国際ニュース解説9/3」にこう書いている。
<この事件が奇妙なのは、米政府内では現在、イスラエルと親しい関係にある「ネオコン」の人々が外交政策、特に中東に関する政策を取り仕切っており、イスラエルのシャロン首相ら高官は、ネオコンの人々といくらでも自由に話し、アメリカの対イラン政策の全容を簡単に聞き出すことができるはずなのに、なぜわざわざ国防総省の中級幹部から文書をもらわねばならないのか不可解だ、という点である>
大手メディアの流す情報を、そのまま受け取るとしばしばまちがった先入観を植え付けられる。私たちはメディア・リテラシーを磨いて、報道の背後に隠された真相を見つめる必要がある。たとえばイスラエルに不利と見えるこのスクープも、ブッシュ政権とシャロンの関係を隠蔽するために、大統領選を前にして仕掛けられた世論誘導の一つかも知れない。
(参考サイト)http://tanakanews.com/
これまで戦時中の新聞、雑誌について書いてきた。大新聞が戦争翼賛の機関となって、戦争賛美へと突きすすむなかで、一部の地方紙や雑誌を舞台にこれに果敢に抵抗する人々がいた。その多くがインテリだった。それでは一般の庶民はどうだったのか。
佐藤明夫さんの「戦争動員と抵抗(戦時下の愛知の民衆)」には、「特高月報」などの資料を使って、庶民の抵抗する様子が生き生きと描かれている。そこでこの本から、愛知県の中島・半田の工場に動員された学徒たちに焦点をあてて、いくつかの事例を紹介してみよう。
<甲府商業4年生は、中島・半田に動員されていたが、会社の待遇が約束と違うと抗議し、要求を作成し、引率教員に渡して交渉した>
<半田商業5年生は半田重工業に動員されていたが、引率教員の体罰に憤慨し、工場の休日にクラス全員があつまり、教師宅に押し掛ける騒ぎがあった>
<豊橋中学1年生は豊川海軍工廠に動員されていたが、組長の暴力制裁に抗議して火薬工場に投石したり、昼休み後、職場に戻らずサボタージュを実行した>
<京都3中の生徒は、半田・中島に動員されたことが不満で、校長が寮に泊まったとき、電源を切り、職員室に投石し、とび口で天井を破る騒ぎを起こし、警官・憲兵がかけつけておさまった>
<中島・半田に動員された山梨英和高女10名は、甲府空襲の情報に不安になり、彼女らは申し合わせて早朝ひそかに女子寮を脱出し、山梨に引き上げた>
<名古屋市立機械工業2年生は、爆撃で級友が犠牲になると、たまりかねて集団で工場を脱出し、自宅で終戦を迎えた>
1944年(昭和19年)3月、中等学校3年以上の授業を中止し、男女の生徒を軍需工場に動員することが閣議決定された。全国に先駆けて、愛知県では4月の始業式からいっせいに、徹底的に実施された。
佐藤明夫さんは、「これは学校教育の否定であり、教師の任務の放棄であったが、もはや疑問を口にすることも許されなかった」と書いている。
しかし、中には勇気のある教師もいた。たとえば豊橋松操高女の中村要教頭は、中島半田工場へ動員されていた170名の生徒の安否を気遣い、工場側と交渉して、生徒全員を東浦町の工場に配置転換させたという。ついでに宿舎も半田の女子寮から、豊浦の寺院などに分宿させるよう要求した。
「15,6の少女を犠牲にするわけにはいかない。だめならば豊橋に連れて帰る」とまで強硬に主張した結果、工場側もこれを受け入れた。半田製作所と女子寮が米軍に爆撃されたのはその3日後だった。多くの女生徒がこれによって死んだが、移転した松操高女の生徒は全員無事で終戦を迎えたという。佐藤さんはこう書いている。
<原爆攻撃をのぞけば、全国最多の学徒の死者を出した愛知であるが、以上のような生徒の生命を守ろうとした教師の異議がなければ、さらに多くの若い生命が奪われたであろう。当時では非国民との非難を覚悟せねばならぬ言動であった。小数ではあっても、記録に残っていない勇気ある教師はまだまだいたと考えられる。・・・なお、生徒と共に空襲で生命を失った引率教員も少なくないが、その実数は未調査である>
