2007年02月25日(日) |
山田詠美『無銭優雅』 |
おなかがいっぱいになるまで生きることを堪能してみたい。いつか死ぬのは知っていた。けれど、死ぬまでは生きているのだ、という当たり前のことを意識したことがなかった。光り輝く生の実感なんて、波乱万丈のドラマの中にしかないと思っていた。でも、本当は、ささやかな日々の積み重ねが、こすり合わされて灯をともし、その人の生涯を照らすものではないのか。そして、照り返しで死を確認した時、満ち足りた気持で、生に飽きることが出来る。(128ページより)
山田詠美を初めて読む。中央線の話だというので。
『FRaU』や『Grazia』に取り上げられる作家のイメージが先行して、江國香織(私はあんまり好きじゃない)のようなオンナオンナした恋愛を書く人だと思っていた。間違っていました。すみません。
舞台は西荻窪から三鷹あたりまで。四十過ぎ未婚女性の、生活と恋愛(恋愛だけで成り立つ人生の時期は、とうに終わっている)。全体の雰囲気が軽妙で、明るい。オビには「心中する前の日の心持ちで、つき合って行かないか?」と抜き書きがあるが、全体はそんなじめっとした話ではない。それがすべてを救っている。死を、過去の別れを、仕事を、「四十過ぎ独身」の現実を、すべてを恋愛の、主人公の明るさが、救っている。
コレド日本橋での打ち合わせから帰って、市ヶ谷の地下鉄の階段をのぼったら、道がぬれている。行き先が駅直結だから、小雨に気付かなかった。信号待ちの寒さの中に、しっとり水気が混じる。
こういうグレーの空の日もいいなと思えるようになったのは最近。須賀敦子の小説に出会ってからだ。庄野潤三の『孫の結婚式』をブックオフで買って読んでいる。東西線の車中でも読んだ。すばらしい。しばらく別の小説や新書のぬるい湯につかっていて、須賀や庄野らの「文学」に戻ると圧倒される。
1時就寝のために超特急で夕飯をつくったから、またおかずが焼鮭になってしまった。タクシー帰りのあっちゃんに電話で伝えると「ん、鮭……」と少し固まっていた。今度こそしょうが焼きにしよう。
生きている。
仕事で緊張しているので(異動するなど)、書けなかった。今も緊張している。
土曜日はriちゃんと会った。転職活動をしている、お茶を習い始めると言っていた。この人の自由さ、いいかげんな優しさについて毎回尊敬している。「住まいの図書館」という場所を教えてもらう。
日曜日はミキちゃんと会った。ミキちゃんは、8時半に出社して5時まで働く生活だそうだ。きちんと生きている人に会うと、自分の甘さを痛感する。おいしい紅茶とパン屋を教えてもらう。
仕事で英語を使うことになった。いい機会なのでビジネス会話を習おうと思う。スクールはどこがいいのでしょうか。
いい加減に人並みの朝型生活を始めたい。そのために、毎晩1時〜1時半までに寝ると決めた。そして8時〜8時半までに起きる(ミキちゃんが出社している時間だ)。そのために、会社を23時には退社する。
青山七恵『ひとり日和』を読んだ。生きることの喜びや悲しみは叫んだり病気になったり泣いたり手首を切ったりするなかにあるのではなく、ただ、毎日のゴミをまとめるビニールの音や、シャンプーの詰め替え用がこぼれてしまったことや、寝て起きたら雨の音がしていた朝のなか、つまり「暮らす」という表現さえ少し高尚すぎる、「生活する」「息をする」なかにあると私は思っていて、この作家はそうしたことをよく知っていると小説から感じられて好感が持てた。
酷い頭痛と鼻水とで、目が開けられないまま日曜は過ぎた。夜9時を回ったころ、ようやく自然に起きあがる気力が芽生える。レンジでご飯をチンして、インスタント味噌汁と一緒に食べる。うるるんを見る。社会復帰できそうな気がしてきた。
月曜は掃除と洗濯をして、お昼過ぎに江戸東京たてもの園(http://www.tatemonoen.jp/)へ。西武新宿線の「花小金井」駅から徒歩15分。小金井公園のなかにある。
園内には大きく分けて3種類のたてものがある。山の手にあったたてもの(富豪の個人邸)、多摩地域にあったたてもの(農家)、下町にあったたてもの(商店や長屋)だ。
