橋本裕の日記
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45.ジャージの女
会館に着くと、私はしばらくそのロビーでくつろいだ。ロビーに人気はなく、私はソファに深く腰を下ろして、窓の空を眺めた。雨は上がっていたが、鉛色の雲が垂れていた。冷房があまり利いていなかった。上着を脱いで暑さをしのいだ。
デデキントを読む気にもならず、私はぼんやりしていた。会館の建物は古くさく、レストランもたいして格式がありそうではなかった。私は張りつめていたものがいつかほどけて、リラックスした。列車の中で浮かんだ「結婚」についての真摯な考え方がだいぶん薄れていた。河田聡子という女性についても、じっくり観察してやろうと思った。
私は5分ほど前にロビーを出て、会館の中にある指定されたレストランに入っていった。思った通りの殺風景な食堂で、そこも閑散としていて、窓際の席で親子連れが食事をしている他は、客が見当たらなかった。愛想のない学生のアルバイトのようなウエイトレスから水だけ貰って、河田総子の到着を待った。
約束の12時を20分ほど過ぎて、一人の大柄な女性が入ってきた。黒っぽいジャージの運動服で、小脇に布製のバッグを抱えていた。一目見てお見合いの相手のようではなかったので、私は視線を逸らせたが、女性はそのまま私の方に歩いてきた。
「橋本さんですか」 「そうです」 「河田聡子です。お待たせしました」 私は頭を下げると、読みさしのデデキントを背広のポケットにしまった。
ウエイトレスが注文を取りに来た。私はオムライスを、総子はスパゲッティを注文した。彼女はウエイトレスの運んできたグラスの水を、うまそうに目を細めて飲んだ。こめかみや首筋に汗がにじんでいた。私も背広を脱いで、グラスの水を飲んだ。彼女は勤務先の気比中学を出たところで、自転車がパンクしたのだという。部活を途中で抜けてきたようだった。
「写真とまるで別人なので、分からなかったでしょうね。これが普段の私なので、ありにままを見ていただこうと思って、すっぴんのままでやってきました」 ハンカチで汗を拭う彼女を見て、私は苦笑した。たしかに、写真ほどの美人ではなかった。 「申し訳ありませんが、2時過ぎには学校へ帰りたいのです」 「それは残念ですね」
中学で数学を教えている総子は、バスケット部の副顧問をしていたが、顧問の教師が急に都合が悪くなって、他校との練習試合の面倒をみなければならなくなったらしい。 「昨夜、そのことでお電話をさしあげたのですが、お留守のようでした」 「帰りが遅くなりました。こちらからお電話を差し上げればよかったですね」 総子にはやはり昨夜電話すべきだったと思った。
<今日の一句> 星星の ささやくごとし 花見酒 裕
アメリカとイラクの戦争を見ていて、徳川家康の大阪城攻めを思い出した。家康は二段階で大阪城を攻めている。冬の陣では講和を結び、堀を埋めさせた。そして夏の陣では一気に本丸を攻めた。今度の湾岸戦争と何だか似ていると思った。
先の戦争で、アメリカはイラクに飛行制限地区を設け、大量破壊兵器の廃棄を求めた。そして国連の査察団に徹底的に調べさせた。こうしてイラクのフセイン体制をぎりぎりまで弱体化したうえで、いよいよ首都バクダッド攻撃に踏み切ったわけだ。
大阪城を攻めるとき、家康は方向寺の鐘銘に因縁をつけた。「国家安康」は「家康」の文字を2つに切って徳川家を呪うものであり「君臣豊楽」で豊臣家が再び君主になろうという意図を秘めたものだ、というのである。
ブッシュは911テロをきっかけにした。これもいちゃもんである。イラクがテロに関与したという証拠はない。しかし、ブッシュはアメリカ市民にテロの恐怖を吹き込み、これを追い風にしてイラク攻撃に踏み切った。
このように共通点はあるが、両者には決定的に違っているところがある。それは徳川と豊臣の戦争に参加したのはそれぞれの陣営の兵士達で、庶民が負傷したり殺戮されることはなかったということだ。
大阪夏の陣は1615年4月26日に始まり、5月8日には、淀殿、秀頼は切腹し、豊臣家が滅びた。アメリカは4月の末までに、あらたに10万人の兵力をイラクに投入するのだという。アメリカとイラクの戦争はいつまで続くのだろうか。
すでにイラクの民間人に数百人の犠牲者が出ているようだ。米英軍にもあわせて49人の死亡が確認されているという。アメリカは人道主義を標榜している。しかし、その行いはとても人道的だとはいえない。「今回の武力行使が人倫の根源に背く」という作家の辺見庸さんの言葉を引用しよう。
<思えば、私たちの内面もまた米英軍に爆撃されているのであり、胸のうちは戦車や軍靴により蹂躙されているのだ>
古代ギリシアの抒情詩人ピンダロスは、「戦争はその体験なき人々には甘美である」と書いている。「最も正しき戦争よりも、最も不正なる平和を取らん」と書いたのは、古代ローマの文人政治家キケロだった。
<今日の一句> 乳与ふ 母とほほえむ 春の宵 裕
母親が赤ん坊を抱いて乳を含ませる平和でほのぼのとした光景を昔はよくみかけた。大学生の頃、帰省の列車の中で私の前に坐っていた若い母親がブラウスの胸をはだけて白い乳房を取り出すのを見たことがある。私の妻も実家では食事中に胸をはだけて乳を与えていた。
福井に帰省すると弟の嫁が、私の前で胸をはだけて乳を与えた。私は目のやり場に困ったが、考えてみれば、これは私を身内と思う安心感がそうさせたのだった。やがて乳を与える彼女も、それを眺める私も、微笑んでいた。
17音に言葉を並べる俳句はだれでも気軽に作れる。プロやアマの区別もあってないようなものだ。句会などでも、主宰者の句がまったく選にはいらないこともあるという。俳人の楠本憲吉さんが、「俳句上達法」(講談社)にこんなことを書いている。
<「野の会」という一結社の主宰者である私が、自分の結社の例会に出ても、まったく自分の句が選に入らないことさえある。こういうとき、主宰者としては、まるで針の筵に坐らされているような思いがしてくるものだ。 それだって、オールスコンク(まったく誰もとってくれない)だったのなら、まだいい。というのは、みんなが、「今日は主宰者は投句していないのだな」と善意に解釈してくれる可能性があるからだ。ところが、そういうときに限って、終わりの方になって、一点か二点、誰かがとってくれる。とられれば当然名乗らなければならない、「なんだ、句を出していたのか、それにしては点の取り方が少ないな」と思われていると思うとまた冷や汗>
芭蕉は「俳諧は三尺の童にさせよ」といっている。常識にかたまった大人や玄人の句よりも、あんがい子供の句にいいものがある。今日はそうした子供の句を楠本さんの「俳句上達法」の中からいくつか紹介しよう。
○幼稚園児の句 日やけした パンツのあとが まっ白だ 塚田祐介 にゅうどうぐも げんことかためて にらんでいる 平松里恵 おぼんのひ かおよりおおきい すいかたべ やまだあけみ
○小学生の句 こすもすが おじぞうさんの かおなでる 辻かほり 自転車で 走りぬけたら きんもくせい 大和剛 稲を刈る 母はかかしに 声かけて 松本晋平
○中学生の句 ひまわりの そこだけ夏を ひとりじめ 石灘真樹子 坂道を すずしい風と かけ下りる 内田大介 あぜ道の 横一列に 春がある 浜野加代子 目の中も 青葉でそまる 雨あがり 木谷由紀子
「なぜ俳句を作るのか」という問いに、楠本さんは次のように答えている。 「人間は、つね日ごろ見たり聞いたりして感動したことを、なにかのかたちで残しておきたいと思う。それが絵や音楽、あるいは散文であったり、詩であったり、写真であったりするわけだが、私はいま、それを俳句というかたちで定着させている」
たいせつなのは「感動」することだ。この人生のささやかな感動を再現し、そして他人とその感動を共有し、共感したいという願い、それが俳句を作る原動力になっている。子供の句が生き生きとしているのは、わずか17音になかに、この感動と共感がみずみずしく息づいているからだろう。
<今日の一句> 土筆とる 女のうなじ ほのぼのと 裕
去年の4月からはじめた<一日一句>もやがて1年になる。毎日一句ずつ作り続けて、365句。これで四季の句がすべてそろう。ささやかなことだが、うれしいことである。
高校生と大学生の二人の娘が映画「戦場のピアニスト」を見て、憂鬱な顔をして帰ってきた。戦争の非人間的な現実を知ってずいぶんショックをうけたようである。次女の方は泣いてばかりいたそうだ。私も数日後見に行ったが、やはり本当に怖ろしくてぞっとした。
昔、戦争体験者の父と一緒に戦争映画を見に行ったとき、父だけ途中から帰ってしまったことがあった。あとで聞くと、「吐き気がして見ていられなかった」と言っていた。私にはその気持がよくわかる。生理的嫌悪感はいかんともしようがない。怒りを感じるので、血圧にも悪い。
私は暴力の描かれた映画を見ない。見ていて腹が立つし、不愉快になるからだ。戦争や暴力を娯楽にして楽しむような風潮が心配である。戦争は決して「カッコイイ」ものではない。「戦場のピアニスト」にはその愚かさと悲惨さがよく描かれていて、人間という得体の知れないものの怖さが胸に重くのしかかってきた。娘達同様、私も暗い顔をして帰ってきた。妻はそんな映画ははじめから見る気がしないと言う。
それにしても、どうしてこのような悲惨な戦争が繰り返されるのだろう。こう書いている時にも、アメリカの近代兵器がイラクを攻撃し、そこに死人の山を築いている。反戦を叫ぶ人々に対して、それではフセインの独裁体制やテロはどうするのだと主戦論者は主張する。このことについて、スピンさんが掲示板にこんな書き込みをして下さった。
<結局のところ、戦争をするかしないかという点だけを問題にするのは議論を歪めてしまうと考えます。文明から見放され死んでいくしかない人々がいる限り、武力攻撃によってテロを根絶することはできません>
たしかに何がアルカイダのテロやフセインの独裁体制を生み出したのか、その根本にある貧困や差別の問題を考え、そうした本質論を踏まえて矛盾を解決する必要がある。戦争反対を叫んでいるだけではなく、どうしたらこの矛盾が解決できるか、建設的で実践的な議論と行動が必要だろう。「反戦」を叫ぶだけでは能がないが、「戦争だ。やってしまえ」というのは短絡的で、愚かしい野蛮である。
<今日の一句> 木の芽道 いまは桜の 花の道 裕
文明と文化はコインの表裏のような関係にある。たとえばギリシャの文明と文化を考えると、このことはよくわかる。アルファベットという合理的な文字を発明したギリシャ人は、それから数百年を費やして合理的で民主的な文明と文化を育てあげた。
自由な市場経済や通貨制度、直接民主主義、陪審制、美しい彫刻や壮麗で洗練された建築物、ホメロスやヘシオドスの文学と円形劇場、プラトンの哲学やピタゴラス、ユークリッド数学、オリンピックに象徴される鍛錬された精神美と肉体美を生み出した。
今から二千数百年前、ギリシャのアテネを中心にして発達したのは、どこまでも澄み通った合理性に支えられた文明であり文化である。それは今日振り返ってみても、奇跡としかいいようのない美しさと真実さでそこに光り輝いている。政治、経済、文化のいずれの分野においても、ギリシャ時代の文明と文化は今なお私たちの賛嘆とあこがれの対象である。
ギリシャを滅ぼしたローマは文明という点ではアテネを凌駕する規模と実力をそなえていた。それはローマ時代に作られた道路や建築物を見れば分かる。シラクサのようなギリシャの植民都市には、ギリシャ時代の遺跡に並んで、ローマ時代の遺構が残っているが、規模においても、その壮麗さにおいても、後世の物の方がすぐれている場合が少なくない。
たとえば古代ローマのシンボルになっている円形劇場もギリシャの真似だが、現在ローマの観光名所になっているものはA.D.1世紀にウェスパシアヌス帝により建設された。近くにネロの巨像(コロッスス)が建っていたために「コロッセウム」と呼ばれたという。
5万人を収容し、競技場には血の色を目立たせるために白い砂がまかれていた。現在でも使われている「アリーナ」(多目的屋内施設)という言葉は、ラテン語の「HARENA」(砂)から来ているそうだ。そしていつかギリシャ時代の円形劇場もコロセウムと呼ぶようになったが、同じ円形劇場(コロセウム)であっても、そこで行われていた娯楽の内容は天と地ほど違っていた。
