橋本裕の日記
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2002年12月31日(火) 暴力少年・N君の軌跡(2)

 今日は大晦日。今年最後の日記である。何かそれにふさわしい話題で決めてみようかと思ったが、一昨日の日記の続きが残っている。まずはこれを仕上げないと、年が越せないようだ。

 ちょうど4年前の今頃、N君が家出をした。正月に福井に帰省していた私は、3日に指導部長からの連絡でそのことを知り、驚いてN君の家に連絡した。年末に父親と衝突し、父親の「勝手にしろ」という言葉で、家を出たのだという。4日たっても、本人からは何の連絡もないということだった。

 これで正月気分は一気に吹き飛んだ。両親は毎日、ゲームセンターなど本人が行きそうな所をさがして歩いているという。しかし、手がかりはない。私も心当たりをあたってみたが、手がかりは得られなかった。やがて新学期が始まったが、N君は登校しなかった。

 荒れていた割りに、私のクラスからは不登校のA君のほか一人も退学者は出ていなかった。教室がサロン化していたので、学校へ来て、授業中もおしゃべりをしたり漫画を読んだりするのが楽しいのだろう。N君もそのうちに来るだろうと思っていたが、結局彼は姿を現さなかった。

 そのうちN君について、少しずつ情報が集まってきた。N君は何かの事件に関係していて、警察に逮捕されるのを恐れていたというのだ。そのために身を隠したのではないかという。日頃のN君の行動を見ていると、そんなこともあるかもしれないと思った。父親や母親にはそうした情報を伝える気にはなれなかった。たぶん両親も知っている筈である。

 3月に入って、本人不在のまま「退学届」が出された。私はN君の教科書やジャージ、シューズなどの荷物を段ボールに入れて、彼の家を訪れた。これまで何回となく訪れた家もこれが見納めかなと思った。私はN君にもその両親にも、それほど同情がわかなかった。おかげでクラスは崩壊し、私は不眠症と高血圧に悩まされ、耳鳴りや動悸までするようになっていた。この一年間の悪夢から解放されるのかと思うとほっとした。

 チャイムを押すと、母親が出てきた。段ボール箱を受け取りながら、「先生、すみませんでした。私たちの教育が間違っていました」と頭を下げ、あとは肩をふるわせてあふれる涙をぬぐっていた。気の強いきれいな奥さんの、この変貌に私は胸を突かれた。母親の悲しむ姿を、N君に見せてやりたいと思った。

 その後、母親は家を去り、実家に帰ったようである。N君の家出によって両親は離婚し、家庭は崩壊した。しばらくしてN君が「俺は退学なぞしていないぞ。担任を出せ」と言って、学生服姿で学校に乗り込んできたことがあったが、私はさいわい図書館にいて、N君と顔をあわせることはなかった。やがて裁判所から書類が回ってきた。N君は鑑別所に送られ、更生のための指導をうけることになったようだ。その後しばらく、N君の消息は聞かなかった。N君の同級生も、すでに去年の春に卒業した。

 ところが、この10月に、いきなりN君から学校に電話が入った。
「先生、Nだけど、覚えているかよ。大検受けたいんだ。どうしたらいい」
 穏やかな口調だった。話を聞くと、家に帰っているという。父親は離婚した後、今は別の女性と再婚し、N君も一緒に暮らしているらしい。大検を受けて、将来は大学に進学したいという彼に、私は声援を送った。しかし、「一度学校へ相談に来い」という言葉を、私は呑み込んだ。

 その数日後の夕方、職員玄関を出て駐車場に歩いているとき、「やあ、先生」と二人連れの大柄な茶髪の青年にニコヤカに声をかけられた。そのうちの一人がN君だった。咄嗟には分からないほど大人びていた。もう一人はやはり4年前に私のクラスで、「担任死ね」と落書きをしていた卒業生のY君。彼の家にも何度か訪問したことがある。私は「おっ」と言ったきり、言葉がでなかった。

<今日の一句> 年の瀬に おはぎを食べて 日向ぼこ 

 年の瀬になると、前の家のガレージから餅をつく音が響いてくる。やがてきなことあんこで包まれたあたたかいおはぎをもってきてくれる。それが私の家の昼飯である。毎年、必ずくれるので、あてにしている。


2002年12月30日(月) 結婚まで

32.賽の河原
 少し下流に鉄橋が見えた。木曽川は思ったよりも大きかった。対岸を見ると、釣り糸を垂れているらしい人が数人小さく見える。しかし、こちらの河原には人気がなく、私とK子のふたりだけだった。二人で河原の石の上に腰を下ろし、コンビニで買ったおむすびを食べていると、鉄橋を渡る電車の音がときおり響いてきた。

 おむすびを食べ終えて、お茶を飲んだ。それから、私は少し手持ちぶさたになって、小石を拾い、それを少し離れた川の流れの方に投げた。小石は途中の河原に落ちて、跳ね返ったあと、かろうじて流れの中に落ちた。私は少しむきになって立ち上がり二つ目を投げたが、今度は川の面にあたり、何度か跳ね返ってしぶきを上げた。

 K子が河原の石を積み上げていた。やがて八重ほどのかわいい石の塔が出来上がった。私は小石を拾い、その塔の方に投げた。思わぬ跳ね返り方をした小石が彼女の足首の上に当たった。
「ごめん、ごめん」
 私は彼女に近づいた。

 彼女は水色のソックスを穿いていた。それを脱がせて怪我の様子を見たが、それと認められる傷や皮膚の変色はなかった。
「思ったより小さな足だね」
「悪かったわね。ほら、手もこんなに小さいのよ」
 彼女は両手を広げて私の前に差し出した。

「私、小さいときからピアニストになるのが夢だったの。でも、手が小さいでしょう。こんな華奢な指だから、ピアニストは無理ね。でも、まあ、幼稚園でピアノを弾いたり、歌を歌ったりしているとほんとうに幸せなの」
「天職というわけだね」
「橋本さんは、高校の先生が天職なの」
「そうでもないな。何が天職だか、自分にそんなものがあるのかどうかも分からないよ」
「何だか、虚無的なのね」

 私には彼女の健康な笑顔がまぶしすぎた。その笑顔を壊してやりたくて、私は小石を拾うと、彼女の作った石塔の方に投げた。それは中程に命中し、はかなくも瓦解した。
「いじわるね。壊すのが趣味?」
「そうだよ。僕はデストロイヤーなんだ」
「だったら、気のすむまでどうぞ」
 彼女はまた同じものを作った。私はそれも壊した。

 彼女は立ち上がると、かなり離れたところに、再び石塔を作った。それから、戻ってきて、小石を拾うと投げ始めた。
「先にあてた方が勝ちよ。負けた方は、勝った人の言うことを一つだけ聞くの。いいわね」
 私も急いで小石を拾った。そうして二人で投げたが、今度はなかなかあたらなかった。しかし、先に当たったのは私だった。

「これで、君は僕の思い通りだ」
「困ったわ。でも、約束だものね」
「絶対に、僕の言うことを聞いてくれるのだね」
「だだし、一つだけよ」
「だったら、目を閉じて」
 彼女は目を閉じた。そこで私は唇を盗むべく近づいた。

 私の手が肩に触れると、彼女の両目が突然開いた。私はびくりとして、
「どうした?」
「もう、約束は果たしたわよ。ちゃんと目を閉じたでしょう」
 彼女の笑顔がまぶしかった。私はふと、凶暴な意志を感じた。S子と同じように、K子もまた身も世もないほどの悲しみの中で狂わせてやりたいと思った。
 私はかまわず抱きしめて、唇を吸った。

<今日の一句> あかあかと 河原の野火も 年の暮れ  裕


2002年12月29日(日) 暴力少年・N君の軌跡

4年前、私のクラスが学級崩壊したが、その時、とくに私の手を焼かせたのがN君だった。入学早々、N君は高価なバスケットシューズがなくなったと言ってやってきた。そこでいろいろと事情を訊き、心当たりをあたった。もちろん指導部や家庭にも連絡し、母親に謝罪した。担任としてはできるだけ手を尽くしたが、結局出てこなかった。

 その後、N君は他校の生徒とトラブルを起こしたり、他のクラスの生徒を殴りつけたりと、次々と事件を起こすのだが、その度に母親はシューズの盗難事件を持ち出して私を牽制した。悪いのは息子ばかりではなく、学校や他の生徒に問題があるというのである。また、N君の祖父が私の知らないうちに代議士をつれて校長に面会に来ていた。なんとか孫の処分を穏便にしてほしいというわけである。

 N君の外貌は、一見してまともである。髪を染めたり、すぐに教師につっかかってくる粗暴な生徒が私のクラスに何人もいたが、N君はこざっぱりとした身なりをしていて、容姿端麗で、はきはきとした受け答えをする。だから私もはじめはこの少年のことがよくわからなかった。

 やがて教室の掲示板が少しずつ破られ、最後はずたずたにされたり、消化器がぶちまけられたり、ガラスが破損したり、カーテンが引きちぎられたり、そうした事件が頻発したが、目撃者の証言のなかにいつもN君の影があった。N君を呼んで聞いてみたが、自分は知らないという。

 N君はその後も、私には直接暴言を吐いたりしなかったが、陰で「いつかぼこぼこにしてやる」などと言っていたようである。体育祭の前日には、「明日はみんなで休もうぜ」などとみんなを扇動し、実際に自分は学校にこなかった。何かクラスの行事があると、白けた言動を繰り返した。教科の先生から授業中に口笛が聞こえるのだが、どうもN君らしいと言う。そのうち、私の授業でさえ、クラス中に口笛が蔓延するようになった。紙飛行機が飛び始め、授業そのものが成立しなくなって行った。

 母親の言葉を信じる限り、家では模範的である。中学時代も何も問題がなかったという。暴力行為のとき、家庭訪問をしたが、父親の前でN君は直立不動だった。「夜の外出も禁止しています。でも、学校の友だちはみんな夜遊びしているというんですよ。授業の態度ももひどいそうですし」と、母親は最後までチクチクと学校の指導が片手落ちではないかという。自分たちの家庭がまともで、厳しすぎたので、子供に不満が蓄積し、爆発したのだと思っているようだった。

 しかし、母親は実のところこの少年のことを何も知らなかった。中学時代からすでにN君は問題児だった。教室に教えに来る先生にいやがらせをして、その女の先生を泣かせたり、すでに暴力行為もあったようである。それを私は指導部から回ってきた資料で知ったのだが、母親に言える雰囲気ではなかった。入学早々盗まれたという高価なバスケットシューズにしても、これがほんとうに「盗難」なのかどうか疑えた。

 ある日、私はN君を自分の車に載せて、家まで送っていったことがあった。「どうして、こう次々と問題ばかりおこすのかな。君みたいにいいご両親がそろっていて、家だって僕の家より数倍立派で、何不自由がないじゃないか。君は男前だし、頭も悪くはない。その上、喧嘩まで強いんだからな」

 N君の顔はきりっとした美人系の母親に似ている。普段は感情を表に現さずクールなところがかえってかっこいい。「喧嘩が強い」と言ったのはN君の心を開かせるための冗談だったが、意志も強く、運動能力もかなり高そうである。女生徒にももてそうだし、素質的にN君は私などよりはるかに恵まれているのではないか。高い能力を持ちながら、もったいない。もっと自分を大事にしてほしいと思った。しかし、こんなことは、もう何度も彼に話していた。

 N君はあいかわらず助手席で能面のような表情をかえなかったが、しばらくして、ぼそりと低い声で言った。
「自分でもよくわからないんです。何だかむしゃくしゃするんです」
 これがN君の本音のようだった。(続く)

<今日の一句> 豚鍋を 作りて妻待つ 年の暮れ  裕

 一昨日、私が夕食に豚鍋を作った。妻は今年は31日まで仕事だという。それも夜の7時過ぎまで。そこで私が得意の腕をふるった。学生時代に4年間自炊をしていたから、腕はたしかである。妻と娘が「うまい、うまい」と言って食べてくれた。ちなみに、昨日は8時過ぎに一家でラーメンを食べに行った。何だか、今年はわびしい年の暮れになりそうである。しかし、次女の大学受験で、なにかと費用がかかる。辛抱しなくては。


