橋本裕の日記
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娘が幼い頃、彼女たちをお風呂に入れるのは私の役目だった。これはそのころ私が夜間定時制高校に勤務していて、夕方近くまで家にいたからだ。だから長女も次女も赤ん坊の時から私がお風呂に入れている。
さすが小学校の2,3年生頃になると二人とも入らなくなった。その頃から私が昼間の高校に勤務するようになったこともあるが、それ以上に、娘たちのほうに父親に自分の裸を見られることへの心理的抵抗が芽生えてきたせいではないだろうか。つまり女としてのアイデンティティなるものが芽生えてきたわけだ。
たしかに、風呂に入ればいやでも娘の体のつくりに目がいく。娘と言っても一応は女なので、父親だって男の目になって、ときにはそっと愛撫するような一瞥を娘の秘所のあたりに投げたりするわけだ。「杏っ子」には犀星が娘を風呂に入れたという記述はないが、風呂上がりの娘の無邪気な様子を写した文章があるので、それを引用してみよう。
<お湯にはいれば、すぐ着物をきる前に、一応ふざけて飛び廻ることは毎日のことであった。これは成長というもののこまかい喜びであったのだろう。そのたびに平四郎は杏子のはだかを見ていた。
乳房もお臍も、手も足もあった。けれども性器というものは見えない。それは平ったい鳥の子餅のようなものであって、それだけのものが股の間にぺちゃんこに食っ付いているにすぎないが、それだけに大へん美しい感じものであった。裸を見るとなんとなく其処を見てしまう>
私は鳥の子餅と言うものを知らないが、なんとなくイメージがうかぶ。そして、成長した自分の娘達に、「鳥の子餅って知っているか」と訊いてみたくなる。いや、そんな馬鹿な質問たり、愚かな文章を書いて、これ以上父親の権威を失墜させるのはやめにしよう。
(今日は私の高校の卒業式です。そのあと、3年生の学年を担当した先生達とホテルで打ち上げをします。ホテルに一泊して、3年間の憂さ晴らしをするつもりなので、明日の日記の更新は夕方近くになると思います)
<今日の一句> 乙女らも 我も鼻水 花粉症 裕
2003年02月27日(木) |
父親というミステリー |
本箱から室生犀星の「杏っ子」を取りだして久しぶりに読み返してみた。じつに20数年ぶりである。昭和31年から32年にかけて新聞に連載された800枚におよぶこの長編小説は、犀星が彼の一人娘をモデルにして書いた半自伝的な小説である。芥川龍之介や菊池寛などが実名で出てくるが、彼らは端役で、彼の娘の半生が父親の目を通して丹念に描かれている。
全編を貫いているのは、犀星の娘に対する異常とも思われる愛情だ。最初に読んだのは、私が二十歳代の若さでまだ独身の頃だった。読んだ感想は、「父親とはこのようなけったいな存在か」という驚きだった。大学生と高校生の二人の娘を持つ私は、読み返してみて犀星の筆の確かさに驚く。私自身がその「けったいな存在」のはしくれになってしまったせいだろう。
<娘というものはその父の終わりの女みたいなもので、或る時は頬ぺを一つくらいつねってやりたい奴である。娘であっても、スカートから大腿部のあたりをころげだすことは、そんなにお行儀の悪いと言うだけのものではない、そこにこそ人間のからだの本来の美しさをみとめる高い眼があった。父と娘という威厳のある教えの下で、人間の美しさが言葉のほかに盛りこぼれているからである。どうも時々はらはらして困るねとはいうが、そのはらはらする鋭いものは父親のものではなく、もはや人類のものですらあった>
主人公の平四郎(犀星)は自分の娘を見ながら、こんなことを考えている。厄介な文章だと思ったが、読み返してみて、いささか腑に落ちるところがある。
<平四郎がさまざまな女に惚れて来て、その惚れた女にあった惚れた原因の美しさを、自分でそだててゆく娘に生かしこみ、それを毎日見て生きてゆくことと他の女にあった美しさがどの程度のものであったかを、くらべて見たかったのだ。これは甘っちょろい考えではあるが、父親という化け物がかたちを変えて、妻のほかに一人だけ女というものを見たい考えと合致していた。むしろ宗教的ともいわれる多くの父親どもは、その娘をじっと毎日眺め、なにやら或日には機嫌がよく、或る時はなにやらうかぬ顔付で沈みこんでいるのは、その娘が美しく映じた日と、映じない日の二つにわかれたその父親の嘆きではあるまいか>
犀星は「父親という化け物」と書いている。それにしても小説家を父親に持つ娘は何という不運なことだろう。自分の父親がこんな訳の分からぬ妄想に取りつかれた「化け物」だと知ったら、娘たちはあきれるのではないか。先日私はこの小説をうっかり手にしたばっかりに、他のことがなにも手につかないで終わってしまった。
<今日の一句> きさらぎも わずかなりけり 雲雀なく 裕
私の好きな歌人に上田三四二(みよじ)がいる。彼が代表歌を一つ選ぶとすると、やはりこの歌だろうか。
死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ
ここで一日は「ひとひ」と読む。1975年に出された「湧井」という句集の中にある歌である。上田三四二(1923〜1989)は歌人、小説家、エッセイスト、文学研究者、文芸評論家,医師と、さまざまな顔を持っている。その活動は多彩だが、そこに貫いているものは一つだ。それは何かと言えば、死の淵に立つ生への「畏敬と愛惜」である。この歌のなかにもそれは清冽に響いている。私が暗唱している歌をもう一首引いておこう。「雉」の中の一首である。
あたらしきよろこびのごと光さし根方あかるし冬の林は
最近「死に臨む態度」(春秋社)という上田さんの随筆集を手にした。そのなかに「水鉢」という掌篇がある。文章の一部を引いておこう。「短歌」1973年2月号に掲載された文章だという。
<育ててみて、睡蓮が、こんなにも動物的なものとは、思ってもみないことであった。それはあっというまに茎をのばし、葉を広げ、葉はたちまちに水面を覆い、覆ったかと思うとすぐにも腐ってゆき、腐りかけた葉の上には、もう一夜のうちに、新しい深緑の葉がぬれぬれと水面に広がっているのである。買うとき、煮干しの使ったのを、泥の中につきさすように教えられたが、それを実行しながら成長をみていると、いかにもこれは植物のなかの肉食ーー肉食植物とでもいいたいような猛々しさのあるのが感じられた。
花は去年三つ、ことしは四つ咲いた。水面ちかくで、頸を持ち上げて咲く準備をしていると思ううち、一夜を経てもう咲いていた。カッティングのするどい硝子の器を思わせる冴えた感じに、いくつあるのであろうか、象牙色の花弁が正確無比に抱きあって、その湛える洞に蜜のような芯が黄金の色に輝りながらふかぶかと詰まっている。気品があり、精気に満ちている。午後になると早々と花を閉じるのもいい。三日ほど咲いて、花はまた水中に没した。
近ごろの、変な隈どりの化粧をまだしらぬごく若い娘の、息をのむよほどの美しい眼に出会うことがある。瞳、瞼、まつげの集合の具合が、繊細で、冷たく、精巧そのものの感じでありながら、そこに精気があつまって、潤いを放射している。そういう瞳は、睡蓮の花に似ていると思う。娘はみずからのうちの沼を、まだ知らないだけだ>
上田さんがこれを書いたのは50歳の頃だ。そうすると私より一つ二つ若い頃の文章である。上田さんは二十代の後半結核で入院し、四十代の半ばには結腸癌の手術をうけている。さらに六十代の初めに前立腺の手術を受け、これが再発して65歳の生涯を終えた。そうした過酷な闘病の合間に、これだけ美しく精気のある文章や短歌が書かれた。偉業という他はない。最後に、「湧井」からもう何首か引いておこう。
たすからぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年(ととせ)老いたり 用なくて歩むはたのし雲のごときかの遠山もけふ晴れわたる ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも たまものの三日の旅をかへりきて庭に藤浪の房にふる雨
<今日の一句> 山茶花の ひとひら散りて 樹はしづか 裕
2003年02月25日(火) |
繰り返されるバブルの悲劇 |
1979年にエズラ・ヴオーゲルが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を著し、これからは日本の時代になるだろうと予言した。その予言の通り、1980年代の日本は世界の驚異といってもよかった。なんとアメリカの富の象徴であったエンパイアステートビルまでが日本資本の手に落ちた。
とくに1986年から90年にかけての5年間、株式、土地、ゴルフ会員券、絵画などの「資産」の価値が急騰した。86年1月に1万2983円だった平均株価は89年12月には3万8130円と4年間で3倍にもなっている。89年の株式の時価総額は890兆円にも登った。
この間、土地の平均価格も平均して2倍以上に上がっている。東京都の土地の値段が、日本の27倍もあるアメリカ全土の土地の値段にひとしいとまで言われた。89年度で比較すると、日本の地価総額は2153兆円であり、アメリカの地価総額は500兆円だから、ざっと4倍以上である。
89年には土地と株式の時価総額の値上がり分が535兆円にものぼった。この年、日本国民が稼ぎ出した所得の総和(GNP)が395兆円である。なんと株や土地の値上がり分の方が、勤労所得の1.35倍にも達したのである。このころ評論家の竹村健一が「日本人はもう働かなくていい。資産を運用するだけで食べていける」と言っていた。長谷川慶太郎が「株をやらない者は世捨て人だ」と書いたのもこの頃である。私は馬鹿らしくなって、このころからテレビを見るのを止めた。マスメディアやエライ評論家を信用しなくなった。
1991年の湾岸戦争が、経済の流れを変えた。数年のうちに日本の株価と不動産は暴落した。そして1980年代の繁栄は実はバブルだったことがわかった。2003年現在、株価も土地の値段もバブル前の価格を割って、さらにとめどなく下落し続けている。そして巨大な不良債権と財政赤字が残された。
これにたいして、1990年代はアメリカの時代だった。湾岸戦争の時2000ドル台だったアメリカの株式が1万2千ドルまで高騰した。つまり10年間で5倍になったのである。アメリカの強さは金融・情報に強いアングロサクソン型の経済・社会システムにあるといわれた。しかし、アメリカの繁栄も10年で終わった。
2000年3月10に5049ポイントに達したナスダック指数は、1年半後の2001年9月10日(多発テロでツインビルが倒壊した前日)には1/4の1695にまで下落し、そのあとさらに下落しつつある。ITバブルがはじけて、株価が下落したわけだ。さらにエンロンなどの企業の不正経理が表沙汰になった。アメリカの財政赤字は来年は3000億ドルを越えるといわれている。こうしたなかで、1000億ドルから2000億ドルは必要になると見積もられているブッシュのイラク攻撃がいまや始まろうとしている。
2000年になって元気なのは中国である。そしてだれもがこれからは中国の時代だという。たしかに中国は年間7パーセントもの高い成長率を維持している。上海などの都市には高層ビルが建ち並び、工場労働者の月給が1万円という安い労働力を背景に、価格競争力の強い中国製品がいま世界を席巻している。
しかし、中国の時代もいつまでつづくか。日本やアメリカがたどったように、やがてバブルとなってはじけるときがくるのではないか。その理由としては環境問題の深刻化があるが、他にも貧富の差の拡大など懸念材料がいくらもある。上海のビルの所有者はいずれもシンガポールや香港の華僑だという。いずれ劣悪な環境に置かれた一般民衆の不満が中国の政治体制をゆるがす時がくるかもしれない。中国も「上海バブル」だとうかれていてはいけない。日本やアメリカの失敗から、多くを学んで欲しい。
<今日の一句> 残雪の 遠山眺め 日向ぼこ 裕
40.月明かりの女 貴子の通っている自動車学校は庄内川沿いにあった。そこへ貴子は20分ほどかけて自転車で通っていた。受付係に懇意にしている女性がいて、私のことを話したら、興味を持ったようだという。 「彼女、通信制の高校に通っているのよ。それで、学校の先生に興味があるみたい」 貴子の話では受付係りと懇意にしておくと、予約を取るとき便宜を図ってくれるそうだ。
「それで、その人の歳はいくつ?」 「二十八歳かそのくらいね。橋本さんは?」 「二十九歳だよ」 「二十五歳くらいかと思っていたわ」 貴子は二十歳になったばかりだったが、体はもう少女ではなかった。ソファに並んで腰を下ろしていて、私の視線はしばしば彼女のホットパンツの腿に吸い寄せられた。なめらかな肌と黒髪の匂いが私の官能をくすぐった。
