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最近、コマーシャルなどで目のくりっとした、東京大学出だかのタレントをよく見る。聞けば、きっかわ れい(菊川怜)というらしい。この人の名前を聞くたびに、東京で下宿していた頃のことを思い出す。
昔、吉川霊華(きっかわ・れいか 明治八年(1875)-昭和四年(1929))という日本画家がいた。今日ほとんど忘れられた。 明治三十四年(1901)に、烏合会(うごうかい)という美術団体が出来る。江戸の文化を好み、浮世絵の伝統を生かした新しい風俗画を創作せんとして、鏑木(かぶらぎ)清方らが言い出しっぺで後、吉川霊華も参加した。今名前が残っているのは鏑木清方くらいなものだろう。この後、 美術雑誌『中央美術』の経営者であった田口掬汀が幹事となり、文展作家として声価の高かった結城素明、鏑木清方、平福百穂、松岡映丘に、野にいて奔放な画風の作家吉川霊華達が「金鈴(冷ではありません)社」を作った。 金鈴社は個人の自由な発表の場を持とうとするもので、反文展の立場ではなく、良識派の結社であった。 その中の吉川霊華は、文人画を基本とした。
昔々、田舎から東京に出るに当たって、下宿が探せなかった。人伝に、N 航空に勤める先輩が下宿している所に六畳間があると聞き、転がり込んだ。 偶然そこが、先に書いた吉川霊華の未亡人が住む家の離れだった。当時(1970頃)未亡人は、八十過ぎていたと思う。たん譚の事を呼ぶとき「書生さん」と呼んだ。この時世間で「書生」と言う言葉はすでに死語であった。ちゃきちゃきの江戸弁であった。 猫五六匹とお孫さんがいそうな、現役の看護婦さんをしている人と二人で母屋に住んでいた。
たん譚達は、離れの二階に住まいしていた。時折下から「書生さーん、一服いかがぁ」と声がかかる。母屋で開かれる茶会に、独自の茶の流派を立てていてお弟子さんが集まるところに、時折呼んでくれた。 時に「書生さん、猫になまり(半生のかつお節のようなもの)をかってきてちょうだいな」と用を頼まれる事もあった。 猫が風邪をひいてその猫を抱いて、蒲田の動物病院までタキシーに乗りお供したこともあった(この時、鼻先で猫にくしゃみされて、風邪と蚤をうつされ次の日から猫んだ)。 学校へはほとんど行かず、下宿で、本ばっかり読んでいたからよく声がかかった。テレビは持っていなかった。当時学生でテレビを持っていなかったのはめづらしい部類だろう。テレビを初めて正式に持ったのは京都に来て、今の伴侶と一緒に住み始めた、二十八歳くらいの時で、小さい白黒テレビだった。だから、十八から二十八位までの約十年間の相撲の横綱、タレントの名前、野球で活躍した人、今でもほとんど何にも知らない浦島太郎状態である。 下宿の下階は物置で、ものを探すのを手伝った事がある。その時に、霊華が芸者らしき三人と仲良く写っている写真を見つけた。未亡人に見せると、「ああ、深川かなにかの芸者でしょ」ときっぱりといった。田舎者にとって、随分男らしい?気っ風を感じてとても新鮮であった。 京都に移ってから十年後位に、今度は弟の下宿探しの折り、再び田園都市線、自由が丘から二つ大井町方面、北千束(きたせんぞく)の吉川宅を訪れたとき まだご存命だった。今もしご存命だったら百十をこえる。
菊川れいの名を聞くたびに懐かしくあの下宿を、昭和にいて明治を感じたことを、思い出すのである。
吉川霊華 _きっかわ れいか 作品収蔵先 『 聖徳太子像 』 1910 (M43) 五島美術館 『 孔雀秋草 』 1914 (T03) 講談社野間記念館 『 寿星 』 1919 (T08) 松岡美術館 『 魏伯陽図 』 1918-9 (T07-8)頃 永青文庫 『 羽衣翔飜 』 1923 (T12) 東京国立近代美術館 『 浄名居士 』 1923 (T12) 講談社野間記念館 『 瑞彩 』梅薫る夕 1924 (T13) 宮内庁三の丸尚蔵館 『 不盡神霊 』 1927 (S02) 高崎タワー美術館 『 列子御風 』 1928 (S03) 東京都現代美術 『 羅浮僊女 』 1928 (S03) 埼玉県立近代美術館 『 子の日図 』 不明 静嘉堂文庫美術館 『 役小角 』 不明 東京国立近代美術館 『 林和靖 』 不明 五島美術館
あお〜♪げばぁ、とお〜とし和菓子のあん、じゃなかった、我が師の恩〜♪で始まる、今はどうか知らないけれど、昔卒業式で唱った、あの唄の歌詞中、「今こそわかぁれめぇ〜♪ いざ〜さらぁ〜ばぁ」の部分。これ意味どう思ってましたか?たん譚はずっと、「いまこそ、わかれ目(すなわち別れの時だ!)いざ、さらばぢぁ!」と疑いもせず、齢を重ねて参りもうした。
ところがこれは、吉田兼好の「徒然草」の「あやしうこそものぐるほしけれ」とおなじく「かかり結び」なのだそうだ。「今別れむ」にこそを入れて強調すると、 「今こそ、別れめ」なのだ。辞書(新明解国語辞典)も、かって間違って載せてたらしい(最新版は訂正されている)。知らなんだ!