2002年12月28日(土) 荒れる学級と夜の宴会

さて、昨日に続いて、T先生の話である。先日、4年前の私のクラスの学級崩壊について書いたが、実は2年前にT先生も学級崩壊を経験している。しかも、状況が私の場合とほとんど同じである。

 いじめ、暴力行為、喫煙などが立て続けにあり、教師に楯突く生徒がごろごろいて、三教室離れた私のクラスで授業をしていても、教師と生徒の怒鳴り合う声がきこえてくるほどだ。実際、このクラスに行っている数学の教師が生徒3人にいいがかりをつけられ、指の骨を折るという事件も起こっている。

 怪我が治って授業に復帰したその先生が、おしゃべりをやめない生徒を注意すると、「また、骨を折られたいのか」とすごまれたという。こういう話をしょっちゅうきかされ、そのたびに矢面に立って本人や保護者とやりとりをしなければならない担任は大変である。学校を出るのが夜の8時を過ぎる場合もしょっちゅうあるし、休日に家庭訪問しなければならないこともある。

 しかもT先生の場合も、転任してきて早々の1年生の担任である。教師歴30年近いベテランだと言っても、学校のしくみや、生徒の質は学校によって随分違っている。まずは、暗中模索で教室に行き、気心の知らない生徒を相手に授業を始めなければならない。だからたいへん緊張するのである。

 この頃、私とT先生はよく夕食に行った。食事のあとはT先生行きつけのスナックへ行って、さらに飲んだり、カラオケをやる。実は私の家とT先生の家のあるk市とはかなり離れていて、スナックを出た後、T先生を車で家まで送り、さらに1時間ほど車を走らせなければならない。深夜、しかもアルコールの匂いを発散させながら帰宅すると、妻がご立腹である。しかし、私は「仕方がないんだよ。これも必要なことなんだ」と軽く受け流す。そのうちあきれて、何も言わなくなった。

 飲酒運転覚悟で酒を飲み、T先生の愚痴をひとしきり聞いた後、おもいきり二人でカラオケをうたう。T先生がスナックのママと踊りながら笑顔を見せるころ、私は酔いさましに水ばかり飲み、財布の中身をしきりに気にするようになっている。これまで私はこうした夜を同僚と過ごした経験がなかった。そして私がT先生とこうしたつき合いをしたのも、その1年間だけである。

「もう、担任はこりごりだ」と言っていたT先生も、それから2年生、3年生と持ち上がりで同じ学年を担任した。その学年もあと数ケ月で卒業である。それでもまだまだ落ち行かず、つい先月もT先生のクラスの男子生徒がこともあろうに担任のT先生に暴言を吐いて辞めていった。「大変だね」というと、「それでも、一年生の頃に比べると、今は天国だよ」と言う。4年前に同じ惨状を経験した私も、「それはそうだ、今は天国だ」としみじみ思う。

 学級崩壊の原因はいろいろあろうが、一つには担任の方に余裕がなくて、学校の規則を一方的に生徒に押しつけ、力ずくで生徒を押さえようとすることだろう。転任早々はどうしても学校の事情がわからないので、指導部や他の先生の苦情に敏感に反応して、指導が杓子定規になる。その結果、担任がクラスの生徒にうらまれるのである。私の場合は放課後に「担任死ね」の落書きを消すのが日課になってしまった。

 しかし、学校に慣れ、生徒のことがわかってくると、そういう杓子定規で抑圧的な指導法はあまり実りがないことに気付く。そういう強圧的な指導法が通用する学校もたくさんあるが、少なくとも私の勤務校では通用しない。あくまで担任は自分の裁量で、生徒一人一人の心に向かい合い、ときには見て見ぬ振りをすることも必要になる。

 そうした微妙なかけひきやさじ加減をしなければならないのだが、その基本にあるのは、やはり生徒を人間として認め、そしてできれば、同胞として親しみを込めて抱擁することだと思う。学級崩壊を経験して、こういうことが身にしみてよくわかった。考えてみると、4年前のあの荒れたどうしようもない生徒達が、実は私の「先生」だったのである。その中でも一番のワルだったN君のことを、明日は書いてみよう。

<今日の一句> 風花の 青き空より 我が肩へ  裕

 昨日、風花を今年初めてみた。晴れた青い空から落ちてくる雪片を見ていると、幼い頃がなつかしくなり、さっそく福井の母に電話をした。肝臓を悪くして、週二回点滴を受けに病院に通っている母はいつか72歳だ。しかし、電話の母の声はいつまでも若い。


2002年12月27日(金) 女生徒の脚ばかり見る先生

 高校が冬休みになり、学校に行っても生徒があまりいなくなった。女子生徒のスカートが短くなって、毎日一度くらいはパンツが見えそうなスリルを味わうというたのしみがあったのだが、そんな機会も減って淋しいかぎりである。

 学校は階段が多いので、自然にミニ・スカートの中が見える。そこで女性達は手でスカートの裾を押さえる。先生の中にはこの仕草を失礼ではないかと言って怒る人もいる。人をいかにも痴漢扱いにしているというのだ。そんなに気になるのなら、短いスカートなどはいてくるなと、お怒りになる。

 確かに正論だろうが、私はこの仕草、そう嫌いではない。何となく可愛いと思ってしまう。いささかの「つつしみ」と「はじらい」を感じて、なんとなくホッとしたりする。女生徒がこれ以上大胆になっては私もちょっとこまる。日本の将来が心配なばかりではない。何か常軌を逸した行動に出ないかと、自分の将来がしんぱいである。

 ところで、こうした女生徒にまじって、やはりオシリに手をやりながら階段を上る先生がいる。れっきとした男性教師でもちろんスカートなどはいてはいない。50代半ばの英語科のT先生である。「どうして」と訊くと、「どうも、生徒に感化されたようです」と笑って答える。

 このT先生とは1年生から持ち上がりで3年間同じ学年を担任して、その行動パターンは把握していたので、まあ、この先生らしいやと笑ってしまった。とにかく生徒と話をするときも、相手が女生徒だと顔ではなく足を見てしまうらしい。
「先生、たまには私の顔を見て話をしてください」と生徒に言われて気付いたらしいが、やはりこの癖は治りようがないという。

 これは男の性(さが)ということもある。教師たるもの身を清くして、大いに気を引き締める必要はあろうが、学校に短いスカートを穿いてくる女生徒にも責任がある。生徒にそのことを自覚させるのも教育者の使命である。私の場合、女生徒を見るときには、彼女の顔と胸と足を平等に見るように心がけているのだが・・・。明日の日記で、この敬愛するT先生のことをもう少し書いてみよう。

<今日の一句> しめやかな 雨にぬれつつ 枯れむぐら  裕


2002年12月26日(木) 国も個人もローン地獄

来年度財務省予算案が発表になった。eichanが掲示板に書き込んでくれた数字や解説をそのまま利用させていただく。

  一般会計 81兆7891億円
   税収入  41兆7860億円
   税外収入  3兆5581億円
   国債   36兆4450億円

 国債依存度は44.6%だという。これを家計に当てはめて見ると、453万円の年収の人が818万の暮しがしたくて、365万円の借金をしているということになる。そして、借金の総額は6850万円になるという。

 さらに歳出の数字を上げておこう。
   一般歳出 47兆5922億円
     社会保障 18兆9907億円
     文教・科学 6兆4712億円
     公共投資 8兆9117億円
     防衛 4兆9530億円
   地方交付税交付金 17兆3988億円
   国債費 16兆7981億円

 ここで問題なのは、国債費であろう。これは国債の利息を支払うために必要な支出である。家計で言えば借金の利息部分だと言えばよい。これが一般会計の20.5パーセントもある。借金の利息を借金をして支払っているわけだから、これは国がローン地獄に陥っているとしかいいようがない。家計なら自己破産するしかない状況である。

 しかし、累積の借金が700兆円もありながら、これがこの水準におさまっているのは、政府の低金利政策があるからある。そしてこれが実は現在の構造的不況の元凶であることはあまり知られていない。くわしいことは「何でも研究室」の「経済学入門」を読んでいただければ幸いである。

 さらに、もっと杜撰なのは特別会計の存在である。一般会計といわれる予算は80兆円前後、対して各省の裁量に任される特別会計は400兆円近くあるといわれる。つまり、国家予算の5倍ものお金が特殊法人に回っているのだという。そのお金ももちろん、国民の年金積立金や貯金である。これがかなり不良債権化しているらしい。政府はひたかくしにしていて、だれも正確なことが分からない闇の世界である。実は表向きの借金よりもこちらの隠れ借金方が怖いのかも知れない。

 いずれにせよ、預金者金利は限りなくゼロ%となり、貯金は国債という借金や特殊法人の累積赤字という不良債権に化けてゆく。そういうしくみで、今我が国の財政は成り立っている。以前私は日記に、これはかくれた徴税だと書いた。政府は別口の財布を持っているのである。いずれ国債が暴落したとき、国民は自分の貯金や年金が失われたのを知り呆然とするにちがいない。これは5年後くらいに、ハイパーインフレという形で襲いかかった来るだろう。

 それではどうしたらこの危機を乗り越えることができるのだろう。それには本当の意味で政治改革を押し進めなければならない。実は日本はほんとうの意味での民主主義国家とはいえない。なぜなら国家元首を国民が選ぶという「民主的権力」が確立していないからだ。

 民主的権力を確立するためには、「首相公選制」が必要だろう。権力は国民の利益を守るために正当に行使されなければならない。権力を悪と見る権力アレルギーを克服して、正当な民主的権力を確立しなければ、日本に未来はないだろう。日本の権力構造を変えて、官僚や族議員による利権政治を一掃することが何よりも必要である。

 そうしないとどういうことになるか。世の中が乱れてくると、次に出てくるのが独裁政権だ。もう2000年以上も前に、プラトンが「国家」の中でこのことを予言している。日本のファシズムの台頭もまさにそうだった。天皇の権威と権力をもって、世の中を改革しようとする動だ。こうした考えのもとに、青年将校が決起し、5.15事件や22.6事件が起こした。原首相や犬養首相といった政治家が次々と暗殺されて、日本は暗黒時代に入った。いつか来た道が、また私たちを待っている。

<今日の一句> 冬ばらを 盗んでみたし 月の夜


2002年12月25日(水) 育自教育のすすめ

 自らを育てるという意味の「育自」という言葉を知った。私が毎日欠かさず愛読している、「普通の看護婦かおるの日記」のなかにその言葉があるので、少し長くなるが引用しよう。

<だいたいナースって言うのは学生で実習やっている頃から反省、反省って言葉を耳にタコが出来るほど押しつけられている。反省会と名のつくものを毎日毎日。反省は良いのだけど、良かったことを認め合う会ってのはない。その結果良くないことだけを探してうなだれて帰るって習慣がついてしまう傾向にあると思う。

 だけど、子育てと同じで、実は人間、反省のし過ぎや強要は、ただの強迫観念を作るだけで新たな失敗を生みやすい。一方で、誉められたら気持ちよく伸びて行く。だから、私は、この人の自分を育てて行こうと言う姿勢に感動してしまったのだった。自分を育てて行くことって生きることの基本のような気がして。また、そんな人が人を育てることが出来るような気がして>

 自分を育てることが教育の基本だというのはほんとうだろう。自分の個性を見出し、これを豊かに育て上げ、魅力的な人間になること、それがほんとうの教育である。そしてこうした自己教育に成功した人間だけが、親や教師として、他人の教育を助けることができる。

 そしてそのために必要なのは、長所を見出すこと。反省も必要だが、それに数倍する誉め言葉を他人や自分自身に対して与え続けること。そうして、「自分を育てて行こうと言う姿勢」を大切に持ち続けることだろう。

 自分を不幸だと思っている人たちに共通している点は、他人のアラ探しをする傾向があるということだという。そうして他人を否定する人は、心の深いところで実は自分自身を否定している。反対に、他者を受け容れ、他者に肯定的な人は、自分をも受け容れることができる。また、自分を受け容れている人は、他人にも温かい。決してあら探しなどしないものだ。

