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2003年07月31日(木)

『ギルガメ』がつまんなくなって、終わって、『トゥナイト2』が終わって、すべてのエロ番組が消えたのかと思っていたテレビ。ところが先日最後のあがきを目撃した。『デジ屋台』(TBS)のデジモの部屋というコーナーだ。日曜深夜の放送終了(ピーと鳴る)直前に水着のなんだかよくわかんないおねえちゃんが、めひょうポーズだかなんだかをやっていた。テレビは頭のいい、就活勝ち組の人間が作ってるんですよね。だから明日仕事だ!という睡眠直前にこれを流すことにはきっと深い意味があるはずなんだ。

それより七月がもう終わるという恐ろしい現実を前に、この夏休みの目標(仕事以外、ちなみに仕事の目標はクビにならないこと!!)を定めることにする。

1.できるだけ多くのお芝居を見に行く。
「私の好きな人は松尾スズキさんです」と言った後、「お芝居についてなら誰にも負けません」と言えるようになりたい。せっかくのインターネット。皆さんのおすすめ情報をお待ちしております。

2.一人旅をたくさんする。
腰を据えてじっくり旅をできる唯一の機会がこの夏休み。お金がないので国内で構わないし、日帰りでもいいのでひとりでしっかりと考える時間をちょこちょこと作りたい。旅はいい。ところで、公開中の田辺誠一監督の短編映画のお題は『ライフイズジャーニー』!友達に言ったら鼻で笑ってた。

3.是非読書会を。
共通の本を決め、あらかじめ読了後にみんなで語り合うという至福の時を過ごしたい。ちなみに個人的課題図書(夏でないと気合いが足りなくて読め無そうなもの)は、埴谷雄高『死霊』(講談社文芸文庫)、ドストエフスキー『悪霊』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫)、セルバンテス『ドンキホーテ』(ちくま文庫)など。世界の古典を読んでいなさすぎる。

4.会えていない人に無理矢理会う。
大学の先輩、旅仲間、インターネットでお知り合いになった方、クラスの友達、前の彼。おひさしぶりですお元気ですか。お互い出不精は良くないね、君が来ないなら私が会いに行くから。あ、逃げないこと!!

5.ミニコミ誌完成
いつも頭から離れない。半分くらい作ったが、なんせ執筆を頼む暇が・・・言い訳だ。頑張ろう。

6.ギター少女松尾化計画
先日、月末貧乏な友人につばめグリルでハンバーグを奢ったところ、「じゃあギターをあげよう」と嬉しいお言葉を賜った。目標はビートルズの弾き語り。私のカラオケを「声優声」と言ったおばかがいるのは内緒。

7.YAB-YUM、DZO KHOLAの服に挑戦
http://www.yab-yum.com/index.html
ゾ・コーラは安め(安い、ではない)なのが嬉しい。この冬の気分はクラシック?なのか。トレンドをあまり調べなくなったけれど、『流行通信』と『装苑』のテーマがまるっきりかぶっていたら誰だって気がつくわよ。

ああ、もう朝!つづきは次号。



2003年07月28日(月)

(無題)

7月25日の日記を読んでいて、
なんかちょっと嬉しくなったのでメールしてみました。

なんだろうな、長い冬が終わって、
分厚い雲の隙間から、春の陽の光が少しだけ射して来た時のような、
そんな気分。

田中(松尾)が少しずつではあるのかもしれないけれど、
ちょっとずつ光のある方へ歩き出したことを、
心から嬉しく思うよ。

ある人は言うかもしれない。
歩き出したからなんだって言うんだ。
その先にはまた闇があるかもしれない。
光が見えたからってなんだって言うんだ。
行ってみればその光の前にはどうやっても破れない、
とてもとても分厚いガラスの壁があるかもしれない。
そんな意味の事を。

でも、俺は、ファックユーと、そんな奴には中指を突き立ててやります。

田中(松尾)の言う通り、人生なんてたかが知れてる。
それはとても小さな箱庭なのかもしれないけれど、
その小さな小さな世界の中で、目一杯駆けずりまわっていたいと、
俺はいつもそう思っています。
目に写るすべてが新鮮であるような、子犬みたいにね。

俺の周りには、そうやってたかが知れてる人生の中で、
目一杯はしゃいで、駆けずり回っている人がたくさんいて、
そんな彼らはとてもとても楽しそうに見える。

だから俺もそうでありたいと、そう思っています。

確かな未来にもつながっていないけれど、
大袈裟な絶望とも無縁な場所に僕らは立っている。

そういうもんなんだと。

そんなまっさらな草原で、どこに行こうが何をしようが、
すべては自由なのだから。

きっとどこかには限界があり、
完全な自由などありえなくて、
そこかしこに束縛があったとしても、
ある限られた範囲の中では、すべては自由なのだと。

箱庭の中で、鎖につながれて、
僕らはちっぽけなチワワみたいな存在なのかもしれないけれど、
鎖が伸びる限りは、どこまでも走れるし、
いくらだって泣けるし、いくらだって笑える。

俺が思うのはたったそれだけのことで、
それは人生でも恋愛でも仕事でもぜんぶ同じ考えです。

でもこれはあくまで俺の指標であって、
他の誰にも押し付けようとは思わないし、勧めようとも思わない。
もし田中(松尾)が追いかけようと思っていても(思わないだろうけど)、
それが田中(松尾)には向いているか分からないから、
俺はとくべつ田中(松尾)にこうしなよとはあえて言わなかった(言ったかもしれないけど)んだよね。

必要なのは宝の地図ではなくて、
どこかに宝があるのかもしれないという希望なんだよね。
希望というか、イマジネーション。

なんだかややこしくなってきたけれど、
とにかく、田中(松尾)がなんだか動き始めたことが素直に嬉しかったんだと、
そういうことです。

今までは元気出ました、とか、
前向きなことを書かれても俺は半信半疑だったからね(笑)。
無理してんじゃねえのか?って。

でもなんだか今回はそんな感じもなくて、
わりと自然な推力だなって思えたから。

まぁ、なんだか田中(松尾)にあててというより、
自分にあてて書いた自己確認みたいなメールになっちゃいましたが。
適当に読み流してくれ。

じゃあまたゆっくりと。

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(題名)金曜日の日記読みました。
本当によかったです。

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一週間が終わって、終電でうちに着いたらメールが二通届いていた。大学時代の大好きな先輩からと、文通(メール通?)相手の編集者の方からだった。ここ数カ月、私は「頑張る」と「バカにするな」しか言っていなくて、実際に自分の心の中を、そういう気持ちだけが占めていた。本当は「疲れたよー」と愚痴が言いたいけれど我慢しているとかではなく、たった一人で戦い、バカにされずに人と対等に渡り合うのだとそれだけを考えて毎日が過ぎた。

私が何ものかにならなければ、私は誰かと繋がることは出来ない。いつもそうした強迫観念と共に生きている。しかし、どこまでそうしてひとりぼっちになりきったつもりでも、ひとりではなかったという幸せがここにある。

こういう気持ちが悪い(失礼)メールの文章を、笑う人がいるかしら。私は涙を流してしまう。それは私が気持ちの悪い人間だからだ。まっすぐに誰かを愛するというのは、なんて気持ちが悪くて嘲笑を誘う行為だろうか。