私は貴子の方に体を寄せた。手を彼女の膝頭に置いた。ホットパンツの裾から手を入れると、なま温かい肌の感触が伝わってきた。すかさず貴子が私の手を押さえた。 「進入禁止よ」 「どうして?」 「私、あそびは嫌いなの」 真剣な彼女の様子を見て、私は手を引いた。それから元の位置まで、体を離した。
貴子は表情を緩めて、 「入校はいつ?」 「あさってにも行ってみるよ。自転車を買わないといけないな」 「私のを貸して上げてもいいわよ」 「君はどうするの?」 「明日が仮免なの。合格したらもう使わないから」 貴子は自転車のスペアキーを持ってきてくれた。
私はキーを受け取ると、入校案内を手にしてソファから立ち上がった。 「トランプしない?」 貴子はパンツのポケットからトランプを取りだした。私は明日のお見合いの相手から電話がないか心配になっていた。 「ちょっと用があるんだ」 玄関先まで送りに来た貴子に、私はおどけて自分の片頬を差し出した。貴子は指を唇に触れると、私の頬に押しつけた。
貴子の部屋を出て、階段を上がりかけたところで、私の足が止まった。二階の手すりに凭れている白い人影に気付いたからだ。和江に違いなかった。私は少しずつ後ずさりして、再び貴子の部屋の前に立った。そしてチャイムを押した。私を見て、貴子は八重歯を見せた。私が「トランプ」をするために戻ってきたと思ったのだろう。私はこの誤解を訂正しようとは思わなかった。
私はソファに座って、貴子の並べるトランプの札を眺めながら、ハンカチで額の汗をしきりに拭いた。階段で和江に見られたような気がした。和江が今にもドアをノックしそうで、私は動揺していた。
<今日の一句> シクラメン 我を迎えて 匂ひ立つ 裕
何日も前から、わが家の玄関に鉢植えのシクラメンが飾られている。それを眺めながら私は外出し、そして帰宅する。先日妻にこの花のことを「サクラメン」と呼んで笑われた。とんでもない言い間違いをするのは歳のせいではなく、私の生来の頭脳構造に欠陥があるためらしい。教室で「三角関数」のことを「三角関係」と教えたり、デパートの売場では「ブレザー」のことを「ブラジャー」と呼んで、店員の失笑を買ったこともある。
2003年02月23日(日) |
世界一幸せな庶民の国 |
幕末に日本を訪れたアメリカ人が「王侯貴族に生まれたらイギリスが一番だが、庶民に生まれたら日本が一番だ」と書いているそうだ。そのくらい当時の庶民は世界的水準からいって恵まれていた。
江戸は当時世界一の人口をもっていたが、この巨大都市を管理する町奉行所の役人は290人に過ぎなかった。それだけの人数で120万都市の行政、警察、裁判、消防が整然と運営されていたわけだから外国人が驚くのも無理がない。
前にも書いたことだが、江戸の人たちはほとんど長屋に借家住まいをしていたわけだが、大家に借家料を払うわけではなかった。そのかわり毎日下のものを出していればよかった。大家はそれを農家に売っていた。こうしたリサイクルが成り立っていたので、江戸は西洋の都市のように汚物に汚染されることもなく清潔だった。
当時の江戸には、1500余りの寺子屋や塾があった。幕末の全国では、1万5千にものぼるという。寺小屋を経営していたのは僧侶や神官、武家、裕福な農民などだった。これも基本的にボランティアだった。だから、決められた授業料を徴収されることもなかった。
それでもこれほど多くの寺子屋があったのは、寺小屋の師匠になると人別帳(戸籍)に「手跡指南」など知的職業人として登録され、地域でも「お師匠様」と呼ばれて尊敬されたからだという。優秀なお師匠様は将軍に直接拝謁して、お褒めの言葉をもらうこともあったらしい。
日本人の多くはたいていこのような寺小屋に通い、そこで読み書きソロバンを習った。時には農業用語や漢文を教えられた。そのせいで、たとえば江戸の人々の識字率が70〜85パーセントもあった。同じ頃大英帝国の首都ロンドンの識字率が20〜25パーセントだったことを思うとこれは驚異的なことだ。しかもこうしたことがすべて民間のボランティアで賄われていた。
こうした寺子屋で、尊敬する師匠から、子供たちは何年にもわたって一人一人の個性に応じた教育を受けた。たんなる知識の暗記ではなく、もっと人間的な全人教育をうけたのである。寺子屋で使われた教科書の実物が7千種以上残っているが、商売、大工、農民の技術、地理や物産、生活習慣を教える教科書など、それぞれ工夫をこらした独創的なものだという。和紙で綴じられた教科書は頑丈に出来ていて、何代にもわたって生徒に貸し出されたらしい。
ペリーが日本に来て、日本に開国を強く求めた。そのとき幕府の役人にさまざまな文明の利器を見せつけた。そして「日本人も早く開国して、早くわれわれのような文明人の一員になるべきだ」と迫った。そのとき、役人の一人がすかさず、「そしてあなた達のように、平和に暮らしている他国の人々を軍艦と大砲で威嚇しろというのですか」と応じたという。
不幸なことに、日本はペリーの忠告に従った。そして半世紀後、日本は軍艦と大砲で他国を威圧し、侵略するようになる。寺小屋はなくなり、国民はことごとく官制の学校で教育勅語や軍事教練をやらされた。そして戦争による出兵と巨額の軍事費のため、庶民の生活は疲弊し、農村が荒廃した。そしてこの農村の荒廃が、さらに軍国主義への道へと人々を狂奔させた。
(参考サイト) http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog091.html http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog091.html http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog024.html
<今日の一句> 水仙の 一むら咲きて 足をとめ 裕
昨日、妻と二人でお茶を飲みに出かけて、店先に水仙の花を見つけた。水仙は私の故郷の福井県の県花である。私の大好きな花。小さいときから、この花が咲くのを見て、春を感じてきた。わが家の庭にも友人から貰った水仙が植えてあるが、どうしたことか一度も花を咲かせない。日当たりが悪いせいかもしれない。
2003年02月22日(土) |
経済における政府の役割 |
アダム・スミスは「国富論」のなかで、政府が市場に関与することに反対した。市場は自由競争という市場の原理に任されるとき、もっともよく機能すると考えた。この考え方は今も生きていて、市場主義とよばれる。
これに対して、ケインズは市場はそれ自身の原理に任されるべきではなく、国民の福祉に寄与するように政府が関与すべきだと考えた。これは市場主義を認めながら、アダム・スミスの市場優先の考え方を修正した立場である。
この他に、市場そのものを完全に政府の管理のもと置くという社会主義の経済学理論があるが、ソビエト連邦の崩壊により、今日、この理論はかえりみられなくなった。残った二つの理論が競い合っている。
大ざっぱにいえば、アメリカやイギリスのアングロサクソンは市場優先の立場である。政府の規制や関与をなるべく少なくして、自由競争の原理で経済を発展させたいと考えている。そしてこれをグローバリズムという名前で呼んでいる。
これに対してヨーロッパは修正主義の立場だ。市場経済を尊重しながら、これを適当な規制や法律で管理し運営しようと立場である。そこからたとえばワークエアリングなどという考え方も出てくる。
私の立場はいうまでもなく、修正主義の立場である。政府は市場経済に積極的に関与しなければならないと考えている。しかし、実はその前にひとつだけ前提がある。それは政治家や官僚が充分に経済を理解していること、簡単に言えば「賢い政府」でなければならないということだ。
このことはアダム・スミスがなぜ、市場の政治からの独立を主張したのか考えてみればわかる。そのころのイギリスには汚職がはびこり、利権政治が横行していた。商人達は政治と結びつき、利益を独占しようとしていた。こういう状況では、市場の独立を最優先に考え、規制をなくし、政治の支配を斥けるべきだとする主張もよくわかるのである。
市場を「愚かな政府」に任せてはいけない。そのくらいなら、市場を市場そのものの手にゆだねたほうがよい。しかし、私たちにはもっとすぐれた方法が残されている。それは政治を変えて、「愚かな政府」をより「賢明な政府」にかえることである。そのことによって、経済もより民主的で人間的なものにすることができる。
<今日の一句> 梅の花 ほのかに匂ふ 野道行く 裕
民主主義という考え方や制度はギリシャの都市国家で生まれた。どうしてギリシャに民主主義が生まれたのか。それはギリシャの都市国家が自由な市場を持つ通商都市だったからだ。交易を通して、人々は知識や富を手に入れた。アリストテレスが言うように、そうした経済的な繁栄が余暇を生み、学問や民主主義を生み出した。ふたたびラミスの本から引用しよう。
<人が集まって議論したり、話し合ったり、政治に参加するには時間がかかる。そういう暇がなければ、政治は出来ないのです。政治以外にも、人は余暇で文化を作ったり、芸術を作ったり、哲学をしたりする、とアリストテレスは言いました>
<政治的に言うと、そういう勤務時間以外の時間があってはじめて、人が集まり、自由な公の領域を作ることができる、そういう考え方だった。この自由な公の領域をギリシャ語ではアゴラと言います。私たちはどうやって生きるべきか、どういう選択をすべきか、どういう政治形態を続けるべきか、そういったことが、そこで議論されたのです>
今日、私たちの文明ははるかに進歩した。しかしギリシャの古代都市国家に住んでいた人々に比べて、私たちが自由な時間に恵まれているかどうか疑問である。むしろ現代人は古代の人々に比べて遙かに忙しく、時間に追われた生活をしているのではないだろうか。経済の発展が人間に余暇を恵むどころか、その反対に人間からますます自由な時間を奪っているように見えるのは何故だろう。
それは私たちが経済活動によって生み出される最高の果実が余暇であるという考えを捨てたからだろう。余暇よりも物質的な蓄財を選んだのである。余暇を楽しむことではなく、財産を貯え、贅沢をすることが経済活動の目的になってしまった。そこで人々は寸暇を惜しんで働き、お金持ちになろうとあくせく努力をする。そしてそれがこうじると、他人の富を奪うべく武器を手に取り、軍隊を作って戦争をする。
こうした傾向が次第に顕著になってきた。その理由として近代においてはとくに経済活動そのものが組織化し、管理が強化されて、個人の自由を疎外していることがあげられる。ラミスは、会社の組織というのは軍隊組織の真似だと書いている。たしかに会社の組織は軍隊と似ている。そこには個人の自由はなく、そこで最も重要なことは、上からの命令や管理に服従することだからだ。
<政府の官僚制度もそうですが、会社の組織というのは基本的に軍隊組織の真似だと思います。どちらも軍隊組織の基本的な論理を使っているので、とても似ている。ピラミッド組織としてのヒエラルキーがあり、一番上に決定権のある人がいて、命令は上から下に下りていく。下の人は上の人に対して尊敬をこめた言葉を使わなければならないし、上の人が下に対して命令する権利をもっている>
<会社組織は軍隊と同じように、労働者に、少なくとも勤務時間をひじょうにきめこまかく管理する。会社も軍隊と同じように少なくとも勤務時間のなかには、民主主義の論理、自由の論理、平等の論理は当てはまりません。勤務時間のあいだは非民主的な生活をみんな送っているわけです>
ラミスによれば、今日では経済活動そのものが軍隊の組織をまねて、非民主主義的な生活を私たちに強要するようになっているという。とくにこのことは経済大国といわれた日本の場合、痛切にあてはまったのではないだろうか。日本の経済の強さは、こうした個の論理を否定した集団的組織力の威力に負うところが大きかったからだ。
しかし、日本も含めて世界はいま曲がり角に立っている。軍隊組織をまねた競争至上主義の経済組織をこのまま延命させ、強化させたところで、人類が平和で幸福に暮らせるわけではない。それどころか人々はますます閑暇を失い、強制労働と他者との戦いの中で自己を失って人間疎外に陥るだけだ。
ギリシャ人によると、「奴隷の定義は余暇のない人間」だという。アテネの市民から見れば、現代人はだれもかれも憐れむべき奴隷に見えるだろう。それではどうすればいいのか。ラミスは「経済を民主化すること」「自分自身を民主化すること」が大切だという。