よく考えてあるなあと思ったのは、個人商店から個人邸、交番、銭湯に至るまで、同時代のたてものが一度に(しかも400円で)見られる点。そしてもともと違う場所にあったそれぞれのたてものが「ゾーン」に分けて移築してあるため、ひとつの「街」にいる錯覚におちいらせてくれることだ。たとえば下町の荒物屋さんのとなりに花屋さん、そのとなりに文房具屋さん……といった具合に。
古い家を見るたびに、そしてそれらが徐々に姿を消していく事実に向き合うたびに、今の暮らしは昔に比べてどこが豊かになったのだろうと考えてしまう。……こうした問いかけ自体陳腐極まりないことは分かっていながら、本当に、個人的な、基本的な問いとして、思う。帰り道の「郊外」に連なる、おかしな洋風の一軒家(小金井市の一軒家なんて、きっと買ったら高い)を見ながら。
友人に聞いたら「エアコンとか、サッシとか、そりゃあ色々違うんじゃない?」という答えが返ってきた。確かに。エアコンのない家で暮らすのは辛い。
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私は下町の雰囲気が好きなので、シャッターを切る場所に偏りが出てしまった。主観に溢れた写真集です。↓
こんな感じで混んでいた。子どもがいっぱいいた。ディズニーランドよりもいい遊び場だと思う。
阿佐ヶ谷住宅(先月の日記参照→)を設計したまえかわくにお先生のおうち。「山の手」のエリアにあります。
長屋。こうやって並べて建ててくれると、下町に迷いこんだ気分になれる。
千と千尋のアイデアの素となったといわれる「子宝湯」(銭湯)。「贅をつくした造り」ってパンフにあったから、昔の銭湯が全部こんなに豪華だったってわけじゃないみたい。
荒物屋さん。庶民が使う器ややかんやほうきが売っていた。今若い人のライフスタイル雑誌でほうきを自慢している人がいるのをおばあちゃんが知ったら、きっと驚く。
同上。カゴてんこもり。乙女のハートをわしづかみよね。
お醤油屋さん。お酒もおみそも売っていました。
文房具屋さん。こういうお店屋さんがなくなることに、一体どんなメリットがあるのか。悪いことしかない気がする。
小金井公園に咲いていた菜の花。春はもうすぐだ。がんばろう(寒がりなあたいへ)。
2007年02月11日(日) |
いつの間にかたまった大量の毒 |
この3連休はどこか遠くへ旅行に行くつもりでいたのに、金曜の夜から突然具合が悪くなって、土日はまるまる2日寝ていた。最近体調を崩すスパンが短くなっている気がする。良いことなのか、悪いことなのか。
先月末で、夏くらいからずっと続いていた非常に大変だった本が終わって、一段落ついたから、緊張の糸が切れたのかもしれない。
病気になるたびに、自分は自分のキャパを超えた仕事をしているのではないか、この仕事に向いていないのではないかと考えるが、わざわざ休日に病気になるあたりが病気にまで「君は仕事をがんばれ」と言われているようで、何ともいえない。
土曜も日曜も、何も食べず外にも1度も外出せずにずっとベッドにいた。泥のように眠った。あっちゃんから電話があって、土曜の夜にはごはんを作りにきてくれた。納豆オムレツと、きのこの味噌汁。私がためていた洗い物も全部片づけてくれた。ちょと動こうとすると「寝てろ」と田中邦衛のものまねで言うので、少し元気が出た。
こうして弱音ばかり吐いていても仕方がないので、また明日から生きていこうと思う。
最近思うのは、一人ひとりと誠実に付き合っていれば、必ず相手はそれを受け取ってくれるということ。
2007年02月04日(日) |
【連載】家購入への遙かなる散歩 インテリア編(1) |
家購入を考えたとき、家の外を充実させる、つまり「街」を探すことはもちろん大切ですが、家の内、「インテリア」について考えることも重要です。つーことで、ひとまず賃貸のかれぴ家を大改造しようとついに立ち上がりました。目標は『ku:nel』掲載(マジ)。
自分らでやってもタカが知れているのでプロ(という名の友人・インテリアコーディネーター)を雇いました。忙しい女子部さん(http://d.hatena.ne.jp/jyoshi/)を休日に呼びだして、「あーしたい、こーしたい」と希望をぶつけたところ、大変厳しい顔ではあるが「なんとかしてみる」と言ってくれた。うれしい。
女子部さん。予算10万ちょっとでランプシェードと本棚と食器戸棚とカーテンとかわいい椅子が買いたいと言ったら切れていた。
