目次過去未来


2003年12月31日(水) 大晦日



 小掃除 注連飾り、御節料理の仕上げ 蕎麦打ち、今年は臼の内側が風化して磨きが間に合わず餅つきは旧正月に変更。
 毎度の事だけれど当たり前のものが手に入らない。ただの塩数の子がない。みんな目にさわやかな黄色で着色されたカナダかどこかの産で、立派な箱入りのものばかり、京の台どこ錦市場にもない。
探し当てても、なぜか貧弱で、上の立派なものからもれ落ちたものだと言われても仕方の無いようなもので、何にも加工して無く塩だけのものが高価で、漂白剤・着色した手間かけたものの方が安い。何にもしていないものが高い。

 除夜の鐘は毎年のように百八つではなく、各寺の鐘がずれて聞こえてくるので、三百位は聞こえていると思うが、適度に距離があるので心地よい。静かな年の暮れであった。

今年はスペインのcava.extra brut(フランスのシャンペンにあたる)のめずらしいビンテージ1999入りのものが手に入ったので、年越し蕎麦とこれをいただきながら年を越した。


正式にはシャンパーニュ(フランス北部にある地名)、普通葡萄果汁を最終発酵が終わらない内に瓶詰めする。そのために瓶内で二次発酵が起こり、ガスが閉じ込められる、瓶外で二次発酵まで完全に終わらせると、普通の白ワインとなる。
シャンペンの瓶内発酵中にたまった澱は瓶を逆さまにして、口元に集めておき、口元を凍らせてカスを閉じ込め、中のガス圧を利用して勢いよく外に放出する、するとワインが減るからあらたに足すことになる、ブランデー入りのワインや砂糖を加えて再度栓をする。だからビンテージ(年号入り)は普通つけない。









2003年12月26日(金) 新走(しんわす)



 先月になるが、国防の会(京都支部)が出来たというので、最初スイスの「民間防衛」のようなものかと期待していったが、まだまだそんなレベルではなくて、イラク派遣の事や、学者の防衛論みたいなものに終始した。

 北朝鮮が攻めてくると仮定したら、具体的に日本海側のどこそこの何という村、町に上陸と言うことになる。そこに上陸された場合、民間として何をどうすればよいかと言う風なことを、具体的に示唆したものが、スイスの各家庭に配られている、「民間防衛」という小冊子である。
そう言う話かとおもったがそうではなかった。京都は多分工作員が多数いるだろう。工作員達はいったん事があれば、いらぬ噂や、嘘の情報を故意に流すだろう、そういう時に、民間人はどうすればいいか?
そういう話をするものだと思って聞きに行ったが、対岸の火事を眺めて話している感じで、失望して帰ってきた。

 他日、図書館に行き、映画ラスト・サムライがきっかけで、新・旧武士道の違いについて、もう一度、勉強し直す準備。
例えば、赤穂浪士をめぐって、旧武士道と新武士道のぶつかりがある。
大石内蔵助はお家再興のために最後まで討ち入りに反対していたが、江戸にいた堀部安兵衛は討ち入り積極派だった。

 幕府の大学頭林鳳岡(はやしほうこう)は浪士が主君の仇を討ったことは「忠義」であり、武士道の鑑であるとして浪士擁護論を展開(旧武士道 葉隠れ武士道的)。
これに対し儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)は浪士の行為は公儀の判決をするものであり、決して「忠義」などではない、これを認めれば天下の法は権威を失う(法を規範とした新武士道)という。「義」をとるか「法」をとるか。 新渡戸稲造の武士道は後者。などなど

 また他日、狂言鑑賞 茂山千作 本当に楽し。愉快。客席ほぼ満員。20数年ぶりという曲が演じられた。前解説、狂言こぼれ話の折り、言葉狩りの影響ここまで狂言師に気を使わせる世の中はおかしい。「小僧(こぞう)」がよくないらしい。以下どうするの?