メモ
十日ほど本屋を覗いていなかっただけで、だいぶ棚が変化していて驚いた。直木賞と芥川賞発表後ということもあるのかもしれない。毎日通う常連になると、棚の見え方が変わるから書店は楽しい。「ああ、ここはあれがまだ欠品してるよまったく」などと愚痴りつつ結局3、4軒回ってしまう。デザイン本が充実している若者向け書店には、たいてい内田百聞や新書が足りない。町田康と石田衣良は平積みされているのに。かっこよきゃあいいのかい、若者よ。というか若者ってそんなに単純かい、青ブックさんよ。

ところで流行通信の次号(28日発売)は本特集らしい。「本が来てる!」。ハックネットに行くことが、マルタンマルジェラを着ることと同じように通過儀礼となるのならば”6年連続右肩下がり”(面接で言われ続けて覚えたよ、やれやれ)の業界にも風穴が空くのではないか。面白いことだ。

過日は終電に乗り遅れ、行くところがなくて同棲カッポウのうちに転がり込んだ。誰かと一緒に住む、生活するというのはどういうことなんだろう、素敵だなあ。きれいに片付いた床と二本のハブラシを見て、アメリ系ひとちぼっちの乙女は思ったのです。と、気付いたら朝私一人だけがベッドに寝ていたよ、すみません。

どうせ分かんねえよ、と思って避けてきたものを受け入れてみたら凄く良かったということが続いている。スーパーファーリーアニマルズの『ファントムパワー』は傑作。ビートルズのホワイトアルバムが心にしみる。私はロッキングオンジャパンレベルの人間、という劣等感がいつもつきまとって(そういうのってない?洋楽雑誌のほうが偉い、NMEはもっと偉い!というような)いたけれど、もう面倒臭いから取り払おう。ロッキンオンとスヌーザーを理解しないままだけれど相変わらず読んでいる。ただのえらそうな雑誌だと思っていたのが、優れた情報誌機能も持ち合わせていることに気付いて、本当に見直している。

最近はCD屋の棚に慣れ親しむことが目標。書店とタワレコに、自分の部屋のように通うというこれまたアメリ的ハッピネス。



2003年07月26日(土)

- お久しぶりです。

月曜日から編集プロダクション(出版社に依託されて記事を作成する会社)のアルバイトを始めました。最終面接で落ちてしまったところが、ひょんなきっかけからアルバイトとして拾ってくれて、この御縁を大切に社員になれるよう頑張ろうと思います。今ちょうど一番忙しい時期らしく、昨日は終電を逃してしまいました。

でも人を使い捨てにしないよう細やかに気を配ってくれて、「これからは九時になったら必ず帰ってね」と言って頂きました。いい会社だと感じています。

毎日の仕事は、エクセルでのアンケートの入力、企業から届いたメールの整理、返信、デザイナーさんへの簡単な絵コンテの作成など、本当に「雑用」--小さな小さな仕事ばかりです。それでも毎日電車に乗って同じところに働きに行くこと、仮の所属がることを、私は幸せに感じます。人生なんてしれているのです(これは最近の座右の銘、悲観とは違います、分かるよね?)。

大学で年上の友達とおつき合いしたことで、私の周りの人は多くが、社会に出て働いています。大学四年生になって就職活動をして行く中で、そのことは強いプレッシャーになりました。自分が中ぶらりんであること、まったく一人で立てていない人間であること、困るとすぐに同じ人に頼ること、そういった甘えた部分を寄り掛けもたれ掛かからせてやってきた人々が、社会に出たら物凄く強くなっていました。夏を過ぎたら、「会社を辞める」と誰も言わなくなりました。

今でも社会人の友達に会ったり電話をしたりすると、私はいつも自分を恥ずかしいと思ってしまいます。彼らは絶対に愚痴らないし、私のように泣いたりしません。ひとりぼっちで、甘えていて、くそみたいな私はひとり真夜中の部屋で思いました。私も絶対に、いつかこういう生き方に追い付こうと。辛いことしかなくてお金もなくて、ルーティンワークの繰り返しで、夢から離れて行く時も、自分の人生を自分だけで考えられる人間になりたいと。問題は表紙がつるつるのかっちょいい雑誌を作れるかとか、新聞の「ひと」コーナーに取り上げられるだとか、外苑前のカフェ、officeで仕事をするとか(これらが私のかっこよさの基準)ではないのだと、ようやく気付きはじめました。だからこそ心底思うのです、変わりたいと。

これから、どうなっていくのかは分かりません(就職活動は続けます)。とにかく動きがあったのはいいことです。同時に人生が止まっていたこの数カ月、いや数年?間は本当に貴重な時だったと感じています。もしかしたらまた止まるかもしれない。あはは、そんなのへっちゃらです。どこまでいってもぬるい地獄は続く。だからといって絶望することはないのだと、私は経験から学びました。毎日書店に通って棚を見て、夜に涙を流して好きな人の事を心の中だけで考えて。忙しいと忘れてしまう心のひりひりした部分を、ずっと見つめ続けたことは無駄ではないし無駄なことなんてそもそもないのでしょう、とクラムボンの原田郁子も歌っていますよ。ね、そんなスタンスでやっていきたいと思う金曜日の夜です。実は明日も出勤です。



もうひとつ。これもひょんなことから、映画評論家の方とお知り合いになることができました。ただ雑用を(ノーギャラで)お手伝いするだけのつながりではありますが。人格者で物腰が柔らかく、素人にも惜しまずに業界の事を話してくれます。本当にためになります。しかもそれが少しも傲慢ではなく、編集者にありがちな「わざとらしい腰の低さ」(私はこのタイプだと思う、自分がへこへこしてることに酔っているのは嫌い)もない。ひたすらナチュラルに、「汚いところだから出版なんてやめときな」だとかおっしゃるのです。

先日はじゃあ一回様子見にいらっしゃいよ、ということで先方のおたくにお邪魔し、一日中映画の編集作業を眺めていました。夏に公開の映画を一本、繰り返し繰り返し見てしまうというラッキーな一日でした。



世間ではフジロックが行われているようですね。昨日、終電がなくなった時に友達に「泊めて」と電話をしたら「今フジロック」と言われて気がつきました。真夏のだるさを知らずに、クーラーのきいたオフィスでパソコンに向かう私は、少し前ならあらゆる「無駄」についてひとしきり悩んだかも。放っておきましょう。しれているのですから。こればかりですね。しれているのよ書くことだって。




2003年07月25日(金) しれてるぜ。

サチコ結婚おめでとう。末永くお幸せに。



”あんたが飯食ったり服買ったりセックスしたり別れたり、松尾が好きだったり忙しかったり退屈で死にたくなったりリストカッティングしたりとほほな衝動買いをしたり、それがどうしたんだよばーか”。

--無限大に垂れ流されては消えてゆくインターネットの個人サイトを、「箱庭」とバカにする人がいる。ええ箱庭ですよ、醜く開き直ったあとに私はひがみ全開で叫びたい。こちとら無償のボランティアーだぜ、勝手にやらしてくれよ、と。

セレブのデジカメ日記、やらポラ日記、ちゅうもんが雑誌のメイン連載になっていることがしばしばだが、あれが私は大嫌いだ。凡人にとっては自慢話にしか見えないから。

飯食った(外苑前の「office」というオシゴトもできるカフェで)、服買った(お友達のスタイリストさんに誘われて行ったギャルソンの展示会で)、セックスした(後にホテルから出てきたらフライデーにパチリさてヤバい!)・・・。