ギリシャの円形劇場では聖歌隊が神々を賛美する歌をうたい、ホメロスの詩が吟じられ、ユーモアと知性にあふれたさまざまな文芸作品が演じられた。アリストパネース作の哲学者をからかうような戯曲「雲」が上演されたときには、ソクラテスが観客席からヤジを飛ばしたりしたかも知れない。そこは聖なる空間であると同時に、すぐれて人間的な笑いと喜びを共有する市民の憩いの場であった。
ローマ時代のコロセウムでは、まったく別のことが行われていた。まず入り口に点された篝火を仔細に見ると、それは奴隷の体を燃やしてできる人体松明である。そのあかりをくぐり、内部にはいると、そこは白い砂の撒かれた闘技場で、そこでは人間とライオンや人間同士の殺し合いが演じられていた。そして血に飢えた群衆の熱狂と狂気があった。
ローマ時代のコロセウムにはこうした悪夢が封印されている。コロキウムの近くからは夥しい人骨や野獣の骨が発掘されているが、こうした考古学的な遺物がその残酷さを証している。ローマはギリシャの明るい文明を受け継ぎながら、その明るく人間的な文化を受け継ぐことはなかった。ここに合理的で計算高い文明と非合理で野蛮な文化の深刻なミスマッチを見ることができる。
我が国の場合も、明治の文明開化によってこのミスマッチが生じた。「和魂洋才」という言葉があるが、西洋的な合理主義の文明と、天皇制を基軸とする非合理的で非民主的な文化は本来由来を別にしている。こうした矛盾がやがて無謀な侵略戦争に日本を走らせることになった。
文明と文化のミスマッチは現代においても深刻である。そのことをいやが上にも思い知らされたのが、進行中のアメリカとイラクの戦争である。今や世界がひとつのコロセウムとなっている。そしてそこでは、ローマ人も驚くような血なまぐさい惨劇が、何十億という観衆を前に、超近代的な通信技術と科学ハイテク兵器を用いて、無慈悲に徹底的に演じられている。
<今日の一句> ハンケチを 畳む少女に 花明かり 裕
北さんと「文明と文化」について話した。その内容を北さんが「ハード(文明)とソフト(文化)」という題で昨日の雑記帳にまとめてくれたので、その中から文化と文明の定義に関する部分を引用しよう。
<「文明とは機能概念」ということは、具体的に言うとどうなるか。橋本さんの説明によって実にすっきりとイメージが浮かんだ。文明とは例えば車というものである。文化とは車をどう使うかということ。また文明とは例えばハードディスクである。文化とはそれに入れるソフト。「便利さ」を求めて発展する文明に対して、その便利さをどう価値づけるかが文化になる。
従って文明と文化は相互に影響しあう。車の性能(文明)がよくなれば使い方(文化)の質も変化する。また、人々の美意識、生活様式(文化)に応じてそれを実現するために性能(文明)も向上する。人類の歴史はそうやって現在に至っている>
北さんが書いてくれたように、文明と文化をハードウエアとソフトウエアとの対比で説明すると分かりやすい。たとえばコンピューターというハードウエアは文明だが、それを動かすソフトは文化だということになる。北さんはハードデスクと書いているが、ここはコンピュータの方がいいと思う。
文明/文化、ハードウエア/ソフトウエア、コンピュータ/ソフト、 言語/文学作品、学校/教育、カメラ/写真、テレビ/映像、経済/芸術、 劇場/芝居、脳/思考、下部構造/上部構造、畑/作物、…… 一般に文明とはハコモノである。しかしいくら入れ物が立派でも、中身がなければ、それは文化的とはいえない。さらに北さんは「文明と文化」の相互作用についても書いているが、これについてtenseiさんが掲示板にこんなコメントを残している。
<雅楽も和歌も俳句も、文化とは言うけれど、文明とは言わない、、、から出発しました。笙や琴などの楽器は当時としては文明の利器だったかも知れないし、墨、筆、紙も、和歌や俳句が生まれた時代には文明の利器だったかも知れないけれど、雅楽や和歌や俳句が、それらに従属していたとは思われない。むしろ、それらを利用して生まれた精神的な産物じゃないのかな、、、と。。。
PCは文明の利器だけれど、それをみんなが利用し活用している状況はPC文化といえます。こんな風に「文明」「文化」という言葉を使って来ているとしたら、「文明」とは最先端を行くもの、「文化」とは定着し得たもの、「文明」とは物質的・技術的産物、「文化」とは精神的産物、「文明」の命は短く(「文明」は塗り替えられやすく)、「文化」は、文明のパワーとは関わりなく生き続けることもできる、そんな風にもとらえることができると思います>
言葉・文字の発明は「文明」である。この言葉・文字を使ってプロデュースされた文学作品は「文化」である。たしかに日本文学が日本語に規定されているように、文化は文明に規定されているが、しかし、それは一方的な従属関係を意味しない。それは相互的であり、それぞれに独立性をもっている。
たとえば民族は、母国語を使って独自の文化を育てる。しかし、何かの事情でその母国語を捨てて、別の言葉を使うようになったとしても、先祖が使っていた言葉によって培われた文化はそう簡単には消えず、伝統として残っている場合がある。
だから、tenseiさんの言うように、<文化は文明のパワーとは関わりがなく生き続けることもできる>わけだ。しかし、この場合も、やがて新たな文明のパワーが次第に伝統的な文化の世界を浸食していくことになるだろう。
文明というのはたとえれば、田圃や畑のような「培地」ではないかと思う。私たちはその培地を耕して、そこから様々な種類の作物をプロデュースする。そうした豊かさの創造が文化である。私がハードとソフトという概念で説明したことを、このように言い換えることもできる。ハードは「形式」であり、ソフトはその中に作られる「内容」である。その内容の様式や型を文化と呼んでもいいのではないかと思っている。
<今日の一句> 花着けぬ 水仙ながめ 年重ね 裕
俳人の飯田龍太さんが「現代俳句歳時記」(新潮選書)のあとがきに、「北窓の風景」という文章を載せている。その中の一部を引いておこう。
<私は俳句というものは、いわば、北窓の風景のようなものではないかと考えている。たとえば吟行と称する作句の場がある。宿に着くと、だれもが一斉に日当たりのいい、ながめのいい南側の窓に集まる。海が見え、港が見える。なるほど美しい景色だ。しかし、そんなところに俳句はない。
試みに、こっそり北窓に近づいてみてはどうだろう。ひっそりとした家々のたたずまい。わけても、山々の襞は、四季春秋、そのいずれの季を問わず、敏感に時を刻んでいる。季節が最も鮮やかであると同時に、おのれの心象を克明に示している>
それでは、この「北窓の風景」にふさわしい佳句を、飯田さんの「現代俳句歳時記」の中からいくつか並べてみよう。いずれも春の句である。
春の雲母にひとりのとき多く 田中一荷水 かげろふを壊してゆきぬ小学生 滝沢宏司 古池に浮くも映るも山椿 有泉七草 春浅し海女小屋にあるランドセル 河西ふじ子
飯田さんによると、俳句に向いているかどうかを知るリトマス試験紙は歳時記だという。歳時記に載っている季語にざっと目を通して、「どの季語にも、何の感興も湧かない人は、まず、俳句の恩寵から遠いと考えてよい」そうだ。私自身に照らしてみると、最近は歳時記を見て、いささか感興を覚えるようになった。これも年輪かも知れない。
(今日はサーバーへの接続不良で日記のUPが遅れました)
<今日の一句> 春浅し 今日も蕾を 見てゐたり 裕
44.晴れのち曇り
敦賀へ行く列車の車窓に身を寄せながら、私はいつになく幸福だった。私は持参したデデキントの「数について」という岩波文庫を膝の上にひろげて、そこにちらつく日差しを何やらなつかしい思いで眺めていた。
<直線Lの中にはどんな有理数にも対応しないような無限に多くの点が存在する。すなわち点Aが有理数aに対応するということは、長さOAが作図にあたって用いた一定不変の長さの単位と通約可能だということである。いいかえれば第三の長さ、いわゆる公約量が存在して、OAと単位の長さはこれの整数倍になっているということである>
<すでに古代ギリシャ人は与えられた長さの単位と通約不能な長さがあることを知っていたし、証明もした。たとえば辺の長さが単位に等しい正方形のの対角線などはそれである。もしこのような長さをOから出発して直線上にとれば、その終点はどのような有理数とも対応しない>
<そのうえ後に示すように、長さの単位と通約不能なこのような長さが無限に多くあることは容易に証明されるから、直線Lは点なる固体において、有理数の領域Rが数なる固体におけるよりも無限にずっと豊富であると断定することができる……>
特急「しらさぎ」に乗るのは3月に福井に帰省していらい初めてだった。それからわずか4月あまりのうちに、私は就職して高校の教員になり、アパートに引っ越して新しい生活をはじめ、和江以外の女性の肌のぬくもりを知った。そして今又、新しい女性に出会おうとしている。そしてその女性の前では、和江も町子も貴子もはかなくかすんで見えた。
二十六歳の中学校教師・河田総子は写真で見る限り、私がこれまで会ったどの女性より聡明そうで美しかった。もし実物の彼女がその写真に劣らず美しかったら、そして聡明であったら、そのときは私も重大な決心をしてもよいと思った。ギリシャの哲学者のように樽の中で暮らすのはいかにも退嬰的で、人生に消極的な生き方のように思えた。
米原を過ぎて北陸本線に入ると、車窓から見える景色が違って見えた。空に雲が広がり、日差しがみるまに翳った。夏の北陸は雨が多い。名古屋が快晴でも敦賀や福井が晴れているとは限らない。手ぶらで傘を持たずに出てきたが、少し軽率だったかも知れない。日差しがなくなると、冷房の利いた車内が少し肌寒く感じられてきた。
やがて、車窓に斜めに雨粒が流れはじめた。しかし列車が敦賀についたとき、雨は上がっていた。私は駅前でタクシーを拾った。母から告げられていた港湾会館の名前を言い、腕時計をのぞき込んだ。約束の12時まで1時間以上も間があった。今にも降り出しそうな空を眺めながら、いつかまた少し陰鬱な気持ちになっていた。タクシーの中で、二三度、くしゃみをした。
<今日の一句> みどりごの 笑ふがごとし 春の風 裕
国連の決議なしに米軍のイラク攻撃に対する米国民の支持は、開戦前には47%だったのが、開戦後は76%に達したという。米上院本会議でも20日、ブッシュ米大統領と英国政府を支持するとの決議を全会一致で可決した。また、有力なアメリカの雑誌や新聞の論調も戦争容認の方向に傾いているようである。
イラク攻撃が始まる直前まで反対を表明していた民主党のダシュル院内総務が本会議で「米国はブッシュ大統領の下に団結する」と演説、ケネディ上院議員も「われわれと同じように、多くの米国人がこの戦争に反対してきたが、今日からこの紛争が終わるまでは、われわれは団結し兵士を支持する」と表明、共和党ブッシュ政権との対決姿勢を撤回した。
21日には下院でも対イラク戦争の支持決議を採択した。下院では賛成392、反対11だった。開戦前には反対する議員が113人もいたことを考えると、こちらも反戦論は急速に衰えている。下院では「テロとの戦いの一部である対イラク軍事行動における、最高司令官としての大統領の力強い指導力と断固とした行動に、明確な支持と感謝を表する」という一歩踏み込んだ決議文を採択している。
ペロシ民主党下院院内総務は「我々は戦闘に突入すれば、一丸となって戦う」と主張を翻した理由について述べている。決定までは自分の信念に基づいて反対するが、決定には全面的に従うということらしい。これが民主主義だといわれても、私は釈然としない。
ここで思い出す反骨の政治家がいる。昭和11(1936)年、陸軍青年将校たちによるクーデター・2.26事件の3ヶ月後、5月7日に開かれた第69特別議会において、軍部の政治介入を批判する歴史的な「粛軍演説」をした斎藤隆夫(1870〜1949)である。
「軍人の政治運動は、上は聖旨に背き、国憲国法が之を厳禁し、両院議員の選挙被選挙権までも之を与えて居らない。是は何故であるかと言えば、つまり陸海軍は国防の為に設けられたるものでありまして、軍人は常に陛下の統帥権に服従し、国家一朝事有るの秋(とき)に当っては、身命を賭して戦争に従わねばならぬ。それ故に、軍人の教育訓練は専らこの方面に集中せられて、政治、外交、財政、経済の如きは寧ろ軍人の知識経験の外にあるのであります」
