橋本裕の日記
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2004年08月31日(火) 大新聞の変節の陰で

 昭和6年の満州事変を境に、世間の風向きが変わった。そしてこれと軌を一にするように、大新聞の論調も戦争賛美へと塗り替えられていった。しかし、そうした中で、反軍の立場から抵抗し続けた人々がいなかったわけではない。東京大学名誉教授の坂野潤治さんは「昭和史の決定的瞬間」(ちくま新書、2004年)でこうかいている。

<昭和10年に美濃部達吉の天皇機関説が攻撃され、彼の主要著作が発売禁止になって以後、あるいは翌11年の2・26事件以後、日本国民は戦争とファシズムに向かう世界や日本国内の動きについて、全く情報が得られず、またそれらの動きに反対する意見表明の自由を全く持てなくなった、と今でも信じている人が少なくない。日本国民が昭和12年7月の日中戦争を阻止できなかったのは、言論と言論の自由が無かったからであると、今でも信じているのである>

<しかし、これは当時の資料を直接読まなかったという怠惰の結果作られた、誤った「伝説」にすぎない。戦争が始まる前には、反戦を説く自由も、反ファシズムを唱える自由も、全く無制限とは言わないまでも、存在しており、事実多くの政治家や知識人は、内務省検閲の網をかいくぐって、国民に情報を伝え、反戦・反ファシズムを呼びかけていたのである。いったん戦争が始まってしまえば、反戦・反ファッショの言動は禁止されるが、そのことは、報道の自由が無かったから戦争が始まったことを意味するものではない>

<報道の自由、批判的言論の自由を奪われ、軍部の無謀な戦争計画を知らされていなかったから、日本国民はあの戦争に反対できなかったという「戦後神話」は、全くの虚構なのである>

 坂野さんはこうした神話が生まれたのは、<当時の資料を直接読まなかったという怠惰の結果>だという。たしかに戦争賛美をくりかえす当時の大新聞を読んでいる限りでは、反戦や抵抗の流れはほとんど感じられないが、資料の範囲をもう少し広げてみると、様子がみるみる違ってくる。

 雑誌や地方の新聞のなかには、こうした状況に屈せずに抵抗したものがあった。その具体的例が佐藤明夫さんの「戦争動員と抵抗」や坂野潤治さんの「昭和史の決定的瞬間」の中にたくさん取り上げられている。

 国家総動員体制が確立すると、たしかに個人の自由は大幅に制限される。しかし、こうした法律を制定することを選択した段階でまだ個の自由はあった。ちなみに2.26事件の直前の衆議院選挙では、軍縮を訴求した民政党が圧勝している。

 議会での自由な発言は民主主義を計るバロメーターである。昭和12年1月の帝国議会で、浜田国松代議士は、寺内陸相を相手に、「最近の軍部をみるに、あなたがたは独裁の道を歩んでいるのではないか。軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と噛みついている。このあと陸相に「腹を切れ」と詰め寄り、内閣が解散するわけだが、この段階でまだ議会はまだ余命を保っていた。

 議会が死んだのは、昭和15年、民政党の斎藤隆夫代議士が「聖戦の意義」を問う「反軍演説」をしたのに対し、議会自らが軍部に荷担して彼を除名し、「聖戦貫徹に関する決議案」を可決したときだ。

 日本は民主主義の遅れた国だったというのは戦後作られた神話の一つである。日本ではすでに世界に先駆けて男子普通選挙法が施行されてい。成年男子は選挙権をもっていたし、国会で予算が通らなければ、軍部がいくら戦争をやりたくても軍資金がえられず、戦争ができないことは今も昔も同じである。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」といわれる。しかし、みんなで渡った結果、ひどい目にあったのが、先の15年戦争であり、80年代のバブルではないか。しかしこれは何も日本だけのことではない。アメリカでもベトナム戦争に反対票を投じた議員はたった2人だけだ。アフガン爆撃に反対票を投じたのはたった一人だけだ。

 昭和6年の満州事変以前は、国民の大半は戦争に反対だった。満州事変以後、雰囲気がかわったが、まだ反対する人々がいた。大新聞はこうした人々を見捨てて、戦争の側につき、これを弾圧することに手を貸した。そして戦争中に部数を大幅に伸ばし、軍人達と酒を飲んで我が世の春を歌っていた。

 大新聞は戦時中戦争を賛美し、これに反対する人々に対して加害者であったことを少しも反省せず、いつか自分たちをかわいそうな被害者に仕立て上げた。この姿勢は、国民を無謀なバブルへと誘導した現在の大銀行の姿勢とそっくりである。

 こうした大新聞の変節を尻目に、果敢に軍部に抵抗し、戦争阻止へと動いた多くの人々がいたことは特筆に値する。明日の日記でもう少し具体的に紹介しよう。


2004年08月30日(月) 日本のマスメディアの体質

 終戦後、戦争に協力した新聞社は、あいついで反省の弁をかかげた。朝日新聞の場合も「自らを罪するの弁」を掲載した。しかし、そこに書かれていることは、抽象的で、いったい何を反省しているのか、その内容がはっきしりない。

 11月7日の「国民と共に立たん」では「罪を天下に謝せん」となっているが、これもどんな罪かはっきりしない。つまり戦争責任の内容が明らかではないので、全体として、国民への謝罪というよりは、言い逃れのような印象を与える。

 この頃、東久邇首相が「一億層懺悔」という言葉を使っていた、これは「アメリカに勝てなくて天皇陛下に申し訳ない。みんなで陛下にお詫びしよう」ということだった。おそらく朝日の戦争責任もこのレベルだったのだろう。

 8月15日の朝日の朝刊(玉音放送の後で編集・印刷されたので配達されたのは15日午後)を見ると、コラム「神風賦」では「責めは何人が負うべきか、などというなかれ」と書かれている。「玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙」というセンチメンタルな記事には、記者自らが「天皇陛下に申し訳ありません」と叫んだと書いてある。

 この同じ8月15日に、ニューヨーク・タイムズはこう書いている。情緒的な日本の新聞と、冷静に戦争の現実を振り返り、将来を展望しているアメリカの新聞の対照が鮮やかだ。「朝日新聞の戦争責任」から孫引きしよう。

<国家に敗戦と不名誉をもたらしたこの日は、日本人が後に振り返れば、いまだかって知らなかった最良の日になるかもしれない。天皇はもちろん、特権的な軍人や財閥にとってではない。最良の日となるのは数世紀にわたって政治的にも経済的にも解放されない情況で、苦しい労働と借金に耐えてきた日本の民衆である。

 連合国は、日本に民主主義的傾向を復興、強化するのに障害となるものを排除し、言論、思想の自由を確立することを約束した。帝国主義時代の日本では、集会で好ましくない話が出ると警察は集会を止めさせ、そのリーダーを逮捕できた。思想の自由というのは、邪悪な思想の持ち主という理由では逮捕できないということを意味するのである。

 諸権利に関する法案が経済分野まで拡大されれば、日本の民衆は、その労働に対して相当の対価を期待できることになる。農民は収穫物の半分の価値の地代を支払う小作人生活から抜け出して、自分で土地を所有するのが可能になるかも知れない。日本の次世代は、これまでのような富裕な地主、銀行家などの恩恵によってではなく、自らの知性と努力による経済的地位向上を期待できる。

 日本が独自にこうした変革を行っていたら、状況はもっとよかっただろう。しかし、日本人が民主主義を学びたいと思い、その価値を認めれば、民主主義は今や外からもたらされ得るのである>

 戦時中、軍部や世論に阿り、生き残ることを至上命題とした日本の大新聞に、これだけの冷静な知性を期待することは無理だろう。彼らはサバイバルしただけではない。戦争を奇貨として販売部数を大いに伸ばした。戦争によって流された数千万の人々の血によって肥え太った。その様子が朝日新聞の「発行部数」の統計からわかる。

 朝日新聞の総販売部数をみると、昭和5年には168万部だったのが翌6年には143万部に落ち込んでいる。これは戦争に慎重な朝日に対して広告の停止や軍部・右翼主導の「不買運動」が功を奏したためと思われる。

 ところが「戦争賛美」に転換したあとは、うなぎのぼりに部数を増やしている。5.15事件があり、犬養首相が殺された昭和7年の発行部数は182万部だ。22.6事件が起きた昭和11年は230万部。昭和15年には初めて300万部を突破し、敗戦もおしせまった昭和19年には370万部まで売り上げを伸ばしている。

 これは朝日新聞が全社を挙げて、戦争を賛美し、威勢よく国民をあおりつづけた結果だ。新聞社にとって、戦争はおいしいごちそうだった。多くの新聞は戦後はすばやく左派に衣替えして、こんどは民主主義の旗を振ることで部数を伸ばした。そして現在はまた保守化している。なんという時代迎合かとあきれざるを得ないが、これが日本のマスメディアの水準である。戦争中とそれほど変わっているとは思えない。


2004年08月29日(日) 日本はいまだ占領下

 沖縄県宜野湾市で13日に起きた米海兵隊所属の大型輸送ヘリ墜落事故からもう16日がたった。米軍は「日本は通常、合衆国軍隊の財産について捜索、差し押さえまたは検証を行う権利を行使しない」という「地位協定23条」をたてに、沖縄県警沖の現場検証を拒否している。

 米軍基地を抱える都市の市議ネットワーク「追跡!在日米軍・リムピース」のメンバー、田村順玄・岩国市議は東京新聞8/20の「日本、いまだ占領国」の中で次のように語っている。

「小泉政権は公共事業締め付け政策を進めるが、在日米軍基地整備など“思いやり予算”は聖域扱いで、ゼネコンが絡んだ利権の温床になっている。例えば岩国基地拡張工事では、約三千億円の予算投入が見込まれる。普天間から移設が予定される名護市辺野古の事業でも同額の予算が必要だ。米軍の陰でうまい汁を吸う政治家は何も言えない」

また同じく、軍事評論家の神浦元彰はこう語っている。

「米軍基地がある地域の土壌はダイオキシン類で汚染される場合が多い。現地では『(汚染土を)海上投棄するために事故機で運搬していたので、米軍が隠ぺいを図った』という見方や、現場検証などで米兵がガイガーカウンターを持っていたという話から、『劣化ウラン弾を海中投棄目的で搭載していたのでは』との推測まで出ている」

 元「航空ジャーナル」編集長で評論家の青木謙知氏は「ドイツでは同様の事故で警察が現場検証できる。しかし、韓国は日本と同様に制限される。日米地位協定が不平等のまま放置されてきたことこそ問題」と強調している。30年前の横浜の墜落事故でもパイロットの事情聴取はまったくできなかったそうだ。三十年近くたっても事態は変わっていないわけだ。

 普天間飛行場を抱える宜野湾市は市の25%が基地で占められているが、事故対応に追われる同市基地渉外課の担当者は次のように語っている。

「基地所属のヘリ56機中20機がイラク戦争に配備されていると米軍の外交政策部から教えてもらったが、今回の事故機はローテーションで各基地をまわっており、もともと、どんなヘリが何機ここにあるのかさえ分からない。・・・

 復帰前の59年6月、石川市の小学校に米軍ジェット戦闘機が墜落、児童11人を含む17人が死亡した。基地を抱え込むように住宅があるこの街では、パイロットと目が合うくらいヘリとの距離は近い。事故後は、飛行機の爆音を聞くだけで胸が締め付けられると訴えてくる市民もいるんです」

 沖縄県知事の要請や、沖縄県民の反対にもかかわらず、米軍は22日には同型ヘリの飛行を再開させた。これに対する日本政府の反応は鈍く、官房副長官がこれに抗議しただけである。ようやく27日になって、関係閣僚会議がひらかれ、「対応が適切であったかどうか、米国側と協議する」方針を決めたが、小泉首相の肉声がほとんど聞こえて来ない。

 政府・与党内には「地位協定」の見直しは必要なく、運用面で米国に善処を求めるという声が多いようだが、私は安保条約も含めて、根本の安全保障体制を見直すべく、世論が動く必要があると考える。戦後60年近く経過し、そして1989年11月6日にベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終結して15年近くなるというのに、いまだに日本が4万人あまりもの外国の軍隊に占拠されているいう現実の異様さに目をむけるべきではないか。 

 アメリカ軍の全兵力は2000年の段階で138万人である。米本土・属領に113万人、海外に26万人が駐留している。海外の陸上配置部隊は約21万人で、NATO諸国とアジア・太平洋地域に約10万人。国別の陸上配置駐留軍人の数はドイツが最大で6.9万人、ついで日本が4万人、韓国が3.7万人イタリアとイギリスが各1.1万人となっている。

 米軍は「一つの大戦争と、1−2カ所の小規模戦争を同時に戦えるようにする」という2方面戦略をとってきた。そのために日本の米軍基地と自衛隊を最大限活用したいというのがアメリカの戦略だったわけだ。

 現在アメリカ国防総省は、米軍が「最初の10日間で戦地に展開し、次の30日間で戦争に勝ち、その後の30日間で帰国して次の戦争の準備をする」という「10−30−30」計画を実現するための米軍の構造改革を進めているといわれている。つまり、少数精鋭のハイテク部隊が速攻で戦争を展開することで、合計2カ月と10日間で一つの戦争を終えられ、米軍は年に5回の戦争を戦えるようになるわけだ。

 これまで最大の米軍を受け入れてきたドイツでも、戦後は戦争責任を明確にして近隣諸国と友好関係を築き、冷戦終了後は、これを背景にアメリカと交渉して、どんどん米軍基地を縮小してきた。アメリカ政府はドイツから一個師団1万5千人を撤収する予定だそうだ。ところが日本政府は潤沢な予算までつけて、米軍を駐留させている。

 米軍駐留経費の日本側負担は、2004年度でみると、基地用地賃借料などの1820億円に加え、在日米軍が使用する施設・区域の提供施設整備費など、いわゆる「思いやり予算」と呼ばれるものが約2441億円もあり、あわせると4000億円を越えている。これは政府が中小企業対策に使った予算1738億円の2.5倍だ。

 アメリカ政府は、在韓米軍3万7000人のうち1万2500人を、2005年末までに削減することを明らかにしている。在日米軍についは、アジア太平洋全域を担当する陸軍第1軍団司令部がワシントン州から神奈川県のキャンプ座間へ移転する、また航空自衛隊の航空総隊司令部を米軍横田基地が受け入れるよう日本政府に要請しているようだ。そのねらいは衛隊を米軍と一体化し、これを自らの指揮下におくことだろう。

 どうじに、沖縄の第3海兵師団第12砲兵連隊を北海道の陸上自衛隊矢臼別演習場へ移転するなどとしているが、こうした新戦略のもとでも日本のアメリカ軍基地が大幅に撤収されるとは限らない。日本にアメリカ軍の精鋭基地をおき、自衛隊をその指令のもとに手足として活動させることがアメリカのねらいだからだ。

 こうしたアメリカの世界戦略に協力すべく、日本は武器輸3原則をかえ、また憲法まで変えようとしている。これはますます米軍の日本の占領を長引かせ、日本の独立国としての威厳をそこなうものだ。

 日本から米軍基地をなくさない限り、日本はほんとうの独立国とはいえないのではないか。外国の軍事基地がある以上、主権国家ともいえない。戦争で死んだ人たちがこのていたらくを見たら、あきれかえり、嘆き悲しむに違いない。

 それでは日本から米軍を撤退させるために何をしたらいいのか。それは先の戦争責任を明確にし、近隣諸国と友好をはかることである。首相が戦犯を祭った神社に参拝を繰り返しているあいだはまず無理だろう。

(参考サイト)
http://tanakanews.com/blog/0404190112.htm

http://books.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/excite/
sample/enquete/040624.html


2004年08月28日(土) 自らを罪するの詭弁 

 戦争中の報道姿勢について、朝日新聞は敗戦から8日目の8月23日の社説「自らを罪するの弁」で、ようやく自らの侵した戦争責任にふれている。

<敗戦の責任は決して特定の人々に帰するべきでなく、一億国民の共に負うべきものであらねばならぬ。さりながら、その責任には、自ずから厚薄があり、深浅がある。 特に国民の帰趨、世論、民意などの取り扱いに対して最も密接な関係を持つ言論機関の責任は極めて重いものがあるといわねばならない。吾人自ら如何なる責任も如何なる罪もこれを看過し、これを回避せんとするものではない>

 毎日新聞は8月20日が社長が責任をとってやめているが、朝日の幹部はほとんど辞めようともせず、この自らの戦争責任に触れた社説でも「決して特定の人々に帰するべきでなく」と、幹部の責任はあいまいにしている。戦後も、朝日新聞の上層部は、責任感が極めて希薄であったといわなければならない。