()を除いたらやっていることは同じなのに、どうしてあの人やあの人の一週間は売り物になり、あの人やあの人以外の、どうしてもどうしても飯や服やセックスについて書きたいその他大勢はバカにされなければいけないのか。

そんなことを言いながら、実は私、セレブ日記をせっせと読んでしまう。小林明美ちゃんは彼氏と三年目なのね(sweet)、キョンキョンは海に行ったのね(IN RED)、マルヤマケイタと実和子はこんなに仲良しって、なんか怪しくない?(流行通信)、フィガロの『東京デザイナーの日常』特集なんて、マークジェイコブスがかっこいいだけで買ってしまった。要するに女性自身を読むおばちゃんと同じ心理よね。ちゃっかり面白いんだ。

それでは、その他大勢の日常はつまらないかと言ったら少なくとも私にとってはそんなことはない。展示会に呼ばれないギャルソン狂が、初めて買ったロゴTをデジカメに撮って自慢するのを愛おしく思うし、彼氏とのメールのやりとりを全文書き取っては不安な乙女心を吐露するどこぞの女子高生に、昔の自分を投影してしまう。エンターテイメントの質は、有名無名で決まらない。面白いことをしているから面白いんじゃない。(時には面白くないことでも)面白く書いてるから面白いんだ。

そういうわけで、セレブでも何でもない私は金曜日にオリーブのない18日を過ごし、土曜日にママラグのライブに行って田中王子に涙し、日曜日に友達の結婚式に出席して感動し、今日は公開前の映画を無償で見せて頂くというラッキーな一日を過ごしました。明日からは新しいアルバイトをします。あ、コーネリアスのリミックス盤を買いましたよ。昔好きだったボニーピンクのFISHが入っていてびつくり☆

つまんねえことをつまんなく書くとこうなっちまうんだぜ、っつう見本を見せたことで今日は寝よう。明日からは頑張る。たかがしれてる人生を。



2003年07月21日(月)

ママレイドラグのライブを見てきました。かすかに残った心の純粋な部分から上澄みをすくいあげ、それを世界のすべてにしてくれるような音楽の空間でした。素直で心がまっすぐのまま生きていってもいいのかもしれない、と思えて楽になれます。この人たちの曲を聴くと。

ボーカルの田中さんは、(おそらく世間一般で認知されている)イメージよりもずっと気さくで、饒舌な方でした。しかしやはり顔を鼻水だらけにして泣いたり、トイレに行ったりはしなそうな浮世離れした雰囲気があります。とても魅力的でした。彼、歌を歌うときはほとんど目をつむっているの。王子です。そう、王子とはあの人のことを言うのだと思います。ステージから帰っていくときに、「また会おうね、またね」と何度も何度も手を振ってくれて、一回目と二回目は拍手で我慢したけれど、三回目に手を振ってしまいました。もう若くない21なのに。彼はギターも歌声も、寸分のくるいも許さない熟練の職人のごとく舞台の上でひとりこつこつと作り上げている印象でした。友達が「CDと声が一緒だったね」と感心していました。誉め言葉です。

個人的、今日のベストは"You are sixteen You are beautiful You are mine"と歌う曲(題名は分かりません)のカヴァー。ほかにビートルズのBlackbirdのカヴァーもやってくれたのですが、両方とも肩の力が抜けて、楽しんでいるのがこちらにまで伝わってきました。すごくよかった。

君は16歳、君は美しい、君は僕もの。君は16歳、君は美しい、君は僕のもの。君は僕のもの。君は僕のもの。



2003年07月19日(土)

明日はテスト - 今日、先日受験した大手編プロから残念でした封筒が来ていて(遅いから分かっていたけれど)、「先日の最終面接には18人の方におこし頂き、そのうちの四人を内定とさせて頂きました。しかし他の方にもアルバイトの募集を受け付けますので興味があれば申し込んでください」とのこと。

出版社は中途、アルバイトからの就職率が大変高いところですので、これからも新卒にこだわることなく頑張ってください。そうした志のない優等生気質の方はもともとこちらの業界でやっていくことは難しいと思います、といった内容の、他に類を見ない非常に丁寧な文面の手紙が入っていた。まずアルバイトに応募し、ここまで残ったことを糧にこれからも進んでいくことをもう一度決意する。ふう。さてと、芥川賞と直木賞が発表に。自分のためのリンクを張る。

http://bunshun.topica.ne.jp/kakusho.htm



すっかりマーさんのファンになって、朝から晩まで舐めるようにロック画集を眺めている。ネット上にこの人の情報が少なすぎるため悶々とする。

衝動が押さえきれなくなったためロッキングオンに電話をした。「マー関口さんの御連絡先が分からないのでファンレターを転送して頂けますか?」と言ったら、女の人が少し笑いながら「大丈夫ですよ」と言う。ああプレゼントは何にしよう。と、ほんさんのページにあった「男乃カレー」が気になった。(でも他の人のイラストが)



本郷の郵便局に履歴書を出しに行ったので、上野の森の「国際子ども図書館」に足を伸ばす。一組の母娘以外、大人--しかも私のような少女になりたい風女の子--しかいない。建物は三階建て。1Fは子どものための本の閲覧室、2Fは一般の大人や研究者のための資料室、そして3Fにラウンジとギャラリーがある。大型書店で棚を眺めているのでは見つからない貴重な本をたくさん知る、または思い出すことができた。

ふと、浮浪者のテントが並ぶ横を通り過ぎながら、帰り際に考えた。ああ、何年か後、母親になってここに子どもと毎日通うならば、それはそれできっといい人生に違いない。そして子どもが巣立ち、老後の暇を潰すために夫婦で平日に美術館を散歩する。二人は噴水の前で記念撮影をするのだろうか。そのとき私は21歳のこの倦怠感を思い出して、禿げただんなに語るのだろうかと。

はは、畜生、ヒューマンライフなんて知れているな。どこまで続くのか、何もなくてもぼかぁ行ってやるぜ。知れてるんだからな、雑作ないさ雑作ない。

借りたい童話が浮かんだので帰りに地元の図書館に寄り、こどもの棚からいくつか拝借した。

今日の気になる一冊

村上春樹 柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)

もうあれですよ、「ハルキ」と名のつくものを売ればとりあえずご飯が食べられるんですね、出版界は。と、うがった見方をする気はありません。数年前に出版されている『翻訳夜話』の中で、村上さんは確かに、「今はサリンジャーがやりたいけれど色々問題が・・・」、と語っている。さてその後、どうなったんだ?と気になるのが人情というもの。結局買ってしまうだろう私はまぎれもなく、ハルキ依存者の一員なのでした。

これ買った!一冊

『夏目房之介の「講座」』(廣済堂文庫、現在はちくま文庫)

古本屋で200円。ラッキー。夏目先生といえば、私が高校生の頃から不定期で続いているNHKの『BSマンガ夜話』という番組を思い出します。夏目の目、というコーナーで先生が1コマを取り上げて詳しく解説するのですが、これが本当にマニアックな世界・・・ハっとさせられることも多く、大好きです。この番組のためだけにBSに入る価値があると私は思います。あ、本の話?まだ読んでいません。でもつまらないわけがないじゃないですか!合わせて『漱石の孫』(実業之日本社)も買う予定。

