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2008年12月31日(水) 大晦日(市川啓二君追悼)−−



 例年のごとく蕎麦を打つ。ことしの蕎麦粉は、蕎麦屋の主人より分けてもらった蕎麦粉で打った。去年のこの日、午前零時近く高校時代の山岳部後輩が槍ヶ岳槍平にて雪崩遭難、亡くなった。除夜の鐘を聞きつつ、手を合わせた。酒は、弔いの意味も込めて、インドのシャンペン、SURA Brut Methode Champenoise (Nashilk Vintners)で。

市川啓二君の思ひ出

・未稿(書いている途中です。丁寧に書きたいと思うので遅れます。)




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2008年12月20日(土) 仕舞ひ狂言つれづれ 2/2



… そうすると、着物の袖が椅子の背もたれ部にひっかかり危うく持っている物を落としそうになったり、ドアだとノブにやはり袖がひっかかり頭をぶつけそうになる。改めて、日本家屋の引き戸は、このための引き戸だと納得がいく。下着もパンツでは大小大変(ゴム部の位置が、帯の位置と重なり、降ろす時難儀する結果、着くずれる)だ。これも褌が最適だと分かる。米国特殊部隊の隊員は日本の褌を付けている。軍靴を履いたまま、ズボンを降ろした状態で下着を交換できる。
 一体誰がひろめたのか、日本人の定番になってしまったTシャツ。べとつく暑い夏(クーラーは使わず制作中も扇風機とうちわのみ)にも以前は疑いもせずに着用していたが、昔からある甚平を知ってから、家にいる時はまったく着なくなった。「甚」は暑いという意味があり、それを平らかにするというので、甚平(じんべい)というそうだが、まさに、これを着ると名前の通りで、夏の暑い時になんでTシャツを着る習慣が出来てしまったのか、きっと戦後、東京を中心とし服飾評論家が広めた、和物より洋物(立体裁断)を良しとする風潮と米国の宣伝工作の結果だと思っている。
これを服飾界の東京裁断私感という。和洋混交の実際的な混乱は、戦後の精神的混乱と軌を一にしている。

 御所の東隣にある通称萩の宮、梨木神社の萩祭りに行った時もその一端を見た。行事の弓(小笠原流)の儀式、*『三々九手挟式』で、能舞台(茂山家による奉納狂言もある)から門横の的に向かって弓を引くのだが、その際、片肌脱ぐのを、射手がもたもたし、あげく助っ人が入り、片肌脱がせてもらってようやく射ることが出来た。普段着物を着付けていないと衣装を付けて、弓を立ち居で射ることは難しいに違いない。
案の定、的には当たらなかった。小学生の時に、大学生高校生に混じって、寺で和弓を習ったので、今でも射るまでの作法は覚えている。 射手があんまり、ぎくしゃくしているので後で聞いたら、弓の儀式が復活したのはつい最近のことだと分かった。心も体の動きも洋服になれてしまった結果だろう。

また狂言に戻る。
狂言で、太郎冠者と主人、もしくは他の共演者が同時に台詞を喋る時がある。見物は聖徳太子ではないから同時に聞き取れない。それに腹から出す声なので甲高い声が入り乱れ響き渡る。これが狂言で唯一不快な所である。

モーツァルトは、オペラでのこの問題を和音(俗に言うハモった)で解決した。現代劇では、絶対に同時には喋らない。
 今年の見納めは、日頃は、現代演劇には興味がないので行く事はないが、福田恆存原作だと言うので、初めて劇団四季の演劇を見に行く。S席が一万円以下だと言うと、今までの劇団四季の席は、そんな額では買えなかったらしく、こちらは不況の波の影響が出ているようであった。

*梨木神社(なしのきじんじゃ)… 御祭神:三條実萬公・実美公
*三々九手挟式…武家社会では正月4日の弓始式の時に限り行われた厳格な弓の儀式。
文武を統べる道として天下泰平を祝う射礼として行われていた。



写真中央奥,赤い服の見物は家人、右に一人とばして顔半分のここの主。









2008年12月13日(土) 田母神論文–張作霖の爆殺に関して覚え書き–



 田母神大将のコミンテルンに関する記述 コミンテルン謀略説を口汚くののしっている,昭和史研究家で、東大法科卒、大蔵省資料課(窓際)にいた秦郁彦(従軍慰安婦に対しての調査は○ 南京事件に関して×、今回も×)に対して、大将の主張を裏付ける本の紹介があった。*瀧澤一郎さんが、「チャンネル桜」の「今日の自衛隊」に出演、 ロシアで発刊、元諜報員らの手で書かれた 「赤い蜘蛛の巣1919-1943」(邦訳無)という本中に張作霖の日本人殺害説を否定している事を紹介していた。この中で、ロシア諜報機関がハルピンに秘密地下機関をつくり、十分準備の後、二度目に張作霖爆殺成功、は定説となっている。