 敗戦とともに、朝日では責任のなすりあいがはじまり、内紛が生じて、その結果、何人かが辞職に追い込まれているが、そのうちの一人の鈴木文四郎が「中央公論」(昭和23年2月号)こんなことを書いている。「朝日新聞の戦争責任」より孫引きしよう。

<軍人と酒を飲み、晩飯を一緒にするのを誇りとしていた男が、あるいは陸軍省の「指導記事」の作文まで得意になって手伝っていた男が、あるいは軍官の命令の先走りをして統制の強化を絶対必要と常に説いていた男が、あるいは天皇の神性や「みいくさ」の「深遠」な意義を狂信的国学者のお株をとるつもりで書いていた男が、それまで書き続けてきたものとは対蹠的な作文を書き出して、読者が、少なくとも識者が、これを納得していると思ったら、それは世間様というものを余りに甘く見るものではなかったろうか?>

 朝日は昭和20年11月7日になってようやく「国民と共に立たん」という社告を載せ、「幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判を十分に果たし得ず、またこの制約打破に微力」だったことを反省し、社長以下重役が総辞職して責任を取ることを明確にした。

 しかしこれも、わずか33行の文章で、一面下方に小さく目立たないように掲載されただけ。自らの戦争責任にふれた内容はきわめて抽象的な一般論でしかない。しかも、数年後、辞職したはずの村山社長は会長に返り咲き、さらに社長に復帰して、昭和39年まで経営の実権をにぎっている。上層部の辞任劇は国民を欺くための、とんだ茶番だったわけだ。

 同様なことが他の新聞社でも起こっている。たとえば読売新聞社は朝日新聞よりはるかに戦争遂行に協力的だったが、社長の正力松太郎は社員大会で辞任が要求されたにもかかわらずこれを拒否、GHQから戦犯容疑指名を受けて、昭和20年12月にようやく辞任することを表明した。しかし彼も昭和26年に社長に復帰して、昭和44年まで経営の実権を握っている。

 私が思うところ、新聞などというものは今も昔も、やはり経営が第一だということだろう。国民が軍隊を批判していた昭和6年までは、大いに軍部独裁を批判して国民の喝采をかっていた。たとえば、この年の4月19日の社説では「内閣の決心を示せ。軍備整理の実現につき」と軍縮を強く求めたものになっている。満州事変の始まる前日の8月8日の社説でも「軍部と政府、民論を背景として正しく進め」と題し、次のように書いている。

<少なくとも国民の納得するような戦争の脅威がどこからも迫っているわけでもないのに、軍部はいまにも戦争がはじまるかのような必要を越えた宣伝に努めている。・・・
 現内閣は国民多数の支持するところだ。ことに軍備縮小の旗印が、国民の支持するところであることは、疑いを容れることのできぬ事実である。・・・
 世論に通用せぬ訳の分からぬことをいう軍部の腰はなかなか頑強であるやに伝えられる。現内閣は正義と民論を背景にしてどこどこまでも無理を圧して道理を通さねばならぬ>

 ところが、満州事変を境に論調がみるみる変わっていく。たとえば10月1日の「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」と題した社説では、「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と書いて、事変が起こる前まで「満州は中国の一部」としてきた主張を完全に黙殺している。

 満州事変の真実を追究せず、軍部の発表を丸飲みし、なぜこうも素早く戦争賛美に転向したのか。戦後の自己弁明によると、それは軍部や右翼の圧力があったからだそうだ。たしかにそれも要因には違いない。しかし、もっと大きな要因は、戦争賛美の「民意」がにわかに大きくなったからだ。それまでも朝日新聞は右翼や軍部からいやがらせを受けていた。しかし、世論が軍部に批判的で、新聞が売れている間は屈しなかった。

 ところが満州事変を境に、世間の風向きが変わった。つまり、戦争反対では新聞が売れなくなった。他社は号外まで出して、どんどん稼ぎまくっている。これを尻目に、武士は爪楊枝とばかりはいっていられなくなった。だから、この180度の転換は、実のところ、経営戦略の転換だった。しかし朝日新聞の転向によって、反軍の世論はそのもっとも頼りとする足場を失い、軍国主義が雪崩を打つように日本全土を覆うようになって行った。

 今日朝日新聞は反戦平和を旗印にして、良識を感じさせる紙面作りをしている。しかし、世論は右傾化しつつある。しだいに新聞が売れなくなったとき、おそらく朝日の論調も変わって行くことだろうし、その兆しはもう感じられる。商業主義によって生きている新聞の主張する正義や世論など、あまりあてにならないものだと心得ておいた方が無難かも知れない。


2004年08月27日(金) 小淵沢への旅

 昨日、今日と、1泊2日で夜間高校時代の同僚達と小淵沢へ遊びに行ってきた。もう20年近く、毎年続いている旅だ。メンバーは私を入れて6人。私が一番の若年で、すでに定年退職などで3人が教職を離れている。

 教科は社会科、英語科、国語科、体育科、数学科とバラエティにとんでいる。残念ながら、男ばかりのむさ苦しい一団だが、これもまたざっくばらんでよい。20年近く続いているから、ずいぶんあちこち旅行した。奈良や京都、大阪から甲府や箱根、新潟など、最近では信州も多い。

 温泉につかって、酒を飲みながら、時事問題、宗教、哲学、家庭問題から恋愛問題など、いろいろと夜遅くまで語り合う。キリストを信じている人もいれば、曹洞宗の寺の住職をしている人もいる。いろいろな角度から人生を語り合うのも楽しいものだ。

 今年は小淵沢で一泊し、メンバーの一人が持っている別荘なども訪れた。八ヶ岳の風景を楽しみ、シルクロード美術館、八ヶ岳美術館を訪れた。この夏は青春切符も買いそびれ、旅行らしい旅行はしていなかったので、これが最初で最後の旅ということになった。旅の思い出として目に浮かぶのは、赤松の林と風に揺れるコスモスである。

 さわやかにコスモスゆれて山青し  裕


2004年08月26日(木) ジャーナリズムの戦争責任

 8月14日のNHKスペシャルで、「遺された声〜録音盤が語る太平洋戦争〜」が放送された。中国吉林省で満州の国策会社・満州電電が戦時中に放送したラジオ番組の録音盤2200枚が発見され、そこには戦況報道にまじって特攻隊員の遺言や開拓農民の声などが数多く録音されていた。

 番組ではその声を紹介していたが、どの声も元気で明るく模範的なものばかりだ。しかし、番組はそうした声を残した人々の足取りや背景をたどり、戦争の実態にせまろうとしていた。

 録音盤に「お国のために」と勇敢な遺言を残していた特攻隊の青年は、その前夜、ベッドで泣いているところとを目撃されていた。「開拓地にきて飯が食えるようになった、良かった」と威勢よく言っていた開拓民の農夫は、実は荒れ地で作物が実らず、妻を病気で亡くし、一家心中を思いつめていたことを、生き残った息子が、レコードの声を聞きながら話していた。

 レコード盤の声が伝える内容と、その現実にあったことの何という大きなギャップか。その結果、戦争の悲惨は伝えられることはなく、ただ美化された偽りの現実ばかりがラジオで宣伝され、そのプロパガンダによって、多くの人々がさらに悲惨な戦争へと動員されて行ったわけだ。

 国会図書館でかっての新聞を読んときも同じ感想を持った。戦時中は、朝日、毎日、読売などの大新聞もただ、戦争翼賛、軍隊賛美一色で、戦争遂行のための強力な宣伝機関と化していた。ラジオや新聞はいずれもこうした役割を担っていたわけで、その責任は大きいといわねばならない。

 朝日新聞の「天声人語」は、戦時中は「神風賦」(しんぷうふ)と題されていた。それがどんな内容だったか、手元にある「朝日新聞の戦争責任」(安田将三・石橋孝太郎共著、大田出版)から引いてみよう。

<米英兵といえども一応は勇戦奮闘する。しかし、計算上どうしても勝味なしとわかれば、潔く手をあげて捕虜となる。 彼らは決して捕虜を不名誉とせず、むしろ定められた義務を果たした勇士として、これを英雄視する。

 忠誠とか犠牲とか、崇高なる精神を表現する言葉はむろん米英にもあるが、それが行為となると彼らには踏み越え難き一定の限度のあることが知られる。 もっとも稀には、その限度を越えるものもあるが、やはり冒険心か、あるいは単なる英雄主義に出るものと見るべきだろう。

 わがアッツ島における玉砕勇士の場合は、これとは全く趣を異にし、その忠誠勇武、誠に言語に絶するものがある。 これこそ名を求むる英雄主義ではない。己を全く捨て、ひたすら中心に帰一し奉る万古不易の日本精神の発露に外ならない。

 平素はいわゆる英雄豪傑型の人とも思われず、むしろ平々凡々たる人間であっても、苟も日本人たる以上、例外なく「玉砕」の精神がその血管内に脈打っている事実がここに立証されたと言える>(昭和18年8月29日朝刊)

 「全滅」という言葉のかわりに「玉砕」という言葉を使ったのは朝日新聞がはじめてだという。大新聞はこぞって華々しい戦争記事を書き、発行部数を大幅に伸ばした。それまで朝刊だけだった各紙が、このころから夕刊を出すようになり、それをまた国民は待ちかまえていて読んだわけだ。

「戦争」によって一番儲けたのは三井、三菱などの財閥の経営する軍需産業だろうが、ジャーナリズムも大いに余沢で潤ったらしい。ある新聞記者の回想記によれば、このころ新聞記者の得意話の第一は、「偉い軍人さん」と同席して酒を飲んだことだという。もうひとつ、終戦の日(8月15日)の「神風賦」を引用しておく。

<生をこの神州に享けたものに取って、これほど大いなる歴史的事実はない。事ここにいたって、多くいうべきではない。・・・

 戦いは事志とは違った。何故事ここに至ったか、いやしくも責は何人が負うべきか、などというなかれ。顧みて他をいうのをやめよ。各人、深く静かに思いをひそめて、自ら反省すべきである。・・・

 国民の当面の心構えは、如何なる事態に直面するとも、毫末も取り乱さぬ意志の強さを持つことである。・・・

 今日の日本国民が持つべき唯一の道義は、あくまで国の組織力を信じることである。国の組織力は協心戮力の大和心にある。一億同胞、骨肉相翼ける心にこそ、国の結合力が存する。・・・>

 自らの責任を棚に上げて、「各人、深く静かに」などというのは、いかにも虫がよすぎはしないか。私は「神風賦」の後身である「天声人語」を愛読している。その朝日新聞が戦時中ジャーナリズム精神を放擲して、国策遂行の奴隷もしくはリーダーとなり、こうした恥ずべき姿勢で敗戦を迎えたのは残念でならない。ふたたび、日本の新聞がこうした醜態を演じることがないことを祈りたい。

(今日から1泊2日で小淵沢に行って来ます。明日の日記の更新は夜になると思います)


2004年08月25日(水) 日本はオリンピック一色

 オリンピックで日本のメダルラッシュが続いている。柔道、水泳、体操、レスリング、マラソンなど、毎日のようにメダルが日本人選手の首にかけられ、オリーブの月桂冠が頭を飾っている。私もいつになくテレビの前に坐る時間が増えた。

 アスリートたちの鍛え抜かれた肉体と、その緊張した精神の美しさは見ていて気持ちの良いものである。そして、そこに応援する人々の必死の願いがあり、涙と歓喜の物語がある。スポーツ番組など縁がなかった私が引き込まれて見ていた。

 テレビばかりでなく、新聞もオリンピック一色である。毎日、日本人選手の大きな顔写真が出ている。柔道のやわらちゃんと水泳の北島選手は知っていたが、他は名前も顔もしらない人がほとんどだった。それがいつの間にか野口みずき選手の名前や顔を覚えている。

 毎朝、いい笑顔に出会う。「よかったね」と祝福してあげたくなる。毎日をこんな明るい記事で始められるのはありがたいことである。しかし、ふと、新聞の片隅においやられた記事に目がいく。そうか、世の中はオリンピックばかりではなかったのかと、あたりまえのことに気がつく。折しもインターネットで浅井久仁臣さんのこんな文章を読んだ。

<このところのマスコミ、特に新聞各紙の紙面作りが悲惨です。昨日の朝刊に至っては、高校野球の決勝戦の翌日という事もあって、讀賣新聞は40面の内8面を、朝日も36面の内9面を全面スポーツ記事で埋め、他にも一面の約8割を、社会面2ページの7割を、そして他にも社説など各面で派手な見出しを付けてスポーツを報道をしています。

 他に、讀賣が13ページを、朝日が10ページを全面広告、またその他に全てのページに亘って広告がかなりスペースを取っています。つまり、自前の記事は全紙面の3割程度という体たらくです。こんなものを発行しておいて、「日本を代表する」新聞などとぬけぬけと言う新聞社の人たちの神経が私には理解不能です。ちなみに、米英の高級紙と言うか、「オピニオン・リーダー」的役割を担う新聞は、通常とそれほど大きく違うことはありません>

 何日か前の朝日の「天声人語」に、ペルシャ王クルクセスが古代ギリシャへに遠征したときの話が紹介されていた。クルクセスが前に引き出されてきたアルカディア人の男にギリシャの動向を尋ねると、「いまオリンピュア祭を祝っているところで、体育や馬の競技を観覧しています」と答えた。

 王が「商品は何か」と訊くと、男は「オリーブの冠が与えられる」と答えた。それを聞いたペルシャの武人が、「ああ、何という人間と戦わせてくれたことか。金品ならぬ栄誉を賭けて競技を行う人間とは」と嘆いたという。(ヘロドトス「歴史」)

 現代の選手には名誉の他に金銭的な見返りもないわけではない。そもそもオリンピックでメダルを取るためには、個人の力だけではむりである。国家や企業のサポートがなければならない。今回のメダルラッシュの背後には、日本の大企業の業績回復も影響しているのかも知れない。

 しかし、今はひとときそうした俗世の思惑を離れて、アスリートたちの活躍に賞賛を送りたい。いましばらく、彼らとともに夢を追っていたい。と、ここまで書いてきて、ふいにあることに気付いた。図書館で見た戦時中の新聞もこんなふうに賑やかで勇ましかったなと。


2004年08月24日(火) 子供たちの戦争

 終戦記念日の8月15日に放送されたNHKスペシャル「子供たちの戦争」には、「昭和館」に寄贈されたさまざまな資料や、そしてそれを寄贈した人々の思い出を通して、戦時下の子供たちの様子や、そのころの人々の生活がよく描かれていた。

 国策にそった軍国主義教育によって、おびただしい軍国少年や軍国少女がつくられた。番組では、高齢者となった彼らが、かっての戦争についてどう考えているのか、その複雑な心境が紹介されていた。

 子供たちに「千人針」をつくってもらって、戦場に赴いた教師は、「子どもたちに命の大切さを教ええられなかった」ことを悔やみ、再会した教え子達に「すまなかった」と繰り返していた。

 好きだったのらくろの漫画もいつかもの足らなくなるほど軍国主義に染まっていった軍国少女がいた。彼女は学校の教室が軍需工場なり、そこで敵を倒す兵器をつくることになったことに、むしろ誇りさえ抱いていたという。戦後焼け落ちた学校の敷地で見つけた爆弾を作る工具を、彼女は戦争の記念として昭和館に寄贈した。

 戦死した兄が戦地から送り続けた手紙を寄贈した人もいた。彼は出征する兄を見送るときも、兄の戦死の報を聞いても、涙ひとつ流れなかったという。出征を一家の誉れとして喜び、戦死も又お国のために身を捧げたあかしである。軍国少年だった彼も兄の死をそのようにしか理解していなかった。その彼が、番組の中で涙を流しながら葉書を見つめていた。

 学童疎開で長野に行った少女は、疎開中に東京の家が空襲で焼かれ、祖母や母、兄弟をみんな失った。そして、戦地にいた父からの手紙も二通届いた後、途絶えてしまう。戦後、父の戦死の報を親戚の家で聞いた彼女は、自分が孤児になったことを知った。

 少女は死にたいと思ったが、自分が死ねば家族の記憶は失われる。疎開した意味もなくなる。そう思い返した彼女は、父が戦地から寄越した二通の手紙を肌身に付けて困難な人生を生き抜いた。今その手紙をあえて寄贈したのは、戦争によって引き裂かれた家族がいたことの証を後世に残しておきたかったからだという。

