橋本裕の日記
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2002年11月30日(土) |
高額な授業料がもたらす教育疎外 |
今年は三年生の担任で、わが家の次女も大学受験とあって、大学の入試要項やパンフレットを眺める機会が多かった。そして瞠目させられたのは、その授業料の高額なことである。1998年の統計によると、日本の大学の授業料の平均は、国立が年約154万円、私立が約207万円だという。問題はこれほどの授業料に見合うだけの教育を大学で受けているかということだ。
答えははっきりしている。日本の学生はほとんど大学へ行かないし、講義にも出席しないからだ。そのかわりアルバイトに明け暮れている。これだけの授業料を払うのは容易なことではない。不況風の吹く昨今は、親のすねもだいぶん細くなってきている。大学生が学業よりもアルバイトに精を出すのも、勉強嫌いでは片づけられない経済的事情があるからだ。
山形県の酒田短大では、定員の96%を中国から留学生が占めていて、彼等は親に依存するわけにはいかず首都圏に出稼ぎに出ていたという。日本人の学生の場合でも、本質的に同じ構造が支配していることを押さえておくべきだろう。 どうして授業料が高いのか、大学の敷地に足を運んでみればわかる。捕虜収容所のような殺風景な公立高校の建物と比べて、私立大学の校舎のなんと絢爛豪華なことか。ロビーには絨毯まで敷いてあり、高級ホテルかリゾートの一部のようである。
大学はこのように外観を立派に飾るために巨額の投資をしている。それもこれも学生を集めるためである。とくに伝統のない大学ほどこの見てくれで勝負する。見得を張っているわけだが、その結果が高額の授業料になって学生にはねかえってくる。学生はアルバイトに精を出すしかなく、立派な施設も飾りものだということになる。これが日本の大学の現状だ。
授業料を国際比較してみると、ドイツの州立大学は入学金も授業料も無償、フランスの国立大学の年間修学納付金は日本円にして16000円にすぎない。アメリカの場合は、1998年のデータで州立大学が年平均約48.2万円、私立大学で約241.2万円となっている。
私立大学の授業料だけ比較すると日本より高額だが、アメリカの私立大学に通うのは一握りのエリートに過ぎない。アメリカにおいて年間授業料が240万円を超える大学に通っている私立大学の学生は全体の約4%ほどに過ぎず、75%の学生が年間授業料72万円以下の大学に通っている。
しかもアメリカは最も奨学金制度が充実した国だということだ。給付総額は1994年で約5兆6400億円に達し、日本の10倍強の規模となっている。受給者は全米で推計370万人にも上り、学生全体の約7割が給付を受けており、2000年度における日本の約70万人、受給率約8.9%をはるかに上回っている。
日本ではこうした寒々とした教育疎外が放置されている。日本の産業界は大学生のアルバイトで支えられているという。しかし、これではとてもまともな国の姿とはいえない。教育が未来に対するもっとも有効な投資であることを、私たちは肝に銘じるべきだろう。
<参考サイト> http://www.kochi-wu.ac.jp/~aoki/college-j.html http://www.suzukan.net/03report/_011212.html
<今日の一句> 寒き夜の 梅酒はうまし 夢枕 裕
10年ほど前に、金沢に出張した。金沢市にある県立高校を学校訪問し、いろいろとカリキュラムのありかたなどを教えてもらった。主張をおえたあと、犀川河畔を散策し、シティホテルに宿を確保してから、盛り場に一人でくりだした。
観光都市金沢は夜も賑わっていた。香林坊の寿司屋に入って、ビールを飲みながら,新鮮なネタのにぎり寿司に舌包みを打った。客は圧倒的に若い男女のカップルである。その中に、サラリーマン風の背広姿がちらほら混じっている。
寿司屋を出て、街を徘徊していると、客引きの男に声をかけられた。 「だんなさん、遊んでいきませんか。若いきれいな娘とふたりきりで、食べたり飲んだり、上半身さわり放題で、5000円ぽっちですよ」 「ほんとうに5000円ぽっちかい」 「それはもう、まちがいありません」 そこで私は冒険心も手伝って、その店を覗いてみることにした。
その店は表通りからだいぶん奥まった、寂れた通りにあった。民家をほんの少し改造したような二階の畳敷きの和室に案内され、しばらくするとミニスカートの若い娘が、お盆にビールとつまみを載せて入ってきた。 「どうぞ」と言って、私のグラスにビールを注いだ。グラスが二つあるので、相手のグラスに私がビールを注いだ。
ビールとつまみだけで5000円は高すぎる。上半身さわり放題だというのを思い出して、「こっへきて」と声をかけると、おとなしく私の隣りへきた。そこで肩を抱いて唇を吸い、胸にさわった。ブラジャーは着けていなかった。
ミニスカートをめくってみると、そこにはちゃんと水色のショーツをはいていた。下半身にさわるのは御法度だが、見るだけならいいだろうと、しばらく膝頭から太もものかけてのふっくらした白い肌を眺めた。そして水色の下着の下の秘められた女の世界を想像した。
私が確認したのはここまでである。その先は別料金で1万円必要だと聞いたからだ。30分ほど女性と二人でビールを飲んで、肩を抱き、オッパイにさわり、そしてスカートの中を覗いて5000円は少し高いのではないか。そう思って店を出たが、宿に帰って、そうでもないなという気がしてきた。
実際、ほほえましい旅のエピソードとして、私の記憶の中に彼女の淋しい横顔がほのぼのと残っていた。もし、あと1万円払っていたら、どんな淫らな記憶が加わっていたことだろうか。ちょっと残念な気がするが、やはり腹八分目がいちばんいいのだろう。おかげでさわやかな旅の余韻が今も清々しく残っている。
<今日の一句> たそがれて 木枯らしつのる 窓の外 裕
一昨日の毎日新聞の投稿欄の文章によると、韓国では「勉強ができる、できない」とは言わずに、「勉強が上手、下手」と表現するのだという。日本ではこういう言い方はしないので、何か新鮮だった。
こういう言い方をすると、勉強もテニスや俳句などのお稽古ごととかわらないことになる。あるいは釣りやマージャンなどの遊びの世界にも通じるようで、楽しそうだ。「できる、できない」という頭ごなしの二分法的な言い方よりもやる気が出て、教育効果がありそうだ。勉強もテニスやゲームと一緒で、練習すればそれなりにうまくなりそうな気がしてくる。
英語でも「できる、できない」という言い方はしない。「be good at」を使って、「得意だ、得意ではない」という言い方をする。あるいは単に「do」を使って、「do you speak」などと表現し、「can」は使わない。勉強もテニスやトランプ、歌や踊りとかわらないのは韓国と同じである。おそらく日本以外の多くの国がこのタイプではないかと思われる。
オランダでは勉強ができないのも個性のうちだと考えて、教師は無理に矯正したりしないということを読んだことがある。勉強にもさまざまなものがあり、人間の生き方もさまざまなのだから、あれもこれも上手になる必要はないし、上手下手があってあたりまえだと考えるのだろう。
勉強を自動車の運転のような「技能」として考えてみることもできる。自動車の運転にも上手下手があるが、出来ない人はほとんどいない。だから数学や国語や英語も、「出来る、出来ない」ではなくて、「上手に使えるかどうか」が問題なのである。
私は学校は社会で生きていくために必要な技術やマナーを学ぶ場であればよいと思っている。勉強に必要なモチーフは狭苦しい教室ではなく、むしろ生きた社会体験のなかで養われる。したがって学校も社会の中に足場を持たなければならない。やる気のない生徒ばかり集めた託児所や、入試のための受験勉強をするだけの専門施設であってはならない。
自動車の運転で思い出したことがある。アメリカの高校には、自動車免許を取得できるコースが学内に設けられていて、ほとんどの高校生は在校中に車の免許を手に入れるらしい。日本の高校生のように、こそこそ免許をとりに行って、発覚したら特別指導というのとはわけが違っている。
<今日の一句> 小春日に 山茶花咲きて なつかしき 裕
西春駅から真っ直ぐ伸びた道が国道に出る角に、UFJ銀行があった。もとの東海銀行で、見覚えがあった。それを確かめて、国道に沿って一ブロックほど歩いた。次の信号の角に西之保という標識が出ていた。
交差点の角の「田園」という喫茶店に見覚えがあった。いつもその前を通ってアパートへ帰っていた。私の記憶ではその先に西春中学校があり、その隣の田圃の向こうにアパートがあるはずだった。
角を曲がると、記憶通り中学校があった。しかし、田圃やアパートは見当たらなかった。見覚えのない民家が建ち並び、すこし離れたところに、真新しいアパートが立っていた。
喫茶店に引き返した。入ると店内に客はなく、60歳代と思われるマダムがおしぼりと水を持ってカウンターからでてきた。私はホットコーヒーを注文した。テーブルの面が独特の銅板でできていた。20数年前とそっくり同じ雰囲気である。この窓際の席に私はS子やK子と向かい合って坐ったのだった。そのとき水を運んできたのも、やはりこのマダムだったのだろう。
「この店は20年以上前からありましたね」 「はい。まわりは変わりましたが、ここは昔のままですよ」 「私は近くに住んでいて、この店を利用させていただきました。コーポ橘という名前のアパートが近くにあったのを覚えていますか」 「さあ、どうでしたか」 マダムは首を傾げていた。
マダムがコーヒーと一緒に住宅地図を持ってきてくれた。最近の地図なので、そこにも私の住んでいたアパートはのっていなかった。 「駅前の通りは昔のままですね。左手にレストランがありましたよね」 「レストランですか。そんな店あったかしら」 「20年ほど前には確かにありましたよ」 「リボンという喫茶店ならありましたけど」