翌日の新聞はその嵐のような光景をこう伝えている。 <斎藤君が起った。決死の咆哮1時間25分。非常時を缶詰にした議事堂はゆらいだ。議員も傍聴人も大臣も、あらゆる人の耳は震えた。7日の非常時議会は遂に斉藤隆夫氏の記録的名演説を産んだのだ。場内の私語がぱっと消えた。広田首相、寺内内相に質すその一句毎に万雷の拍手が起る。民政も政友も共産も与党もない、煮えくり返る場内から拍手の連続だ。
傍聴人も身を乗り出して聴覚を尖らせて居る。4時28分! 熱気を帯びた拍手、齋藤さんは壇を下りた。後方の議席に帰る途中、両側の議員は手を差し伸べて齋藤さんと握手した。声もない。沈黙、感激の握手の連続だ>
斎藤の演説の反響に驚いた広田弘毅首相と寺内寿一陸相は軍首脳部の一部を退陣させた。しかし、軍人の政治介入の危険性について認識を改めることはなかった。そして翌昭和12年7月、軍部は政府を無視して支那事変を引き起こした。
近衛内閣は事変収拾の見通しのつかないまま、昭和14年1月に退陣し、その後も支那事変は泥沼化していく。昭和15年2月2日、斎藤は時の米内光政内閣に対して「支那事変処理に関する質問演説」を行った。傍聴席は超満員。斎藤が登壇するや、大臣席も傍聴席も静まりかえったという。
「一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らく一人もないであろう。
・・・此の現実を無視して、唯(ただ)徒(いたずら)に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない」
議場は拍手の連続、感極まってすすり泣きの声さえ聞こえてきた。しかし、軍部は激昂した。そして軍部の圧力のもとに議会において斎藤議員除名動議が出され、傍聴人を退場させた秘密会議において決議された。このとき、3分の1の議員が棄権し、なお堂々反対票を投じた議員も7名いたという。
斎藤の除名を期に、議会内に有志議員百余名による「聖戦貫徹議員連盟」が成立。連盟は6月に各党に解党を進言し、10月にはすべての政党が解党して、近衛を総裁にいただく「大政翼賛会」が成立した。
昭和17年5月、総選挙が行われた。73歳の斎藤は除名決議をものともせず、再び立った。行く先々の演説会には多くの聴衆が駆けつけた。一方、大政翼賛会は議員総数と同数の466名の立候補者を推薦し、全議席独占を狙った。当時首相だった東条は陸軍機密費から多額の資金を引き出して、翼賛会経由で各候補者に渡したという。しかし、一方で大政翼賛会に従わない候補者が、齋藤を含め、613名も立候補していた。
当局は斎藤の演説用印刷物を「有害」として押収するなど、さまざまな妨害工作を図ったが、齋藤は堂々但馬選挙区の最高位で当選した。斎藤と同様に翼賛会「非推薦」で当選したのは85名にも登った。反軍の立場に立ち、議会政治を守ろうという国民の意欲はまだまだ根強かったことがこれからもうかがえる。
3年後の昭和20年8月、敗戦。大政翼賛会が解散したあと、76歳の斎藤は新政党・日本進歩党の創立に向けて動いた。斎藤はこう檄を飛ばした。
「我々は戦争に敗けた。敗けたに相違ない。併(しか)し戦争に敗けて、領土を失い軍備を撤廃し賠償を課せられ其の他幾多の制裁を加えらるるとも、是が為に国家は滅ぶものではない。人間の生命は短いが、国家の生命は長い。其の長い間には叩くこともあれば叩かることもある。盛んなこともあれば衰えることもある。衰えたからとて直ちに失望落胆すべきものではない。
若し万一、此の敗戦に拠って国民が失望落胆して気力を喪失したる時には、其の時こそ国家の滅ぶる時である。それ故に日本国民は、茲に留意し新たに勇気を取り直して、旧日本に別れを告ぐると同時に、新日本の建設に向って邁進せねばならぬ。是が日本国民に課せられたる大使命であると共に、如何にして此の使命を果たし得るかが今後に残された大問題である」
斎藤隆夫はこの言葉を残して、昭和24年10月7日に帰らぬ人となった。戦時中の日本にこれだけの政治家と彼を支持した多くの民衆がいたことを私たちは誇りに思ってよい。ひるがえって、アメリカにひとりの斎藤隆夫も見当たらないのが淋しくはないか。
ところで、今日さまざまな情報があふれており、また情報の分析もさまざまな観点からさまざまになされている。専門家でも意見が分かれている問題を私たち市民はどう取り扱い、どのように判断したらよいのか。私はそういうときには、問題をなるべく良識的に、単純に眺めることにしている。
今度の戦争についても、アメリカはさまざまな名目を上げているが、私はそのようなものははじめから信用しない。なぜならこれまで無数に行われてきた侵略戦争で正義の戦争など一つもなかったからである。こうした反省の上に立って、今日の不戦条約が成立している。国際法規を踏みにじるアメリカの戦争が正義の戦争であるとはいえない。
(参考サイト) http://come.to/jog
<今日の一句> 菜の花や 地上のいくさ 知らぬげに 裕
安保理新決議を経ない予防戦争、政権転覆の内政干渉等は、国連憲章、国際法違反である。アメリカは今回、このような国際法を踏みにじった。これにたいして、イラク国内における重大な人権侵害を上げて、アメリカの国際法違反を擁護する人たちがいる。
たしかにこれまでの報道で見る限り、フセイン一派の政敵などに対する粛正や残虐行為はあったようである。人道的に見て、フセイン政権が望ましい体制でないことはあきらかだ。これについて、国連が懸念を表明し、改善を勧告してきた。しかし、この体制を武力によって転覆することはあきらかに行き過ぎだ。
ではどのような場合、内政干渉が許されるのだろうか。これについて最上敏樹氏さんが、「人道的介入」(岩波新書)のなかで次のように書いている。
<もし加害者への攻撃が許されるとすれば、それは現に虐殺がおき(ようとし)ており、かつ、加害者に攻撃を加える以外に手段がない場合に限られる。それも国々が勝手な判断でおこなうのではなく、国連のような世界的機関の集団的な判断に基づく、集団的な措置でなければならない> こうした基準に照らし合わせて考えてみても、アメリカのイラク攻撃は決して正当化できない国際法違反であることは明らかである。こうした国際社会の良識を踏みにじる不正義の「侵略戦争」を許すわけにはいかない。作家の池澤夏樹さんの発行する「新世紀へようこそ 097」から引用しよう。
<メディアに言いたいことがあります。アメリカ軍の動きを報道することを控えてください。飛び出すミサイルや、離陸してゆく戦闘機、したり顔で成果を説明する司令官、これらは戦争ではありません。
戦争とは破壊される建物であり、炎上する発電所であり、殺された人々、血まみれバラバラになった子供の死体です。水の出ない水道、空っぽの薬箱、売るもののないマーケット、飢えて泣く赤ん坊、それが戦争の本当の姿です。そちらを映すことができないのなら、戦争を報道することなど最初から諦めてください。
今の段階で攻撃側の動きばかり伝えるのは、この道義なき戦争に加担することです。政治家でも軍人でもないぼくたちは、この戦争がイラクの普通の人々にとってどういう現実であるか、それを想像してみなければいけないと思います。 戦争が始まりました。戦争に反対しましょう>
戦争が始まった以上、アメリカを支持し、一刻も早くアメリカ軍が勝利することを望むべきだという考え方もできよう。このまま戦争が長期化し、泥沼に入ったらそれこそ悲劇だからだ。現にアメリカ上院は全会一致でブッシュ支持を打ち出したし、フランスのシラク大統領も場合によっては参戦する意志をほのめかしている。
反戦を主張していた人々が主戦論へとなびく状況は、日本軍の中国侵略のときと似ている。アメリカ軍の残虐行為を許さないためにも、私たちは引き続き反戦の声を上げ続けなければならない。世界の世論が引き続き反戦の旗をかかげて前進することを望みたい。
(参考サイト) http://www.impala.jp/century/index.html
<今日の一句> 膝崩す 女がひとり 春の寺 裕
いよいよアメリカ軍によるイラク攻撃が始まった。ミサイルによる空からの攻撃に加えて、二日目の今日は地上軍も投入されたようだ。ブッシュもフセインも譲らず、相次いでテレビに登場して、相手を非難していた。今後戦争は次第に本格化していくのだろう。
世界一強大な軍事力を誇るアメリカの前に、イラク軍はあきらかに劣性である。一般に独裁体制は崩壊が早いと言われるが、イラクの場合どうだろうか。もし民衆のフセイン支持が本心からのものだとすると、ハイテク装備を誇るアメリカ軍といえども手こずるに違いない。化学兵器や生物兵器を持っているとなかなか厄介である。どのくらいの人的被害がでるのか予想がつかない。
それにしてもアメリカは何故こうも戦争が好きなのだろうか。その理由はひとつしかない。つまり世界一強力な軍隊を持っているからである。軍事費は世界でダントツの3000億ドル(36兆円)。兵員数も137万人で予備役を合わせると250万人をこえる。世界で一番大きな組織は、いうまでもなくアメリカ軍である。
世界の軍需産業の売り上げベスト10を見てみると、そのうちの7社がアメリカの企業である。参考までに「2001年、ストックホルム国際平和研究所」による統計を上げておこう。
1位 アメリカ ロッキードマーチン 179億ドル 2位 アメリカ ボーイング 156億ドル 3位 イギリス BAEシステム 155億ドル 4位 アメリカ レイセオン 115億ドル 5位 アメリカ ノースロップグラマン 71億ドル 6位 アメリカ ゼネラルダイナミック 56億ドル 7位 フランス トーマスCSF 41億ドル 8位 アメリカ リットン 39億ドル 9位 アメリカ UTC 35億ドル 10位 フランス A M 33億ドル
以前この日記で、日本の公共事業費に相当するのがアメリカでは軍需費だと書いたことがある。いずれも景気対策、失業対策になる。それから政治家と業界の癒着や利権の温床になり、巨大な財政赤字の原因でもある。
この利権を維持するためには世界が平和であってはこまる。そこで世界に紛争の火種を撒いて、戦争を作りだす。なぜアメリカがかくも好戦的なのか、世界がなぜ平和でないのか、その理由がここにある。最後に、マリア・テレサの言葉を引用しておこう。
「どうか平和への道を選んでください。戦争の勝者と敗者がいるあいだは、決して苦しみや痛みは消えません。武器が引き起こす生活の損失を正当化できるものは何もないのです」
<今日の一句> かくばかり さわがしき日に 墓参り 裕
ブッシュ大統領が通告した時刻は、今日の10時である。これまでにフセインが亡命しないならば、その後、いつでも攻撃を開始するという。戦争を回避する唯一の道はもはやフセインの亡命しかなくなった。
私もふくめて平和を望む世界中の多くの人々がフセインの亡命を祈るような気持で願っているのではないだろうか。アメリカはたとえフセインが亡命してもバクダッドを占領し、武装解除を行うと言っている。しかし、この場合はイラク軍の組織的な抵抗はないだろうから、大規模な軍事衝突は避けられる。今となっては、これが最良のシナリオというところだろう。
しかし、アメリカや世界の人々がフセインの亡命を求めるのは、本筋から言っておかしなことである。一体どういう権限があって、一国の元首にこういう要求を突きつけることができるのだろう。独裁者フセインを打倒しなければイラク国民は幸せになれないと言うが、それはアメリカやこれに追随する国の一部の人々がそう考えているだけで、イラク国民がそう考えているかどうかはわからない。
イラクが民主的でないというのなら、アメリカの友好国クエートやサウジアラビアはどうであろうか。両国とも国王が支配する国で、サウジアラビアに至っては国会もなければ、民主的な選挙制度さえない。国王の一族によって石油の利権が握られ、政治的にも経済的にも自由は大きく制限されている。おまけに宗教の自由もなく、イスラム原理主義が支配する国である。しかもアルカイダなどのテロ組織に資金援助をしていた実績まである。こうした国々から比べれば、イラクははるかに民主的だといえないだろうか。
そもそも今度のアメリカの軍事侵攻に大義はない。テロ支援国家だというが、その証拠もないし、そもそもバース党はイスラム原理主義に対抗する政党としてアメリカや旧ソ連によって育てられてきた歴史がある。金日成の独裁体制を作ったのが旧ソ連や中国だとしたら、フセインの独裁体制を作り上げたのはアメリカである。その力が強くなり、自分の意に従わないと言って、武力を使ってこれを潰そうとするアメリカこそ、恐るべき独裁国家といわなければならない。