大東亜戦争(米国側の呼称は太平洋戦争)期、日本に大使(昭和18年頃)として駐在したフランスの大詩人ポール・クローデル は、親友のやはり大詩人のポール・ヴァレリーに「私が滅びないように願う一つの民族がある。それは日本民族(ママ)だ、これほど注目すべき太古からの文明を持てる民族を他に知らない。・・・彼らは貧乏だ。しかし高貴だ。」といって日本を擁護してくれた。
が、その二年後、米国は、北海道から順々に、絨毯爆撃という方法で我が民族を根絶しようという暴挙に出た。やがて敗戦の年一月に米国に「降参する」意思を文章で問うたが突き返され、その夏に原爆が落とされる、そして敗戦降伏の日を迎えた。 マッカーサーが日本本土に来てみれば、日本人の意気は少しも衰えておらず、驚愕して、皇室を潰すととんでもない事態になると悟り、それを残すこととし、日本は無条件ではなく、「条件付き」降伏ということになり、敗戦が決定する。 戦後のどさくさにも、略奪・暴行などは起こらず、逆に、米国占領軍の「女」要求に、プロの娼婦を頼んで、一般の婦女子を守った。負けても、自国の国民を守る気概は最後まであった。
翻って今はどうだろう、国連についに、家族を拉致された人たちが、政府に失望し自ら壇上に立ち意見を述べに行くという。こんな国(政府)に、もうかっての クローデルのように擁護してくれる人は出て来ないだろう。「貧乏」はなくなった。が、高貴という言葉も一緒になくしてしまった。
2003年04月18日(金) |
国連に集う烏合の衆(国) |
やっぱりというのか、国連が、日本人拉致の解決要求決議を採択したが、なんと韓国は棄権。解決しなくても良いと反対!した国々がある。 反対した国々は、やはり前にも書いた中国、ロシアを筆頭に、マレーシア、アルジェリア、キューバ、リビア、スーダン、シリア、ベトナム、ジンバブエ。
これらの国は明確に「反対」したのだから、人をかっさらって閉じこめ、その「人権」を否定してもかまわないと認めた事になる。
白髪三千丈の支那。かっての超大国で、今はその過去の威光で国運営、もう10年以上チェチェン(イラク面積の1/30)と戦って疲れ、これ以上身近なところに米国に来て欲しくないロシア。この二つの国の厚顔無恥。日本からの長年に渡る援助なんか屁とも思っていない。やるというのだから、もらってやっているというのが支那である。キューバから人がどんどん逃げ出しているのもこれでわかった。
よーく覚えておこう。恩義とか何とかは通用しない。国連(→過去2003年03月16日(日) 国連てなんだ?)は解散。
2003年04月12日(土) |
ミルクかスープか?煙草である! |
少し前、犬ワン(ケンワン、仮名)が主催するミルク(仮名)とソップ(仮名)の試合を見た。試合はあっけなく眼底骨折だかで、ミルク(仮名)の勝ちとなった。 ミルク(仮名)は、たん譚がよく行く京都の日本料理屋に、犬ワン(仮名)の今は塀の中の社長と来たことがあって、そこで、ミルク(仮名)は極上の程良く焼かれた肉をもっと良く焼けと、一キロの肉を八百グラムに、脂が抜けてカスカスになるまで焼かせ、ばくばく食って帰って行ったという。化け物ですな。そんなに肉くいたきゃ焼肉屋に行きなさい。
それはさておき、二人は強いと思うが、もっと体が小さくて、強い奴?がいる。 煙草である。 別に喫煙して、それで肺ガンになってという陳腐をいうつもりはありません。たばこ一本が何グラムあるのか知らないけれど、この一本の煙草がミルク(仮名)もソップ(仮名)も一瞬にして倒すどころか、殺してしまえる。
