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2002年10月30日(水) 夭逝(ようせい)



 「新しい歴史教科書をつくる会」の最初の四人のメンバーの一人、坂本多加雄さんが亡くなった。胃癌だそうで、山本夏彦翁と同じ病気であった。
 専門の明治前後の執筆はせず、戦後史・近世の部分を担当した。52歳だった。
靖国神社の代替施設の審議懇談会委員で、只一人、断固反対していた人でもあった。靖国神社のことは、ちゃんと日本の近現代史を学べば、その代替施設などというちんけなものは、他国の干渉の屈服以外の何ものでもないことはすぐ理解できる。
それをしてでも、中国朝鮮に気に入ってもらおうという、さもしい自虐史観を多くの日本人は無意識に持たされている。それを正論で堂々と主張していた。
ご苦労様でした。合掌。

  坂本多加雄 学習院大学教授(日本政治思想史)「市場・道徳・秩序」サントリー学芸賞、「象徴天皇制度と日本の来歴」読売論壇賞、









2002年10月27日(日) 合掌



 先ほど、山本夏彦先生が亡くなられたことを知った。お年もあって患われたとき、少し心配したが気丈な夏彦翁の事、大丈夫九十百まで生きると思っていた。事実その後、病気を笑わぬでも無しと笑い飛ばし、またコラムを書かれていた。それが突然の訃報である。大きな心の支柱が一本抜き取られたような感じがしている…。
先生、ありがとうございました。ご冥福を祈ります。









2002年10月26日(土) 宣戦布告



 昨夜、最終日という事もあって久しぶりに映画を見に行った。弥生座は「ムルデカ」以来である。
映画は、石侍露堂(せじ・ろどう)監督の 「宣戦布告」
これは現在の日本と北朝鮮の、限りなく現実に近い、シミレーション映画である。
 韓国映画の三十八度線国境の板門店を舞台にした、JSAというのがあったが、君らが勝手にもめて勝手に分断してしまったのだから、勝手に悩め!という気持ちで見ていたから、作品の出来はエンターテイメントとしてみたし、ハリウッド映画並に仕上がっていたとは思った、それだけであった。

 が、この「宣戦布告」は唐突に200X年、福井県敦賀半島に、国籍不明の潜水艦が座礁、特殊工作員11名が重火器を手に完全武装で上陸するところからはじまる。
半島の背景にはフジツボ型の原発が見える。
ここでもう全身が凍ってしまう。
一級の特殊部隊がもし、手薄なここを狙ったら、周囲何十キロもうどうしようもない。そういう暗示がとにかく最初の数分に描き出される。
  ストーリーは別に読んでもらうことにして、いままさに、ここにある危機として、今まで見た映画の中で最も切実で、日本の憲法の矛盾からくる、どうしようもないやるせなさが、現実のものとして突きつけられる、そう言う意味で、かってない映画だった。

 平和の中で最前線の経験無く、手伝いに出ていってもいつも兵站を担当し、アメリカその他の前線で戦闘する兵士達の、雲古掃除ばかりしている、現実の自衛隊、と映画の中の自衛隊が重なる。
情け無いくらいに、ばかばか倒される。内一人追いつめてみれば、女だったりする。元死刑囚で大韓航空爆破犯の金賢姫が、その著書の中で、男と一対一でやりあっても負けるとは思わなかったと書いていた事を思いだした。映画の中では豊かな胸が露出し女と分かるが、その後は、当然のように自害する。
途中から特殊部隊が出てきて善戦するも、最後に炭焼き小屋に残った二人ほどの兵士に、ばたばたと倒されていく。
 見かねて、戦闘ヘリ≪コブラ≫のバルカン砲とロケット弾を使おうとするが、それもいちいち首相の許可が入り、その度に作戦基地にいる、外務省か何かの使いが、見張っていて、いちいちチェックを入れるのだ。
これは現実の法制度の中でもこうなる。
ロケット砲が火を噴いたときにはかなりな人数がやられてしまっていた。