 だから幸福になりたいと思ったら、人を賞賛し、自分を賞賛することだろう。こうした肯定的な感情のなかで、個性は伸び伸びと育つ。自己反省教育ではなく、自己賞賛教育こそが、育自教育の要諦であると言えそうだ。

<今日の一句> 冬さうび ただひとつ咲く 風のなか  裕

「そうび」は薔薇の古語で、「冬さうび」は冬薔薇とかく。また寒薔薇(かんそうび)とも言う。温室の中の薔薇ではない。身を切るような寒気の中で、木枯らしに吹かれ、時雨や吹雪にさえ負けずに花をつけている自生の薔薇のことである。葉や幹は変色し、枯葉色になっているが、なお真っ赤な花を咲かせて、冬にやさしい彩りを与えてくれる。その姿は人を感激させ、古来から多くの詩や俳句に詠まれている。水原秋櫻子さんは「斜めに差す冬の日差しの中に、浮き立つように咲いた紅薔薇はこの世のものならぬ美しさである」と書いている。

 冬薔薇は色濃く影の淡きかも  水原秋櫻子
 月光のおし寄せている冬の薔薇  広瀬直人
 冬さうび蕾のままに終わりけり  村上猶子
 冬ばらは赤いがいいねと病みにけり  薄多桂子
 一輪は聖火さながら冬の薔薇  藤田草心


2002年12月24日(火) 日記の楽しみ

 平成11年の夏からホームページに日記を公開した。毎日書き続けて、少し前に1200回連載を達成した。一日も休まず続いたのは、インターネットに公開して張り合いができたせいだろう。

 日記サイトやHPのカウンターから推測すると、30人前後の人が読んでくれているようだ。日記らしい身辺雑記はあまりなくて、教育、政治、経済、哲学、宗教と、いささか堅苦しい内容だが、掲示板に感想を書き込んでくれたり、読んでいるよとメールをくれる人もいて励みになっている。

 日記を毎日書くことで心と頭が活性化したようだ。好奇心や探求心も復活して、読書量が増えた。ネタに不足することはなく、むしろ書きたいことが増殖してもどかしいほどで、考えたことを新聞に投稿する楽しみもあって、呆け防止にもなっている。

 毎週月曜日に連載している「自伝」も30回をこえ、これも肩の力を抜いて、なるべく楽しみながら書いている。継続は力なりというが、長く続けるにためにも、日記を通して知り合った人々との交流を大切にしたい。

<今日の一句> 書くほどに 楽しみふかし 年の暮れ  裕


2002年12月23日(月) 結婚まで

31.初夏の風
 K子の車は小さかった。助手席に乗り込むと、K子が運転席から手を伸ばしてレバーを引き、私の座席を後ろにずらせた。体を私の前に傾けたので、彼女の髪が私の胸に軽く触れ、白いうなじが目の前で匂った。昨夜のS子との生々しい体験があるので、私は思わずどきりとした。

 座席を引くと、両足が楽になった。
「これは軽かい」
「そうじゃないわ。一応小型よ。ナンバープレートが白かったでしょう」
 軽自動車はプレートが黄色だということも知らなかった。これまでほとんど車に興味を持ったことがない。

 女性の運転する車に乗るのも久しぶりだった。大学時代に金沢で新聞配達をしていたとき、新聞屋の一人娘の車に乗せてもらったことがある。
 そのことをK子に言うと、
「その人、大学の同級生だったりして」
「同級生じゃなかったね。彼女は東京の大学に通っていたからね。夏休みに帰ってきて、一緒に朝刊をくばったんだ」
「その人の名前、覚えている」
 私はしばらく考えたあと、首を横に振った。実際、彼女と何かあったわけではない。ただ、ふと記憶が甦っただけだ。
 
 信号待ちの間、私は外を眺めていた。街の歩道には眩しい初夏の光りが氾濫し、通りを行く若い娘達の肌を輝かせていた。車窓を開けると、初夏の風がさわやかに吹き込んできた。
「遠くへ行きたいな」
「遠くって、どこ?」
「海か山か湖。人のいないところがいいね」
「山にでも行きましょうね」
 初運転だというだけあって、K子の運転はぎこちなかった。何度か後ろの車に警笛をならされた。
「やっぱり、近くでいいよ。無理をしないで」
 私は心配になってきた。

 スーパーマーケットでおむすびやお茶を買って、それからさらに30分ほど車を走らせて、私たちがたどり着いたのは木曽川の堤だった。そこに車を留めて、二人で河原に降りていった。石ころばかりの淋しい河原を、流れの方に歩いていると、K子の方から片手を伸ばしてきた。

 今年の2月にK子とお見合いをして、この5カ月間で5,6回はデートをしていたが、K子に直接触れたのは初めてのことだった。水際まで来るとK子は手を離し、そこにしゃがみこんだ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にはあらず」
 そんな方丈記の文章をつぶやいて、私を振り返った。明るい日ざしが彼女の屈託のない笑顔の上に弾けていた。

<今日の一句> 木曽川の 河原の石に 冬日さす    裕


2002年12月22日(日) 私の経験した学級崩壊(2)

 4年前、私のクラスが学級崩壊したときには本当に大変だったが、そんな時期にたまたま職員室で国語科の北さんと席が隣りだった。4月のオリエンテーション合宿のときもホテルで相部屋になり、文学や哲学、宗教の話をするうちに、たちまち肝胆相照らす仲になった。

 職員室での浮き世離れした文学談義や、学校が終わってから骨休みで行ったスーパー銭湯での裸のつき合いは慰めになった。おかげでクラスや学校の苦労を忘れ、ひととき本来の自分に戻り、精神をリフレッシュすることができた。

 そんなかけがえのない友情に恵まれたとは言え、やはりかなりのストレスがかかっていた。血圧がいきなり跳ね上がって150を越えたのも、心電図に異常が観測されるようになったのもこの頃からだ。夜中に眠れなくて何度も目が覚めた。そうすると季節でもないのに虫のすだく声が聞こえた。耳鳴りや幻聴が始まった。

 朝、家を出て学校へ行くときが大変である。ハンドルを握る手が緊張して震えることもあった。心臓がドキドキし始め、胸が鉛を呑み込んだような重苦しい気分になり、息苦しさが募ってきて、呼吸困難に襲われ、パニック症状寸前まで行った。しかし、学校を休もうとは思わなかった。学校に行ってしまえばどうにかなった。

 つらい思いをしているのは自分だけではないと分かっていたからだ。英語科のA子先生も、職員室で生徒に罵倒され泣き崩れたりしても、明くる日にはけなげにやってきた。隣の北さんも「心臓が壊れそうだ」といいながら頑張っていたし、私の隣のN先生も「今から生徒に殴られてきます」と言って、眼鏡を外して出かけたりしていた。実際N先生のクラスも私のクラスに輪をかけた学級崩壊に見舞われていた。

 ある日、職員室で昼食を摂っていると、クラスの女生徒が「先生、S君に傘を折られました」と興奮して駆け込んできた。傘立ての傘をかってにバットかわりに使い、廊下で暴れているうちに壁にあたって折れたのだという。私は「わかった、弁償させてやる」と少し力んで教室に向かった。さっそく教室でふざけているS君を廊下に呼び出し、「謝って、弁償しろ」と強く言うと、「わかった」と案外素直に頭を下げた。

 そのときSの視線に気付いて振り返ると、N先生の姿があった。私を気遣って後をつけ、私と生徒とのやりとりを見守りながら、何かあればすぐに駆けつける姿勢を示して彼に無言の圧力をかけていたのである。生徒とのトラブルでは、他の教師の証言が大切である。そのことを知っていて、N先生は食事を中断して追ってきたのである。頼んだ訳でもないのに、こうした配慮はほんとうにありがたかった。

 さらにこんなこともあった。生徒が教室でふざけあってガラスを割った。空き時間を使って中庭に落ちたガラス片の後片づけをしていると、一階の教室で授業をしていた英語科のK先生が、自分の授業を自習にしてまでして、ガラス片を拾うのを手伝ってくれた。しばらくすると、もう一人、養護教諭の先生が向かいの棟からわざわざやってきて、黙って私の隣りに腰をかがめ、一緒にガラス片を取ってくれた。

 何という思いやりのある優しい先生たちだろう。私はこのときほど、人の心の情けを深く、身近に感じたことはなかった。こうして私は職場の人々に支えられて、どうにかこの苦境の一年を乗り越えることができたのだと思っている。

 「学級崩壊」は大変な苦しみだったし、その爪痕は後遺症としていまだに私の体と心に残っている。しかし、こうした体験を通して学んだことも多かった。支え合うことの大切さもそうだし、ぶつかり合うなかで生徒達の本音を聞けたことも貴重なことだった。そうした絶体絶命のピンチに立たされたことで、学校と社会、個人の問題について、これまでになく真剣に突き詰めて考える契機が与えられた。

 それでは何が問題で子供たちは荒れるのだろう。何故「学級崩壊」が起こったのか。自分の体験から学んだことのいくつかについては、すでにこの日記に断片的に書いている。じつのところ、「学級崩壊」の背後には、もっと大きな社会システム不全の問題が控えている。ある意味で、生徒も教師もその犠牲者だといえる。近いうちにもう少し整理して、そのあたりの事情を具体的にわかりやすく書いてみたいと思っている。

<今日の一句> 子供らの 笑顔がいいね 冬休み  裕


2002年12月21日(土) 私の経験した学級崩壊

 5年ほど前、「学級崩壊」なるものを経験した。もし私の教師生活20数年間で一番辛い日々をあげるなら、この1年間ではないかと思う。現在私は高血圧で苦しんでいるが、思うに、このときの後遺症だといっていいのだろう。とにかく、すさまじい一年間だった。それだけに思い出の深い、味わいのある1年間だったともいえよう。

 学級崩壊とは何か。その苦しみは実際体験してみなければわからない。教室の規律がなくなり、掲示板はずたずたにされ、黒板はライターのようなもので焼かれ、授業中は私語や紙飛行機が飛び交い、そしていたるところに「担任死ね」の落書き。カーテンは引きちぎられ、窓ガラスは割られる。隣のトイレの壁まで何度修理しても壊される。そして消化器がぶちまけられる。

 不登校の生徒や暴力行為、喫煙、カンニング、窃盗など、いつも何かの事件が起きており、家庭謹慎の生徒を抱えて、家庭訪問を繰り返さなければならない。正確な回数は記録してないが、おそらくこの一年間で私は30回を越える家庭訪問をしているはずだ。

 授業崩壊は実は私の授業ではあまり起こらなかった。私語や教師に対する暴言が続発したのは、他の教科担任の授業だったが、その苦情は担任に集中する。だから、結局私がその矢面に立ち、生徒を叱ることになり、結局は生徒の攻撃が陰湿な形で私にまで及んでくることになる。

 とくにひどかったのは、英語科のA子先生の授業だった。A子先生はその年、私と同時に転勤してきた30歳代の女性の先生。やはり私と同じくいきなり1年生の担任、不慣れな上に、生徒は強者がそろっていて、とくに私のクラスの生徒からさまざまな攻撃を受けて、授業もほとんど成立しない状況が続いた。

 A子先生の要請を受けて、ついに私は彼女の授業の時は教室の後ろに席を設けて、授業に参加することになったが、やはり私語が止まない。教壇で必死に声を張り上げるA子先生が痛々しくて見てはいられなかった。それでも私がいるといつもよりよほど授業がやりやすいという。という訳で、私は自分の授業だけでなく、A子先生の授業にも参加しなければならなくなり、その負担が大きくのしかかってきた。

 ある日、とくに反抗的な女生徒3人を残して、A子先生と話し合いをさせてみた。「あんたなんか先生じゃない」「すぐに指導部や担任に告げ口して、逃げるんじゃないよ」「私らも学校辞めてやるから、あんたも先生辞めたら」などと、8時を過ぎても生徒たちは言い募る一方で、おさまる気配がない。しかも残っているのは彼女たち3人だけではなく、廊下には応援団が7,8人もおり、その中にはA子先生のクラスの生徒も含まれていた。「あんなの先公じゃないよ」と彼女たちも興奮して涙ながらにA子先生をなじる。