小僧寿し、しょんべん小僧 、ひざ小僧、ねずみ小僧、弁天小僧. 小僧の神様(志賀 直哉の小説 )
 あらため、少年寿し、しょんべん少年、ひざ少年、ねずみ少年、弁天少年、少年の神様 だったらいいのか!?

 この調子で、どんどん言葉狩りをしていけば、どうなるか?
遠慮せずどんどん当時の曲を演じてもらいたいものだ。
教科書から漱石が消えたのも、鴎外が消えたのも、全部自分で自分の首を絞めた結果にすぎない。こういうのを「たわけ!」という。
漱石には差別語と称される言葉が出てくる。鴎外の文章はむづかしすぎるそうで、これだって、現代仮名遣いにしたせい(二葉亭四迷にも責任がある。文語文から口語文 -言文一致-にした張本人)で、過去と今日を自分達で断絶させて置いて読めなくして、だから捨てるという。おおたわけである。

某夜、割烹料理店にて、京芋(海老芋)の揚げたやつに葛でとろみを付けたものをいただく。美味。ふと見ると二つ向こうに、岡本一平(岡本太郎の父)描くところの夏目漱石のような和服を着た西洋親父。おや、さまになっていると顔を見れば、、版画家クリフトン・カーフさんであった。聞けば金沢と京都に住み行き来しているのだそうであった。京都もさぞかし彫り描く景色が少なくなってきたことだろう。









2003年12月17日(水) 魔法の箱



 縦40cm、横50cm 高さ60cm位の箱、毎日、これに7月頃からあるもの?を入れ続けている。今だいっぱいにならない。といっても、極小さいものばかりを入れているわけではない。大きいものは手帖サイズの紙状のものや、毎日平均300g〜400gのものを入れ続けている。
簡単に計算して今日までに、300x25(一ヶ月とする)x5(カ月)=37500g
kgに換算すると37500/1000で37.5kgになる。子供一人??
 
 そしていまだこの箱は一杯にならない。まだまだ入りそうだ。
さてこれはなんだ? 
正解は台所から出る生ゴミである。以前から台所から出る生ゴミが家族が少ない割に多く出ることが気になっていた。
登山によく行っていた頃は、生ゴミは山に埋めて自然に戻した。
町中ではそうも行かない。仕方なく、ゴミ回収に出していたが、以前に微生物を使って、分解する方法があることを知ってやってみようと思い立ち、この七月から始めたというわけである。

 多くの各県ではそれのための補助のお金が出るが、京都府に問い合わせたら京都府は出ないと言う。
生ゴミを処理する方法は簡単で、バイオチップ(おがくず状のものに生ゴミを分解する微生物を混ぜたもの)を何かの容器にいれて、生ゴミを入れたら、定期的に、例えば数時間おきに混ぜるだけ。
これで、家庭から出る生ゴミ、三角コーナのゴミは、黒い少量の塊になってしまう。これを庭に埋めるか、ビニール袋に入れて、どこかにおいておけば二次発酵が始まって、有機肥料となる。これは、植木鉢や、果実の樹木、畑の肥料になる。

 日本人が江戸時代にすでにしていた世界的な発明、人糞の堆肥化は、今日では水洗で無意味に下水に流され、それを金をかけて浄化している。 本当は各家の便所から出るものも、この方法でほとんど臭いのしない、黒い土塊にできる。下水設備のない山小屋などはこれで解決できるはずである。

 ともかく、実験をはじめて五ヶ月近く、完全に生ゴミはゴミとして回収には出さなくなった。現在箱の中のバイオチップは少し全体の容量が増えたように見えるだけでまだ大丈夫、驚くべき微生物の分解能力である。結局、酒も生ゴミも微生物の力に頼るのが最善にして最良の方法で、それはすでに昔の人が気づき実行してきたものだ。
科学はそれを説明し同じように出来る力とはなったが、結局自然の力には勝てない。微生物に労賃は必要ない。人はそれが働きやすいように補助するだけである。