<ここでも忘れてはならないのは、経済価値や政治権力と同じように、文化は、文化庁や一握りの文化人が作るものではなく、民衆が作るものである、ということです。子供たちが学校で、家族が家庭で、労働者が職場で、あらゆるところで人々は文化をたえず作っています>
<文化によって人間社会にあるさまざまなものの「価値」が決まりますが、今の消費文化のなかでは、お金の価値(つまり値段)がついていないものには価値がない、それどころか、存在感もないことになっています。今後、経済の交換価値(値段)以外の、本物の価値を評価できる感性・美意識を中心とする文化が復活すれば、市場経済が持つ私たちに対する支配力はかなり弱まるでしょう>
自己を民主化するというのはどういうことか。それはラミスが書いているように、おしきせではない自己固有の文化を自らの中に育て上げるということだろう。市場での評価や権威にとらわれず、自分の感性と意志を持ち、大勢に押し流されないたしかな目と心をもつということだ。
そうすれば自由とはなにかということも自ずとあきらかになる。それは自分の言葉と感性をもつということだ。そしてそれによって、政治や経済などのあらゆる社会的な活動に主体的に参加するということだ。そしてそのためには、あらゆる創造的活動の母胎となる閑暇を大切にしたいものだ。
(「何でも研究室」に「ギリシャ入門」をUPしました。ご覧下さい)
<今日の一句> 血圧を 測れば寒き 夜更けかな 裕
医者に言われて、朝昼晩3回、血圧を測っている。昨日の昼は上が192で下が132だった。毎日190を越えている。50歳をすぎれば儲けものの人生だと思っていて、何時死んでも悔いはないが、長生きして世界放浪の旅ができればそれにこしたことはない。少し摂生しようかと思う。まずは大好きなたくあんの漬け物を食べないことだろう。
2003年02月20日(木) |
民主主義を装った帝国主義 |
ダグラス・ラミスさんはアメリカでは毎年何十万という人たちが、「殺人学校」に通って殺人の訓練を受け、すでに何百万人もの人々が、その殺人学校を卒業しているという。ここでいう殺人学校とは、アメリカの軍隊のことだ。
ラミスさん自身、その卒業生のひとりである。彼は海兵隊員として沖縄にいたことがある。軍隊に入る前はカルフォルニア大学の学生だったが、朝鮮戦争に従軍した先輩の中には自分の机の上で戦場で拾った頭蓋骨を蝋燭立てにして使っていた人がいて、その人は大学教授になったという。
軍隊には人間の思想や人生観を変える力がある。それは強力な教育機関でもある。そしてそこで行われる教育ほど、自由と平等に価値をおく民主主義にとって脅威となるものはない。軍隊がいかに非民主的な組織であり、非人道的な「殺人組織」かつ「殺人学校」であるか、ラミスさんの著書「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」から引用しよう。
<普通、人は人を殺せないものです。抵抗があって、なかなかできないし、やりたくない。敵だと言われても、実際に人間の体を狙って撃てない人が多いのです。軍隊ではその抵抗をなくす訓練をするのです。殺せない人間から、殺せる人間への訓練です>
<そういう教育を受けた兵隊が帰ってきて、教わったことをやり続ける可能性が高いことは予測できます。事実として、殺人犯のうち、ベトナム帰還兵がとても多い。オクラホマ・シティーで大きなテロ事件がありましたが、その犯人が湾岸戦争での爆薬専門家だった>
コロラド州のリトルトンでは高校生が多くの高校生を殺した。この犯人の高校生は軍隊を崇拝していて、いつも軍服を着ていたという。それから訳の分からぬ連続殺人事件が多発している。ラミスさんはこれもアメリカ社会がベトナム戦争以来、ますます暴力的になってきた現れだという。
アメリカ社会がいかに暴力的かということは、民衆の娯楽を見ればわかる。いたるところに射撃訓練所があり、だれでも簡単に銃を手にとって射撃を楽しむことが出来る。またハリウッドの映画には暴力や殺人シーンが氾濫している。本来ならば正視するに絶えないような不快なシーンを、わざわざお金を払って見に行くのはどうしてだろう。人間が壊れているからだ。
アメリカは民主主義国家のように見えるが実体はそうではない。それは世界でもまれにみる強力な軍隊があり、「私の意志に従わなければあなたを殺します、というのが軍事行動の基本」だからだ。軍隊は何よりも秩序を重んじる組織だ。しかしその秩序はなんのためにあるのかといえば、暴力の行使のためにあるのである。また軍隊の秩序そのものも暴力によって維持されている。そういう特殊な組織の暴力によって守られている国家が民主的だとはいえない。
<軍事組織は基本的に、政治用語で言えば独裁です。司令官がいて、そして司令官の下に権力のヒエラルキーがあって、命令は上から下へいく。そして、暴力を使って忠誠を確認する>
<それだけではなく、軍隊組織のもう一つの特徴は、それぞれの兵隊たち、個人の日常生活の細かいところまでの徹底した管理です。朝から晩まで、24時間のスケジュールがある。そして自分の引き出しの中の整理の仕方とか、服の管理の仕方とか、すべて管理されている。それを破ったら処罰される。だから、これは全体主義組織です。思想から日常生活、朝から晩までのスケジュール、すべてがルールに従わなければならない。そして暴力によって管理されている>
<こうした軍事組織のモデルはたぶん古代ローマから伝わったものだと思います。ローマ帝国はひじょうに合理的な組織を完成して、そのために数十年間で地中海のまわりの国をすべて征服することができた。大帝国ができた理由は、その組織力にあります。それが古代ローマの秘密であって、以来、ヨーロッパの軍隊組織はいつもそれを真似してきたのです。完全管理の組織はものすごく強い組織になるのです>
<軍隊をなくさない限り、国家が本当の意味で民主主義であるとは、言いにくいのです。戦争になれば軍隊組織が強くなって一般社会に対する影響も強くなる。だから、戦争の可能性、そして軍隊組織の存在はいつも民主主義の思想と民主主義の精神の足を引っ張ることになるのです>
アメリカは世界一強力な武器と軍隊を持っている。そしてこの半世紀の間に、世界で一番多くの戦争をして人を殺している。くわえて、世界で一番犯罪が多い国でもある。ラミスさんが言うように、戦争と犯罪にあけくれているアメリカを民主的な国だとは呼べない。アメリカは民主主義を装った全体主義帝国主義国家だといえば、おおよそ真実に近いのだろう。
<今日の一句> うららかな 日差しの中に 山白し 裕
2003年02月19日(水) |
微笑みを忘れた大人たち |
2月12日(水)に放送されたNHKクローアップ現代「赤ちゃんが笑わない」を見た。全国の児童相談所に寄せられる虐待の相談件数は年間2万3千件以上、そのうち0−2歳児の41%を占めるのが「ネグレクト(無視)」だという。そして、そうしたネグレクトを受けた赤ちゃんには「笑わない」「泣かない」子が多いという。
番組では、虐待を受けた子を預かる施設の様子が紹介されていた。親から愛情を与えられなかった子は大人を信用することができない。そして親代わりとなった職員に対しても、笑ったり泣いたりといった人間的感情を素直に表現できず、夜中に頭を激しくベッドの床に打つという異常な行動さえもみせる。その痛々しい映像も紹介されていた。
なぜ、「笑わない子」や「泣かない子」が生まれるのだろう。実は赤ん坊は最初は誰でもごく自然に笑うのだという。これを「乳幼児微笑」という。これは赤ん坊が特に嬉しいから笑うのではなく、ある意味で本能としてインプットされているもので、他の動物には見られない人間に特有の現象らしい。
ふつうの親であれば、赤ちゃんのこの無心の微笑に誘われて、母親もまた喜びの微笑を浮かべる。つまり母親が乳幼児の微笑に応えることで、そこにコミュニケーションが成り立つわけだ。そして次第に赤ん坊の心が発達し、表情が豊かになり、それと同時に母親の方でも母性が発達する。
スタジオゲストの西澤哲さん(大阪大学助教授:臨床心理)は、「母親は最初から母親ではないのです」という。母性本能といわれるものは実は幻想で、母親は子供を産んだだけで本能的に母親になるわけではなく、乳幼児との「微笑みのコミュニケーション」を通して母親としての愛情に目覚め、子育ての喜びと責任を自覚して行くわけだ。
ところが最近は、赤ん坊のこの「ほほえみ」に応えず、ネグレクトする親が増えている。ネグレクトされると、赤ん坊は無力感に陥り、コミュニケーションをあきらめてしまう。さらに脳内ホルモンの分泌が乱れて発育異常が起きるという。そして再び笑わなくなり、言葉も発しなくなる。そのうえ、頭を叩きつける自傷行為が出てくる。
笑わず、寡黙で、自傷行為を行う赤ん坊が増えていると知って、とても切なくなった。その責任は乳幼児の微笑みに応えようとしない母親や私たち周囲の大人の冷めた反応にあるのだろう。それでは、なぜ私たちは微笑むことをしなくなったのだろう。それは微笑みによるコミュニケーションの豊かさが現代の日本から失われつつあるからだろう。ほほえまない赤ん坊の出現は、私たちの社会が微笑みを忘れ、不機嫌に馴らされようとしていることへの警告なのではないだろうか。
<今日の一句> いぬふぐり ほほえみ返す 影ふたつ 裕
2003年02月18日(火) |
お尻のコミュニケーション |
学校の印刷室の通路が細長くて狭いので、思わぬハプニングが生じることがある。たとえば女性の先生と私のお尻がすれちがいざまにドッキングしたことがあった。 「ごめん」 「ごめんなさい」 と声をかけあった。 忙しかったので、そのときは何も感じなかったが、あとになって、なかなか楽しい出合い(お尻合い)だったなと、感謝したいような気分になったものだ。
生徒の中には、私の尻を、「先生、さようなら」と言って、ポンと叩いていくハレンチなのがいる。「セクハラするな」と怒るのだが、もし同じことを私がしたら、とんでもないことになる。魅力的なお尻の女生徒がたまにいるので、これだけは肝に銘じておきたい。
ところで、私は妻のお尻によくさわる。「愛しているよ」という私なりの愛情表現だ。妻も笑いながらポンと私の尻を叩いてくれる。これは愛情表現と言うより、「今日も一日しっかり頼みますよ」という激励なのだろう。文字どおり「尻を叩かれている」わけだ。
娘のお尻にも時々さわる。これも「愛しているよ」という愛情表現であり、決して中年男の欲求不満からではない。しかし、娘達は父親の行為を別な風に解釈している可能性がある。長女の場合、強烈な足蹴りを返してくる。私のすねのあたりをガーンと一撃。これが涙が出そうなくらい痛いので、よほどの犠牲を覚悟しないと大学生の長女のお尻にはさわれない。
高校生の次女の場合は、「おとうさん、もういい加減しないといけないよ」と諭す口調。妻によると、まるで母親が悪ガキをあやすようだとか。今のところ実害がないので、ときどきタッチする。これもまた、親子の貴重なコミュニケーションだと思っているが、少し身勝手だろうか。そのうち、目から火が出るような激烈なカウンターパンチを食らいそうだ。手を引く潮時かもしれない。
<今日の一句> つむじ風 少女の足に しのび寄る 裕
39.女の部屋 去年の暮れに和江を知ってから、私は人間が変わってしまった。そして4月に教員になって、大学の女子寮のようなこのアパートに引っ越してきてから、ますます変化した。女の手を握ったこともなく、接吻の味も知らず、セックスなど考えたこともなかった一年前の修行僧のような自分が、今は別人のように遠く感じられた。
貴子の部屋で一緒にケーキを食べながら、私は不思議な感覚に襲われた。何だかもう随分前に、こんなことがあったような気がした。女と部屋で一緒にケーキを食べ、そしてそのあとで、体を求めあう。もうそんなことが、私と貴子との間で何度も繰り返されていたような気がしたのだ。
もちろん、これは私の錯覚だった。私が彼女の部屋を訪れたのは初めてであり、貴子と並んで坐っているピンクのソファや、壁に掛かった西洋絵画の複製を眺めるのも初めてだった。 「シャガールだね」 「ええ、そうよ。屋根の上のバイオリン弾きよ」 貴子は立ち上がって、その絵を壁から外して持ってきた。バイオリン弾きの緑色の顔が印象的だった。
貴子の解説によると、緑色の顔をした人間はシャガールの絵にはたびたび登場するらしい。よく見ると男はバイオリンを弾きながら屋根の上に浮かんでいた。幻想的で美しい絵だと思った。彼女はシャガールの画集を持ってきて、私に見せてくれた。
私はふと画集から顔を上げて、彼女が絵を壁に戻そうとしている後ろ姿を眺めた。黒い豊かな髪がTシャツの背中に垂れていて、ホットパンツのふっくらとした尻が私の欲情を誘った。 「真っ直ぐかしら」 貴子が戻ってきて、立ったまま額縁の絵を眺めた。すぐ近くにある彼女の白い素足に、何となく私の手が伸びた。
