英国人の彼女 6年間の遠距離恋愛の末、イギリスに嫁いできました。ロンドンで息子と3人で暮らしています。
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修論提出&簿記試験を1ヵ月後に控え、日記の更新が滞りがちになっています。しばらく、この状態が続くと思います。週一で、気晴らしにフランス料理を食べに行っているほかは、机の前に座り続ける毎日です。
どうやらストレスが溜まっているようで、ふと気がつくと、この1週間でガイドブックを5冊も買っていました。イギリス3冊、フランス2冊。早く旅立ちたい・・・。
2004年10月23日(土) |
I have a dream |
今日は、一日中イタリアにおけるファシズム政権下の対外政策に関する本を読んでいました。相変わらず、何の役にも立たない研究ばかりしています。
1935年に、イタリアはエチオピアを占領します。理由は、ファシズムの膨張主義とか、アフリカで唯一植民地にされていない独立国だったから、とか(リベリアもですけど、ちょっと文脈が違うので。リベリアはある意味植民地ですよね。)、昔戦争で負けた復讐、とかいろいろあるのですが、とにかくほとんど近代兵器を保持していなかったエチオピアを、イタリアは圧倒的な戦力をもって制圧しました。このとき、マスタードガスを使った大量虐殺など、イタリア軍はかなり非道な手段を用いています。
このイタリアによるエチオピア占領について、当時、国際連盟においてその正統性を問う決議がありました。エチオピアも国際連盟加盟国であり、このイタリア軍の行動は、その加盟国に対する侵略行為という国際法違反の文脈で、捉えられたのです。
投票に先立って、エチオピアの皇帝とイタリアの国連代表による演説がありました。国家主権の平等を訴え、国際連盟の設立意義を問うたエチオピアに対し、イタリアによる演説は、「まともに自国を支配することもできない野蛮人にかわって、わがイタリアが支配することにしました」、というようなもの。(ほんとはさらにあり得ない言い方だったのですが、あまりにひどくて忘れてしまいました。)
結果は、賛成多数、反対一票(エチオピア)で、イタリアの言い分が通りました。
そのときの各国の発言も残っているのですが、最もイタリアの占領に消極的だったイギリス(別にエチオピアの立場に同情していたわけではなく、イタリアを警戒していただけですが)ですら、「あの逃げたニグロ」(イギリスに亡命中のエチオピア皇帝を指す)というような言い方をしています。(ニグロという言い方には大変な抵抗を感じますが、あえてそのまま使わせてください)
で、結局何が言いたいかと申しますと、別に、人種差別しちゃいけないのよ!とか、国家主権の平等がウェストファリア仲良し組にしか適用されないなんておかしいじゃない!などという、ナイーブなことではなくて、なんかちょっとすごいなあ、と思うのです。
第二次世界大戦前、というとずいぶん昔の話のような気もしますが、1935年って、たった70年前なのです。一世紀も前の話ではないのです。たった70年前には、肌の色や生まれた場所で人を差別することが、これほど当たり前に受け止められていたにも関わらず、今は(たとえ一人ひとりの心の中まではわからないとしても)、「そういうことで差別してはいけない」という意識が社会的に確実に芽生えていて、少なくとも公の場でこれほどポリティカリー・インコレクトな発言を聞くことは、少なくなっています。
先日、ケープタウンに行ったときに、有色人種とヨーロッパ系の人々の間に未だ存在する溝の深さに非常に驚いたのですが、南アフリカでアパルトヘイトが廃止されたのなんて、考えてみれば10年前でしかないんですよね。みんな、アパルトヘイト時代のことを覚えているし、それほど簡単に過去にできた溝は埋まらないのだろうと思います。
それでも、"I have a dream"という演説からも、まだ40年しか経っていないのです。
"I have a dream that my four children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character."