マダムは喫茶店という呼び方に拘ったが、どうやら「リボン」という店が私の記憶にある「レストラン」らしかった。コーヒーを飲みながら、私はしばらくマダムと雑談した。30分ほどいたが、その間客の出入りはなく、マダムもひまそうだった。そこを出て、しばらく近所を散策した。
私がお見合い写真を撮った写真館、テニスや卓球のラケットを買ったスポーツ店など、いろいろと記憶をたどり歩いて見たが、いずれも姿を消していた。アパートを斡旋したくれた「西春土地」という不動産屋が少し離れたところに移転して、大きなビルを構えていた。そこで訊ねてみればすべてが分かるのだろうが、生憎日曜日で店がしまっていた。
<今日の一句> 崖ふちの 浜木綿青し 波の音 裕
昔住んでいたところを、何十年かぶりに訪れてみるのは楽しいものだ。先日、ふらりと西春町へ行ってみた。現在執筆中の自伝「結婚まで」の舞台である。ほんとうは書く前に事前調査をしておくべきなのだろうが、不精者の私はいい加減な記憶のままで書いていた。たとえば、こんなふうに書いた。
<アパートは国道63号線沿いの、西之保青野というところにあった。アパートのベランダから、駐車場や田圃の向こうに西春中学校の体育館が見えた。日曜日にはブラスバンドの音が聞こえてきた。
三階建てのアパートで、私は二階に住んでいたが、私の他はほとんど名古屋芸術大学の女子学生ばかりだった。いってみれば、大学の女子寮のような雰囲気だ。紹介してくれた不動産やさんが、「まあ、学校の先生ならいいか」と言った意味がやっとわかった>
しかしこうして書いているうちに、だんだん曖昧なところが出てきて、そのうえに懐かしくもなってきた。20年以上前に住んでいた町やアパートが今どうなっているのか、S子やK子と一緒に入った喫茶店やレストランがどうなっているのか、もしまだ残っているのならこの目で眺め、そこでコーヒーでも飲んでみたいと思った。
私が住んでいたアパートは西春駅から歩いて10分ほどのところの西之保というところにあった。西春中学校のすぐ近くである。先ずは西春駅を起点にして、そのアパートの辺りまで歩いてみることにした。
西春駅は昔のすっかり様子が違っていた。近代的なビルになっていて、昔の田舎駅の面影はない。しかし、駅前通りはそのまま残っていた。はっきり記憶に残っているのが駅前の「落合書店」である。これは昔と変わらなかった。もっとも日曜日だというのに店が閉じていた。
本屋の隣りに小さな祠のようなものが祭られている。見覚えがあったので、しばらくその前にたたずんだ。少し行くとスーパーマーケットがあった。改装はされていても、同じような店がそこにあったのを思い出した。私がよく利用したレストランが左手にあるはずだが、それは見当たらない。そのかわりに広い駐車場ができていたりした。
私はそのレストランの名前が知りたくなって、通行中の年輩の女性を呼び止めて訊いてみたが、「レストランですか、さあね」と首をかしげている。これには少し困った。私はその店でたびたび食事をしており、自伝にもしっかりと書き込んだばかりだった。私の記憶違いということはまず考えられない。とにかく、もう少し歩いてみることにした。
(長くなりそうなので、二回連載にすることにしました。ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」の紹介はその後に連載したいと思います)
<今日の一句> 熊野路の 紅葉抜ければ 海青し 裕
27.夢のあと 私は女を抱いていた。誰かは分からなかったが肌がなめらかで白かった。女が顔をあげたので、じっと見つめてみた。くびれた腰から上のゆたかな、ふっくらとした赤い唇の娘だった。昔新宿の劇場で見た若い踊り子の一人かも知れない。
ミラーボールのキラキラと弾けるような光りが私たちの周囲で飛び跳ねていた。そして天井がまわりはじめた。女がかたちのよい胸を揺らしながら反り返り、裾の方に体をすべらせた。やがて、私のものがあたたかく唇の中に吸い込まれた。
舞台が回るにつれて、観客席の男達の顔が次々と見えた。女性客の姿もあった。私はこんなところでどうして自分が見せ物になっているのかわからなかった。体を起こそうとしても、金縛りにあったように手足が動かない。それでも必死に女から離れようとした。
顔を上げた女の唇が濡れていた。そこから真っ赤のものがしたたり落ちている。唇にかわって、女の手が伸び、やがて鈍い痛みを感じた。 「もういい、やめるんだ」 ふたたび女を振り払おうとしたところで、目が覚めた。
着衣のままベッドに半身を起こしたS子がいた。天井の蛍光灯が点り、私は自分の下半身が蒼白くむき出しにされているのに気付いた。そして彼女の手がそこに伸びていた。私は彼女の手を払いのけた。しかし、すぐにまた伸びてきた。あきらめて枕元の時計を見ると、12時を過ぎていた。
「帰らなかったの」 「ずっとこうしてあなた寝顔を見ていたわ」 「3時間もかい」 「見納めだと思って・・・・」
S子の手の動きが続いていた。しかし、私の体に目立った変化が生じているとは感じられなかった。私は少し気の毒になって彼女を眺め、髪を撫でながら、 「元気がないんだ。痛いだけだ」 彼女は手を離すと、私をじっと見つめた。思い詰めたような顔が淋しげに見えた。 S子の手が離れてしばらくすると、私のそこがかえってあたたかく疼いてきた。そこから私の全身へと欲望のさざ波が広がり始めていた。回復期の病人のような、健康で野蛮な力が甦りつつあるようだった。私は彼女の脇の下に腕を伸ばし、彼女を引き寄せた。女の汗ばんだ体臭がいつになく濃く匂った。
<今日の一句> 浜木綿に 古人の恋を 偲びたり 裕
昨日、今日と一泊二日で紀伊半島を旅した。インターネットで知り合った仲間もまじえ、6人ででかけた。運転手はいつものように徳さん。大きな車なので、長旅でもあまり疲れない。車中で歓談ができて楽しかったが、運転手は大変だっただろう。感謝しています。
「万葉の旅」は今年で3回目だ。最初の年は奈良で一泊した。山辺の道を歩いたり、法隆寺へ行った。奈良市の旧志賀直哉邸も訪れた。そして去年は京都で一泊。琵琶湖湖畔へも足を伸ばし、寺寺の仏や観音さまを拝んだ。今年は最初、北陸の旅を予定していたが、例年にない寒さで積雪が心配されたので、急遽変更になった。
白浜に着いた頃、ちょうど夕暮れで、海岸から海に夕日が沈むのが眺められた。民宿の料理も最高で、温泉の露天風呂もよかった。南方熊楠記念館を訪れ、彼の業績をしのんだり、熊野古道にある美術館へも足を伸ばした。海あり山ありで、紅葉にお季節でもあり、南紀の豊かな自然を満喫した。
「万葉の旅」なので、ゆかりの万葉集の歌を上げておこう。まずは、私の好きな柿本人麻呂の浜木綿の歌一首である。
み熊野の浦の浜木綿百重なす 心は思へどただに逢はぬかも (巻4−496)
一種の意味は、「熊野の浦の浜木綿の葉が幾重にも重なっているように、幾重にも幾重にも百重にもあなたのことを思っていますが、直接には会えないことだ」ということである。実際に海岸の近くに浜木綿が幾重にも葉を繁らせていた。この歌を口ずさみながら、古人の切ない思いに心を馳せた。
さて、斉明3年(658年)10月、斉明女帝は皇太子中大兄を伴って紀国行幸に発った。飛鳥に留まった19歳の有間皇子は、蘇我赤兄に唆されて謀反を語り合うが、裏切られ捉えられ、紀の湯に連行された。11月11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられる。万葉集二巻には、護送の途中、岩代(和歌山県日高郡南部町)で有間皇子が自ら傷んで詠んだ辞世の歌二首がのっている。
磐代の浜松が枝を引き結び ま幸さきくあらばまた還り見む (巻2-141)
家にあれば笥に盛る飯いひを草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (巻2-142)
岩代は車に載ったまま通り過ぎただけだった。万葉の旅としてはいささか内容が乏しかったが、その分、宿でカラオケを楽しんだり、市場を訪れたりと、愉快な旅ができて、おおいに満足した。東京や奈良に住んでいる仲間3人とも久しぶりに会えてよかった。また、来年も是非、一緒に行きたいものだと思っている。
<今日の一句> 熊野路に 秋のゆたかさ 訪ねけり 裕
2002年11月23日(土) |
「敗北を抱きしめて」 |
10日ほど前に学校の図書館でジョン・ダワーの書いた「敗北を抱きしめて」を見つけて、それから毎日少しずつ読んでいる。ダワー氏は1938年生まれの歴史学者である。マサチューセッツ工科大学の教授で、「吉田茂とその時代」などの著作をもつ日本戦後史の専門家だ。
ダワー氏はもともと森鴎外について博士論文を書くつもりでいたくらい文学や文化、特に人間の複雑さに興味を持っていた。型にはまった伝統的な方法ではなく、人間の「はらわた」からこみ上げてくるような感情、つまり敵を悪魔と思わせ、男達を殺戮行為へと導く感情についても関心を持っていたという。こうした氏の資質が、ピューリツア賞を受賞したこのユニークな歴史書を書かせた。
本を書くにあたって、公式文書や教養のあるエリートの書いたものばかりでなく、映画、漫画、マスコミ、歌、宣伝文句、その他、普通の人々の思いが観察できるものなら何でも注意を向けたという。たしかにこの本を読んでいると、まさに日本のある時代の息吹きがその体温とともに生き生きと感じられる。それがこの本の最大の魅力だと言ってもよいくらいだ。
<この本の英語版が出版されて間もない頃、森喜朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国だ」という悪名高いスピーチをおこなった。私は、これに非常に腹が立った。なぜか?