おまけ
児童書編気になる一冊(と言いつつ二冊)

エーリヒ・ケストナー『エーミールと探偵たち』(岩波少年文庫)
コメント待て。

『�目で見る世界の国々』(国土社)
イギリスをイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、北アイルランドに分けて紹介するという「常識」に驚いてしまう21歳がここに。端から読みたいシリーズ。週刊ネイション、とかいってディアゴスティーニが売り出したらいけるのではないかと勝手に思うのですが、いかがでしょうか。



2003年07月17日(木) 宇宙百貨に行かなくちゃ。

私は『装苑』くんを愛しているが、最近彼から気持ちが離れているのはその生真面目さ、あまりの頑張り過ぎを「重い」と感じるようになったからである。モードに対する視線があまりにも真直ぐで、べたっと語りが入って、しんどくなることがあるんだよね。

決定的だったのが最新号(8月号)の藤井隆の取材。モードの服を着せられてカメラにけだるい視線を送る藤井に、「可能性無限大」とコピーがついている。可能性無限大だって!その可能性を完全に封じ込め、『装苑』の枠に無理矢理収めたような、見ているこちらが恥ずかしくなるページだった。

人生、洒落でも言わなきゃやってられない。それなのに、「御洒落」するのに頑張って研究してしまうのが『装苑』くんなのだろう。モードのなんたるや、重ね着のバランス、アートへの傾倒(ああ、ここにも”私語り”)。悪い事じゃない。生真面目なのはいい事だし、時には本気を出さないと誰も認めてくれない。彼は私と似ている。重いのは、近親憎悪の一種だって分かってじゃいるけれど・・・。

そんなもやもやの日々に、ひとつの素敵な出会いがあった。ふとしたきっかけだった。『マー関口ロック画集』さん!彼は凄い。オトナなのです。

「ロック」という、なんとも暑苦しく、皆が鼻息荒く語ってしまう題材から、力みという力み、気負いという気負いをすべて抜いてしまったのだから。ヤク中のボビー・ギレスビーをかたつむりやカブトムシにし、日常生活に潜むダークサイドを繊細な音で暴き出すトム・ヨークにタマちゃんギターを持たせる。

ふざけている。ロックへの冒涜だ。『装苑』くんが殴り込みにいきそうだ。それなのに、どうしたことだろう。御本人はいたって真面目なのだ。カブトムシになったのに、それでもボビーはシャウトしている。ミックジャガーは、「タマちゃん」Tシャツを着て、表紙を飾ってしまった。

こういうのを、御洒落というのではないかしら、と私は思う。軽さがある。笑いがある。そしてその先に、「無限の可能性」が見えるのだ。こうして真面目にまとめた文章に、私はマーさんのイラストを添えておこう。不思議だ。頑張って書いた文章が、全てバカにされている気になるんだ。人生なんて冗談だぜ、へへい、(鼻血じゃなくて)鼻水をたらしながら、アンドリューW.Kが言った。

今日の気になる一冊

これ買った!一冊はまた書きます。



2003年07月16日(水)

少し前に小林エリカのトークショーに行った。終わった後に「楽しかったです」というメールを送ったら、きちんと返事がきて驚いた。礼儀正しい人なのだと思う。『H』の爆弾娘の憂鬱の頃から読んでいます、編集者になって御一緒にお仕事できるよう頑張ります、と書いた。

私は男の人が好きなので、応援したくなる女の子というのはなかなか珍しい。自分の分身のようだとイライラする(鬼束ちひろさん、ごめんなさい)し、自分が欲しいものをすべて持っている(麻生久美子さん、すみません)と羨みは妬みに変わってしまう。

エリカ女史は、「私変わってるんです」ということに何の気負いも感じさせずにいるところが好きだ。普通の部分の残っている人は、自分をメタ視線から眺めることができる。”私語り”がないの。『空爆の日に会いましょう』は、日記だというのに。

そんなわけで最近の松尾麗子は、私語りに少し疲れた。夢を語るのも疲れた。諦めないと書くことに息が切れる。自分がこんなに負けたのは初めてだと、驚く私にみんな飽きたでしょ?と思う。どうしたものか。それでもやるしかないので畜生、と思いながら生きている。

きっと小林エリカはふわふわしているから、あまり「畜生」とか、思わないんだろう。



shimaで髪を切った。前髪を作った。明日はレポート提出で、明後日は履歴書の締め切り。しあさってはテスト、土曜日はママラグのライブ、日曜日は友人の結婚式だ。予定はあるけれど、お金は生み出さない。



暇な身分の代名詞的行動=タワレコで視聴、をしていて、心わしづかみアルバムに出会った。(心わしづかみボーイにも出会いたいわん、と言って昨日は『あいのり』を見た私。暇にあほうの上塗りを・・・。)SUPER FURRY ANIMALSの『ファントムパワー』。雑誌で一年くらい前から見ていて、きっと素晴らしいんだろうけど私には縁がなさそうね、なんて斜に構えていたのが大間違い。結構直球好みでした。百聞は一見(聴)にしかず、とはよく言ったもの。この人たち売れてないの?どうなんだろう。



松尾スズキ(あ、またこの人を出してごめんなさい)の著作では有名な、彼が7年付き合った暴力女でヒモ時代の恋人、という女性がいる。初期の著作を中心に読んでいた友人は、てっきり彼女が今の奥さんなのだろうと思っていたらしい。別れて今の人と結婚した事実を知って、物凄く驚いていた。そりゃあそうだ。どうしてヒモにまでなって、暴力ふるわれても一緒にいた人と、7年後にわざわざ離れる必要があるのだろう。

先日も前の彼に「数打てば縁のある人に当たるからまたコンパに行きなさい」と言われて、そういうもんなの?と素直に驚いたのだけれど。5年も付き合った超べっぴんさんを振った大馬鹿野郎な過去を持ち、今は三十路すぎのプロレス店勤務女子とおつき合いしている彼(つくづく訳が分からない。そしてプロレス店て何が売ってるの?サスケのマスク?)の言うことなので、少し重みがあった。

別れる時に、人々は口をそろえて「二人にしか分からない問題が」と言う。二人にしか分からないことって何?性の不一致?とか午後は○○思いっきりテレビのような事しか思い付かない私には、まだまだ恋愛は早いってことかしら。まあね、ありゃあコンパでもなんでも行くけど。やりゃあできるんだよあたしだってよお。



今日の気になる一冊。

『マー関口ロック画集』(ロッキング・オン)

立ち読みしたら笑いが止まらなくて困った。2000円越えでもこれは買ってしまう予感が激しくする。とくにボビー・ギレスビー大先生が笑えます。表紙も「ボ」って書いたTシャツを着用。「ボ」って、ねえ。マイベストボビーはかたつむりになってらっしゃるお姿。本人は了承しているのか・・・。

これ買った!一冊。

『Olive(POPEYE 1981.11/5号増刊)』(マガジンハウス)
ポパイ増刊号時代のオリーブを発見。渋谷古書センター二階のフライングブックスにて。今見ても古めかしくないコーディネートカタログが、まさにオリーブ文化の原点といえる内容。乙女にしがみつく21歳、ここから研究することにいたしました。