貴子はソファに腰を下ろすと、素直に肩を抱かれた。私の手は彼女の魅力的な胸のふくらみに伸びた。Tシャツの下に手を入れて、ふくらみの感触を味わい、そのいただきにある蕾も指先で愛撫してみたが、彼女は表情を変えるでもなく、壁の絵を見つめていた。私は自分だけが興奮しているようで、恥ずかしくなってきた。
私が手を離すと、貴子はちょっと意外なような表情で私を見つめた。それから微笑すると身だしなみを整えて立ち上がった。帰ってきた貴子の手に、自動車学校の入校案内のパンフレットが握られていた。
<今日の一句> 咳をして チョコレート食う 夜更けかな 裕
T高校生の一日は、正面玄関で自転車を降り、ヘルメットを脱いで、校舎に立てられた国旗に敬礼するところから始まる。私たち教員も同様で、駐車場から歩いてくると白線が引いてあって、そこで立ち止まって、やはり国旗に敬礼する。T高校は「礼」に厳しい学校で、グランドに入るときも、体育館に入るときも、必ず礼をすることになっていた。これは教員も同じだった。学校は「道場だ」というのが、校長の口癖だった。
これとは別に、グランドに国旗・県旗・校旗の3旗が掲揚してある。これは各クラスの日直と日直の教員の手で毎朝掲揚し、帰りには降される。旗の上げ下ろしの際は、グランドで部活動をしている生徒達は、一斉に活動を停止し、直立不動のままこれを見守り、最敬礼する。毎朝毎晩繰り返されるこの光景は、なかなかの壮観である。「今時の高校生が感心なことだ」と、近所の人が涙を流していたということだ。
雨の日は旗の掲揚はしなくていい。ところが途中から雨が上がると、急遽日直の生徒達を集めて旗を掲揚しなければならない。日直の先生にその指示を出すのは指導部の私の仕事だったが、私が忘れても日直の先生が自分で判断してやってくれていた。しかしたまには、日直の先生も私も雨が上がったのに気付かないときがある。校長がこれに気付いて、「旗が揚がっていない」と職員室に注意しに来たことがあった。だから雨があがって、喜んでばかりもいられなかった。
T高校は5期制で5回通知票を書かなければならない。そしてその度に、保護者面談がある。これを担任は授業の空き時間に行うので、休憩がほとんどとれない。そのうえ、毎月のように定期考査や実力考査があるので、答案の採点もしなければならない。三河の山の中にあった前任校ののどかさとはまるで違って、息を抜く暇もないほどの厳しい環境だった。その日も放課後採点をしていると、いつか外はすごい雨になっていた。雷まで鳴っている。
朝は晴れていたので、グランドに旗が揚がっている。この土砂降りの中、旗を降ろすのは大変だなと思った。旗を降ろすのは5時半と決まっていたが、生徒を使うのは危険なので私と日直の先生で降ろしてしまおうと考えていると、指導室から私に電話が入った。すぐに来てくれという。
指導室に私のクラスの男子生徒が3人、雁首をそろえて正座させられていた。下校しようとしたらすごい雨になったので、3人で相談してタクシーを呼んだというのだ。正面玄関に横付けされたタクシーに乗り込もうとしたところで、通りがかりの教員に「ちょっと待て」と止めれて、指導部に連行されたようだった。
私が黙っていると、「3人の反省状況がよくないんです。いったいどうなっているんですか。先生からも注意してやってください」と指導部の若い教員が私を睨んだ。こう言われては私も肩身が狭い。私も生徒達の隣りに正座して坐らせられているようなものだった。「とくにこいつがいかん。反省文もかかない」と、N君は頭をこづかれている。
私も黙っている訳にはいかず、 「どうしてタクシーなんか呼んだんだ」 「タクシーを呼んではいけないという校則があるのですか」 「そんなことは常識だろう。高校生がタクシーを玄関に呼びつけるなんて、聞いたことがないぞ」 「傘もないのにこの雨の中帰ったりしたら制服が濡れます。制服をクリーニングに出したらいくらかかりますか。僕たちは家がお互いに近いのです。相乗りだったら安くてすみます。どうしていけないのですか。先生はこの雨の中を雷に打たれて帰れというのですか」 生徒の話は筋が通っていた。
N君が反省文を書くまであとの二人も正座させるということだった。N君はふくれ面をしていたが、最後には「わかったよ、言うとおりに何でも書くよ」と折れた。これ以上仲間に迷惑はかけられないと判断したのだろう。
その夜、私は自宅でN君の母親から抗議の電話を受けた。「先生方は間違っていますよ。もっと子供の心を分かってやってください。私たちは共稼ぎで、他の親御さんのように学校に迎えに行けないのです」と、最後は母親も涙声になっていた。 「タクシーを呼ぶにしても、私に許可をとって欲しかったと思います」 「許可を取れば許してもらえたのですか。指導部の先生はそう言わなかったようですよ」 私は言葉に詰まった。
世間では常識に思われることが、この学校では通用しない。そういう学校なのだ。しかしそんな本音を漏らすことはできず、 (今日のことは本当にすまなく思っています) と、心の中で謝るしかなかった。その無言の謝罪が通じたように、「まあ、先生に言っても仕方がないことですけどね」と母親は矛をおさめてくれた。 <今日の一句> せせらぎに 風もさわやか 春の川 裕
昨日、お昼を食べた後、妻と二人で木曽川を散策した。河原に降りて、せせらぎの音を聴いていると、こころが和んでさわやかになった。
愛知県の高校では生徒の出入り口を昇降口と言っている。階段があるわけでもないのに、何故昇降口なのかわからない。他の県ではどうなのだろう。生徒出入り口とか生徒玄関とか呼んでいるところもあるのだろうか。
「日本の軍隊」(吉田裕、岩波新書)によると、私たちが使っている日常語の中には軍隊用語がかなり浸透しているという。たとえば、「残飯」「点検」「たるんでいる」「処置なし」「ハッパをかける」「気合いをかける」などは軍隊で生まれた言葉だそうだ。あるいは「昇降口」もこのたぐいかも知れない。言葉だけではない。学校や工場で、軍隊の遺制はしぶとく余命を保っている。
さて、豊田市にあるT高校はNHKのテレビで「管理教育の徹底した学校」として紹介されたが、この学校を一目見ようと全国から視察の人たちもやってきた。そうした人がまず最初に案内されるのが昇降口である。塵一つない昇降口の下足箱の中には、下足がその向きをそろえられて整然と並んでいる。その光景を見て、訪問者はいかに生徒が一糸乱れず徹底的にしつけられているか驚かされる。
全国にどのくらい学校があるのか知らないが、下足の向きまで完全にそろっている学校は少ないだろう。どうしてそんことが可能かと言えば、教師がそれをチェックしているからだ。下足の向きが違っている生徒がいると、番号に印がついた名票が担任のところに回ってくる。生徒は朝のSTで注意されて、すぐに昇降口に走るのである。
だから生徒もそんなへまはしない。校則に従って、素直に下足の向きを揃える。教員が言われた通り、机の上を空にし、入り口の名札を裏返しにして帰るのと同じである。しかし、教員に天の邪鬼がいるのと同じく、生徒にも天の邪鬼がいる。私のクラスのS君である。印の点いた名票が私のところに回ってきたので、「下足の向きが違っている」と注意すると。「どうして反対ではいけないのですか」と反問してきた。
「学校の規則だから従うべきだ」と型どおりの答えを言う。 「なぜ、そんな規則があるのですか」 「この学校はお客さんが多いだろう。お客さんを真っ先に昇降口に連れて行くんだ。下足をそろっていると、この学校は生徒のしつけが行き届いていて、良い学校だなと思ってもらえるだろう」 「それではお客さんによく思われるために、下足をそろえるのですか。なぜ、お客さんによく思われないといけないのですか」
食い下がってくるS君を説得できなかった。何しろ私自身、「下足の向きなどどうでもいいじゃないか」と腹の中で思っているのである。説得に力が入らないし、迫力もなかった。S君は下足を直しに行こうともしないし、翌日も、その翌日も私に名票がまわってきた。
職員室の私の席はB指導部長の前だった。職員室の机の配置は、各部ごとにまとまっていて二人ずつ向かい合っているが、部長や主任だけは教頭の同じ向きで、ヒラの教員を監督できるようになっていた。B部長の席の前に私と指導部副主任が向かい合っていた。誰がどの席に座っているかで序列がわかったが、私は副主任についで指導部No3の位置にいた。席が決まっているのは毎朝職員朝礼が行われる会議室でも同じだった。とにかく序列にうるさい学校だった。そして教員や生徒までがそれを気にするのである。
「おまえのところのSはどうなっているのだ。毎日下足が駄目じゃないか」と、B指導部長がとうとう苦虫を噛みつぶしたような顔で声をかけてきた。 「どうにも、説得ができません」と私はうなだれた。指導部員として面目ないことだ。あきらかに力量不足である。教師としても情けない。 「すぐに呼んでこい」と部長の声が荒くなる。 授業中に呼び出すと、さすがS君も青ざめていた。B部長は怒ると目つきが違ってくる。教員の私でさえ蛇に睨まれた蛙のようになるのだから、生徒が恐怖心を抱いくのも無理はない。
私はS君もすぐに折れるだろうと思った。ところが、指導部長の前で床に正座させられても彼は態度を変えなかった。「つべこべいわずに、規則に従え」と声を荒げるB部長に、「納得できません」と食い下がっている。B部長の目が怒りに煮えたぎっていた。私はそっと目を伏せた。やはり保護者召喚かなと憂鬱になった。しかし下足の向きが違っているので、保護者を呼び出すなどということは何とも馬鹿らしい。
B部長もそこまで決断ができなかったようだ。 「担任の側で、正座していろ」 そう言い残すと、不機嫌を体に現し、物も言わずに職員室を出ていった。S君は立ち上がると、今度は私の横に来て正座した。 「直してこいよ。もう終わりにしよう」と言うと、 「いやです」とはっきりいう。
そのとき、私は高校時代体育の時間、教師に抗議して座り込んだ気骨のある同級生がいたのを思い出した。そのとき、私も彼の傍らに座ることで「こんなことはやめてください」とはっきり意志表示をした。結局クラスで7人ほどが座り込み、私たちは教官室に呼ばれて説教されたが、そのときの自分たちの行動を私は誇りに思っている。人生、意地を張りたくなるときもある。私ははじめからS君を叱責する気にはならなかった。むしろS君に同情していた。
チャイムがなり、教員たちが職員室に帰ってくる。 「どうしたのですか」と口々に訊かれて、 「ちょっと、下足の向きがね」と私は苦笑するしかない。クラスの生徒が何人か入り口からこちらを眺めていた。次は私の物理の授業だった。 「どうする、まだ坐っている?」と訊くと、 「はい」と彼はうなずいた。しかしもう慣れない正座が限界に達していることはあきらかだった。
授業の途中、彼はやってきた。しかし、彼は私と目をあわさなかった。授業が終わって昇降口に行くと、彼の下足の向きがなおっていた。私はホッとしたが、同時に淋しくなった。S君は納得したわけではない。私も含めて学校の教師に不信感を抱いたことだろう。私は自分と生徒との間が次第に遠くなっていくのを感じて、こんな学校に長くはいたくないなと思った。 <今日の一句> てのひらに 春の光りを すくひたり 裕
トヨタの本社や工場のある豊田市はいわばトヨタの城下町である。市の名前も「トヨタ」から来ている。そのむかしは「ころも」という地名だった。今でも「衣台」とか「衣小学校」といった名前が残っている。
私は20数年前にこの豊田市にあるT高校に勤務していた。T高校はトヨタの工場地帯にある新設高校で、この高校で私が経験した愚かな出来事の数々は、とても限られたページで書けることではない。この学校は今から考えると信じられないほど前近代的(ある意味では近代的)な教育システムで運営されていたからだ。
この教育システムは「愛知の管理主義教育」と呼ばれて全国的に有名で、NHKが学校に取材に来て、この題名で3時間ものの番組にして放映したことがある。私の物理の授業風景も撮影していったが、どうみても管理的だとはいえなかったせいか、放映されなかった。
私がちょいと登場するのは、月曜日に行われるグランドでの朝礼の場面で、私は当時担任をしながら、指導部の朝礼係りもしていたので、すこぶる忙しかった。あるとき、チャイムを切り忘れて、国家・県旗・校旗掲揚の君が代の斉唱中にチャイムがなったことがあったが、I校長は「この学校にはアカがいるぞ」と大荒れだった。こういう学校だったので、生徒も教師も緊張の連続だった。