 シャトーマルゴーが好きで、いつでも側に置き飲んでいる、外務省の一馬鹿たれが、女スパイに翻弄され、国家機密書類を閨房での一時の後、見られて情報は北東共和国にながされ続ける。最後はそれを突き止め、逆に偽情報を流し、危機一髪で戦争回避となり映画は終わるのだが、北東共和国が、日本海に向け、軍艦を向かわせ始めると、一気に中国が動き始め、各アジア諸国が動き始め、台湾の周辺があわただしくなる。この辺はリアルで身体が震えた。
共和国が、核ミサイルスタンバイの状態になったとき、首相のいる閣議室の外務省の責任者は、「どうなっても俺はしらない」といって匙を投げる。
現実の外務省だと、本当に言いそうな台詞である。
 
 アメリカの機敏な行動、直ちにステルス戦闘機が、北に向かう、強硬姿勢を見せた途端、偽情報も効いたのか、共和国は突然踵を返して、Uターン、戦争は回避される。
 現実も、まさにこれ以外何の選択肢も無いだろう。「拉致家族にごちゃごちゃ言うようだったら、戦争するか」と言われれば、何の手立ても日本にはない。
先制攻撃は出来ないように、燃料タンクは小さく変えられていることは前に書いた。自前のパトリオット、迎撃ミサイル砲も、真上から落ちてくるテポドンには効果がない、相手と同等の核がない。これではアメリカに全面的に頼るしか道はない。
そうして、今現在も日本に普通に暮らしていて、いざとなったら北のために立ち上がる向こうの工作員が二万人はいると言われている。
その工作員達は、放送施設を押さえ、原発を押さえ、道路交通網・高圧電線などを一挙に押さえにかかる。そして、普段からの差が実践に出て、日本は滅びるかも知れない。その時私達はどうする…。
ぜひ、見て欲しい映画である。



石侍露堂(せじ・ろどう)1991年、初の日露合作映画『イコン伝説・追憶のエルミタージュ』の監督を務める。 1994年に活動の場をアメリカに移し、ジェイソン・コネリー、ジョゼフ・ファインズ、ミア・ソロヴィーノなどを用いた作品を監督する。1996年に監督した『The Successor』は、世界30カ国で配給された。 











2002年10月25日(金) 首を洗って待っていろ!



 去年の「新しい公民・歴史教科書」が採択されたのは本当に一部の養護学校だけであった。その生徒達は今回の拉致事件の知識は学校で教えてもらっていたことだろう。なぜかというと2001年6月発行の市販本の119頁にはコラムと言う形をとって、横田めぐみさんの顔写真入りで以下の文章が載せられているのだ。前にも書いたが教科書は八社あるが、内容はほぼ二種に別れる。扶桑社の「新しい歴史・公民教科書」とその他の七社。だから下記の内容は、扶桑社以外の教科書には載っていないし、載せない。「あるかないか分からない拉致事件を教科書に載せるなんておかしい」という意見がある。

 馬鹿言え。それだったら、国が関与していない事がはっきりしている慰安婦問題や、議論中の南京大虐殺がなぜ教科書に載っているのだ。
 この拉致事件はこの教科書に載せる何年も前に、警察が正式に拉致されたと認めている事件なのだ
扶桑社の教科書は全国的に見てその採用率は無きに等しいが、コラム形式で書かれている、「核兵器廃絶と言う理想を考える」や「近代以前の福祉活動に学ぶもの」「住民投票について考える」などは、実務的現実的な側面から書かれていて、子供達に考える頭を持たせるように書かれている、大人でも読むに耐える。
 読まずに批判を繰り返したり妨害した組織、「つくる会」のあるビルに放火テロをしたもの共は、この教科書内容に異を唱えたわけだから、北朝鮮問題に関しても、金正日に味方している連中と言うことが出来る。首を洗って待ってろ。
   