 8時を過ぎて、保護者に事情を話して迎えに来てもらうように手配し、ますます殺気立っている生徒達を強制的に帰した。生徒がいなくなって、職員室で泣き崩れるA子先生を見ているとほんとうにつらかった。私の眼から見ると、A子先生は教科指導にも生徒指導にも熱心な真面目で模範的な先生である。どうしてこんなひどい反発や憎悪の籠もった罵声を浴びなくてはならないのか。

「授業中に静かにしていて欲しいという私の要求のどこが間違っているのでしょうか」「私は前の学校と同じことをしているだけなのに、こんなこと、初めてです。どうして」と泣きながら訊かれて、私は考え込んでしまった。同じ問が私自身にも突きつけれていたからだ。どうして生徒達はこんなにも荒れているのだろう、この問に答えるために、私は自分の全知全能を傾ける必要を感じた。(続く)

<今日の一句> 雨上がり さがして歩く 冬の虹  裕


2002年12月20日(金) 巣鴨パラダイス

 昨日の日記に、「A級裁判が終わる頃、世界は変わっていた」と書いた。東京裁判で刑の宣告が出たのが1948年11月である。その翌月23日未明に東条英機はじめ「7人のサムライ」が絞首刑になった。残りの戦犯達はその後、どうなったのだろうか。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」から引こう。

<巣鴨拘置所に勾留されていた東条の仲間のうち、幸運にも不起訴になった何人かは、東京裁判が終わって戦争犯罪の告発が取り下げられた直後から、反共の波に乗ってふたたび活躍するチャンスを得た。東条と6人の仲間が絞首刑になった翌日、ウヨクの大立者の笹川良一と児玉誉士夫が釈放された。ふたりとも、監獄住まいが与えてくれた有名人の資格に乗じるように、いわば刑務所の門からまっすぐ出版社に駆けつけた>

<受刑者総数4000人前後のうち、戦争犯罪で有罪となった数百人の囚人には、多くの楽しみが許されていた。独自の新聞「巣鴨新聞」の発行が当初から許され、そのうちに、娯楽のための生公演を自由に楽しめる状態になった>

<1950年11月の石井バレエ段の上演を皮切りに、文字通りスターが次々とその舞台を通り過ぎた。観客は要するに有名人ぞろいというわけで、こうした上演には御前興業のような一種独特の趣があって、この観客の前で芸を披露したい塀の外のエンタティナーたちが列をなしたのだった>

「巣鴨ホール」におけるこうした上演は、1952年には114回に及び、出演者は述べ2900人近くになったという。コメディアンのエンタツ、落語家の柳家金語楼、バイオリニストの諏訪根自子、歌手の美空ひばり、笠置シヅ子、灰田勝彦、藤山一朗など。日劇ダンシングチームや劇団によるチャンバラの上演もあった。

<肌を露出し、奇妙なポーズをとっている若い女性達も囚人を慰めたようだ。このかって厳格な軍国主義者たちが皇道としての道徳の裁定者であった当時なら、公衆の面前で許すはずもない露出度であり、いかがわしいポーズである>

 刑務所の娯楽は巣鴨ホールの外にも及んだ。1952年3月2日、プロ野球の読売ジャイアンツと毎日オリオンズが非公式試合をして、迫っていた占領終了を囚人達とともに祝ったという。こうして生き残った戦犯達は、塀の中でかなり優雅な日々を送っていたようである。人呼んで「巣鴨パラダイス」という。

<今日の一句> 干柿を 三つ四つと 食ひにけり  裕


2002年12月19日(木) 国民の戦争責任

 戦争体験者の手記などを読んでいて感じるのは、もうこんなに悲惨な体験はこりごりだということだ。戦争の悲惨はこれを体験した人の文章を読むことによって、私たちのような戦争を知らない世代の者も、それなりにその恐ろしさを想像することが出来る。

 ところで、こうした戦争体験者の手記に書かれているのは、おおかた戦争による被害体験である。アジアに出兵していった兵士はむしろ侵略戦争の片棒を担いだ加害者ではないのか。しかしそうした加害体験が語られることはほとんどない。一般的傾向として、加害者意識は希薄で、被害者意識が濃厚のようである。

 敗戦後、軍部や政府の戦争責任を追及する声が一斉に上がった。このような悲惨な戦争へと国民を駆り立てた指導者達こそまさに第一級の責任を負うべきであることはいうまでもない。しかし、それでは一般国民にその責任はないのかと言えば、そうではないだろう。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」の中でこう書いている。

<左翼は「国民=民衆」の責任問題をだいたいにおいて回避した。とくに教条的な者は、民衆を国家とその抑圧的エリート支配者たちによる搾取の犠牲者として熱心に描き出そうとした>

 こうした国民大衆無罪=被害者論に、異論を持つ人もいた。たとえば国文学者の津田左右吉は、「国民はたしかに法的弾圧と軍部の宣伝とに騙されていたが、日本にはその時期を通してまがりなりにも選挙による議会がずっと存在したではないか」と、指摘している。また大阪の師範学校の教授は新聞にこんな投書をのせた。

<指導者だけであの大戦争を戦えるものではない。われわれ国民も踊らされ、追随して誤った侵略戦争に突入し、そしてみじめな敗戦を招いたのである。罪は指導者だけにあるのではなく、全国民ひとしく責任を負わなければならない>

 私は<全国民ひとしく責任を負わなければならない>とは考えない。権力や権利を持つ者の責任は、それだけ重くあってしかるべきである。しかし、軽重の差はあっても、国民大衆も又その地位や身分に応じてしかるべき責任を負うべきだとは思う。自己責任を回避し、被害者意識だけで書かれた手記には、心底よりの共感を寄せるわけにはいかない。それではどうして、このような傾向が生まれたのだろうか。

<われわれは「戦犯」と称される一連の戦争煽動者が登場したとき、拍手喝采をもって彼らを迎え、失脚したとき、人々にならってこれに唾をかけ、そして、今ではもうほとんど彼らのことを忘れている>

 これは1947年11月にある月刊誌に載った文章である。この頃、すでに世界は冷戦のなかに置かれていた。共産化された中国を大敵とみるアメリカにとって、日本人による残虐行為など大した問題ではなかった。再び、ジョン・ダワーを引こう。

<東京でA級裁判が終わるころ、世界は変わっていた。勝った連合国の「連合」は冷戦によって崩れ、東京の裁判官席に代表を出していた国々は、内戦やアジアのあちこちでの植民地戦争に明け暮れていた。そして、起訴されたもとの指導者たちは、日本の海外侵略は共産主義への恐れがひとつの動機だった、という主張を裁判で試みて糾弾されていた。しかしこの主張が押さえつけられているまさにそのとき、アメリカは、もっぱら共産主義の世界的封じ込めをめざす国家安全保障の体制作りに邁進していた>

 こうした風潮の中で、加害者としての日本人の行為は糾弾を免れ、東京裁判のあとは戦争指導者の戦争責任さえも免責されて、広島・長崎の被爆体験に象徴されるように、ただ戦争は悲惨だという犠牲者としての体験だけが平和を希求する人々の間に定着していくことになった。

<今日の一句> 木枯らしに 冬日さがせば 雲白し  裕


2002年12月18日(水) パラダイムの呪縛

 私たちはものを考えるとき、ある枠組みで考えている。この思考の枠組みのことをパラダイムと呼ぶ。たとえば昔の人は地球のまわりを太陽が回っていると考えていた。これを天動説というが、これもパラダイムである。

 これに対して、コペルニクスやガリレオは地球が太陽のまわりを回っていると考えた。これを地動説と呼んでいる。現代の私たちはこの地動説を常識として受け容れ、このシステムのもとでものを考えている。

 他に例をあげれば聖書の「天地創造説」と、ダーウインの「進化論」がある。私たちは人間が類人猿から進化してきたことを当然のごとく受け容れているが、こうした考えが普及したのは、たかだかこの一、二世紀のことである。そして今もこの考え方を拒んでいる人たちも多い。

 戦前の日本は天皇を現人神とする皇国史観というパラダイムがあった。そして多くの人々がこうしたシステムの中で動いていた。戦争に負けて、「民主主義」という別のパラダイムが現れ、占領軍の到来とともにこれが瞬くうちに一斉を風靡した。現在の日本も民主主義国を建前として、このシステムで動いている。

 いずれにせよ私たちの思考が何かのパラダイムに支配されているということは変わらない。しかし、ともすると私たちはこのことを忘れてしまう。自己の立脚しているパラダイムの正当性を疑い、その有効性や限界について、ときには思いをめぐらせてみることも必要である。

 なぜなら、そうすることで私たちはパラダイムの呪縛からいささか自由になることができるからだ。私たちが無意識のうちに何者かに縛られていることは大いにありうることである。ときにはそうした現実に思いをいたし、そうした思考のシステムを意識的に検証し、それがどこに由来するものであるかを確かめてみる必要がある。

 もし私たちがこのことを怠るなら、私たちは再び、やすやすと別のパラダイムを受け容れ、そのシステムの奴隷となることによろこびを見出しかねない。たやすく手に入れたものは、またたやすく破棄される運命にある。民主主義というパラダイムについてもこのことは例外ではない。

 ローマ・カソリックはなぜ執拗に天動説に拘り続け、世の中の真実が見えなくなったのだろう。それは教会の権威を守るためである。イエス・キリストが生まれ、教会が存在するこの地球を宇宙の中心だと考えたかったからだろう。人がパラダイム・パラノイアに陥るとき、そこに隠された動機や真実が潜んでいることが多い。

<今日の一句> 枯葉散る 空の青さに 立ち止まる  裕 


2002年12月17日(火) いはんや悪人をや

 田辺元は京都大学哲学科教授として、西田幾多郎と並ぶ碩学であり、日本の思想界や学生達に影響力のあるカリスマ哲学者だった。彼は謹厳実直で、けっしてつまらぬ冗談を口にすることもなく、物見遊山をすることもなく、世俗を超越した笑わぬ哲学者として有名だったという。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」の中でこう書いている。

<田辺は長年にわたって熱烈なナショナリストであり、その「非政治的」哲学理論が軍国主義者たちの民族的・国家中心主義的イデオロギーをじつに都合よく支えていた。厳しく鍛え上げられていた田辺が、そのとき思いもかけず、自分がばらばらに壊れていくことに気付いたのである。国は破滅と不名誉に直面し、自分の学生達の多くが戦死したことで、自身の責任、罪の深さを認めざるをえなかった>

 敗戦のときすでに彼の師・西田は亡き人となっていたが、田辺は生きながらえており、その惨状を目の当たりにすることになった。しかも彼は当時日本でもっとも権威がある哲学者だった。敗北した日本を代表する哲学者として、思想家として、彼は傷つき、血をながした。そしてこんな告白をした。

<心弱き私がなんら積極的に抵抗すること能わず、多かれ少なかれ時勢の風潮に支配されざるを得なかったのは、いかに深く自ら慚ずるもなお足らざる所である。遂に盲目なる軍国主義が幾多の卒業生在学生諸君を戦場に駆り立て、その中犠牲となって倒れた人が哲学だけでも十数名に上るのは、私にとって自責痛恨の極みである。私は頭を垂れてひたすら事故の罪を悔ゆる外ない>

 田辺はもともとカントやヘーゲルの哲学の専門家だった。ドイツに留学し、ハイデガーなどとともに学んでいる。「ヨーロッパ思想の田辺元」というのが、彼に対する世間の評価だった。しかし、南原繁や丸山真男など進歩的知識人が西洋の合理主義や民主主義に真理と正義を見出し、これに追随し、徹底しようとしたのに対し、田辺はこれに背を向けて、日本古来の仏教思想へと傾斜を深めていく。田辺は戦没学生の死を賛美したりしなかった。ただこれを悼み、自らの過ちを懺悔した。そして、悪人正機説を説く親鸞の絶対他力思想に自己と、日本国民、さらには世界人類の救済の道を見出そうとした。