毎朝第0限と称して早朝補習があるのだが、ある日、車がパンクして10分ほど遅刻したときは、その朝の職員朝礼で、「橋本君、勝手に遅刻しては困ります」と万座の中で進路主任から叱責を受けた。ちなみに職員朝礼は毎朝会議室で、直立不動のまま、「おはようございます」と教頭が号令をかけて、いっせいに正面の校長に最敬礼する儀式ではじまった。
職員朝礼の時に、校長から「樋口(仮名)、教頭の命令は俺の命令だ。わかったか」と恫喝された人もいた。職員の名前は呼び捨てである。I校長は教育委員会から来てこの学校を作り、このあと、また教育委員会にもどり、課長や部長に昇進し、最後は愛知県で名の知れた伝統校の校長になった。絵に描いたような出世コースをたどった人である。
私がその学校に転勤してきてまず教頭から言われたのは、「橋本君、この学校は勤務はきつい、しかし校長さんは教育委員会からきた実力者だから、将来は悪いようにはしないよ」だった。露骨な言い方をする品性のない管理職だとあきれたが、校長はこれに輪をかけた出世欲の亡者らしかった。実際、あと一歩で教育長になるところだった。
ところで、校長から呼び捨てで叱責された樋口さんは、なぜ叱られたのかというと、机の上に毎日国語の辞書を一冊だけ置いて帰っていたからだ。この学校では、帰るときは職員室の机の上に何一つ置いて帰ってはいけないことになっていた。本立てや教科書、辞書はもちろん鉛筆一本も置いたままにしてはいけないのである。だから休日などは職員室のすべての机の上が、見渡す限り平になっている。
そうした中で、樋口さんの机の上にだけ、いつもぽつんと辞書が残されていた。教頭は何度か口頭で注意し、自分で片づけてもいたようだが、樋口さんは承知の上で辞書を起き続けた。なかなか勇気のあることである。私が心中でひそかに拍手を送ったことはいうまでもない。(つづく)
<今日の一句> 大根の 花咲く頃や 子の入試 裕
もう十数年も前のことだが、定時制の高校に勤務していたころ、生徒に味噌煮込みうどんをおごってもらったことがあった。数日前、妻と味噌煮込みうどんを食べに行って、ふと思い出したので、今日はそのいきさつを書いてみよう。
生徒と言っても、Kさんは私よりも年上の、当時四十代半ばのおじさんだった。電気工事の会社に勤めながら、定時制高校に通っていた。このKさんが、卒業を前にした冬に、教室で大量の血を吐いた。
私が駆けつけたとき、いつもは赤ら顔のKさんが蒼白い顔をして、机の前に坐っていた。血が机から床に流れ落ちている。血だまりの中に、白い錠剤が見えた。どうやら鎮痛剤を飲んだ直後に吐血したようだった。Kさんの傍らに立ちながら、救急車がくるまでの時間が、とほうも長く感じられた。
その頃はまだバブルの最中で、Kさんは過重労働をしいられていた。しかも学校も休むことなく、学校が終わった後も夜勤をしたりして、無理に無理を重ねていた。医者に行く時間がなかったので、胃が痛いのを市販の薬を飲んでなだめていた。その薬もしだいに強力なものになり、量も増えていたようだ。
彼を救急車に載せたあと、私も車で病院に直行した。検査を受けるのを見守り、医者の話を彼と一緒に聞いた。かなり胃潰瘍がひどいということで、しばらく入院をして安静にしなければならないという。
入院は彼にとって、貴重な人生の休養になったようだ。病院に見舞いに行くたびに、表情がよくなっていた。そのとき、Kさんから「先生、こんど味噌煮込みうどんを食べに行きましょう」と笑顔で誘われた。そして退院してしばらくして、彼の行きつけの店に一緒に行った。退院祝いにおごろうとすると、「お世話をかけたのはこちらですから」と、ゆずらなかった。そしてさらに私にブランデーの瓶を押しつけてきた。
バブルの頃、人手不足から、彼のように過重労働を強いられ、健康を害した人もいたのではないだろうか。彼の場合は、さらに夜間高校に通っていたわけだから、ほんとうに大変だった。しかし、退院後も欠席することなく、4年間通い続けた高校を卒業した。妻と味噌煮込みうどんを食べながら、彼のことを懐かしい友人のように思い浮かべていた。
バブルの頃、健康を悪化させながらも、会社のために昼夜働き続けた人たちがいる。そういう人たちも業績が悪くなるとリストラされる。リストラされなかった人にも、ふたたび過重労働が待っている。そして過労死と自殺。そろそろこんな愚かな社会を変えようではないか。
<今日の一句> 味噌煮込み 食へば思へり 友の顔 裕
かねがね終身雇用制が嫌いだった。一生一つの職業に縛られたくはないし、まして一つの会社に縛られるのはごめんだと思っていた。さいわい公立高校の教員になったので、ひとつの会社(学校)にしばられることはなかった。私はこの24年間で6校もの職場を経験している。
この教師という職業も、できれば50歳くらいでやめたいと思っていた。せっかくの人生だから、もっといろいろな経験をしてみたい。NGOのようなあまり営利に関係がない組織でボランティアとして働くのもいいし、教師を続けるにしても、中国やタイ、あるいはフイリピンあたりの中学校で数学を教えてみたいと思ったりする。その方が刺激的で面白そうだからだ。
田舎に帰って林業や畑仕事をするという選択も考えた。晴耕雨読の生活をしながら、好きな俳句や小説を書いたり、何か哲学的な著作に没頭するのもいいだろう。あるいは世界を放浪して歩くのも面白い。こうした第二、第三の人生の夢を持っているのは、私だけではないだろう。もうとっくに実践している人もいるに違いない。
しかし、一般的に言って、これまでの体制のなかではこういう生き方はなかなかむつかしい。日本の雇用システムがそうした生き方に有利になっていないからだ。現実問題として、年功序列の賃金、定年を前提にした退職金制度や、年金問題、社会保険の問題がある。
つまり終身雇用を前提にしたさまざまな制度が、こうした第二、第三の人生への転出をかなりハイリスクなものにしている。失業して転職を余儀なくされた場合は別だが、私のように安定した公務員の場合、生涯賃金が何千万と違ってくるのである。いまさらリスクのある人生に挑戦しようなどというのは、よほどの物好きか、世間知らずだと思われるだろうし、家族の同意を得ることも、そう容易なことではない。
「日経新聞」新聞の調査によると、企業規模1000人以上の大企業に務める男性社員の標準的な所定内賃金は、25才を 100とすると40才で2.134と2倍以上。50歳代で2.7ー2.9倍前後となり「年功序列型の賃金体系」が鮮明だという。賃金とは対照的に、経営者からみた会社に貢献している社員の割合は、35才の82.6%をピークに年齢を追うごとに減少。50才で71.4%、55才で66.6%に減っている。
能力に反比例するような年功序列の賃金体系も、終身雇用を前提にすればそれほど不合理なわけではない。サラリーマンが一生に手にする生涯賃金は約3億円だという。若いときに少なくもらっても、子育てなどで出費がかさむ中高年になってその分が取り返せれば問題はない。むしろ合理的な賃金体系だとさえいえる。
つまり年功序列型の賃金体系は終身雇用という大前提があって成り立つシステムである。今の団塊の世代が若い頃に、自分の半分も仕事が出来ない中高年が自分たちの2倍も3倍もの高給をもらっていてクレームをつけなかったのは、いずれ自分もそうした配分にありつけると考えたからだ。そのことを理屈ではなく肌で感じていたのである。
ところが時代が変わった。団塊の世代は滅私奉公で会社のために働き、いよいよ配分にあずかろうというときになって、年功序列や終身雇用、さらに年金制度までもう維持できないからといわれ、リストラの対象にされる。たしかに会社としては仕事が出来なくなった高給取りはお荷物以外の何でもない。場合によっては露骨ないやがらせをして、会社を追い出そうとする。会社に忠誠を誓い、社畜とまで呼ばれながらも毎朝朝礼で声を張り上げて社歌を歌っていたのに、これからおいしい分け前にありつこうという時期に、掌を返したような冷酷な待遇を受けることになり、煮え湯を飲まされる思いで会社を去っていく人も多いだろう。
どうしてこうしたことになったのか。書物を読むと右肩上がりの経済成長の終焉をその原因にあげているが、私はむしろ終身雇用や年功序列というシステムにそもそも問題があったと考えている。たとえ経済が右肩上がりでも、こうした人間を会社という小さな世界の所有物にしてしまうシステムはやはり望ましいものではない。人間を自由な個人として扱っていないからである。
若い頃自分の働きに見合った収入を得て、生活にゆとりがあれば、その余剰をどうするかという自由がうまれてくる。それを自分の能力開発に投資するのもよし、株で儲けるのもよい。また将来のために貯金をするのもよい。そうした様々な道を自分の責任で選択することが大切である。こうしたなかから、国際人として必要な視野の広い物の見方や自立的で個性的な生き方が可能になるのだと思う。
それでは、家族を養わなければならない中高年はどうしたらよいのだろう。とくに教育にかかる費用はばかにならない。家のローンがあったりしたら、それこそ悲惨である。とても能力給ではやっていけない。やはり年功序列でなければならないのだろうか。私はそんなことはないと思う。諸外国の例をみれば、このことは明らかである。
結論を言えば、日本の中高年は金がかかりすぎるのである。子供の教育費や住宅ローンにこんなにベラボーに金がかかる国は他にない。外国の場合、義務教育は国家負担だし、大学も公立はほとんどタダである。親が丸抱えで、大学生の授業料や生活費を負担しているのは日本くらいであろう。住宅問題も含めて、これははっきり言って、政治の貧困というべきである。もしこの点が改善されれば、中高年だと言って若い時期以上にお金がかかるわけはない。むしろ出費は少なくてすむはずだ。
私たち日本人はそろそろこのからくりに目覚めて、このいわれのない奴隷制度を抜け出してもよいのではないだろうか。終身雇用などという美名に、ゆめゆめだまされていはいけない。人生、働くことがすべてではないし、雇用されることがすべてではない。「終身」などというおどろおどろしい呪文から自由になって、もっと実りのある人生を明るくさわやかに生きていきたいものである。
日本という国の政治と経済、教育が、こうした自由な個人の人生設計を許容できる寛容なシステムになったとき、ほんとうに自由で豊かな国とよばれるのだろう。そのとき私たちも初めて、本物の豊かさを実感できるはずである。
<今日の一句> 人生は 手ぶらがよし 風薫る 裕
2003年02月11日(火) |
トヨタには余剰人員がいない |
トヨタの奥田会長が「トヨタは終身雇用を守りたい」と発言し、好感をもたれている。「年功序列」「終身雇用」「企業内組合」は日本式経営の「三種の神器」と言われた。日本が高度経済成長を続けた時代には、これが日本経済の強さの秘密だとも言われた。
バブルがはじけて、企業の経営が悪化すると、「年功序列」や「終身雇用」の維持がむつかしくなった。そこでリストラと称される首切りがどこの会社でも実施された。とくにバブル期に多くの社員を採用し、余剰人員を抱えている企業はこに「不良債権」を処分しなければ経営が成り立たなくなっている。
しかし、日本には「終身雇用」という言葉が定着していたので、これには社員や国民の心理的抵抗があった。しかし、背に腹はかえられないということで、例えば日産などは外国人のゴーン氏を社長に迎えてこれを断行した。今後、こういうケースが増えてくるだろう。
ところで、トヨタの場合は「終身雇用」が維持できるのは何故だろうか。業績がよいということもその理由の一つだが、もっと根本的な理由がある。奥田会長によると、「もともとトヨタには余剰人員がいない」そうである。余剰人員がいないので、人員のリストラも必要ではないということらしい。
それでは何故、トヨタに余剰人員がいないのか。それは無駄な雇用をしなかったからである。驚くべきことだが、トヨタはこの40年間、バブルの時期もふくめて従業員をふやしていない。そのかわりパート労働や契約社員を増やしてきた。さらに、どんどん仕事を下請けに出した。
トヨタの「看板方式」は有名だが、これは「必要なときに必要なだけ」という在庫をゼロにするシステムである。在庫をゼロにするということは、「無駄を省く」ということだ。これは社員にもあてはまる。この原理をトヨタはもう40年間も、他の企業に先駆けてやっていたわけだ。トヨタの強さの秘密はここにある。
トヨタの下請けいじめは有名だった。日本電装といえばトヨタの子会社だが、一時関係が悪化したことがある。トヨタの系列から抜けだし、ホンダや他の企業との取引をはじめ、トヨタからの受注を6割まで落とした。そこでトヨタは株の買い占めなどさまざまな手段で圧力をかけた。
