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2003年08月22日(金) 雑誌は面白くなくなくないのか?

について考えることにしたんだけど、
今日は寝ていいかなー。

テレビの黒谷友香(大阪弁)がほんっとに可愛い。
ともちん先輩、君の言ってたことがやっと分かった。
おやすみ。





また途中でねちゃったよ。追記しました。 - ああ、書きたいことがたまり過ぎてすべてをうまく吐き出せるか分からないけれど、できる限り文字におこしてみます。

■25歳

雑誌は面白いのか、面白くないのかという特集についての(私的)特集をくもうと思っているが、そういうことを議論しようとするのはつまり、「面白いよね、ね?ねえ。」という光を見たいということ--自分の深層心理は明白である。言い換えれば、不安なのだ、私は。

しかし、そういった希望的憶測自体が間違っていないことが今日発覚した。そう、松尾スズキ、町田康以来の大きな衝撃を、雑誌が運んできてくれた。
SWITCHの、『折れない時代の寵児たち(25Years Old Generation Mind))』特集である。

キャッチの素晴らしさは言うまでもないが、内容の充実したインタビューと世代考察の記事には本当に感心してしまった。私の知る25歳はこれを見て何と思うだろう。すぐさま雑誌を送りつけ、感想文を寄稿していただきたい、そんなことを本気で考えた。(今も考えているから宜しくね、そこの君)。

話し合うのは楽しい。映画を見る時にだけ、「彼氏がいればなー」と思うのはそのせいなんだよね。

誌面に取り上げる人を豪華(旬)にすれば、本が売れるのは当然だ。浜崎の「闇」を暴いたかに見え、話題になったロッキングオンジャパンの特集が結局のところつまらなく感じられたのは、彼女の音楽と、彼女の人生2万字が、少しも繋がっていなかったせいだと思う。

一方のSWITCH。ハセキョーは入っているにせよ、他の人選は「たまたま25歳の有名人集めました」という風にとれないこともない。実は緻密な計算のもとなのだろうが・・・。なのに何故だろう、写真に撮られ、インタビューされる彼ら(小田茜や馬淵江利香やエンクミよ!)はページを超えてお互いに、さらには私のまわりの25歳ともシンクロする。

表紙を飾ったkj。インタビュアー(これも25歳が選ばれている)は『陽はまた昇りくりかえす』に注目している。この曲、私の周りの「ドラゴンアッシュは文化的な背景を全く踏まえてないからヒップホップじゃない」とけなす人たちが唯一手放しでほめる曲なんだよね。自分の生活と、雑誌の無理矢理こじつけ特集が繋がることが非常に快感だった。





2003年08月20日(水) I NEVER FIND ANOTHER WAY TO SAY I LOVE YOU MORE EACH DAY.

私が数日前に書いたバスケットの話をきっかけに自分の記憶が蘇った、とインターネット的後輩(だってまだ高校生よ!)が書いてくれた(→go!)。とても嬉しくて、千と千尋のキャッチ、「一度あったことは忘れないものだよ、思い出せないだけで」という素晴らしい台詞を思い出した。

触発されて、その続編を書く。

「れいこはきっと世界にはばたくぞ」ミニバスの送別会の部屋の隅で、こっそりコーチがささやいてくれた言葉が忘れられない。別に本気で世界にはばたくわけがないのはさすがの12歳でも賢い女子だった私は知っていて、でもコーチはその時本気なのだと、子どもなりに分かったから、それがさらに嬉しかったのだと思う。

6年生の1月に、ミニバスケット対抗の駅伝県大会があった。バスケットとは関係ない。ただ走る。私は相変わらず18番の背番号で、後ろから3番目で、それでも何故だか1区を任せてもらえた。(放課後一緒に練習をしていた友達はアンカーだった。)そして、本当に何故だか分からないのだけれどトップタイでたすきを渡した。調子がいいと、走っている時の記憶は、ほとんどない。

この大会がきっかけで、私は中学で陸上部に入ることになった。コーチがおまえはこれから伸びる、と強く押してくれたことと、その年の学校の持久走大会でいい成績がとれたことも大きかった。今考えると、レギュラーになれなくてもバスケ部に入っていたら、と思うこともある。平凡な選手だったかもしれないが、それでもスポーツすることを嫌いにならずにすんだのではないか。