 後、箱の底にたまる有機質の塊が増えてきたら、庭の葡萄の木の下にまいて、バイオチップを箱に足す。生ゴミ分解は恒久的に続く。
これを各家庭でやれば、劇的にゴミ、それも厄介な生ゴミがなくなる。

 朝ゴミを出す度にカラスがやってきて、生ゴミをつつく。ゴミ袋は破られて、あたりに散乱する。それを解決するために、町内で何ヶ月か一回の持ち回りで、ゴミ置き場の掃除当番をする…、という、いたちごっこもなくなる。









2003年12月10日(水) ラスト・サムライ



 最近、テレビを見なくなった分、映画館に出かける機会が増えた。ほぼ一週間に一回。あたりもあればはずれもある。ここの所、ハリウッド製のアクション映画犯罪映画の悪役は見事なくらいフランス人である。
米国の政治とハリウッドが切っても切れない関係であることがよくわかる。はっきりプロパガンダの一環をになっている。この前見た映画も、悪役のテロリストはフランス人で憎たらしく描かれていた。

 昨日見た、「ラスト・サムライ」を見に行くきっかけになったのは、米国ではワシントンポストを始め、この映画を酷評していたからである。どういう風にダメかと言うことが詳しく書かれていないから、何ともいえないが、歴史認識がおかしいとか、考察が変だとかいうのが多いらしい。

 ここで、へそ曲がりのたん譚はピンときた。米国で酷評なら、日本人にとってきっとまともであるに違いない(パールハーバーは除く)と思ったからだ。

そしてそれはあたった。久しぶりに泣けて泣けて、映画でこんなになんで泣けるのだろうと思うくらい泣けた。
特攻隊の実録映画や遺書を読んだときの涙と同じ質のものだった。

 始まり冒頭の部分に象徴のように富士山の山容がでんと出る。がこの後が少しいけない。山にちょっと詳しい人ならこれに続く山容が日本の山とは違う位のことはすぐわかる。このことで、また、日本人が見たら、笑えるような例えば、着物を左前に着たり、刀、脇差しを反対にさして平気な安手の映画(カンフー映画に出てくる日本人など)かと一瞬、ダメかなと思ったが、そうではなかった。
 今年は、「英雄(ヒーロー)」を見たあと、そのスケールの大きさと、秦の始皇帝へのちょっと目新しい解釈、映像の美しさ、人物洞察の深さに、北野武の私小説的なフランス人好み(本当にそう思っているのかはわからない)の、焼き直し座頭市など、見る気にもなれなく、なんで日本には太古から素晴らしい素材が一杯転がっているのに、映画化できないのだろうと思っていた。もう、諦めていた。

 ところが、残念な?ことにアメリカ人の手によって、まったく正当な日本人像が映画になったのが、このラストサムライだった。見ている間に、これが日本人の協力も勿論あるのだろうけれど、アメリカ人が作ったということが、何だかとても悔しくて、涙の一部はそのこともあった。

 1877年の頃、明治政府はすでに立っている、尊王攘夷派の残党、かたくなに己が生き方を貫こうとする武士集団と、米国でインディアン殲滅を戦い、あるきっかけで、お雇い外人として日本に近代兵法を教えに来た主人公が、日本での戦で、旧守派に捕虜にされ、その時日本のサムライの生き方にうたれ、それはかって自分達が殲滅した、米国の先住民インディアンの勇者達と重なる。
そうして武道や生活を通して、武士の生き方に共鳴していく。ついには、尊王攘夷派に付き政府と一戦をまみえ、戦う。機関銃の前身であるガトリング銃や、大砲にかなうわけなく武士達は全滅するが、その死は「尊厳死」であった。