トヨタは自らは「終身雇用を守る」と言っているが、株式を保有する系列の子会社にはリストラをたびたび強要してきた。奥田氏自身がこれを指示し、また経団連会長という立場から銀行などの他業種についてもリストラを促している。実際に、いま銀行の窓口にすわっている係りの女性はパートや契約社員に置き換えられているというが、実はこうした経営の合理化をトヨタはすでに完了していたわけだ。というわけで不良債権をもたないトヨタが日本で有数の優良企業になった。
勝てば官軍ということで、書店に行けばトヨタ礼賛の記事がならんでいるが、私はそう手放しで礼賛する気にはならない。しかし、トヨタの堅実な経営は見習うべきだろう。バブルの時代に手足り次第人を採用して、必要でなくなれば「どうぞやめて下さい」ではあまりに無責任である。そうしたなかで、「社員を大切して、終身雇用を守ります」と発言する奥田会長は仏のように見える。トヨタの株が上がるもわかる。
しかし、米倉誠一郎一橋大教授(経営学)は奥田碩会長も出席していた日経連セミナーで、「いわゆる『日本型経営』がうまく機能したのは、戦後、四十年ほどの特殊な時代環境においてのこと。人間尊重を唱えながら、単身赴任、窓際族の発生など、日本の企業社会にはマイナス面も多い」と批判した。
私も「終身雇用」も「年功序列」も「企業内組合」も前近代的で、できることなら精算したい時代遅れのシステムだと思っている。野口悠紀夫東大教授によれば、これらはいずれも戦時中に国民総動員体制のもとで生まれたシステムだという。こうした個人の自由や自立にマイナスに働く慣例は精算するにこしたことはないのだが、問題はその精算の仕方である。
経済は国民に奉仕するためにある。国民が経済に奉仕し、その奴隷なる状況を、これ以上長く続けてはいけない。そして、それを改善できるのは私は「政治」だと思っている。国民の福利厚生を企業に任せるのではなく、国がもっと責任を持つべきである。
「年功序列」「終身雇用」にかわる国民のセーフティネットを早急に構築し、また必要な法を作り、国民が安心して暮らしていける環境を整えたいものだ。そうすれば将来への不安も払拭されて、世の中が明るくなり、経済もいささか好転するだろう。
(奥田会長はトヨタに余剰人員はいないと言うが、一方でリクルートと提携して、人材開発・再教育のための機関を設立しようとしている。トヨタにも余剰人員が発生することは考えられる。そのための布石だろう)
(参考サイト) http://www.president.co.jp/pre/19981200/03.html
<今日の一句> 寒き風 歩けばたのし 汗匂ふ 裕
38.お見合い前夜 喫茶店を出たとき、小雨になっていた。その数軒先にスポーツ店があり、私は四月にその店でテニスのラケットやウエアを買っていた。その店の隣が写真屋だった。
出てきた若い女に、「写真を撮って下さい」と言った。 「証明用に使われるのですか」 「もっと個人的なものです」 「お見合いとか?」 「まあ、そうです」 私は少し赤くなったが、女は無表情なままうなづいた。 しばらくして、男が出てきた。スタジオの椅子に坐らされて、何度かフラッシュを浴びた。
写真屋を出てから私は西春駅に歩いた。そこから電車に乗り、名古屋へ行った。地下街の書店で本を二冊買った。夭折した天才数学者ガロアに関する本と、岩波文庫の「デデキントの切断」だった。お見合いの相手が大学院で数学を専攻していたから、こちらも多少は数学の知識を仕入れて、話題の足しにしようと思った。地下街で昼食を食べた後、また電車に乗って帰ってきた。
夕食をすまし、風呂に入ってくつろいでいると、電話が鳴った。福井の母からだった。 「お見合い写真、明日にでも送るよ」 「そのことだけど、送らなくていいそうよ」 「なんだ、とりやめか」 「そうじゃなくて、あした敦賀に来て欲しいんだって。今晩にでも先方の娘さんから電話があるかもしれないけど、一応場所と時間を言っておくわね」 私はあわてて母の告げるお見合いの場所と時間を書き留めた。
母の話では、そこは敦賀の港に近い結婚式場のある会館で、むかし小浜に住んでいた頃、父の同僚が結婚することになり、一家で行ったことがあるのだという。そのころ小学生だった私にも、それらしい記憶があった。 (お見合いの後、結婚式なんてことはないだろうな。相手は常識外れの風変わりな女性だというから、何が起こるかわからないぞ) 受話器を置いて、見合い写真の彼女の瞳や唇を眺めていると、再び電話がなった。
「こんばんは」 若い女の声に、私は相手の女性だと思った。それで、少し緊張しながら、 「橋本です。よろしくお願いします」 見合い写真を手に取ったまま、頭を下げた。 「あのう、私、貴子ですけど……」 喫茶店の娘だと気付いて苦笑した。
貴子の電話は、喫茶店の余り物のケーキがあるので、一緒に食べようということだった。自動車学校のパンフレットも渡したいという。私が迷っていると、 「誕生日なの。淋しいから」 彼女の声が少し甘く、切なげに聞こえた。
私は戸棚の引き出しの奥から避妊具の箱を取りだした。貴子の体を奪うつもりはなかったが、二人きりになると何がおこるか分からない。用心のためにポケットに入れた。その箱が歩く度に私の太ももを刺激して、私の中でもやもやとした生理反応が起こりはじめていた。
<今日の一句> 金色に 立ちて輝く 枯れすすき 裕
2003年02月09日(日) |
タイタニック地球号の運命 |
日本は今不況にあえいである。しかし、一見不幸だと思われるものごとも、後に振り替えってみると、神様が与えてくれた大事なプレゼントだと思われるときがある。私は自分の人生をふりかえって見てつくづくそう思うのだが、それは個人の人生に限らない。社会の歴史においても同じである。
ピンチはチャンスという言葉がある。逆境の中で私たちはより思慮深くなり、また大胆にもなる。新しい発想が芽生えるのもそういうときだ。これまでの惰性で生きることができなくなったとき、私たちはようやく自己を変革し、新しい道に踏み出す勇気を与えられる。
今、私たちの住む地球は大きな危機を迎えている。実のところ、それは人類の存亡にかかわるほどの危機である。ダグラス・ラミスはこれを氷山に衝突して沈んだタイタニック号の悲劇になぞらえている。衝突寸前まで、船の中では宴が催されていた。誰一人、まさか自分たちの載っている船が沈むとは考えていなかった。もしそんなことを口にする人間がいても、相手にされなかっただろう。
現在の人類の危機がタイタニック号と違っているのは、この危機を口にする人がたくさんいて、しかも氷山の在処まで分かっているという点だろう。たとえばすでに1972年にローマ・クラブが「成長の限界」という本を出して、経済成長が地球を破壊するという警告を発している。これを受けて、国連も毎年のように国際会議を開き、さまざまな議決をしている。
たとえば1999年には国連環境プログラムがナイロビで会議を開き、「地球環境展望2000」という報告書を出した。そこにいかに地球の環境破壊は危機的な状況にあるかが書かれている。そして「先進工業国の資源消費量を9割減らすことを目標にせよ」と提言している。そうしないと、人類はやがて重大な生命の危機をむかえるのだという。
これより少し前、様々な専門家を動員して書かれた「グリーンニング・ザ・ノース」という本がドイツでベストセラーになった。この本ではドイツ政府に具体的な提案をしている。たとえば、石油や石炭の使用を2050年までに80パーセントから90パーセント減らす。原子力発電は2010年までに100パーセントなくす。そしてエネルギー消費量そのものも半分にするということなどだ。
このように、資源の消費を大幅に減らさなければ人類に未来がないことはもうだれもが分かっている。しかし、実際にこれを行おうとすると、各国の利害がからんできて、足並みがそろわない。そして、景気が悪くなり、エネルギーの消費量が落ちると、これはたいへんだと大騒ぎになる。たちまち「経済成長優先」に戻ってしまう。その先頭を走っているのがGDN大国のアメリカと日本である。
<これはまるでタイタニック号が氷山にぶつかる前に、船のエンジンが故障して止まってしまったというような状態です。乗っている人たち、船員があわてて一生懸命エンジンを直そうとしている。早くエンジンを直し、もう一度スピードを出して走りたい、そういう状況です。止まってよかったと考えている人は、あまりいない。しかし、もう一度走り出す、進み出すということは、もう一度その氷山に向かって進み出すということです>(ダグラス・ラミス、前掲書)
ラミスは再び成長路線にもどるのではなく、これを契機にして、「経済成長なしで、どうやって豊かな社会を作るか」という問題に解答を与えることが大切だという。しかし小泉首相やブッシュ大統領の頭の中にあるのは、エンジンを直して再び成長路線を走りたいという焦りばかりのようだ。タイタニック地球号に乗っている大方の人の願望もそのようだ。バブルの夢よ、もう一度というわけだ。
いま私たちに必要な思想や感性は、たとえば「我なんじらに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その装いこの花の一つにもしかざりき」(マタイ伝6章)という聖書の言葉の中にさりげなく語られている。摩天楼という文明のバベルの塔をではなしに、野に咲く一本の楚々たる花を通して、自然の不思議といのちの美しさをしみじみと感じ取る心を、もっと大切に慈しみたいものだ。
<今日の一句> 湯浴みして 雨の音きく 夜更けかな 裕
2003年02月08日(土) |
自発的貧しさが拓く夢の世界 |
アメリカ大統領の一般教書はわかりやすいと言われている。それは大統領が一般国民に、彼らに分かる言葉でよびかけているからだ。日本の首相の所信表明演説は官僚が作成し、難解で勿体ぶった言葉に羅列が続くので、一般国民が読んでも何を言いたいのかわからない。
さて、1月の一般教書演説で、ブッシュ大統領は「経済成長こそが雇用を生むのだ。アメリカ国民がいま以上に消費し、投資すれば経済は成長する」と述べている。とても分かりやすい表現だが、その内容の幼稚さには驚いた。
「経済成長優先」のこうした考え方は、もう先進国では時代遅れだと思っていたが、それは私の勝手な思いこみで、アメリカでも日本でもこうした考え方が支配的なのだろう。しかし「経済成長」で問題が解決すると考えるのは、あまりに楽天的で現実を知らなさすぎる。
「世界が100人の村だったら」には、「6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍」とある。アメリカに必要なの経済成長よりも、こうした富の独占状態の解消ではないかと思うのだがどうだろう。
もちろんこのことは他の国にも言える。もし世界中の人々がアメリカ人並に一人一台ずつ車をもったらどうなるか。石油は数ヶ月で地上からなくなると言われている。現在地球上に住む2割の豊かな人々が、資源の8割を消費している。もし、残り8割の人が同じだけ資源を消費したらどうなるだろう。
実のところ、いくら経済成長しても、みんなが豊かになるわけではない。そして、みんなが豊かになったりしたら、そもそもこの地球がもたないのである。こうした基本認識があれば、ブッシュ大統領の演説は正当な根拠を欠いた、きわめて幼稚な幻想に過ぎないとわかるはずである。
ソローは「森の生活」の中で中国やインドやギリシャの哲学者を例にひき、「ぼくらが自発的貧しさと呼ぶ、優越した視点から見るのでなければ、人間生活を公平に賢明に見ることのできる者はひとりもいない」と書いている。
これを補うように、ラミスは「対抗発展」という考え方を提案している。「自発的貧しさ」をこれからの人間に必要な「発展」だと考えるのである。物質的な資源には限界があるが、精神の世界にフロンティアはない。そこにはまだまだ巨大な夢やロマンが隠されており、その可能性は無限に広がっている。この地上で有限な資源を奪いあって戦争をするより、無限の精神世界をともに手を携えて開拓する方がよほど楽しいし、実りのある生き方だ。
「対抗発展」という考え方に立つと、これまでのモノサシがあべこべになる。たとえば国の豊かさはこれまでのように「一人当たりのエネルギー消費量」や「二酸化炭素放出量」の「大きさ」ではなく、その反対に「小ささ」で測られる。車の数の多さではなく、少なさで国の豊かさが測られる。つまり、このモノサシをつかうと、世界で一番の開発途上国はアメリカや日本ということになる。
私はこのモノサシが世界のモノサシになる日がくることを願っている。しかしこのことは、何も私たちが先進的な科学技術をすてて、原始時代に戻れということではない。まさにその反対である。もっと科学技術や私たちの良識をさらに高度に発展させて、レベルの高い文化や文明を築こうという壮大な計画なのだ。