これは、私が研究者として理解している日本ではないからである。私は日本に住んだことがあり、多くの日本人を知り、尊敬もしている。そうした一人の人間としての私が理解している日本でも、それはないからである。
森首相が述べた「日本」は、戦争中の宣伝屋たちが宣伝した「日本」である。それは歴史の特定の時期の、それもひどい時代の「日本」であり、国際的に大きな誤解と害悪を招きかねない、自国中心の政治的イデオロギーの色彩を帯びた「日本」である。
私の見る「日本」は画一的でもあるが、同時に複雑で矛盾に満ちた「日本」である。それは私の国アメリカや、私の同僚たちが研究している他の国や社会とまったく同じことなのである。これが、アメリカでこの本が多くの賞を獲得した理由だと私は思う>(前書き、「日本の読者へ」)
氏のこうした文化的な普遍主義は、彼が若手の研究者の頃体験したベトナム戦争から多くを学んだからだろう。氏はこう書いている。
<1960年代の後半から70年代のはじめ、若手の研究者としての私が人並みになった頃の祖国アメリカは、騒然とし、分裂していた。それは、アメリカ社会が深いひびわれと苦悩をかかえていることを示すものであった。アフリカ系アメリカ人たちは公民権をかけて闘い、インドシナではアメリカの戦争マシーンが異常な乱行にふけっていた。
こうして私が日本と日米関係を研究する歴史家となったとき、私の心には戦争と平和、勝利と敗北、社会における正義といった問題が渦巻いていた。それは私にとって、非常に重みのある問題だった>
ジョン・ダワーのこの本は、当時の雑誌や新聞から丁寧に資料を拾っていて読み応えがある。日本人の書いた本より、面白くて読みやすく、私の心を深いところで揺さぶり、共感させてくれる。その理由は、そこに西洋的な客観的実証精神と、普遍的な人間理解に基づく良質なヒューマニズムがあるからだ。
(今日から1泊2日で毎年恒例になった「万葉の旅」に出かける。今回は紀伊半島の白浜に泊まるつもりだ。天候がゆるせば熊野古道を歩いてみたい。明日の日記で旅の報告をするつもりだが、更新は深夜になるかもしれない)
<今日の一句> 降りしきる 紅葉そのまま 髪飾り 裕
1947年10月11日、34歳の山口良忠という判事が東京の自宅でひっそりと息を引き取った。死因は栄養失調による餓死だった。彼は闇市で不法に手に入れたものを食べることを拒否した。配給された米を子供たちに食べさせると、彼と彼の妻は塩水以外に口にするものはなかったという。
山口判事は東京地方裁判所の小法廷で、闇市にかかわった軽犯罪を多く裁いていた。たとえば出征したまま帰ってこない息子の帰宅を待ちわびている72歳の老婆は、義理の嫁を空襲で失い、二人の孫に食べさせるため、着物などを売り払い、その金で闇市食料を買っているところを逮捕された。山口判事は法に従ってこの老婆を刑務所に送る判決を下さざるを得なかった。
1946年に闇取引で逮捕されたのは122万人、47年には135万人、48年には150万人にのぼっている。しかし、闇取引をしなければ人々は生きていけなかった。山口判事自身の家庭も、生活のための物資を闇市に頼らざるを得なかった。もし、法を厳密に守り、配給だけに頼っていたら、子供たちまで餓死しなければならない。そこで、山口判事は妻と子供たちには闇の食料を口にするのを許し、自分には禁じたのだという。
戦後日本の経済復興の影に、こうした悲惨な現実が存在していた。1945年11月7日の「朝日新聞」に「私は自殺しそうだ」と題する投書が掲載されている。その一部を引用しよう。
「私は最早自殺を決心しました。そして無能、無慈悲な政府を恨んで死んでいきます。妻や子供の身の上は隣組長様や隣保の人々にそれとなく頼んでおきました。せめてうすい粥でも食べて、働けるだけの食料を出して下さい。私たち無教育の者にはむつかしい理屈はわかりませんが、米も麦も充分あるような気がします。御覧なさい。一升80円も出せば一石や二石の米麦はたちどころに集まって参ります。当路の高官達よ、人の辛さは三年でも辛抱する冷淡な根性を捨て、少し人間らしい心をもって下さい」
これらの年の冬には上野公園の周辺だけで毎年100人近い浮浪者が死んでいた。また栄養不足は病気をはびこらせた。1947年には14万人以上の人々が結核で死んでいる。そのほかに、コレラ、ジフテリア、ポリオ、脳炎などが流行し、毎年数万人の死亡者を出した。
<敗戦後、疲労感と失望感が数年間も続いたが、これは敗北による心の傷が長引いたというよりは、むしろ戦時に蓄積した疲労が、戦後の指導層の無能とあからさまな腐敗によって増幅されたためであった。長い歴史の尺度で見れば、敗北からの日本の復興は急速であった。しかし、一般の民衆にしてみれば、戦後復興はあまりにも進展が遅く苦痛に満ちたものであった>(ジョン・ダワーは「敗北を抱きしめて」)
<今日の一句> 粧おえる 山の錦に 時忘る 裕
敗戦の後、およそ650万人の日本人がアジアと太平洋の各地にとり残されていた。そのうち350万人が陸海軍の兵隊だった。復員ははかどらず、天皇の玉音放送から一年後の1946年9月の段階でも200万人以上の日本人がまだ帰国を果たしていなかった。さらに54万人が行方不明だった。
満州だけでも、17万9千人の民間人と、6万6千人の軍人が、降伏後の混乱と寒さの中で命を落としている。アメリカと日本当局の推計では、160万から170万の日本人がソビエトに抑留された。抑留は長期におよび、彼等のなかの30万人ほどの生死が結局わからなくなった。ソビエト政府はシベリヤに埋葬された日本人4万6千人の名簿を公表しただけである。
敗戦後、外地で飢えや寒さ、強制労働による体力の消耗によって多くの日本人が望郷の思いに駆られながら死んでいった。しかし、命からがら外地から無一物で帰ってきた兵隊も、祖国へ帰ってきて、必ずしも歓迎されたわけではない。食糧難は内地も同じだった。さらに外地での日本軍の残虐行為が明らかになってきた。そうした雰囲気の中で、肩身の狭い、つらい思いを噛みしめなければならなかった復員兵も多かった。1946年6月9日の「朝日新聞」の投書を紹介しよう。
「私は、去る5月20日南方より復員しましたが、わが家は焼かれ、妻子は行方不明、わずかばかりのお金も高い物価のために使い果たし、見苦しい姿になりました。誰一人としてやさしい言葉をかけてくれるものはなく、かえって白眼視するばかり。仕事とてもなく思い悩んだはてに、私はとうとう悪魔の虜になりました・・・・」
彼は暗い通り道で若い男を呼び止め、物品を奪おうとしたが、その若い男が非番の警官だった。ところがこの警官は彼を逮捕しようとはせず、「困難は乗り越えることができるから、自信をもちないさい」諭して、お金と自分の衣服をくれたという。彼は感激して、真人間になると世間に誓うために投書したのだという。彼の場合は地獄に仏だったが、こんな奇跡がそうあることではない。犯罪に走った兵隊くづれも多かったに違いない。
戦争中は「兵隊さんのおかげ」といえば、もちろん良い意味で使われた。兵隊さんがお国を守っていてくれるおかげで、祖国で安全に暮らしていられるという感謝の言葉だった。その同じ言葉が、敗戦後はアイロニカルで侮蔑的な別の意味を帯びることになった。
兵隊さんのおかげで、日本は戦争に巻き込まれ、そしてあえなく破れた。おかげで戦後はひどい貧乏暮らしを堪え忍ばなければならない。戦時中、兵隊さんの株が高かっただけに、その暴落ぶりは目を覆うばかりだ。お国のためと思い、命を投げ出して戦った結果がこれである。これでは兵隊もたまらなかっただろう。「特攻くづれ」などという言葉が生まれたのもこの頃だった。
ところで、敗戦と同時に困難な状況に置かれたのは、旧植民地出身の兵隊たちも同じだった。場合によっては日本人以上に困難な立場に立たされた。たとえば、B級、C級裁判の有罪率、死刑判決率は、日本人より、台湾、朝鮮半島出身者が、割合として著しく多い。
どうしてこのようなことになったかというと、日本軍が意図的に彼らを捕虜収容所の監視員に当てたからだ。たとえば戦犯となった朝鮮人148名のうち、捕虜監視員として責任を問われた人はじつに129名もいる。日本人は彼等の質が悪かったので、捕虜虐待が起こったのだと、口裏を合わせて言い逃れをしたらしい。
なお敗戦時、強制連行されて日本にいた朝鮮半島の人々は135万にのぼった。1946年までに93万人が帰国したが、彼等を待っていたのは分断された祖国に襲いかかった内戦の悲劇だった。困難に直面した朝鮮半島の人々の中には、日本に再入国をしようとした人もいたという。日本が引き起こした15年戦争の悲惨は、これらの人々の上にいっそう過酷であったことを忘れてはならない。
<参考文献>「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著、岩波書店) <参考サイト> http://216.239.33.100/search?q=cache:Nj_ivenVVEwC:www5.sdp.or.jp /central/gekkan/chousenjinsenpan.html+%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%
<今日の一句> 枯葉散る 夕日の道に 猫が死ぬ 裕
婦女の貞操と純潔を守り、国体護持に挺身せんがために、敗戦とともに創られた進駐軍向けの慰安施設はかなり繁盛したらしいが、わずか数ヶ月後には閉鎖されることになった。その理由は、占領当局によると、この制度が非民主的で、婦人の人権を侵害するものだということだった。
しかし本当の理由は、性病の蔓延だったらしい。わずか数ヶ月間で、施設の女性の90パーセントが性病検査で陽性になった。占領軍のある部隊では、兵員の70パーセントが梅毒、50パーセントが淋毒に感染していた。
貧乏くじを引いたのは、お国のために奉仕した女性たちだろう。彼女たちは解雇されることになったが、退職金ももらえなかった。もらったのは性病と、「お国のために挺身した」という誉め言葉だけだったからだ。
そもそも「純潔を守るため」とはいえ、国が率先して慰安施設をもうけたこと自体、米軍にたいする過剰待遇だといえないことはない。日本政府は日本軍の実態を知っていたので、恐怖に駆られたのだろうか。その結果が性病の蔓延だったのだから、米軍もありがた迷惑だった。
とはいえ、占領軍兵士の性欲処理はやはり緊急の課題だった。日本政府は総司令部の公的売春禁止の措置を受けて、特定の地域で私的売春を認める措置を講じた。これがいわゆる「赤線」地帯である。赤線というのは警察当局が地図の上に赤い線を引いたことからきた言葉らしい。やがて7万人もの女性が売春婦としてこの赤線地帯で働くことになった。