 先の戦争で、撤退することも、投降して捕虜になることも許されなかった多くの兵士や民間人が、言語に絶する悲惨な最期を遂げた。沖縄でも勤労学徒や住民の集団自決など、数多くの悲劇が起こった。これは上層部の無能と無責任に加えて、「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず」の軍国主義教育の呪縛があったからだろう。

「戦陣訓」を発布した東条英機は、戦後ピストル自殺に失敗し、GHQの捕虜になっている。阿南大将など少なからぬ軍人が切腹して果てたなかで、東条は武人らしくないという批判を受けた。戦争の最高責任者でありながら、戦犯であることをまぬがれた昭和天皇はこんな言葉を残している。

「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどつたことである。…我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。…軍人がバツコ(編注、いばっていること)して大局を考へず進むを知つて退くことを知らなかつたからです」(「皇太子への手紙」)

「私がもし開戦の決定に対して「ベトー」(拒否権)をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても、結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。」(記者会見で)

「戦争責任についてどう考えているか」との質問に、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」(記者会見で)

 かって軍国少年であり、軍国少女であった方々は、昭和天皇のこの言葉に何を思うだろう。そして、NHKの番組に写し出された戦争中の自画像を、どんな思いでご覧になられたことだろう。戦争を知らない私でさえ、涙があふれそうになった。体験された方々は、万感胸に迫るものがあったのではないかと推察する。


2004年08月23日(月) アテネ帝国の滅亡

 私はギリシャを高く評価している。真理と善と美に輝いたギリシャ、民主主義を実践した国、そしてその成果は現代社会に受け継がれた。アクロポリスの丘に残るパルテノン神殿は真理と美の栄光の象徴である。

 ペルシャを破り、黄金期を築いたギリシャだが、その後、アテネとスパルタが争いを始め、30年間続いたペロポネソス戦争(前431〜前404)によってその栄光が完全に失われることになった。その過程を、同時代の歴史学者ツキジデスが描いている。たとえばアテネ同盟軍によるメロス島の攻略を見てみよう。

 前416年、アテナイ同盟軍は、ペロポネソス半島東海岸に近いメロス島に兵を進めた。そしてそこに住むスパルタ系の住民を降伏させるための使者を送る。そのときの使者の言葉を、ツキジデスの『歴史』第5巻から拾ってみる。

「よろしい、我々自身も美辞麗句を弄して、ペルシアを打ち倒せるが故に当然の支配権がアテナイにあるとか、諸君から何らかの被害を受けているが故に今、攻撃の手を伸ばさんとしているとかなどと長広舌をふるう意図はない。諸君もまたスパルタ系移民ではあるが、反アテナイの軍に参加しなかったとか、我々に何らかの危害を加えた覚えがないとか論じ立て、それによって我々を説得しようなどとの心算にはならないでもらいたい」

「現実的人間の言葉を使えば、正義の問題は対等の力関係が存する時のみ論ぜられ決めさせられるか、力が不均衡の場合には優者は現実に可能な方策を実行に移し、劣者はその点において譲歩あるのみ。これこそ我等双方ともに、とくと承知の道理である」

「諸君は最悪の経験をなめることなく、従属の地位を得、我々は諸君を破滅せしめることなくして搾取し得るであろうからである」

「諸君が我等に対して向ける憎悪こそ、我等の支配が強力になることの証しである」

「神も人間も、強きが弱きを支配することの必然なるを、我等は明白なる事実と信ずる」

 交渉は決裂し、メロス人は戦ったが、圧倒的なアテネ同盟軍に町は包囲された。降伏したメロスに対して、アテネ軍は成人男子全員を処刑し、婦女子を奴隷とした。そしてアテネはこの島に500人の入植者を送り込み、植民地としたのだった。

 これが民主政治の雄とされたアテネが行ったことである。ペリクレス(前495〜前429)が戦争で死んだ戦士を追悼するこんな演説をしたのは、わずか14年前の前430年だった。

「われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる」

 ペリクレスはこの演説をした翌年に死んでいるが、その後のアテネの精神の荒廃は目をおおうばかりである。ツキジデスによると、ギリシャはこの戦争によって滅びたのだった。彼は「戦争は暴力の教師である」「人々は善人たることを恥とし、悪人たることを誇りとした」と書いている。

 攻略した都市の成人男子市民を全員殺害し、婦女子を奴隷にする例は、スパルタの場合もおなじだった。しかし、こうしたことが、ペリクレスなきあとだとはいえ、ソクラテスやプラトンが存命中の民主国家アテネの人々が行なっていたというのはギリシャびいきの私としては残念である。

 小田実さんは、こうしたアテネをさして「アテネ帝国主義」と呼んでいる。たしかに、ツキジデスの描くアテネはこの言葉にふさわしい冷酷な軍事的侵略主義の国家であった。このアテネの轍を、私たちは踏んではいけない。折しも第6回オリンピックがアテネで開催されているが、ギリシャ人として自らの国の歴史を冷静に書き残したツキジデスの平和への祈りも、私たちは大切に受け継ぎたいものだ。

(参考サイト)
http://www.kumagai.ne.jp/column/


2004年08月22日(日) 法華経が語る宇宙の真実

 私が法華経に出会ったのは20年ほど前のことだった。学生時代にすでに大学の図書館で読んでいたが、どうしても理解できなかった。それでその頃法華経をすすめてくれた友人からの手紙に、「あんなものは下らない」と返事を書いた。

 私は高校時代から親鸞の「歎異抄」に傾倒しており、その関係でいろいろな仏典をのぞいてみたが、たいして感銘をうけたという経験がなかった。生き生きした新約聖書の言葉とくらべると、格段に魅力が乏しいように思われた。法華経もこのたぐいだと思った。

 友人から折り返し、「法華経を誹謗しないほうがよい。君のことが心配だ」と返事がきた。私はこの手紙に腹を立てた。私は地獄や極楽を説く宗教が大嫌いだった。現世利益をとく宗教も軽蔑していた。仏罰などあるわけがないと思った。

 ところが手紙を読んでから、急に体調が悪くなってきた。発熱や発汗、嘔吐があり、食事が喉を通らなくなった。学校を休み、毎日病院で点滴を受けていたが体は衰弱するばかりだった。血液検査をしてもらったが、医者も原因がわからないらしい。

 病院からの帰り、「君のことが心配だ」という友人の言葉が浮かんだ。心が弱っていた私は、「何を馬鹿な」と否定するだけの元気がなかった。そのままふらつく足取りで書店に入り、「法華経」を買った。そして家に帰ると、病床でそれを読み始めた。

 体が衰弱していたのに、頭の方はよく澄んでいた。いままでになく、法華経の文章がすらすらと入ってきた。しかも、その言葉がとてもすばらしく甘美に心に響いてきた。次第に快い興奮に誘い込まれ、重病であることも忘れて、この法典を読みふけった。

 その日の夕方、はじめてお粥が喉を通った。それから夜遅くまで読みふけり、明くる日の昼頃までに読み終えたが、その頃はもうすっかり体調がよくなっていた。病気になる前よりも体が軽く、気分は清々しく、私は身内から力があふれ出るのを感じた。とても病み上がりだとは思えない足取りで、私は勤務先の夜間高校へ出かけた。

 これは今思い返してみても不思議な体験である。天国や地獄、仏罰などは今も信じていない。これは単に、友人の手紙で悪い暗示をかけられたせいだと思っている。「法華経を読む」ことでこの心理的呪縛から解放されたのだろう。

 しかし、これは決して私にとって悪い体験ではなかった。それどころか、法華経に出会えたことは、「歎異抄」や「万葉集」に出会えたこととともに、私の人生にとってとても貴重なことだと思っている。

「われ、かって誓願をたて、一切の衆生をして、われに等しき者となすことを欲せり。この誓願今すでに成就す。われは一切の衆生をして、すでに仏道に入らしめたり。心に大歓喜を生ぜよ」(方便品) 

「衆生劫尽きて、大火に焼かれると見る時も、わがこの土は安穏にして、天人つねに充満す」(寿量品)

 法華経から私が学んだことは、すでに「仏道は成就し、衆生は救われている」ということだった。この世はよくよく見つめてみると実に美しい。まさに奇跡と言うしかない。しかもその奇跡は既に成就している。

 ただ、私たちの目が曇っているために、私たちにはそれが見えない。法華経の「衣裏繋珠」(えりけいじゅ)の譬えを使えば、すでに私たちは宝物を持っているのだが、それに気付かないで、あくせくと偽りの宝物をさがして人生を浪費しているというわけだ。

  バラの木に
  バラの花咲く
  何の不思議なけれど

  有名な北原白秋の詩だが、いわばこうした「いのちの不思議」にしみじみ感動し、感謝する心が法華経にいう悟りではないかと思った。このことを法華経から教えられ、私の人生観は大きく変わった。

 そうすると色々と物事の本質がわかるようになってきた。たとえば、生命や社会現象についていうと、「共生」がその根底にあるという発見もそうである。私は共生とは実現すべき目標ではない。すでに成就している生命現象の本質だと考えている。私はこれを真理だと考えているが、これも法華経との出合いがあればこそ見えてきた真実である。
 
 孟子は「道は近きにあり。人、これを遠くに求む」と言っている。幸福はすでにこれを遠くに求めている間は、決して得られない。それはすでに成就されている。そしてそのことがこの世の奇跡なのだ。この恵みに気付くことが「さとり」ということだ。

 こうした法華経の発想に立てば、平和で幸せな世界を築くための方便もおのずと見えてくる。その具体的な処方箋については「共生論入門」をはじめ、この日記に書いている通りである。 


2004年08月21日(土) 天皇一神教の誕生

 わが国には古来より様々な神々がいた。先祖たちが自然そのものを神として崇めていたからだ。そこに6世紀になって仏教が伝来したが、神々は生き残り、仏教の仏達と、この日本でなかよく暮らしてきた。

 明治元年(1868)に維新政府により神仏分離令がだされた。これはわが国の伝統的な神仏習合の信仰形態を一掃しようとするものだった。新しく政権をとった維新政府が国を治めるために、天皇の権威を高める必要があったからだ。

 西洋の場合は、キリスト教がある。これが西洋文明の精神的基盤になっている。しかし、日本の場合はこうした中心となる基盤がない。西洋の進んだ文明に追い付くためには、こうした国家の精神的基盤をつくらなければならない。

 かって聖徳太子は「和の精神」を唱え、仏教を国を治めるためのよりどころとした。しかし、仏教は多くの宗派に分かれて統一を欠いている。そもそも仏教で西洋列強の一神教文明に太刀打ちできるとも思えない。国家の主権者としての天皇の権威を高めるためも、仏教はあまり役に立たなかった。

 そこで神道の採用となったわけだが、そうなると仏教は無用の長物ということになり、全国各地で寺院、仏具、経文などを破壊する廃仏毀釈運動が展開された。比叡山の日吉山王社へは120人もの暴徒が押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊したという。背景には広大な領土を持ち、既得権益の上にあぐらをかいていた寺院への民衆の反感もあったのだろう。

 興福寺ではなんと僧侶全員が神主になり仏像や伽藍を破壊した。五重塔も金目になる金具を取った上で焼こうとしたが、付近の住民が延焼をおそれて反対したので消失をまぬがれた。こうした中で、仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、などが破壊されたり、二束三文で売られ、国外に流失した。

 このような事態が生まれたのは、明治政府が神仏分離令とともに、寺領上知令を出して、寺院の領地を取り上げたためだった。古都奈良の寺や全国の大寺はその広大な領地を一気に失って、内部から崩壊した。神職に走るものや、寺宝を持ち出して売る僧侶が続出したわけだ。

 このとき廃寺された寺は全国の半分にのぼったという。なかでもすさまじかったのが伊勢地方や薩摩を中心とする九州地方だった。このため、伊勢地方や九州に現在有力な大寺がみあたらない。

 富山では領内の1635ほどあった寺を6寺までしようとしたらしいが、明治政府は廃仏毀釈の暴徒化や行き過ぎについては厳罰でのぞみ、騒ぎはやがて沈静化した。また、鳥羽伏見の戦いで朝廷側につき、明治政府に莫大な献金をしていた両本願寺派の寺院は、太政官が保護することを布告したため、廃仏毀釈や寺の領地を取り上げられることはなかった。

 明治政府はこうして仏教を分離して切り捨てた後、全国に十数万もあった神社の統合に乗りだした。明治4年(1871)には近代社格制度を布告し、それまで祭られていたざまざまな祭神を整理し、天皇家にゆかりの深い古事記、日本書紀の神々を中心にした国家神道への再編と統合をはかった。

 さらに日露戦争の翌年の明治39年(1906)には一町村一社を原則に神社の統廃合を行なうとする「神社合祀令」が出された。博物学者の南方熊楠はこれを「神殺し」と呼んで猛烈に反対した。そして柳田国男たちの尽力で神社合祀令はやがて撤回されたが、その間に多くの神社が貴重な鎮守の森とともに破壊された。

 一方で台湾や朝鮮半島などの植民地には新しい神社が建てられ、現地人に日本の国家神道が強制されて行った。こうして戦争の過程を通じて日本的一神教が完成したのだが、それがいかに日本と近隣諸国に災いをもたらしたか、いうまでもないことである。

 戦争中に高唱された天皇を中心とする一神教的な日本精神は、明治政府が西洋の真似をして、日本を強国にするために創りだした虚構にすぎない。日本は戦争にまけて、ふたたび神々と仏たちが仲良く暮らす国になった。このおおらかな精神風土を大切にしたいものだ。

(参考サイト)
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_20.html


2004年08月20日(金) 共生的文明の創造

 昨日の日記で、世界には2種類の文明があることを述べた。つまり、「森を大切にする文明」と「森を粗末にする文明」である。前者は稲作農業を中心に発達し、後者は小麦農業と牧畜によってもたらされた。

 今日は後者の文明について、もう少し考えてみたい。四大文明のうち、エジプト文明やチグリス・ユーフラテス文明はあきらかにこのタイプである。ギリシャ文明やローマ文明もそうだし、これを受け継いだヨーロッパやアメリカの文明もこのタイプだ。

 この文明の特徴は、自然に対する態度が父性的・攻撃的だということである。森を切り開くには、それなりの覚悟が必要になる。古代の神話を読むと、そこに森に象徴される神々の殺戮のテーマが繰り返されている。西洋型文明の基本にはこうした「神殺し」のモティーフが隠されている。

 西洋の聖人はソクラテスであれイエスであれ、あまりろくな死に方をしていない。東洋の聖人である釈迦や孔子が安らかに息を引き取っているのとは対照的である。「神殺し」は「一神教」形成のために必要な過程でもある。神々の殺戮がなければ、唯一神エホバへの絶対服従もありえないからだ。

 一神教を基盤にした自然への攻撃的な姿勢は、この文明を自然支配へと向かわせた。自然は人間が利用するものであり、そのために自然に対する知識をあつめ、これを研究しなければならない。ここから論理的な思考が芽生え、科学や技術が発展した。

 自然に対する知識と探求は、社会や人間に対する知識と探求を生んだ。ギリシャでは芸術や哲学が発展し、ポリス市民による民主主義も生まれた。こうした流れが、近代ヨーロッパに受け継がれた。

 小麦と牧畜から生まれた文明は、やがて産業革命を生み、資本主義を発展させた。こうして18世紀にいたって西洋文明は他を圧倒するようになった。あらゆる産業が覇を競いながら栄え、やがてその中枢で金融資本が巨大化して行った。この文明はアメリカに渡り、現在もその威力を遺憾なく発揮している。

 しかし、この文明の基本にあるのは、自然に対する人間の優位である。この文明は基本的に自然や人間を収奪することで成り立っている。多量の化石燃料を消費し、地球の自然を破壊し、生態系を破壊しつつある。そして、この文明が発達すると同時に、奴隷労働や人間の大量殺戮が生まれた。

 こうした収奪型の文明に対する反省は、文明そのものの内部から生まれてきた。エコロジーの考え方が生まれ、現在のヨーロッパでは自然尊重の考え方が次第に勢力をもちつつある。また、東洋の思想や文化への関心も深まっている。

 日本は東洋文明の優等生だったが、今は西洋型文明の優等生でもある。そして今、西洋文明に支配され、すっかり勢力を失っていた東洋文明の伝統が、少しずつ息を吹き返しつつある。現在の日本はこの両者の文明を止揚し、よりすばらしい未来の文明を創造していくことができる位置に身を置いている。

 このために大切なのは、東洋文明の宝である「共生原理」を西洋文明の伝統の中で生かしていくことだ。多くの日本人が東西の文明の融合という文明史的な観点と志をもてば、テロと紛争と飢餓が横行するこの多難な世紀を、いくらかでも明るく棲みやすくすることができるだろう。