 この戦いの場面、以前どこかで見た戦いの場面と似ていると思ったら、メルギブソンが、スコットランドの英雄として、イギリス軍と戦い、最後は名誉ある戦死をするという場面とそっくりだった。
その映画は「ブレイブハート」だったと思うが、これを見たときも、敵味方関係なく、正義は必ず勝つものでもないという事実を突きつけられて、その悔しさで一杯、泣いた記憶がある。

 多分「尊厳死」を意識したつくりは、この映画監督のハーバード大学時代の先生が、日本の大使にもなったライシャワーだったことも関係あるのではないか。
ライシャワー元大使は、病床で自ら、命をつなぐ延命装置をはずして静かに息を引き取っている。
安らかな死だったと日本人の奥様は書いておられた。

 
 明治維新以後、確かに見た目の帯刀、ちょんまげ、着物は消えた。がこの後、世界の趨勢に翻弄され大きな戦を戦った日本人の中に、いくらでもサムライはいた。

例えば、硫黄島という島(サイパンがある、マリアナ諸島と東京の中間の小笠原諸島に属する)がある。ここは東京本土を空襲しようとする米軍にとってぜひ押さえておかなければならない島であった。半日くらいで歩いて一周できる程の島である。

 当初米国軍は4.5日で日本軍を殲滅、占領する手立てであった。が、結局、40日近く、8万におよぶ米軍相手に一歩もひかず、二万の日本兵は三万近くの米兵を道連れにした。
この時の指揮官は 栗林忠道陸軍中将だった。
しかし多勢に無勢、長期的にはかなうわけがない。
ついに兵が1000人を切る頃、中将は参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報で送った。

 戦局最後の関頭に直面せり、敵来攻以来麾下(きか)
将兵の敢闘は真に鬼人を哭(な)かしむるものあり

国の為重き務(つとめ)を果たし得で矢弾尽き果て散るぞ悲しき
  
これを残して、中将は米後方の部隊を奇襲し、多大な損害を与えた、その途中で中将は負傷し歩けなくなり、「屍を敵に渡すな」と部下に介錯を命じ、部下は木の下に遺骸を埋めて後、自決したと言われている。

これはなんであろうか? 侍の精神そのものではないだろうか?侍は生きていたし、今も日本人の心奥深く生きている(眠っている)と信じたい。日本の女にも同じようにある(と思いたい)。

天皇皇后両陛下が硫黄島に行幸された時に詠まれた歌

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき

慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ



 ハリウッドが米国が、映画に託してプロパガンダを行っているとして、これで、日本人に何を訴えようとしているのか?「日本人よ!昔のように、我々と戦った時に持っていたような矜持を持て」といっているのかもしれない。


付録
栗林忠道陸軍中将 達の取った画期的な戦法

まず、殺された米兵は間違いなく正確に腹部を撃たれ絶命している。驚くような正確さで(米軍の記録)

負傷し、「コーズマン(衛生兵)」と呼ぶと、コーズマンと答えて、近づくのは、米戦闘服を着た日本兵であった。転がる酒瓶やヘルメットを持ち上げると爆薬が仕掛けられていた
米軍は「今までの戦場でかって経験しなかった巧みさ」という言葉を残している。
地中深く潜り、撃たせるだけ撃たせて置いて、一挙に攻撃に転じる、ベトナムで米国が負けたのも、この戦法で、一番最後の侍、小野田少尉(終戦を知らないままフィリピンの山奥(ルバング島)で27年8ヶ月の間陣地を守り続けた英雄)も、ベトナムの戦法はわれわれのものだと言っている。


参考文献:国際派日本人養成講座 -栗林忠道陸軍中将-


     

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*12/08 開戦の日中 英法曹界重鎮FJPビール氏
の所、文字化けていました。訂正しておきました。