秦郁彦らがしがみついている、小川平吉文章というのがあり、小川は宮沢喜一の祖父。当時、満州浪人の工藤何某(てつしろうとも、ちゅう?とも。)という人物がいて、愛新覚羅溥儀の側近になり侍従武官長までになった。その工藤が小川の所にきて言った事をまとめたのが小川平吉文章といわれる。その工藤は陸軍が大嫌い、軍学校を出ていないのに、なりすまし、変な這い上がり方をしたため、陸軍エリートに劣等感を持っており、憎くてしかたがなかったようだ。云々。

 張作霖を殺したという本人、河本大作大佐が括弧付きの「手記」?で、「自分が犯人だ」という自白の部分は、この人が中国の収容所に居た時の、同じく収監されていた、親戚でもあった平野れいじ(漢字不明)という拷問洗脳後の人物が聞き書きしたものを、平野の死後文藝春秋に持ち込まれて世間に知れた。今流布されている物(日本軍犯人説)は殆ど全部が伝聞資料だと言う事と、東京裁判の記録を参考にしているということ。

 張作霖爆殺は一度目は失敗して、二度目に成功、上記の本はその事件を詳細に記しているという。一度目は、ニナーロフという男で爆弾を運び込むも失敗し捕まっている。ここまで具体的にロシアでは発表され本になっているようだ。
 だいぶ前から、張作霖の乗った列車の爆発状況は、列車の天蓋が吹っ飛んでいたとの記録が出ていたようで、当時の状況から、日本軍が列車内に仕掛けることはまず出来ないと思われる。当然通過時間を予測して、列車軌道に仕掛けるというのが正しいと思う。ところが、列車の下部は吹き飛んでい無いと言うことは何を意味するのか。

   昭和史家の不勉強 昭和だけ切取り物を言い

       はなはだ、秦迷惑。

*瀧澤一郎 国際問題研究家・もと防衛大学校教授


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2008年12月10日(水) 仕舞ひ狂言つれづれ1/2



 この前、今年最後の狂言を見に行った。一時に比べて、二階席などはがらがらだった。景気のせいとも思えない、映画代より少し高いくらいである。
 前説で、千之丞が、うちのマンションの給湯設備が故障し、十数年来朝風呂の習慣があり、仕方なしに朝風呂に入りにホテルに泊まったと言っていた。昨今は伝統文化の継承者ですらマンション暮らしなのかと改めてため息がでた。
 かって民放のテレビを見ていた頃、演歌歌手のお宅拝見を偶然見て、スペイン風の中庭にプールが付いているのやら、豪勢ながっちりした鉄門に遮られた豪邸を見て、なんか本人との不釣り合いが可笑しく笑ってしまったことがある。どこにどんな風に住もうと当人の勝手だが、明治より少し前、整然と軒を連ねる灰色の甍の屋根に外国人は総じて驚嘆し賛辞したのはもう遠い昔のことになってしまった。

 給湯器というしゃれた物がないので、故障すると不便を感じてしまうという意味が分からない。大体専用の湯沸かしがない。台所にはそれ専用のガスの口が用意されているが、キャップをかぶったまま、二十数年。取り付ける必要に迫られずに今まで来ている。

 小学校に上がる前(昭和三十年頃)は、家には電気製品と言えば、各部屋の電灯と、父親の机のスタンド、頭が丸い木製のラヂオ(h21.3月読み返している時思い出したので追加)だけだった。玄関右奥をずっと入るとおくどさん(土を盛り上げ固め、そこに釜や鍋をかけて薪を燃やして調理する)があり、中庭の井戸からの水を使い、水道・ガスは来ていなかった。暖は練炭をいれた火鉢、寒い冬は、豆炭を入れた炬燵か、湯たんぽ。洗濯は中庭で盥と洗濯板で洗って、糊をかけ干していた。電気洗濯機が来るのは引っ越してからだった。なぜか、氷を入れる式の冷蔵庫はあった。

 小学生になって直ぐ、父親の転勤で田舎の都会のど真ん中で暮らすようになって、極端な最新文化生活になった。当時一般には発売されていない、単一乾電池十数個!をいれて持ち運べる、三菱電機の超小型TVとか、今から考えると、今のリモコンの元祖を使って操作する大型のテレビ(白黒)を見た。それにいくらでも水が出る水洗式厠。くみ取りの車が来ていた時代である。

 今もマンションではなく、土と木と紙の昔からの家を借りて住んでいる。二十年前くらいに億ションと言われるマンションを見に行ったことがある。天井は低く、部屋はのっぺりして凹凸が無く病室のようで、和室は絨毯みたいなぺらぺらの畳の部屋があって居心地が悪かった。誰も住んでいないマンションの玄関だけが立派だった。住めば都と言うが、別にこんな都なら住め無くて結構だと思って以来、興味は失せた。

 昔からの木の家に住むこの快適さは、着物を着て過ごすとたちまち了解できるのだが、一切が和の暮らしというのは不可能である。当然 夕飯は座敷で座って食べ、コンピュータなどは机と椅子になる(仕事用の椅子は長時間座るので、椅子の脚を床上十数センチ位に切って、あぐらをくめる高さに改良した。禅坊主が瞑想する時に尻に敷く座布団をヒントにつくった。これに座ると十時間でも座っていられる。後脚は、前脚より二倍くらい高く切ってあるので、自然背筋は伸びる)。


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