目次過去未来


2002年11月23日(土) しばらくお休み



 明日から南仏に行きます。昔西ヨーロッパは多く森林地帯だった。今は見る影もないが、ヨーロッパの石作りの建築はあれはもともと木を模倣したものだそうで、柱その他はその名残だそうだ(国民の芸術-田中英道ー)。
 マルセイユから西に車で一時間の所にピロン山というのがあって、そこの山塊には、北方にしか生えていないような樹木も混生してるようで、めずらしい生態系がありそこを訪ねる。

 マルセイユ、エクサンプロヴァンスはテロが割とあるようだが、なーに!巴里の北駅で、ロッカー爆弾テロがあったその時も、荷物を預けていて、しばらく入る事が出来なかった事があるし、イギリスのヒースロー空港で待っていたとき、すぐ近くのロビーで爆発音を聞いたこともある。スペインのアトーチャ駅に行ったときは、ロッカーテロの影響で全面閉鎖で往生扱いた。根性は座っている。
よって、気を付けつつも、びびって行くことをやめるというような事はなく、つつがなく行ってきたい。

 もう一つ、途中オーバーニュと言うところがある。
オーバーニュには伝統ある外人部隊の駐留地があるところで、ナポレオンが戦争に国民動員を発明するまで、田んぼ耕している百姓のすぐ横で、他国と戦争は日常茶飯であった。それは主に雇われ兵士の仕事だった。民には関係のないことだった。ナポレオンは国民の愛国心に訴え、やがて自国は自国民が守るという事になっていく。それまでは傭兵制度であった。
 外人部隊の功績は大きい。フランスも救うが、外国も助ける。確か過去日本人が二人くらいいた。今はわからない。
 その近くに、カモワン・レ・バンという温泉地があって、今のところここを基点にして景色を探そう思っている。温泉は断じて裸で入りたい…が、怒られるかも知れない。海水パンツで温泉入ってどうするんだ!










2002年11月20日(水) キャパにはなれない。



 いつものように、世間から言うと常識はずれの午前四時頃、風呂に入っていると何だかきな臭い。気になりながらも風呂から上がり、出たところで、消防のけたたましいサイレン、丁度一年前まったく似たような時刻に町内で火事があり、外に飛び出て、消火に駆けつけた事を思いだし、あわてて裏庭から外を見たら、以前より身近な場所、北側に火の手が上がり、火の粉が夜明け前の夜空に舞っている。半分濡れたままの身体に、衣服をつけ飛び出していった。
 野次馬で飛び出したのではない。この辺は古い木造建築の民家、禅寺永観堂などがあり、火が移ると大変な事になる、今住んでいる家もアルミサッシなどない木造の家で、火が移るとひとたまりもない。
そういう事から人事ではないのだ。駆けつけると、すでに消防車が来ており、消火の最中であった。

 前から短編映画を撮りたいとずっと思っていて、ようやくビデオカメラが手に入ったばっかりだったので、これを機会に、ドキュメンタリー風に撮ってみようと思い、用意して現場に戻った。手際の良い消防士、燃え上がる家屋と撮りながら、この辺でズーム、ここで場面変換のための切り替えなどと思いながら撮していたが、途中で嫌悪感を催して撮るのをやめてしまった。
 
 プロの報道カメラマンは、横でばしゃばしゃ写真を撮っている。それがどうしても出来なかった。中に老夫婦の一人がいて絶望的な状態である。
素人の自分にはどうしても平静な状態でカメラは回せなかった。なんかとても後ろめたい気がした。
 結局、燃えるのが一段落して、近所にこれ以上の事がないのを見届けて帰ってきた。北二三軒おいた家の失火であった。この一年で同じ町内で火事が三軒あった。この前は親子三人が焼死し、もう一つは若王子神社の上の山中、そして今回、上に寝ていた老夫婦の奥さんが亡くなった。

 人が撃たれて倒れる瞬間を撮った(最近やらせの疑いが出ている位、偶然にしてもあまりにも上手く撮れている)、ロバート・キャパや、ベトナムで焼け出されて、真裸で道を逃げてくる少女を撮った写真家がいるが、戦争している最中にカメラを戦地に持って入って、人の修羅場を撮るという行為は、到底真似が出来ない。感情の方が表に出てしまって、撮ることが出来ないタイプの人間だと、いい歳して初めて自分の事が分かった気がした。
 









2002年11月16日(土) 臭感金様媚(しゅうかんきんようび)