2003年12月08日(月) 開戦の日ノート



今日は開戦の日、二年前のたん譚をどうぞ

2001年12月08日(土) 今日は開戦の日




大東亜戦争

今日の日に関連したことなどの備忘録。

日米開戦前、

日本は戦争を避けるために最後の最後まで平和交渉を続けた。

それを拒否したのはルーズベルト。

ハルノート


先制攻撃はアメリカであった

ルーズベルトの苦労(先に日本に攻撃させる画策-スティネット「パールハーバーの真実」)にもかかわらず、日本のハワイ襲撃1時間20分前に公海において米国は日本の潜水艦を攻撃して撃沈させている。

    -米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類第75(1945年6月7日)による日本語訳は『現代史資料』35巻(みすず書房)-



日本軍国主義

一般にいわれているような、それだけのために国が軍国主義であったことはなく、そうと言われていた時期、軍事予算は削減されて、それをめぐって、陸海が予算争奪している。(敗戦直前の1.2年は窮鼠猫を噛む状態でそれはおく)

原爆

終戦3ヶ月前、日ソ中立条約を結んでいるソ連を通じて米国に平和停戦、平和交渉を依頼している最中に米国は広島、長崎に原爆を落とした。


人々の言葉


毛沢東主席

社会党の佐々木更三委員長が、毛沢東主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶すると、「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利権をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか、皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」
(東大近代中国史研究会)

支那事変勃発

 周恩来首相

「あのとき我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」


アムステルダム市長サンティン氏

「あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪しているがこれは間違いである。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し救い出す人類最高の良いことをしたのだ。日本の人々は過去の歴史の真実を目かくしされて、今次、対戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて悪いことをしたと自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。

本当は私ども白人が悪いのです。百年も二百年も前から、東亜を征服し自分の領土としてきた・・・・血を流して戦ってきたあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむ事を止め、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」



インドネシア大統領特使、アラムシャ陸軍中将



もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」



インドネシア、サンパス将軍(東欧大使歴任)


「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った××首相演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。××さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」

マレーシアのガザリー・シャフェ外相
「日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。
「「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちをこうむった事を忘れたのか?」」と。

終戦後
マッカーサー元帥が「日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に立ち上がったのは正当防衛であった」と証言した
最高司令官マッカーサー元帥は、昭和25年10月にウェーク島においてトルーマン大統領と会見して「東京裁判は誤りだった」と告白。


翌26年、米国上院で「日本が行った戦争は自国の正当防衛のためであり、即ち侵略戦争ではなかった」と証言した

東京裁判ウェッブ裁判長の反省
「東京裁判は誤りであった」
東京裁判、日本糾弾の急先鋒であった首席検事キーナンの告白
裁判後数年にして「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だつた」

インドのパール判事
「日本は国際法に照らして無罪である」
「大東亜戦争は日本は無罪である。(田中正明著『パール博士の日本無罪論』慧文社)欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である。
日本の教育書は子弟に「日本は侵略の暴挙をした」「犯罪を犯した」と教えている 日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されてゆくのを、平然と見過ごす訳には行かない。」

英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿

『戦犯裁判の錯誤』を著わし、裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、「私は全然疑わない」

英法曹界重鎮FJPビール氏

「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為にほかならない。」


英国国際法で有名な W・フリードマン教授

国会議員であり、王室弁護士R・T・パジョット博士等、皆パール博士を支持した。ロンドン世界事情研究所監修『世界情勢年鑑』(1950)は東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏付

アメリカのチャールス・ベアート博士歴史学政治
『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』を著しその中で、日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令したと発表し、パール博士の指摘した点を裏づけた。

米国、国際政治評論家ラティモア氏は「白人の侵略の終着点」
「日露戦争の勝利が有色民族解放運動の出発点であり、終着点はまさしく大東亜戦争であった。」

仏大統領ドゴール
「シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉(しゅうえん)を意味する。」

プラモード元タイ首相
「日本は独立の母である」と感謝
「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母胎を損ねたが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、米、英と対等に話ができるのは一体誰のお陰であるか、それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。」

