目次過去未来


2005年09月14日(水) ♪村の鍛冶屋は…。



♪〜しばしも止(や)まずに槌うつ響き
(一時、「休まず」に改訂されたがもとにもどされた。)
飛び散る火の花 走る湯玉
ふいごの風さえ 息をもつがず
仕事に精出す村の鍛冶屋〜♪
(鍛冶屋の減少とともに昭和55年度教科書から外される。教科書から消えた唱歌・童謡より)



この鍛冶屋、江戸時代の身分は? 
鎌を作ったり、鍬を作ったりする人達の事だが、当然、士農工商で言うと「工」と思っていた。ところが、どうもそういうものでは無いようなんである。
驚いた事に、どうやら学んできた教科書で違っていた事がわかって、愕然とした。
それも最近になっての学説ではなくて、教科書によって早い段階から、そうなのであった。
どう言う事かというと、「士農工商」という言葉は、支那の古い文献にはでてき、江戸時代そういう言葉も現れるが、実体は、例えば、町に住む鍛冶屋は「町人」、村に住む鍛冶屋は「百姓」に分類された。
分け方としては、「武士・百姓・町人」の 三つの身分を区別していた。
カースト制度は、床磨きは代々床磨きだが、日本の身分区分はカーストのように、血統では分けない。
扶桑社の新しい歴史教科書によると、 農民は「百姓」の部分集合で百姓=農民ではない。町民・百姓が武士に取り立てられる例もあり、逆に武士の次男三男子が農家の養子になる事も多々あったという。町人とは、武士以外の、城下町に住むさまざまな職業の人達をさし、百姓は,村に住む人をさし、漁業や林業を営む人達も百姓に分類された。「名字」も、町人・百姓も持っていた。

これは初耳であった。ところが、この三分法の記述はすでに、東京書籍は1966年から「士農工商」併記の形で出始め、97年には「武士・百姓・町人」となっている。教育出版・日本書籍は今にいたるも、「士農工商」のままである。
扶桑社の新しい教科書は「武士・百姓・町人」の三分法をとっている。
97年に教育出版・日本書籍で学んでいる子供は硬直した歴史観を持ち、東京書籍・扶桑社(は今年)で学んだ子供は生きた歴史観を持つことになる。


  参考文献:「日本文化 夏号(平17・22号)」−拓殖大学日本文化研究所編−














myrte21 |MAILHomePage