<懺悔を必要とするのはたんに我国のみでないこと明白である。これらの国々も又それぞれに自らの矛盾過誤罪悪に対して正直に謙虚に懺悔を行じなければならぬ。懺悔は今日世界歴史の諸国民に課すところである>

 ジョン・ダワーは「勝った連合国が日本を、敗残文化、極悪非道な侵略国家と糾弾しているとき、田辺は日本の悪行と罪を認めながらも、それが他に類がないものではないと言明し、さらに、この国の伝統文化には提供すべきなにもないとする言説を退けた」と書いている。

 田辺は戦前も愛国主義者であったが、戦後も又、熱烈な愛国主義者であり続けた。カントやヘーゲルから親鸞へと、彼の関心は西欧の思想から日本的な伝統の世界へと沈潜し、そこに自己と日本の真実の再生の道を求めた。

 田辺はこうして絶望を克服して、これを解脱と法悦と歓喜に結びつける独特の弁証法的処世術を完成させた。そしてその後、多くの知的エピゴーネンたちがこれ幸いと、彼にならうようになった。こうして戦後の日本にふたたび親鸞ブームを巻き起こすことになった。

<今日の一句> 子等をみな 抱きしめたくて 冬日見る  裕


2002年12月16日(月) 結婚まで

30.チーズの匂い
 K子は正午を少し過ぎてからやってきた。チャイムの音に、おそるおそるマジック・アイから覗くと、おかっぱ頭のK子が胸の前に箱を抱えて微笑んでいた。いつもと少し印象が違って見えたのは、口紅をしているせいだろう。

「やあ、よく来たね」
「車の免許がとれたの。車も買ったの。試運転よ」
 薄地のセーターを透して胸の膨らみが露わになっていた。水色のキュロット・スカートがいつになくおしゃれに見えた。いつも素肌のままのK子が珍しく薄化粧をしていた。そのせいか、いくらか女の雰囲気が漂っていた。

 私が玄関口に立ったまま見つめていると、彼女は靴を脱いで、さっさと台所に上がって行った。箱から取りだしたピザが甘く匂った。
「お湯を湧かしてくれる。私、紅茶も持ってきたのよ」
 いつS子が姿を現すかも知れない。できればすぐにでもK子を外に連れ出したかったが、成り行きでピザを食べないわけには行かなかった。

 ところで、私はピザを食べたことがなかった。チーズの匂いに、手が止まった。
「ぼくは納豆とチーズが駄目なんだよ」
「どうして」
「この匂いがね」
 チーズは無理をすれば食べられない訳ではなかった。それで、少し囓ってみた。
「無理しなくてもいいのよ」
 K子が笑顔でとりなしてくれたので、私は食べかけの一切れを皿に戻した。

 紅茶を飲み終えると、腕時計を見た。K子が二切れ目を食べ終えて、
「何だか、へんね」
「どうして?」
「さっきから、時計ばかり気にしているのだもの。誰かと約束でもあるの」
「そんなことはないさ。どうだい、外へ出ないか。君の車でドライブでもしないか」
「いいわよ」
 K子の表情がぽっと花が咲いたように明るくなった。

<今日の一句> ほのぼのと 電気毛布で 春の夢  裕


2002年12月15日(日) 地上の楽園・北朝鮮

 以前、金日成が支配する北朝鮮を、多くの人々が「地上の楽園」と呼んで賞賛した。そして、この「地上の楽園」を目差して、1959(昭和34)年から数年間で、9万3千人以上の在日朝鮮人の人々が祖国へと帰っていった。あれから40年、帰国した人々の悲惨な状況が明らかになってきている。多くの人々が財産を没収されて収容所に収容され、そこで餓死していたというのだ。

 当時、フルシチョフのスターリン批判を受けて、北朝鮮の共産党上層部でも金日成個人崇拝批判が噴きだしていた。そしてこれを押さえるために大規模の「粛正」が行われていたという。「地上の楽園」どころか、「地上の地獄」だったわけだ。このことを看過して、この恐るべき独裁体制を地上の楽園などと賞賛し、帰国運動キャンペーンに荷担した人々の中には、後にそのことを悔いて、彼らの支援活動に半生を捧げている人たちもいる。

 たとえば、現代コリア研究所長の佐藤勝巳氏は、かつて日本共産党の活動家として在日朝鮮人の帰国運動を支援していた。しかし、帰国者の多くが日本に残った親戚に生活物資を送るよう依頼してきたり、北朝鮮の厳しい現実を伝えてきて、次第に「地上の楽園」という宣伝文句が嘘である事に気がついたという。以後、北朝鮮の内部情勢に関する調査分析に全力をあげ、北朝鮮に拉致された日本人の救援のために積極的な支援活動を展開している。

 しかし、総連をはじめ、日本共産党や社会党、朝日新聞など、この運動を支援した組織や進歩的知識人の多くはこの問題をあいまいにしている。その中の一人として、ノーベル文学賞の大江健三郎の場合をとりあげてみよう。

<結婚式をあげて深夜に戻つてきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る……。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった>(わがテレビ体験、大江健三郎、「群像」(昭36年3月号)>

 大江氏のこういう文章を読んでいると、戦前の天皇制賛美の精神とほとんど同じメンタリティを彼に感じずにはいられない。テレビや活字を信じ、客観的な分析も裏付けもないまま、北朝鮮が「地上の楽園」だと思い込んでしまう。そして、自分にそうした祖国がないことを手放しで悲しみ、精神の平衡まで失ってしまったというのだ。

 その後、彼がこの錯誤について真剣に反省し悔やんだということを聞かない。人々の救済について、なにか行動したということも聞かない。ヒューマニズムについてのペダンティックで晦渋な文章を書き、レトリックに満ちた高邁な発言を繰り返すばかりのように思われる。

 私は彼の文学的業績について、かっての愛読者として一定の評価をしつつも、彼の人間性についていささか不信のまなざしを向けている。正直に言うと、彼はペテン師ではないかと思っている。まあ、昔から文壇などというものは、詐欺師と偽善者のたまり場のようなものなのだろうが・・・・。

(参考サイト) http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000000699
         http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog008.htm

<今日の一句> 冬の雁 隊形くずして 空に舞う  裕


2002年12月14日(土) 国会崩壊

 自民党道路調査会(古賀誠会長)は9日、政府の道路4公団民営化推進委員会がまとめた新規高速道路建設に歯止めをかける最終報告について、「今後の道路整備を進めていくうえで容認できない」とする決議を採択した。

 40兆円もの負債をかかえる道路公団の民営化は、一特殊法人の改革にとどまるものではない。この国の公共事業を支配し、700兆円に迫る天文学的借金を国民に押しつけ、自らは利権の甘い蜜を吸い続けてきた政官業の「鉄の三角形」の牙城をいかに解体するかの天応山でもある。したがって小泉首相も道路公団改革を構造改革の中心課題に位置づけてきた。

 その先兵となる推進員会の最終報告だったが、国会にたむろする族議員たちがまたもや決起して、自分たちの利権を危うくする改革案を力ずくで阻止するつもりらしい。有力な道路族議員の一人の江藤隆美元総務庁長官も、「素人たちの議論に従う義務はまったくない」と、もっぱら報告書の正統性に疑問を投げ掛けている。

 ところで、10日の衆院本会議で綿貫民輔議長が案件を1つ採決し忘れたまま、散会を宣告した。国会では与野党とも欠席が相次ぐなど「無気力」ぶりが目立っているようだ。北朝鮮拉致被害者の支援法案を採決した日の厚生労働委員会には、22人の自民党委員のうち出席したのが6、7人で、傍聴した被害者の家族を残念がらせたという。こうした「ゆるんだ空気」が議長にも伝染したのではないかと、朝日新聞に書かれている。
 
 ひところ「学級崩壊」という言葉が流行ったが、もうこれは日常化していてニュースにもならない。今注目されているのは、「国会崩壊」だそうだ。昨日の朝日新聞にも詳しく書かれていたが、一昨日の毎日新聞の社説から一部引用してみよう。

<国会議員が議席に着かないので、委員会が定足数に達しない。審議を始めても、おしゃべりや笑い声が絶えない。質問中の議員に、私語を注意された議員が、逆ギレしてしまう。今年、「学級崩壊」になぞらえて「国会崩壊」という言葉が生まれた>

 いやはや何ともお粗末な光景である。これが日本の選良たちの姿かと思うとなさけない。長野県では田中知事に県議会が抵抗したが、これは不信任を受けた田中知事が再選されて一応決着した。しかし地方、中央を問わず日本の議会はいぜんとして土木屋を中心とする族議員で占められている。

 のこのままでは、議会がバリアになって、いつまでたっても日本の改革は進まない。私は以前から「首相公選制」とともに「議員抽選制」を主張しているが、一刻も早くこれを実施して、国会から魑魅魍魎の類を追放し、国会の正常化を図るべきではないだろうか。

<今日の一句> 襟巻きに お下げの髪も あたたかく  裕


2002年12月13日(金) 南原繁の場合

 昨日は文学者・高見順の日記を紹介したが、今日は日本の代表的知識人の一人で、終戦直後に東京大学の総長になった南原繁の場合を紹介しよう。彼はキリスト教者だった。そして、教育者として、彼は戦前「光輝ある日本」の使命を支えよと、将来エリートとなるべき多くの有能な学生を戦場にかり出し、その多くを戦死させていた。

 そうした過去を持つ彼が、戦後、民主主義者に変身し、「今次の大戦ほど、戦争の非道と惨状を露呈したのは、いまだかってなかった」(帝国大学新聞)と、戦争批判を先頭に立って先導し、新しい教育の改革者、平和の伝道者として人々の前に姿を現した。

<やがて大陸から、南洋の島々から、われらの「仲間」が還り来るであろう。そして再び講堂を埋めて、祖国再建の理想と情熱に燃えて、学に精進する日も遠くないことであろう。ただそのとき永久に還らぬ幾多俊秀のあることを思うと限りなく寂しい>

<彼等は皆、武人として勇敢に戦いかつ死んだのである。しかし、彼等は武人であると同時に、最後の日まで学徒たるの矜持を棄てはしなかった。彼らは国を興すものは、究極において真理と正義であることを固く信じて疑わなかった筈である。この日にも、はや、彼らの魂はここに帰り来たって我らとともにあり、諸君のこれからの新たな戦いを祝福し、誘導するであろうと思う>

 南原がここで学生に語った「戦い」はもちろん「聖戦」ではない。「平和の戦い」である。「真理の戦い」である。彼によれば、軍閥、超国家主義者ら小数者の無知と無謀が日本を不幸な戦争に導いたのだった。そして大学の者たちを含め、人々は正義と真実のためと信じてそれにしたがった。しかし不幸にして、真理と正義は「英米の上に止まった」のだという。

 南原によれば、日本が破れたのは、真理の立場からすれば、「祝福すべき勝利」であり、「同胞の血と生命の犠牲」もこの観点から見るべきだという。日本人が今感じている痛恨は「敵手に対するよりもむしろ自己自身に対する悲憤」であり、「我国は有史以来の偉大なる政治的、社会的、精神的変革」を遂げつつあり、「正義と真理」の日本建設はこれから可能であるという。こうした南原の姿勢に対して、ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」のなかで、次のように述べている。

<南原の転向の基礎にあったのは、彼が語りかけ悼んだ、真実を追究した学徒ともども、日本の指導者たちに欺き導かれたのだ、という確信だった。この点では、南原の感情は国民一般の感情と完全に同調していた。降伏後、「騙された」という受動態の動詞が至るところに見られたからである。戦争中は名うての宣伝屋だった者たちでさえ、このぬめぬめしたことばを自分たちの個人的責任を洗い流す洗剤として使った>

 南原は「同胞の貴い犠牲」について語ったが、日本の侵略の犠牲になった途方もない「アジアの人々の悲惨」については何も語らなかった。彼は正義にもとる戦争を非難しながら、それに荷担した兵士や自分たちを「貴い犠牲者」として賞賛し、来るべき「真理」の美名のもとに、死者ともども多くの日本人の心に、再生のためのやすらぎと贖罪の福音を与え続けた。