戦後50数年を経た現在、戦争によって生命を奪われた勤労動員学徒の正確な数はわからない。1952年の愛知県の調査では866人となっているが、これはかなりずさんな調査で、佐藤さんが約10年かけて再調査した結果では1020人を数えた。
全国でどのくらいの勤労学徒の命が奪われたか正確な統計はないが、広島原爆で7200人の勤労学徒が死んでいる。長崎とあわせると、1万名以上だ。沖縄戦でも、1200人以上の学徒が死んでいる。
愛知県の1020名という数字も大きい。軍需工場が多かったので、被害がおおきかったのだろうが、爆撃されることが分かっていて工場の寮などに宿泊させていたのが解せない。現場を知らない上からの命令なのだろうが、これに異議を唱えた教員がいたことに救いを感じる。
それにしても、死亡した勤労学徒の統計が残っていないのはどうしてだろう。長年に渡り、これを丹念に調査して、労作である「戦争動員と抵抗」を書かれた佐藤明夫さんに直接お尋ねしたところ、終戦当初は連合軍に気兼ねして、なかなか調査できず、そのままになってるのではないかということだった。
ところで、私は少国民と呼ばれた少年・少女の多くは、澄んだ目をした凛々しくて健気で勤勉な軍国少年、軍国少女たちのように思っていた。戦時中の記録映画や戦時中を扱った映画やドラマに描かれているのも、いずれも真面目で行儀がよい生徒たちだ。
しかし当時の「特高月報」には、いささか様子の異なった生徒達の姿が描かれている。それは学校や体制に不満を持ち、反抗したり、サボタージュする生徒達だ。勤労動員された工場でも反抗したり、抗議したり、一部ではかなり過激な行動が生じていたことがわかりる。「特高月報」(昭和20年8月)はこうした状況を次のように分析している。
<工場事業場に出勤せる勤労学徒は、一般的に勤労動員の感激を其のまま職場に宣揚し、相当なる成績を収めつつあるも、一部には動員も長期化に伴ふ疲労感、学徒動員の性格的曖昧性、職場環境並びに学徒自身の時局認識欠如等に基因し、其の不平不満は漸次増高し、各種紛争も相当に発生をみつつあり>
<学徒の中には、学徒特有の学的思索と真理追究欲よりして、その態度極めて批判的かつ懐疑的となり、勤労意欲の希薄化、厭戦的敗戦的感情の萌芽を看取せらる>
終戦が近づくにつれて、動員中学生の喫煙、飲酒、喧嘩、盗みなどの頽廃行動も増えたようだ。これも戦争に対する消極的抵抗といえよう。また、大同製鋼に動員された旧制八校の学生たちは、レーニンやマルクスの発禁本を廻し読みし、作業を徹底的にさぼったため始末書を書かされたりしている。佐藤明夫さんは、「戦争動員と抵抗」の中で、次のように書いている。
<少年・少女たちの戦争への思い切った異議申し立て行動が、長い間、戦線離脱の裏切りに近いうしろめたい体験として記憶されていたのである。学徒動員世代が健在であるうちに、さまざまな異議申し立ての事実をほりおこすと同時に、庶民の抵抗の歴史として、積極的な評価をすることが急がれるのである。マインドコントロールをくり返させないためにも>
昭和6年の満州事変のあと中央の大新聞が戦争賛美に傾く中、地方新聞や雑誌を舞台に戦争に抵抗する運動は続いていた。しかし、昭和12年の日中戦争を境に、軍部の圧力がこうした言論をも押さえ始める。そして太平洋戦争がはじまり、国家総動員体制のもと、とても息苦しい時代になるが、そうしたなかでも庶民の様々な抵抗が続いていたことがわかる。
「朝日新聞の戦争責任」「昭和史の決定的瞬間」「戦争動員と抵抗」の3冊は、こうしたそれぞれの時代における人々の戦争に抵抗する姿を描き出している。この3冊を合わせ鏡にすることで、この時代の真実がまたひとつ鮮明に浮かびあがってくるようだ。
(参考文献) 「戦争動員と抵抗(戦時下の愛知の民衆)」佐藤明夫著、同時代社
雑誌は新聞に比べて広告収入の割合が20パーセント以下と少ないので、スポンサーの意向に影響されることはそれほどない。広告収入に依存して経営に神経を使わなければならない全国紙にくらべて、かなり自由な立場で発言できた。しかも執筆者は組織を背負わずに、個人の責任で発言する。それだけにより広く深く、真実を捕らえることができる。このことは今も昔もかわらない。