私は今でも走ることが大嫌いだ。中学三年間、大嫌いなことでどうにかこうにか勝ち続けようと頑張ってしまったせいである。

陸上部で、私は中長距離(1500メートルと800メートル。意外と思われるかもしれないが女子だとこれよりも長い距離はない)の選手だった。なんということはない、県大会どまりの力である。それでも、県大会に出場するための地区予選で一位になることが、いつからか私の課題になってしまった。学校の朝礼で「一位、松尾麗子」、と名前を呼ばれるために走るだけだった。

課題になったらもうだめだ。最初のころ、さらに言えば小学校六年のあの駅伝大会の頃にできていたを、全て忘れてしまった。走っている時に自分の疲れについて考えだしてしまい、後ろばかりが気になる。当時は一人で毎日家の周りを走ったが、一人の練習でさえ後ろから誰かが追ってくる感覚がぬぐい去れなかった。

中学校にはたくさん、長距離の行事というものがあった。持久走大会、駅伝の選抜、体育祭の長距離走、地域のマラソン大会--。それらすべてに、”陸上部の長距離選手”として出場することが、私にとってはまた地獄だった。二年生の冬は、駅伝大会の練習に明け暮れた。ウォーミングアップで10キロ走った後に、毎日順位をつける5キロ走がある。このタイムで選抜を決めるのだ。

周りにはライバルがたくさんいた。バスケ部では補欠だけれど根性ならだれにもまけない、とか体は軽くてやせすぎって言われます、とか皆それぞれに売りがあって、私だけがただなんとなくここに集まってしまった気がした。

走っている途中に、苦しくて、歩いてしまったことがある。一度歩いたら癖になってその後すべての練習で完走できなくなった。それでも、毎回どうにか3位までには入った。そして私は選抜になった。歩いている時、「おまえは世界にはばたくぞ」と言った小学校時代のコーチの言葉が浮かんでくる。そうだ、止めるわけにはいかないんだ、とどうにか足を動かすだけ。とにかくスタートラインに立つところから、ゴールした瞬間に次の大会が浮かぶところまで、走ることに関するすべてが苦痛だった。

「持久走大会をしたら爆弾を仕掛けるぞ」という脅迫文がある中学校に送られた--当時そんなニュースが流れた。当然自分ではできないから、うちの中学にもそれがくることを、私は心の底から祈っていた記憶がある。

しかし21歳になった現在、私は結局履歴書に「特技:長距離走」と書くことにしている。バスケットも走ることも、結局途中で投げ出して、スポーツというスポーツから逃げて逃げて生きている私がこんなことを書く資格はないのだが、それでもあれほど辛く、ある角度から見れば為になった経験は後にも先にもなかっただろうという気がするのである。

ミニバス時代、一緒に100本シュートを打った友達とは中学が別れ、彼女は北中学校でキャプテンになった。ああ、やっぱりどんどんうまくなるなあ、杓子定規な動きしか出来ない私じゃあかなわなかったかもなと一度試合を見て感心した覚えがある。

その後、彼女は私が知らないうちに、何も話してくれないまま、拒食症になった。ひどく痩せていた。小学校くらいの、「大人から見ると」何も考えていない時期(本当はそんなことないんだけど、もう私も大人だから忘れている)の才能や能力が、少し歳がいってそれを意識したと同時に潰れていくことを、本当に痛々しく思った。去年くらいにしばらくぶりに彼女に会った。「高校でもバスケばっかりしてて浪人しちゃったけど、大学でもまだやってるよ」、と笑っていた。体も普通に戻ったようで、安心した。

「僕は昔の話はしたくないんですよ、結局それって自己満足な自慢話でしょう」。作家の平野啓一郎が、以前テレビで話していたのを見て、ああこの人の過去はどんなにか輝かしいことでいっぱいなんろうとうらやましく思ったことがある。昔を語っても、辛い辛いで埋め尽くされてしまう私の三年間もある。しかしそれが結局は現在の自分の下敷きを作っている気がする。私が今しているこの生活も、数年後にバスケットや完走できない長距離走とごたまぜになって私を作っていくのだろうと、それだけのことなのだという気がする。

覚えている事の価値を私は知らない。あなたのようにすぐに忘れて生きていけたらそれはそれでいいこともあるのだろう。それでも記憶があるのが私なら、せめて文字におこしてドラマティックなふりでもさせていただくことにするから、怒らないで読んでね。