もう何年前になるか、NHKの番組で車がコンクリート塀に激突した時の、衝撃度実験をしていた。ダミーを乗せて、時速六十キロで壁と激突させる。 研究員が冗談で、ダミーの口に銜(くわ)へさせていたその煙草が、なんとフロントガラスに突き刺さっていたのだ。フロントガラスは傾斜がある、にもかかわらず! 格闘技での突きの力は、打撃に使う部位の質量(重さに非ず)×移動量?×スピードとなって理屈はつくらしいが、どうだろう。
昔、空手を始めたきっかけとなった漫画の中に、中国人の李青龍と言う武人がでてきて、この人が湯飲み茶碗(鮨屋にある)を、最初、人指し指の先でコツコツとたたき、やがて気合いと共に指で湯飲みを突き通してしまう。 こんな場面になると、普通関西ではほぼ全員が「ンな!アホなァ」と声をあげて、漫画だと我に返るのである。 ところが、先の番組を見てから、中に骨のない煙草がどういう具合か時速六十キロで飛んで、堅いフロントガラスに穴を開ける、ならば骨のある指が磁器(ガラス質)と違って陶器(土質)ならそう言う事も可能かも知れないと思い始めた。 この頃から、只単に大きくて重い重量級だけが最強とは単純に思えなくなった。日本には九十何歳の老人(腕相撲協会の会長)が現役のプロレスラーと腕相撲して互角だった(最期は負けてしまったが)り、辰吉と名勝負した薬師寺を相手にした古武術の爺さんは、薬師寺が繰り出すパンチをひょいひょいよけてついに当てさせなかった。 これがきっかけで古武術の本を読むようになり、ここから上の話題とははずれるが、「足の運び(歩く)」と言う事に興味をもった。
明治初期に日本に来ていた、建築家のブルーノタウトが、「日本人は歩くときに手をふらない」と驚いている。背筋を伸ばした姿勢で、踵(かかと)から着地して歩くというのは西洋の作法である、植民地先のアフリカの黒人が水瓶を頭に乗せて、歩くのを見て、国に帰って本を頭に載せてまねっこした。それを日本人が真似た。決して日本人本来の歩き方ではなかった。日本人は駱駝(らくだ)と同じ並足歩行だった。昔の絵巻などにも手足を交叉させて歩く人の姿はない。
着物のご婦人はしずしず歩く。この時、足と反対の側の手を振り出すことは不自然である。 江戸の頃に、今の徒競走のように走れたのは猟師・飛脚・忍者くらいだったという。百姓は一生走ることはなかった。だから百姓一揆において、わーっと走るの図はありえないのだそうだ。 今の武道には、まだ片鱗が残っていて、順突き・逆突きの、順突きがそうで、踏み込んだ足の方の手で突くのが、順なのだ。相撲の稽古でもよく見ていると、出た足の方の手が一緒に出ている。 我らは、知らぬ間に西洋化教育をされ、西洋の目でものを見、基準にしている自分を見て、愕然とするのである。余談だが、日本人として、西洋を見た最後の人と言われている夏目漱石は、洋服を着てどう歩いていたのかとても興味がある。
蛇足:「武」の語源は「第一歩」の意味がある。「歩」も「武」も漢字中に「止」が入っているので親戚なのだ。「足」も同じ。
参考文献:古武術の発見 養老孟司・甲野善紀 古武術からの発想 甲野善紀
昨日、M書房のA氏来る。画集出版の話。出したいが、三文繪描きの画集なんて、だーれも買わない。買ってくれるのはその弟子、愛好家友人身内達だけである。弟子も無く、愛好家も少ない繪描きの画集なぞ誰が買うのか。 出版社は赤字となることは間違いない。黒字になるためには、一工夫が必要だろう。画家による自他画家の分析・評論ほど読みたくないものはない。よってこれらは全面的に入れない。 作品ばっかりでも、これまた一頁十数秒で通り過ぎられる。さてどうするか?