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北朝鮮による日本人拉致問題

 一九七〇年代から八〇年代にかけて、日本の海岸や都市、また海外の都市から日本人が忽然と姿を消す事件が多発した。
 例えば一九七七(昭和五二)年、当時新潟県の中学一年生であった横田めぐみさん(13歳)は、学校のクラブ活動の帰り、海岸近くを通りかかったのを最後に消息を絶った。警察は事故もしくは誘かい事件と見て捜査したが手がかりはなかった。
  ところがその後、韓国に政治亡命した北朝鮮の元工作員(スパイ)の口から、横田めぐみさんらしき少女が、北朝鮮の工作員によって拉致され、北朝鮮で生きているとの証言が得られたとの報道がなされた。海岸近くでめぐみさんらしき少女に、北朝鮮工作員が我が国への侵入を目撃されたのが拉致の理由だったと伝えられている。
 この証言をきっかけにして、日本の警察は過去の行方不明者の調査に努めた。現在の所、七件十名もの日本人が拉致されたことが、疑わしき事件と捕らえられている。(平成9年度「警察白書」)。しかし民間の調査によれば、それを数倍上回る、日本人が拉致されたと考えられている。

 これが事実だとすれば、わが国に対する明白な主権侵犯行為であるとともに、野蛮な人権じゅうりんでもある。民間では拉致されたと考えられる人達の肉親を中心に救出を求める声が高まっているが、日本政府も北朝鮮政府や国際赤十字に、拉致されたと考えられる人達の安否を尋ねると共に早期の返還を求めている。しかし、北朝鮮当局は拉致そのものを否定し続けているため解決のめどが立っていない。
             (新しい公民教科書・119pコラムより 扶桑社) 

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2002年10月23日(水) 北朝鮮覚え-本当のところ-



偉大なる指導者、金日成
 金日成は本名を「金聖柱(キム・ソンジュ)」という。
中国国籍の男である。ロシアが作った。金聖柱は終戦の2ヶ月後、突如「金日成」としてデビューした。 当時ロシアから凱旋帰国し、演説をするというので、聴衆は広場に待った。ところがやってきたのは30代と思われる男で、長老達は直ちに偽者と見抜いたが、そう言う人はやがて徐々に粛清されていく。少なくとも金日成と名乗る男は三・四人はいた。
 本物の伝説的抗日英雄「金日成」は1937年、36歳で死んでいる。
本物は咸鏡道出身だが、偽者は平安南道出身。年齢も全く違う。
白頭山を抗日の拠点にし、白馬で駆け抜けたりはこの本物の方の伝説で、正日の父、金日成ではない。

 息子金正日。

 金正日は1942年ハバロフスク近辺のビヤツク村で生まれ、ロシア名を「ユーラ」という。

「金正日同志は白頭山の子です、白頭山は金正日同志の故郷であり、
彼の胆力をうんだ揺籃です。金正日同志の思想や性格を見てもそうであり、
彼は不思議なほど白頭山に似ています。
白頭山の精気と気象が彼の心身に満ち溢れているのです。」

 優秀な宣伝部は、革命の聖地、白頭山で生まれたという「おとぎ話」を作った。ついでに金正日が生まれた家も造った。

 すべて創作、嘘。

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 北朝鮮は、身分制度が徹底していて、3代前にさかのぼってチェックされ階級が決められる(3階層51分類)。日本からの帰国者は、無条件で「敵対階層」行き。ご丁寧にも、「差別扱いするように」との御教示もある。

もし親が金日成親子や党に対して不満を言ったら、子供はそれを組織に報告し。そして親は処罰される。

 これがこわくて拉致者達は、はっきりものが言えない。日本人が、子に対するものとまた違った思いがあるのである。日本人は親と子の絆が、子と神さん仏さんより強い。所がキリスト教他一神教の宗教は、序列が神-子、神-親となる。北朝鮮もこの関係にあり、金親子-子、金親子-親 となる。完全な宗教なのである。だから懺悔や告白は、神の前に置いては、親も子も等しき存在となる、従って神に逆らえば、親であっても密告される。