この40年間で、アメリカで人種差別が全くなくなったとは言えませんが、キング牧師の夢に現実が、多少は近づいてきているのではないでしょうか。
100年にも満たない短いスパンの中で、人の意識ってここまで変わるんだな、と思うと、人間という生物を信じられるような、希望が湧いてくるような気がしませんか。世の中、良くなっていってることもあるじゃない、と。
修論及び簿記2級の勉強が、非常に切羽詰っています。両方とも11月末にアウトプット。一つづつならたいしたことないのですが、二つ重なると、これはキツイ。一日中、勉強ばかりです。
思えば、今までの人生において、こんなに必死なことってなかったかもしれません。「ムリはしない」をモットーに、中学受験も、大学受験も、大学院受験も、就職活動も、がんばらなくても受かる範囲のところを受け、なにか冒険するときはたいした準備もせず(=落ちたときでもダメージなく)、気楽に生きてきました。
ああ、人生甘くなかった。修論、誰も代わりに書いてくれないし、簿記に今回落ちたら、次の簿記の試験を受けるために、2月3月をヨーロッパで過ごすという計画が台無しになってしまう。
(まあなんやかんやゆうても、結局はなんとかなって、終わったときには「今回もけっこう楽やったわあ。」とか思てるような気もするんやけど。・・・ほんまになんとかなるんやろうか。もうちょっと必死のパッチにならなあかんのと違うやろか。)
わたしが一番集中できるところは、知らない人が大勢いて、適度にガヤガヤしているところです。レストランとか、電車の中とか、空港もいいですね。研究が一番進まないのは、テレビがあるところ(意志薄弱なので)、知ってる人が誰かと話をしているところ(思わず聞いてしまうので)、インターネットができるところ(意志薄弱なので)、静か過ぎるところ(なぜか気が散る)です。家とか、図書館とか、学校の自習室とか。
図書館は惜しいんですよね。私語が解禁になって、もうちょっとうるさくなれば、きっとすごく勉強できると思うのですが、いかせん静か過ぎるのです。
そんな、普通の人が研究するのに一番好むような場所がことごとく好みから外れているわたしは、最適な環境を求めて、学食とか、ファーストフードレストランとか、ファミリーレストランとか、数時間居座ってもあまり文句を言われなさそうな場所を、転々とすることになります。
そういう場所の何が問題かって、どこも食べ物を扱っているんですよね。一応、食事を兼ねて行くことが多いのですが、しばらく経って小腹が空けばすぐに何でも注文できるし、それに小心者なのでなんとなく気兼ねしていろいろ頼んでしまうし、とにかくなんだかずっと食べている気がします。おかげさまで、正しく研究太りをしてしまいました。修論提出後、すぐにダーリン(仮名)に会いに行くのに!!でも研究と簿記の勉強とダイエットの三本立ては、わたしにはとてもムリです。
どこかに、食べ物を扱っていない、人がいっぱいいて、机と椅子があって、適度にガヤガヤしているところ、ないですかねえ・・・。
なんだか、最近周囲のカップルが次々と別れています。妹から親友から大学院の後輩まで。別れ話を聞くのってすごくイヤです。恋が永遠ではないと気づいてしまうので。
そんな、「別れ」の波にものすごく乗りたくないないわたしですが、今のところ、ダーリン(仮名)とはとても順調です。彼は今休暇中で、唯一持っているオフィスメールをチェックできないため、わたしのために、生まれて初めて(!)オンラインのフリーメールを取ってくれました。いまどき、こんなにネットを活用できていない人もなかなかいないと思いますが、そういうことに興味がないのも、まあ彼のとりえなのです。そして、旅先でインターネットカフェを見つけるたびに、メールを送ってくれます。あのダーリン(仮名)がインターネットカフェなるものに出入りする日が来るとは。パソコンに向かう時間があれば、鳥だの木だの雲だのを見ている人なのに、旅行の最中にメールを書いてくれるなんて、かなり愛を感じます。
超遠恋も2年目に入っているわけですが、よく考えてみれば遠恋なのに、ものすごく長い時間を、実は一緒に過ごしているんですよね。今年の元旦から数えても、ベトナムで1週間、日本で3週間、夏に8週間、12月に3週間と、あわせて15週間も朝から晩まで一緒にいるわけです。これって、105日。つまり3.5日に1回会っているのと変わりません。お互い社会人同士で週末に会えるくらい、というカップルよりも、ずっと多く会っていることになります。
確かに、会えないときに簡単に携帯でメールのやり取りができるわけではありませんが、一日一回くらいはメールをくれるし、一週間に一回くらいは電話もかかってくるし、会うときは飛行機代からホテル代まで全て出してくれるし、あまり贅沢を言わずに、現状に満足しようと思いました。