派手な口紅、マニキュア、小粋な服装の彼女たちはやがて「パンパン」と呼ばれるようになった。パンパンというのは、戦争中、南洋でアメリカ人が現地語をまねたのが始まりで、手に入る女性という意味の、異国情緒やエロティシズムを感じさせる言葉だったらしい。これが日本社会でも市民権を得て、当時の風俗を象徴する言葉として定着することになった。
ある調査によると、パンパンの多くは戦争孤児であるか、父親がいなかったという。アメリカ兵相手の売春は当時の女性の仕事としては非常に収入がよかった。貧乏や飢餓が一般的であった戦後の混乱期において、派手な浪費に走る彼女たちの姿は時には顰蹙の対象ともなった。しかしある調査によると、彼女たちの多くは長女であり、両親と兄弟の生活に強い責任を感じていたということである。
ところでこのような日本女性を持つ日本の姿が、征服者であるアメリカ人にどのように写っていたか、「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著)から引用しておこう。
<昨日まで危険で男性的な敵であった日本は、一度のまばたきのうちに、白人の征服者が思い通りにできる素直で女性的な肉体の持ち主に変貌した。そして、同時に、売春によるものもそうでないものも、占領軍兵士と日本女性の稠密な関係は、ときには人種を超えた思いやりや、お互いへの敬意や、さらには愛情の出発点にさえなった。そいうい意味で、国家同士の関係が男女の関係に変換されて表現されていたのである。かかわり方はどうであれ、そこにいたすべての者にとって、占領軍と日本女性の関係は驚くほど感覚的で、かつ文化的な出来事だった>
<今日の一句> 雁渡る 空の青さを 眺めけり 裕
先日の日曜日、名古屋市のアートピアホールへ「楽園終着駅」を観に行ってきた。劇団紙ふうせん五周年記念公演で、名古屋市芸術祭参加作品でもある。老人ホームを舞台にした人生模様がユーモラスにしみじみと演じられていた。パンフレットの紹介文から一部を引用しよう。
「晩春のある日、老人ホームに入所したふみ・・・。周囲は老人ばかりでなんだか奇妙なところに来てしまったという思いに駆られている。ここでは毎日いろいろな悲喜劇が繰り返されている。泥棒騒ぎ、畑荒らし、マダムと紫の恋の鞘当て・・・。様々な人生群像が登場し、次から次に問題は絶えることはない。そんな中、ふみは乱暴者の源蔵に、次第に心を惹かれていく」
ホームに入所している人の経歴は、呉服屋の主人、豆腐屋、役者、学校の先生、画家、土建屋の社長、呉服屋の女将さん、戦争未亡人、バーのマダム、高級官僚だった夫婦など様々だが、みんなそれぞれに戦争を体験し、たくましく戦後を生き抜いてきた人たちである。
そうした人たちが人生の終着駅として老人ポームにやってくる。しかし、彼等は決して人生そのものを引退していない。まだまだ生臭い生身の人間であり、人生の終着駅である老人ホームを舞台に、懲りることなく様々な騒動を繰り広げる。
男をめぐって女同士のとっくみあいがあり、ぼけて食事のことや戦時中のことばかり口にする老人もいる、精神がゆがみ、被害妄想の女、道連れ自殺を思い詰めるその夫、さまざまな人生模様がそこに浮かび上がり、そうした騒動を通して、本音で自分の人生を語り合う中で、次第に困難な人生を生きてきた友情と連帯感が醸し出されていく様子が、軽快な会話に歌や踊りも交えて描かれていた。
途中、老人を引き取りに孫が現れる場面があったが、中国で戦い、シベリヤ抑留体験を持つ老人は、ホームでの別れの場面で自分を出征していく兵士だと思いこみ、直立不動で軍歌を歌ったりする。「戦争体験を語り継ぐ」ということも、この芝居の大切なテーマのように思えた。
ところで、私が定時制高校に勤務していた頃からの友人が、パンフレットの紹介にある「源蔵」という準主役級で出演していて、飲んだくれでホームの憎まれ者というむつかしい老人の役を体当たりで演じていた。彼は若い頃から腎臓を患っていて、その上心臓に欠陥があり、身体障害者でもある。週2回の腎臓透析を受けながら、今も定時制で教え、しかも舞台でも活躍している。私より5歳ほど年上だが、エネルギーの固まりのような人だ。
彼は演劇が好きで、大学の英文科を卒業すると、カナダに渡り、生活資金を稼ぐために、港湾労働者としてバンクーバーの港で人足として働きながら演劇の勉強をした。そのときの無理がたたって、腎臓病を発病したという。日本に帰り、東京の劇団のオーディションを受けたりしたが、結局体のことを考えて俳優の道を断念し、高校の英語教師になった。
彼は絵に描いたような熱血タイプの教師で、高校では演劇部の顧問をやり、指導部の主任をしていたが、10年ほど前に心臓発作で倒れ、死線をさまよったことがある。病院にお見舞いに行くと、もともとキリシタンの彼はベッドで聖書を読んでいた。
「人生の休養になってよいね」と声をかけると、「死んだと思えばこれからの人生はおまけのようなものだからね。一番やりたかったことを好きなだけやることにするよ」と笑った。それから演劇学校に所属して、研鑽を積むこと10年、その精進の結果がよく出ていた。人生に夢があるというのは、何とすばらしいことだろう。
<今日の一句> 赤く燃え 黄色く笑い 枯葉舞う 裕
26.乾杯のとき
S子が私との別れ話を口にしたのは初めてのことだった。彼女とどう手を切ろうかと考えていた私に、これは願ってもない成り行きだったが、そうした心のうちを見せてはならなかった。S子は敏感に感じ取り、態度を硬化させるに違いなかった。
しかし、私は自分の表情をとりつくろう必要を感じなかった。なぜなら、私はこのとき、何かしみじみとした愛情のようなものをS子に抱いたからだった。考えてみれば、彼女は私に一切を与え、心までゆだねてくれた。
私はこれまで愛情もないまま、彼女を抱き、彼女をむさぼった。自分の欲望のはけ口として扱っていた。彼女の涙で濡れた顔を眺めているうちに、私は自責の念にとらえられた。そしてもの悲しい哀れさを感じた。こんなことは初めてだった。
S子はハンカチを取り出し、頬を拭き、鼻をかんだ。私は立ち上がり、ビールのグラスを片づけると、冷蔵庫の扉を開けて葡萄酒をとりだした。二個のワイングラスをテーブルに置いて、手前のグラス一杯に葡萄酒をついだ。そして、グラスの葡萄酒を、彼女のグラスに半分注いだ。 「最後の晩餐みたいね」 彼女はハンケチをしまいながら、涙を溜めた目で笑った。
「こうして、片方のグラスから、もう一つのグラスに同じ酒を分けるのが西洋の正式な飲み方らしいね。毒が入っていないことが相手にわかるだろう。乾杯の時、グラスをカチンとぶつけるのは、その名残らしいよ」 「怖いのね」 「飲む前に必ずグラスをのぞき込んで、匂いをかいだり、酒の色を眺めるだろう。これも毒が入っていないかどうか、調べるためかもしれないね」
私はそんな講釈をしながら、ちびちびと葡萄酒を飲んだ。ビールとチャンポンになったせいか、あるいはようやくS子から解放されそうだという安堵のせいか、私の心身はすぐにアルコールに支配されて、睡魔が襲ってきた。
「葡萄酒は好きなだけ飲んでいいよ。帰るとき外から鍵をかけてくれるかい。前のように、郵便受けの中にいれておいてくれればいいよ」 私は鍵をテーブルに置くと、もう一度S子の前髪に手を伸ばして、S子の顔を眺めた。彼女も黙って私を見つめた。唇の端がすこし歪んでいた。
もうこれで見納めかと思うと、正直言って未練が残った。私は顔を近づけ、彼女の額にキスをした。それから、彼女を残して、寝室に歩いた。服を脱いでベッドに倒れ込むと、たちまち前後不覚に墜ちた。
<今日の一句> くれなゐの 紅葉葉光る 風のなか 裕
終戦を告げる玉音放送のあと、「敵は上陸したら女を片端から陵辱するだろう」という噂が野火のように広まった。当時の警察の内部報告書には「強奪強姦などの人心不安の言動をなすものは戦地帰りの人が多いようだ」と書かれている。
この問題に対する政府の対応は早かった。8月18日、全国の警察管区に「慰安施設」を特設するように指示が出されている。この日、東京では警視庁の高官が地元の売春業者と面会して、協力を要請している。
元総理で侯爵の近衛文麻呂は、「日本の娘を守ってくれ」と、警視総監に懇願したという。後の総理大臣の池田勇人はこのとき大蔵省の官僚だったが、資金面の手配に忙しかった。彼は「一億円で純潔が守られるのなら安いものだ」と言ったという。
しかし、プロの女達は、日本政府の要請に消極的だった。アメリカ人は大男なので、性器も巨大だろろから、怪我をしては大変だと及び腰になったらしい。困った政府は、一般女性から募集することにして、銀座に「新日本女性に告ぐ」という巨大な看板を立てた。
看板には「戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」と書かれていた。この広告をみてやってきた女性の中には「お国のために自分の体を捧げたい」という女性もいたという。
こうして、東京だけで1360人もの新日本女性が登録を終え、この「大事業」に参加することになった。8月28日にはとりいそぎ皇居広場前で「特殊慰安施設協会」の発足式が行われた。その宣誓の言葉の一部を引用しよう。
「・・・我等は断じて進駐軍に媚びる者に非ず。節を枉げ心を売るものに非ず。やむべからざる儀礼を払い、条約の一端の履行にも貢献し、社会の安寧に寄与し、以て大にして之を言えば国体護持に挺身せむとするに他ならざることを、重ねて直言し、以て声明となす」
この日、さっそく数百名の米兵達が施設の一つに赴いた。そこに集められていたのはいずれも素人の娘たちで、ある女性はその日、23人の米兵の相手をさせられたと回想している。まだベッドも衝立も布団もない衆人環視の中で行為は露骨に行われた。赤裸々な光景を目撃した警察署長はすすり泣いたという。
推計によれば、女性が施設で一日に相手にした米兵は、15人から60人に及んだという。元タイピストの19歳の女性は、仕事を始めるとすぐに自殺した。精神状態がおかしくなったり、逃亡する女性もいたという。
慰安施設の設置を依頼された東京都の防疫課長は与謝野光だった。彼は歌人・与謝野晶子(1878〜1942)の長男である。すでに晶子はこの世の人ではなかったが、女性解放論者であった彼女がこのことを知れば、嘆き悲しんだに違いない。
(参考文献) 「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著 岩波書店)
<今日の一句> 月の夜は 猫の背中も あはれなり 裕
戦争に負けて、一時「一億総懺悔」という言葉がはやった。この言葉を最初に使ったのは、ポツダム宣言を受けて鈴木内閣が総辞職したあと、敗戦処理のために登場した皇族の東久邇首相だった。