ほとんどの日本人が以上を知らない。教科書で教えないからだ。









2003年12月03日(水) 今だ冬来ず



 ここのところの恰好は、袖無しTシャツ一枚に短パンいっちょ、靴下も十年来家の中では履いたことがない。師走というのに全然寒くない。昼は障子を開け放し。
異常気象とは、短き人間の気象予報の歴史からして言えないが、全然寒くない冬(今のところ)である。
夜中・日中の水浴びもまだ、どきっとする冷たさは無し。今年は秋から今まで山野草の生育がおかしかった。山ごぼうは実を付けず、紫式部もかわいい小さな実をつけたがすぐに落ちてしまった。 
 毎年寒さを感じると、エスプレッソの珈琲碗を 薄手のものから厚手のものへ衣替え?するのだが、それすらも忘れてしまっていた。

 日本人の殉職者が出た。自衛隊は今、敵の足を撃つ訓練をしているという。馬鹿も休み休みにせぃ! 命を狙ってくる相手の足を撃つ訓練をする無意味。
元凶は憲法である。

自分で自分を守れない軍隊を派遣するのは「ただ死ね」と言うに等しい。殉職した二人のどちらかの手記には、自国の軍隊が来ない事への残念さがかかれている。









2003年12月01日(月) 三味線とストラディバリウス (日本と西欧)



 バイオリンに名器があるのに、なぜ三味線にないかというのがある。先日FMから聞こえて来た話題で非常に面白かった。三味線にないのは、棹(紫檀などで出来ている)の部分(指で押さえる所)が減ると、削って新しい面を出して使うからだそうで、要するに消耗品なのだそうである。
 三味線は、三つの部分から出来ていて、それぞれに作り手が違う。バイオリンは一人の作家が一貫して作る。

そういう事もあいまって、江戸時代からの名器はないということになる。
西洋の楽器は、平均律で演奏するけれども、三味線は音楽の流れ(これを流派と呼ぶ)によって使う音が一定しないので、ギター・バイオリンにあるフレットにあたるものがない。
 
 西洋音楽にあれば良いとされる絶対音感も、三味線には、かえって邪魔になるらしい。三味線は相手にあわせて音が決定される。
だから非常に西洋に理解されにくい。

 これを聞いていて、フランスの美術史家アンドレ・シャステルが、なにかに日本と西洋の違いについてその困惑を書いていたのを思いだした。

 西欧の文化財は、いっさい代替不可能なもので、そのまま保存しなくてはならない、しかし日本は神社仏閣などの貴重な建造物を、元々使われていたものと同じ素材を用いて、周期的に再建修復し、日本文化を理想的な状態で引き継いではいるが、わが国では考えられない…云々。

 ストラディバリも西洋絵画も、結果的に時を経て、良い音 良い味(色味において)がでているのだろうが、作った、描いた当時はそれほどではなかったかもしれない。今良いと思っているだけかも知れない。

  美術史家A・シャステルの言い分は、一面的である。たった今の価値観(文化財はいっさい代替不可能なもの、手を付けず保存)でものを言っている。
西欧中世において、絵画、現在名画と言われるものでも、目的によって上から遠慮なく他人の手で加筆が行われた。これを現在ごしごし洗い落としている。これはいいのか?

 西欧においては、オリジナリテ(個人・作家)を第一とし尊ぶ。が、日本においては、法隆寺の建立も、昔 寺社番匠、今、宮大工と呼び名は変わっても、個人名はでてこない。だからといって全然顔を出さないかと言うとそんなことはない。左甚五郎、彫像では運慶・快慶 他がいる。多面的で重層的である。

シャステルは日本を知らないというより理解できない。また意を尽くして話しても認めるだろうが理解しないだろう。話して理解出来るものとそうでないものがある。文化とはそう言うものだろう。
 
 
平均律
〔音〕一オクターブの間を一二個の半音に等分して構成した楽律。純正律に対して音程や和音が幾分不純であるが、一二種の音によってあらゆる転調を処理できる便利さのため、近世音楽発達の基となった。
 
 
 

    










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