「対抗発展」というのは、つまりは未来に向けて私たちが生き延びるための哲学であり、叡智と夢にあふれた挑戦なのである。そのベクトルの向きはこれまでの豊かさの向きとは反対である。そこには巨大な建物も塔も空母も原子力発電所もないかもしれない。それは一見貧乏への後退のようだが、新しいモノサシが分かる人には、それはもう一つの豊かさへの前進である。みんなが金持ちになることはできない。しかし、みんなが豊かになることはできる。
<今日の一句> 上着脱ぎ 日差しをあびて 歩きけり 裕
2003年02月07日(金) |
豊かさが実感できる生き方 |
先日の新聞で、日本の援助でアフガニスタンに学校ができて、子供たちに笑顔が甦ってきていると報道されていた。援助をしたのは日本ユニセフ協会である。何だか嬉しくなって、何度も記事を読み返した。
うれしかったのは、私自身ユニセフに毎年寄付をしているからだ。自分の出した金がいささかなりとアフガニスタンの子供の役にたっていると思うと、心に灯りが点ったようにうれしくなった。ユニセフに寄付をした人は新聞の記事を読んで、私と同じ幸せな気持ちを味わったのではないだろうか。
ユニセフに寄付を初めてもう10数年になる。きっかけは屋台のラーメンだった。当時定時制高校に勤めていた私は、帰り道にラーメンを食べる癖がついて、これが肥満に拍車をかけていた。ズボンの腰回りやワイシャツの首まわりが段々窮屈になり、限界に近づいていた。
そこでラーメンを食べる回数を減らして、その浮いた金をユニセフに寄付することにした。ラーメンを食べたくなったら、地球上に5億人もいるという飢えた人々のことを考え、我慢をすることにした。そうすると不思議なことに、食欲がいささか収まった。おかげで私の肥満はストップし、ズボンやシャツを新調しなくてもすんだ。今になってみると、一石二鳥のアイデアだった。
オランダに住んでいる日本人書いた本に、オランダ人は倹約家だと書いてあった。例えば女王の誕生日には全国に古物市が立つ。そこで人々は要らなくなったものを出し合い、融通しあう。あるいは車なども個人で持たずにカーシェアリングをするシステムが発達しているという。
しかし、その同じオランダ人が海外援助には熱心で、ODAでは世界のトップ水準にある。国民の半数近くがNGOの活動にかかわり、外国で災害が起きると、まっさきに駆けつけるのはオランダのNGOだといわれる。こうしたオランダ流の生き方は、大いに参考になるのではないか。
先日の朝日新聞の朝刊に、「成長至上主義、日本は変えよ」と題して、ガルブレイス(ハーバード大学名誉教授)の発言が載っていた。いくつかその発言をひろってみよう。
<相変わらず国内総生産、すなわちモノとサービスの総量を拡大することや、雇用率の高さを維持することだけが重視されている。日本のように経済が成熟化した国では、卓越性を測る新たなモノサシが必要である>
<働くことが人間の最終目標でもなかろう。たとえ失業状態でも豊かさを感じる社会作りへと、施策の視点を変えるべきだ。この発想の転換の面で、日本には世界の中でリーダーシップをとってもらいたい>
アメリカ第二の都市ロサンジェルスには金持ちの住む地区があるが、その家々の玄関の前には、「無断で入ると撃つぞ」という暴力的な看板がずらりと並んでいるという。こういう看板を掲げ、毎日銃の手入れをしている金持ち達が、ほんとうに幸せなわけはない。
<アメリカではとても有名な話ですが、1920年代まで、ロサンジェルスは世界でも有数の通勤電車のある街だった。それを自動車会社が買収したのです。彼らは次第に電車を減らしてゆき、不便なものにして、やがて赤字にして廃止した。自動車産業は同じようにアメリカ中の鉄道や路面電車の会社を買収して、車社会を作った。とても暴力的な歴史なのです。自由市場で車文化になったということではないのです>(ダグラス・ラミス、前掲書)
カルフォルニア生まれのラミスは、「ロサンジェルスはとても暴力的な街だ」と書く。そして、「経済発展によって貧富の差がなくなるという幻想は、ロサンジェルスを見れば間違いだと分かります」と書いている。
ラミスは沖縄が好きで、今もそこに暮らしている。彼がなぜ日本に棲みつき、日本の大学で日本人の青年達に政治学を教え、日本人を相手に本を書き続けるのか。それは彼の大好きな日本をアメリカのような暴力的な国にしないためらしい。彼のような知識人の存在は貴重であり、日本と世界の未来に大きな希望を与えてくれている。
(参考サイト) C・ダグラス・ラミス「世界がもし100人の村だったら」
<今日の一句> 神さびて 伊吹山白し 浅き春 裕
フイリピンのマニラに、スモーキー・マウンテンという、日本の「夢の島」のような都会のゴミがあつまってできた場所がある。ゴミから発生するガスに自然に火がついて、いつも煙を出して燃えているので、この名前が付いたらしい。
最近までそこに何千人という人々が住んでいた。彼らはそこでプラスチックを拾って、それを廃品回収会社に売って生計をたてていた。会社が彼らからプラスチックを買い取るのは、その会社がプラスチックをリサイクルして、別の製品にする最先端技術を持っているからだ。ある意味では、この最先端技術が、この不思議なスラムを生み出したのだともいえよう。
マニラには近代的な高層ビルが建っている。しかし、一方ではこうしたスラムが存在している。そしてスラムに住んでいる人の多くが、実は高層ビルで掃除夫とか小間使いや金持ちのメイドをしたりして働いている。つまり高層ビルとスラムは不可分の存在として経済システムの中に組み込まれている。
<経済発展とは「スラムの世界」を「高層ビルの世界」へと少しずつ変身させる過程だというのは錯覚であって、ごまかしです。経済発展の過程によって、昔あったさまざまな社会が「高層ビルとスラムの世界」になってきたのが、二十世紀の歴史的事実なのです>(ダグラス・ラミス、前掲書)
もちろん、文明のメインストリートは高層ビルである。私たちはこれを見て、「すごいな」と思う。そしてその裏側に広がるスラムにはあまり目を向けようとしない。しかし、この両者はコインの裏と表のように一体化して、それぞれ「近代化」してきたわけだ。もちろん為政者はこれをなるべく隠そうとする。マニラのスモーキー・マウンテンにすむ住民も最近強制移住させられた。日本のテレビに紹介されて有名になりすぎたせいらしい。
「貧困の近代化」(イヴァン・イリッチ)はアメリカでも同じである。アメリカのニューヨークには高層ビルが建ち並んでいる。ところがこのニューヨークで毎日のように何十人もの人々が拳銃で殺されている。アメリカ全土では毎年1万人もの人が銃殺され、刑務所には180万人もの囚人がひしめいている。これもまた貧困の近代化と言えないだろうか。同じことは日本でも起こっている。毎年3万人以上の日本人が自ら命を絶っているが、考えてみればこれも異常なことである。
「豊かさと貧困」は磁石の両極のように分かちがたく結びついている。しかし、このことはあまり知られていない。その理由は二つある。一つは貧困が近代化されて見えにくなっているということだ。たとえば、日本の場合、見せかけの繁栄の背後に貧困がひそんでいて、「過労死」や「自殺」などという現象としてあらわれてきたりする。
もう一つは、豊かさと貧困を同時に関連させて眺めることができにくくなっていることがある。たとえばニューヨークの摩天楼とアフガニスタンの飢饉は遙か遠くはなれていて、ニューヨークに住んでいる人にはその相互関係はわからない。アフガニスタンの貧困はあくまでアフガニスタン人の問題で、アメリカ人には関係がないように映る。
しかし必ずしもそうとは言い切れない。むしろ遠く離れていても豊かさと貧困は相互に関連している。そして、「貧富の格差こそ経済発展の原動力」(ダグラス・ラミス)という近代的経済システムあり方のなかに、この時代の非人間的で暴力的な性格が潜んでいる。そしてまた、「貧困の近代化」があるところ、「豊かさの近代化」も同時進行していると見なければならない。
<人間が共有できるような、一緒に、ともに生きるような豊かさがあると思います。この世界経済システムのなかの豊かさ(リッチ)、経済発展によっていつか追いつくと考えられているような状態、ハリウッド映画に描かれているアメリカの金持ちの生活とかヨーロッパや日本の豊かな生活のイメージは、そういう豊かさではありません。それは相対的な豊かさ、どこかに低賃金労働者のいる、お金が欲しい人間がたくさんいるという前提にたった豊かさであって、みんなが、世界中の人たちがそろって金持ちになるわけにはいかないのです>(ダグラス・ラミス、前掲書)
タノイ族にとってゆたかさは、自然と文化の多様性であり、労働から解放されたゆったりした時間のなかで、人と人、人と自然とがゆたかに触れ合うことであった。そうした親和的でゆとりのある共生関係が失われるにつれ、豊かさの質や定義が変わってきた。
「豊かさの物差し」そのものが、いつに間にか近代化し、われわれ現代人はいつかそのように近代化された頭でしか「豊かさ」を考えられなくなっている。そしてあくせくと豊かさを追い求めて、その実、「豊かさ」を失っている。現代においては、豊かさとは、すなわち「貧困そのもののもう一つの姿」だといえないだろうか。
<今日の一句> 襟巻きを 外す少女の 赤き頬 裕
2003年02月05日(水) |
人はいかにして労働者になったか |
昨日は全滅したタノイ族の話をした。タノイ族に限らず、西洋に支配された先住民の人々は同じような悲哀を経験したことだろう。一つの強力な文明による専制支配があるところ、地の文化の破壊はまぬがれがたい。このようにして、世界の歴史はたびたび塗り替えられてきた。
貨幣経済を知らない先住民は、征服民からみれば未開人である。自然の恵みの中で自給自足していた彼らは賃金労働というものをしらない。そもそも労働ということに慣れていないのである。怠け者の彼らを働かせるのは容易なことではない。
そこで征服者はどうしたかというと、先住民の生活基盤の自然を破壊することをはじめた。つまり豊かな森があり、そこで食べ物も薬も建築材料もすべて手に入る間は彼らは働こうとしない。しかし森がなくなれば、もはや先住民達は自給自足はできない。
森を伐採した後に、コーヒー園やゴム園を作る。そうすると生活基盤を失った先住民達は、プランテーションの労働者となるしか生きる道はない。そこで働いて賃金を受け取り、それで生活必需品を買うことになる。こうして未開の地に西洋流の貨幣経済が持ち込まれる。あとは経済の法則によって、彼らはいやおうなく奴隷労働に駆り立てられる。そして農園主は裕福になるわけだ。
アメリカの大学で政治学を研究し、日本の大学で長年教鞭を執ってきたダグラス・ラミスは「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」という魅力的な著作の中でこう述べている。
<第三世界の人たち、南の国の人たちはヨーロッパの経済を見てそれに惚れ、みずから自分の文化を捨ててそれが欲しくなったということになっている。変えられたのではなく、みずから変えたというわけです。そういう物語を、何度も読みました。けれども歴史の事実は違います。今の世界がどういう過程でできたのかを知らないと、今の世界は何なのかということもわからない>
<私たちが経済発展と呼んでいること、それは地上のすべての人間、すべての自然を産業経済システムのなかに取り入れるということなのです。それが経済発展の具体的な中身であって、それが数百年続いてきた>
<私たちが今の世界を見るとき、うまくいっているところは発展されている、人がたくさん苦しんでいるところは「発展途上国」「まだ発展が足りない」というふうに分けていますけれども、それは幻想です。「発展した国」も「発展途上国」もすべて、発展という過程が作った世界だと考えるべきなのです>
ダグラス・ラミスは「発展途上国」はやがて「発展」して、「発展した国」いわゆる「先進国」になるのだというのは幻想だと言っている。貧乏人も努力すればやがてみんな裕福になれるという考え方があるが、これも幻想である。なぜなら世の中は実際そのような構造になっていないからだ。このあたりのことを、明日の日記でもう少し書いてみよう。
<今日の一句> 春立ぬ 御岳白き ままにして 裕
2003年02月04日(火) |
コロンブスがやったこと |
カリブ海に「イスパニオラ」という島がある。ドミニカ共和国とハイチという二つの国がある大きな島である。この島をイスパニオラと呼んだのは、コロンブスである。1492年に彼が最初に発見した「新世界」がこの島だった。