2004年08月19日(木) 森を大切にする文明

 ハンチントンは「文明の衝突」のなかで、宗教を基本において、世界を8つの文明にわけている。そして彼は、宗教対立が文明の対立を生み、戦争や紛争を生じさせるという構図で世界を見ている。

 私はもう少し単純化して、「A森や樹木を大切にする文明」と「B森や樹木を疎かにする文明」という風に分けてみてはどうかと思っている。つまり、森(樹木)という自然を軸にして、文明や文化の問題を考えるわけだ。

 この分類でいうと、多神教の仏教や神道はA型で、一神教のユダヤ教やキリスト教、イスラム教はB型だということがわかる。そして多神教が支配的なアジア諸国にはゆたかな森林が残され、これに対して一神教の支配的な欧米や中近東の国々には森林はほとんど残されていない。

 以前は、文明と言えば西洋型のものしか考えなかったが、トインビーがこれに異議を唱え、ハンチントンも西洋型の文明だけが文明ではないことを認めている。そうすると「文明が森を消滅させる」というテーゼは一般的真実とはいえないことになる。森を消滅させない、自然と共生する文明も存在するからだ。

 それではこの二つの文明の違いはどこから現れたのか。歴史を遡ってみると、それは「稲作農業」と「小麦農業」の違いだということがわかる。稲作はアジアを中心にして行われた。これに対し、小麦は中近東からヨーロッパにかけて栽培されている。

 小麦を作るために、人々は森林を切り開いた。そして畑を耕しそこに小麦を植えた。さらには残りの草原でヒツジやヤギなどを飼った。こうして小麦と牧畜を基本にして、人々は生計を営んだわけだが、その過程でどんどん森林が消滅したわけだ。

 これに対して、稲を作る人々は森を大切にした。なぜかと言えば、稲作に必要なのは水であり、その大切な水を森が供給してくれるからだ。稲作文明の場合は最初から森との共生が前提だった。

 したがって、森を切り開き、これを牧草地にするという発想もなかった。ヒツジやヤギを飼うかわりに、人々は海や川に行って、魚を捕った。そして海の幸もまた、森から流れ出る水によって養われていることを知っていた。こうして米作と漁猟によって生きている人々は、森を守り、自然を尊ぶことを大切にしてきた。

 最近、日本でも小麦の消費量が増え、米を食べる人が少なくなってきた。また、肉食も増えてきた。米作りが行われなくなり、田んぼがなくなると、やがて森が破壊される事態が起こってくるかもしれない。これは私たちの文明の将来を危うくするものだといえよう。

 森を破壊する文明は、同時に土地をも収奪する。そして土地がやせ衰えると、やがては人間を収奪しないではおられなくなる。このことを、この数千年の人類の歴史が証明している。そしていまなお、私たちの前で行われていることの本質なのだ。

 世界の安寧と、人類の幸福のためにも、森を大切にする文明を、私たちはこれからも大切にしていきたい。そのためにパンと肉ではなく、ご飯と魚をたべよう。これによって日本だけではなく、世界の森を守りたいものだ。そうすればこの世界は少しずつ平和になるのではないだろうか。

 なお、米作はアメリカでも行われている。しかし、アメリカ式農業は森の水ではなく、地下水を汲み上げて行われている。米作は多量の水を要するため、地下水の水位が下がり、やがてそこは稲作に不適な土地として放擲される。森を伴わない稲作は、土地の荒廃をもたらすだけである。このことも肝に銘じておきたい。


2004年08月18日(水) 曼陀羅を感じる心

 子どもの頃、父の実家に帰ると、家の隣が鎮守の森で、神社の境内が遊び場だった。神社には大きな太鼓が置いてあった。村祭りのとき、これを叩くらしい。死んだ父がばちをもって私と弟に叩いて見せたことがあった。

 近くを清流がながれ、そこにたくさんの魚がいた。父と小一時間も潜っていると、大きな籠が魚で一杯になった。それを河原で焼いて食べた。豊かな水の流れは対岸の山の緑や、空の白い雲を写していた。そうしたものを眺めて、自然の息吹のなかに身を置いていると、子供心にもそこが特別な場所のように感じられた。何か「神々しい豊かさ」で心が満たされたものだ。

 父が死んで、田舎の家もなくなった。屋敷の木はすっかり切られ、そこはただの草はらと近所の料亭の駐車場になった。お盆には帰省して、家族で墓参りをしているが、村は年を追って自然破壊が進んでいる。上流にダムができたころから、水の流れはやせ細り、魚の姿も少なくなった。

 夏だというのに水浴びする子供たちの姿もない。山を切り開いて立派な道路やインターチェンジはできたが、村はさらに過疎になり、いつからか村祭りの太鼓の音も聞かれなくなった。幼い頃、村はもっと豊かだったし、人々も生き生きとしていたのに、最近は村を訪れるたびに、喪失感に襲われる。

 しかし、神社と鎮守の森はどうにか残っている。神社の木陰に来ると、少しだけほっとする。今年の夏は、墓参りをしたあと、特別な気持で村の様子を眺め、そして熊野の森を愛した南方熊楠のことを思った。

 熊楠は博覧強記で「歩くエンサイクロペディア」とよばれた。しかし、体操と数学苦手で、東京大学予備門を落第した。故郷の和歌山に帰って、押入の中でふて寝をしていたというから、人間味を感じる。

 彼は日記や随筆に同性愛の少年の思い出を書いている。それでいて、無類の女好きでもあった。柳田への手紙にも、「自分が夜這いをするように言われるのは心外だ」というようなことを書いている。男からも女からも、だれからも愛された熊楠は大学者でありながら、偉大な自然人でもあった。品行方正な柳田は、「日本人の極限を生きた男」だと、あきれるしかなかったことだろう。

 友人の北さんが熊楠と空海の近縁性を指摘している。空海と熊楠はたしかに共通部分がある。司馬遼太郎が「空海の風景」のなかで空海について書いた言葉は、おおむね熊楠にもあてはまる。

「空海は、長い日本歴史のなかで、国家や民族というささたる(空海の好きな用語のひとつ)特殊性から抜け出して、人間もしくは人類という普遍的世界に入りえた数少ないひとりであったといえる」
「生命や煩悩をありのまま肯定したい体質の人間だったに違いない」
「生命を暢気で明るいものとして感ずる性格だったかと思われる」

 空海も熊楠も自然を愛した野人で、自然からたくましい生命力を得ていた。そして、空海も熊楠も、天性の詩人であり、微小なもののなかに宇宙を感じることができた人だ。熊楠は高野山を愛し、真言密教にも通じていた。仏教の根底にある「共生の思想」は、学問的に言えば、エコロジーの思想と少しも変わらない。

 熊楠はこの世界を「曼陀羅」と見立てて、仏教でいう「因縁」で世界を考えている。「因」というのは、近代科学の「因果律」だ。直線的に原因と結果が繋がった「論理」「数学」「力学」の世界である。世の中を生存競争の原理で割り切る俗流ダーウイン主義もこれだ。

 これにたいして、「縁」のほうは「偶然」が支配し、変幻自在な出合いがあり、複雑なクモの巣のように森羅万象がからみあっている。熊楠は自然や生命現象を、こうした必然と偶然の織りなす美しい織物(曼陀羅)と考えていた。今はやりの「複雑系」の思考であり、この点でも世界に先駆けていた。


2004年08月17日(火) 魂の入れ替わる話

 以前の日記で、「雨月物語」の「菊花の約」を紹介した。友との再会の約束を果たすために自殺して、霊魂となって友のもとを訪れた武士の話である。こうした魂が身を離れる話は昔話によくあることである。折口信夫は「原始信仰」の中でこう書いている。

<我々の古代人は、近代に於いて考へられた様に、たましひは、肉體内に常在して居るものだとは思って居なかった様である。少なくとも肉體は、たましひの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事実だと言へる。・・・

 人間のたましひは、いつでも、外からやって來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿った瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴ふ威力も落としてしまふ事になる>

 『和漢三才図会』には「眠っている間にふたりの魂が入れ替わった」という伊勢国安濃郡内田村長源寺に伝えられた話が書いてある。

<見ず知らずの二人の旅人が、暑さをしのぐために長源寺のお堂のひさしの下に入って一緒に休んだ。ふたりは深い眠りに入り、いつのまにか日が暮れた。人に起こされて、二人は同時に目を覚ましたが、そのとき魂が入れ替わってしまった。

 二人は魂が入れ替わったまま家に戻ったが、顔かたちはそのままでも、声の調子や話し方が違い、家人から当人として認めてもらえない。二人はふたたび長源寺にもどり、同じようにお堂で眠りについたところ、夢の中でふたたび魂が入れ替わり、もとに戻った>     

 南方熊楠はこうした説話に興味を持ち、「和漢三才図会」の話を繰り返し取り上げている。また、彼自身も、同様な霊体験があったらしい。

<七年前厳冬に、予、那智山に孤居し、空腹で臥したるに、終夜自分の頭抜け出で家の横側なる牛小屋の辺を飛び廻り、ありありと闇夜中にその状況をくわしくみる。みずからその精神変態にあるを知るといえども、繰り返し繰り返しかくのごとくなるを禁じえざりし、その後、Frederic W.H.Myers,"Human Personality"1903,vol.ii,pp.193,322を読んで、世にかかる例少なからぬを知れり。

 されば蒙昧の民が、睡眠中魂が抜け出づと信ずるは、もっともなことにて、ただに魂が人形を現して抜け出ずるのみならず、蝿・蜥蜴・蟋蟀・鼠等となりて、眠れる身を離れ遊ぶという迷信、諸方の民間に行わる。

 したがって急に眠人を驚起せしむれば、その魂、帰途を誤り、病みだすとの迷信、ビルマおよびインド洋諸島に行われ、セルビア人は、妖巫睡眠中、その魂蝶となって身を離るるあいだ、その首足の位置を替えて臥せしむれば、魂帰って口より入るあたわず、巫、ために死すと伝え、ボンベイにては、眠れる人の面を彩り、眠れる女に髭を書けば罪は殺人に等し、と言えり。

 二十年前、われ広東人の家に宿せし時、彼輩の眠れる顔を描きて鬼形にし、またその頬と額に男根を画きなどせしに、いずれも起きてのち、鏡に照らして大いに怒れり。その訳を問いしに、魂帰り来るも、自分の顔を認めず、他人と思って去る虞(おそれ)あるゆえとのことなりし>(夢中脱魂)

 魂が抜け出したり、入れ替わる話は、「源氏物語」や「今昔物語」などによく出てくるが、現代の小説や映画にもたびたび描かれている。たとえば東野圭吾の「秘密」では、バスの転落事故で死亡した母親の魂が生き残った娘の体に入る。

 つまり、36歳の女が12歳の娘の身体を持つことになってしまい,主人公の父親はその秘密を守りながら、娘の体を持った妻と共に生きていくことになる。娘が結婚相手をみつけたところで、母親は娘の魂を呼び戻し、娘の肉体と主人公の父親に永遠の別れを告げるわけだが、もっともこれには現代小説らしい結末が用意されている。

 大林宣彦監督の尾道を舞台にした映画「転校生」(山中恒原作「おれがあいつであいつがおれで」)も魂が入れ替わる話だ。こちらの方は、思春期まっさかりの中学生の男女の魂が、自転車事故の接触をとおして入れ替わる。その結果、男の子であるはずの少年が急にしおらしくなり、女の子はまるで男勝りの行動をする。

 女の子に姿をかえた少年は、「あるべきものがない」のに驚き、男の子に姿をかえた少女は「ないはずのものがある」のに驚く。少年の肉体に入った少女は、じぶんの体の秘密がすっかり少年に知られたことに羞恥を覚え、好奇心の強い少年に乱暴に扱われていないか心配になる。同様の羞恥と心配は少女になった少年にもある。

 二人は家庭で珍騒動をまきおこし、学校でも級友達から「オカマ」だとか何とかからかわれるなかで、次第に異性への理解を深め、特別な友情を育んで行く。最後はまた魂が元に戻るわけだが、その過程で二人の魂はやわらかく成長しているわけだ。この映画はとても心に残っている。


2004年08月16日(月) 主権者学を学ぼう

 私は県立高校で教師をしているが、行事で一度も不起立をしたことはないし、生徒に「歌うな」と指導したことはない。それどころか、以前の勤務校では、国旗掲揚係として毎日生徒と一緒に国旗を揚げていた。

 朝礼では「君が代」の演奏を流す係もしていた。そしてそのことにとくに疑問を持っていたわけではない。疑問を持つようになったのは、歴史を勉強してからだ。とくに、沖縄戦のことを調べるうちに、しだいに重苦しい気持になった。先の戦争がなぜ起きたのか。日本軍が何をしたのか。私はほとんど何も知らなかった自分を恥じた。

 最近ある人から、<君主に「帝王学」が必要なように、主権者である国民には「主権者学」が必要だ>という憲法学者の杉原泰雄さんの言葉を教えて貰った。なるほどと納得した。私が学校で学んだり、生徒達に教えているのは「主権者学」とは反対の、「被主権者学」だったのだ。

 イギリスの小学校で繰り返し教師が子どもに教える言葉がある。それは、「君たちは主権者になるために学校で勉強するのだよ」という言葉だという。こうした主権者学を徹底的に教え込まれるわけだが、民主主義教育というのは本来こうでなければならない。これが日本の教育にはすっぽり抜け落ちている。

 今、与党の手で、「教育基本法」が変えられようとしている。「教育は不当な圧力に屈することなく・・・」という文章を、「教育行政は不当な圧力に屈することなく・・」と書き換えるのだそうだ。「教育」を「教育行政」に書き換えるだけで、その精神は180度違ってくる。

 憲法を変えて、自衛隊を軍隊にして外国に派遣できるようにする。さらに、教育基本法を変えて、教師や生徒から自主的な思考力や行動力を奪う。武器輸出3原則を緩和し、武器を大々的に製造し、外国に販売できるようにする。

 こうしたことが、今、この日本で行われているが、これに疑問を持つ人が次第に少なくなりつつある。そればかりか、これを積極的に容認する意見が世論調査やマスメディアで大勢を占めつつある。先の第2次世界大戦で、ナチスに抵抗したドイツ人牧師のマルチン・ニーメラさんがこんな言葉を残している。

「共産党が弾圧された。私は共産党員ではないので黙っていた。社会党が弾圧された。私は社会党員ではないので黙っていた。組合や学校が閉鎖された。私は不安だったが(関係ないので)黙っていた。教会が弾圧された。私は牧師なので、立ち上がった。そのときはもう遅かった」

 私たちは他人が迫害され、その基本的人権が脅かされていても、ともすればほとんど無関心だ。傍観しているだけではなく、中にはいい気味だと感じている人も、拍手喝采している人もいる。民衆のこうした動きが権力の横暴を呼び込む。気が付いたとき、自らがその餌食になっている。これがこれまで繰り返されてきた歴史の道行きである。

 私たちは「主権者学」を学んで、もっと賢くならなければならない。残念ながら学校で教えらているのは、「被主権者学」なのである。家庭では子供たちと一緒に「主権者学」を学ぶことにしよう。そして我々が主権者であることを否定するあらゆる傾向にもっと敏感になって、これに反対してゆこう。


2004年08月15日(日) オリンピック休戦のすすめ

 第26回アテネオリンピックがいよいよはじまった。アテネで開催されるのは二回目だという。一回目は1894年で、これが近代オリンピックの始まりだった。じつに104年ぶりのアテネでの開催である。

 オリンピックの歴史を遡ると、古代ギリシャで行われていた「オリンピア祭典」にまで遡る。こちらの方は紀元前776年から紀元392年まで、1168年間、293回も続いた。これはゼウスの神に捧げる神聖な儀式で、参加者はギリシャ市民権を持つ男性だけだった。

 最初は1スタディ(191.27m)を走る競技だけだったが、やがて長距離走やその他の陸上競技、そしてレスリングなどの格闘技などが加えられて行った。選手は全裸で競技をし、優勝者にはオリンピア神殿に生えているオリーブで作られた冠が与えられたという。

 こうした男性の競技の他に、女神ヘラに捧げられる女性のみによるオリンピックもあった。こちらの参加資格は「処女であること」だけだったそうだ。観戦が許されたのは、男性と未婚の女性だけだった。こちらも全裸で行われたという。さぞかし美しい眺めだっただろう。古代ギリシャに男性として生まれたかったものだ。

 神に捧げる神聖な儀式として出発した古代オリンピックも、アテネが古代ローマ帝国に滅ぼされてからは、その内容が次第に変質していった。もともと神聖な平和の祭典だったが、戦車競技なども加えられ、見せ物中心になって行った。