たとえば戦前から日本を代表する雑誌として「中央公論」や「改造」があったが、「中央公論」は昭和11年9月号で「人民戦線の胎動」という特集を載せている。その中でたとえば、大森義太郎(東京帝大を助教授で退職)は、次のように労働者や知識人が軍部のファッショに対して団結するように呼びかけている。「昭和史の決定的瞬間」(坂野潤治、ちくま新書)から引用しよう。(その他の引用も同書による)
<社大党、労農協議会全農、全水、東交、全日本総同盟が集まって人民戦線を提唱し、これの急進自由主義者、学芸にたづさわっているひとびと、またなんらかの形で一般のインテリゲンツィアをも包容することを企てるならば、日本人民戦線は一応成立をみることができよう>(人民戦線・その日本における展望)
大森がこのように書いた背景には、2.26事件の6日前の総選挙(男子普通選挙、有権者1000万人)で、反戦をとなえる左派陣営が大勝したことがある。この総選挙で、右派陣営の政友会が71人も数を減らして171議席になったのに対して、左派陣営の民政党は78名も増やして205議席に躍進した。こうした国民の声援をバックにしていたからこそ、5月7日に行われた国会での民政党・斎藤隆夫の「粛軍演説」が凄みを帯びていたわけだ。
さらにこの総選挙では社会大衆党系(戦後の社会党)が17もふやして22議席を占めるにいたった。民政党と社会大衆党が組めば、全議席の半分233議席にわずか7議席たりないだけになる。中間政党の動向では右派陣営に勝てる数字だった。
残念ながら、民政党と社会大衆党の連携はならなかった。それは反軍反軍拡の立場に立っていた民政党にたいして、社会大衆党が軍拡を支持し、軍部による社会改革に一定の期待を抱いていたからだ。整理するとこういう構図になる。
政友会(親軍、親陸軍皇道派、親財界、反英米) 民政党(反軍、親英米、親財界) 社会大衆党(親軍、反財界)
ここで、社会大衆党が反軍であれば、民政党(資本家)と社会大衆党(労働者)の連携で、おそらく日本の歴史は変わっていた可能性がある。戦後の社会党が平和主義の政党であることを考えると、なんとも残念なことだ。
社会大衆党との連携をあきらめた民政党は政友会との連携をはかる。そしてここに朝鮮総督退役陸軍大将・宇垣一成を首班とする内閣がまさに誕生しようとした。大森義太郎は「改造」(昭和11年12月号)にこう書いている。
<いまだ表面化していないが、政界には新しく政・民提携の運動、そしてこの力によって軍部に対しようとの運動が起こりつつある。・・・ブルジョア政党が、これまでのただ軍部にお世辞を使ってばかりいることをやめて、その独自の力を持って軍部に対抗しようとする精神の動いていることは、認められるであろう>
しかし天皇から組閣の大命が下りながら、この内閣は流産した。組織防衛上の危機感を深めた陸軍が天皇の意志に反して陸軍大臣を出さないという挙に出たからだ。こうして陸軍の長老を総理・総裁に迎えることで戦争とファシズムを抑えようとした民政党や政友会の試みは挫折した。
それにしても、なぜ天皇はこのときもっと毅然とした態度で陸軍を叱らなかったのだろうか。天皇と側近たちは何をしていたのか。陸軍のこうした横暴を見逃した天皇に戦争責任を問うことはできないものか。
陸軍を抑えられる自信があった宇垣は、天皇が勅命を下して陸軍から陸相を出させるようにして欲しいと、湯浅内大臣に懇願している。しかし、内大臣は、「そういう無理をすると、血を見るような不祥事が起こるかもしれぬ」と答えた。このことについて、野坂順治さんは「昭和史の決定的瞬間」でこう書いている。
<2.26事件で斎藤実内大臣が青年将校のテロで殺されてから、わずか1年しか経っていない。後任の内大臣の湯浅が右往左往したのは、やむを得ないことであった。天皇自身も、2.26事件で信頼する側近のすべてを失っていたのである。2.26事件のときのような決断する天皇の姿をもう一度期待するのは、無理な注文だった。宇垣内閣の流産は青年将校たちの置き土産だったのである>