2003年08月17日(日) 追記 - <土日を眠って過ごしたので反省、今週やること>

18月
木曜に休みをもらう
ギター受け取り
医学書院どうするか考える
メール返信 いいだくんとやそじさん

19火
友達のエントリーシート受け取り
オークション落札品発送

20水
週末の予定練る
よしかちゃんに阿佐ヶ谷で会う→卒業論文の提出日程把握

21木
医学書院15時から--本郷三丁目

医学書院に行かなかった場合--新高円寺
Hさん宅に試写状を取りに行く

渋谷
チノパンかコットンパンツ、ワークパンツ購入(なるべく古着)
レターラック購入(デルフォニックス)
プレゼント、シャツか何かを購入(ドレステリア)

映画
『マトリックスリローデッド』(前売り有)

22金
国書刊行会履歴書(29必着)
岩波履歴書(25〜ウェブエントリー)

23土
映画一本
『パンチドランクラブ』
『H story』
ハックネット、ユトレヒト、六本木ヒルズの本屋

あきちゃんにピアスを渡す--吉祥寺
マー関口さんレターセット入荷確認
エクセルシオールで店長に顔見せ
ジョンスメドレー

24日
モデラート--表参道
親と貯金について話し合い
2003/08/17
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土曜日の午後にヤフーオークションをする(売り)乙女の悦楽。 - 会社の上司の人(30くらいのおじさん?お兄さん?)で、パソコンオタクの方がいらっしゃいます。編集部の人はみんなパソコンにやたら詳しくて凄いなあと思うのですが、チーフの彼は特別です。こういうタイプが好きかと聞かれれば、好きですよ、私は。うん。彼はマックを解体して直せるくらいオタクです。現在二台を解体中です。

最近驚いた話がひとつ。エレベータに乗った時、例えば一度3階を押してしまうと、後から「4階だった!」と後悔しても遅いじゃないですか。yusoshiに行きたかったのにアプレミディの階を押しちゃったよ、(そんなおしゃれビルいかねえけど)とか。それをね、キャンセルできるコマンドがあるらしいのです。「キャンセルしたい階のボタンを3連打の後、↑キーと↓キーを同時に押す」とか。しかもそのコマンドはエレベーターによって違う。上司様はひとりでエレベーターに乗るたび、コマンド発見に精を出しているのだそう。素敵でしょう。

そんな彼のiPodには、ソウルフラワーユニオンのゴーストヒッツが入っていました。ねえ、素敵でしょう。分かるかな?私のツボが。



住所を教えることに抵抗がない関係になれたら、やはりメールよりも手紙を書きたい。メールは引用した内容にレスしていくという便利さがたたって、自分の近況をうまく語れません。
いくつかレターグッズを買いました。



2003年08月16日(土)

「男女は、最初はフランス料理だの和食だの、気取った料理を食べてのち肉体的結合となるのを定番とし、焼肉に来る男女はすでにできておる」。

今日帰りの電車でだらだら読んだダカーポに、嵐山光三郎が面白いことを書いていた。(私はこの人が食べ物の事を書いているのしか読んだことがありません。)だから今日は、「私は付き合う前にも後にも、焼肉やお好み焼きやデニーズに連れていってもらうことはあっても、一度としてフレンチやイタリアンや、寿司を食わせてもらったことがないぜ畜生」、という話を書くつもりだった。

男女の関係とかいう幻想風景の初めから終わりまで、とにかくデニーズ以上を経験したことがないですよあたしゃ。

何年前だか、生まれて初めて"彼氏のいたクリスマスイブ"というものがあったけれどもその時でさえ、ああ、夕食は早稲田のお好み焼き屋(一応おごり--別に払っても良かったけど)。おばちゃんと私と彼と、三人だけの空間で他に客などいるわけもなく、その時はたしか田代まさしが捕まったりテポドンが打ち込まれたりしていて、だからお好み焼きとテポドンと田代まさしなイブだった記憶がある。

・・・こんなとほほ話を、書くつもりだった。

今日、友達から電話をもらった。大変な内容の話だった。これまで何度か長電話したことについて、「ありがとう、麗子のおかげでずいぶん助かったんだよ」と言われる。私がだらだらと垂れ流した不毛な話に、感謝をしていただいたのはもちろん嬉しかったけれど、同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。本当に私は、不毛な話しかしていない。