作家の一作品から出発して、作家の住む京都なら京都の文化におよび、総合的なハイパーテキスト(例えばインターネットのHTML のような文章・画面作りで、一つの鍵となる文章から、まったく異なる所へ飛んでいく)のようなものにし、例えば画家が使う個人的な筆から食い物の嗜好、贔屓へと話題がおよんで、終わる。政治は重要だけれども入れない。繪を中心として話題を載せていく。 出来たらDVD(作品の制作過程の映像)の一枚もつけて発売する。そうでもしないと、情報に溢れた今日、目もくれないだろう。 昔、画家なんて高尚なものでもなんでもなくて、生きるために描いた。芸術性何ゾを追求して描いていたわけではない。そういうものは余暇から来るものなのである。 繪描き、音楽家、詩人などは、贔屓あっての物種で、てっとり早く言えば、りっぱな芸人だった。 評論家は繪解きをしたがるが、過去西洋画のほとんどの繪画は、一人の男(キリストさんです)とその母の肖像、王様と貴族の要望で、今で言う写真館の役割として繪はあった。たん譚は、繪は近代印象派の出現で終わったと思っている。アーティストのアートの語源はアルチザン(職人)から来ている。 近、現代の繪画はその言葉と何の繋がりもない。、米国の絵画を見れば、民主主義の下で生まれた繪画がいかに薄っぺらく、つまらないかというのが見て取れる。みんなイラストレーションに見える。日本ではさしあたって、みんな漫画風(アニメ風)に見えてしまう。そう言う風にしか描けなくなってしまっている。 話題がそれた。 おそらく画集だけでは売れないだろう。それは文学・その他にも言える。又一つ、ここに駄(画集)本誕生すという事になりかねない。自己満足する事は出来るかも知れない。考えを詰めていくと暗澹たる気持ちになった。 弁当つけるか!
2003年04月03日(木) |
もう一人のベルナール |
フランスの三つ星料理店の料理人、ベルナール・ロワゾーが亡くなったのは、2月の終わり頃の事だった。まだ記憶に新しい。 一昨日、フランスから速達が届いた。いつも行く、ボークリューズ県のジットの主(あるじ)の奥さんからだった。 原色の小鳥のわりと大きめの切手を貼った封書だった。何だろうと、封を切ると便せんではなく、印刷された一枚のカード。「私達は苦悩の後、ベルナールの死をお知らせしなければなりません。3月10日に永眠しました。喪主アンドレ・マヤン」 何度読んでも、実感が伴わない。一昨年に、母親を連れて南仏のジットを訪ねたときに、新しく出来たプールの横で昼下がり、自家製のパスティスを振る舞ってくれた。夏の南仏の午後は働けない。ひたすら厚い石壁の中に、窓の扉を半開きにしてやり過ごすか、思い切って庭にでて、パスティスを飲んでペタンクをするか、プールで腹を見せて浮いているしかない。 大きな木の下のテーブルで、うちの母を優しく迎えてくれた。その時に、半ズボンから出ているベルナールの足が異様に細く、首周りも何だか細く感じたが、あまり気にすることなく、午後の楽しい一時を過ごした。
今考えれば、あの時すでに病魔に襲われていたのかも知れない。パスティスもビールにも手をつけなかったような気がする。ベルナールは三兄弟の三番目で、長男は手かざしの心霊治療師、次男はアフリカ方面の軍隊のヘリコプターの操縦士、この次男は何年か前に癌で亡くなっている。
’85年に初めて訪れ、日本の田舎のバランスを失ってしまった風景と違い、素朴がそのまま残っている南仏を知って以来のつき合いであった。それから折りに触れ、滞在中は、夕飯に招いたり招かれたり、実にお世話になった。
たん譚とはおない年であることは随分後で知った。向こうの男も女も、年の割にずいぶんと大人である。日本人は幼く見えすぎる。ベルナールの一人娘が、高校に入る頃、はっきりと大人の顔、大人の雰囲気になるのを見た。日本人の同年代が化粧してもそうはならない。フランス人は、顕著なそういう現象があるらしいことを他からも聞いた。 現在娘さんは地場の学校の先生になり、二年くらい前に結婚している。 ベルナールと奥さんは、日本に来たいと言っていた。来たら、日本の畳や酒蔵や料理で迎へようと思っていたが、唐突な、あまりにも早い死に、世の無常をあらためて感じてしまった。 とりあえずお悔やみの速達を送り、この六月に墓参りに行くことにした。 あの広い葡萄畑の剪定や収穫はどうするのだろう。大きな林の向こうにある、名産のメロン畑の面倒は…。 ジットの運営や、イル・シュール・ラ・ソルギュの交通課の仕事はどうなっているんだろう。 素朴で剛毅でひょうきんな南仏人だった。
マヤンの庭での思い出の一時
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