2003年07月14日(月) メモ

女性ホルモンの影響でぐだりぐだりとした一日。ヤフオクのため、ズッカのカーディガンやらTシャツやらの撮影をしていたら月収手取り30万おしゃれボーイから電話が。「もててるー?」と聞かれる。もててなくても平気です。生まれながらのアーティストになりたいよー、とおっしゃるので成り上がりの方が格好いいべさ、あんたにはファンもいるだべさ、と返しておいた。笑ったので咳が止まらなくなり、じじいのようにごえごえっとむせてしまった。

饒舌だけれど何かの拍子に沈黙になったらもう戻ってこられないようなブラックホールをどこかに抱えていそうだけれどそれも罠?というような複雑もやもや系のおしゃれな人とばかりご縁がある気がする私。彼は松尾さん情報を教えてくれた(本題)。私は、「就職活動はなかなかうまくいかないけれど、絶対何とかするから待ってろ!」と男気に溢れた決意を伝えておいた。まじで這ってでも吐いてでもどうにかするから待ってろ。



数日前のことになるが、神保町の「いもや」に行った。やそじさんに教えて頂いたとっておきの天丼屋さんである。お昼時だったので行列できていたが、並んだ甲斐あって本当に美味しかった。味噌汁付きで500円ならてんやよりも安いじゃないか!

天丼を王として、店全体が統治された無音の空間。暑い。おじさんと、おばさん2人はひたすら職人芸で天ぷらを揚げたりエビをむいたり茶碗を洗ったりし、訪れる客も、職人のようにひたすら天丼を平らげ、ごっつおーさん、と500円玉をおいて出てゆく。うまい、という心の声を挟みながら機械作業はつづく。私はきゃっきゃした若い子代表として、「おいしーねー」と友達に話しかけてみた。店の沈黙を破るのはルール違反なのかもしれないが。また行こう。



さらに前の話になるけれど、とうごうちゃんお誕生日おめでとう。都築響一の『珍日本紀行 西日本編』(ちくま文庫)をプレゼントした。もう飲み過ぎないでね。



2003年07月13日(日) メモ2

久しぶりに前の彼から電話をもらって、また「絶対出版社に入るからばかにすんなよ」とか「振られたよー」といった話をした。私の近況はそれしかないらしい。

「辛くてもやめないで続ける人はすごいと思うから頑張れ、田中(松尾)は心が真直ぐでいい子だから大丈夫」と、ドラマか少女漫画かという素敵な言葉を頂く。

何故かもう嬉しいのか悲しいのか我慢が出来なくて、途中、電話口でずっと泣いていた。一人で眠る前の時のような、こんちくしょうという感じの可愛げのない泣きだった。これじゃあカウンセリングに行った東ちずるみたいだよ。

ああ、ものすごく馬鹿みたいな日記だと思うけれど、こういう心のつながりが一年に一度くらいあるから私はやっていけるという気がするのでそのまま書く。書けるようになったのは、少し何かが変わったからかもしれない。

彼は取材でイギリスに行った、とかかっちょいいことを言っていたので大物じゃーん、としみじみする。しかしそんなことを吹き飛ばすくらいもっと深く感銘を受けたのは「スコットランドのエジンバラが街全体が石畳で、中世の雰囲気ですごく良かった」という話。ああ、心が機械でできているような人でも、世界史に出てくる風景を目にしたら素直に感動できるのかと嬉しかった。海外の、ドラッグと音楽と都会にしか興味がないかと思ったから。「それならスペイン行きなよ。すごくすきになると思う。素朴だけれど街全体の雰囲気が、世界史が好きな人にはたまらない」、という多分知り合ってから今まで、数年で一番普通の話をした。

話していて興味深いテーマがもうひとつ。「人の好みは育ってきた環境やなんやかんや(あとなんだっけ)から、絶対ある一定のタイプにプロファイリングされる」ということ。”ママレイドラグを好きなのは自分を少女だと思ってる、昔オリーブ読んでた30歳”(笑)(笑えない)、など、そういったことだ。

私はどこに属するのかしら、と尋ねたら”オリーブとクイックジャパンが混じった、間違った感じ”だそう。(ちなみに自分では、カヒミカリィに憧れる鬼束ちひろ、という気がします、あ、中身の話ね)ああ。

「一番もてるのはオリーブとキャンキャンの間(それってノンノじゃないか?)だから、自分がやばいって分かったほうがいいよ」と言われる。「私は心が真直ぐなのに、どうしてそういう方向にいっちゃうんだろう?」と聞いたら「心が真直ぐだとそういう方向に行くしかないようにできてるんだよ、俺なんか真直ぐすぎるからこうなっちゃったんだ」と。

彼は組みにわけられるのが嫌なので嘘ばっかりついてやっているそうだ。私は括られてひと安心よ。オリーブとサイゾーを毎月18日に買う女の子として、これからもやっていくわ。なんて、かっこよく終わりたかったけどオリーブが休刊した。埋め合わせにクイックジャパンを買うのかなあ。これでいいのかなあ、ってちょっといいと思ってるのが一番間違っていることに気付いてはいるんだ。

プロファイリングデータ確認のため、19日はママラグのライブに行く。



ジュンク堂で枡野浩一さんを拝見した記念、現代風短歌特集。ああひどい、ごめんなさい。けどこれ、作るの面白いです。適当すぎですが、大目に見てください。

1 歩く時手を繋がずにお互いを
 名字で呼ぶとかいう幸せを

2 セックスや面食いが嫌いなにひとつ
 理屈なしでは不安になるの

3 本棚に共通の本見つけては 
嬉しくなるわ君が好き

4 魚喃とマルジェラとさえ言えば通じる
 通じないよりずっとましだろ

5 笑いあうあなたと午後の学食で
 何故あの景色だけ浮かぶのだろう

6 心臓をえぐりとるよな激痛を
 感じられない地獄を知った

7 かわいいよチャーミングだよおしゃれだよ
 そんなの全然褒めてないんだ

8 渋谷駅人ごみはもう恐くない
 強くなったの?鈍くなったの?

9 したいことなんてないんだ何一つ
 そう言う君の瞳をのぞく

10 本当はもっとずるいし汚いし
  弱虫だよというずるい人

11 るきさんのように生きたいでも彼が
いてくれたならもっといいけど

12 帰ったら一人でビールとつまみだぜ
 不幸せそう?そうでもない

13 ヴェットモンのシャツを買ったの見せたいの
だからデートをしようだめかな



2003年07月12日(土)

垂れ流して続けることにした。 - 休日だったので、一日ミニコミ誌のことを考えていた。昨日、昔作っていた(かなりの数を発行していたらしい、1000部!!凄い)という先輩にノウハウを伺ったところ少ない部数なら製本屋に頼むと綺麗に仕上がるよ、とのこと。クオークがなくてもどうにかなるから0号作ってみ、とお言葉を頂く。とりあえず途中で投げ出さないことを第一の目標としながら書いていこう。

先日、リンクして頂いた方のページを見たら、私のサイトの紹介文に「超スタンダード!」とあった。そのとおり、アンダーグラウンドやサブなんたらを目指しても、結局私の作風はスタンダードに落ち着くような気がする。当然「誰もがマイノリティだ」、ということが一面の真実である限り、スタンダードとは何ぞやということにもなるのだろうが。