それでも、無条件に私という存在に対して「ありがとう」と言葉に出して言ってもらったのはおそらく生まれて初めてで、とても嬉しかった。もう涙でぐしゃぐしゃで、こちらこそありがとう、と感謝した。

私はこれまで、そのひとにきちんと向き合っていなかった自分を恥じた。辛いことや抱え込んでいることを、べつに癒したり分けたりしなくてもいいからそっと気がついて、向き合うべきだったのだ。これからは友達として、気持ち悪くても誠実で真直ぐな気持ちを注いでいくのだと決めた。

人と人の関係は様々である。私にはきっとどこか欠陥があって、男の子たちはフレンチやイタリアンや和食に連れていって口説こうという気にはならないのだと思う。でも、まあ焼肉やお好み焼きやデニーズで、楽しくお話できるのもまたそれはそれ、という気がしている。今日「ありがとう」とおっしゃって頂き、さらにそう感じる。届かない気持ちや会えない人を数えるうち、私は根っこから斜に構えるようになってしまっていたのかもしれない。痛くても、寂しい人にはなりたくない。



2003年08月15日(金)

本気で頑張ったことというのはいつまでも体に染み付いて離れないもので、気付かないうちに自分の自信、というか、底の部分を形作っている。例え他の人にしてみれば物凄く小さなことであっても。そういう大切な体験は誰にでもあるのだと思う。誰にでもある話を、ひとつしようと思う。

私は小学校の時にミニバスケットボールクラブに入っていた。器用貧乏だったから運動をすれば何でもそこそこできたけれど、あれほど夢中になって打ち込んだスポーツは後にも先にも小学校時代のバスケットをおいてなかったように思う。週に3回の練習と日曜日の試合--ほぼ毎日体育館に通った。私の背番号は18番で、後ろから3番目。五年生で始めたから小さい頃からクラブにいる子たちからはだいぶ遅れをとっていた。

背は大きいほうだったけれどもっと大きくて体格のいい子もいたし、ドリブルがはやくてちょこちょこ動き回れるわけではないし、取り柄がなかったからずいぶん長い間試合にも出られずにいた。

六年生になった頃、ひょんなことから仲のいい友達と練習後にシュートの練習をしていくことになった。その後駄菓子屋でベビースターラーメンとさくら大根を食べて帰るのだ。しばらく続けたら、なんとなく日課になった。日課になったら、止めるわけには行かなくなった。

100本、入るまで打ち続けた後に二人でパスを出し合いながらフォワード(友達)とセンター(私)の役割を練習する。誰もいない体育館でずっとボールに触っていられるのが本当に嬉しかった。苦痛や努力、と思ったことはなかった。

そうしてほぼ毎日同じことをしていたら、コーチに「れいこはリバウンドで絶対負けなくなったな」と褒めてもらえるようになった。さすがに100本打っていると、才能などなくてもシュートは随分入るようになる。どれだけフェイントがうまくても、練習していない子は絶対にシュートは決められない。ミニバスケットとはそういうものだったのだと思う。(フェイントやパスがうまいだけでも全然やっていけるんだけどね)

今でも忘れられないのが、関東大会出場をかけた県大会の決勝戦。残り1分、私の逆転シュートで、優勝が決まったのである。レギュラーとして試合に出させてもらえるようになってから、あまり時間も経っていないころだ。毎日練習して感覚を掴み切った位置からのジャンプシュートだった。もう馬鹿だから、ゴール下で私がパスをもらって、決まらないはずがないという気がしていた。

おまえ、そりゃあ一体何年前の話だと、笑う人がいるかもしれない。自分でもそう思う。しかし不思議なことにあの体育館と今ここは繋がっていて、体育館の歓声を思い出す度、それはぴったりと「今日の」私に寄り添ってくる。

「昔の私は凄かった」と言いたいわけではない。今の私も凄いのかもしれないし。ただ、大切にしたいひとつを持っていることは、死ぬのと生きるのを天秤にかけて過ごしてしまう私には少なくとも有効だ(生のために)。今の12歳は、バスケットボールをするといい。練習すればうまくいくんだから、シュートをうちゃあ入るんだから、不条理がない。12歳という年齢は、世の不条理を見るには早すぎる。



2003年08月13日(水) 「笑ってちょっとだけ 好きだと言ってくれ 笑ってちょっとだけ」(曽我部恵一)