かれぴ家before。畳だけクウネル風味。
「女性は子どもを産む機械」と言ったおじさんのコメントが新聞に載っていた。「家内にしかられました」と。配偶者のことを「家内」と呼ぶ時点でおめえの思想は見え見えなんだよ、と憤りながら電車で日本語について考えた。以前も「彼氏」のことを何と呼ぶかについて書いたことがあったが、「wife」「husband」をニュートラルに言い換えた言葉がなかなかないなと思う。気にしすぎなのかもしれないが。
私は町田康が使っている「家人」がいいと思う。男女両方に使えるし。しかしこれは書き言葉だから違和感がないのであって、近しい友人と話していていきなり「家人は」という言葉を出すのはなかなか気恥ずかしい感じがする。
まあいいや、「夫」と「妻」がいちばん無難かもしれないな、などと考えながら広辞苑でいろいろと意味を調べていたら、「旦那」の項目に驚くべき記述を見つける。
だんな【檀那・旦那】 1)(仏)(梵語dana)布施、(梵語danapatiの略)仏家が、財物を付与する信者を呼ぶ語。施主。壇越。檀家。今昔物語集(13)「持法成人は偏へに−の訪ひに懸りて豊かなることなし」
2)家人召使いが主人を呼ぶ語。
3)妻が夫を呼ぶ語。また、妾や囲い者の主人。 4)商人・芸人などが得意客を呼ぶ語。
(※広辞苑より)
普通に「ウチのだんながさあ」って会話で頻出する言葉に、こんな恐ろしい意味があったとは! まあ「主人」もそうよね。
……と、こんなことを考えたかというと、昔の『ku:nel』に向井万起男さんのエッセイを今さら見つけて、それがすごく良かったから。向井さんは千秋さんのことを、女房、女房と書く。これが自然で、なじんでいて、俺は女房が好きだ!という気持ちがこちらにも伝わってくる。この人の著作『君について行こう』もぜひ読んでみようと思う。
私は基本的に「俺についてこい!」男は嫌いだし、女だから、男だからという価値観には賛成できない。しかし、この手の議論は気にしだすとホントに難しいな、と最近ちょっぴり分かってきた。
たとえば避妊具の購入。私はどうしてもレジに持っていくのが嫌で、生まれてから一度も自分で買ったことがない。売り場の前を何度も何度も行ったり来たりした末、結局プライドが邪魔をして手に取ることができずに終わる。もし男女同権を訴えるなら、避妊という共同作業を相手に一方的にゆだねるのはいかがなものだろう。それからレストランでの「ちょこっとおごり」。お会計が2390円だったら、たいてい私の支払いは1000円にしてもらえる。
こうした優遇を受けながら、「男女同権でしょう」と主張ばかりするのは、なんだかずるいんじゃないかと、後ろめたさもちょっと感じているのです。まあこんなこと考えてもモテないので、今日は寝ます。
サさんの誘いで、サさんの知り合いのデザイナーさんとセさんとリちゃんとナくんとでワイワイ飲む予定が、私とナくんしか集まらず。中目黒でおされに飲むはずが場所も変更、高田馬場の「清龍」と「甘太郎」をはしごしてやけ酒(でもないが)。
サさんは背が高くてスマートで、服の趣味も良いので当初は「カッコイイ!」などと油断していたが、やはりナくんと仲がいいだけあって、ただ者ではなかった。彼の作った紙粘土作品を見せてもらったが、とりあえず何を表現したいのかが全く分からない。「心の目」なるものを抽象的に表現しているらしいがただの丸い塊。目玉のおやじ。というよりまず、30過ぎて紙粘土っつうところがかなりキている。
へんな占いの本持ち歩いてるし。私とナくんの結婚時期を「6月か8月にしなさい」と言っていた。顔もキャラクターも鏡リュウジっぽい雰囲気が少しあるので、その方向で食べていくことを勧めた。
私は人生で何度か、こうした「あなた、顔がかっこよくて良かったね。そうじゃなかったら、かなりヤバい方向に人生進んでたよ」という人に会ったことがある。学生時代もモテたんだろろうからもっと違う方向に生きる道を選んでも良かっただろうに、と哀れにも思うが、そうでなければこうして仲良く清龍にいることもないんだろうからまあいいのかもなあと思って帰ってきた。
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