陸軍大将でありながら反軍拡の和平推進派であった宇垣にかわり、陸軍の強いまきかえしで首相を拝命したのは林銑十郎陸軍大将だった。この人は昭和6年の満州事変に際して、朝鮮軍司令官として独断で満州に兵を送っている。いわば陸軍精神をそのまま体現したような人物だった。
この内閣には民政党はおろか政友会からも一人も大臣になれなかった。メディアはこの「軍部独裁内閣」を「超然内閣」と呼んだ。そしてこの内閣は4ヶ月もしないうちに、予算案が議会を通った直後、突然、議会を解散した。それゆえ、「食い逃げ解散」という異名を残した。
解散の理由は、政友会と民政党を戦わせ、資金を使わせて、これらの政党をさらに弱体化させるためだといわれている。しかし、この突然の解散には何の大義名分も示されておらず、多くの人々が狐につままれたことだろう。林内閣に好意的だった馬場恒悟までが、「改造」(昭和12年5月号)にこう書いている。
<内閣が普通の常識では理解できない理由により解散を断行したことによって、内閣はその信義すら疑われている。・・・信を国民に失ってそれで政治が出来ると思うならば、それはもはや常識のあるなしの問題ではなく、精神に異常あるなしの問題になる>
以上の引用からもあきらかなように、戦時下において、「中央公論」や「改造」などの雑誌が、かなり自由に発言し、軍部や時の総理大臣(陸軍大将)に噛みついていたことがわかる。中央の大新聞だけ見ていてはわからない歴史の一面がここに読みとれる。
ところで、昭和12年4月30日に行われた総選挙では驚くべきことがおこった。25議席減らして179議席に落ち込んだ民政党を尻目に、66名の候補者を立てた社会大衆党が36名もの代議士を当選させたのだ。しかも19名は各選挙区でトップ当選。東京都の全議席31のうち8議席、大阪府の21のうち6議席が社会大衆党だった。
投票率60パーセントのこの選挙で、93万人もの有権者が社会主義政党をえらんだ。ただ、その政党は「平和」よりも「庶民の暮らし」を優先させ、そのために軍部の強力な力を頼りにしていた。社会大衆党は日本社会の改革を軍部とともに行おうと考えていた。
これが完全な片思いであることがやがて明らかになるのだが、ともかく自由選挙が実施され、労働者を基盤に持つ社会大衆党の躍進が、かえって軍部の政治的台頭に力をかすことになったのは皮肉としかいいようがない。そこで、坂野潤治さんは、「昭和史の決定的瞬間」の第五章を「戦争は民主主義勢力の躍進のなかで起こった」と題している。
この選挙の後、7月7日に日中戦争が勃発し、そして日本は全面戦争の泥沼へとひきずり込まれて行った。しかしこの泥沼にいたるまで、そこには平和を希求する様々な人々の闘争があったわけだ。こうしたことは、戦争賛美一色の大新聞の紙面からは決して見えてこない。その他の資料を読むことで浮かび上がってくる歴史の真実である。最後に坂野さんの言葉を引いておこう。
<総力戦の8年間だけから、日本精神や日本人の心を引き出してくる保守派も、この8年間だけを反面教師として、戦後の自分たちだけが真の民主主義の理解者だと誤解してきた進歩派も、自分の頭の中だけで作り上げた勝手な近代日本史像に依拠してきた点では、共通の地盤に立っていたのである。ましてや、戦後日本の民主主義を、占領軍による民主主義の移植の数少ない成功例だなどと思い込んでいるメリカ人がいるとしたら、それこそとんでもない歴史音痴であろう>
2004年09月01日(水) |
軍部を批判する地方紙 |
戦時中、昭和6年の満州事変以来、朝日新聞の論調が一変したが、そうした中にあって、地方の新聞のなかには戦争や軍部にあくまで抵抗するものがあった。たとえば昭和8年6月11日の信濃毎日新聞の評論の題は、何と「関東防空大演習を嗤う」というものだ。「朝日新聞の戦争責任」から引く。(以下の引用も同じ)
<・・・将来、もし敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ、人心阻喪の結果、我はあるいは、敵に対して和を求むべく余儀なくされないだろうか。・・・