私に恋をしているわけでもないのに毎日のように電話をくれる男の子がいて、仕事が終わった後に誰かと話すのはこんなに楽しいものかと思います。今日も一杯やってく?ってそんな気分です。要するに、相手が田舎帰ってて、することなくて、女の子が大好きで、惰性でかけるのに私は気を使わなくて、ということなのだけれど、それはそれでまあ、いい関係なのよ。利害は一致してるんだから。あなたは疑うかもしれないけれど。

昨日は、デジカメのパンフレットの撮影で、芝公園に行きました。東京タワーの夜景を見ながら、荷物の見張りをしました。領収書でデニーズのランチを食べました。

夜がふけたら世間は東京湾大花火大会で、近くでどんどん鳴る花火の音を聞きながら、私はオレンジ色の光を夜空ににじませる東京タワーをじっと見つめていました。媒津かずおの『わたしは信吾』で、東京タワーに月(じゃないか、なんだっけ?)が落ちて、信吾が産まれるシーンはセックス→出産のメタファーだという話をマンガ夜話で聞いたなあなんて考えながら。東京タワー=上にのびるもの=男性の象徴、なんですよ。ああ、博識をばらまいても周りは花火を見に来た浴衣のカップルだらけ。

花火大会というのはきっと、カップルを見て「浴衣着たいな」と思うもので、クリスマスイブというのはきっと、「なんであたしバイトしてんのー」と言うもので、キスやセックスというのはきっと、「町田康に抱かれてえよ」、と憧れるために必要なものでしょう。

私もポップな女の子だから、電池パックの裏に彼氏のプリクラを貼ったり、誕生日に指輪をもらったり、エスカレーターで頭にキスをしたり、そういう決まりごとがあるのは知っています。でも実際にそんなことが自分の身にふりかかったら気持ち悪くていやだ!という自分の面倒くさがりさに気付いてもいるのです。

どうだっていいんだな、実をいえば。だってあなたは優しいし、東京タワーは綺麗だし。辛い時は書けばいいし、あっちの世界ももあるし。一生どうにか死なない程度の思い出くらい、私だって持ってる。



2003年08月11日(月)

「悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに 上を向いて歩こう」(永六輔) - 親戚の伯父夫婦が旅行に行くからと、あずけていった柴犬が庭で眠っています。なでたら嬉しそうにくんくんくっついてきました。テレビではNHKの『第35回思い出のメロディー』。おじさんやおばさんたちが、当時の自分と同じ振り付けで、衣装で、笑顔で、歌っています。父も母も、私も、知っている歌がでてくると口ずさみます。

私は家族三人分のコーヒーを入れます。そしてパイを食べます。台風はもう行ってしまいました。今日はお休みでした。あの天気で誰にも会えなかったので、一日中眠っていました。

私は今とても満たされた気持ちです。何があったわけじゃないけれど。(あ、でもこの間はすきなひとと電話もできた。電池切れで15分くらい)。これからとても悲しいことがあった時に思い出すのは、今夜の幸せな居間の風景だという気がします。

皆さんはお元気ですか?お盆が近いから、実家に帰るのかしら。お薦めの本があったら教えてください。私が最近とんちんかんな事ばかり書くのは、生活全般においてインプットが少なすぎるのに何かを出そう出そうとしているからです。無理してベストセラーをチェックしても、仕方がないのにね。ご飯を食べて、最終電車で帰って、一日中パソコンに向かっても、私なりのみずみずしい生活というのはあるはずで、特別でなくともそれをここに書くために私はホームページを始めたはず。

社会人の中で仕事をし始めて、たくさん反省があります。電話の応対も満足にできません。敬語がなっていないのです。でも頑張ります。明日はデジカメのパンフレット撮影のお手伝いです。こんな仕事もあるんですね。世の中には色々な仕事があって、面白いですね。

仲間由紀江は綺麗だなあ。次はいつ、あなたに会えるでしょうか。



追記

その『思い出のメロディ』の途中、寺尾と貴花田(当時)の名勝負が流れた。不覚にも、相撲で泣きそうになった。寺尾は言うまでもなく、貴乃花は(当時高校生だから当然だけれど)びっくりするほど若く、痩せていた。ひとつの時代が--”私にとっての”ひとつの時代とは全く別の意味で--終わったのだという気がした。そして相撲というエンターテイメントについて考えた時、その「一番良かった時」はもう過ぎ去ったことが、素人目にも分かった。