コロンブスが来たとき、この島にはタノイ族という先住民がいた。コロンブスと彼の仲間達は、先住民の豊かでのどかな暮らしぶりを見て、自分たちは「エデンの園」に迷いこんだのではないかと思ったという。
何しろ彼らはほとんど「労働」をしない。畑にはいろいろな種類の作物がゆたかに実っているが、彼らが畑で働くのは一週間のうちほんの数時間である。海には魚がいくらでもいるから、食べるものにはこまらない。暑いので裸同然で暮らしている。着るものもほとんど必要ではない。
つまり、労働をする必要がない。それでは彼らは何をしているかというと、楽器を作り、歌ったり踊ったりしている。あるいは語り部の話す物語に耳をかたむけている。女達は髪飾りやネックレス、イヤリングをとても器用に作る。
とくにコロンブスたちが羨望をいだいたのは、彼らの開放的なセックスのようすだったという。恋人同士はあけっぴろげにお互いを求めあい、しかも抱擁している時間が気が遠くなるほど長い。ろくに労働もせず、歌ったり踊ったり、そしておおらかに延々と続くセックス。たしかに楽園としか思えない。
コロンブスは彼らから金や銀でできた飾りをもらい、二人のタイノ族を人質にしてスペインに帰った。そして、スポンサーのイザベル王女に、新世界には金や銀が豊富にあり、健康で丈夫な「奴隷」もたくさんいると報告する。そしてイザベル王女からお金を貰って、ふたたびイスパニオラにやってきた。
そこでコロンブスがしたことは、タノイ族を奴隷にしてプランテーション農業をはじめることだった。しかしタノイ族には働く習慣がない。武器で脅しても座り込んで働こうとしないうえ、むりに働かせると、誇り高い彼らはすぐに病気になって死んでしまう。そして、あんなにセックスが好きだった彼らが、ほとんど性行為をしなくなる。こうしてタノイ族は100年間で全滅してしまった。
そこでスペイン人はかわりにアフリカから奴隷を連れてきて働かせはじめた。現在、カリブ海の島々に住んでいるのはほとんど黒人か、黒人と白人の混血だという。彼らはおそらくそこに先住民の豊かな暮らしがあったなどと夢にも思わないだろう。なぜなら先住民は全滅してしまったからだ。もう、どこにも先住民の文化は残っておらず、その記憶も滅びて、彼らの伝説を知る人はいない。
(参考文献) 「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか」 ダグラス・ラミス著 平凡社
<今日の一句> 星の夜 どこかの家で 福は内 裕
昨日は節分でした。わが家でも豆を食べました。しかしもう以前のように、「福は内」とはなばなしく豆をまいたりはしません。心のうちで、「みんなが幸せでありますように」と祈りながら、静かに豆をいただきました。
37.雨の喫茶店
和江はこなかった。そして、夜半から雨になった。翌朝になっても降り続けた。私は近所の喫茶店に出かけた。雨のせいで予定していたテニスの部活動はなくなった。喫茶店も空いていて、ゆったりできた。 「学校はもう、夏休みですか」 モーニングを運んできたウエイトレスの娘が声をかけてきた。
彼女は同じアパートに住んでいる女子大生だった。 「雨のせいで、なくなりました」 「たしか、テニス部でしょう」 「そうです。どうして?」 「テニスの雑誌を読んでみえたでしょう」 笑うと可愛い八重歯が覗いた。
私は数日前、アパートの前で彼女と顔をあわせて立ち話をした。その時の会話から、彼女は半年ほど前から喫茶店でアルバイトをしているのだということがわかった。私も三河の高校で数学の教師をしていることを打ち明けた。
彼女は自分が一階の一番はしに住んでいること、最近下着をとられたりして、少し物騒なので、二階が空いたらそちらに移るつもりだと早口で言った。アパートに住んでいるほとんどの女学生はパートナーを持っていたが、彼女にはいないようだった。
喫茶店で働いて、そのお金で自動車を買うつもりらしい。それから彼氏を見つけるのだという。理想が高いのでなかなか見つからないかもしれないと言う。 「できたら、背が高くて、足の長い人がいいな。それからうんとお金持ち」 そのいずれの条件にも合わない私は苦笑した。彼女は私も自動車学校へ通うつもりだと聞くと、 「それならこんどパンフレットを持っていきます。二階の橋本さんですね」 私は自分の名前を言われて驚いた。
おそらく彼女は二階に上がって、私の部屋の名札をみたのだろう。このアパートの住人で男性は私一人だけだから、すぐにわかる。彼女がなぜ私にそうした個人的な興味を持ち、立ち入った話までするのかわからなかった。しかし、そんな彼女に私は親しみを持った。名前を訊くと貴子だと言った。そのときはそれだけの会話で別れた。
コーヒーを飲み、トーストを食べながら、私の視線は時々カウンターの貴子の方に流れた。彼女はカウンターに片手をついて雑誌を読んでいた。私は彼女の横顔を眺めながら、昨日母から送られてきた見合い写真の女性のことを思い浮かべた。写真の女性に気持が動いていた。さっそく今日にでも見合い写真を撮って、先方に送ってやろうと思った。
そんなことを考え、ぼんやりとカウンターの方を見ていると、いきなり貴子がこちらを見た。視線が合うと、貴子は表情を和らげて八重歯を見せた。 「お水、どうですか」 「お願いします」 私はいそいで視線を窓の外に向けた。
<今日の一句> うららかな 日差をあびて 寒雀 裕
2003年02月02日(日) |
交戦権と政府による死 |
昨日の日記で、国家には「警察権」「裁判権」「交戦権」が与えられているということを書いた。ところが「交戦権」を憲法で認めていない特殊な国が2つだけある。それは日本とコスタリカだ。
日本の場合は戦争に負けて、もう再び戦争の惨禍を繰り返さないという決意から、憲法の前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と理念を述べ、第九条ではっきりと戦争の放棄を宣言した。
<日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない>(第九条)
現実に日本は自衛隊という世界有数の軍隊を持っている。これは「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という憲法に明らかに違反している。しかし、与党自民党ばかりではなく、野党からもこれを追求する声が聞かれなくなった。国民の大半も「自衛のための戦力」は必要だし、そのためには憲法違反もしかたがないと思っているのだろう。
ところで、第一次大戦後、自衛のための戦争以外の戦争、すなわち「侵略戦争」は国際法で禁じられている。戦前の日本もこの条約を批准していた。したがって、先の15年戦争も名目は「自衛のための戦争」だということになっている。中国大陸や南方に「進出」したのも、真珠湾を攻撃したのも、すべては「大日本帝国の生存」のための自衛手段だということになっている。
つまり日本は「自衛のため」と言いながら、他国へ軍隊を派遣していた。さらに最近では「集団的自衛権」という考え方がある。つまり同盟国を助けることも又「自衛」なのだ。こういう理屈がまかりとおると、もう軍隊派遣に歯止めが利かなくなる。
そうい言えば、ブッシュ大統領も「イラクを叩くのはテロから世界を守るためだ」と言っている。世界に平和をもたらすために他国に何十万という陸海空軍を派遣するのだと言う。その口上は「アジアを列強の植民地支配から解放するため」という理想を掲げた軍国日本と変わらない。
ところで、ここに一つの統計がある。ハワイ大学のランメルという学者の書いた「政府による死」という本の中に書いてある数字で、20世紀の100年間で、どのくらいの人命が政府の手によって失われたかという統計である。
ランメルによれば、20世紀の百年間で国家によって殺された人間は、約2億人(203,319,000人)だという。ダグラス・ラミスは「経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか」とう本の中で「20世紀はホッブスの理論の大実験というふうに考えられる」と書いている。リバイアサン国家の犯罪性についてはもうはっきり結論が出ているわけだ。
<二十世紀ほど暴力によって殺された人間の数が多かった百年間は、人類の歴史にはありません。これは先例のない、まったくの新記録です。そして誰がもっとも多く人を殺しているかというと。個人ではないし、マフィアでもやくざでもない。国家です>
ところでランメルの統計によると、2億人の犠牲者の大半(1億3千万)は何と他国の軍隊によってではなく、自国の軍隊や政府によって殺されているという。つまり、軍隊が自国民を守るためにあるというのは実のところ事実ではない。例えば中南米では、軍部がクーデターを起こし独裁政権をつくるということが繰り返されている。
そこでコスタリカは軍隊をつくらないことにしたのだという。コスタリカは日本のように戦争に負けたからではなく、「政府の国民に対する暴力を制限するために平和憲法を作った」のだそうだ。コスタリカのような平和憲法をもつ国が一つでも二つでも増えれば、21世紀の地球は明るくなる。日本もまたコスタリカとともに、この理想を世界へと広げていく運動の先頭に立ってみてはどうだろうか。
<今日の一句> さびしさも ほのかに白し 冬障子 裕
世の中にさまざまな組織がある中で、国家はなかでも特別な組織だ。どこが特別なのか。マックス・ウエーバーによれば、国家が特別なのは、「警察権」「裁判権」「交戦権」が与えられているからだという。
個人が他人を監禁したり、しばり縛り首にしたりしたら立派な犯罪である。他人の家に乗り込んで行って、家財道具を壊したり、暴力行為や殺人をおかしたりしたら、これも立派な犯罪である。しかし、国家の後ろ盾があれば、こうした他人の生命・財産を傷つける暴力行為も許される。
どうしてこうしたことが許されるのか。国家権力の発生については、いろいろな考え方がされてきたが、大きく分ければ、王権神授説に代表される、「国家とは神聖なもの」という考え方と、ホップスに代表される「社会契約説」の流れであろう。
戦前・戦中の日本は「天皇は神聖にして犯すべからず」であり「国体」こそは護持すべき最高の価値であった。明治15年に発令された「軍人勅諭」には「死は鴻毛よりも軽し」と書かれている。国家という大義の前には、一人一人の命は鳥の羽のように軽いというのである。
これに対して、社会契約説の国家観はもっと世俗的である。たとえばホップスは強力な王権がないと、「万人の万人による戦い」が始まり、暴力が支配する世の中になると考えた。平和を維持するためには、個人の自由を制限して、「警察権」「裁判権」「交戦権」をもつ国家が必要だと考えた。
「社会契約説」で大切なのは、国家権力がいかに強大なものになろうとも、その源泉は自由な人間の契約によるものだという考え方である。これは「主権在民」とか「人民主権」とか呼ばれている。戦後の日本国憲法でも、「天皇の地位は国民の総意に基づく」とはっきり規定している。
今の時代に、かっての日本のような神懸かりな国家観を標榜する国家はほとんどなくなった。基本的にはどこの国でも、「社会契約説」にもとづく世俗的な国家観が建前になっている。しかし多くの人々はまだ心情的に民族や国家を神聖視する傾向から抜け切れてはいない。頭と心がかならずしも一致しないのである。
さらに、最近では日本で、「愛国心」や国家主義的な道徳を説く人が増えてきた。こうした人々が口を揃えて指摘するのは、「公徳心」や「モラルの荒廃」である。こうしたことを口にする人々がはたしてどれほど立派な「公徳心」をもっているのか疑問だが、そのことは百歩譲ろう。かつまた現代の私たちが戦前の日本人よりも公徳心において劣っていると仮定しても、私は国家主義的な考えで道徳を説くことには反対である。
それではどうすればいいのか。答は簡単である。国家主義の反対を行けばいいのだ。「軍人勅諭」とは反対に、「命は山のように重く、玉のように貴重である」と説けばよい。私は「国家」を神聖なものとは考えない。しかし、この世に「神聖なものなど何もない」と考えるほどニヒリストではない。
神聖なものはたしかにある。それは「人の命」であり、このかけがえのない「自然」だ。そして、平和憲法のもとに運営されているこの「日本という平和で豊かな社会」と、「一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」というおおらかな博愛主義の精神だ。この神聖なものを、大切に守りたい。
<今日の一句> 新雪を 踏めばたのしも 息はずむ 裕
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