今日は全般的に、のろけ色豊かにお送りしました。ゴメンナサイ。
最近、日夜が逆転した生活が続いています。夕方に出勤(=通学)、明け方に帰宅。夜の自習室はほとんど人がいなくて、昼間よりもはかどります。ちょっと寂しいけど。それでも午前4時になっても、まだ何人かいる、というところがすごいです。わたしもそのうちの1人なわけですが、学生ってつくづく非生産階級だ、と思いました。
わたしはあるマイナーな国について、研究しています。その国は、10年間以上、中央政府が存在せず、世界で唯一の「本当の意味での」破綻国家であると言われています。
政府が存在しない、というのは、日本に生まれ育ったわたしたちには、なかなか想像しづらい状態です。万が一、家に強盗が入っても助けを求める警察がなく、海外旅行に行きたくてもパスポートを発行してくれるところもなく、学校や病院はもちろん、水道や電気といった最低限のインフラまで、全て自分たちの力で確保しなければなりません。
国外に住んでいる、その国の国籍をもつジャーナリストが言っていました。「ビザを取るためにどこかの大使館に行くと、あの国出身だというだけで難民扱いをされる。この国にもう何十年も住んでいて、お金も十分にあるのに、ちょっとした海外旅行用のビザを取るために、いつもいつも物乞いのように頭を下げなければならない」
どこの国に生まれるのかという、全く自分の選択範囲外の出来事に、これほど人生が左右されるというのは、どういうことなのだろうと思います。
富が平等に分配されるべきだとは思いませんし、そんなことが可能であるとも考えていません。破綻国家再生のために、先進諸国がむやみに介入すべきだとも思いません。確かに、簡単な解決方法がなく、また自分には直接の影響もないような国で起こっている出来事ですが、せめて、「無関係ではない」と、考えるようにしています。自分がいま、命を危険にさらされることなく生活できているのは、ただ偶然日本に生まれたというだけなのですから。
その国で、先週末、大統領が選出されました。非常に強い反対勢力が今も首都を制圧しており、また域内の自治区と紛争が起こる可能性もあるため、その国の未来については、あまり楽観視はしていません。ただ、このような一つ一つのことをきっかけに、せめて人々が「今日と同じくらい明日も平和だろう」と思って眠りにつけるような国になるといいのに、と思います。
ダーリン(仮名)は未だ休暇中です。休暇を取り始めてそろそろ2ヶ月目に突入です。1年間で、すごく沢山休みが取れるんですよね。基本の有給休暇が6週間+生活が厳しいところへの赴任なのでプラス1週間+10年以上の勤務者にはプラス1週間+土日に出張が多いのでその振り替え休日でさらにあと数週間分ほどの休暇があるそうです。今年は年始にベトナム、春に日本と、3ヶ月ごとに1ヶ月ほど休みを取っているダーリン(仮名)ですが、まだまだ使い切れないほど残っているそう。わたしがイギリスに来たら、ユーロスターでパリに行こう!車で南仏に行こう!とウキウキしたメールが来ました。
まあ外交官に限らず、過酷な国の駐在員は休暇が多いものですが、それにしても羨ましいかぎりです。わたしが某国大使館で働いていたときには、普通に年間20日の有給+日曜出勤の振り替え休日しかなかったのですが・・・。外交官でも、それにさらに1年半に1回、1ヶ月間の休暇(ただし日本に必ず帰らなくてはならない)が加わるくらい。そして、民間に比べればはるかに休暇を取りやすい職場環境とはいえ、休暇届に判子を貰いに行くときには、「留守中ご迷惑をおかけします。スミマセン。」と言わなくてはならないような雰囲気ではありました。
それに比べて、休暇を取って申し訳ない、という感覚は全くないイギリス人。休暇はみんなが取るのだから、残った人の仕事が多少増えるのは当然、と考えているようです。
他にも、すごく違う、と思ったのが少し前の人質事件です。8月に、イラクにおいてイギリス人ジャーナリストが人質になるという事件がありました。そのジャーナリストは数日後、無事に開放されたのですが、その記者会見で、彼が「これからもイラクに残って取材を続ける」と言ったんですね。日本では、同じような状況の中、首相までもがそのような発言にムッとしていたのですが、イギリスではその直後のニュースキャスターの台詞「無事に解放されて本当に良かったですね。ご両親の心配は尽きないでしょうけれど、これからもイラクでいい仕事ができるといいですね。」、に代表されるような、家族ならともかく、彼がイラクに残りたいなら他人がどうこういう話ではない、という意見以外は聞こえてきませんでした。そこには、みんなに迷惑かけて!!反省しろ!!という、どうやら多くの日本人が感じた感覚は存在していなかったようです。