痩せている貴花田も、テレビがなかった時代も、私は別に知らないし、知っていたところで戻ってこないけれど。どうして涙が出るんだ。永六輔に、笑ってしまうんだ。

ああいくら追記してもこの番組の良さを伝えるのは無理。歌が全ていいのだもの。誰か見た人いませんか。



2003年08月09日(土) 好きな女性はりょうさんです。

昨日、私はこんな文章を書いたけれども
良く考えたら物凄くおかしいことを書いていたようで、
勘違いも甚だしく、
また書き直しますね。



7月22日からアルバイトとして働きはじめ、31日までのお給料が7万9800円だったのでなかなか驚いた。ちなみに時給は800円。このあいだ社員の人(中途の、社会人三年目の男前くん)に、「松尾さんはずっと来るの?夏休みも?その後学校は?」と聞かれて、「はい、来ます。雇ってもらいたいので」とはりきって答えたら「いやー学生のうちに休んだほうがいいよー。だらだらしてなんだろう自分、とか思うけど、ほんとあの時しか休む時はなかったと今ひしひしと感じる」と、笑いながら諭された。「人生考え出すからね、俺くらいになると・・・」だそう。

そうえば先日のトークショー。「働くことは、考えないことだ」と元西部百貨店でサラリーマンをしていた保坂和志が言う。本を読まないエリート銀行員の方に、保坂さんはどんなお仕事してるんですか?」と聞かれた時に使うという彼の答えが面白かった。--「あなたが定年退職をして、もう仕事に行く必要がなくなった時、本当に自分の人生と直面して生きていかなければならなくなります。小説を書くということは、そうしてずうっと人生に直面する作業を続けることです」--。

例えば数年前に同じ言葉を聞いて、私に実感が湧いたのか自信がない。しかしここ最近の職が見つかるまでの状況を思い出すとそれを想像するのは易い。(保坂氏の頭にあるものを誤読していなければの話だが)。人生に直面する、ギリギリで生きるとは例えばアフリカの飢えた子供達を思えばいいのかもしれない。生きるか死ぬか、をいつも実感しながら日々をやり過ごす生き方だ。向き合う相手が最終的には自分しかいない。本当に、色恋沙汰の悩みなどかわいいもんだよ、相手があるんだからね。

「人生は暇つぶしだぜ」なんていうかっちょよさげなニヒリストになる気はない。結局、暇つぶしをしないと死ぬまでもたないのが現状なのだ。だからうまい具合に労働と休暇があって、私のように朝から晩まで働いていると、圧倒的に「考える」時間が減る。減ると余計なことを考えないから「青い」感じが減少する。「お世話になりますー」、「おつかれですー」と繰り返すだけの人間になるのだ。そしてそれは、実は、とても幸せな生き方だったりする。

眠る前に毎日泣いてしまった私を、私は絶対に忘れてはいけない。そしてそういう弱さや痛さを、青さではない他の表現法で光に変えてゆける大人になるんだ。




ネコや犬が好きな人が、本当に回りには沢山いて、そうだ、この前見た映画の試写でも犬がでてきて人を癒していた。ひとつ、強く思うこと。犬や猫に向けるあのどうしようもなく絶対的な愛に溢れていて限り無く優しい表情を、皆が皆人に向けていたら、世の中戦争なんて起こらないんじゃないか。彼ら(全国の犬猫さま)には嫉妬心さえ覚えることがある。



もう、暇つぶし以外の何ものでもなく(言い訳くさい)IN
REDを買った。そうしたら運良く、今私の中で最も「熱い女性」、りょうさんが映っていた。あんなに素敵なカットがあるのに、表紙に使わないってどういう意図だろう。YOUも可愛いけどさ、それはスプリングでいいじゃん。ところでこの雑誌、クレジットに「編集補助」の人の名前が載っている。親切な編集長だ。このちっこい字で自分の名前が入ることを生き甲斐にしている人が沢山いるんだよ、世の中には。



2003年08月07日(木)