七尾旅人『蜂雀(ハミングバード)をようやく購入。昨日の夜、眠る前にこれを聴いていたら激しい虚しさが襲って、本当にどうしようかこんな自分で、という気がしてきたが、ひとりだけ、人間の顔がうかんだのでどうにかつなぎ止まることにした。私も、心が半分無くなったのかもしれない。

人生のうちの二年か三年、自分は眠ったりごろごろしたりでいったい何をしていたのだろうという期間があった、という人が私の周りには結構多い。今の私の状態がそういうことならば、いずれ大きく羽ばたくこともできるのだろうか。



2003年07月10日(木)

たくさんの言葉を覚えすぎて一言も話せなくなるなんて、という言葉があるそうだ。 - ご飯を食べていくために色々と大変なことは多い。売れない本はつまらないと思う。けれどももっともっと大切な、自分は何が好きか、自分は何をしたいのかという根本的な問いに、大学四年の夏休みを前にして私は戻ってきてしまった。それを見つめ直すためにミニコミ誌を作るところから始めてみようと思う。誰にも見せられなくても、とにかく作らないことには残るものは何一つないのでやる。

「わたし、やるから」と友達に興奮しながら電話をしたら、「酔っぱらってるの?」と尋ねられた。

映画好きの友達が毎月買っている雑誌、『nobody』《詳しくは存じ上げませんが、有名な先生のもとに集う、私と同い年くらいの某大学学生が作っているという。ミニコミ誌に入るのかな》を初めて手にとった。特集が、”雑誌ってつまらない”だったから、書店で見つけた時、ああ、本当にそうだなあと直感的に思ったからだ。私ったら、偉そうに。

トビラには、次のようなコメントがある。

***
かつて雑誌が面白い時代があったらしい。雑誌が最先端の情報源で、雑誌が生活スタイルのお手本だった時代。そんな時代の末期、80年安保の時期から20年が過ぎ、ふと周りを見渡して呟く。「雑誌ってつまらない・・・・・・」。

手許にある手がかりは、『「ポパイ」の時代』、「スタジオボイス」。安原顕。最初から、「面白い雑誌」なんて知らない世代の雑誌特集。
(P25より抜粋)
***

昨年の秋以降、松尾スズキさんの連載を読むという現実問題もあり、やたらめったら雑誌を買いあさってきた。そして気付いたことは、ああ、なんだかどれもたいして面白くないかも、というとても単純で気の抜けるような結論だった。隅から隅まで目を通しても、読めば読むほど味が出て、心意気が特集から細部まで行き渡っている上、私の極低俗な、個人的趣味にぴたりと合ったのは、本当に本当に正直に申し上げて『編集会議』くらいだったのかもしれない。今になって本棚を見渡しながら思う。

何故『編集会議』か、といえばそれは私が編集者を目指しているからという要因、『スタジオボイス』や『流行通信』がどれほど素晴らしくても評価できる立場にないという身の程を知っている人間だという要因、色々なことが絡んでいると思う。

だいたい、そんなことを言いつつ私は月にバカみたいな数の雑誌を消費するし、今までホームページ上で褒めちぎってきた数多くの記事はどうなってるんだと言われればそれまでだ。そしてなによりその、”つまらない(らしい)もの”を作っている出版社に入社することがどれだけ大変なことかは涙が出るほど分かっている。実際、何度も泣かされている。

そうだ、私はずっと、「つまらない」なんて言っちゃあいけないと思ってやってきた。プロの編集者、つまりエリート会社員の方が、時代の流れや売れ筋、読者の心の動き、どこよりも早い情報、あらゆる「売れる要素」を合体させ、詰め込み詰め込み作ったもの(皮肉でも何でもなく、素晴らしいことだと思う)をつまらないなんて絶対に言っちゃあいけない。

ああ。それなのに、『nobody』は面白い雑誌なんて俺ら知らないぜ、と言い切る。そういやMRの悪口を書いていたのもこの人たちだったっけ。最低の最高だぜ。

「雑誌ってつまらない」?それなら自分で作ればいい。きっとうまくいかない。受け入れてもらえない。雑誌コードもとれない。それでも自分で作ればいい。「つまらない」と言う前に、つまらないものを自分の力で完成させなきゃ。こういう恐いもの知らずの向こう見ずを言い訳する時に、若さを使うんだぜ。



2003年07月09日(水) 追記

深夜に下の文章を書いていたら、ある人からメールが入った。

「おまえ、なんか悩みでもあるのか?それとも何も悩みがないのか?単に路線が変化したのか?最近の日記は精彩を欠いてるぞ」

私の返信。

「本当に君は鋭いね。恐いくらいだ。日記の事には少しも気付かなかったけれど、実は自分が変わったことを強く実感する最近です。

悩みがない。

正確には悩みを書いたり人に言うのが嫌になった。他人に何かを求めずに済むようになってしまった気がする。大袈裟な言い方だが。傷付かなくなると、私は何かを書く気がしないのかも。これもかっこつけすぎ発言だけど。でもほんっとーに、きみは鋭い」。

友人。

「おれっち中学の時はカミソリって呼ばれてたからよう。それはそれとして、何であろうが変わることはとめられない。おれも変わった。端的に表現するなら激しくおっさん化しつつある。こないだサッカーしたとき、おれの体は鉛でできてんじゃねえかと錯覚したほどだ」。

返信。

「あなたでもあるんだー。個人的に見てたウェブ日記でも、そうやってつまらなくなって、私が見るのやめてしまったところが結構あったなあ。ボニーピンクも椎名林檎もそうかも。歳をとって、変わったなりの何か魅力ある演技なりなんなりを考えなきゃだわ」。

「考えたって仕方ないと思うけどな。おやすみ」。

先日書いた、思春期の問題と同じことだろう。自分にとってプラスであると思い込んでいたことが、別の作用をもたらすこともある。痛々しく身を削り、生きるか死ぬかのところで何かを吐き出すことを格好悪いと笑うならば。もうここに書くことも、無いのかもしれないとふと思った。





私の携帯の待ち受け画像は町田さん。

電車で開いた時に、彼氏だと思われたらどうしよう・・・康(本名:やすし)さんといい仲だなんて取り沙汰されでもしたら!!ねえ、アヴァンチュールってもしかしたら、この苦しい胸の痛み?秘密の恋に効く、8月号を発売してみました。

昨日うつらうつらとパーソナルコンピュタを操っていたら、テレビっ子のお友達から「さっきテレビ見てたら松尾スズキさんが出てた。便がどうのって」というメールを頂く。便がどうのって何だろう。

事後報告だったので番組も良く分からずに、しかし突然松尾さん禁断症状が出てWOWOWの番組、『松活妄想撮影所 まぶだちの女』のビデオを見た。映像の最後にある松尾スズキ担当編集者覆面座談会(まったく覆面はしていない)を鑑賞しながら、ひとつの結論に達した。ああ。拙者は猛烈に、兵庫慎司になりたい。

素人の私が語り得る兵庫氏のプロフィールは、ロッキングオン・ジャパンの副編集長で、ビートたけし狂の方。松尾スズキの連載の担当、しかも松尾さんの単行本を一冊まるまるまとめるという夢のようなお仕事もなさっている。その上ジャパンの副編ということは鹿野さんに最も肉迫できる間柄だ。