私は戦争回避のために、フセインの亡命を望むが、こうした要求をするアメリカの独善的な姿勢には危惧を覚える。世界の将来にとって、本当に脅威なのはイラクだろうか。私には今や名実ともに地球の覇権国家となったアメリカのこの好戦的で居丈高な姿勢の方がはるかに問題があり、恐るべきものだと考えている。
<今日の一句> 残雪の 山のはるかに 心澄む 裕
昨日の10時にブッシュ大統領はホワイトハウスで演説し、国連安保理における米国の外交努力は終了したと宣言した。そして、フセイン・イラク大統領に対し、戦争回避のために48時間以内に亡命するように勧告した。いよいよアメリカによるイラク攻撃は目前に迫ってきた。
こうした中、北さんに誘われて、昨日は「イラク攻撃反対」のデモに参加した。午後6時過ぎに江南市役所の前に150人ほどが集まり、1時間ほどかけて市内を「戦争反対」などのシュプレヒコールをしながら歩いた。
反戦デモは世界各地で行われている。しかしアメリカのパール国防政策委員会委員長(ネオコンの親分格)は反戦デモについて「参加者数は世界人口のたかだか1%かそれ以下だ」と一蹴している。アメリカの世論も戦争やむなしという流れになってきているようだ。直後の世論調査によると、66パーセントの米国民がこのブッシュ演説を支持しているという。
10日付けの米ウォールストリート・ジャーナル誌によれば、米政府は、対イラク戦終了後の「戦後復興」をにらみ、道路、橋、病院、学校などのインフラストラクチャー建設について、総額9億ドルにのぼる契約案件をすでに米国の会社5社に提示、入札手続きを開始したとのことである。
ゼネコン5社の中には、パウエル国務長官がエグゼクティブを務めており、チェイニー副大統領もCEO(経営最高責任者)を務めていたハリバートン傘下のケロッグ・ブラウン・アンド・ルート(KBR)も入っているという。
ブッシュ米大統領から亡命を促す「最後通告」を突き付けられたフセイン大統領はこれを拒否し、徹底抗戦する構えだという。バグダッド市内にはすでに戦車が運ばれ、土のうが積まれており、フセイン政権は原油に火を付けるなどのゲリラ戦を交えるなどし、最後まで自らの生き残りをかけるようだという。
イラク攻撃によって、誰が得をするのか、それは軍需産業や石油資本、これと関係するブッシュとその取り巻きの一部の人々だろう。犠牲者はイラクの民衆であり、戦争による経済の混乱の影響をうける世界中の人々である。その上、国連の権威が失墜することで、今後の世界の平和に暗雲が漂いはじめた。この戦争は未来の世代に対しても恐ろしい禍根を残すことになるだろう。
<今日の一句> 反戦の デモの彼方に おぼろ月 裕
2003年03月18日(火) |
「仮面の告白」を読む |
北さんに三島由紀夫の「仮面の告白」を読むことを薦めたところ、丁寧に読んでくれて、その感想を「雑記帳」に二回にわたって書いてくれた。北さんによると、「仮面の告白」は、ほとんど正確に2分されている構成の作品だという。
<園子という「私」の恋愛対象の女性が登場する後半が、213頁の新潮文庫本で106頁からなのだ。前半が<原理編>あるいは<総論>、後半が<応用編>あるいは<各論>とでも言えるような几帳面な構成であった。
前半はつまらなかった。「私」という主人公の倒錯的な性の嗜好と戦争の時代を反映する「死」への願望といった性向の特異性が縷々記述されていた。しかし後半は無類の面白さだった。
「私」と園子が出会ってから、手紙のやりとりをし、接吻し、別れ、再び出会って会話を交わし、衝撃的とも言えるラストのダンスホールの場面に至るまで、2人がからむ描写はまさにパチパチと火花が散っているような鮮やかさで描かれていた。
・・・主人公が園子と園子と出会った時、彼女は「光の揺れるようなしなやかな身ぶりで・・」「朝の訪れのようなもの」を私に感じさせたと書かれている。「生まれてこのかた私は女性にこれほど心を動かす美しさをおぼえたことがなかった」と記される園子は、明らかに今まで出会った女とは違っていたのだ。さらに重要だと思うところを引用しておこう。
「・・・私の直観が園子の中にだけは別のものを認めさせるのだった。それは私が園子に値しないという深いつつましい感情であり、それでいて卑屈な劣等感ではないのだった。一瞬ごとに近づいてくる園子を見ていたとき、居たたまれない悲しみに私は襲われた。かつてない感情だった。私の存在の根底が押しゆるがされるような悲しみである。今まで私は子供らしい好奇心と偽りの肉感との人工的な合金の感情をもってしか女を見たことがなかった。最初の一瞥からこれほど深い・説明のつかない・しかも決して私の仮装の一部ではない悲しみに心を揺さぶられたことはなかった。悔恨だと私に意識された。」 主人公「私」の心理は、これ以後、この調子のかなり難解な表現で記述されていくのである>(北さんの3/16の雑記帳より引用)
私が「仮面の告白」を読んだのはたしか、高校3年生の夏だった。北さんが引用してくれたあたりまで読んだとき、あまりにありがたくて、とめどなく涙があふれてきた覚えがある。こんなに切ないほどの感動はその後の三島作品ではあまり味わえなかった。「美しい星」でちょっぴり味わえたくらいだ。
三島の中には闇と光が交錯している。そしてこの交錯の美しい結晶が「仮面の告白」だ。この作品の中には、この両方の力が拮抗していて、これまでの日本文学が達しえなかった高みにまで上り詰めている。文字通り金字塔と言ってよいかと思う。
しかし、こうした奇跡は再び三島にも訪れなかった。その後、三島は闇の力に大きく支配され、ふたたびあの朝日のようなすがすがしい光明に全身をゆだねることはなかった。
その予兆はすでに「仮面の告白」の最後の部分の禍々しさとなって現れている。そこに三島自身の暗い運命を感じないわけにはいかない。すでにこのとき三島は「死」の世界に足を踏み入れ、その世界に屈服していたというのが私の解釈である。つまり、「仮面の告白」は救済されそこなった魂の物語として読むとき、異様な熱気と迫力を帯びてくる。
さらにもう少し敷衍すれば、朝の訪れのような園子の光明は、やがて金閣寺の豪奢な伝統的な美へ、そして究極的には「天皇制」へと変容していく。私はそうした三島にはつきあいきれないのだが、園子を失った代償として、そうしたものに救いを求めるしかなかったのだろう。
ところで、私が「仮面の告白」の主人公に親近感を覚えたのは、高校時代、私が神経を病んだことがあったからだ。そのとき、一切の感動や色彩感を失うという体験をした。この体験からいうと、三島の同性愛でさえとてもうらやましく思えたものだ。私は女性はもちろん、男性に対してもまたそのほかのすべての事柄に対しても「欲望」を失った。完全にインポテンツだった。
同じ体験を大学時代にも経験したが、万葉集に出会ったことがきっかけになって、「生還」できた。だから、三島が「女性」に肉感をもてないことで感じた絶望は他人事ではなく実感できた。これは私にとってひとつの根源的な人生体験だった。
その内容については自伝「少年時代」「青年時代」や「人間を守るもの」のなかに詳しく書いたとおりである。いずれにせよ、二十代の前半に「万葉集」というあたたかい光りに巡り合うことの出来た私はほんとうに幸いであった。
(参考サイト)「北さんの雑記帳」http://www.ctk.ne.jp/~kita2000/zakkicho.htm
<今日の一句> 口づけの あとは春日を 見てゐたり 裕
43.爽やかな朝 翌朝、私は朝風呂を使った。丁寧に頭を洗って髭を剃った。それから、背広に着替えて喫茶店に出かけた。すでに働きに出ていた貴子は私と顔を合わせると、明るく微笑んだ。 「お出かけですか?」 「ええ、ちょっと」 まさかこれからお見合いですとも言えずに、私は口ごもった。
モーニングのトーストを食べながら、私はいつものように無心ではいられなかった。それは昨夜、貴子の湯上がりの裸体を見たせいかもしれなかった。私は衣服の下に、彼女の豊かな胸やくびれた腰を思い浮かべた。ほんのりと紅が差した尻の丸みをスカートの下に想像すると、私の若い血が騒いだ。
そして、ベッドで眠っている貴子からこっそり奪った接吻のことを思い出した。どうしてもっと積極的に進まなかったのだろう。無防備に眠っていた貴子から、もっと多くのものを奪うことができたのに、私はそれをしなかった。それはいずれ貴子を手に入れることが出来ると思ったからだろうか。貴子と深い関係になることを恐れる気持からだろうか。
たしかに貴子の唇に触れたとき、私はときめきと同時にある恐れを感じていた。それはたぶん貴子が二人目の和江になりはしないかということだった。それは私自身が淫乱の地獄に堕ちていくことへの恐れだと言ってもよかった。
貴子の中にも私を淫乱な野獣にする血が流れていないとは限らない。私が恐れていたのは、その沼の中で自分自身の正体を見失う事だったのだろう。私の中で先に進もうとする勇敢な自分と、後ずさりしようとする臆病な自分が分裂していた。そのアンビバレンツのなかで、恐れとときめきが同居していたのかもしれない。
しかし、今目の前の貴子は明るく爽やかだった。喫茶店の中に響く貴子の声を聴きながら、私は貴子に対して一線を越えることのできなかった自分の怯懦を笑った。しかしそれは後悔の自嘲ではなく、もっと明るい、人間的な笑いだった。そのことに気づいて、私は心が清々しくなった。私は感謝の気持ちをこめて彼女を眺めた。彼女の笑顔が朝日のようにまぶしかった。
<今日の一句> ひと休み ふた休みして 春の山 裕
2003年03月16日(日) |
イラク武装解除のシナリオ |
もう十年ほど前になるが、ある商業高校に勤務していた頃、3年生の担任が終わって肩の荷を降ろした矢先に、突然校長室に呼び出されて、「来年度は3年生の学年主任をやってもらう」と言い渡されたことがあった。
「それは困ります」と抵抗すると、「これは職務命令ですから、従ってください」と校長も譲らない。そんな押し問答の最中に、教頭が「ちょっと、別室までお願いします」と猫なで声をかけてきた。
「それでは、どうでしょう。もう一年3年生の担任をやってもらえませんか。学年主任の件は私から校長に取り下げていただくようにお願いしますから」 学年主任を逃れることが出来そうだということで、私はこの提案をありがたく受け容れた。
あとで同僚にこの話をすると、「校長と教頭の連係プレーにやられたね」と笑われた。なるほど、そういうからくりだったのかと納得した。おかげで人があまり持ちたがらなかった3年生の担任を2年続きで引きうける事になったわけだ。翌年、私は転勤希望をだして、この学校におさらばした。
こんな昔のことを思い出したのは、現下の国際状況に似ているように思ったからだ。アメリカがイラクに拳をふりあげている。この軍事的圧力のもとに、国連の査察団が派遣され武装解除が進行している。ドイツやフランスがこれを後押ししているわけだ。
今のところなかなかうまく事が進んでいる。今にも軍事力を行使しかねない勢いを見せるアメリカをドイツとフランス、ロシアなどがなだめるかたちで、イラクに譲歩を迫る構図はなかなかのものだ。任務分担ができている。したたかで見事な戦略だといえる。
もちろんこういうシナリオならば、アメリカの軍事侵攻は起こらないだろう。世界の人々ははらはらしているが、それもイラクに見破られないために世界の人々まで欺く戦術と考えられないわけではない。最終的にはイラクが武装解除され、イラクは国連の管理下に置かれることが考えられる。パウエルやシラク大統領あたりなら、このくらいの芝居は打てるのではないか。
もっとも、こういうシナリオは少し楽天的過ぎるのかもしれない。ブッシュはもう少し単純な愚物で、本気で軍事侵攻を考えているのかもしれないからだ。最近の報道を見ていると、こうした悲観的なシナリオの方がほんとうらしく思えてくる。そうすると世界は大変なことになる。恐ろしいことである。
小泉首相は「その時になってみないと分からない」「その場の雰囲気だ」などと言っているが、これは一国の総理の発言としては情けない。もうすこし世界に通用する見識を示してほしいものだ。そこで、私が小泉首相ならどうするかを書いてみよう。