メモ - 初めて、「ネーム」?というのか「キャプション」?というのか60字ほどの文章を試しに書かせてもらうことになった。これが、本当に奥の深い作業だということを知る。60字という破格の短さでサイト全体(パソコン雑誌だから)の説明を特集テーマとからめてしなければならないという拘束。そこに読者に伝える嬉しい、オトクな情報を入れるとかいう条件が加わると、もう「情報」を気取った言葉で修飾している場合ではなくなる。詰め込んで詰め込んでおさまった時の充足感よ。巷に溢れる雑誌の隅に、これほどの格闘が存在していたとは。

昨日は大学1、2年時代におそらく一番仲良くしていた男の子(先輩)と、半年ぶりに電話で話した。二年ほど前は、彼とよく原宿や代官山に買い物に行った。当時は裏原宿全盛期で、soph.とかリボルバーにストレッチパンツルックでお邪魔し、後に代官山のカフェ、シェルタでおっしゃれーにご飯など食べていた気がする。彼と知り合ったバドミントンサークルは、別になんてことない酒のみ団体(しかも私は飲まない)だったけれども、たまにしか集まらない感じとか、集まったらすぐにうまくいってしまう感じが凄く好きだった。「共同体の隙間の楽園」とは、ああいう感覚を言うのだと今はそんな気がする。

今日は終電を逃し、父親に大宮駅まで迎えにきてもらうことになってしまった。なにをやっているんだ私は。

25歳の友達が、転職だとか結婚だとかの話をしている。あと三年で、私もどうにか大人っぽい感じの話題に触れなきゃなあ、と目標をたてるも、結局3ヶ月先が良く分からない生活を続けてしまうのがいつもの私の流れ。

古着のチノパンが欲しい。日曜は竹下通りを歩いてみようか。

ブルータスを久しぶりに買ったら来月号は「雑誌」特集だって!萌えるね。そんな私の最近の読書は、保坂和志の『カンバセーションピース』と森茉莉『貧乏サヴァラン』を同時進行中。



2003年08月05日(火)

有意義な一日。 - いきなり言い訳をするけれど、こんなこと書くと増々言い訳じみてくるけれど
私がここに書くメロドラマのような文章は半分(以上)「芸」だ。昨日の日記、(あなたが好きよ、でも届かないのね、的な内容の文章)を読んだ友達に、「あれは誰のことを書いてるの?」なんて尋ねられたので、ああそうか、やっぱり人の目に映る私はデッドリ−シリアスで頑張り屋さんな女の子なんだなあということを確認し、反省した。まだきっと、自分を見つめるメタな視線が足りないのだろう。

今日ジュンク堂で、保坂和志と坪内祐三のトークッセッションをみてきた。ちょうど昨日から--というかここ最近ずっと--考えていたあらやこれやととリンクして、大変に興味深かった。「感傷的な小説が何故だめか」という話である。センチメンタルでウェットな小説を書く人は結局自分の過去の傷、失敗を満足げに隠蔽しているに過ぎないのだという批判。「自分の手を触れた人は感傷にならないはずだ」という保坂さんの言葉が印象的だった。氏は八方手を尽くした末に愛猫が死んだ時、怒りの感情しか込み上げて来なかったと言う。

合い言葉のように村上春樹を好きだと宣言する度、「田中(松尾)みたいな読み方をするのは嫌だな」と友達に良くいわれたものだ。喪失感や内面の感傷にばかりスポットを当て、一緒に涙を流したり「やれやれ」と言ってみたりする態度にである。

松尾スズキも椎名林檎も村上春樹も、私は本当の魅力を解していなかった、いない、という気がすごくしている。

坪内先生がおっしゃっていた、「感傷のセンサーはあるけれどそれを表に出さない表現」というのが、本物(つまり純文学であったり、ゴミでない音楽であったり)だということが、最近になってようやく実感できかけてきた。ただクールなだけでなく、かといって美しく閉じ切った世界にならないもの。

ここで「私は」、と続けるのもお門違いだが、私はそういった素晴らしいバランスの文章を書く能力がない。だから昼のメロドラマだか月9だかのようにお涙を流しながらお涙を頂戴するような気取った俗物しか吐き出せないのだ。それを芸だといって誤魔化すようになったのは、自分の「感傷」にすっかり酔えなくなったからなの、というのは内緒の話。「やれやれ」ですね。



2003年08月03日(日)