投下された爆弾が火災を起こす以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空襲は幾たびも繰り返される可能性がある。だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである。・・・
帝都の上空において、敵機を迎え撃つような作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。特にそれが夜襲であるならば、消灯してこれに備うるようなことは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。・・・>
この論評に軍は激怒し、地元の軍人会がこれを書いた主筆の桐生悠々の退職と社長名の謝罪文の掲載を求めた。不買運動を起こして、新聞を潰すといわれ、新聞社はやむなくこれを呑んだが、桐生は新聞社を退社した後も、雑誌「他山の石」を死ぬまでの8年間刊行し続け、軍部批判はやむことがなかったという。
もう一つ、福岡日日新聞の昭和7年5月16日の社説をとりあげておこう。前日に起こった5.15事件についての論説である。
<今回の事件に対する東京大阪等の諸新聞の論調を一見して、何人も直ちに看取するところは、その多くが、何ものかに対し、恐怖し、萎縮して、率直明白に自家の所信を発表し得ざるかの態度である。 言うまでもなく、もし新聞紙にありて、論評の使命ありとせば、このような場合に於いてこそ、充分に懐抱を披瀝して、いわゆる文章報国の一大任務を完すべきである。然らずして、左顧右眄、言うべきを言わず、為すべきを為さざるが、断じて新聞記者の名誉ではない。・・・・>
福岡日日新聞は一年後の昭和8年5月16日の社説でも、5.15事件を振り返り、「憲政かファッショか、5.15事件一周年に際して」と題して熾烈な軍批判を展開している。
<・・・吾々は、明治大帝が、千載不磨の大典として、吾々に下し賜える帝国憲法を護持して、今後益々日本憲政の発展を図るべきか、それとも伊太利に於いて、ムッソリーニが敢行しているように、独逸に於いてヒットラーが模倣しているように、それを模倣していわゆるファッショに走るべきか、この問題の解決を迫られつつあることが、即ちそれである。・・・>
これらの地方紙が全国紙に比べて、軍部批判に恐れを感じなかったのは、ひとつには中央ほど統制が強烈でなかったことや、地方の民衆の支持が大きかったこともあるが、発行部数が小さいので小回りがきき、発禁や休刊、廃刊の場合のダメージが小さくてすんだこともあげられよう。
全国紙の場合は、発行部数の桁数が違い、経営上の打撃を考えてより慎重にならざるをえないということは考えられる。しかし、全国紙でも、毎日新聞は朝日新聞とは比べ物にならないほど、軍部に抵抗した。
昭和19年2月23日の毎日の社説は「竹槍では間に合わぬ」という題で、「敵が飛行機で攻めて来るのに、竹槍をもっては戦い得ないのだ」とズバリ書いている。また同時に「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」という記事をのせ、「本土沿岸に敵が侵攻し来るにおいては万事休す」とまで書いている。
東条首相はこれをみて激怒して発禁処分を命じたが、すでに新聞は配達されていて、それこそ万事休すだった。この記事を書いた新名記者は「八つ裂きにされてもかまわぬ。社も潰されるかもしれない。それでもやるほかはない」という決意で書いたという。
思った通り、東条は怒り狂ったが、いかな東条でも、朝日と並ぶ大新聞をそう簡単に休刊や廃刊にはできなかった。もしそんなことをしたら、それこそ国民が驚き、不安が蔓延することになるからだ。
しかし、これ以後、毎日も抵抗を止めた。新名記者は進退伺いを出したが、吉岡編集長はこれをつき返し、「金一封」の「特賞」を与えたそうだ。これが精一杯だったのだろう。毎日新聞は戦後、他社に先駆けて社長以下幹部が責任をとって辞任している。朝日に比べてはるかに良心的だった。
