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2011年02月22日(火) |
鯨 太地–対峙–退治 |
何日か前の新聞に、「チリ海軍は15日、同国沖を航行している日本の調査捕鯨船団の母船「日新丸」を監視、追跡中」と言うニュースが載っていた。排他的経済水域を監視しているとあったが、何でわざわざニュースとしてチリは発表したのか。 で、昨日調査捕鯨を中止するというニュースを読んだ。 オーストラリアは、海のテロ組織シーシェパードを応援している。さすが犯罪者の末裔でなる国。悪に親近感を持つDNAはしっかり引き継がれている。忘れてならないのは、日本が戦争に負けた時、日本人を一番多く処刑せよと主張したのもオーストラリアだった。水に流すわけにはいかない。
自国で行われているカンガルーを小学生くらいの男の子と父親が、かたっぱしから撲殺するのには何の痛痒も感じず(ユーチューブに動画あり)、西洋人独特の独善でもって正当化する。自分達の牛肉食をインド人が何にも言わないことを良いことに、自国の文化にない習慣伝統を持つ民族を非難する。 オーストラリアはつい一五〇年前まで、人間狩りをしていた。19世紀まぢか犯罪者がこの島に流刑され、其れと共にやってきた軍人を先頭に主にアボリジニを狩猟の対象としたことは軍人の日記などに残っている。タスマニア人はこれによって1830年までに絶滅した。
最近は本末転倒、正論を昔から述べている日本側の言い分より、海のテロリスト達に世界中から自分以外の文化を認めない人々、利権に絡む人々から相当な支援金が集まっている。
鯨は小さい時から好きで今でも太地から直接送ってもらっている。 中でも,鯨の皮が刺身で美味い。皮と赤身を交互にして生姜醤油か、山葵醤油で食べる。酸度の高い日本酒によくあい、いつも日本に生まれて良かったなぁと思う。太地の鯨屋と言えばここという店の主にメールで意見と質問をしたら、その日の内に返事が返ってきた。「シーシェパードはまだいる。どうにもならない。」とのこと。
こちらが戦後の教育で何でも話し合いで解決せよと教えられてきたがまったくまわりを見回しても尖閣竹島北方領土(本来は当然日本のものだが)何にも解決していない、軍隊が出て行くぐらいの必要があるのではないかと書いたら、同じような考えが返信のメールに書かれていた。当事者のこの悔しさを今の政府はわかっているのだろうか。
太地町はテロ組織シーシェパード、其れを支援するオートラリアと対峙して退治せよ
時は、元禄15年。所は大江戸呉服橋、赤穂の浪士に打ち入られた吉良上野介義央の屋敷横に屋敷を構えていたのが、阿波徳島藩の蜂須賀飛騨守、この頃世間では、いつ赤穂の浪士達が吉良に討ち入るのかと、期待と不安で戦々恐々、その不安に耐えかねて、阿波の殿様幕府に問うた。もし、隣家の吉良に討ち入りがあったら、拙者どうしたらいいのぢゃ!幕府答えて曰く、「捨て置け」。 この時代、隣家に何事かあれば、必ず助太刀致すのが、武家屋敷同士の暗黙の定めであった。まあ何と腰抜けの殿様だったのか。 幸いに、吉良上野介は、隠居を希望し、今で言う退官となった。退官すると武家屋敷のある江戸城郭内の呉服橋界隈には住めない。 ほどなく殆ど沼地の辺鄙、隅田川を渡った本所一つ目(これは江戸市中ではなく総州に属する)の空き屋敷に住まいを移した。これは、半ば上意下達(じょういかたつ)の体でもってそうされた。 これを千載一遇の好機と見た赤穂の浪士達は、この屋敷に討ち入るのである。 阿波の殿様、我が屋敷が関わり無く済んだ事に心から安堵しただろう。吉良さんの名誉のために書いておくが、後の取り調べの記録を見ると、台所奥で発見され、腹を槍で一突きされてはいたが、脇差しを抜き、立派に戦う姿勢を見せていた事がわかっている。 命乞いなどはしていない。断末魔の際に、なぜ被害者の自分が命を取られなければならないのかついにわからなかったに違いない。 我が出身の阿波徳島藩の殿様は、触らぬ神に祟りなし、多分隣に吉良がいた時に討ち入りがあったとしても見て見ぬふりをした。