ひょんな事からお知り合いになった映画評論家の方に、現在製作中の映画の試写(音楽なし)に誘って頂き、休日出勤から直行して西川口に降りてきました。

こんな体験は初めてで、はあ、映画って音楽によって魂が入るんだなあなんて普通の女の子なら誰でも言いそうなことを考えながら見ていました。ヒロインのりょうさんがもう本当に綺麗で、彼女がやるとちょっと自動車から降りてスカートがひらっとするシーンでも「風」が起こります、つまりまわりの雰囲気を清々しくする力があります、彼女には。

帰り道、西川口は花火大会で、川沿いをてくてく歩きながら素敵な夜だなあ、私って運がいいなあとしみじみ思ったのです。

昨日、会うのは二回目、話すのはほとんど初めてというエリちゃんに『ヒミズ』にでてくる主人公のガールフレンドに似てるね、と言われて、ぴんとこなかったので友達のうちでわざわざ見せてもらいました。あんまり可愛い子だったので恐縮したと同時にとても嬉しくて、これまた運がいいなあ(?)とハッピーサンデーの私。メールを打っていたら夜中の四時です。



赤羽駅で最終電車を待つ列に、SPA!の「寝言サイズの断末魔」(松尾スズキの連載)を熱心に読む若手サラリーマンを見つけた。あの読み方はおそらく、私と同じように、開いたら初めに松尾、松尾とページをめくるタイプだろう。私や彼のような、顔や声を持たない一体どれだけ多くの読者が、松尾人気やSPA!人気を支えているのだろうか。出版社に勤めている友達が辛そうな時に、私はいつも「読者が待ってるから頑張れ」と励ましていた。でもそれは、彼らを何も動かさないようだった。不思議なことである。



2003年08月01日(金) I love you more each day!

仕事の話ばかりするのは世のカップルの間では禁止事項らしいが、私は人が働く日々の話を聞くのが好きだと思う。毎日していることには辛くても小さくても必ずその人なりの哲学やプロっぽさがあると思うからだ。

今日は朝から印刷会社の工場におつかいに行った。志村坂上という北区にあるその駅で降りる沢山のおじさんたちがせっせと本を印刷してくれていることに(というか単にカチカチとコンピュータをいじっているのだろうけれど)深く感謝した。私も細部を埋めますよ、頑張ろうねルーティン、と呼び掛けたくなった。

私は今、主婦向けのパソコン雑誌の編集部(編集プロダクションなので、隣の机ではDODAを作っていたり、ぴあの連載を担当していたりする)にいる。主婦にもパソコンにもさして興味がなかったけれど、毎日はとても楽しい。板橋にパシってる時点で言うまでもないことだが、仕事のひとつひとつはとても小さい。例えば一年前に同じことをしていて、今と同じ気持ちになれたかと考えると疑問である。働くことについて考えた、そして今も考え続けているこの時間は、それなりに私をましな人にしてくれているのか。

さて、今週のSPA!の特集は、『本日も、ますます仕事がつまんねー!の実体』だった。企画意図が分からなかった。いや分かるんだけど、そういう人が沢山いるのは。「そうそう」と思って買う人がいるから作るのだろうというのは。でも、仕事がつまんねー!サラリーマンに処世術を教えてくれるのがSPA!じゃないのかね。「頑張れ」とは言わないで、黙って女の子の水着写真をプレゼントしてくれたり、絶対に参加できないクラバーコミュニティを嘲笑して、俺らこれでいいじゃんと思わせてくれたり。つまんねー先に何があるのかが、今週は分からなかった。

少なくとも俺はつまんなくないぜ、エクセルに表を打ちこんだり、パソコン機器の写真をスキャニングしたりすることが。ねえおじさん?人の作ったものをカチカチいじって印刷するのは、そんなに退屈で死にそうな仕事かな。



椎名林檎とバンプオブチキンとミスターチルドレンを全く聞かなくなってしまった。とくに林檎ちゃん。なんなんだ私は。椎名林檎を生きる指標としなくなったことと、私の日記が「精彩を欠く」と指摘されたことは無関係でない気がする。座右の銘が、「恋は盲目」から「人生なんてしれてるぜ」に変化しつつあることとも。染み付いた芸風をどうするのか。

「コーネリアス」という合い言葉のような固有名詞を出すのは気が引けるが、彼のリミックス盤、『CM2』に入っているTAHITI80の曲がとんでもなくいい。I love you more each day!と、音は跳ね上がって私を市ヶ谷の空に連れてゆく。見下ろしたらお堀の水がはねて、ビルのまどがきらっと光った。夏である。


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