新聞が次々と沈黙を余儀なくされる中で、最後まで気を吐いていたのが雑誌だった。これは新聞に比べて、雑誌の方が小回りが利いたからだろう。さらには、広告収入の割合が新聞に比べて小さいことも独立性を維持する上で有利だった。
新聞の場合は、その収入の相当の部分を広告主から得ている。だから国民に受けることを書いて販売実績を伸ばしても、スポンサーからの収入が減少すれば、全体の収入が増えるとは限らない。経済原理から言って、新聞社は基本的にはスポンサーの意向を無視するわけにはいかない。
ちなみに、現在の日本の日刊紙の発行部数は世界第一位だという。そして全収入(広告収入+販売収入)に占める広告収入の割合は、新聞の場合は約46%だといわれている。雑誌は約18%、テレビは民放の場合はほぼ100%が広告収入である。アメリカにおける新聞社の場合は、約85%が広告収入だそうだから、日本の新聞は、広告収入の割合がそれでも低い方だ。
戦後で見ると、高度成長期の1962年から73年までは広告収入が販売収入を上わまわっていた。これは、大量生産、大量消費時代を迎えて、大企業の広告需要がましたので、新聞はこれに応えて増ページを重ねたからだ。
戦前も大正時代にはすでに新聞社はその収入の大半を広告主に頼っていた。そして戦前戦後を通じて、大新聞のスポンサーはほとんど大企業である。ということは大企業の意志がどうしてもそこに投影される。
もし新聞が大企業に不利な記事を書き続ければ、大企業はとうぜんクレームをつけるだろう。それでも改善されなければ、広告の掲載を控えるに違いない。そうすれば新聞は経営が困難になる。だから、大企業からの広告収入に依存している中央紙は、スポンサーである大企業にあまりに不利なことは書けない。テレビの場合は、さらにこの傾向が強くなる。
たとえば、日本の総輸出額の52%は、大手有名企業上位30社で占められている。その売り上げは、じつに日本のGDPの12%に達している。ところがこの30社が支払う法人税は全体の5%に過ぎない。
平均的な日本企業は売り上げの3.6%を法人税として収めているが、この超エリート30社に関してはその平均は1.4%に過ぎない。どうしてこのようなことが許されるのか。それは、この30社が政治家に莫大な政治献金をして、自分の都合の良い政策を実行させているからではないか。
そして、この30社がテレビや新聞のスポンサーだから、まず、テレビや新聞でこうした事実が報道されたり、問題にされたりすることはない。テレビや新聞などのマスメディアに登場する有名なエコノミストや政治評論家もまた、この30社から顧問料などを受け取っていることが多い。メディアリテラシーの第一として、私たちが読んだり目にしたりしているマスメディアには常にそうした広告主からのバイアスがかかっていることを認識しておく必要がある。
たとえば、小泉首相は昨年度だけで30兆円を越えるアメリカ国債を購入した。これは円高を阻止するためだといわれている。テレビや新聞は円高になると輸出産業が打撃を受けると主張し、景気を後退させないためにはやむをえないという。しかし、こうしたことは一度疑ってみた方がよい。財界は現在武器輸出3原則の見直しを求めているが、各新聞がこれにたいしてどのような対応をするか、これも一種のリトマス試験紙として注目しよう。
脱線してしまったが、戦時中の大新聞の戦争翼賛的な動向についても、国民の意識の変化とあわせ、スポンサーである大企業の意向も考えなければならないだろう。この点についいて、スポンサー収入に依存する比率の小さかった雑誌には、まだ言論の自由があったわけだ。そこでこうした有利な条件の下で、雑誌がどう戦争に向かい合ったか、当時の政治的状況もふくめて、明日の日記に書いてみよう。
(参考文献) 「朝日新聞の戦争責任」 安田将三、石橋孝太郎共著、大田出版
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