その意味は、「私たち臣民の努力が足りなかったので、戦争に負けた。天皇陛下に耐え難いご心痛をかけてしまった。ここのことを国民すべてが懺悔しなければならない」という意味である。
この言葉によって、軍部や政府の戦争責任は、ひとまず国民全体に転嫁された。もちろん天皇の戦争責任など論外である。天皇は戦争の犠牲者であり、最後は耐え難きをしのんで、国民のために「英断」を下されてのだった。
しかし進駐軍がやってきて東京裁判が始まると、この言葉は力を失った。旧軍人や政府の実態が次々と明らかになったからである。戦争に負けたのは、彼等が無能だったからだ。そもそも彼等が国民に軍国主義を強要したのであり、国民は戦争の犠牲者ではないのか。
こうして戦争責任は東条英機を中心とする一部の「軍国主義者」たちに押しつけられた。こうして国民は自らを「無能力だった」という理由で戦争当事者の外に置いてしまった。そしておどろくべきことだが、天皇さえも自分たちの仲間に入れてしまったのである。
天皇はもともと平和愛好家で戦争には反対だったが、軍部の圧力のもとでロボットにされていたというのである。この論理は、多くの国民が自分の戦争責任を逃れるために使った理屈とおなじものだった。折しも天皇の巡幸がはじまり、人間宣言があって、もはや天皇は雲の上の現人神ではなくなった。こうして国民と天皇に戦争の犠牲者という連帯感が演出され、新しい憲法の中で、天皇は国民の統合の象徴として生き残った。
以上が、敗戦から今日に至る、この国のおおよその流れである。天皇にとっても、多くの国民にとっても、これ以上の理想的なシナリオは考えられない。貧乏くじを引いたのは、誰だろう。それは戦死した数百万の国民であり、戦争指導者として処刑された一握りの政治家と軍人だろう。
このことを国民はうすうす感じている。だから私たちは彼等を靖国神社に祭って、軍神とあがめ、手厚く供養しているのだ。さて、ここまで書いてきて、やっと思い出した。一番貧乏くじを引いた、何千万という他国の戦争犠牲者のことをである。
(参考文献) 「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー著 岩波書店)
<今日の一句> 虫の声 絶えてしづかな 月の夜 裕
2002年11月15日(金) |
君死にたまふことなかれ |
与謝野晶子の有名な反戦詩『君死にたまふことなかれ』は、1904(明治37)年、日露開戦の年の『明星』九月号に発表された。「旅順の攻囲軍にある弟宋七を嘆きて」というサブタイトルがついていて、新婚ほやほやの若妻を残して応召した老舗の跡取り息子の弟の身を案じ、どうか無事に帰ってきてほしいという願いがこめられている。
あゝおとうとよ、君を泣く、 君死にたまうことなかれ、 末に生れし君なれば 親のなさけはまさりしも、 親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしえしや、 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや。
すめらみことは、戦ひに おほみづからいでまさね、 互に人の血を流し、 獣の道に死ねよとは、 死ぬるを人の誉れとは、 おほみこころの深ければ もとより如何で思されん
晶子のこの詩に文芸批評家大町桂月は、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」とかみついた。これに対して晶子は、『明星』十一月号に「ひらきぶみ」を発表した。現代文に直したものの一部を紹介しよう。
「私の『君死にたまふことなかれ』という歌は戦地にいる弟への手紙のはしに書き付けてやったものです。それがどうしていけないのですか。あれは『歌』なのです」
「この国に生まれた私は誰にも劣らない愛国心をもっております」 「堺の私の実家の父ほど『天子様を思い』御上の御用に自分を忘れて尽くした商売人はありません」
「私は『平民新聞』の議論など、ひとこと聞いただけで身震いがする者です」
「女は元来戦争が嫌いなのです。だが、戦争をするのは国のためにやむを得ないのだと聞かされると、では戦争に勝って欲しい、勝って早く戦争を終わらせて欲しいと願う者なのです」
「大町桂月氏は私の詩にたいそう危険な思想があると仰せになりますが、当節のようにむやみと死ね死ねと言ったり、なにか論じる際にやたらと忠君愛国の文字を使ったり、畏れおおい教育勅語の言葉を引用したりする方が、むしろ危険なのではないでしょうか。私の好きな王朝文学にはかように死を賛美する言葉は見当たりません」
「いま新橋や渋谷などの駅へ行くと、出征軍人の見送りにきた親兄弟、親類、友達などがみんな兵士に向かって『無事で帰れ、気をつけよ』と言い、万歳を叫んでいます。つまり、みなさんは私の歌と同じように『君死にたまふことなかれ』とおっしゃっているのではないでしょうか。見送りの人々の声がまことの声なら、私の歌もまことの声から発したものなのです」
愛国的な評論家から批判されたことで、かえってこの詩の評価は高くなり、多くの人々の共感と拍手喝采を得た。そして晶子自身も、多くの庶民の声を代弁して、反戦平和のヒューマニストとしての道をまっすぐに歩んでいく。
1917年(大正6年)に発表した評論『私達の愛国心』では、「国家主義の上に築かれた国家は個人と衝突するとともに他の国家と衝突する。則ち戦争の予想される不安定な国家である。低級な国家である」と国家主義を否定している。
さらに、学校の軍事教練をやめよと主張し、シベリヤ出兵に際しては『何故の出兵か』を書いて反対し、海軍軍備制限をめざすワシントン会議を支持し、軍事力縮小に反対する「軍人者流の浅薄な議論」を批判している。この頃は、大正デモクラシーの隆盛した時代で、晶子ならずともこうした議論はさかんであった。民衆の気分も大方こうしたもので、その先頭に立って、晶子は「平和主義」「反国家主義」「反軍国主義」の旗を勇ましく、情熱的に振っていた。
ところが、1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、やがて満州国という日本の傀儡国家が樹立されると、日本の国論は一変して、軍国主義賛美に傾き始める。そして、これと軌をを一にするように、晶子も侵略戦争を手放しで賛美し始める。
「私は以前から、支那の国民と其の支配者たる各種の軍閥政府とを別々のものとして考えている」(昭和6年『東四省の問題』)
「満州国が独立したと云う画期的な現象は、茲にいよいよ支那分割の端が開かれたものと私は直感する」(昭和7年『支那の近き将来』)
「陸海軍は果たして国民の期待に違わず、上海付近の支那軍を予想以上に早く掃討して、内外人を安心させるに至った」(昭和7年『日支国民の親和』)
「私の常に感謝している事が幾つかある。中にも第一に忝なく思う事は、日本に生まれて皇室の統制の下に生活していることの幸福である。・・・日本は同じ法治国と云っても、権利義務の思想のみを基本とする国でなく、先史時代より皇室を中軸として其れに帰向する国民の超批判的感情に由って結合された国である」(昭和7年『日本国民たることの幸ひ』)
同じ年に晶子の夫の鉄幹も、軍歌『爆弾三勇士』や『皇軍凱旋歌』といった軍歌を作って、国民の戦意昂揚のためにつくした。
忠魂清き香を伝え 長く天下を励ましむ 壮烈無比の三勇士 光る名誉の三勇士
日中戦争の従軍体験を持つ、”浪速の反戦詩人”井上俊夫氏は「君まちがうことなかれ」の中で次のように書いている。
<つまり晶子は『君死にたまふことなかれ』を書いた頃より一貫して皇室尊崇者としての立場を守り、皇国史観に基づく歴史観、世界観、戦争観、軍隊観を持ち続けてきたのである。ヒューマニズムに基づく反戦平和論を唱えていた一時期でも、晶子が抱くこうした基本的なイデオロギーは変わらなかったものと思われる。これでは晶子が、日本の中国に対する侵略戦争の実体を見抜けず、それを支持したのも当然と言わねばなるまい>
たしかにその通りだと思うが、満州事変を境に豹変したのは、大方の文化人や大新聞の論調も同じだった。与謝野晶子のように平和を愛好していた筋金入りのヒューマニストたちまでがこぞって転向したのである。その背後には、平和主義から軍国主義へと傾斜する世論の変化があった。状況によっては私たちも又、いつ軍国主義者、国家主義者に豹変するかも知れない。その恐れが充分あることを、今から肝に銘じておくべきだろう。
(参考サイト) http://www.vega.or.jp/~toshio/kimi.htm
<今日の一句> 通勤の 紅葉並木の ありがたさ 裕
通勤で木曽川の堤を走る。木立の紅葉が見事である。この道を通勤で走るようになって5年目になる。春には桜が満開になり、秋は見事な紅葉の並木である。あと何年、この道を通勤することになるのだろう。
2002年11月14日(木) |
人生の折々の読書の楽しみ |
森鴎外、夏目漱石といえば、日本を代表する知識人であり、作家であり、文豪である。私たちの世代は学校の教科書で必ず彼等の作品に触れていて、なんとなく畏れ多いというイメージが一般的ではないだろうか。実際に個人的に作品を読んでみると、これがまたすごい。圧倒されるのである。
しかし、よく考えてみると、私がこうした文豪の作品を読み、感動し、圧倒されたのは、おおかた高校時代や大学生の頃だった。つまり、まだ人生経験も未熟で、知識や教養も浅く、当然自分自身の意見や思想も固まっていない青年時代である。自分の父親のような人の作品を読んで、その作品や人物の大きさに圧倒されるのはいたしかたがないことだ。
そして、私たちはこのイメージをおおかたは棺桶に入るまで持ち続ける。というのも、こうした作品を再読することはもう滅多にないからだ。高校時代に読んだ「高瀬舟」「山椒太夫」などの作品、大学時代に読んだ「舞姫」「青年」など、その細部は忘れても、すばらしい作品だという印象だけは残っている。
そこで私が薦めたいのは、人生の折々に彼等の作品を再読してみることである。お薦めは作家がその作品を書いた年齢の時の再読である。さらに、それから何年か経って、文豪よりもいくらか人生の歳月を経た後で、もう一度読み返してみることだ。
若いとき圧倒されるようにして読んだ名作が、同じ年で読んでみると、また違ってくる。鴎外君、君も苦労したんだね。漱石君、君もそうか、という感じで、いくらか親しみが持てるのである。そして更に年齢が加わると、鴎外君、それはちょっとちがうのではないか、という気分になってくる。こうした楽しい発見があるので、歳をとってからの読書の味も、いよいよ捨てがたい。
<今日の一句> 妻のむく 柿はうまし 番茶飲む 裕