時代は下って、昭和23年(1948)年、徳島板野郡(現阿波市)出身の男が、芦田内閣崩壊後の首相にGHQから白羽の矢を立てられたのが、三木武夫であった。GHQはこの男の事をお見通しであったようだ。徳島商業野球部時代、甲子園出場のための野球の衣類道具を新調しようとバザーを開いて、資金を得たが学校側に勝手に使われたとして、ストライキを行って放校処分となり、神戸の学校に転校した。戦前から基本的に軍部には批判的だった。戦後も公職追放はされていない。こういう事をわかっている日本人の誰かが、GHQに御注進したに違いない。 がその時は、三木内閣は実現せずそれに変わって出来たのが吉田茂率いる内閣だった。後に首相になるが主張する所は、アジア太平洋構想(含 中・ソ)、護憲、まるでリベラルだった。嫁の睦子は、「九条の会」の言い出しっぺで、今は論理破綻して「窮状の魁」となっている。 よせば良いのに、昭和五十年、八月十五日に、戦後初めて靖国参拝をしたまでは良かったが、何を血迷ったか、総理大臣としてではなく三木個人で参った(要するに私的参拝だと)と余計な事を言ったがために、後、ずっと禍根を残し、昭和天皇の靖国御親拝はこの三木参拝後の例大祭が最後となり現在に至り今上天皇の御親拝も行われていない。一国平和主義者、防衛費のGNP1%枠、武器輸出三原則など、後々禍根を残す。三木自身が自内閣を「性典の辟易」、あ、違った「青天の霹靂」と言ったそうだが、これは、次の人物にも言える。
仙谷由人、このおっさんは、徳島の進学校から東大法学部に入った。東大法学部は現今の法曹界の大元凶となっている。東大法学部と言えば、曲学阿世の徒と言われた横田喜三郎(後に最高裁の親玉になった。誰が見てもおかしい東京裁判をへんちき論で肯定し、天皇論を書いた。後、天皇からご褒美をもらう事になるや手下を通じて日本全国に散らばった自分の本を回収して、証拠隠滅を計りめでたく天皇からご褒美をいただいた)が君臨していた。
その歴史ある法学部を中退しているが、その意志は立派に継がれ?、社会党社民党民主党に身を置き、その曲学阿世振りはすさまじい。 東大安田講堂を占拠した連中の兵站を受け持ち弁当などを運んでいたので、弁当屋と呼ばれていたらしい。
「武力」が嫌いで、自衛隊を暴力装置と呼んで何とも思わない。アジアのあっちこっちにとんで、日本への不満分子を焚きつけて、日本から金を盗るのを奇貨とする弁護士高木健一と懇意である。支那への配慮で、尖閣諸島で支那の偽装漁船が保安庁の船にあきらかにぶつけてきている様子を撮った尖閣ビデオをもみ消そうとするも、勇気ある海上保安官にすっぱ抜かれ、小沢と同じ支那の走狗であることがわかった。弁護士である。 弁護士でも色々いるのは、東大やスタンフォード大を出て首相になるもアホはアホなように、弁護士とて同じである。 三人とも徳島県人。この、阿波わ…の三人の共通点は共に「武力」が嫌いである。
一方、お隣の土佐高知には、坂本龍馬 板垣退助 後藤象二郎 中岡慎太郎 中江兆民 植木枝盛 山下奉文(陸軍大将)他そうそうたる人物がいる。 瀬戸内海を見て育った民と、太平洋の荒海を見て育った民の違いだろうか。
徳島県が一時、名東県となり後高知県と一緒になりまた徳島県となったが、高知県のままでいたほうがよかった…か。
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