結論から言えば、イラクを武装解除してアメリカ軍が名誉ある撤退が出来るような演出をフランスやドイツに持ちかけることである。アメリカの軍事的圧力のもとにイラクが完全武装解除することが前提だが、そのときアメリカにはその主役としての最大の名誉と実質的なメリットを与える必要がある。
現在はこれとは反対に、アメリカが悪役でフランスとドイツがいちばんおいしい善玉の役回りを棚ぼた式に得ている。アメリカは何千億ドルという巨額の費用を使って軍隊を派遣しているわけで、フランスやドイツに口先だけでおいしい思いをさせるわけにはいかない。世界の人々はアメリカに兵を引けというが、それなりの見返りがなければアメリカは決して兵を引かないだろう。
問題はイラクの武装解除だけではない。解除後のイラクや世界のありかたについて、アメリカを納得させるだけの合意を作る必要がある。そうしたことを双方に呼びかけ、両陣営の架け橋となることが日本に求めれているのではないか。私が小泉首相ならそうした見通しや、落としどころを考えて、ブッシュやシラクを説得するだろう。もし失敗しても、その努力は国際社会で大きく評価されるはずだ。最後に作家の池澤夏樹さんの訳した日本国憲法9条を紹介しておく。
<この世界ぜんたいに正義と秩序をもとにした平和がもたらされることを心から願って、われわれ日本人は、国には戦争をする権利があるという考えを永遠に否定する。国の間の争いを武力による脅しや武力攻撃によって解決することは認めない。 この決意を実現するために、陸軍や海軍、空軍、その他の戦力を持つことはぜったいにしない。国家というものには戦う権利はない>
<今日の一句> 春の駅 そこから歩く ひなの道 裕
政府の司法制度改革推進本部は、市民が裁判官と共に刑事裁判の審理を担う裁判員制度の骨格案を公表した。これを受けて、昨日(14日)の毎日新聞の社説が「裁判員制度」を取りあげていた。その理念や改革の方向性について要領よくまとめられていたので、一部引用しておこう。
<確認すべきは、裁判員は今回の司法改革の柱であり、民主主義国家では市民が司法、立法、行政の三権に主体的に参加しなければならないことだ。市民が司法に参加する道が閉ざされているのは、先進国では日本だけであることも自覚しつつ、不退転の決意で実施しなければならない>
<関係者、とくに法曹界には国民性などを理由にした制度への消極論が依然として根強い。戦前の陪審裁判が、頓挫した苦い経験も影響するのだろうが、市民の意識は変化している。司法への参加は市民の義務であることも改めて皆で認識し、最善策を選びたい>
<法曹関係者の過ぎたるプロ意識も是正されねばならない。裁判員は市民の感覚を裁判に生かそうとするもので、職業裁判官の豊富な法律知識と手慣れた訴訟指揮は頼られこそすれ、否定されるものではない。それなのに現状維持にこだわっていては改革につながらない。裁判官優位のシステムを目指してか、裁判員の人数を裁判官と同数以下に抑える案などは、改革の目的にかなうとは言いがたい>
市民意識が低いから、日本では陪審員制度や裁判員制度はなじまないとする見方がある。しかし、前にも書いたように、司法への参加が市民意識を育てるという側面がある。この点について、「日弁連で行われた筑紫哲也氏講演要旨」を載せたサイトから、資料として全文を引用しておく。なおサイトのアドレスは最後に付記してある。
ーーーーーーーーーーーー 資料 ーーーーーーーーーーーー 【「市民」とは、自ら考え、行動する人】 筑紫氏は先ず、古代ギリシャ以来の「市民」の概念を振り返った上で、現代における「市民」という言葉の意味について、「自ら考えて、自分で行動する人」「簡単にあきらめない人」「地域社会での役割を果たす人」といったように、自覚的に定義しようと問題を提起した。
【行政訴訟等にも陪審制を】 また筑紫氏は、刑事事件以外において陪審を導入した場合どうなるかをよく想像するが、国家を相手にした訴訟は殆ど民の側が負けているが、陪審員が判断すれば、例えば、台湾人元日本兵の補償・恩給の問題も門前払いにはならなかったのではないかと述べた。
【陪審制「不向き論」は自身及び先祖への侮辱】 次いで筑紫氏は、「日本人に陪審制は向かない」との議論については、第一に、自分たちにはその程度の能力しか無いと自らを貶めるものである、第二に、過去の日本人・私たちの先祖への侮辱である(日本人は戦前の15年間及び返還前の沖縄において陪審裁判を経験している)、第三に、愚かな民衆を官僚が護るという愚民思想によるものであると、厳しく批判した。
【陪審は「市民」になるための教育・訓練の場】 陪審制の何よりも重要な意義として筑紫氏は、「壮大な教育」である点を挙げた。すなわち、同氏は、陪審員となれば、仕事を休んで閉じ込められるから、決して嬉しいことばかりではないが、経験した後は大部分の人がよい感想を持つのであり、陪審制は、「市民」‐自ら考え、行動し、あきらめない人‐を作るために、非常に重要であり、仮に私たちの国に真の意味での「市民」が少ないのなら、「市民」になるための教育・訓練の場として大きな意味を有する旨強調した。
【陪審制を「持たない」ことは戦時体制の継続】 最後に筑紫氏は、戦前には無かった戦時の統制経済が敗戦後も継続し、この体制のもと経済が成長したが、現在はそれが通用せず行き詰まっていると指摘したうえで、役場が徴兵事務で手一杯になったことを主な原因として停止された陪審制を、現代において「持たない」ことは、戦時体制の継続に他ならず、陪審制を導入すべきか否かは自ずと明らかで、行き詰まったら一歩踏み出すべきであると結んだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (参考サイト) http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/syuppan/shinbun/2000/323_9.html http://www.mainichi.co.jp/eye/shasetsu/200303/14-1.html
<今日の一句> 血圧を 気にして食べる 桜餅 裕
「ナナカマドの挽歌」という1982年の日本映画を見た。監督は木村元保。北海道の山奥の飯場で働く子連れの若い女が主人公。あらくれ男達の中で健気に働く様子がいじらしい。
「ナナカマド」は7回カマドで焼かれても生き残るという生命力の強い樹だという。ナナカマドの実は食物のなくなる真冬まで残っている。そのことを鳥達は知っていて、外の食物がなくなるまで手をつけないので、雪野原の中に赤い実だけ残っている。
冬の雪の河原に点々と残っているナナカマドの燃えるような赤い実を見つめながら、主人公の女は辛い環境に耐えている。彼女には不幸な過去があり、幼い長女を手にかけたあと、自殺しようとして、失敗している。首を吊ったとき妊娠していて、その腹の中の子供の重みで首を吊ったとき釘が抜けて未遂で終わったのだ。
取り調べ室で年輩の刑事がさとすように言う。 「あんたのお腹の中の子があんたの命を救ったんだ」 女はこんな言葉に励まされて、次男を産み、その子供を連れて生活能力のない夫から逃れ、ひっそりと山奥の飯場に身を隠していた。ところがそこへ、夫が女との復縁を迫って、子供を奪いに来る。
抵抗する女に、夫は長女を殺した母親の手に子供を置いておくわけにはいかないという。その場に崩れる女。こうして子供は男の手に渡るわけだが、このあとの意外な展開で奪われた子供が帰ってくる。
子供と強く生きることを決意する女は、彼女を辱めようとしたあらくれ男達のいる浴場に真裸で子供を抱えて入っていく。言葉を失う男達。彼女に好色の目を向け、なにかやといやがれせをしていた男達が彼女の美しい捨て身の勇気の前に兜を脱ぐ。男達はその美しさに感激し、男達と彼女のあいだにはやがてほのぼのとした人間愛が醸しだれる。
この映画を監督した木村元保は1976年に、16歳の原田美枝子の大胆なヌードで話題になった増村保造監督の「大地の子守歌」をプロデュースし、海外の映画祭でも多くの賞を獲得した。その後、1978年には再び増村保造監督と組んで宇崎竜童がサングラスを外して勝負を賭けた「曽根崎心中」を制作した。これも賞をとり話題になった。 そして1981年には当時無名だった小栗康平を監督に登用して「泥の河」を製作している。「泥の河」は配給会社も決まらず、青山の草月ホールを借りて三日間だけの先行試写会&ロードショーを行った。ところがその評判が思った以上によくて、数カ月、東映セントラル配給が決まり「泥の河」が一般上映されることになった。
これらの作品はいずれも各国の映画祭に出品され、数々の賞を獲得した。国の内外を問わず、高い評価を得ている。しかし興行的な儲けはなかったという。制作費を何とか回収できた「泥の河」を除けば、いずれも制作者に借金を残したという。
木村元保(きむら・もとやす)はもともと東京の下町で鉄工所を営む中小企業の社長だった。かれは家業で得た利益で好きな映画製作に惜しみなく投資した。8ミリから入った映画作りの夢は、16ミリ、35ミリ映画へとはばたいた。「儲かる映画」をつくることではなく、「よい映画」をつくることだけが夢だったという。そしてその夢が「泥の河」でついにかなえられた。 「泥の河」について木村元保は「あの映画、一箇所だけ失敗している。ラストシーンでカットが変わると船が逆に進んでいるんだ。小栗も若いからな」と自分で作りたそうに言っていたという。それから数年後、みずから監督したはじめての作品が「ナナカマドの晩歌」だった。木村元保は2002年2月28日になくなっている。享年67歳だった。
<今日の一句> かげろふの 中より来たる 少女あり 裕
2003年03月13日(木) |
司法権を私たちの手に! |
国家権力の横暴ほど怖いものはない。これをおさえるために考え出されたのが、国家権力を立法権と行政権と司法権にわけて、おたがい拮抗させようという三権分立の考え方である。
もちろん、権力を分けただけではいけない。ただ民主的な法があっても、これを行政が民主的に運営しなければ意味がない。また、それを司法が民主的に監視できてはじめて法が活きるのである。つまり、それぞれの権力を民主化しなければならない。それぞれの権力が国民の民意を反映できるしくみになっていなければならない。
こうした観点からすると、日本の三権分立はその基盤がとても脆弱である。私は行政権については「首相公選」が必要だろうし、立法権についても「議員抽選制」が理想だと思っている。しかし、これらはまだましなほうである。民主化が一番遅れているのは司法権だろう。
日本の裁判官は司法試験に合格し司法修習生として2年間の司法研修所勤務の後、判事補として裁判所に就職しただけで司法権限を与えられる。国民の選挙で選出されるわけではない。最高裁判所裁判官だけは総選挙の時に「最高裁判所裁判官国民審査」によって国民の信を得ることになっているが、有名無実で一度も罷免されたことはない。実に非民主的な制度である。
しかも、最高裁長官は内閣総理大臣の指名により天皇が任命することになっている。これでは司法権が行政権に従属することになり、三権分立とはいえない。裁判官は「具体的争訟事件に法律を適用して最終的解決を図り、もって国民の基本的人権を守る国家作用を実現する」という崇高な使命を持っている。この使命を果たすためにも、行政権の長が司法権の長を選ぶのは問題がある。
これまでの日本の裁判所は一度も憲法違反の法律やその執行にクレームをつけなかった。そのような訴訟には我関せずを決め込んで、門前払いをしてきた。いってみれば日本の裁判所は政府の忠僕な下僕であり、法の番人というより、政府の番犬だった。
民主的な陪審員制度に基礎を置くアメリカなど他の民主主義国の裁判所の場合は、かなり様子が違っている。裁判所が行政機関とは完全に独立した機関として、憲法違反の法律には「違憲立法審査権」行使し、時の政権と真っ向から対決してきた。行政の不正に立ち向かう「国民の為に闘う裁判所」としておおむね国民の信頼を得ている。
さらに、裁判所のシステムそのものに内在する問題がある。下級裁判所の裁判官は最高裁判所によって指名、内閣により任命される。つまり政府、最高裁、高裁とつづく役所のヒエラルキーのなかで、裁判官はつねに上部の権力に配慮しながら仕事をするしかない。裁判官も公務員であり、月給取りだから、結局はこの浮き世のしがらみから自由になれない。