2002年10月21日(月) ひでーよ!でん。



田 英夫(でん・ひでお)という)人がいる。
『特攻隊だった僕がいま若者に伝えたいこと』
と言う著書の紹介文に、「 学徒出陣、大勢の友人が人生を断つという苦悩を抱えながら戦場で死に向かった。その無念さを二度と若者に味あわせてはならない、二度と戦場に立たせ血を流すことを許してはならない!その危機が日増しに近づいているいま、おくればせながら「戦争の語り部」となり日本が「戦争をしない国」になった意味を若い世代に伝える」
とある。
 「二度と戦場に立たせ血を流すことを許してはならない」そうで、「戦争をしない国」に日本はいつなったのだろう。
 答は簡単で、戦後マッカーサーが、占領国憲法を作り、させない国に(報復を恐れて)仕立て上げただけの話である。二度と戦場に立たせないとはどういうことか? 戦争は病気のごとく現代世界に蔓延している。無くならない! その時は、自分達の家族ひいては国を守るために血を流すことは現代も行われている。
そういう現実は一切直視せずに、許してはならないという。この人が特攻隊の生き残りというのだからあきれる。
 普通なら「自分と同年齢の若者達が国のために戦って、死んでいった、どうか皆さん今日この国があるのは、そういう人達の犠牲の上になっているのであって、その事を無駄にしないよう…」くらい言ってくれ。

 この人は親北朝鮮・中国で、拉致など存在しないと言い張っていた人である。こんな事を言っている。

 「まず第一に重要なのは日本が過去に一九一〇年から終戦までの三十六年間、朝鮮半島を植民地支配し、創氏改名など皇民化教育の名のもとに朝鮮民族に多大な迷惑をかけ民族の歴史を汚したことへの謝罪と反省を明らかにすることである」

 朝鮮併合には順序が存在する。簡単にはしょって、おきまりの朝鮮植民地支配などというな。
まず、1905年(明治38 年)7月の桂=タフト協定、8月の日英同盟改定でそれぞれ米国、英国は日本の韓国保護国化を承認、9月のポーツマス条約で韓国に対する日本の 指導・監督権をロシアに認めさせ、同年11月、第2次日韓協約(日韓保護条約)を結んで翌年2月には伊藤博文を統監とする韓国統監府がソウルに設置、1910年に韓国を併合となるのだ。
「創氏改名など皇民化教育」とあるが、創氏改名はどちらの名を名乗ってもよかった。当時の兵隊に朴さんや金さんもいた、強制されてはいない。逆に朝鮮人はすすんで自分からなりたがった。
とにかく良くも悪しくも日本人になったのだ。元朝鮮人だけではなく、日本人も同じように教育は行われた。

また
 「この日本の過去の誤りの中でも忘れてならないのは、日本による朝鮮の人々の強制連行という暴挙である。…(略)
 昭和十七年の内閣決定で、約六十万人ともいわれる大勢の朝鮮人が日本に強制連行され、炭鉱などで強制労働を強いられ大量の死者を出した。
終戦の直前に地下の大本営を造ろうとした長野県松代の地下壕の掘削工事にも数千人の朝鮮人が動員され多くの死者を出した。
この事実は韓国の高校の歴史教科書には記されているが、日本の歴史教科書にはその記載は無い」

 こういう風に書かれると、何にも知らない人は非道い事すると思うだろうが、よく考えてくれ、昭和十七年朝鮮は日本であった。同じ日本でなんで強制連行を必要とするのか?同じように日本人も炭坑で働いた。
 最後に韓国の教科書は信じるが、日本の教科書には記されてない、すなわち隠しているというニュアンスで書かれている。ご存じのように日本の教科書は8種類ある。近現代史は、ほとんどが日本の事を悪く書いてある。自虐史観と言われる所以である。
その中には良心的な教科書もある。だが、この人の言う韓国の教科書は、北朝鮮・中国と同じ 国定の教科書一種だけである。普通なら、多面的に書かれているものを読み見て判断することの方が、より真実に近づけると考えないか?
どうやらそこに思いが、この人は至らないようなのだ。