 反日雑誌である。編集委員を見ても分かるように週刊金曜日(編集委員、落合恵子・佐高 信・椎名 誠・筑紫哲也・本多勝一)問題多き雑誌である。

 この中で、友人(写真家、岡田昇)が北アルプスで去年遭難し、今だどこかに埋まっているので、可哀相だから椎名誠はせめない。だが、編集委員に、あの南京大虐殺を、本当のところは多分無かったと知っていたに違いない、当時朝日新聞の記者だった本多勝一がいる。
この人は、 講談社文庫版『アラビア遊牧民』には「本多勝一 1933年長野県生まれ。京大農林生物学科卒」と書き、梅棹忠夫・責任編集『現代の冒険1 砂漠と密林を越えて』(文藝春秋)には、「本多勝一(ほんだ・かついち)1933年(昭和8年)長野県に生れる。千葉大学薬学部を経、59年京都大学農学部を中退。」と平気で書いて何とも思わない人である。
他著書内経歴も、生まれ年の幅が2〜3年の食い違いがある。

 その他、中国の文革やベトナムについても、前言を勝手に翻し、書き換えて平気な人でもある。今はどうだか知らないが、確か誰かに訴えられて、裁判で係争中の事が二つ三つあったはずである。南京大虐殺を当の中国の宣伝材料にしてしまった張本人といっても良い。問いつめられると、中国民が言ったことをそのまま書いただけで、責任はないという、記者の風上にも置けぬ奴である、裏をとらないのなら朝鮮労働党の新聞記者と同じではないか!
佐高信、企業内の幇間記事雑誌を書いていたようで、あの辻元清美に、援助?金を出して応援していた人である。この人、企業内の重要人物に取材して、伝を持つとたちまち批判していた人でも、評価が変わる。確か評論家の江藤淳(あの長野県知事田中康夫を世に出した人)にあった後も、君子豹変した。


筑紫哲也 この人も朝日新聞出身の言いっぱなしの達人である。言いっぱなしの達人はなぜかニュースキャスター(例:久米宏)になりたがる。読んでもいない(話からわかる)新しい歴史教科書を非難し、まともに名指しで論争を挑まれると、知らぬ存ぜぬで、頭から無視して平気な人物。石原慎太郎との直接対談の折り、一度は外国に逃げ出し、対談実現の際には、その後ろめたさと劣等感が画面に出ていた。卑怯を絵に描いたような人物。そういう人達によって作られている雑誌だ。

形を変えて、相変わらず国を売っていることには変わりがない。









2002年11月09日(土) 訂正



10/30の題字 夭折→夭逝でした。









2002年11月07日(木) 巴里のレストラン



 世間が平穏でない中、今月24日から南仏に行く。行くと言っても、車でひたすら人のいない山中をうろうろして、ひがな冬の光線を求めて、走る。それだけ。
 そう言う中で唯一の楽しみは食べることになる。旅の最終日は一端巴里に出て、晩飯を食べることにした。
そこでミシュランガイドの公式頁につないでみたら、あれれ、巴里市内の三つ星(***)がなんと九店になっていた。
Ledoyen,  Lucas Carton,  Plaza Athene , Taillevent,  
Arpege ,Grand Vefour , Guy Savoy , Ambroisie ,
Pierre Gagnaire
これはちょっと多すぎやしないか?ちょっと前までは多くて5.6軒であった。

 中にはグランベフールのようにシェフが変わり、返り咲いた店もある。返り咲くのは至難の技で普通はあまりないことだ。サンテチエンヌにあった、ピエール・ガニエールは上京し、三つ星を取った。最初、タイユバンに行こうと思い、Eーメイルを書いた。便利になったもので、1年前くらいまではすべて予約は FAXでしていた。ファクスの転送速度がフランスは何だか遅く、KDDに支払う料金は馬鹿にならなかった。それも取れたらいいのだが、断りのFAXもこっち払いに設定して送信するから、大層な出費になっていた。
 
 ところが今年当たりから、ホテルもレストランもこぞってメールアドレスを住所の前に載せ始めたのだ。これは便利だ。さっそくタイユバンに送ったら、やっぱり!断られてしまった。しかし断る文がしゃれている。

 「夜は満員(普通三つ星のレストランを一ヶ月前後にとるのは無謀である)です、しかしあなたは慣れてらっしゃるようだから、観光客の集まる夜より、パリジャンが多く集うお昼が良いと存じます。お昼ならお好きな時間を仰せつけ下さい、ご用意いたします」
てな心憎いメールをよこした。結局断ったが、敵もなかなかやるものだ。幸い、アルページュが取れたが、こうあっさり一ヶ月を切った状態でメールをしてとれたとなると、今度は「何だ!はやってないのとちがうか?」と下衆の勘ぐりをしてしまう。
 フランス料理界も苦しいのだろう。まず、不況下、日本人が来なくなったろう、アメリカ人もそれどころではない。そうすると、長年代わり映えしない三つ星レストランに変化がないと、フランス人自身も来ない。
だから増やしたのだろう。フランス人は食い物に金をかける。ペンキ屋と大統領が同席する可能性は大である。日本でもようやくそれに近い状態に近づきあるように思えるけれども、やっぱり基本的な値段が違いすぎて、果てしなく難しい。
一客十万円の席には着かないだろう。
フランス人は、一回の晩餐に、金をためて望むことをいとわない。価値観が日本人と違う。日本人は勤勉な民だから、一夜の快楽のために貯蓄はしないのではないか。