 やがて、賭博や買収やワイロ、八百長など、なんでもありの状態になってしまった。このため、392年にキリスト教を国教にしたローマ帝国の皇帝テオドシュウス1世は、翌年の第293回大会でオリンピックを中止させた。

 古代オリンピックで有名なのは「オリンック休戦」が厳密に守られたことだろう。アテネとスパルタが覇を競ったペロポネソス戦争の最中でも、休戦は守られたという。残念ながら、近代オリンピックにはこの約束はない。それどころか、戦争のために中断したこともある。東西冷戦によるアメリカやロシアの不参加もあった。

 今回のアテネ大会も、テロの不安がささやかれ、ものものしい警戒体制のもとで開催されている。イラクではアメリカ軍がサドル師一派と戦っており、サドル師自身の負傷説も流れている。

 五輪が戦争の抑止力とならず、商業主義やナショナリズムを煽り立てている面がある。私たちがもう一度、国際社会の協調と平和いう初心に返れるかどうか、それは五輪の運命だけでななく、国際社会に生きる私たちの運命にもかかわっている。今回のアテネ大会が平和に向かう人類の新しい一歩となることを、終戦記念日の今日、心から祈らずにはいられない。

(参考サイト)
http://www.elrosa.com/tisen/51/51405.html


2004年08月14日(土) 一兵卒の戦争

 8月13日に放送されたNHKスペシャルの「一兵卒の戦争」はみごたえがあった。芥川賞作家の故古山高麗雄さんは一兵卒(一等兵)として中国雲南省で過酷な戦争を体験していた。それは圧倒的な敵兵力の前での「無意味な死」が続く日々だったという。

 戦後帰還した彼は会社に就職し、ふたたび「一兵卒」として熾烈な経済戦争の中に身を置くが、やがて会社が倒産するなど、あまり恵まれなかった。そんな彼が戦争体験を書き始めたのは49歳のとき、友人に勧められてだという。

 戦争体験を書くにあたって、資料を調べてみると、兵卒として戦っていたときには知らなかった戦争の全体像が見えてきた。中国からビルマ(現ミャンマー)にかけてアメリカ軍は「援蒋ルート作戦」を展開する。連合軍の支援を受けた中国軍は人員も火力の点でも圧倒的だった。

 拉孟、騰越では日本軍が玉砕している。もうひとつの激戦地・龍陵での戦いに古山さんは「一兵卒」として従軍したが、ここでも玉砕に近かった。援蒋ルート争奪戦で3万人以上の日本人兵士が命を落としている。こうした資料からうかがえること、それは自分たちの戦争が決して勝てるはずのない戦争だったという事実だった。

 古山さんは、「兵は戦場を墓場だと思って死守せよ」という部隊長の訓示がでていたことを知った。そして龍陵会戦での何千人という死者が、ほとんど下級の兵隊である一兵卒で占められていた現実もわかった。撤退を許されず、冷たい雨と弾丸の中で餓えながら、最後は「幽鬼」となって無理死を強いられた数多くの兵隊達の無念を思った。古山さんは自分のことを「未帰還兵」とよび、その体験を生涯を通じて書き残そうと決心した。

 同じ部隊に所属した生き残りの兵士たちの証言を求めて、古山さんは何年も全国を旅した。そして多くの旧兵士たちがやはり自分と同じく心に傷を残したまま戦後を生きてきた「未帰還兵」であることを知る。多くの戦友達が戦争体験を文書で残し、それを次の世代に伝えようとしていた。

「戦争で死んだ奴らがかわいそうだ」と涙で言葉を詰まらせる86歳の老人も、やはり雲南省龍陵の戦場で死線をさまよった体験があった。別の老人は、「歩兵は消耗品だった」と当時を振り返り怒りをにじませた。捕虜を銃剣で突くことを命令されて、実行した経験を持つ老人は苦渋で顔を歪めた。

 古山さんは戦場での体験を振り返る。そこでは誰もが人間としての尊厳を奪われ、そして投げやりになってすべてを運に任せるようになり、ついには自分を信じることが出来なくなる。そうした非人間的な極限状態を古山さん自身も体験している。

 兵隊は上官の命令に従わずにはいられない、兵隊は敵に包囲され、自分が殺されることが分かっていても撤退することが許されてはいない。個人から撤退の判断が奪われているならば、その判断は組織が行わなければならない。しかし日本の軍隊はそうはなっていなかった。そしておびただしい兵士たちが消耗品として戦野に放置された。彼らはに「敵」によって殺されたと言えるのだろうか。彼らを死にいたらせたものの本当の正体は何か。こうした問がいやでも浮かんでくる。

 過酷な戦場に「一兵卒」として身を置くことで赤裸々に見えてくる戦争の実体がある。しかし、同時にこうした体験を、全体像のなかに位置づけたとき、はじめて見えてくる戦争の真実があることもたしかだ。古山さんは、彼が一兵卒として体験した戦争を、ひとつの経験として後の世代に伝えようとした。そうした未帰還兵たちの思いを、NHKは数々の証言と映像を交えながら描いていた。
 
 14日のNHKスペシャルでは「遺された声〜録音盤が語る太平洋戦争〜」が放送される。満州の国策会社・満州電電が戦時中に放送したラジオ番組の録音盤2200枚が中国吉林省で発見された。戦況報道にまじって特攻隊員の遺言や開拓農民の声などが数多く録音されていた。声を残した人々の足取りをたどり、庶民の視点から戦争をみつめる。

 15日のNHKスペシャルは「子どもたちの戦争〜戦時下を生きた市民の記録〜」である。戦時中の市民の日記や映像、日用品など戦争資料をとおして、戦時下に生きた市民の暮らしや心を伝えるという。これも見逃すわけにはいかない。


2004年08月13日(金) 南方熊楠と大逆事件

 南方熊楠が後半生を過ごした紀州田辺市は、熊野の玄関口といわれるだけあって、特異な人物が出ている。源義経に仕え、最後は奥州で壮絶な死を遂げた豪傑の弁慶がこの地の出身だという。

 熊楠が「神社合祀法」に反対する投書を書き続けた地元の新聞社『牟婁新報』には、社会主義者の荒畑寒村がいたことがあるし、大逆事件で絞首刑になった管野スガもいた。戦後の社会党の委員長で、首相になった片山哲もここの生まれだという。

 また、熊楠は大逆事件に連座して処刑された成石平四郎と交遊をもち、植物採取の依頼をしている。石成は「神社合祀」に反対して戦っている熊楠に強いシンパシーを抱いていたようで、処刑を前にして東京の監獄から遺書と思われる手紙を熊楠に送った。石成はこの手紙を出した6日後に処刑された。

<南方熊楠先生。先生是迄眷顧を忝しましたが、僕はとうどう玉なしにしてしまいました。いよいよ不日絞首台上の露と消え申すなり。今更何をかなさんや。唯此上は、せめて死にぶりなりとも、男らしく立派にやりたいとおもつています。監獄でも新年はありましたから、僕も三十才になつたので、随分長生をしたが何事もせずに消えます。どうせ此んな男は百まで生たつて小便たれの位が関の山ですよ。娑婆におつたつて往生は畳の上ときまらん。そう思ふと、御念入の往生もありがたいです。右は一寸此世の御暇まで。 東京監獄にて成石平四郎 四十四年一月下旬>

 大逆事件の捜査の手は、熊楠にまで及んだようだが、二人の書簡は生物学に関するものが主だったようで、どうにか事なきを得た。それにしても、熊楠はずいぶんあぶない橋をわたっている。後年、昭和天皇に進講できたのが奇跡のようだ。

(参考サイト)
http://homepage1.nifty.com/boddo/kmgs/hongu.html


2004年08月12日(木) 知の森をめざして

 このインターネット日記も、今日でまる5年続いたことになる。日記そのものは高校生の頃から書いていたが、律儀に一日も休まずかいたわけではない。よく続いたものだと思う。1999年8月13日の日記は、こんなふうにはじまっている。

<今日からホームページを始めた。そこでついでに日記も公開することにした。日記を付け初めて20年以上になるが、まさかこんな日がこようなどとは思いにもよらなかった>

 HPを始める人は多いが、あまり長続きしないことが多い。せっかく始めてみても、思ったよりお客さんが少なかったり、掲示板にいやなことを書き込まれたりすると、すっかり失望してやめる人も多いようだ。

 この点では私は恵まれていた。毎日訪れ、ときには掲示板にはげましの言葉を残してくれる友人たちに恵まれたからだ。開始当時は一桁だった訪問客も、最近では少ないときでも延べで80カウントをこえている。日記サイトの分を加えると100を越えるアクセスがあり、こうしたことも励みになる。

 もっとも、野口悠紀雄さんによると、HPを長続きさせる秘訣は、「他人」のためではなく、「自分」のためになるHP作りを目差すことだという。人に見て貰おう、何か世のためになることを発信しようなどと力まないことである。あくまで自分のために便利なように、自分がたのしむのために運営するのである。

 これはたしかにその通りかもしれない。高校時代から日記を書いていたが、もちろんこれは他人に見て貰うためではなかった。自分が考えたことや感動したことを、自分自身に語りかけ、考えを整理したり、記憶したりするために書いていたわけだ。書いているうちに、自分の考えがどんどん深くなり、かつ広がっていくのがわかって楽しかった。

 HPの場合も、私はおよそこの流儀で書いている。野口さんがいう「自分のために」というセオリーを無意識のうちに実践してきたわけで、たしかにこれも長続きさせた大きな理由には違いない。

 私の専門は物理や数学だが、日記にかくのはおよそ畑違いの経済や政治のことが多い。これは、そうして情報を整理し、自分の未知の問題について学習するためである。その学習の現場が、実は私の日記なわけだ。

 こうして日記を書くことで、私は自分の世界を広げてきた。「何でも研究室」の35の文章もこうして日記から生まれた。日記に書いたことを、こうしてテーマ別にまとめることができたのも、デジタル文書だからである。

 HPはいろいろな人との交流の場であり、自己主張の場である。しかし、それ以上に、私にとってHPは最高の自己学習の場である。その拙い自己学習の姿を、これからもありのまま公開して行きたい。これからHPを始めようと考えている人たちに、何かの参考になれば幸いである。


2004年08月11日(水) 山の人、里の人

 名は体をあらわすというが、たしかに南方熊楠(ミナカタ クマグス)という名前は、いかにも南方からきた縄文人のようなイメージである。まさに「森の人」という感じだ。

 これにたいして、柳田国男(ヤナギダ クニオ)はその名前からして、大陸系の弥生人という感じで、こちらは「里の人」というところだろう。

 二人が文通することになったきっかけは、明治43年に熊楠が獄中で柳田国男の「山上問答」「遠野物語」を読んだことだ。熊楠は翌年、『東京人類学会雑誌』に「山神オコゼ魚を好むということ」を掲載し、これを読んだ柳田国男から手紙が来た。以後、二人の文通が始まる。

 明治44年(1911)3月の最初の手紙で、柳田は「山人」について問うている。柳田は山人というのは里から追放されて山に入った先住民ではないかと考えていた。これに対して、熊楠はそうした事実はないという立場だった。

 大正6年(1917)の実質上最後となる手紙でも「山人」についての話題が取り上げられている。 結局、この溝が埋まらないまま、二人は破局をむかえた。7年間の間に熊楠が出した手紙は161通にのぼり、柳田からは74通が確認されているという。

 柳田国男は日本民族学の父と呼ばれ、南方熊楠は母と呼ばれている。しかし、その資質は水と油のように違っていた。熊楠が民族学を世界の中に位置づけようとしたの対して、柳田はあくまで日本の独自な民族学にこだわった。こうした柳田のナショナリズムに、熊楠が反発したのだろう。

 大正5年2月に柳田が自ら編集する「郷土研究」に「蛙のおらぬ池」を発表すると、すかさず熊楠は翌月に「鳴かぬ蛙」を書き、6月に柳田が「白米城の話」を書けば、8月にはこれまた熊楠が全く同じ題の論文を書いてこれを批判する。二人の論争はエスカレートするばかりで、ついには「郷土研究」そのものが休刊になってしまう。

 柳田からみれば、いちいち自分に噛みついてくる熊楠はなんとも厄介な存在だっただろう。おまけに大酒のみで、田辺の自宅まで会いに行っても、旅館へ追い返し、泥酔してあらわれる始末である。それでも、柳田は熊楠の学識を尊敬し、「太陽」などの一流の雑誌に熊楠の論文を紹介している。

 大正7年(1918)3月2日 帝国議会が「神社合祀令」を撤廃。熊楠の運動が最終的に実を結んだが、これも柳田の協力がなければ、熊楠の情熱と行動だけではとうていできないことだった。こうしたことは熊楠も充分わかっていたはずである。それにもかかわらず、熊楠はあまり柳田に感謝していない。むしろこんな悪口を友人に言っている。

「小生が海外のことをやたらに引き出して博聞に誇り、柳田氏の狭聞を公衆の前に露わすごとく解せしにや、すこぶる小生の文を喜ばず、ややもすれば小生の出したものは延引または没書となる」

 熊楠が柳田に出した昭和元年(1926)6月その最後の手紙には、「小生少しも聞きたがらぬに貴君のことを告げ来たるものあり。そのことはなはだ面白からぬことゆえ、見合わせと致す」とある。柳田は後年、「後にまことに馬鹿げたことで先生からうとんじられ」(「南方熊楠先生」)と回想している。熊楠の罵詈雑言に、柳田は紳士の態度で応じている。

 外遊のあと、日本に帰った熊楠には大学から誘いもあった。米農務省からはわざわざ役人が田辺まできて招聘に応じるように求めたほどだった。しかし熊楠はこれに応じなかった。世界的学者でありながら、学位もなく無位無冠の生涯を貫いた。

「大体帝大あたりの官学者がわしのことをアマチュアーだと云ふが馬鹿な連中だ。わしはアマチュアーではなくて、英国で云ふ文士即ちリテラートだ。文士と云つても小説家を云ふのじやない。つまり独学で叩き上げた学者を呼ぶので、外国では此の連中が大変にもてる」

 熊楠は友人にこう語り、偉大なリテラートとしてダーウインの名前を上げている。たしかに、ダーウインも学位も官位もない在野の人だった。考えてみれば、デカルトもロックもアダム・スミスも、独創的な業績を上げた人はほとんどアマチュアであり、熊楠のいうリテラート(literate)である。

 しかし、無位無冠を貫いたリテラートと言えば聞こえはよいが、実のところ、彼は酒を飲み客人の前でも平気でよだれを垂らして寝てしまう男だった。講演会や研究会に招かれても、すでに泥酔状態で呂律がまわらず、壇上で醜態を演じてばかり。縛られることが大嫌いで、何よりも自由と自然を愛する「山の人」である。世間の規格に自分を会わせようとしないのだから、これでは就職はおぼつかない。

 娘の文枝さんによると、熊楠は剛胆で粗野な風にみえるが、じつはとてもナイーブな人だったという。大酒を飲んで現れるのも、傍若無人なためではなく、その反対だったそうだ。彼女はこう語っている。

「そうではなく、本当に恥ずかしかったのでしょう。初対面の人に会う時はまず、顔を横にそらして手で隠していて、それから少しずつ正面を向いていくほど恥ずかしがり屋でした」

 熊楠は神童と呼ばれて上京したが、予備門で落第し、大学には進学できなかった。そこで、活路をもとめてアメリカ、イギリスに渡ったが、人間関係がうまくいかず、深い傷を負って郷土に帰ってきた。いわば落ちこぼれの人生である。おけに一人息子は精神に病を得て、熊楠の採取した貴重な標本を滅茶苦茶にしたりした。

 熊楠の在野の反骨精神や異常なプライドは、こうした現実に対する怒りと、自らに対するコンプレックスの裏返しでもあるのだろう。東京帝大を出て、中央官庁に就職し、上流の文化人とも広く交流のあった柳田国男は彼にとって別世界の人だった。熊楠は柳田に負けじと、虚勢を張るしかなかったのだろう。

 ともあれ、二人の不仲と断絶は日本における民族学にとって残念なことだった。本来総合されるべきものが、二つに分かれ、そしてやがて衰退していくことになる。熊楠を欠くことで、日本民族学はそのダイナミックな活力を奪われ、創造力さえ奪われたように思われる。


2004年08月10日(火) 南方熊楠と進化論

 ダーウインが死んだ1882年には、南方熊楠はまだ和歌山中学の生徒だった。このころはダーウインの原著はほとんど日本語に訳されていなかった。しかし、「進化論」の考え方は、モースなどの講演を通して、日本の知識人にはかなり浸透していた。