実務的現実的な目標は、ともかくこの人をおいて他にいないちゅうことね。打倒!ヒョーゴ!!だわ。愛を込めて。

ああ、それにしても久しぶりにロッキンオンのサイトを見たら、「ラルクのライブを見て泣いた」という編集部員のコメントが。すべてこちらの過剰な思い入れがまねく失望とはいえ、少し虚しくなる。ヒョーゴ愛を感じた後だけに。

春(というか冬)に筆記落ちした泣く子も黙る大企業は(まったく秋ではないのに秋採用)、とりあえず一次面接に行けることに。何でも長くやっていればコツに気がつくもので、最近面接も途中まではいける感触を掴んできたような。最終まぎわのツメを、一度でいいから突破できればと思う。その会社に行く。



2003年07月08日(火)

七夕に雨音を聞く。 - ママレイドラグのライヴが迫っていて、ドキドキしています。ちょっとやっぱり、申し訳ないけれど、ボーカルの田中さんは鼻血が出るほど格好いいと思うのです。美しいということは、こんなに興奮することなのかと思いながら今もヴィデオクリップを見ていました。夜汽車は聴けるのでしょうか。はあ(桃色吐息)。



サイトのリンクをたどっていたら、坪内先生がしきりに勧めていたダディ・グース<矢作俊彦さんという作家の、漫画家時代のペンネームらしい>についての記述があった。先生曰く、「すぐになくなってしまう貴重な資料だから買っておくといい値になるよ」という赤田祐一<『ポパイの時代』の著者の方、有名な編集者>『少年レボリューション』が気になっていたので興味をひかれた。

こういうページに出会うと、インターネットの上には物知りな人がいくらでもいるものだ、とつくづく感心する。そういう人は一体どこに住んでいて、どういう音楽を聴いて、どういう会社で働いているのだろう。奥さんはどういう人なんだろう。ちょいとお茶の一杯でも飲んで、コアな知識を語って欲しいと思うのに、肝心の彼らがどこにいるのか分からないというのはとても不思議なことだ。これはビーズを聞いている人たちがどこにいるのか分からない、ということと少し関係のある問題でもある気がする。

しかしまた彼らとて、近づいてみれば各々に複雑な事情を抱えていて、中学校の初恋の相手をいまだに引きずってまともに恋も出来ないんだ、ごめんよベイベー、というような惨劇になるのかもしれんなどと無駄な心配を。アールグレイを飲む。

それでは私のまわりには、いったいどういった人がいるのかといえば、それを一言で話すのは本当に難しくて、というか失礼に当たってしまう。聞いてみればダディ・グースについて教えてもらえるのかもしれないし、あるいはダディグースについては知らないけれど、マルタンマルジェラのAWコレクションについてなら誰よりも詳しく話せるよ、トラックの運転手御用達の美味い店についてなら任せてよ、という貴重な人材もいるのだろう。好きなものの共通項を広げるのも楽しいが、全く繋がらなかった知識が複数の人の介在によって自分の中のひとつの「幹」になっていくのが本当に面白い。私はもっと、人と話をしてみたいと思う。



最近買った、ヴィセのマスカラ。うふ、嬉しい。前のが無くなってから、しばらくノーまつげだった私・・・。





陰気な話題なのでここに書いてしまっていいのかは分からないけれど、もしかしたら怒られるのかもしれないのだけれど、最近なかなか衝撃的なメールを頂いた。私が、「思春期の頃よりも、自分は何も起こらない日々を生きていく知恵が付いたと思う」という、少し自信に近いものを得た心境を記したことに対する返信だった。

***
そうやって徐々に傷つかないように傷つかないようになっていくんでしょうか。思春期のころの脆弱性というのは何かを生み出す創造性や活力と表裏一体なのでは、と最近なんの根拠もなく考えていたんですが、やっぱ若さは大切じゃないですかね。

あの底なしの正義感や希望というものこそ最近必要だと思っています。斜に構えて、反対側から世の中を見るのも面白いんですがねぇ。

でも最近死んでみるのもいいかもしれないなどというようなことも思います。ただ死んでみるのはいつでも出来るのでとりあえず生きてる間にやりたいことをやってから。やりたいことをやってしまったら死んでみるのもいいかもしれません。
***

この友人は虚勢を張ったり嘘をついたり、またある理由により自分を飾り立てたりだけは絶対にしない、むしろそういったことが自然体に生きすぎているために出来ない(と私は思う)人なので、本音で語っているのだということが分かりすぎて少し恐かった。

先日、また別の友人と電話で話していた時にも、「そんな『これからは明るい未来だぜ!』って思うことなんか、きっとないでしょう」という言葉を少しも悲観的ではない調子で話すのを聞き、これも驚いてしまった。皆、一体どれだけの絶望を底にしいて、それでも決して悲観的ではなく平熱に(ということさえ意識もせずに)、生きているのだろうと感心する。

ああ。書き終えてみれば私は感心してばかり。国民的感心コンテストや褒めちぎり国際映画祭があったらグランプリか審査員特別賞くらいはとれるんじゃろうかね。



2003年07月07日(月) 余計な感情を捨てることはない。

昨日の俺と今日の俺、連続しててたまるかベイベー。起承転結の物語をぶっ壊して一瞬の閃光に身をまかせるぜ、やあやあやあ、という町田町蔵のパンクな生き方に賛成したい今日この頃である。ええやんええやん、たんぽぽでも食ってみようぜとぶっとばしたいこの俺である。俺様なのである。なのであるのにもかかわらず、昨日食べたとんでん(ファミリー和食レストラン)の「いくら丼」がどうも悪かったようなのである。腹痛は確固とした連続性を持って、というかむしろ断続的に俺の腹をちくちくとさしやがる。



あいにく本日は、泣く子も黙る大企業の筆記であった。やるかたなし。痛みは根性でねじ伏せたので大事には至らず。三題噺を考える時間だけが、至福であった。乾き切った試験場から妄想の世界に飛翔した。どれだけ陳腐であっても、誰にも邪魔されない箱庭。ああこれが点数のつく試験じゃあなくて、銭に変わる原稿用紙だったらな。

家で飲む紅茶をアールグレイに変えた。これがうまくてかなわんよ。ミルクティーにしても、香がうまい具合に溶け込んで主張し過ぎないからいいのな。

友達が電話をくれて、「将来どうにかしようぜ」という結論に達した。どうにかするっていう意志があれば、どうにかなるもんでねえの。つうことに落ち着いて、再びやってやるんだと決意した俺をだれもとめられねえだろ。試験の帰りに新宿に出て、喫茶で茶をのみ腹をいたわる。まわりにはどうしようもねえ媚びの軍団。と、全員が思ってるんだろうと思いながら通り過ぎた。俺だって媚びなきゃ恋も出来ねえよ、そういうものだ。どうでもいいがどこまでいったってひとりなんだしひとりじゃねえんだろう。矢沢永ちゃんみたいになったきたな。



2003年07月06日(日)

ここのところ病気をしていたり、なんだかんだとうつつをぬかしていたり、面接で鬱になったりしていて本が少しも読めなかった。読むことと書くことは、長い間しないとバランスが崩れる。(こういう書き方って、まるで江國香織みたいだわ。嫌だいやいだ。)写真は柳宗理の展示にあったポストカード。この人のエッセイは必読書かしら。

