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2005年07月15日(金) 教科書



 はやばやと扶桑社の新しい歴史教科書の採択が栃木県大田原市で決まった。
まずはめでたい。
 4年前の教科書で、見開き2ページにわたって文豪、夏目漱石森鴎外を詳しく取り上げたのは、扶桑社の新しい歴史教科書だけであった。他にもコラムの形でいろいろな人物、神話などが紹介されている。
 今年の教科書はまだ販売されていないので、どうなっているのかわからないが、良いものは文章がわかりにくいと言っただけで、消し去っていいものではない。

 扶桑社の新しい歴史教科書反対派が、「子供たちを戦場に送り出そうとする教科書?」採択反対を叫んでいる。どこにそういう記述があるのか、何ページに書かれているのか言ってみろ。

「戦場に送り出す云々」について言うと この人々は、「権利」を主張するけれどどうやら「義務」については知らぬ存ぜぬらしい。昔日本に一旦緩急あれば、国民の義務として戦場に赴いた。善悪好き嫌いの問題ではない。国家存亡の問題である。(国家がなくても、個人が生きればいいと考えるのなら、その思いの丈をユダヤ人に言ってご覧。自分の国があるという事の大事を、口角泡(あわ)を飛ばしていってくれるだろう。)
そういう時は、あげて国(自他の家族)を守る、当然の事である。永世中立国のスイスさえ、最悪のシナリオを考えて、アルプスの山々のどてっ腹深く、各方面に向けて、ミサイルを随所に眠らせている。各個人の家には、「民間防衛」という冊子が配られ、その時に備えている。

今のところ、戦争の心配のないスイスでさえそうなのに、めんどうな国が二つも隣に存在する我が国で、いまだに「戦争」を絶対悪と見なして、それを教科書採択反対の具にしてしまう。「侵略」したから「悪」で、されたから「善」にはならない。世界警察が存在しない以上、自分で自分を守るしか手はない。負ければ滅びるのみである。侵略をはね返す強靭な国力を持った、民度の高い人々がいて初めて平和を勝ち取る事が出来る。

それはさておき、
扶桑社の新しい歴史教科書の他との大きな違いは、「権力者・国家・金持ち」なら悪で、「弱者・びんぼたれ・障害者」なら「善」とする、マルキシズムのような史観から解き放たれている事である。
大金持ちにも善人はいるし、弱者の中にも悪党はいる。
国家を単純に悪、民衆を善と置くと、必然として、松前藩とアイヌの闘争、百姓の一揆と言うような視点ばかりが強調され書かれる事になる。現行他の7社の史観は概ねそうである

悪しきマルキシズムに染まったおっちゃんおばちゃんは、もうすぐ死に絶える。その後どうするかは、後に続く人たちの責務である。











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