 もっとも、日本に普及していたのは、正確に言うと、ダーウインの「進化論」ではなく、その俗流というべきT・ハックスレーやハーバート・スペンサーの「進化論哲学」の方だった。とくにスペンサーの「社会進化説」は当時の日本人に大きな影響をあたえていた。

 熊楠が渡米する明治19年には、ダーウインの著書は一冊も日本で刊行されていなかったが、スペンサーの著作はすでに20冊以上も日本語に訳されていた。日本人は「進化論」をダーウインからではなく、スペンサーから学んだといっていよい。

 熊楠もスペンサーの数々の著書、「第一原理」「生物学原理」「心理学原理」「社会学原理」「倫理学原理」「進化の哲学」など、ほとんどを読んでいた。そしてこれに魅了され、自分のことを「スペンサーの学徒」とさえ書いた。彼が英国で大英博物館に出した身上書にも、この言葉があるという。

 ちなみに私も高校時代にスペンサーの「進化の哲学」を読み、心を揺すられた経験がある。生物の進化、社会の進化、そして人間の精神の進化、これらすべてが「適者生存を原理とする生存競争」から導かれるのは、たしかに分かりやすく、また人生と社会について壮大なスペクタクルを与えてくれる点で魅力的だった。これによって世界のすべてが分かったように思ったものだ。

 私は30歳を過ぎて、高校で生物学を教えはじめて、ダーウインの主著「種の起源」を初めてまともに読んだ。そしてスペンサーの進化論が、生物学としても社会学としても、かなりいい加減なイカサマであることを理解した。

 ダーウインの主著「種の起源」には「進化evolution」という言葉が出てこない。ダーウインはこの言葉を慎重に避けていて、変化を伴う由来(descent with modification)という用語を使った。じつは「進化」という言葉を最初に使い、流行させたのもスペンサーである。

スペンサーはイギリス社会学の創始者といわれている。スペンサーは、生物界がそうであるように、社会もまた熾烈な生存競争を通し、弱者が淘汰され、適者がサバイバルすることで「進歩」すると考えた。事実、こういう考え方は当時の世界情勢をとてもよく説明していた。

 ダーウインの「自然淘汰natural selection」をスペンサーは「最適者生存survival of fittest」と言い換えた。そして、いつか社会ではこうしたスペンサーのわかりやすい用語が広く受け入れられるようになった。その背景には、世界を制覇したヴィクトリア朝時代のイギリス社会の、進歩や進化を最高の価値と認める自信にあふれた雰囲気があった。

「適者生存」をとなえるスペンサーの「進化論」が、日本でも圧倒的な勢力を持ち得たのも、おなじような上昇気分が社会に蔓延していたためだろう。日清、日露戦争を戦い、世界の列強の一員として植民地政策を推し進め、繁栄を築きつつあった富国強兵策をおしすすめる日本にとって、スペンサーの進化論はその絶好の思想的基盤を与えてくれたわけだ。

 ダーウインものちに、世間の風潮に流されて、「進化」や「最適者生存」などのスペンサー流の言葉を使うことがあった。しかし、彼は最後までスペンサー流の「雄弁」をよく思っていなかったようだ。ダーウインは「自伝」にこう書いている。

「私は自分の仕事がスペンサーの著作によって益された点があるというふうに意識してはいない。あらゆる問題を扱うに際しての彼の演繹的なやりかたは、私の心のもちかたと全く違ったものであった。彼の結論がわたしを納得させたことは一度もない。(中略)彼の基本的な一般化(ある人たちはその重要さはニュートンの諸法則に匹敵するといった)―私は哲学的な観点ではそれらが大変価値あるものかもしれないといっておく―は私には厳密に科学的な役に立つとは思われないような性質のものである。(中略)いずれにしろ、私には何の役にも立たなかった」

 話を南方熊楠にもどそう。若い頃の熊楠は、スペンサーに魅了され、自らを「スペンサーの学徒」などと呼んだことはすでにふれたが、この熱狂もやがて覚めた。熊楠はやがてスペンサーについてはほとんど触れなくなった。

 熊野の自然に分け入り、そのゆたかな生物界のありさまを目にしたとき、「生存競争」や「進歩」「進化」という安易な用語や哲学がいかにインチキか実感したためだろう。西欧的進歩主義の欺瞞も、15年におよぶ海外体験で充分分かっていたと思われる。友人に宛てた手紙で、彼はこう書いている。

「なにか進化進化というが、一概に左様にいわれぬ。……退中に進あり、進中に退あり、退は進を含み、進中すでに退の作用あるなり。これが因果じゃ」

 熊楠が15年におよぶ外遊のあとにたどりついたのは、自然や社会は、競争ではなく、共生によって成り立っているという東洋的な思想への回帰だといえる。そしてその延長上に、粘菌の研究や、「神社合祀令」に対する彼の献身的な戦いがあったのだろう。彼は柳田国男への書簡のなかでも、こう書いている。

「ハーバート・スペンセルなど、さしも議論を正議するようにみずから信じ人も信ぜし人ながら、太古原始の民と今日の辺夷裔俗を同視して、事あるごとに上古民と今日の未開人を区別せず、勝手次第に引き用いたり。さて、その辺夷裔俗の風俗伝話は開化民の創製を伝えたるもので、いわゆる「礼失われてこれを野に求む」なり。このことの不当なるは独人ボースドールフという人前年論じたり」(平凡社版全集八巻二九八頁)

 彼はダーウインのすべての著作を原著で読み、これを自らのものにしていたと思われる。そして、スペンサーに対する批判は口にしたが、熊楠は一度もダーウインを批判しなかった。一元的なスペンサーにくらべて、ダーウインの物の見方ははるかに多元的で深い。熊楠はこうした多元的な見方をのちに「曼陀羅」と呼ぶようになった。スペンサーから離れた熊楠も、ダーウインに対する信頼と畏敬は終生持ち続けたようだ。

(参考サイト)
http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/publ/
hasegawa/hasegawa2.html#darwin


2004年08月09日(月) 救われた神の森

熊野古道は、京から熊野三山に続く日本で最も古い街道の1つだ。とくに継桜王子の参道には、樹齢800年を超える杉の神木が立ち並び、枝を那智の滝の方角だけ伸ばしているため一方杉といわれ、古くから信仰の対象となっていた。

 明治44年、継桜王子神社の廃止が決まると、熊楠はすぐに地元に足を運び、一方杉保存の嘆願書を県に提出するよう呼びかける。村人はこれに応じて、総出で植物の調査測量を行なった。そして一方杉の本数と太さ、稀少植物の実態を記した報告書を熊楠に送った。

 この報告を元に熊楠は和歌山県知事宛に嘆願書を送りつける。この中で熊楠はエコロジーという言葉を使った。様々な動植物が相互に関係し合い、共生しているエコロジーの思想を元に、森の保存の重要性を訴えた。神社と鎮守の森は、自然と人間社会が交わる重要な点で、破壊すれば人の暮らし、国土の破壊までつながる。

 しかし、当時はまだ「環境保護」などという言葉も観念もなかった時代である。熊楠や村人の訴えもむなしく、40本あった一方杉は参道入口の9本を残して伐採された。こうして伐られた樹齢数百年になる神木は、たちまち建築材になり、鉄道の枕木になり、燃料になって消費された。

 このころ熊楠が書いた「南方二書」という直筆原稿が今年4月に見つかった。神の森の伐採中止を求める長さ8mに及ぶ2通の意見書には、神社合祀令がいかに国の緑を破壊し、人々の暮らしや心を破壊する悪法かということが、エコロジーの思想を元にくわしく語られている。

<千数百年来、斧を入れざりし森は、相互の関係はなはだ密接錯雑いたし、近ごろエコロギーと申し、この相互の関係を研究する特殊専門の学問さえ出で来たりおることに御座候>

<神の森の伐採は、一時の金銭を与えるも、益鳥を絶ち、害虫を増やし、やがては大水によって国に永久の物質的な損害を与えるものである>

<愛国心は愛郷心に基づき、愛郷心は、鬱蒼たる樹木により天然の景色を保ち人々の暮らしに慰安を与える神社に大きくよっている。これをなくせば、愛国心、愛郷心も廃れる。神社を合併するをもって、わが帝国の盛衰衰亡に関することなりと信ずる>

 この原稿を受け取った柳田は、私費で製本し、名士に送り、合祀令への反対運動への支援を呼びかけた。財界、学者、ジャーナリストから次々と「南方二書」への賛同の声が寄せられた。そして、和歌山選出の国会議員中村敬次郎は、国政に訴えることを決意した。

 明治45年3月12日、中村議員は帝国議会の委員会で、熊楠が書き上げた演説草稿を読み、森林伐採が国家の基盤を危うくすると主張した。そして、熊楠が撮影した熊野の森の写真を議員に回覧させた。神社合祀を推進してきた議員達は写真をみつめ、写真に添えられた次の言葉に衝撃をうけた。

「合祀のために社蹟荒涼たること、まるで神をさらし者にせしごとし。諸神社みなこの通りなり」

 決議の結果、神社合祀推進の議員全員が「神社合祀令」に反対の意向を示した。これを機に、神社合祀の動きは急速になくなっていった。そして、大正7年3月2日、帝国議会で神社合祀令の廃止が正式に決議された。

 ここに、熊野の森を守れという熊楠と地元の村人の訴えがついに実を結んだわけだ。近代化に突き進んできた政府が、初めて環境保護へ国策を変更した歴史的瞬間だった。こうして、日本の神の森は救われた。

 昭和16年12月29日、熊楠は病床で咲き乱れる大好きな樗の薄紫の花の幻をみて、「医者を呼ぶと花が消えてしまうからこのままにしてくれ」と娘に言い残し、静かに息を引き取った。75年の波瀾万丈の生涯だった。知の巨人は、私たちにこんなすばらしい言葉を残している。

<宇宙万物は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの楽しみとす。これを智と称することかと思う>

 今年の7月、熊野古道が世界遺産へ登録された。私は日本が世界に誇れるものの第一は、この豊かで美しいみどりの自然だと思っている。これを私たちは子孫に残して行かねばならない。経済優先の波が押し寄せるなか、私たちは南方熊楠の思想と生き方に学び、この努力を継続して行かねばならない。

  形見とて何か残さむ春は花
  夏ほととぎす秋は紅葉葉  (良寛)


2004年08月08日(日) 熊楠と柳田国男

 「神社合祀令」を熊楠が「神狩り」といって激しく抗議し、「神社合祀令の廃止」に向けて捨て身の抵抗していたとき、中央政府にあってこの熊楠の運動を注目していた男がいた。内閣書記官を務めていた柳田国男である。

 彼は熊楠が逮捕されたと知って、獄中に彼の著書「石上問答」を差し入れる。熊楠はこれを読み、大いに喜んだ。中央政府に自分の思想や行動を理解してくれる有力な知己が得られれば、どれほど頼もしいことかしれない。以後、二人は文通を続ける。

 柳田国男は明治40年頃から自宅で「郷土研究会」という名の会合をもっていた。柳田は全国各地を旅し、研究会で自らの考えを含めた旅の話していた。そして、明治43年には、場所を新渡戸稲造の自宅に移して、「郷土会」という会合をもつようになっていた。

 当時「郷土」という言葉はまだ普通に使われていなかった。これを普及させたのが、札幌農学校の内村鑑三や新渡戸稲造だった。内村はすでに明治27年に「地人論」を著し、「郷土と政治は、地理学を出発点にして語られなければならない」と説いた。また、新渡戸は講演会で次のように訴えた。

「詩人テニソンは、小さな一輪の花を取って、比花の研究が出来たら、宇宙万物の事は一切分かると言った。即ち、一葉飛んで天下の秋を知る如く、一村一郷の事を細密に学術的に研究して行かば、国家社会の事は自然と分かる道理である」

「東京近在で地理を教えるにも、富士山とか大井川とか緑の遠いものを教えずに、先ず其村の岩とか、近所の山とかを教え、川なら小川でも可いから、其村を流れて居るものから教えたい。歴史も其通りで、東洋歴史よりも、先ず村の歴史を教えたい」

 柳田国男は内村や新渡戸のこうした講演を通した啓蒙活動から大きな影響をうけた。そして「郷土会」をつくり、やがて、官吏の職を辞して、南方熊楠とともに「民族学」の創生へと向かうのだが、それはもう少し後のことである。

 柳田は後に熊楠を「日本人の極限を生きた男」だと評したが、柳田を民族学に駆り立てた動機の一つが熊楠との出合いだったのだろう。二人の間には厖大な書簡が残されているが、そこで柳田が民話や民俗、風習について質問し、南方がこれに答えるという内容になっている。そうしたやりとりを通して、柳田は自分の学問の世界を築いていったわけだ。

 その過程で、柳田は「神社合祀」の問題にも向き合わなければならなくなった。しかし、この問題に対するスタンスは熊楠とはだいぶん違っている。柳田にとって「神社合祀」の問題は第二義的な問題だった。やはり、学問が第一なのである。そのことをよく示しているのが、柳田から熊楠にあてて書かれた明治44年8月14日の手紙だろう。

<御手紙二および葉書共拝見仕り侯。過日の新聞はそれぞれ有効に配布致し、かつ能う限り輿論を喚起し置き侯。この後も小生及ぶだけは尽力仕るべく侯につき、一半御抛擲何とぞ学問のためその御精力を利用なし下されたく候。

 田舎の記者はみな善人ならんも、その他にも先生の孫悟空性を利用し一騒動を起こさせ見て楽しまんとする悪少年ども少なかるまじく侯。もしこれがため、盛年を消耗し給うがごときことあらぱ、その惜愛すべきこと決して神島の霊木の比にあらず侯。

小生も孤憤無告なる点においてすこぶる先生と境涯を同じくしおり候者、決して老成じみたる御忠告をするではなけれど、たまたま貴簡によりて言うべからざる心痛を抱き侯ままかく申し上げ侯。

それにつけても一日も早くかの意見書を御発表なされ、根本的に輿論を改造するの必要有之侯。箇々の問題で修羅を焼し給うはいかにも精力の不経済に侯。そのためには小生の方の聞題は後まわしになりてもよろしく侯。いっそのこと、かの意見書発表に関する一切の事務を小生へお任しなされては如何>

 ここでかの御意見書と柳田が書いているのは、昨日引用した「神社合祀に関する意見」であろう。柳田は熊楠の主張に理解を示しながら、そのあまりに過激な行動については終始批判的だった。この手紙でも「精力の不経済」とまで書いて、熊楠をいさめている。

 しかし、熊楠は自分のやりかたを押し通そうとする。これに柳田が腹を立てるという場面もあった。少し長くなるが、明治44年11月23日付けの柳田の手紙を引用しよう。

<全体この問題につきては行政法上地方長官に独立の権限あり、われわれはもちろん神社局長でも訓令(貴下のしぱしぱ言わるる)など出し得るものにあらず。そんなことをしておれぱ地方の政治は挙がらず。要はただ間接の感動を与うるにあるのみ。(略)

 思うに熊野の天然は、貴下のごとく志美にして策の拙なる豪傑の御蔭にて、これからもなお大いに荒廃することならん。外国学者のプロテストが効を奏するは、欧州のごとく国は分かれて社会は一箇なる聞柄に限るべく、日本にとってはただ国際上の外聞わるきのみにて爪の垢ほどの効もなかるべし。

しかし、小生は必ずしも熊野一地のために声援せしにあらず。全国としていえぱ、まだまだ狂瀾を未倒に防ぎ得、時決して遅きに失せず。一国の問題としては、やがて多少の功を収めて御目にかけ申すべく侯。

 神社局長は小生知人なり。神社局長はかの後もあの問題につき心配し、新聞記着に対し特に自分の意向を明言しておるなり。しかし、一々それを利用して県郡の命令を峻拒するの風を生じては、地方は一日も安泰なること龍わず。拙者が和歌山県におりても、あのような乱暴な反対運動に対しては必ず一旦は抑圧を加え申すべし。(略)

 とにかく今回の意見の相違につきては、東京のわれわれは決して折衷策や姑息主義を持するがため然るにはあらず侯。今後といえども貴下の御本心だけには同情を表し申すべく、方法は皆だめだと評したく候。草々不一>

 こうした齟齬はあったが、二人は連携して「神社合祀法」反対の運動を続ける。そしてついに帝国議会でこれを勝ち取るのだが、この話はまたあした書くことにする。最後の、二人の関係を彷彿とさせるエピソードをひとつ紹介しよう。