裁判官はこうした狭い世間に住んでいる。しかもその組織は閉鎖的で、ただペーパーテストがよかったというだけで、ほとんど世間知らずのまま、一般常識もあまり知らないうちに純粋培養され、若いうちに徹底的にその非常識を常識として信じるように洗脳される。もしこれに疑問を持てば村社会の掟にしたがってエリートコースから外れドサ回りの惨めな生活を強いられる。だから、立身出世を考えれば、国民の利益などといってはいられないし、そもそもそのような発想さえ浮かばない。
こうした日本の裁判制度は必然的に日本の政治の無能を正当化し、国民の批判と反論を許さない風潮と無気力をつくりだしてきた。その見事な成果が人権侵害をあたりまえのように許す今日の日本社会である。官僚や政治家、エリートから一般大衆まで、そのモラルの低下は目を覆いたくなるものがあるが、これに非民主的な裁判制度が大いに貢献してきたのである。
<今日の一句> 春宵の 身を持てあまし 肘まくら 裕
いつか読みたいと思っているのが、ジェフリー・アーチャーのベストセラー小説「メディア買収の野望」(新潮文庫上、下)である。これは世界のメディアを牛耳る二人のライバル、ルパート・マードックとハロルド・マクスウェルの覇権争奪戦の実話を小説にしたものだ。
二人の戦いはぎりぎりのところでマードックが勝つ。破れたマクスウエルは破産し、1995年に謎の死を遂げた。その後、マードックは名実ともに世界のメディア王として君臨している。そしてその力はいまや、アメリカやイギリスといった大国の政権の行方を左右するほどになっている。
マードックは「サン」といった大衆紙から「タイムズ」といった高級紙まで次々と買収し傘下におさめた。さらに彼は「ニューヨーク・ポスト」「ウィークリー・スタンダード」など約80種類の新聞と11種類の雑誌を所有している。アメリカの出版社ハーパー&ローを買収し、イギリスの出版社ウィリアム・コリンズと合併してできたハーパー・コリンズは、世界最大の出版社である。マードックの出版物を読んでいる人たちは世界中にいて、数千万から数億に上るという
一昔前までは、アメリカは3大ネットワーク(ABC・NBC・CBS)の体制だったが、マードックの傘下にあるフォックステレビはセックスとバイオレンスとスキャンダルを売り物にして、瞬く間にこの体制を崩壊させた。フォックステレビは現在アメリカでナンバー2の視聴率を誇るネットワークになっている。
マードックは、国際的に多くのテレビ会社を所有している。香港に本社がある衛星放送のスターTVは、アジアを中心とする53カ国で2億2000万人に利用されている。また、イギリスのBSkyB、ドイツのVOX、オーストラリアのFOXTELなどをはじめ、インド、日本でもテレビ会社を所有している。マードックは、テレビを通じて世界の人口の75%に影響を与えていると豪語している。
こうした巨大な影響力を持っているマードックは、ブッシュやブレアに近いと言われている。実のところ、この二つの政権の立て役者の一人がマードックだった。たとえば、1992年、マードックは、クリントンを当選させないために、配下のメディアを総動員してクリントンのスキャンダルを流した。その後、ホワイトウォーター、モニカ・ルウィンスキーなどのスキャンダルを流し続け、クリントン率いる民主党のイメージ低下をはかった。そしてクリントン後のブッシュ政権への地ならしをした。
マードックはイギリスの政権にも関与している。1992年の総選挙で労働党は世論調査では保守党に圧倒的差をつけつつも敗北した。その背景には、サッチャーに肩入れしていたマードックが労働党の高い支持率を覆すべく、配下の新聞各紙を総動員して同党を叩いていたからだ。
しかし、保守党のメージャー首相が、「オーストラリア生まれの外国人にこの国の政治を左右されるわけにはいかない」とマードックから距離を起き始めると、一転してマードックはメージャーを叩き始める。そして労働党のブレアブームを演出しはじめた。女性ヌードを一面に載せる大衆紙「サン」がいまもブレア政権を持ち上げ続けるのはこうした因縁があるからだ。ブレア首相も大衆紙「サン」に他紙を差し置いて年頭の挨拶を掲載している。
こうしてみると、アメリカとイギリスのイラク攻撃を前にして、ルーパート・マードック傘下のメディアがこぞって熱烈に英米連邦の戦争政策を支持し、イラクのフセイン大統領を口汚く攻撃し続けている理由もわかる。マードックはシャロン政権の立て役者の一人である。彼は1980年代から当時国防大臣だったシャロンと秘密会議を持っていた。そして1997年にはユダヤ人アピール連合の「今年の人道主義者賞」を受賞している。
(参考サイト) http://www.idaten.to/meikyu/a063.html http://www.mskj.or.jp/getsurei/hira9711.html
<今日の一句> さざなみの 寄せるがごとし 春の夢 裕
図書館へ行って、本を借りてきた。石田波郷の俳句の本と、金子みすゞの詩の本だ。波郷は私が好きな俳人の一人。私がよく口ずさむ春と夏と秋の句を一つずつ引いてみよう。
バスを待ち大路の春をうたがはず
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ
雁やのこるものみな美しき
「雁」は「かりがね」と読む。昭和18年、波郷に召集令状がきた。千葉県の佐倉連隊に入隊した波郷はまもなく朝鮮を経由して中国大陸へ派遣された。この句は日本を去るときの形見の句である。「雁」は彼自身の姿であり、残るものとは彼の愛する家族であり、友人であり、日本の美しい伝統と自然であろう。もうひとつ、波郷の句を引こう。私の大好きな句なので。
朝顔の紺のかなたの月日かな
波郷の句は叙情性が豊かで、ほのぼのとして懐かしい。私もこんなやさしい俳句を詠んでみたいものだと思っている。波郷は私のあこがれの俳人だが、もう一人、私のあこがれの人がいる。金子みすゞである。彼女の「波」という詩を引用しよう。
波は子供、 手つないで、笑って、 そろって来るよ。
波は消しゴム、 砂の上の文字を、 みんな消してゆくよ。
波は兵士、 沖から寄せて、一ぺんに、 どどんと鉄砲うつよ。
波は忘れんぼ、 きれいなきれいな貝がらを、 砂の上においてくよ。
波は「こども」「消しゴム」「兵隊」「かくれんぼ」、なるほどと思う。海岸の砂地の上に腰を下ろして波を眺めていると、これからはこの詩が浮かんできそうだ。波が置いていってくれたきれいな貝殻を拾えば、みすゞの美しい生涯が偲ばれるだろう。
<今日の一句> 川波も 春の調べを ささやけり 裕
42.花盗人
貴子が隣の寝室に去ったあとも、私は居間のソファでトランプをしていた。テーブルの端には、ネグリジェ姿の彼女が置いていった部屋の合い鍵があった。鍵が置かれたとき、私は驚いたが、それは今夜だけの戸締まりのためだった。私に早く帰って欲しいという催促だった。しかし、私はソファでもうすこし時間をつぶしていたかった。
私はトランプの札を並べながら、何度か手を止めて、隣の部屋の物音に耳を澄ませた。隣とは襖で仕切られていて、物音が手に取りるように聞こえた。彼女の鼻をかむ音や、戸棚を閉める音、それからベッドの軋む音がしていた。しかし今は静まっている。私は薄い掛け布団のなかに眠っている彼女の健やかな胸や腰のくびれや下半身のひそやかな部分を想像した。
湯上がりのとき見た貴子の桜色の胸は豊かだった。後ろ向きに私の前を去ってい行ったときの背中から腰にかけての優雅な美しさや、素足の清冽な曲線が思い浮かんだ。私はポケットから避妊具の箱を取りだした。しかし、その箱を見つめていると、彼女の声が甦った。 「私、あそびは嫌い」 私は箱をポケットにしまった。それから部屋の鍵を拾って立ち上がった。
襖を開けると、寝室にはぼんやりした明かりがこもっていた。ベッドの上に掛け布団を胸の半分までかけた彼女が眠っていた。私は顔を近づけて彼女のあどけない寝顔を眺めた。頬に睫の影がやさしく落ちていた。ほころびかけた蕾のような唇が少し開いて、彼女の寝息がかすかに匂っていた。私は唇を彼女の唇にそっと重ねてから立ち上がった。
彼女の部屋を出て、鍵をドアの郵便受けに落とすと、私は足音を消して用心深く階段を上った。和江がドアの前にいないことをたしかめて、私はほっと息をついた。もう十二時を過ぎていて、あたりはしんとしていた。
<今日の一句> 菜の花も ひかりと風の 昼下がり 裕
民主主義の一つの柱は、陪審員制度だといわれている。しかし、日本は民主主義国を標榜しながら、裁判制度は旧態依然とした裁判官制度のままである。先進国では例外なく国民の司法参加が実現している。その理念はいうまでもなく、「人民の、人民による、人民のための裁判」ということだ。
日本においては政治のみならず、裁判においてもこの理念が希薄である。あえてその理念を言えば、「官僚の、官僚による、官僚のための裁判」ということだろうか。小泉首相の登場で、審議会が設立され、いささか日本の裁判制度を改革しようとする機運ができてきた。しかし、これも他の改革同様、官僚に主導権を握られてしりつぼみになりつつある。
裁判において何故、陪審員制度が必要なのか。民主主義の意識に乏しい戦後の日本人にはこのあたりのことがよくわからない。たとえば昔大岡越前というエライ役人がいた。大岡裁きといって、映画やテレビにもなっている。日本人の裁判官に対する信頼は、こうしたお上を尊重する姿勢のあらわれである。これを私は裁判官優等人種主義と呼んでいる。
裁判官に限らず、日本人は官僚について同じような考え方をしていた。政治や裁判は専門知識を持つしかるべき人々に任せておけばよいことで、われわれ愚昧な庶民は口出ししない方がよいというエリート崇拝、専門性優先の考え方である。たしかに愚かな民衆が政治に参加すれば衆愚政治になる。愚かな民衆が裁判に参加すれば集団リンチになる。たとえば専門性を否定した中国の紅衛兵運動などがその例だ。理性なき人民裁判は恐ろしい。
戦後民主憲法の草案を作ったGHQが国民主権を打ち出しながら、なぜ陪審員制度導入に消極的であったのだろうか。この謎を解くヒントはマッカーサーのアメリカ議会での証言の中にある。彼は「日本人の精神年齢は13歳の少年に等しい」と言っている。たしかに13歳の少年に裁判をするのはむつかしい。
裁判は法に基づいておこなわなければならない。検事や弁護士や裁判官は難関の国家試験に合格して、しかるべき訓練を受けた専門家集団であり、法律の専門家である。こうした優秀なエリートを差し置いて、なぜ法律に素人である陪審員の手にその罪状の裁決を委ねる必要があるのだろう。
それは裁判というものが、そう単純で機械的に済むものではないからである。たとえばいまここにごく単純な交通事故という事件を考えてみよう。交差点で車が人を跳ねて、重症を負わせた。しかしこうしたごく単純な事件でも、その背景にさまざまな要因が考えられる。なぜ、運転手は充分な注意を通行人にはらわなかったのか。また、通行人はなぜ車に気づかなかったのか。また、交通量が多いのに、なぜこの交差点に信号機がなかったのか。
事件を審議するなかで、さまざまな問題が明らかになる。それは人生の問題であり、社会の問題である。私たちはこうして、陪審員に選ばれることで、他の人々の人生にかかわり、また私たちが住んでいる社会にかかわることになる。そして、こうして問題にかかわると言うことが、とても大切なことなのである。それは私たち個々人の人生にとっても、また社会の未来にとっても、また裁判自身を血の通ったゆたかなものにするためにも必要なことだ。だからプラトンは「法律」の中で書いている。
<国家に対する罪では、まず一般大衆が裁判に参加することが必要である。しかし私的な訴訟にも、できるだけすべての市民が参加すべきである。なぜなら、裁判に参加する権利にあずからない人は、自分が国家の一員であるとはまったく考えないから>
ヘーゲルは「法の哲学」の中で、陪審員制度を擁護して、裁判というのは立派な専門的な裁判官がいて、立派な結果を出せばいいというだけのものではいけない。裁判というのは結果だけではなく、その過程において裁判にかかわる被告などの自由が重んじられて初めて立派な裁判制度だと書いている。また、政治学者の小室直樹は「悪の民主主義」という本の中にこう書いている。