 日本料理の極みと比べると、フランス料理には、そう多くのレパートリーがあるわけではない。今でも、海にはあまり興味を示さない。”海の発見”は多分100年くらいなものだろう。印象派の画家達の描いている絵の中にも、ご婦人が海辺で海に背を向け読書している作品がある。
だから、いまだに蛸などは、南仏イタリアスペインの一部は食べても、決して都会の高級料理の材料とはならない。ましてや、鯨、老海鼠(ほや)など視界にも入らないだろう。
 向こうに行ったら向こうの食文化に従うが、やっぱり最高に洗練されているのは、器・箸など、陶磁器・塗り物 平面立体と変化に富む日本の料理だろう。これに箸の上げ下ろしにからんで作法が存在する。
フォークに、以下の作法があるか?
箸をフォークに置き換えてくれ。

まよい箸(どの料理から手をつけようかと迷い、料理の上であちこち動かすこと)
うつり箸(料理をいったん取りかけて、ほかのものに替えること)
ちぐり箸(汁物などのとき、椀の中をかきまぜて中身を探ること)
かき箸(茶碗や器のふちを直接口にあて、箸でかきこむこと)

よせ箸(箸で器を引き寄せること)
なみだ箸 箸先から汁をたらすこと。
こみ箸 料理を箸で口に押し込むこと。
ねぶり箸 箸をなめること。あるいは、ロ中深く入れること。
たたき箸 箸で器をたたくこと。
にぎり箸 2本の箸をそろえて掌で握りしめること。器を取るときなどにしがち。
箸の頭を親指で押さえると攻撃の意味になる。

ほじり箸 盛りつけを無視して、底のほうにある料理をほじくり出すこと。
すかし箸 骨つきの魚を食べるとき、中骨を通して下の身をつつくこと。

これだけある、どうだまいったか!









2002年11月03日(日) 紛(まが)い者まかり通る



 うららかな三連休、国旗は半旗を掲げている。
今日は憲法公布、そして明治節(明治天皇誕生日)である。戦後GHQ(連合国総司令部)によって、半ば強制的に文化の日に変えられた。これは日本悪、戦前は全て暗黒とする暗黒史観を植え付けるために行われた。
  
 今の時期、界隈は紅葉の季節にともなって、河原町並みの人出である。哲学の道界隈も多くの人々でにぎわっている。最近なぜか、フランス語圏の人が多い。フランス語を結構散歩途中に聞く。
ある昼下がり、舞妓が哲学の道を散歩している。よそから来た人が見ると、京都だなぁと、感じてしまうのではないか。
昨日も、岡崎の美術館近くで、舞妓が二人、人力車に乗って疎水縁を巡っていた。
この光景に異国から来た人達は、思わずカメラ・ビデオをまわすだろう。異国の人達は、これが真っ赤な偽物だとはよもや思うまい。
これはどこぞの企画会社が考え出した。旅行者の物好きに、安物の着物を着せ、鬘(かつら)をつけさせ、一回なんぼで、京都の観光地を歩かせるのである。
そうとは知らない観光客はカメラを向けビデオを撮る。ジーパン洋服でそだった者が、俄に着物を着たところで、その立ち居振る舞いまで真似できるわけではない。外股で、靴のように歩くから見られたものではない。雨が降った後の水たまりを歩くと、跳ねで着物の裾はべしゃべしゃだ、着物を着慣れているご婦人はそういう跳ねがほとんどつかないのを見たことがある。
ところが目出度いことに、写す側も、同じ穴の狢(むじな)であるから、そう言う事に頓着しない。
 いつも利用しているタクシーの運転手が嘆いていた。着物から何から芸妓は、こんな時間に散歩なぞしないし、あんな着方はしない。今の時間は厳しいお稽古ごとに奔走しているはずだと。
一番困るのは、乗せた外国人がそれを見て、日本を誤解することだと。
そうだろう、お笑いタレントが、よく外国の地で必要以上にはしゃいで、恥を売りに行っているのを見るが、京都では、内で外から来ている客に、恥を売っている。

見た外人客は、がに股で闊歩し、大声で喋り、西洋歩きで歩く、白塗りの、安モンの着物を着た、バナナのお姉さん方を、日本の文化だと見て帰り、自国で吹聴することだろう。グロである。
 自国の古来からの文化を、「和風が今流行」などと平気で言う、お前は何ものだ!根っ子を無くしてふらふらと彷徨い、髪染め(茶髪)に強力な発ガン性物質が含まれていると分かって今あわてふためいてももう遅い。
 黒い髪が洋服に似合わないと言われて従い、ロックに日本語は馴染まないといわれて、「カモンベイビー」と唄い、ついに着物も服も着こなせないまま、みんなしてどこへ行くのだ。
 かくて外は国家主権の、内は固有文化喪失で日本は滅びる。










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