 柳田国男は大正2年の年末に田辺の熊楠のもとを訪れた。しかし、熊楠は自宅に初対面の柳田を迎えながら、こちらから旅館に伺うといってすぐに帰した。そして旅館へ行っても帳場で酒を飲み、柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、両者のただ一度の面会は実に奇妙なものだったという。


2004年08月07日(土) 「神狩」を許すな

 南方熊楠は18年間におよぶ外遊を終えて、日露戦争が終わった明治38年(1905年)、38歳のとき日本に帰ってきた。自然に乏しい西洋に比べ、日本こそ生物学研究の宝庫だった。とくに熊楠の故郷の和歌山県には手つかずの自然が残っている。田辺市に居を構えた熊楠は市井にあって、地域の人々との交情を深めながら、研究に打ち込んだ。

 しかし、日露戦争が終わったあとの日本は国情が騒然としていた。戦勝気分で浮かれていた国民の興奮は容易におさまらなかった。全国で講和反対・戦争継続の世論が盛り上がり、政情不安が続いた。農村部でも農民の疲弊は深刻だった。そうしたなかで、内務省は明治39年末に「神社合祀令」を布告した。
 
 これはそれまで各集落ごとにあった神社を合祀して、「一町村一神社」に統合しようとする政策だった。記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を抹殺することで、神道を天皇制のもとに一元化しようとしたものだった。日本の多神教的な信仰風土を一掃し、天皇を中心とした国家神道へと純化しようというねらいがあった。

 熊野には無数の神社があったが、その多くは民間の信仰に基礎をおいたもので、古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交したものだった。こうした種種雑多の神社をすっかりなくして、由緒正しい神々だけを残そうしたわけだ。

 数年間のうちに、全国で何万という神社が姿を消し、神社の鎮守の森が切り倒された。こうした中央政府の政策は、戦争で疲弊していた地元の経済を潤すことにもなった。切り倒された材木が商売の種になったからだ。とくに熊野の豊かな原生林は役人や民間に数々の利権をもたらし、戦争で疲弊した地方の経済に刺激を与えた。

 それは数千年におよぶ遺産を食いつぶすわけで、貴い自然の犠牲の上に可能なことだったが、この政策に反対する声はほとんど聞かれなかった。富国強兵のためにはそれは仕方のない犠牲だと思われた。強い国をつくるためには、神社を統一して、国民の信仰を一つにすることも必要だと考えられた。この点で「神社合祀令」は国民の支持を得ていた。

 中央の政策に従い、神社を合祀することで地方官吏は出世ができたので、むやみにその数を競いだした。神社がなくなれば神木が売り払える。そうした餌で村民を誘導し、さらにそこに悪徳業者が介入し、地方はたちまち醜い欲得がうごめく利権あさりの場になった。

 南方熊楠が「神社合祀令」がとんでもない悪法だと気付いた発端は、田辺市・高山寺の一角にある申神神社の森の伐採だった。熊楠が以前にここで発見した粘菌の標本を作ろうとして訪れたとき、すでにそこに棲息する貴重な生物とおもに森があとかたもなくなくなっていた。熊楠は怒りを爆発させ、さっそく地元の新聞に次々と投書しはじめた。

「歴史も由緒も景勝も問わず、いわんや植物のことなど問うはずもなく、おのおの得たり賢しと神狩りを始む」
「神社合祀は希世の愚挙なり」
「欧米では大金を出して公園を作っている。神社という自然の公園を売却するごとき馬鹿者は世界になし」

 那智の滝の水源にもなる原生林が伐採されることを知った熊楠は、「濫伐にて滝の水も減じ、景勝も大いに損ずること現前にあり」と書いた。そして、森林伐採の利権にからんでいた神官、業者の賄賂スキャンダルを新聞で暴き立てた。これが地元の人々を動かした。訴訟がなされ、裁判に勝利することで、かろうじて那智の原生林が守られた。

 そうするとさっそく反撃がなされた。南方家の所有になる大山神社が突然廃止された。熊楠は「県知事以下が官憲の強さを示さんとて、特に小生に侮辱を加えるものにこれあり」と、ふたたび反撃した。さらに、神社廃止を進める集会へ標本の植物を持って乱入した。

 このとき熊楠は家宅侵入罪で逮捕された。支援者たちが役所に押し掛け、釈放を嘆願するなかで、彼は18日間にわたり拘置所に拘留された。出獄した熊楠は闘いやめなかった。新聞への投書を続け、地方を回り森林保護の啓蒙活動を続けた。

 熊楠は「神社合祀令」がいかに地域共同体を破壊し、人々の心の荒廃に寄与しているかを暴き立てずにはいられなかった。彼は友人の白井光太郎に宛てた明治45年2月9日付の手紙にこう書いている。

<…そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩(そうとう)滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中(1163-1165)に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併(らんべい)、もっとも酷く行なわれたるぞ珍事なる。

 すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、はたして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹(み)るなり。

 …かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹林著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり大水風害年々聞いて常時となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無惨なれ>

 熊楠が命がけで守ろうとしたもの、それは日本の豊かな国土と、そこに自然と調和しながら暮らしている人々素朴な信仰心だった。彼は日本の自然が世界に例がない宝であることを18年間におよぶ外国放浪と、その間の生物学研究によって知っていた。日本が世界に誇る最大の宝を、地方政府の役人と商人たちが結託して壊していく現状に、文字通り身もだえた。

 しかし地団駄踏んでいただけではない。彼には第一級の知性と見識があった。またこれを表現する文章力も抜群だった。彼は彼の持てる力を総動員して、猛烈な勢いで新聞や雑誌への投稿を続け、中央へも必死に働きかけた。その頃の彼が渾身の力を振り絞って書いた「神社合祀に関する意見」から、部分的に引用しておこう。「青空文庫」から写させていただいたものである。

<むかし孔子は、兵も食も止むを得ずんば捨つべし。信は捨つべからず、民(たみ)信なくんば立たず、と言い、恵心僧都は、大和の神巫(みこ)に、慈悲と正直と、止むを得ずんばいずれを棄つべきと問いしに、万止むを得ずんば慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲ならずとも、他に慈悲を行なう力ある人よくこれをなさん、正直を捨つる時は何ごとも成らず、と託宣ありしという。

 俗にも正直の頭(こうべ)に神宿ると言い伝う。しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状(かんじょう)なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。かく上下を一挙に欺騙(ぎへん)する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表(せいひょう)するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり>

<わが神社何ぞ欧米の寺院、礼拝堂に劣らんや。ただそれ彼方(かなた)には建築用材多く、したがって偉大耐久の寺院多し。わが国は木造の建築を主とすれば、彼方ごとき偉大耐久のもの少なし。故に両大神宮を始め神社いずれも時をもって改造改修の制あり。欧米人の得手勝手で、いかなる文明開化も建築宏壮にして国亡びて後までも伝わるべきものなきは真の開化国にあらずなどいうは、大いに笑うべし。

 バビロン、エジプト等久しく建築物残りて国亡びなんに、どれほどの開化ありたりとてその亡民に取りて何の功あらん。中米南米には非凡の大建築残りて、誰がこれを作りしか、探索の緒(いとぐち)すらなきもの多し。外人がかかる不条理をいえばとて、縁もなき本邦人がただただ大妓になるべき意気な容姿なきは悦ぶに足らずと憂うると異ならず。娘が芸妓にならねば食えぬようになりなんに、何の美女を誇り悦ぶべき。欧米論者の大建築を悦ぶは、これ「芸が身を助くるほどの不仕合せ」を悦ぶ者たり>

<ただし、わが国の神社、建築宏大ならず、また久しきに耐えざる代りに、社ごとに多くの神林を存し、その中に希代の大老樹また奇観の異植物多し。これ今の欧米に希(まれ)に見るところで、わが神社の短処を補うて余りあり。外人が、常にギリシア・ローマの古書にのみ載せられて今の欧米に見る能わざる風景雅致を、日本で始めて目撃し得、と歎賞措(お)かざるところたり。

 欧州にも古えは神林を尊び存せしに、キリスト教起こりて在来の諸教徒が林中に旧教儀を行なうを忌み、自教を張らんがために一切神林を伐り尽せしなり。何たる前見の明ありて、伐木せしにあらず、我利のために施せし暴挙たり。それすら旧套を襲いて在来の異神の神林をそのまま耶蘇教寺の寺林とし、もってその風景と威容を副えおる所多し。市中の寺院に神林なく一見荒寥たるは、地価きわめて高く、今となって何とも致し方なきによる。これをよきことと思いおるにはあらじ>

<千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。熊沢伯継の『集義書』に、神林伐られ水涸(か)れて神威竭(つ)く、人心乱離して騒動絶えず、数百年して乱世中人が木を伐るひまなきゆえ、また林木成長して神威も暢るころ世は太平となる、といえり>

<定家卿なりしか俊成卿なりしか忘れたり、和歌はわが国の曼陀羅(まんだら)なりと言いしとか。小生思うに、わが国特有の天然風景はわが国の曼陀羅ならん。前にもいえるごとく、至道は言語筆舌の必ず説き勧め喩(さと)し解せしめ得べきにあらず。その人善心なくんば、いかに多く物事を知り理窟を明らめたりとて何の益あらん。

 されば上智の人は特別として、凡人には、景色でも眺めて彼処(かしこ)が気に入れり、此処(ここ)が面白いという処より案じ入りて、人に言い得ず、みずからも解し果たさざるあいだに、何となく至道をぼんやりと感じ得(真如)、しばらくなりとも半日一日なりとも邪念を払い得、すでに善を思わず、いずくんぞ悪を思わんやの域にあらしめんこと、学校教育などの及ぶべからざる大教育ならん。

 かかる境涯に毎々到り得なば、その人三十一字を綴り得ずとも、その趣きは歌人なり。日夜悪念去らず、妄執に繋縛(けいばく)さるる者の企て及ぶべからざる、いわゆる不言(いわず)して名教中の楽土に安心し得る者なり。無用のことのようで、風景ほど実に人世に有用なるものは少なしと知るべし>

<かくのごとく微細生物も、手水鉢や神池の石質土質に従っていろいろと珍品奇種多きも、合祀のために一たび失われてまた見る能わざる例多し。紀州のみかかる生物絶滅が行なわるるかと言うに然らず。伊勢で始めて見出だせしホンゴウソウという奇草は、合祀で亡びんとするを村長の好意でようやく保留す。イセデンダという珍品の羊歯(しだ)は、発見地が合祀で畑にされ全滅しおわる。スジヒトツバという羊歯は、本州には伊勢の外宮にのみ残り、熊野で予が発見せしは合祀で全滅せり。

 日本の誇りとすべき特異貴重の諸生物を滅し、また本島、九州、四国、琉球等の地理地質の沿革を研究するに大必要なる天然産植物の分布を攪乱雑糅(ざつじゅう)、また秩序あらざらしむるものは、主として神社の合祀なり>

<かくのごとく神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す>

<当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷を喫(くら)うに異ならん。かく神社を乱合し、神職を増置増給して神道を張り国民を感化せんとの言なれど、神職多くはその人にあらず。おおむね我利我慾の徒たるは、上にしばしばいえるがごとし。国民の教化に何の効あるべき。かつそれ心底から民心を感化せしむるは、決して言筆ばかりのよくするところにあらず>

<わが国の神社、神林、池泉は、人民の心を清澄にし、国恩のありがたきと、日本人は終始日本人として楽しんで世界に立つべき由来あるを、いかなる無学無筆の輩にまでも円悟徹底せしむる結構至極の秘密儀軌たるにあらずや。加之(しかのみならず)、人民を融和せしめ、社交を助け、勝景を保存し、史蹟を重んぜしめ、天然紀念物を保護する等、無類無数の大功あり>

(次回に続く)

(参考サイト)
http://www.nanki-town.jp/history/kumagusu.htm
http://homepage1.nifty.com/boddo/kmgs/gousi.html
http://www.genbu.net/tisiki/jinjya.htm
 


2004年08月06日(金) 天皇が愛した生物学者

 4年ほど前から、インターネットで知り合った仲間を中心に「万葉の旅」をしている。去年は奈良に泊まって、法隆寺を訪れた。一昨年は紀伊の白浜に泊まって、近くの田辺市にある南方熊楠の記念館を訪れた。

 紀州の海を見下ろすこんもりとした丘の上にある記念館の館内には、熊楠の愛用した植物採集用具やルーペ、顕微鏡、色とりどりの菌類彩色図や珍しい粘菌標本が展示したあった。それから、熊楠のデスマスク。私はこの展示室で、日本のエコロジー運動の先覚者としての彼の巨大な業績を知った。

 南方熊楠(1867〜1941)は和歌山城下に生まれ、白浜に近い田辺市で没した。神童とよばれた彼は上京して大学予備校に通った。そこで夏目漱石や正岡子規と同窓だったという。しかし、彼は落第して、大学進学をあきらめた。彼のあまりに大きな個性が箱庭のような日本の学問の風土にあわなかったのだろう。

 そこで日本を離れ、20歳から14年間、独学で植物学の研究をしながら、アメリカ各地や西インド諸島を放浪した。34歳のときイギリスに渡り、大英博物館に入り浸って、万巻の書籍を片っ端から書写した。そして「ネイチャー」など学術雑誌に積極的に投稿し、「日本にミナカタあり」と欧米の学者を驚愕させたという。

 明治33年に帰国してからは、和歌山県からほとんど離れなかった。田辺市に構えたまま、そこで彼の生涯のテーマである粘菌の研究を続けた。自然の宝庫である熊野の山中に分け入り、粘菌の新種を数多く発見した。論文や随筆を次々と発表し、在野の博物学者として、その名前を世界にとどろかした。それだけではなく、民族学者としても先覚的な業績を残している。東京にいた柳田国男が生涯の師として仰いだのも熊楠だけだった。

 昭和4年6月1日は、熊楠にとって生涯忘れることの出来ない日だ。この日、紀伊の神島に彼は昭和天皇を迎えた。島を案内した後、無位無冠の彼が、御召艦の長門の甲板上で、昭和天皇に白浜の生物について講議した。講義が終わってハプニングが起こった。キャラメルのボール箱に入った動植物の標本を、突然天皇に差し出したのだ。

「南方にはおもしろいことがあったよ。長門(御召艦)に来た折、珍しい田辺附近産の動植物の標本を献上されたがね、普通献上というと桐の箱か何かに入れて来るのだが、南方はキャラメルのボール箱に入れてきてね……それでいいじゃないか。」

 天皇は後に側近にこう語ったという。そして、昭和37年5月、天皇は33年ぶりに熊楠の故郷南紀白浜へ行幸した。そのとき天皇は、御宿所の屋上から田辺湾の神島を眺め、彼を追悼してこんな歌を詠まれた。

 雨にけぶる神島を見て紀伊の国の
  生みし南方熊楠を思ふ

 昭和天皇のこの歌を刻んだ歌碑が熊楠記念館にいたる石段の傍らに立っていた。その歌碑の立つ丘からは、木立の間に大平洋と田辺湾が開けていた。おそらく神島も見えていたのだろうが、私にはよくわからなかった。

 昭和天皇は生物学を愛されたが、おそらく心中の師として南方熊楠がいたのだろう。天皇が歌にフルネームの個人名を記すのは異例のことだという。それほど熊楠の業績を評価し、人となりを愛していらしたのだろう。

 記念館を訪れることで、こうした彼の華々しい生涯について、私は多くを学んだ。しかし、彼にはもう一つの「華々しい人生」があった。私は彼が「神社合祀令」に命がけで反対した事実の意味を見逃していた。

 北さんが雑記帳に連載した「南方熊楠論」を読み、NHKの「そのとき歴史が動いた」を見て、エコロジストとして日本の緑を守った、南方熊楠の熾烈な闘争の実体を知った。明日の日記でこれをしっかり書いてみよう。

(参考サイト)
http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
http://homepage1.nifty.com/boddo/kmgs/sira.html


2004年08月05日(木) 民主主義の根底にあるもの

 昨日の日記で、「基本的人権は天与の権利である」と書いた。これは西洋の啓蒙主義が人類にもたらした最大の福音である。しかし、西洋の啓蒙主義にも限界がある。それは、この思想がともすれば人間中心主義に傾きすぎることだ。

 人間に天与の権利があるとしたら、犬や猫にはないのだろうか。松や檜はどうだろう。カメやカエルやナマズや蜻蛉についてはどうだろう。彼らの生存もまた天与の権利ではないのだろうか。