小学生の頃、若狭の田舎で2年ほど暮らした。秋になると民家のあちこちに柿がやザクロなった。それをとって食べたものだ。ときには食べ過ぎて、腹を痛めることもあった。 柿に限らず、棗や無花果などいろいろな季節の果物が熟すたびに、どこそこのが旨そうだと食べに行った。家の人にいちいち断ったりしなかったが、顔見知りでない家のものは食べなかったし、畑のものには手をださなかった。私たちにもそれなりの節度があった。
2002年11月13日(水) |
見えない徴税システム |
景気低迷に伴い、当初見込んでいた46兆8160億円の税収が、2兆円ほど足らなくなくなりそうだという。そこで政府は今年度の補正予算案で、「国債発行30兆円枠」突破を容認する方針を固めた。与党内にはもっと国債を発行して、大型の補正予算案をくむべしという声もあるようだ。しかし税収不足を国債発行で補うのはどうだろうか。
財務省の「所得税の国際比較」によると、日本の一人当たりの所得税は、欧米諸国と比べるてきわめて低いらしい。親子4人で年収7百万円の家庭の所得税、住民税は、日本の11.5万円に対し、アメリカは78.8万円、イギリスは150.7万円、ドイツは101.4万円、フランスが17.6万円ということになる。
このことは必ずしも、私たちの負担が軽いことを意味しない。日本の場合、たとえば医療や年金、教育費ひとつとっても、個人負担はかなり重い。本来なら公共の社会サービスとして享受すべきものが、個人負担になっている。いまだに40人学級を放置する貧弱な文教政策などもこのたぐいだ。
しかし、今はこの問題は置いておこう。もっと大きな問題が、「低率の所得税」の裏側に隠されているからだ。それは、慢性的な税収不足であり、それを埋めるための「公債の野放図な発行」である。
平成14年度の一般会計歳出約81兆円に対して、税収などの歳入が当初見込みの約51兆円に足りない。30兆円を超える不足が国債で賄われることになる。そうすると、平成14年度末の日本の長期債務の残高は、国債と地方債を合わせて693兆円に達すると予測される。
この公債を買うお金はどこから調達するのだろう。それはほとんど国内の金融機関である。都市銀行、地方銀行、信託銀行、生命保険、損害保険、農林中央金庫など、日本の金融機関のほぼ全部、合計2千社近くの機関投資家がこれにかかわっている。こうした国債の引き受けは義務であり、その比率もあらかじめ決められているらしい。
それでは、こうした機関投資家のお金はどこから来るのだろう。いうまでもなく、それは国民の預金や年金の積立金である。つまり、私たちが預けている郵便貯金や毎月支払っている保険の掛け金、給料から天引きされている年金の掛け金、銀行預金が公債の購入資金に化けている。
そうするとどういう結論になるのか。預金や年金の掛け金もまた、「見えない税金」の一種だということだ。こうした税金を私たちは無自覚のまま毎年30兆円もはらい、その合計が700兆円近くになってしまった。
こういう隠れた徴税システムには二つの大きな問題点がある。ひとつは、税金を払っているという痛みがないので、その使い方に鷹揚になるということだ。無駄なダムや道路を造り、天下りの公社の役人に何千万という給料を払っていても何とも思わない。結局「公債」だということで、痛みが薄くなる。これが血税で賄われていたら、厳しい批判にさらされていただろう。納税者に痛みがないので、雪だるま式に国の借金が増えていく。
第二の問題点は、もつと深刻で恐ろしい。国民がこの欺瞞的な仕組みに気付いたらどういうことになるだろう。グローバル化が進むと、私たちは預金や年金を海外の利益率の高い機関投資家に任せることも選択の一つになる。そのとき、何が起こるか火を見るよりも明らかだ。国債の大暴落であり、国の破産だ。
海外の投資家はこのことを指摘するが、この国の政治家も官僚も相手にしない。われわれ国民がそこまで利口でないと思っているか、それともどんな個人的な不利益にも耐えしのぶ超人的な愛国心を持っていると思っているのだろう。しかし、これがまったく期待できないことは、もはやあきらかである。
そこで私の提言である。税金を必要なだけ上げなさい。そして国民に痛みをわからせなさい。そうすれば、本当に必要とするものにのみお金が使われるだろう。その結果一番困るのは政治家や天下り官僚たちだろうが、もはや彼等に甘い汁を吸わしておくだけの余裕はないのである。
<今日の一句> わが畑の 作物多し 鍋の中 裕
妻が農地を借りて、近所の主婦と一緒に家庭菜園を行っている。先日、大根を3本ほどとられたそうだ。隣の畑ではキャベツが被害にあった。畑泥棒には困ったものだ。
今年の夏は暑かった。しかも10月に入っても、残暑が続いた。それからいきなり寒くなった。夏からいきなり冬が来たような感じである。11月に入って真冬のような寒さである。一昨日、NHKのテレビで福井で初雪が降ったと報じていた。観測史上一番早い初雪だそうである。
毎年、今頃の季節になると、渡っていく雁の姿をよく見かけた。朝、通勤途中に、木曽川の堤に車を止めて、オカリナを吹いていると、編隊を組んで流れていく雁の姿が、次々と眺められたものだ。ところが今年はあまりこの光景を目にしなかった。これも異常な気象の影響だろうか。少し心配になって、検索で「雁」のことを調べてみた。そしていろいろと物知りになった。
雁の飛行形態は、「雁行」と呼ばれるが、これは空気抵抗を少なくするためで、航空力学の法則に適った形だそうだ。しかも先頭を飛ぶ鳥は常に交代して、お互いに負担を軽くしている。最後尾を飛ぶ鳥が、先頭に踊り出て、それを何度も繰り返しているらしい。
「雁渡る」は、俳句の秋の季語で、陰暦8月を「雁来月」、陰暦9月に吹く風を「雁渡し」などと呼んだ。つまり、冬鳥である雁は、10月頃寒地から来て、春にまた北方に帰る。古くから詩歌に多く詠まれ、「雁の別れ」「名残の雁」などの季語を生んだ。他にも「雁風呂」などという風流な言葉がある。
雁風呂や海あるる日はたかぬなり 高浜虚子
雁はシベリアから、日本海を越えて飛来する。そのため、嘴に木片などをくわえ、途中翼を休めるために、それを海面に置いてその上に留るという。そして、日本北部に飛来した雁は、不要となった木片を浜辺に捨て、そこからそれぞれ別れて、本州沿いに南に渡っていく。
やがて春が来くると、雁たちは故郷へ帰るべくもとの飛来地へ帰ってくる。そして飛来時に自分が嘴にくわえてきた浮木を探し出し、またそれをくわえて、シベリアへ飛び立つ。
しかし、すべての雁が飛来地に帰ってくるわけではなかった。多くの雁が、猟師に撃たれ、天敵に襲われ、あるいは病に倒れて、故郷へ帰還できずに命を落とす。そうすると、仲間の雁がふたたびシベリヤに去った後、そこに命を落とした雁の数だけ浮木が残されることになる。
飛来地の一つ、青森県の外が浜にも、そうした死んだ雁の浮木が多く形見として残された。外が浜の人たちは、そうした哀れな雁の冥福を祈るために、浜辺で浮木を集め、これを薪として風呂を焚いたのだという。
やがて、この伝承は全国に伝えられ、その哀れな物語は人々の心に染みわたり、「雁風呂」はいつか俳句の季語として江戸時代以降、広く知られるようになったらしい。
<今日の一句> 雁風呂の いわれを知りぬ 秋の夜 裕
25.湯上がりのビール 湯から上がり、時間をかけて体を拭いた。パジャマを着て、私はひと心地ついてから玄関のドアを開けた。ところがS子の姿がなかった。しびれを切らせて、どこかへ散歩にでもでかけたのだろうか。
思い直して帰ってくれたのならありがたかったが、そんなことは考えれれなかった。私は玄関先のベランダの手すりにもたれて、S子が現れるのを待った。月夜の晩で、なま暖かい風が吹いていた。湯上がりの肌が、さらに汗ばんできそうだった。
5分ほどして、階段を上ってくるS子の足音が聞こえてきた。S子は私に気付くと立ち止まり、すこし間をおいてから近づいてきた。片手に蒼白く光るものが見えたので、私はどきりとした。 「はい、これ、飲んで」 差し出しされたものを見ると、缶ビールだった。それを受け取って、S子と一緒に中に入った。
グラスを二つ用意して、ビールを注いだ。泡が立って、見る間にグラスの外に流れ出した。S子がハンドバッグからティッシュを取り出して、それをふき取った。ビールを飲むと、ほろ苦いものが冷たくしみてきた。S子は一口飲んだ後、残りを私のグラスに注いだ。私はため息をついて、
「今日は疲れたから、何もする気力がないんだ」 「だったら、寝なさい。私はしばらくここにいてから、帰ります」 「そんなくらいなら、来なければいいのに」 わずかなビールで、もういくらか酔っていた。私は片手にグラスを持ち、頬杖をついて、上目遣いにS子を見た。S子も頬杖をつきながら、
「今日はあなたとお別れするつもりで、会いに来たのよ。でも、レストランで冷たかったでしょう。気持が意固地になってきたの。それでも、本当にこれきりだと思って、駅まで歩いたのよ」 「それがどうして……」 「改札口で別れ際に振り返ったとき、あなたほんとうに嬉しそうだったわ。何だか厄介なお荷物がなくなったみたいに、晴れ晴れとした表情だったわね。電車に揺られながら、思い出したの。そしたら、腹が立ってきたの」 「まだ、怒っているの」 「そうでもないわ」
目の前のS子はいつになくおだやかだった。おだやかと言えば、私の怒りもおさまっていた。S子が別れるつもりで会いに来たと知って、私はS子にかすかな愛着さえ覚えていた。私はそっと片手を伸ばして、S子の前髪に触れた。S子の瞳はすでに濡れていたが、そこから頬に幾筋もの雫がこぼれた。
<今日の一句> 布団干す 女の近く 柿紅葉 裕
人生はなるべく軽く、さわやかに生きていきたいものだ。富や地位などには執着せず、行雲流水のような心境で生きて行けたら最高だろう。しかし人間はそういつも聖人君子ではいられない。
地位も欲しいし、お金も欲しい。権力にもあこがれる。髪の毛が薄くなれば、これでもう背広は似合わないかも知れないと悲観するし、きれいな女性をみれば腕をとってデートをして、その唇からキスを盗んでみたいものだとなどと考える。
私も妻とはしょっちゅう喧嘩をするし、時には何日も口を利かないことさえある。馬鹿な意地を張ってどうすると思いながら、自分ではどうすることもできない。歳とともに枯れて、人間ができてくるかと期待したが、どうもそうでもないらしい。むしろ短気になって、何でもないことに怒りがおさまらないことがある。
しかし、歳をとってよかったなと思うこともある。それはそうしたさまざまな自分の欠点を、いくらか諦観とともに受け入れることができるようになったことだ。親鸞のいう「煩悩具足」ということが胸に響くようになった。そしてこのように欠点の多い、どうしようもない自分でさえ愛おしくなってきた。