<デモクラシー裁判においては、状況証拠がいかに揃おうと、確定的証拠がなければ、絶対に無罪である。デモクラシー裁判の最大の目的は、国家と言う巨大な絶対権力から国民の権利を守ることにあり、裁判とは検事に対する裁判である。検事は行政権力の代理者であって、強大この上なき絶対権力を背景にしている。だから、検事が持ち出す証拠のうち一点でも疑問があれば、これは無罪。たとえ、仮に証拠そのものが確実であったとしても、書庫を集める方法において少しでも法的欠点があれば、これも無罪。これが、デモクラシー裁判の考え方である。そうしなければ、もう恐ろしいことに限りない。国家権力から国民を守りきれないではないか>
もちろん、私たちのだれもが陪審員として、誠実かつ有能にその役目を果たすためには、それだけ市民としての良識を持っていなければならない。人生や社会について無知であることは許されない。また公徳心やモラルの点でもそれなりの水準が要求される。
しかし、こうした自己責任に目覚めた良質な市民を創り出すことこそ、本来の社会の目標ではないのか。庶民に選挙権を与え、参審権を与えることで、社会そのものが変わっていく。「陪審員制度は民主主義の学校だ」といわれる所以である。古典的名著といわれるアレクシス・ド・トックビルの「アメリカにおける民主制」から引用しよう。
<陪審制を単に司法制度として見做すことに止まるならば、思考を甚だしく狭めることになるであろう。なんとなれば、陪審制は訴訟の運命に大きな影響を及ぼす以上に、社会自身の運命に大きな影響を及ぼすからである。それ故陪審制は何よりも政治制度なのである>
実は日本でも1923年(大正12年)に陪審法という法律ができて、それから5年後の1928年から陪審員裁判が実施されている。この年は日本で初めて男子普通選挙が実施された年でもある。そして、陪審裁判が行われた10月1日を記念して、10月1日は「法の日」となっている。
裁判制度は社会を写す鏡だ。こうした歴史の教訓と成果を踏まえたうえで、あるべき裁判の姿と、あるべき社会の姿を、民主主義の実現という視点から、もういちど確認しておきたいものだ。そうした基本的観点に立って、裁判制度の改革が押し進められるように、私たちは注意深く改革の行方を監視していかなければならない。
<今日の一句> 雨あがり 河原は青し 草萌えて 裕
留学中の若い日本女性が、韓国の人から戦時(第二次世界大戦)中の日本人の非道行為を指摘されて、泣いてあやまったという話がウェブサイトで紹介されていた。これについて、どう考えたらよいか。
ある人は、これは日本の教育の問題だという。第二次大戦で日本がどのようなことをしたのか、またこの戦争はどうして起きたのか、その辺りのことがしっかり教えられていない。だから、韓国の人から聞かされてびっくりする。
知識がないのだから、反論しようもない。その場の成り行きで、つい謝罪してしまうことになる。これは無知なるがゆえの悲劇である。学校でもっとしっかり近代史を教えられていれば、このようなナイーブな対応にならなかったのではないか。
またある人は言う。たとえ日本人がアジアを侵略し、非道な行為をしたとしても、そのことで彼女があやまる必要はない。なぜなら、彼女自身はこの非道な行為に荷担したわけではないからだ。彼女の祖父母の代に起こったことで、彼女が責任を感じる必要はない。彼女に謝れと言う方が理不尽である。
私はこの二つの意見におおむね賛成だ。戦後生まれの彼女に戦争責任がないことはあきらかである。たとえば父親が殺人を犯したとして、その娘まで罪を問われるだろうか。父親と娘は別の人格である。国家の行った戦争についてもおなじことだ。
しかし、にもかかわらず、私は彼女は自らを恥じるべきだと考える。なぜなら彼女には戦争責任はないが、戦争について、もっと一般的に言えば自国の歴史について知る責任があるからだ。学校で教えられていないからというのは言いわけに過ぎない。
彼女はそのことを自ら学ぶべきであり、選挙権を持つ成人が自国の歴史について無知であることは恥だと思い知らなければならない。つまり、彼女が韓国の人たちに非難されるとしたら、それは戦争責任についてではなく、まずは自国の歴史についての無知についてである。
それでは何故われわれは自国の歴史を知らなければならないのか。また、そこから何故さまざまな責任問題が生じてくるのか。それは私たちが歴史の遺産の中に暮らしているからだ。私たちが暮らしているこの豊かな日本がどのようにして形成されたか、その過程でどのようなことが行われたか。私たちがその遺産の恩恵を受けている以上、私たちはそのことを正しく知り、そのことについて道義的な責任を果たしていく義務がある。
また、こうした観点に立って、私たちは今日の日本の教育を見直してみる必要がある。たしかに日本の若い世代が自国の歴史について未知であることは恥ずべき事だが、そのことをしっかり教えようとしなかった私たちの世代にも大きな責任がある。というよりか、私たちの世代ですら、自国の歴史についてどれほどのことを知っているのだろう。真に恥じるべきは私たち中高年の世代かも知れない。
<今日の一句> なにゆえに 春は淋しき 雨の音 裕
四ヶ月ほど前のことだが、妻の父親が高血圧で眼底出血を起こして一時的に失明した。そこで私も怖くなって、血圧計を買って測りだした。驚いたことに、血圧が軽く190を越えていた。さっそく病院にいって、職場で定期的に受けているデーターを見せると、 「ほんとうなら、5年前から薬を飲んでいなければならない状況です」 心筋梗塞や脳梗塞がいつおこるか分からないという。医者にとても危険な状態だときかされて、私も血圧を下げる薬を飲むことにした。
血圧が上がるのは塩の取りすぎが原因のようだ。日本人は平均で一日12グラム以上も摂取しているが、必要量はたった1グラムだという。つまり10倍以上も摂りすぎている。国際的にも突出していて、「日本人は塩食い人種だ」と言われているそうだ。
食パン2枚食べると、1.6グラムでもう必要量はとっている。私の大好きな漬物や味噌汁も塩が多量にふくまれているので控える必要がある。国際基準の5グラム程度に減らすことができれば、かなり血圧が下がる可能性があるという。ちなみにほとんど塩を摂らないエスキモーやインデアンは歳をとっても高血圧になることはない。高血圧も文明病ということらしい。
赤味噌は白味噌に比べて、2倍も塩が入っているとのこと。そこで、わが家の食卓も、白味噌になった。それからとっても酸っぱいリンゴジュースを飲まされることになった。酢が入っているらしい。酢が血圧を下げるというので、妻がこんな変な味のするジュースを買ってきた。かぼちゃも薄味、味付け海苔も廃止して、ただの焼き海苔になった。食卓では原則醤油は使わない。
寿司のシャリには酢の他に多量の塩が入っているということでこれも控えねばならない。好きないなり寿司もあげの味付けに塩がたくさん使われているらしい。ラーメンの汁もだめ。かまぼこやちくわなどのねりものもだめ。ハムもだめ、ケーキや饅頭やチョコレートなどのお菓子もだめなようで、これからはほんとうに味気ない生活になりそうだ。しかしこれも健康の為だ。これまでの食生活をあらためるチャンスだと思って、がんばるしかない。
ところで昨日3回測ったうちの最高血圧は164だった。今朝は147。ひところ190以上もあった血圧が、この一週間でじわじわと下がり、とうとう150を切った。体がすこぶる楽チンである。たとえていえば、これまで軽自動車に4人乗りしていたのが、普通自動車を一人で運転している感じである。食事療法の他に、薬を飲み出したことが大きいのだろう。ここで安心しないで、これからも摂生を続けていきたい。
(参考文献) 「血圧を下げる安心読本」 渡辺孝著 主婦と生活社
<今日の一句> 湯浴みして 血圧を見る 春の宵 裕
浅草を歩いていて思ったのは、やはりあまり活気がないことだ。浅草演芸場も空席が目立った。落語の中にも、今全国で4軒しかこうした寄席がなくなって、まさに「死滅」しつつある。もう天然記念物とかわらない、という話があった。これも何とも淋しいことである。
一昨日は浅草のカプセルホテルで泊まったが、宿泊代が2900円といつのまにか400円も安くなっていた。12パーセントあまりの値下げである。安くなるのはいいが、そのうち経営危機でつぶれないか心配である。ひいきにしている店なので、どうにか生き残っていてほしい。
一般にインフレというのは、物やサービスの値段があがること、いわゆる物価高だ。これは物が少ないときに起こる。しかし今は過剰生産の時代。中国から安い製品が洪水の如くはいってくる。だから物の値段がさがり、デフレになる。 しかし、インフレとかデフレは、実は商品の量だけではなく、貨幣の流通量ともかかわっている。日銀がお金をたくさん印刷すると、お金の価値が下がって、ものの値段があがる。つまりインフレだ。
だから、デフレを押さえるには、基本的に二つの選択しかない。外国から安い製品が入ってこないようにするか、通貨の供給量を増やすかである。自由貿易をつらぬこうとすれば、とりあえず通貨供給量を増やすしかないということになる。これが今、話題になっているインフレターゲットだ。
デフレは物やサービスの値段が安くなるのだから庶民にはありがたい気がするが、実は給料も安くなる。企業が倒産して、失業率も上がる。物が安くなっても、それ以上に収入が減っては意味がない。だからそう簡単には喜べない。
私が注目している経済評論家の森永卓郎さんは、日本はもう実質的に経済成長はしなくてよいという立場だ。ただ名目で2,3パーセントの成長があるほうが望ましい。実質は0かマイナス成長でよいが、経済が円滑に動くために名目2パーセントの成長率を確保する必要がある。森永さんの考え方は、私が以前に「経済学入門」に書いた説と同じである。政府や日銀もこうした政策を一刻も早く、鮮明に打ち出して貰いたいものだ。
森永さんは東京大学経済学部を卒業し、経済企画庁に勤務した経験もある。現在は売れっ子の経済評論家で、テレビ・ラジオ、講演などで忙しいようだが、とても論理的かつ実践的で、文章もわかりやすい。そして何よりも素晴らしいのは、この人の視点のよさである。
この人自身はエリートだが、いつも庶民の立場から発想している。不思議なのは、私たち庶民がかえって弱肉強食のエリートの立場に立って、威勢の良い物の考え方をすることである。雀でありながら、自分をタカだとおもっている人がほとんどである。笑止なことだが、これが笑えない日本の現実なのだ。
(参考文献) いずれも著者は森永卓郎。 「日本経済暗黙の共謀者」講談社α新書 2001,12発行 780円 「日本経済50の大疑問」講談社現代新書 2002,3発行 680円 「シンプル人生の経済設計」中公新書ラクレ 2002,11発行 700円 「ビンボーはカッコイイ」日経ビジネス文庫 2002,5 発行 571円
<今日の一句> 江戸川の 堤を下りて 春の川 裕
一泊二日で、3年生の私のクラスの副担任だったM先生と「卒業旅行」をしてきた。東京の浅草で一泊して落語を聞いてきた。この旅行は青春18切符を使ったので、往復の交通費は4600円、カプセルホテル代の2900円を足しても7500円しかかからない。私が東京へ遊びに行くときは、いつもこのパターンである。
昨日、岐阜駅を9:00に出発して、東京に16:09に着いた。途中、静岡で1時間ほど途中下車して、駅ビルの地下の食堂で焼き魚定食を食べた。これもいつものパターンである。青春切符は途中下車が自由なのでありがたい。そして24時間つかえて、2300円である。(5回分綴りになっていて11500円)
夕食は少し早めに浅草寺の近くの「天藤」という店で名物の天丼を食べた。明治40年の創業の古い店で、現在のご主人は3代目だという。もう40年も天丼を作っているという。カウンターに坐り、浅草の話を聞かせて貰った。ビールと天丼で2000円の出費になったが、貴重な話が聞けて、ボリュームのあるおいしい天丼をいただいたので満足した。店は小さくて、カウンターに7人ほどしか座れない。奥さんと二人で古きよき浅草の伝統を守っているという感じである。
浅草園芸ホールへは後半から入る予定だったが、風が寒いので早々と6時過ぎに入った。入場料は2500円。9時までたっぷり3時間近く、落語や漫才、曲芸を楽しんだ。感心したのは「紙切り」の林家正楽さんの芸、それから三遊亭歌之介の落語はさすがに面白かった。寄席の後は、浅草ロック座で11時までの2時間、若い女性の美しいヌードを堪能した。しかし、入場料の6000円は予定外の出費である。