NHKの、週刊ブックレビューの公開録画が近くの会場で行われるというので行ってきた。父と母が。私も当然(視聴者ですし)行くはずだったのだけれど、「ほんとだめだわ最近星回りが悪くって!」とぐだぐだを繰り返していたら眠ってしまい・・・ああ。司会の星野知子さん(女優)が着物姿で綺麗だったわよ、と母が申しておりました。

最近友達に、「ホームページ更新してよ、楽しみにしてるんだから」と文句を言ったら「原稿料もらえないから嫌だ」だと。ふうん。ちまたのネット上にはそうして誰かが面倒くさくなって途中で放り出した個人ホームページの残骸が、ごろごろと転がっているのだろう。

気持ちが悪い趣味だけれど、私はいまだにそうした「残骸」をブックマークしていたりする。気持ちが悪いのを知ってやってるからいいの!というのは贖罪にならない?止まった過去の、そのまた過去が見られて面白いのだもの。当然だけれど、いつまでたっても更新されるわけではないから、たまに思い出してページを開くだけ。

先日見た、止まったページの中に「僕の話すことの半分は意味がない。それでも口にするのは君に届きたいからだ」というジョン・レノンの詩が引用されていた。素敵な言葉だと思う。引用した人のセンスがひかると思う。誰も見なくなっても書いた人が忘れても、書いたものが残ることを少し幸せに思った。

昨日、その振られた、というかおつき合いの開始をお断りされた方とお話ししていて、「れいこさんのページは2002年あたりから見てますよ」と言われる。本当に驚いた。私もいろんなところのサイレントビジターをやってるんだから人のことを言えないけれど、インターネットについて少し考えさせられたこの数日であったことよ。

パーソナルコンピュータを閉じたら、たまった紙の束に目を通そう。



2003年07月05日(土)

ああ。また男の子に振られたにゃー。前の彼に振られた時と同じ台詞だったにゃー。「君と話すのは面白い」「君といると楽です」「嫌いじゃないです」とかなんとか。

これからまた、本を恋人に生きていきます。ああ。



2003年07月04日(金)

毎週木曜日はBS『真夜中の王国03』で鹿野さんの笑顔を見るのが習慣です。あの、視聴者に対して心を閉ざしきった先に繰り出される、テレビ用の営業スマイルにグッときます。私も作り笑顔がうまいのですが、最近嘘がすぐばれるようになってしまいました。心の底から笑える清らかな人間になりたい。みつを。



2003年07月03日(木) 寝てるわけにもいかないし。

早稲田の古本屋でcomposite(1998年4月号)を100円で購入す。町田康のグラビアが載っていたため。コイン一枚で町田さんの端正なお顔を拝めるだなんてこれほどの幸せがあろうか、とすっかり有頂天な俺。ええ、安上がりな子です。

坪内先生の授業。生徒に何を質問されても必ず答えられる知識が本当に素晴らしい。この人と長電話してみたいにゃー、とつい猫猫してしまう。ビーチボーイズとアメリカの狂気、またそれについて昔(80年代)の小説新潮に村上春樹の寄稿がある(単行本になっていないもの)という内容が面白かった。図書館で調べたら読めるらしい。そうか、大宅壮一文庫に行かなくても学校の図書館があるんですね、という嬉しいことに今日気付いた。

帰りにまたジュンク堂。流行通信のみで書籍は買わず。ここ数日本が読めなかったので溜まっているものから片づけようと決意する。

ようやく熱も下がってアレルギーもおさまった。寝込んでいる間に棚のMDを端から聞いてみたら、ドラゴンアッシュの『Life goes on』がしみた。
If we can't see millions of stars...
If we can't erase any scars...



2003年07月02日(水)

賛否両論の出る作家というのは、たいてい「大物」か「売れっ子」である。誰も見向きもしなかったら、話題にあがらないから責められることもない。例えば村上春樹(前者)や辻仁成(後者)がそうである(と私は思う)ように。

そして覆面騒動が物議をかもしているサスケ議員ならぬ舞城王太郎も、非常に大物の匂いがする。

『九十九十九』(講談社ノベルズ)をようやく読了した。非常に苦しかった。これは『阿修羅ガール』で三島由紀夫賞をとった彼が再びノベルズに戻ってきて書いた作品だ。しかし、殺人事件というには人の「死」が曖昧である上、事件を解決する、本来ならコナンのように完璧なはずの探偵が<欠陥>を抱えていて、推理小説として読むのは非常に難しい。

「苦しかった」、と書いた。それは何処まで行っても、読者を作品に近付けない、簡単には共感を呼ばせないぞ、というような筆者の「メタ視線」が働いているからだ。からっぽなのだ。

だからこの小説は、どこまで行っても終わらない。読み終わっても、少しも安心できない。この作家はなぜ小説を書いているのだろうという気になる。もしかしたら本当は書くことなんかどうでも良くて、何だか現代人に受けそうな「社会問題」や「現実」に対峙した振りをして、原稿料を稼いでいるだけなのかもしれない。そして自分はもうひとつの世界でせせら笑っているのではないかと思ってしまう。

悔しいかな、それでも訴えてくる何かがを感じるので、私は今まで手をつけなかったノベルズの棚に足を運んでしまうようになった。疑いながら、《僕》の台詞を引用してみよう。

             ***
世界大戦中に発生した大量死への反発が《特権的な死を死ぬ》ための装置としての推理小説の隆盛を読んだという考え方があるらしいが、推理小説における死は本当はまったく特権的なものではない。・・・(中略)本物の特権的な死というのはあくまで自分の死を死ぬことである。周囲の人間が自分を失うことで悲しんでくれること。惜しんでくれること。・・・推理小説の死にそういうものはない。

推理小説が大戦中の大量死を経て隆盛したということがあるならば、それが起こった理由は人間の死の尊厳の薄まりを推理小説かが回復させようとしたせいではなく、うまく利用したせいだろう。
             ***

『キャラクター小説の作り方』で、大塚英志が書いていることを思いだした。「現実感」が希薄な場面で、しっかりと死や現実に向き合っている小説こそが文学であると。

小説全体を嘘と妄想で塗り固めながらも(ここで出てくる《僕》も、一体誰なのかが定かではない)、しかし舞城は私の目の前に現実を恐ろしいほどに突き付けてくる。しかし同時にあらゆる現実の先にある究極の希望を、彼は描いてくれる。「絶対愛」という、親子や家族、人と人のつながりを。

「苦しさを感じるなら、僕なんて愛さなくていいんだ」

--本の帯に引用されている台詞だ。私はこの絶望が作品のテーマだとは思わない。むしろ「頭が三つもある僕なんて、誰も愛してくれないよ!」と誰かを求めて悲痛な叫びを繰り返す僕こそを、作家は描きたかったに違いない。

「講談社第三編集部」「清涼飲流水」「担当の太田さん」実名や固有名詞が繰り返し使われるのに、こんなにも現実感が希薄な小説も珍しい。同時にこんなにも現実とは無縁の世界で物語が繰り広げられるのにも関わらず、「希望」なんていうちょっと涙がでそうなうさん臭い単語に、しっかりとした手触りがある小説もないはずだ。


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