<今日の一句> さわやかな 木立の森に 冬日さす  裕  


2002年12月12日(木) 終戦日記

 高見順の「終戦日記」が、もうだいぶん前に買って、本棚に飾ってあった。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」のなかに引用されているのを読んで、本棚から取りだしてきた。昭和21年3月6日の日記を引用しよう。

<東京劇場へ行く。「キューリー夫人」を見る。何年ぶりに見るアメリカ映画だろう。外地では見たが、この内地でーー。岡沢氏に入場券を貰ったのである。旧円で買った前売り切符。劇場前には延々たる行列。街では見かけない美しい女性の姿が目につく。どこから出てくるのかーーそんな感じ。アメリカ兵と街頭でいちゃついている女とはやはり種類が違う>

<ユナイテッド・ニュースで、特攻隊の突っ込みが出てくる。一斉に拍手。私も眼に涙を浮かべながら拍手した。私は軍閥を憎む。しかし、日本を憎むことはできない。愛国心を捨てることはできない。特攻隊の死んだ勇士たちを、心からいたむのである>

 高見順はこの時40歳だった。すでに名のある文士だったが、日記にはその本音がよく書かれている。当時の良心的知識人の戦争に対する姿勢がどのようなものであったのか、よくわかる。「敗北を抱きしめて」の中に引用されているのは、東条英機のピストル自殺未遂について書かれた部分である。

<みれんげに生きて、外国人のようにピストルを使って、そして死に損なっている。日本人は苦い笑いを浮かべずにいられない。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとくあの夜に死ななかったのか。なぜ東条大将は、阿南陸相のごとく日本刀を用いなかったのか>

 高名な文化人の意見というより、一般のおおかたの感想もこのようなものだったのだろう。「生きて虜囚の辱めを受けず」と「戦陣訓」で軍人に訓諭したのはまさに当時陸軍大臣だった東条その人だった。もっとも私は最近映画「東京裁判」を見直したり、彼に関する本を何冊か読んで、彼に同情する気持が深くなってきた。なぜピストル自殺しようとしたのか、そのあたりのことも、いずれ私の推理をくわしく書いてみたいと思っている。

 せっかく高見順の日記を繙いたので、もう一カ所だけ引用しておこう。昭和21年1月14日の日記に、こんなことが書いてある。

<私たちは日本のかっての政府の「狭量」を責めるとともに、政府を「狭量」たらしめた私たち自身の力のなさ、政府を「寛大」ならしめる民衆の力の足りなさを自ら反省せねばならないのである>

<アメリカ政府の泰然たる「寛大」を今日褒め上げるその事大主義精神は、戦時中、日本の政府の「狭量」を応援した、否増長せしめた精神とまったく同じものであるということに私たちは注意しなくてはいけない。すこしも変らない同一の精神であることに私たちは眼を注がなければならない。又それを私たちの反省の問題とせねばならないのである>

 敗戦によって、日本は劇的に変わったかのように見える。しかし、変わったのはうわべだけで、本当は何も変わっていない。相も変わらず日本人は主体性をもたず、体制順応でしか生きようとしない。深くものを考える人は、みんなそのような感想を書いている。この言葉は、現在にも通用しそうだ。

<今日の一句> 淋しさに 熟柿の甘きを 食したり  裕 


2002年12月11日(水) マッカーサーへの手紙

 一度行ってみたい町に、北海道の小樽がある。伊藤整や小林多喜二、石川啄木などの文学者がここに住んでいた。石原裕次郎もこの町に住んでいたし、映画監督の小林正樹もこの町に生まれ育っている。

 小林正樹は大正5年小樽市色内町生まれ、小樽中学から早稲田大に進み、卒業後いとこの田中絹代の勧めで松竹の助監督になる。その後出征し、沖縄で敗戦を迎えた。1年間沖縄で収容所生活を送り、ようやく帰ってきた。そのとき、小林の目に戦後の日本はどうみえたのか。後年、小林はインタビューの中でこう答えている。

<日本は極端に民主化していた。誰もが民主化へと向かって進んでいた。誰もが人道主義的自由と組合活動という、かっこつきの民主主義へと突き進んでいた。・・・日本は戦前とまったく変わっていないように見えた。あのとき、人々はこぞって軍部を支持していたのだ。こうした日本人の意識の変化が必ずしも悪いと言っているのではない。ただその変化がどのようにして起きたのかが問題なのだ>

 いまや日本人は天皇にかわり、マッカーサーを崇拝していた。彼のもとに日本各地から、毎日数百通もの手紙や葉書が寄せられた。アメリカの公式記録では、総計44万通以上にのぼる手紙や葉書を読んで処理していた。そのほとんどはマッカーサーを支持し、賛美する内容だった。

 マッカーサーを「生きたる救い主の神」と呼び、「昔は朝な夕なに天皇陛下のご真影を神様のようにあがめ奉ったものですが、いまはマッカーサー元帥のお姿に向かってそうしています」と書いたものもいた。手紙だけではなく、いろいろの贈り物が山と届けられた。ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」の中でこう書いている。

<マッカーサーは釈迦のような慈悲の持ち主と讃えられ、孔子の「論語」に登場する「遠来の友」にもたとえられた。また、日本を悪夢のごとき戦争から救ったとして崇められ、外国人による占領という未知の事態におびえていた日本人に、希望と幸福を与えたと感謝された。市井の男女が、自分たちがかって軍国主義者であったという罪を、まるで聖職者にたいするようにマッカーサーに告白し、精神科医にたいするかのように心の奥底の恐怖や希望をうちあけたのである>

<あらゆる階層の日本人が、それまで天皇にしか抱かなかった熱狂をもって、この最高司令官を受け容れ、ごく最近まで日本軍の指導者に示してきた敬意と服従を、GHQに向けるようになったのである。こうした行動様式は「民主主義」とは新しい流行にすぎず、古い日本的な従順さの上に新しい衣装をまとっただけではないかという懸念を裏付けるように思われた>

 さて、小林正樹は昭和27年「息子の青春」監督デビューし、以後、戦争の非情を描いた「人間の条件」、長編記録映画「東京裁判」、世界的に評価された「切腹」などを作った。寡作だが、その作品はいずれも重厚で、社会の中で苦悩して生きる人間の奥底をしっかりと見据えている。

<今日の一句> 琵琶の花 咲き初めにけり 山白し  裕


2002年12月10日(火) 白い箱を持った少女

 先の戦争で命を落とした日本人は270万人ほどだという。1941年の日本の人口は7400万人だから、3.6パーセントにあたる。つまり100人のうち3人から4人が戦争で命を落としたことになる。

 日本の侵略戦争によって命を落としたアジアの人々はどのくらいだろうか。さまざまな統計があってこれもはっきりしないが、およそ2500万人ほどではないかと考えられる。つまり日本人の死者の約10倍ものアジアの人々が、日本が引き起こした戦争で命を落としたわけだ。

 戦争当時、多くの日本人が戦闘員あるいは非戦闘員として外地にいた。その数は約650万人にのぼるという。つまり総人口の1割ほどの人々が海外に出かけ、そこで命を失うか終戦を迎えたことになる。幸運な人たちは数年のうちに引き上げてきたが、かなりの人数が抑留され、強制労働や戦争裁判で裁かれて死んだ人もかなりいる。

 外地から引き上げてくる人々の中には、白い箱を首から布で下げている人も多かった。その箱の中には戦争や引き上げの途中で死んだ家族・知人の遺骨が収められていた。1946年12月、満州から引き上げてきた人々の写真が新聞に掲載されたが、その中に白い箱を持った少女が写っていた。

「お父さんはどこでなくなったの」
「奉天」
「お母さんは」
「葫廬島(ころとう、中国東北地方の半島)」
「妹のサダ子ちゃんは?」
「佐世保」

 渡辺千鶴子というその少女が持っていた箱の中には、戒名が一つしか書いてなかったという。それがだれの戒名かわからず、遺骨もまた誰のものかわからないが、おそらく父と母と妹の三人が混じっているのではないかとインタビューした記者は推測している。

 しかしこのように家族・知人の誰かが生き残った場合はよいが、中には全員が死亡した場合も多かったようだ。1946年8月1日、浦賀に入港した引揚げ船・氷川丸には行き先が特定されていない遺骨の箱が7000箱積まれていたという。

(参考文献) 「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著、岩波書店)

<今日の一句> さわやかな 野菊のごとし 亡き人は  裕


2002年12月09日(月) 結婚まで

29.K子からの電話
 翌朝、私はいつものように5時前に目が覚めた。隣で寝ているS子の寝息をしばらく聞いていた。カーテンの隙間から、朝の日ざしが差し込んでいた。向こう向きに寝ていたので、顔は見えないが、裸の背中越しに乳房のふくらみの一部が見えた。

 私は裸のまま起き出すと、浴室へ行って、シャワーで汗を流した。頭を洗い、髭を剃り、歯を磨いた。日曜日の朝のぜいたくは、時間に追われることがなく、こうしてゆっくり身支度ができることだ。いつもはコーヒーを入れて、トーストを食べるのだが、今日は外へ行きたかった。

 寝室に戻ると、S子が同じ姿で眠っていた。私は彼女のはだかの肩を揺すった。目を開けたS子の表情がはっきりしなかった。
「出かけるからね」
「どこへ?」
「喫茶店でモーニングを食べようかと思って」
 彼女の目の焦点が合ってきた。
「角の喫茶店ね」
「うん、先に行っているよ」

 喫茶店の名前は「田園」だった。窓際の席に腰を下ろすと、モーニングを注文した後、持参した梶井基次郎の小説集を開いた。出がけに本棚から拾ってきた本だから、暇つぶしで読むだけである。「檸檬」を半分ほど読んだところで、コーヒーとトーストが来た。

 運んできたアルバイトらしい若い女の子が、ちらりと私を見た。愛嬌のある丸顔や白い八重歯に見覚えがあった。同じアパートに住んでいる音大の学生だった。たまにゴミを捨てに行って、顔を合わせることがあった。学費を稼ぐために、ここでアルバイトをしているのかも知れない。

 席は大方満席だった。いつ相席になるかもしれない。私はなるべく早くすませて喫茶店を出ることにした。アパートの扉を開こうとして、浴室の水の音に気付いた。S子がシャワーを浴びているようだった。扉のノブにかかった手を引っ込めて、私はまた歩き始めた。近所にある神社の境内まで散歩しようと思った。

 考えることは、どうしたらS子から自由になれるかということだった。このまま外出することも一つの選択肢だったが、そうするとS子はまた逆上するかもしれない。せっかく向こうから別れ話と切り出してきたのだから、ここはなんとか円満に別れたかった。

 境内で30分ほど時間を潰してアパートに帰ってきた。S子はすでに身支度を終えて出かけたようで姿がなかった。私は居間のガラス戸を開けて、ベランダへ出た。深呼吸を一つしてから、居間のソファに腰を下ろすと、しばらくぼんやりと瞑想に耽った。そのうちにS子が帰ってくるだろうと思った。

 しかし一時間たってもS子は帰ってこなかった。先ほどまで自由になりたいばかりだったのが、勝手なもので、またそろそろ彼女の体が欲しくなっている。そして昨夜の痴態を反芻しているうちに、股間のものがふくらんでいた。彼女と別れるためには、この欲望を断たなければならない。しかしこの妄想を断ち切るにはどうしたらいいのだろう。やはり自分で処理をするのが一番いいのだろうか。

 私はトイレに行って、自分の物をとりだした。そして少ししごいてみたが、思ったほどの快感が募ってこなかった。あきらめてソファに帰ったところで、電話の呼び出し音がなった。しびれをきらしたS子が喫茶店から電話をよこしたに違いない。そう思って、おそるおそる受話器を取りあげたが、S子ではなかった。

 明るく弾んだK子の声だった。
「おはようございます。起きてみえました?」
「ええ、とっくに」
「今日も部活ですか。それとも他の方とデートですか」
「いや、まさか・・・」
「私これからピザを作るんです。お昼頃、持っていきますね」
「ここが分かりますか」
「住所がわかりますから。車で行きます」