そうすると、どうしたことだろう。他人も又、しみじみと愛おしくなるのである。他人の欠点が、そのまま自分の欠点にかさなり、ああ、人も我も同じだなという気持になる。そして、みんなそれぞれに辛い自分を抱え、健気に、この人生を生きていく同類なのだという憐れみと同情がわいてくる。
おちついて死ねそうな草萠ゆる 食べることの真実みんな食べている 酔うてこほろぎと寝ていたよ いつのまにやら月は落ちてる闇がしみじみ 笠へ落ち葉の秋が来た そうしたなかで、私は山頭火の句も次第に好きになってきた。彼の日記や俳句には彼の人間がよくあらわれている。酒に溺れ、女色に溺れ、汚辱と絶望のあげく自殺を考え、実際に睡眠薬を飲む。電車を止め、留置所に放り込まれたこともある。ほんとうにどうしようもない人間だ。
しかし、醜く無様な山頭火は実は自分自身のなかにも棲んでいる。そのような彼を受け入れることで、私は自分を受け入れ、自分自身を愛している。そして、それはまた、他者を愛することにもつながる。人を愛するということは、そのように奥の深い、涙ぐましいことなのだ。それはこの地上にあって、唯一崇高なことのように思われる。
<今日の一句> 寒空に 人のこころの あたたかさ 裕
広島県の専門学校に勤めるAさん(58)は、99年3月29日の午後、同僚職員と一緒に過去3年間の帳簿の改竄を命じられた。通産省は「教員1人あたりの生徒はおおむね10人を超えない」という通達を出していた。立入検査でこれに違反しているのがバレそうになったからだ。
教員不足を隠すために、架空の勤務実績をでっちあげた。Aさん自身も別の系列校に勤務していたように書類の書き換えをした。こうした偽造の作業は5日間に及び、4月2日に終了した。
その間、Aさんは眠れぬ夜が続いた。最終日、このことを妻に打ち明けると、「一度うまくいくと同じことを何度もするよ」と言われた。Aさんは60歳近くになって、こうした悪事に手を染めなければならないことが苦しかった。そこで、告発文を徹夜で書き上げ、実名入り、内容証明付きで通産省に送った。
「通商産業大臣様、私はある人からさとされ、真実を告発するようにすすめられました・・・・」
大臣なら自分の気持ち分かってくれると思った。しかし、通産省からは何の連絡もなかった。不安が高まった。そして、7月、Aさんは学校から解雇を言い渡された。解雇理由は「学校の名誉、信用を著しく傷つけた」ということだった。Aさんは驚いた。
告発したことが学校側にどうして分かったのか不思議だった。通産省が漏らさなければ、分かるはずがない。そこでAさんは解雇無効の確認を求め、広島地裁に提訴した。そして裁判の中で、通産省が4月19日、実名入りの告発文を学校側に見せていたことがあきらかになった。
「解雇無効」という裁判所も判決は今年の6月に確定し、Aさんは3年ぶりに職場に復帰した。Aさんはさっそく通産省と学校側に謝罪を求めた。しかし、中国経済産業局は実名入りの告発文を見せたことに対し、「やむをえない措置だった。法的、道義的にも責任はない」という立場を崩さず、学校側も、「法的義務はきちんとはたしている。謝罪をするだ予定はない」という回答だという。
実名入りの告発文を、本人の了解もなく、そのまま提示するという役人の神経がわからない。告発者がどんな不利益をこうむることになるのか、まるで想像力が働かなかったのだろうか。これでは役所と学校との癒着を疑われても仕方がない。Aさんはあくまで経済産業省に謝罪を求めるつもりだという。
(参考) 11月8日付朝日新聞朝刊
<今日の一句> 時雨ふる 紅葉の空は やさしくて 裕
漱石は皇室についてどう考えていたのか。小説「坊ちゃん」には明治天皇の「ご真影」と宿直の話が出てくる。また「こころ」には乃木大将の殉死の話しが出てくるが、博士号返還問題などで物議を醸した個人主義者漱石が、皇室をそれほど尊敬していたとは思えない。「漱石ゴシップ」(長尾剛 文春文庫)に漱石の日記が紹介されているので、引用しよう。
「皇后陛下と皇太子殿下が席でタバコを吸っていた。しかし俺達の席は禁煙だ。これは不公平できにくわん。きせるにタバコを詰めるのを従者にやらせるのも気くわん。そんなことがどれほどの手間だというのだ。自分でやれ」(明治45年6月10日、能の観劇会の印象)
「川開きが中止になれば、それを商売としている者たちはたちまち困るんだ。何も川開きをやったからといって、そのために天子の症状が悪化するわけでなし、やらせればいいじゃないか」(明治45年7月20日。天皇重体で)
さすがに戦前の岩波全集ではこの部分は削除されていたそうだが、予想通りかなり手激しい。もっとも漱石は天皇制そのものに反対ではなく、「天子の病気は万民の同情に値する。しかし、いたずらに天子の症状を大騒ぎするのはかえって天子の徳を傷つけるのだ」とも書いているそうだ。
<今日の一句> ストーブに 身を寄せて聴く 風の音 裕
「大東亜共栄圏の思想」(栄沢幸二著、講談社現代新書)によると、「非常時」という言葉がしきりに使われるようになったのは、1932年(昭和7年)の5.15事件直後からだそうだ。こうした物騒な世情についての批評が、この頃の雑誌や新聞に掲載されている。
<国民の信頼と議会の支持とを前提とする「独裁政治」(非常の権力)は「国難に処すべき最も適当な方策」(非常の手段)である。われわれは政党政治の弊害をあまりにも多く見せつけられており、国民の信用は地に墜ちているといっても過言ではない。だがしかし、「独裁政治」のような「危道」を選ばず、たとえ急激な大改革を断行するには不敵であっても、「立憲政治の常道」を踏んで、「困難打開の途」に向かうことを希望する>(美濃部達吉、1933年「中央公論」)
<率直にいへばこれ等の非常時メーカーはある意味で軍部であり、非常時グローアーは朝野の当局者たちである。そしてメーカーとしての軍部はあらゆる社会事相の緊迫を機会に国民大衆を覚醒せしめんとして笛を吹き、グローアーたる朝野の当局者たちは笛の音に身振り手拍子を合わせて熱心に踊り抜いているのである。笛吹く人、踊り抜く人、色とりどりの熱と力を発揮しているこれらの人々の全貌は一口では覗き尽くせない>(1934年1月7日「毎日新聞」)
「非常時」が流行語になるにつれて、「非常時には非常手段もやむを得ない」という風潮が広がっていった。どんな強硬手段も、「非常時なのだから」ということで容認され、また、これを口実にして、軍部独裁や国粋的イデオロギーが勢力を拡大していく。
こうしたなかで、大正時代に隆盛した民主主義や自由主義の思潮は適性思想だとして駆逐されていた。徳富蘇峰が会長を勤める大日本言論報告会が「聖戦」遂行のための思想を鼓舞し、こうして「非常時」を合い言葉に思想統制がゆきわたっていく。ところが同会の常務理事の野村重臣は1943年に、今ほど言論の自由が保障されている時代はないと述べている。
<われわれの言論はあらゆる方面におきまして自由主義者が圧迫しておったのであります。それからみますと、今日はまことに言論の自由なる時代でことを私共はむしろ感謝してをるような次第であります。いままでは西洋人の言ったことしか言えなかったのであります。即ち、ヨーロッパ的なものの考え方に反するようなことをいへば、大学においても、ジャーナリズムにおいても、或いは出版界においても、さういふ言論が一切封鎖された。・・・今日ほど自由に言論の活躍し得る時代はないと私は確信してをります>
大正デモクラシーの時代にあって、たしかに右翼的国粋主義の思想家は世間では肩身の狭い思いをしていた。それが昭和に入って、世界大恐慌や戦争という未曾有の「非常時」をてこに、みるまに息を吹き返したのである。このなりゆきは、どこか今日の状況に似ているようではないか。
<今日の一句> 白鳥も 羽を休める 足羽川 裕
先の15年戦争について、これは西洋列強からアジアを解放するための聖戦だったという人がいる。しかし、これは幻想であって、実態は侵略戦争以外の何者でもなかった。次のようなたとえ話にすれば、分かりやすいのではないかと思う。
<いま、わが家の隣りに、Cというかなりの大きな財産家の家があり、しかも警備が手薄で内部がごたごたしている。そこで、いまがチャンスと、一族郎党をつれて強盗にでかけた。ところが、思った以上に手強く反抗してくる。どうやら、蔭でA家が加勢しているらしい。そこで、A家にもなぐり込みをかけた。そうしたら、A家が本気になって怒って、わが家に攻めてきた。そしてとうとうA家の強者たちに、わが家を占領されてしまった>
先の戦争のさなか、こうしたリアルな認識を持っていた人はほとんどいなかっただろう。戦争中、ほとんどの人はリアリストであるより、愛国的な空想家であり、自己陶酔的な幻想家でしかなかった。参戦した学徒の手記など見ても、大方はそうである。
しかし、中には、冷静な目で戦争を見ていた人もいた。45年4月、24歳で戦死した出陣学徒の宅嶋徳光さんが残した手記「くちなしの花」からの一部を紹介しよう。
「私は私自身を考える前に国家を考えることはできない。それほど純情家でも愛国者でもないからだ。」
「日本ほど安価な感傷主義者の多い国はないだろう。それはまた、為政者にとって好都合でもあるが、愛国故に自己を犠牲にしても惜しまぬという愚衆の考え方は、一種の自己陶酔のマニアとしか思われない」
「私は生れる時代を誤った。私のもつすべての主義、傾向は今全く排除されんとしている」
「俺はどのような社会も、人意を以て動かすことのできる、流動体として考えてきた。しかし、そうではなさそうである。ことにこの国では、社会の変化は、むしろ、宿命観によって支配されている、不自由な制約の下にあるらしい。俺も----平凡な大衆の一人たる俺も、当然その制約下に従わなければならない」
こういう醒めた知性を持ちながら、戦士として生き、死んでいかねばならないのは、ほんとうに悔しいことだったに違いない。自分を「強盗団の一味」であると、そういう風に自分を客観視する目を、この青年ならあと少しで持てたかもしれない。
<今日の一句> 御岳も 真白くなりぬ 冬近し 裕
2002年11月05日(火) |
マスメディアと知識人 |
奈良にこの10月、国会図書館がオープンしたという。eichanのご自宅から10分だそうだ。図書館の近くに住みたいというのが私の夢だった。国会図書館の近くに住めたら、すばらしいだろうな。
東京の永田町にある国会図書館には出張で何度か足を運んだ。名目は「和算の研究」だったが、昔のマスメディアを読むのも楽しみだった。私の生まれた日の新聞を読んだり、戦時中の雑誌や新聞に目を通したりした。