どちらがいいとも悪いともいえませんが、わたしのように仕事はするけどその分休暇もたくさん欲しくて、さらに気がついたら大多数の人とは違うことをしてしまっているような人間にとっては、イギリス的環境の方が、居心地がよさそうな気がします。
修論が進まなくて、少しイライラ気味です。ダーリン(仮名)へのメールなら、英語で何の苦痛もなくすらすら書けるのに、修論になるとどうしてこんなに英語が苦痛なのでしょうか。もうほんとに、自分の英語の下手さ加減が苦痛。しかし、全部を書き直す覚悟で、ためしに日本語で少し書いてみたところ、こちらもかなり不可能なことが判明しました。
単純な単語ほど、訳し方がわからない。Local communityとか、governmentとadministrationの訳の違いとか(どちらも政府?それとも政府と行政?The British administration in the colonyは植民地における英国行政?英国政府、じゃないけど、行政なんて、日本語で単一の単語として使わないし・・・執行部??)、一行ごとに訳語のわからない単語が出てきて、諦めました。大量の固有名詞の公定訳を探す作業もイヤだし。
日本語で書こうとすると英単語が、英語で書こうとすると日本語の文法が出てくるわたしの頭。我ながら、つくづくうんざりです。
12月のイギリス行きは直行便を取りました。マイルが微妙な感じで、東南アジア経由で行けば1つ上のクラスに上がるのですが、そのためだけに遠回りするのもなあ、と思って。今年に入ってから、マイレージプログラムを変えて一般会員からやり直しだったのですが、某国に一回行っただけでここまで貯まりました。さすが、意味なく遠いだけのことはあります。
ダーリン(仮名)は、かれこれ一週間近く音信不通。彼はいま、イエメンの地方を旅行中です。イエメン、すっごくいいところみたいで、かなり羨ましいのですが、政情の不安定な国でもあるのでちょっと心配しています。インターネットどころか国内電話もままならないようなところに、相変わらずいるだけでしょうけれど。元気で旅を楽しんでいるといいんだけど。そしてそろそろ連絡があるといいんだけど。
修論が辛いです。
12月に口頭試問があって、11月末に修論の草稿を提出することになっているのですが、それまでにとりあえず全部書けてないといけないんですよね。手直しするところがあってもいいけど、とにかく最初から最後まで文章になってないとならない。つまり、あと2ヶ月弱で、修論をほぼ書き上げないといけないんですよね。
修論だけ書いていればいいのなら、それほど不可能でもないと思うのですが、タイミングの悪いことに入社前に取らなければならない簿記検定2級の試験も11月末に・・・。毎日簿記の勉強を3時間してから、修論を書いています。どちらか一方でよければ、どんなに楽か。簿記は、まあ今回落ちても2月にまた受けられるのですが、入社前から醜態をさらしたくないし、内定者のほとんどが合格するという11月に受かってしまいたいです。ちなみに、人事の人に、「もし簿記検定に受からなかったらどうなるのですか?」と聞いたところ、「今まで受からなかった人がいないのでわかりません」との答えが返ってきました。クッ。
追記:いま、すでに書き終わっている1章分の文字数をカウントしてみたところ、7千語しか書いていないことが判明。22ページも書いたのに、たったの7千語。特に字数制限がないとはいえ、なんとなく力の抜ける数字です・・・。
先学期の単位が全部取れていて、今学期は授業を受けなくても良くなったので、修士論文の口頭試問と提出日までの1ヶ月間、イギリスに行くことにしました。
あまり周囲の学生の皆さんと交流がないので、そんなことが(環境的に)許されるのかどうかは良くわからないのですが、カリキュラムとしては特に日本にいなければいけない理由もないし、いいと思うんですよね。日本には1人もいない、わたしの修士論文に関連する研究をしている専門家も、イギリスには何人かいるので、インタビューとかできそうだし。まあ、こんなギリギリにインタビューしてどうする、という気もしますが、ほとんど論文も出ていないような分野の研究なので、聞き取り調査が頼りなんですよね。そんなわけで、表面上の理由もあるし、まあ本当のところは、就職すればなかなか会えなくなるダーリン(仮名)に会いに行ってきます。
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