 私が対応に迷っているうちに、電話は一方的に切れた。K子の登場は予想もしていない事態だった。こうなった以上はなるべく早くS子を帰さなければならない。最悪の場合は、S子と外出しよう。K子はがっかりするだろうが、いきなり押しかけてくるK子も強引過ぎる。

 私はあわてて寝室に足を運んだ。まだそこに女の生々しい匂いが残っているようで、ガラス戸を引いて外気を入れ、皺になったベッドのシーツを直した。それから居間のソファに戻り、時計を眺めながら待ったが、S子はお昼近くになっても姿を現さなかった。

<今日の一句> ほのかなる 匂ひはいずこ 野菊咲く


2002年12月08日(日) 大切なパソコン

 私がパソコンを買ったのは、平成7年7月のことである。もう7年以上も前のことだ。本体とディスプレー、プリンターとソフトを合わせて、39万円も払った。

 ○本体・・・NECのPC-9821/Xa7・・・・・\268,000
 ○ディスプレイ・・・IIYAMAのMF8515E・・・¥49,800
 ○プリンター・・・キャノンのBJ10vライト・・・69,800
 ○一太郎v6・・・58,000、Visual Basic・・・40,000

 プリンターはBJC-400Jに買い換えたが、他は7年後の現在もそのまま使っている。ちなみにPCのスペックはCPUが75Mhzのペンティアムだ。メモリーは8M、ハードデスクは420Mバイトだったが、現在はそれぞれ40M、8G、OSはwindows3.1から始まり、数年前からwindows98を使っている。

 これで日記や小説を書き、年賀状を印刷し、インターネットをしている。たしかにスピードは遅いが、今のところ特に不便はないので、壊れない限りこれを大切に使いたいと思っている。

 7年間使ってきて、これまでに大きな不都合が一回だけあった。それは4年前の秋のことである。突然画像が崩れて、サイケデリックな奇妙な色彩のものが画面に現れ始めた。それから、一週間ほどの間に、ファイルまで次々と壊れ始め、ついにはシステムが停止してしまった。起動ディスクで修復を試みてもどうにもならない。

 当時私は今の高校に転勤してきて1年生の担任をしていたが、大変なクラスで、学級崩壊寸前だった。くわえて、私は体調を崩し、耳鳴りや不眠症に悩まされ、まさに精神的にも崖っぷちで、ノックアウト寸前の状態だった。そこに、留めを刺すように、PCの不調である。私にはこれは何かとても不吉なことのように思われた。まさに私自身の存在が壊れていく前兆のようにさえ思われた。私は「死の恐怖」をさえ実感した。

 ところが不思議なもので、このとき先日の日記に書いた大学時代からの友人のT君から、突然の電話があった。T君は電子計算機の会社に勤めているPCの専門家である。まさに藁にもすがる思いで窮状を訴えると、すぐに来てくれるという。そして彼はハードディスクを取り替え、ソフトをすべて再インストールしてくれた。黙々と作業を続けるT君を見て、持つべきものは友だちだとしみじみ思ったものだ。

    <A frend in need is a frend in deed.>

 ハードディスクを増設し、メモリも増やして、パソコンはその日から快調に仕事を始めた。おかげで私の不吉な予感はすっかり吹きとび、「何でもやってくるがいい。もう、負けないぞ」という敢闘精神がまた復活した。パソコンの復活は、同時に私自身の蘇生でもあった。

 そしてこのとき私は久しぶりで一つの短編小説を仕上げたのだが、それが後に「象」(1999年夏号)に発表した「吠える」という作品である。当時の私の苦しい心境の一端がこの小説に反映している。

 私がこの旧式のパソコンをいまだに手放せないのは、こうした出来事があって、よけい愛着を持っているからだ。それにしても、私の窮状を見透かしたかのように、まさにその瞬間に救いの電話をかけてきたT君の千里眼に、私は今も畏れのようなものを感じている。

<今日の一句> 今は亡き 友を偲びぬ 寒椿


2002年12月07日(土) 高血圧と私

 先月、義父が右目を失明して入院した。原因は高血圧による眼底出血だという。義父は77歳になるが、これまで健康そのものだった。病院や薬が大嫌いで、今回も失明してもなかなか医者にかかろうとしなかった。

 私も学校での検診のたびに、この数年間「高血圧」を指摘されている。下が100を越え、上も150を越えている。10年ほど前まで、上が100を割っていて、低血圧だと言われていたのが嘘のようである。

 高血圧は脳梗塞や心筋梗塞、動脈硬化、心臓肥大などの原因になる。義父のように突然失明することもある。しかし、「歳のせいだ」とか「仕事の疲れがたまって・・・」などと案外、症状を自覚しないので要注意だという。症状として、次のようなものがある。

1 )脳・神経系の症状:
頭痛、肩こり、めまい、ふらつき、耳鳴り、不眠、手足のしびれ、いらいら感、目のかすみなど

2 )心症状:
動悸、息切れ、不整脈、呼吸困難など

3 )腎症状:
倦怠感、顔や手足のむくみ(浮腫)など

4 )動脈硬化:
歩行時の下肢痛など

 私の場合、1)〜3)があてはまる。頭痛、眩暈、耳鳴り、目のかすみ、、いらいら感、不眠、不整脈、呼吸困難、手足のむくみ、すべて私がこの数年間に自覚するようになった心身の変化である。

 とくにひどいのは耳鳴りで、これが高じると頭の中が騒音状態になる。夜中にこれがあって目が覚める。ときには幻聴で人の話すのが声高に聞こえてくる。最初は幻聴だと気付かずに、枕元に透明人間でもあらわれたのかと冷汗をかいたものだ。

 高血圧の治療としては、塩分を控えた食事や運動による減量が大切だという。喫煙やアルコールの摂りすぎ、ストレスは避けて、毎日30分ほど泳ぐのが効果的だそうだ。やはり高血圧の友人がいて、彼は漢方薬と水泳で血圧を下げた実績があるので、私もなんとか運動と食事療法で改善をはかりたい。

 次女が来春、大学受験である。彼女が大学を卒業するまであと4年間は、何とか父親としての責任を果たす必要がある。昨日、大学の看護科に籍を置いている長女から電話があり、「薬をのまないとだめだよ。お祖父ちゃんのように失明するよ」と諭された。世界放浪を夢見ている私は、なるべくなら薬漬けの生活は避けたかった。しかし、もはやそうも言っていられない状況のようだ。

<今日の一句> 水泳の ゆとりもなくて 師走かな  裕


2002年12月06日(金) 岐路に立つ日本社会

 先日NHKの「クローズアップ現代」で「刑務所で何が起きているか」という題で、日本の刑務所の現状が徹底的にレポートされていた。名古屋刑務所で「革手錠」を使った受刑者への集団暴行があり、刑務官5人が逮捕された。こうした事件が起こった背景に何があるのかよくわかる内容だった。

 名古屋刑務所で暴行された受刑者は保護房に8回収容され、「革手錠」をたびたび掛けられたという。受刑者はその状況を記し、人権侵害を訴える手紙を弁護士会に出していた。名古屋弁護士会の面会調査を2日後に控えた9月25日に、彼はさらなる暴行を受けた。

 両手首を通した革手錠のベルトを腹部にきつく巻かれた。この結果、腹部を切開し、小腸を約四十センチ切り取った。名古屋刑務所の桜井智舟所長は10月4日の会見では、受刑者への暴行を「正当な職務行為の範囲内」と述べていた。

 革手錠使用は国連の人権委員会で問題になり、法務省の通達で控えるように指導されていた。これをうけて全国的に減少している中、名古屋刑務所ではむしろ突出して多くなった。平成13年に58件だったのが、今年は9月末までに158件と急増していた。

 こうしたことが生じた背景には、服役者の増大による刑務所の中での過密と、それによるストレスの増大があるようだ。この結果、服役者同士、服役者と刑務官の間にトラブルが絶えなくなり、秩序の維持に腐心する刑務所が、一部の刑務官の暴走を許した結果だという。

 こうした悩みを抱えているのは、名古屋刑務所だけではない。徹底した規律のもと、暴動も逃走もほとんどなく世界でもトップクラスと言われてきた日本の刑務所に今、異変が起きているのだという。

 日本最大の刑務所、東京の府中刑務所では、犯罪の増加を背景に収容者がこの5年間で1.4倍に急増。収容率は110%を超え、ストレスをためた受刑者によるトラブルが増加、現場の刑務官たちの負担もぎりぎりのところまで来ている。

 番組では府中刑務所の一人の刑務官に密着取材し、その勤務がいかに大変であるかを伝えていた。作業場では彼一人が60人の受刑者を監督しなければならないが、受刑者の中には異国籍で日本語が通じない人たちも多数含まれている。いれずみをした暴力団関係者もいて、隙をねらって仕事をさぼろうとするので目が離せられない。

 そうした中で毎日のように喧嘩や刑務官への暴行事件が起こっている。番組の取材中にもたびたび警報が鳴り、現場に直行する刑務官達の緊張した様子が写し出されていた。インタビューに応じた刑務官は「なめられないように、いつも緊張していなければならない」と苦しい胸の内を語っていた。半数以上の刑務官が「暴動」が起こる不安を訴えているという。

 トラブルを起こした受刑者はインタビューに答えて、「人が多すぎるのでストレスがたまる。満員電車にいるようなものだ」と訴えていた。6人部屋に8人が寝ていた。食堂には収容しきれないので廊下に机を並べて食べていたが、肩と肩が触れ合うほどだった。いつも誰かと体が接触する。それをきっかけに喧嘩になるのだという。受刑者の中には一人になりたくて、自ら「保護房」を希望するものまでいる。

 いずれ服役者の大部分は社会に出ていく。刑務所はこれまで厚生施設としての教育的役割を帯びていた。しかし、今、刑務所はたんなる強制収容のための隔離施設にかわりつつある。日本の刑務所が曲がり角に来ているといわれる所以だ。

 定員オーバーは更に悪化しそうである。しかし、新たに刑務所を作るには何百億という費用がかかる。インターネットで統計を調べてみると、日本の刑務所には現在6万人以上の服役者がいるが、これだけの人間を収容し、寝食の面倒を見、これを監督する社会的コストは馬鹿にならない。

 しかし、アメリカの場合はこれが180万人を超えている。この先、アメリカ型の競争社会になれば、犯罪は日本でも多発するだろう。世の中に訴訟と犯罪があふれ、膨大な受刑者が発生し、これを収容するための刑務所や刑務官も今の10倍以上にふやさなければならない。弁護士や裁判官、警察官も同様である。その社会的コストは信じられないほど高額になり、私たちに税金としてはねかえってくる。

 曲がり角に来ているのは、刑務所ばかりではない。社会からの隔離施設と化しつつある日本の学校もそうである。実は日本の社会自身がおおきく変質しつつあり、今まさに正念場にさしかかっている。どのような社会を私たちは望んでいるのか、手遅れにならないうちに社会の進路について、私たちは賢明な選択をしなければならない。

<今日の一句> 小春日に 冬服脱いで あくびする  裕


2002年12月05日(木) 共感する心

 先日、「独立自尊」が大切だということを書いた。しかし、これだけでは十分ではない。もう一つ、大切な心がある。それは「共感する心」である。相手の立場に立って、理解し共感する心がなければ、人は本当の意味で幸せな人生を送ることが出来ない。

 智というのは基本的に「分かる」ということ、つまり「分ける」という分析的な働きが主である。これに対して、愛は「合い」であり、「合わせる」という総合的な働きが中心になる。G・シュビングは「精神病者の魂への道」のなかで、母なるものについてこう述べている。

<母なるものの本質は、相手の身になって感じる能力、他の人の必要とするものを直感的に把握すること、そしていつでも準備して控えていることである>

 独立自尊が父性的な「智の原理」だとしたら、共感する心は母性的な「愛の原理」だということができる。あるいは独立自尊がある意味で競争的な原理だとしたら、共感する心は共生的な原理である。仏教でいう小乗と大乗の違いだとも言えよう。