新聞は世相を写す鏡である。新聞を読むと当時の世相が手に取るようにわかる。人々が何を望み、何を楽しみと考えていたか、政府や知識人、文化人と言われている人々の当時の生き様も手に取るようにわかる。そういう意味で、新聞は歴史の生き証人であり、歴史を学ぶための第一級の資料である。
この夏、国会図書館を訪れ、戦時中の新聞を研究する予定だった。しかし、東京は日帰りするには遠い。忙しさにかまけて、とうとうこの計画を実現することができなかった。こんど奈良にオープンしたので、近いうちに訪れてみたいと思っている。
新聞や雑誌は世相を写す貴重な資料だが、このことは現在の新聞や雑誌、テレビ・ラジオにも言えることだ。しかし、私はこうしたマスメディアをあまり信用していない。それもこれも、戦時中や戦後の新聞雑誌を読んで、その定見のなさや、ご都合主義に失望しているからだ。
マスメディアはおおかた商業主義で動いている。戦前で言えば、国民の間に反軍部の心情が根強かった間は軍部批判を展開する、しかし、南京が落ちて、国民が軍部を支持すると、一夜のうちに方針を変える。そして終戦になり、占領軍がやってくると、翌日から軍国主義はけしからん、民主主義が大切だと主張する。これは知識人も同じである。
私が経験した大学紛争のときもそうだった。学内ではカッコよく政府批判をし、左翼的言辞を弄していても、卒業して世間へ出るとすぐに転向して、体制べったりの会社人間になっている。要するに、自己保身のための大勢順応であり、カメレオン的ご都合主義で動いているだけだ。
歴史は繰り返すという。「賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ」という箴言があるが、痛い目にあわなければ何も分からないというのでは情けない。しかし、私自身を含めて、世の中の人間はほとんどこの愚者なのではないだろうか。
戦争反対だ、民主主義だと言っていても、現実に世相が戦争へと傾き、保守主義や右翼がのさばり、身の危険を感じたら、おそらく多くの人は沈黙するのではないだろうか。そしてやがては、ウヨクのお先棒を担ぎだすかも知れない。人間とはそのように弱いものだろう。
このことを肝に銘じる必要がある。そうすれば、私たちは他人や自分を過信することがなくなる。マスコミや知識人を過信し、現代は戦前とは違うなどと暢気なことは言わなくなる。そのような恐ろしい流れになる前に、もうすこし安全な世の中を創らなければという気になる。
<今日の一句> 校庭の くすの木はよし 寒き日も 裕
24.逃げる男
S子が改札口の向こうに消えていくのを眺めて、私はほっとした。両手に抱えていた重い荷物から、とにかくいったんは自由になった解放感だった。私は軽い足取りでアパートへ帰ってきた。
さっそく風呂を沸かした。狭い浴槽なので、自由に手足を伸ばすことはできなかったが、一人で心ゆくまで湯に浸かっている気分は最高だった。しかも明日の日曜日は久しぶりに何も予定が入っていなかった。
「あぶなかったな」 私は湯の中で顔を洗いながら、つぶやいた。一人暮らしをするようになって、自分でも驚くような大きな声で独り言を言う癖がついた。その癖が人前でも出るので、矯正しようと思っていたが、なかなか治らない。 「とにかく、よかった。今日のところは、上出来だ」 気がゆるんだせいか、独り言が多かった。
ぬるめのお湯に長いこと浸かっていた。S子と一緒にいて強いられた緊張が、快くほどけていくのがわかった。湯の外に脇を出し、片手を浴槽の横に垂らして、リラックスした姿勢で鼻歌をくちずさんんでいると、眠気が忍び寄ってきて、うつらうつらしていた。
チャイムの音で目が覚めた。一回だけでなく、何回かしていたようだ。気付いてからも、立て続けに鳴っていた。そうしたヒステリックな鳴らし方をするのはS子しか考えられない。私は湯舟に立って、小窓を開けた。
「どなたですか」 「私です」 S子が窓の方に寄ってきた。外灯の明かりの中に、S子の顔が蒼白く浮かんでいた。 「待ってくれないか。入浴中なんだ」 「わかったわ」
私は洗い場で急いで頭や体を洗った。シャンプーが目にしみて痛かった。先ほどまでの長閑な気分は吹き飛んでいた。それにしても、何だってS子は引き返して来たのだろう。これでまた、貴重な週末が潰れるのかと思うと、泣きたい気分だった。
<今日の一句> 秋寒に コスモスの花 乱れ咲く 裕
昨日の日記に国体開催県がいつも総合優勝(天皇杯)を獲得するのが不思議であると書いた。北さんによると、これは巧妙な天皇制護持システムの一環らしい。そこで、もう少し、その歴史を調べてみよう。
1回国民体育大会が開催されたのは、終戦の翌年の1946年である。開催地は非戦災地の京阪神地区だった。集団行進や国旗の掲揚、国歌の演奏はなかったという。当然のことだろう。もちろん天皇や皇族が式典に参加することもなかった。
ところが翌1947年の第2回石川大会の秋季大会開会式には天皇が出席した。禁制の国旗掲揚も申請の許可を待たずに決行された。そして、これを皮切りに、11月3日(明治節)には宮内府屋上に日の丸が復活・掲揚された。 「あの金沢グランドの開会式のさい天皇陛下御臨席のもと戦後はじめて、大日章旗と国体の聖炎旗とが晴れ渡った秋空にはためくのを見て、君が代の合唱が六万大衆の口から期せずして起こるのを聞いたとき思わずほおをつたう熱涙をとどめ得なかった」(浅井愛知体育協会会長『中部日本新聞』1950年10月23日)
1948年、第3回福岡大会からは、それまでの個人参加方式が改められ、都道府県対抗方式となった。高松宮が開会式に出席し「おことば」を述べられた。占領軍が「日の丸・君が代」を公式許可した。そして、この大会から、天皇杯・皇后杯が下賜された。
天皇・皇后がそろって開会式に臨み、天皇が「お言葉」を述べるようになったのは、1950年第5回愛知大会からである。主催団体に文部省が加わり、感激した天野貞祐文部大臣は、「われら、兄弟姉妹よ、国歌を高らかにうたい、国旗を掲げる。なんたる感激ぞや」と演説した。(『国体の歩み』)。
日本の7不思議の最たるものは、私は「天皇制」だと思っている。なぜ「天皇は戦犯にならないのか」「A級戦犯で戦争犯罪人の軍人達がなぜ、靖国神社に祭られ、英霊とよばれているのか」などなど、「天皇制」にまつわる不思議は数限りなくあるが、国体の不思議もたしかにその一つだと言えそうだ。
(参考サイト) http://www.spicenet.org/siryou5.htm
<今日の一句> すめらぎの 不思議の国の 秋たけぬ 裕
全国から1万5000人以上の選手・役員が参加した第57回国民体育大会(よさこい国体)秋季大会が10月31日に閉幕した。総合優勝(天皇杯)は東京、二位は埼玉、三位は愛知だという。
国体ではこれまで必ず開催県が総合優勝を飾ることになっていた。ところが、今年は異変が起こった。開催県・高知は総合優勝(天皇杯)できなかった。何と39年ぶりのことだという。
橋本大二郎知事は記者会見で「総合10位だったが、選手が力を出し切った素晴らしい結果だ。秋だけ見れば4位と画期的な成績。多くの県民から、身の丈に合ったよい大会だったという評価を頂いたと思う」と総括した。
私はかねて、国体で必ず開催県が優勝するのを、「日本7不思議」の一つに数えていた。なぜこんな不自然なことが起こるのか。それは開催県がお金をかけて県外の有力選手をあつめるからである。そんな汚いことをしてまで総合優勝をしなければならなかった。
今回、この不文律が破られた背景には、不況による税収不足のなかで、もはやこうした虚栄にこだわってはいられないという事情があったのだろう。面子よりも県民の生活のためにお金を使うことをよしとした高知県の判断を大いにたたえたいと思う。
毎日新聞の11月1日の余録には、国体の各県持ち回りについて、もはやそうした時代ではないと書かれてある。私はさらにもう一歩踏み込んで、国体そのものの必要性を問いたいと思う。スポーツ振興といえば国体などのお祭り騒ぎしか浮かばない貧しい発想を変えていくべきだろう。お金はもっと有効に使えるはずだ。
さて、「日本7不思議」の残る6つについてだが、それはおいおいこの日記で書いていきたいと思っている。とにかく日本という国は不思議なことがたくさんある国だ。数え上げればきりがないので、7つにしぼるのが難しい。
<今日の一句> 知らぬうち 国体終わり 寒き風 裕
今日から11月。カレンダーもあと二ヶ月分を残しすだけになった。今年のカレンダーを壁に掛けたのをまるで数日前のように覚えているが、あれからもう10ヶ月がたっている。
今自伝を書いているが、自伝で書きたいと思うことは、30年代前半までに集中している。「幼年時代」「少年時代」「青年時代」の濃縮したゆたかさ、なつかしさに比べると、「壮年時代」や「中年時代」はいささか色あせて見える。ただ世俗的に忙しいばかりで、内的な達成感に乏しいように思えるからだ。
歳とともに時間が早くたつように思われるのも、こうした内面の充実感の希薄さと関係あるのかも知れない。若い頃の1年間は、中年や老年の数年間にも匹敵しそうである。自伝など書いていると、そんな実感を持つ。
歳を重ねて、いろいろ経験を積んでくると、、本を読んでも、ニュースを見ても、たいがいのことでは驚かなくなる。世の中のことはどれも同じようなことの繰り返しに過ぎないと見えてくるからだ。世の中のことがらについては、ほとんど新しい発見というものは望めなくなってくる。
しかし、人生を深く観照し、人間や自然を深く理解するというたのしみは、歳を経て、ますます深くなるのではないだろうか。内省的な思索ということでは、ますます面白くなってくる。「薔薇の木に薔薇の花咲く、何の不思議なけれど」と歌った詩人がいたが、心境的にはそうした楽しみが期待できる。
<人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失うとき老いるのである。・・・大地や人間や神から、美しさ、喜び、勇気、崇高さなどを感じることが出来るかぎり、その人は若いのだ>(サミエル・ウルマン)
<あなたの視線をあなたの内面に向けなさい。そうすれば、あなたの心の中に無数の世界を見つけることになるでしょう。まだ、発見されていない世界を見つけることになるでしょう。その世界を旅しなさい。そして、あなたの世界の内なる達人になりなさい>(ソロー「森の生活」)
ウルマンのいうように、人間は「理想」を失わなければ、日々新たな気持で生きることができるのだろう。ソローのいう「内面の世界」への旅において、発見は尽きない。そうすれば、世の中の動きについても、また新たな発見があり、深い理解と味わいが得られるのではないかと思う。
<今日の一句> 歳ごとに たのしみ深し 秋惜しむ 裕
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