カプセルホテルは3300円だと思っていたが、400円も安くなっていて、これはうれしい誤算だった。浅草駅近くの隅田川沿いにあって、これもなじみの宿である。最上階が浴場になっていて、入浴の後、夜景を眺めながらM先生と歓談した。ビールを飲もうかと思ったが、備え付けのお茶でがまんした。
一夜明けても相変わらずの好天だった。そこで今日の午前中は柴又へ行った。帝釈天にお参りし、次に「寅次郎記念館」に入って、映画で使われたセットや衣装などをながめた。映画の名場面なども見ることが出来て、「男はつらいよ」ファンの私は大いに楽しむことが出来た。そのあと実際にロケが行われた江戸川の河原を矢切の渡しまでぶらぶら散歩した。それから参道の店を眺め、「とらや」で草餅を食べた。
帰りは東京駅を13:13に出て、岐阜駅に19:28着いた。岐阜駅の食堂で夕食。というわけで、いつも早朝にしていた日記の更新もこんな時間になった。さて、「卒業旅行」も終わったことだし、明日からまた気合いれて仕事をしよう。
<今日の一句> 浅草で 天丼たべて 春の寺 裕
平四郎(犀星)が「かぶとむし」とあだ名をつけた美しい少女のりさ子はその後、長男の平之介の嫁になる。りさ子はこの結婚に乗り気でなかったが、平四郎や杏子が彼女の背中を後押ししたからだ。平之介ももちろん幼なじみのりさ子には好意以上のものを持っていた。
ところがこの結婚はわずか3ケ月で破綻し、りさ子は離婚を決意して、実家に帰ってしまう。どうしてこんなことになったのだろうか。平之介とりさ子の会話を、「杏っ子」の中から拾ってみよう。
「あれは釣りがね草というんだ。東京では見られない花なんだよ」 「花にしては癖のある花ね、つりがねの形なんかして」 「君は花が嫌いなの」 「こうして坐っていると、東京が後ろになってだんだん見えなくなるような気がするわ。東京は石と鉄とで作られていて、わたくし達にはどんな花より美しいわ」
新婚旅行で軽井沢に行く途中の車中での会話である。自然の花よりも人工的な都会が好きだというりさ子に、平之介は自分と異質な感性を感じる。おもわず「君は変わったね」と言う。そして、「これまで恋愛したことはあるのかい」と訊ねる。
「毎日恋愛しているみたいよ。形ではなく眼で、よその眼が毎日電車でも会社でも、わたくしのまわりをうろうろしてくるわ」 「りさちゃんは大変な人だね、まるで平気でそんなことを言っている」 「女は人に好かれたとき、ちょっと通りがかりでも人に好かれたなと気づいている時に、自分で美しくなろうという事をおしえられるものなのよ、それほど大切なことではないわ」 「それは恋愛じゃないじゃないか」 「わたくしはそれも恋愛だと思うのよ。男なんて毎日首飾りの真珠に番号を打ってゆくみたいなものよ」
「君はもっと、恋愛とか遊びごっこがしたかったのだ、そこを無理に足を洗ったから、それがいまになると惜しくてだだを捏ねているんだ」 「そう解釈していただいてもいいわ、とにかく結婚生活くらい、つまらないものないわ、毎日が退屈だし、あなたの言うとおりの生活が強いられるんだもの、自分で考えたことなど一つも出来やしない」
幼い頃からその美しさで他人の注目を浴びてきた彼女は、もはやこうして他人からちやほらされ賞賛されることによってしか自分というものを確認できず、そうした他者依存的な生き方しかできない空虚で自己中心的な人間になっていた。平之介は、新婚旅行先ですでにこうしたりさ子に絶望し、りさ子との将来に見切りをつける。
家を出たあと、平四郎のもとにりさ子から手切れ金を要求する手紙が来る。平四郎はお金を送る。それきり、りさ子の消息は途切れてしまった。おそらくあまりいい人生は送らなかったに違いない。美しいということは、時として残酷なことである。
<今日の一句> 教室に 子らをしのびて 日向ぼこ 裕
41.湯上がりの女 和江のことがあるので、貴子とのトランプには身が入らなかったが、それでも30分が過ぎ、1時間が過ぎると、ようやくひと心地ついて、貴子とのトランプあそびに心が向いた。
貴子が少し前からはじめたのは、一人でするトランプ占いで、なんでも最後に同じ種類のカードがそろえばいいのだそうだ。 「たとえば、ハートが4枚とか、ダイヤが4枚とかそるえるのよ。そしてなるべく、点数を高くするの」 貴子の最高はハートの32点だという。
「ハートとダイヤとどちらがいいの」 「ダイヤを選ぶかハートを選ぶか、それはその人の価値観よ」 「ダイアはお金で、ハートは心かな、それではクラブやスペードはなんだろうな」 「ある本によると、ハートは聖杯、ダイヤは貨幣、スペードは剣、クラブは農具を現しているそうよ。聖職者、商人、貴族、農民の象徴らしいわ」 トランプは14世紀頃イタリアでうまれたらしい。ちなみに、スペードのKはダビデ王、ハートのKはカール大帝、クラブのKはアレキサンダー大王、ダイヤのKはシーザーだという。 「ダイヤのKだけ横を向いているでしょう。どうしてだかわかる?」 「さあね」 「隣のクレオパトラをみているからよ」
貴子は私に占いのやり方を教えると、キッチンに立っていった。そしてなかなか戻ってこなかった。こんな夜遅く買い物にでも出かけたのかと思ってキッチンをのぞくと、椅子の上に衣服が脱いであった。アパートの間取りは私のと同じだから、玄関を入ってすぐがキッチンで、その一角に浴室がある。脱衣室があるわけではないので、キッチンで服を脱いで浴室に入るしかない。
私は貴子の脱いだ衣服を取りあげると、そこに坐った。磨りガラス越しに、貴子の肢体がおぼろげに浮かんでいた。貴子は立ったままシャワーを浴びているようだ。やがて、浴室の扉が開き、貴子の裸体が現れた。私は貴子の脱ぎ捨てた衣服を膝の上に置いたまま、彼女の肢体に見ほれていた。
貴子はバスタオルで胸元を覆うと、私の手から衣服を受け取って、そのまままキッチンを出ていった。貴子も私も無言だった。貴子の裸体は思いのほか爽やかで、ほのぼのと美しかった。私は清冽な泉に出会った旅人のような清々しい感動から、すっかり言葉を失っていた。
<今日の一句> せせらぎを 妻と歩けば ねこやなぎ 裕
日曜日には妻と木曽川の川辺を1時間ほど歩くことにしている。運動不足解消のためだが、今の季節、ひんやりとした風がなかなか気持がよい。昨日は雲雀がしきりに鳴いていた。川辺にねこやなぎが群生していた。
ときたま娘の友だちの少女が家に遊びに来た。娘が幼い頃は夜間勤務の私は昼間は家にいたので、娘たちが一緒に遊んでいるのが自然に目に入った。絵を描いたり、歌をうたったりして遊んでいるのを見て、ほのぼのとした気持になった。
美少女というほどではなかったが、長女より一つ上の少女で、気立てのよい少女が近所にいて、その少女が遊びに来ると、私は用もないのに書斎から居間に出ていって、彼女たちのようすを飽きずに眺めたものだ。
室生犀星の「杏っ子」に印象的な場面が描かれている。20数年前に読んだときから鮮明に覚えている部分なので引用してみよう。ここに登場する平之介は杏子の弟で、りさ子というのがときどき平四郎(犀星)の家に遊びにきた近所の十三歳の少女である。
<りさ子は平之介とならび、もう自分の坐る場所もきめていた。平四郎は大きな食卓とは別に、自分一人分の食卓に対かうのがつねであるが、大きい食卓とは四尺くらいの距離のある、縁近くの障子際で食べていた。そこから、食卓の下が見え、りさ子のちいさい膝頭が前の方に泳ぐように進み、ときどき坐り方を直してスカートに気づいては、下ろすように手をやっていた。
りさ子はちゃんと平四郎の方から、膝頭が見えることを知っているらしい、自然にそうやるとは思えない。平四郎はそのたびに何気なく眼に入れていた膝頭を、何気なく見ることが出来なくなっていた。まだ十三歳くらいで心にそんな構えがあることが、怖かった。
しかもりさ子自身の注意力が却って平四郎に、手厳しく応えて来るのである。りさ子が坐り方を直さなかったら、そのまま平四郎は特別な眼づかいをしなくともよいのが、りさ子が気にするたびに、刺激されてくるものがあった。これも怖いものであった。
この美しい少女は特別に長い睫毛を持ち、上睫毛が下りて来てふわりととじられる運動が、たいへん美しかった。上睫毛が下りてくると、眼がほとんどただの、黒いかたまりになった、それはかぶと虫のようである。だから、平四郎はりさ子のことをかぶと虫と呼んでいた。
ただそんな平四郎の注意力が、りさ子にとうに解っているらしく、ちょっと平四郎の方を見ていても、直ぐ外してしまい、瞳はすばやく逃げて、杏子と平之介の話にまぎれこんでいた。そのたくまない巧さは、自分の美しいことを知っていて、平四郎がその美しいことに気づいていることを、さとっているものらしい>
十三歳といえば中学生だろうか。今時の中学生は援助交際までしているそうだから、このくらいでは驚かないが、戦前のこの時代のこの年頃の少女としてはませていた方だろう。短いスカートから零れた少女の白い膝に目をやったとたん、何食わぬ顔で、そのくせ充分こちらを意識してスカートを直された経験は私にもあるが、犀星にこう巧く書かれると、何かエロティシズムの神髄に触れたような高雅なときめきを覚える。
<今日の一句> 少女らの 足のやさしさ 春の風 裕
娘達が幼い頃、名古屋市の名東区西里町に住んでいた。星ヶ丘からバスに乗って、10分ほどのところである。庭付きの一軒家を借りていた。この家に8年間ほど住んだ。
その頃は夜間の定時制高校に勤務していたのでゆとりがあった。朝食の後、私は本を抱えて、少し離れた喫茶店まで散歩がてら出かけるのが日課だった。ところが当時幼かった長女が私について行きたいといって泣いた。私は長女に見つからないように家を抜け出さなければならない。
あるとき裏庭から垣根を越えて逃げ出そうとして、向こう側に飛び降りたとき、足を挫いたことがあった。垣の上から路面までかなり落差があり、足を挫いたとき、私は仰向けに転がった。そのとき運悪く通行人に目撃されてしまった。通行人は上から人が降ってきてびっくりしただろう。何とも涙ぐましい脱出劇だった。
しかし、娘たちの歓声がうるさいわが家を脱出してしまえば天国である。職場へいそぐ人々を尻目に、私は悠々と街を歩き、お気に入りの喫茶店の窓際の一角に腰を下ろし、コーヒーを飲みながらゆっくり読書をする。この喫茶店で万葉集を全巻読んだし、トルストイの「アンナ・カレーニナ」やその他様々な東西の古典を読んだ。
ハイデガーの「存在と時間」やその他の哲学書、思想書などもこの喫茶店で読んだものだ。今このHPにいろいろ書いていられるのも、この8年間の贅沢な読書体験があったおかげかも知れない。
喫茶店から帰ったころには、妻の仕事もかたづいていて、娘達は妻に連れられて近所の公園に遊びに行く。家の中が静かになるので、私は机に向かい、小説や随筆の執筆をした。8年間で40編近い短編小説を書いて「作家」という同人誌に発表したが、これも贅沢な閑暇の恵みがあったればこそである。
夕食は学校で給食なので、その頃は昼食がわが家の一家団欒の中心だった。昼食の後、私が子供たちの手を引いて公園に散歩に行く。近所の奥さん達にまじって子供を遊ばせる。散歩から帰ると、娘達と入浴。それから一休みして、4時頃に毎日家を出る。仕事を終えての帰宅は10時少し過ぎになった。
夜の勤務は大変だが、そのかわり午前中と午後を自由に使えるのは魅力的だった。とくに娘達が幼い頃、こうして濃密な家族の時間をもてたことは素晴らしいことだった。会社人間とは違って、文学という自分の趣味に加えて家庭の幸せを満喫できた8年間は、私にとって黄金の日々だった。
私が定時制高校に転勤した理由は、豊田にある新設高校ですっかり消耗したからだった。高校の教師であることを辞めることも考えたが、そのとき定時制高校に勤務していたテニス仲間の友人が私に定時制高校に転勤することを進めてくれた。これは私にとって一つの決断だった。しかし、この決断によって私はこのような類い希な至福の時を恵まれることになった。人生何が転機になるかわからないものだ。
<今日の一句> 卒業の 子らを送れば 梅の花 裕
3年生の学年の打ち上げで泊まったホテルには温泉があった。飲んで歌った後、露天風呂の温泉に入って、3年間の疲れをいやした。近くに梅の花が咲いていて、その樹から香りがただよってきた。
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