 しかし実のところ、愛というのはそれほどむつかしい理屈ではない。それは簡単に言えば、他者と共に生きること、そして共感しあうことである。そうした他者受容的な生き方が友を作り、愛を育てるのだろう。人生に必要なのは、このような「共に生きよう」とする姿勢である。加藤諦三は「気が軽くなる生き方」(三笠書房)のなかで、次のように述べている。

<われわれは自分を他人によく見せるために、お金も必要でなければ名声も必要ではない。ことさら並外れた良心も必要でなければ、献身も必要ではない。・・・他人によく思われようと、いかにも同情心があるように振る舞う人もいる。みな勘違いである>

<要するに「共に生きよう」とする姿勢がありさえすれば、それだけで他人によく思われるものである。他人に自分をよく見せようとする人は、偉くならなければとか、美人でなければとか思うが、肝心の「共に生きよう」という姿勢がないのである>

 このように他人と共に生きる心が大切だが、同時に、私は独立自尊の心も大切にしたいと思っている。なぜなら、私たちが他者と実り豊かな共生体験を創り出すためには、自分自身が精神的に自立していたほうがよいからだ。受容から自立へ、さらには自立から受容へ、という心の成長があって、人は他人や自分に対して、ほんとうに優しくなれるのだろう。

<今日の一句>  雨にぬれ 紅葉も落ちて 枯葉かな  裕


2002年12月04日(水) 風変わりな友人

 先日、大学時代からの友人が私の家に遊びに来た。浜松の近くに住んでいる彼は、年に一度だけ私の家に遊びに来る。来るのは決まってこの季節で、彼の家の畑でとれたミカンを大量に手提げに入れて持ってくる。

 JR木曽川駅から家まで20分ほどあり、結構な量のミカンを運んでくるのは大変である。たとえ土産がなくとも、客人に寒い中を歩かせていけないと思い、車で駅まで迎えに行くからと言うのだが、必ず歩いてやってくる。

 私に手数をかけさせたくないという遠慮ではない。自動車を使うと無駄なエネルギーを消費することになるという理屈からだ。自家用車に乗らないことが彼のポリシーなのである。だから、帰りも決して私の車に乗らない。頑固にひとりで歩いて帰る。

 寒がりの私は電気ストーブを出してあるが、彼の前でストーブなどのたぐいを使うことも御法度である。石油ストーブも電気炬燵もエネルギーの浪費だからいけない。彼が私の部屋にいる間、暖房はなく、寒々とした中で私は彼と向かい合うことになる。

 もう十数年前になるが、彼が名古屋のアパートにいた頃、遊びに行ったことがあった。部屋は閑散としていて、箪笥も本棚もテレビも見当たらない。この時は真冬だったがやはり炬燵もストーブもなく、私は体の芯まで冷え込んで、そのあと風邪をひいて寝込んでしまった。

 妻にこの話をすると、「あなたの友人はみんな変わっているものね」と笑われた。その通りなのだが、なかでもT君は一番の変わり者である。二人でする会話も浮き世離れがしていて、話題は哲学や宗教のことばかり。この日は主にジョン・ロックの哲学や社会思想についてあれこれ語り合った。

 語っているうちに私も興奮してきて、いつか寒さを忘れている。清談とはこのことだろうが、T君を玄関先に送り出した後、私が最初にやったことは、電気ストーブのスイッチを入れて、その前に思い切りかじりつくことだった。

<今日の一句> 寒菊の 匂ひさわやか 湯浴して  裕


2002年12月03日(火) お見合いの女たち

 妻とはテニススクールで知り合って、一年ほど付き合って結婚した。もちろん恋愛結婚である。現在執筆中の「結婚まで」にはいずれその経緯を描くつもりだが、当面妻は登場しない。S子やK子、その他の女性との関係が中心になる。

 これからA子、B子、C子、D子と次々と若い女が登場する。実は私は結婚するまでに随分多くの女性たちと関わりを持った。どうしてそんなことになったのかというと、私が次々と「お見合い」をしたからである。

 S子と肉体の関係を持ちながら、ほとんど結婚の意志もないのに、新たな女性を物色するようにお見合いを繰り返し、常に複数の女性たちと交際を続けていたわけで、ずいぶんふしだらでいい加減な人間だった。この頃の私はいささか精神のバランスを崩していたのではないかと思われる。

 お見合いの多くは、福井の母が勧めてくれたものだった。私が教員になると、母は私の次の目標は結婚だと思ったのだろう。母のそんなそぶりを見て、母の友人達が次々に見合い話を持ってきた。母は断りきれなくなって、とにかく私に見合いをしなさいという。休日に福井に帰省すると、午前中と午後で二人もお見合いが入っていたことがあった。

 これは何かの手違いでそういうことになったのだが、午前中の相手とレストランで食事をしながら、母も私も午後のお見合いのことが気になって落ち着かない。二人して何度も腕時計を見るので、相手の女性は気分を害したようだった。
「何かご予定でもおありなのですか」と聞かれて、
「ええちょっと、昼から人と逢う約束があるのです」と答えた。

 その瞬間、相手の女性が不愉快を顔に現したのを覚えている。美人だったが、気の強そうな女性だった。「午後にもう一つお見合いがあるのです。そろそろそちらに移動しなければならないのです」などと言ったら、水をぶっかけられていたかもしれない。この女性にはその日のうちに電話で断られた。

 午後からお見合いをした女性は私を気に入ってくれて、その後福井でデートをし、名古屋にも会いに来てくれた。気だてのよいやさしい女性だったが、最後は私の方から断ることになった。S子との関係が泥沼状態になり、私の精神状態もおかしくなっていた。

 私と関係を持った女性はいずれもいっとき甘い夢を見た後、私に突き放されて、最後は辛い思いを噛みしめなかければならなかった。中には家出をして、しばらく行方不明になった女性もいた。S子自身、最後は精神病院に収容され、自殺未遂を繰り返すことになるのだが、それは私が妻と結婚してからしばらくしてからのことである。

 こうした自分の半生を振り返ってみると、私という人間はずいぶん非情・冷酷で、破れかぶれの我が儘な人間であったように思うのである。こうした人間だということを知りながら私と結婚し、結果的には私の窮地を救ってくれた妻には、ほんとうに感謝している。私は妻のおかげで、いささかまともな人間になれたようなものかもしれない。

<今日の一句> 妻と歩む 人生もまた 秋景色  裕


2002年12月02日(月) 結婚まで

28.女体
 人間の性フェロモンは、腋や性器、乳首などのアポクリン腺から分泌される。フランスの娼婦は膣液を耳の裏に塗って男を誘惑するらしい。私がその気になったのも、S子の体から匂ってきた性ホルモンのせいかもしれない。
「今日はだめよ。私、体が汚れているの・・・」
 S子が抵抗するので、よけい私は刺激されていた。

 いつもは二人で風呂に入り、入念に体を洗っていた。ベッドの中でS子の白い肌はいつも清潔な石鹸の匂いがしていたのだが、今日は違っていた。ベッドに仰向けに寝かせてブラウスをはぎ取り、ブラジャーを外すと、乳房は汗ばみ、鳩尾に汗の玉が光っていた。乳首や腋に鼻を近づけると、そこが匂った。

 腋と下腹部に毛を生やしているのは、恥ずかしいからそこを隠しているわけではなく、腋と性器から放出されるフェロモンを脇毛や陰毛に付着させるためらしい。そうすると匂いが長く籠もり、異性を有効に誘惑することができる。だから行為の前にシャワーを浴びたり、石鹸で洗い落とすのは逆効果なわけだ。

 私は本で読んで知っていたが、S子の生々しい体臭をかいで、その内容がそのとおりだと実感した。私はいつになく興奮して、彼女のスカートのベルトを解いた。スカートを脱がせると、むっとした温気とともに、刺激的な体臭が匂ってきた。

 汗ばんだショーツがすこし横にずれて、下腹部の隠微な部分を見せていた。S子が手を伸ばして、私の手首を掴んだ。
「今日は駄目なの。生理なのよ。膣の中に入れてあるの」
「だったら、出してやるよ」
「だめよ、そんなこと」
 私は彼女の手を振り払い、下着を剥いだ。

 顔を近づけてS子の両股を押し広げると、ふっくらした茂みの丘の裾に、紅い唇がわずかに開いて肉色をした内部を見せていた。そこから彼女の会陰部に垂れている糸をたぐって、私は中に収まっていた生理用の異物を取りだした。あかく染まった異物は饐えたような匂いがした。

 女性は性行為を前にして小陰唇を充血・膨張させ、バルトリン腺から薄い乳白色の液を分泌するという。そうして男性器を挿入されやすいように、膣口をなめらかにする。私はいつか婦人科の医者になったような手つきで彼女の性器を押し広げ、丹念に指を入れて、S子の表情の変化をたしかめた。

 S子は片手を伸ばして、私の肩に触ると、甘えるように、
「ねえ、いれて」
 生理用具を彼女の下腹の中に戻そうとすると、
「そうじゃなくて、あなたの。そのままで、大丈夫」

 彼女の呼吸が乱れていた。性器からあふれた液は会陰部を伝い、その下の小さな紅い蕾のようなふくらみまで濡らしていた。小陰唇が陰毛の陰で膨れ上がり、露わな欲望のかたちを見せつけていた。彼女の全身が発情して蒼白く汗ばみ、フェロモンの供給源になっていた。

<今日の一句> 花もよし 紅葉もまたよし 五十坂  裕


2002年12月01日(日) 自尊心を育てる教育

「福翁自伝」のなかに、諭吉が道を歩きながら、向こうから歩いてくる通行人を相手に、次々と異なった態度で道を尋ねる実験をする場面がある。こちらが尊大にかまえて、「こらこら、そのもの・・・・」という態度に出ると、たいがいの相手は下手に出て、腰が低くなる。

 反対にこちらが揉み手をして腰を低くすると、相手の方が反り繰り返り、尊大な風を見せる。諭吉はこうした様子を観察して、日本人というのはこれでは駄目だと考えた。何がいけないかというと、自分というのもがない。だから常に相手を見て、卑屈になるか、横柄になる。

 横柄さは卑屈さの裏返しである。自分に自信がないから、相手を見下したり、空威張りをしたりする。相手の出方によって自分の振る舞いを変えるのは当然だが、それはあくまで自分というものを保った上で行うべきことだろう。まるで別人格のように上がったり下がったりしていては情けない。

 諭吉はこうしたことから「独立心」と「自尊心」を養う教育の必要性を説くわけだが、私はこの教育理念は今の日本人にも必要ではないかと思う。江戸時代や明治時代以上に、現在の日本人は自分を見失い、自信喪失しているのではないだろうか。

 外国人の残した文章を読むと、明治時代の日本人を意外にほめている。それは彼等が何か人間として背骨になるものを持っていたからだろう。福沢諭吉のような立派な個人主義者からみれば不満だろうが、それでも百姓、町人、武士たちの多くはそれぞれのモラルを持ち、貧しさのなかでやさしい情愛や毅然とした気骨を持って生きていたようだ。

 私は気骨という言葉が好きだ。これを別の言葉で言えば自尊心であり、プライドということになる。人間はこのプライドを失ってはいけない。どうしていけないのか。それは悪や不正を平気で行うようになるからである。彼がプライドとともに失うのは良心というこの世で一番大切な宝である。

 自尊心やプライドといえば、中島敦の「李陵」が思い浮かぶが、そこに描かれているのは排他的で独善的な唯我独尊の自尊心である。ほんもののプライドは決して他人を傷つけない。なぜなら自分を尊重する人間は、同時に他人の人格をも尊重するからだ。プライドは傲慢や空威張りとはまったく違っている。子供を立派な人間にするために、そうした本当の自尊心を育てることを、私たちは心がけなければならない。

 プライドの高い人間を私たちはともすれば敬遠する。しかし、それは私たちが自分にプライドが持てないからである。卑屈な人間は平気で人を裏切り不正を働くが、プライドのある人間はおおむね嘘をつかないし不正を行わない。不正や嘘を自分に許すことができないからだ。私はプライドの高い人間が好きだし、信用もしている。

<今日の一句> 北風に 少女ほほえみ 匂ふ春  裕 


橋本裕 |MAILHomePage

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