 西洋文明の伝統の中にはこうした発想が薄かった。ギリシャもローマも人間のために自然を利用し、そして挙げ句の果てに破壊した。そのあとをついたヨーロッパ文明も、同じ轍を踏んで、広大な森林を、そこにすむ生物ごと撲滅した。

 森が破壊されたとき何が起こったか。害虫や鼠が異常に繁殖し、これらが村や町を襲い、ベストや疫病が大流行した。これによって13、4世紀にはヨーロッパの人口が半減してしまった。こうした反省の上に、西洋でも次第に自然の価値が尊ばれるようになり、エコロジーの思想が生まれてきたわけだ。

 私たち日本人は仏教の「不殺生戒」が、動物や植物の別なく、あらゆる生命に及ぶものであることを知っていた。時には石ころや岩にまで「神」としてあがめた。それは私たちの先祖が自然の恵みについてよく理解していたからである。エコロジーなど学校で学ばなくても、生まれながらのエコロジストであった。つまり、自然との共生こそが私たちの文化の本質だったわけだ。

 この生まれながらのエコロジーは神道と呼ばれていた。神社は必ず鎮守の森をもち、そこに多様な植物や動物たちをすまわせた。村人たちは身近にその森を見ることで、やすらぎと豊かさを感じ、同時に畏敬を抱き、愛郷心をも抱いていたわけだ。

 明治になり、近代化が進む中で、これらの森が次々と伐採されることになる。とくに日露戦争後の明治39年に帝国議会で制定された「神社合祀令」がこれを後押しすることになった。明治39年に19万を数えた全国の神社は、わずか三年の間に14万7千まで減少し、鎮守の森として守られてきた貴重な自然の多くが消滅した。

 もし、この「神社合祀令」がそのまま続いていたら、おそらく現在の日本の姿は大きくかわっていただろう。近代化された多くの国々のように森林率の低い国になっていたかも知れない。しかし、そうはならなかった。一人の男が立ち上がって、火の玉のような運動を始めたからだ。その男の名前は南方熊楠である。彼については明日の日記で紹介しよう。

 さて、民主主義について書くつもりで、エコロジーの方に話が進んだが、これは何も脱線というわけではない。民主主義の根底にあるものは何か。それは人間世界だけではなく、この地上に生きる森羅万象の命を尊重するという共生の思想である。私は民主主義はここまで深くなければならないと考えている。


2004年08月04日(水) 天与の権利

 昨日の日記で、私は「基本的人権を侵すことは多数決で決めてはならない」と書いた。また、法も又、基本的人権を尊重して制定されるべきことを主張した。

 こんなことをくだくだしく書いたのも、世の中には「多数決でなんでも決めてよい」「多数決で決まったことには従わねばならない」という考えがはびこっているからだ。これはゆゆしいことである。したがってこれがファシズムの本質だということもあわせて指摘した。

 ところで、それでは何故、私たちは基本的人権を尊重しなければならないのだろうか。ある人は「憲法に書いてあるから」と答えるだろう。私も、昨日の日記でうっかり「憲法に定められた基本的人権を冒すようなことは法で決めていけない」と書いた。

 これは充分な答えとはいえない。その考え方だと、基本的人権を否定するような憲法ができたとき、これに従うしかなくなってしまう。北さんに指摘されて、私はこのミスに気付き、「憲法に定められた」を「そもそも」という文章に置き換えた。正しい答えは、あくまでも「基本的人権を侵すことは法で決めてはならない」ということであり、そして「憲法」もまた例外ではない。

 こうした考え方は、日本ではあまり一般的ではないかもしれない。憲法に保障された基本的人権を敵視する国家主義のひとびとだけではなく、現在の憲法を神聖視する一部の人々も、あるいはこれに抵抗を感じるだろう。しかし、憲法でさえ従わなければならないもっと上位の「規範」が存在する。そしてそれは「基本的人権の尊重」ということだ。

 思想・信条の自由や、身体の自由ということは、憲法に書かれているから尊重すべきことではない。そうではなく、尊重すべき天与の権利であるから、憲法に書かれているのである。こう考えることが正しいわけだ。

 こうした考え方は、キリスト教を母胎とする西洋の人々にはよくわかるだろう。政治や法は宗教の真理からいえば、一段低い世俗上のとりきめに他ならない。こうした理念や信念を重視の傾向は、宗教上の立場を越えて受け継がれている。デカルトやスピノザ、ロックの思想がそうだし、「自由、平等、博愛」を旗印にしたフランス革命やアメリカの独立戦争もその一例だろう。

「We hold these truths to be selfevident that all men are Created equal,that they are endowed by the Creator with certain unalienable Rights, that amon these are Life,Liberty,and the Pursuit of Happiness…」(アメリカの独立宣言)

 人間は等しく何人もこれを侵してはならない基本的な権利をもち、これが自明で普遍的な真理であるという考え方は、こうした西洋的な思想風土の中で生まれた。そして人間が生まれながらして持つこうした権利は「自然権」と呼ばれている。

 歴史の教科書には、オランダのグロティウス(1583〜1645)の名前が上げられている。彼は三十年戦争の惨禍を実見して、主著『戦争と平和の法』(1625)を著し、戦時でも国家間・個人間にも守られるべき正義の法があることを説いた。このため彼は「近代自然法の父」・「国際法の祖」と呼ばれている。この自然法の思想から「基本的人権」という考え方が成熟して行ったわけだ。

 自然法の考え方は、日本人には馴染み薄いかも知れないが、万人がこうした生まれながらの権利を持つということは、たとえば中国の思想家も主張していて、まんざら異質なものではない。だからこそ、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」という言葉が広く受け入れられたわけだ。私たちは戦争の悲惨を二度と繰り返さないためにも、この「天与の権利」を大切にしたいものだ。


2004年08月03日(火) 多数決原理が生むファシズム

 世の中には「多数決原理」が民主主義だと考えている人がいる。そして多数決で決めたことには従わなければならないという意見の持ち主がいる。しかし、これは間違っている。多数決の絶対化は民主主義ではない。むしろファシズムだ。

 このことを理解するために、身近な例をあげよう。町内会の総会で「祝日には国旗を掲げることにする」などと決めて、これを各家庭に強要したらどうだろう。これはあきらかにおかしいと誰もが思うのではないか。

 さらに一歩を進めて、町内会ばかりでなく、市会でも県会でも国会でこうしたことを決めるのもおかしいということに気付いてほしい。理屈を言えば、これは思想と信条の自由、身体の自由を保障した憲法に違反することだ。だからもしこれを認めれば、ファシズム(全体主義)になる。

 ナチスドイツは多数決の原理を使って政権をとった。ヒトラーは圧倒的多数の民衆に支持されていた。どうしてそのようなことができたのか。ドイツの人々が、多数決原理を民主主義だと信じ込まされたからだ。

 しかし、いくら多数決でも、他人(ユダヤ人)の基本的人権を蹂躙することは許されない。世の中には多数決で決めてはならないものがある。基本的人権を侵すようなことは多数決で決めてはならないことだ。これは民主主義ではなく、民主主義の否定である。無知と野蛮以外の何者でもない。

 どうようのことが、戦前の日本でも行われた。普通選挙法のもと国政選挙で選ばれた人々が、圧倒的に軍部を支持して、先の侵略戦争が行われたわけだ。その結果、2000万以上ものアジアの人々の人命が失われた。

 法の支配についても、「多数決で成立した法については従うべきだ」という誤解がある。「悪法も法なり」というわけだが、これも間違っている。その理由は憲法に定められた基本的人権を冒すようなことは法で決めていけないからだ。何でも法で決めてよいというわけではない。

 そもそも法はなんのためにあるのか。法は人々を支配するためにあるのではない。人々をいわれのない権力の横暴から守り、人々を自由にするためにあるのだ。このことは近代法が成立したイギリス議会政治の歴史を繙けばわかる。

1215年 マグナ=カルタ(貴族が王権の制限を認めさせる)
1628年 権利の請願(議会が11ケ条からなる国民の基本権を認めさせる)
1679年 人身保護法(人民の不法逮捕を禁止、裁判を受ける権利を保障)
1689年 権利章典(国民の生命、財産の安全、言論の自由を保障)

 繰り返そう。法はなんのためにあるのか。人民の立場に立てば、その答えは明らかだ。それは人々の基本的人権を保障するためにある。法が人々を縛り、命令したりするためにあるというのは、人民を支配する側の論理である。

 民主主義の基本は国民主権ということ、やさしくいえば、人民の立場に立って、人民の手で政策を決め、人民の手で実行するということだ。人々を支配するだけの封建的な「掟」と、個人の自由を保障する民主的な「法」は、その精神において180度違っている。それでは「法」が擁護する「自由」とはそもそも何か。

 自由というのは、「自らに由(よ)る」という意味だ。したがって自由であるためには、自らが確立されていなければならない。「個の確立」ということができていないと、民主主義は衆愚政治に堕落する。自由とは、つまり個の確立でもあるわけだ。

 だから、「個」の自覚を欠いた付和雷同の多数決は民主主義とはいえない。多数決は「個人の自由意志」によるものでなければならないし、また将来においても人々が「自由な個人」であり続けるなめに必要な「基本的人権の尊重」ということがその前提としてなければならない。したがって、民主主義においては少数意見が尊重される。

 現在、学校ではいじめが目立つ。これは人権教育がないがしろにされているからだ。人権を尊重することを教えるのが教師の役目だが、最近ではその教師の人権が公然と脅かされている。東京都教育委員会による「君が代不起立教員」の大量処分がそうだ。

 社会でもいじめや虐待が横行している。リストラが横行し、失業率が増大するなかで毎年3万人以上の自殺者がこの国で大量生産されている。この国を住み良いものにし、世界から戦争をなくそうと思ったら、私たちはもっと「人権」という大切なものに目を向けなければならない。よき市民であるために、私たちはもっと「人権感覚」を磨くべきだ。


2004年08月02日(月) ユビキタス社会の夢

 坂村健東大教授が1984年に開発したコンピュータ基本ソフト「トロン」が家電や自動車のエンジン制御システムを中心にいろいろなところで使われている。坂村教授が今ねらっているのは、トロン搭載の電子荷札(ICタグ)の実用化だという。

 ICタグというのは、砂粒ほどの集積回路に商品情報が入り、端末に情報を送る小型のアンテナが付いたもので、坂村教授は「ICタグはモノと情報を結びつける接着剤。ユビキタス社会の実現にかかせない」という。

 ユビキタス社会というのは、「どこでもコンピューターが入り込み、ネットワークで繋がる社会」のことだ。トロンは廉価で機動性にすぐれているので、ユビキタス社会を動かす基本ソフトとしてすぐれているし、すでに家電などに搭載されて、シェア世界一の実績を誇っている。

 「トロン」をICタグの世界標準にできれば、日本の国産技術が世界貢献したことになり、私たちも鼻が高い。トロンをICタグの世界標準にする動きは広がり、すでに海外大手をふくむ450社がこれに参加しているという。

 しかし、これに水を差そうという動きがないわけではない。それがわが国の経済産業省がすすめている「響プロジェクト」だ。04年度から13億円の国費を投じ、「1個5円のICタグ」を目差して、こちらも国際基準をねらっている。

 経済産業省が押し進めるのは、「トロン」ではなくて、米国のMITの教授や米国の企業が中心になって開発したシステムだ。これを日本企業の優秀な半導体技術でICタグとして商品化しようというものである。坂村教授は「技術は大きく世界をリードしている。実用化にさも近いのは我々のグループ」だというが、「技術力」ばかりではなく「政治力」がものをいうのが国際基準統一の世界である。

 経済産業省がアメリカ製の基本ソフトにこだわるのは、やはり外圧があるからだろう。実は、トロン開発直後の1988年に、日本政府は教育用パソコンのOSとしてトロンの採用を決めたものの、米通商代表部がこれを認めなかったため、導入を断念したいきさつがある。これに懲りているので、今回は経済産業省がさきまわりして、トロンつぶしにかかったのだろう。トロンはまた潰されるに違いないという読みがあって、あえてトロンつぶしの先頭に立ち、勝ち馬のおこぼれにあずかろうと考えたのかもしれない。

 日本はアメリカの内政干渉によって国産パソコンを断念したばかりに、情報社会の基底にある基本ソフトをアメリカに握られるという対米従属のシステムを甘受しなければならなかった。苦節20年を経て、ふたたび世界の檜舞台に登場したトロンを、ここでアメリカの尻馬に乗って叩くことが、日本政府のすべきことだろうか。こうした対米従属路線を踏襲する小泉内閣の姿勢に憤りを覚えずにはいられない。


2004年08月01日(日) 古代ギリシャには緑があった

 ギリシャと言えば、コバルトブルーノの美しいエーゲ海や白亜のパルテノン神殿を思い起こす人が多いだろう。しかし、エーゲ海が青いのはプランクトンが少ないからだ。したがって、海には魚も少ない。海の異常な青さや透明さは、不毛さの象徴でもある。

 それではなぜ、海にプランクトンが少ないのか。それは森がないからだ。裸の大地に降り注ぐ雨はそのまま海に流れる。とうぜん、無機質の水であり、いのちを育む水ではない。

 しかし、ギリシャにも昔はゆたかな緑があった。以前、NHKの番組で、ギリシャの地層を調べていたが、そこから実にいろいろな植物の花粉の化石が検出され、そこに森林があったことが紹介されていた。

 ギリシャの石つくりの神殿も、昔は木でできていたようだ。梅原猛さんはパルテノン神殿もほんとうは木で建てたかったのではないかと書いている。ギリシャ神殿の特徴になっている膨らみをもったエンタシスの円柱は、昔それが木でできていたことの名残だという。

 しかし、パルテノン神殿が建てられた頃のギリシャにはすでに森が失われていたようだ。その直接の原因はペルシャとの戦争である。ギリシャは軍船を作るために多くの材木を消費した。すでにアテネの周辺にめぼしい森林はなかったに違いない。

 森林破壊のもう一つの、そして最大の原因は、農耕と放牧である。ギリシャの緑を滅ぼしたのは大麦とヒツジだという。麦畑やヒツジの放牧のために森林が切り開かれた。ヒツジは草を根こそぎ食べるので、やがて山から緑が失われた。そして緑を失った文明は「略奪」によるしかなくなる。アテネがやがて戦争にあけくれるようになり、そして滅びていったのは、緑を失った文明の必然の運命だろう。

 アテネに代わり、ローマ帝国が地中海に覇権を確立したが、やがてローマ文明も地中海の緑を破壊し尽くして終焉を迎える。スペイン、イギリスがこれに続くがやはり、同様の運命をたどることになった。

 17−18世紀のイギリスは強い海軍力を持って七つの海を支配していたが、軍艦一隻を作るために20haもの林を必要とした。森がなくなり、帆柱につかう大木が確保できなくなるにつれて、イギリスの海軍力が傾いた。イギリスはアメリカなどの植民地から豊富な木材を輸入しようとした。そのためアメリカが開拓され、その森林も17〜20世紀にかけて大きく減少したのだという。

 現在砂漠になっているイランやイラクも、昔は豊かな緑の楽園だった。文明は緑の中で育まれるが、やがてその緑を使い尽くすことで、衰退する運命にあった。パルテノン神殿が建てられてから2千数百年がたっている。二千年後、日本はどうなっているのだろう。その頃の日本人は、かって日本がゆたかな緑の島であったことを知らないかもしれない。

 最後に各国の森林率をあげておこう。かって栄えた国々の森林率の低さが目に付くだろう。出典はFAO (2003) Global Forest Resources Assessment 2000である。

72.0%  フィンランド
65.9%  スゥエーデン 
64,6%  コンゴ
64.3%  ブラジル
64.0%  日本
63.3%  韓国
58.7%  マレーシア
50.4%  ロシア
47.0%  オーストリア
34.0%  イタリア
30.7%  ドイツ
30.2%  ベトナム
29.7%  ニュージーランド
28.9%  ノルウエー
27.9%  ギリシア、フランス
26.5%  カナダ
24.7%  アメリカ合衆国
21.6%  インド
20.1%  オーストラリア
19.9%  ハンガリー
19.4%  フイリピン
17.5%  中国
13.3%  トルコ
11.6%  イギリス
11.1%  オランダ
7.3%   南アフリカ
6.4%   イスラエル
4.5%   イラン
4.2%   エチオピア
3.1%   パキスタン
2.1%   アフガニスタン
1.8%   イラク
0.7%   サウジアラビア
0.3%   クゥエート
0.2%   リビア
0.1%   エジプト

(参考サイト)
http://biodiversity.sci.kagoshima-u.ac.jp/suzuki/ed/demae/yousi.htm


橋本裕 |MAILHomePage

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