 今回の拉致事件も、「向こうに親しい人達がいて、頭から否定していたのでそんなことはありえないと思っていた」とおっしゃる。馬鹿である。騙されたとは考えないお人好しなのだ。
 蒋介石婦人、宋美麗(そうびれい)はアメリカに亡命後、各地を回って日本の悪口あること無いこと言って回った。今もアメリカの各大学に中国共産党政府と結びつき、日本の戦時の悪口(情け無いくらいの作り話)を講演し発表して回っている学生がいる。
(当の中国共産党の元祖?毛沢東は当時、よくぞ蒋介石を台湾に追っ払ってくれたと日本軍に感謝しているのだ。)
 ほとんどが自国の正当化のための、宣伝工作のための言動である。
(戦後これにだまされたのが、朝日新聞の本多勝一記者などをはじめとした進歩的知識人達である。
彼等に共通するのは、日本が悪く言われると、頭から信じてしまうお人好しなのだ)

 この度の拉致事件のことも、拉致者は別に置いておいて、とにかく国交正常化せよという立場なのだ。やくざ国家と正常化して何がしたい。
 
 最後にこの人、今年の文化勲章をもらうらしい(訂正:すでに01年にもらっていたようだ)。
 よくもらえるなぁ。


     田 英夫
        1923(大正12年)生まれ。
        東京大学経済学部卒 共同通信社記者を
        経て立候補、トップ当選で社会党、以後社民党
        外交・防衛部長を勤め2001年引退

 









2002年10月15日(火) 17805



 インドネシアのバリで大きなテロと見られる爆破事件が起こった。
インドネシアの独立記念碑には、17805という数字が刻み込まれている。
これは日本の暦である。皇紀2605年8月17日という意味で西暦では書かれていない。なぜか?
 何百年にも渡ってオランダの植民地支配の結果、絶対に有色人種は白人に勝てないと思いこんでいた。その時に、同じ色した日本軍がやってきて、たった8日ほどでオランダを追い出し、さらに負け戦となった大東亜戦争の少なくない日本兵士達が帰還せず、現地に残り、インドネシア独立のために共に戦った。だから、独立記念碑に敬意を表し、西暦では無しに、日本暦すなわち皇紀表記としたのだ。

 当時の捕虜オランダ人は今も怒っている。自分たちオランダ人が350年間にわたって享受してきた“優雅”な植民地支配を、突然“醜い劣等人種”によって打ち砕かれたことへの屈辱感からだ。
この“白人の楽園”喪失の怨みからくる彼らの歪んだ心理を「蘭領東インド抑留所シンドロームという。

 そこでバリへ遊びに行くなーんにも知らない人々。せめてその国と日本のかかわりなどを勉強して行ってくれ。上に書いたような事を基礎知識として行くと、オーストラリア他から遊びに来ているノーテンキ達とはひと味違う国から来たのだという自負が生まれるだろう。
 テレビのインタビューでも何にも応えられない。問題意識や、国家意識が希薄である。自分の身の丈の範囲でいいから、その国の成り立ちくらい知ってくれ。
 かって、日本は、白人の楽園を取り戻すために共に戦った。そうして事はなった。が、白人達は楽園だったことをまだ覚えていて、半世紀が過ぎようとした近年、また白人の楽園(文化的側面で)に、意識的か無意識的か、しようとしているように見える。だからテロはそこを狙ったのだろう。
 こういう時に、毅然たる態度で、意識の表明を出来る手立ては、やっぱり、歴史を知ることなのだ。

 1995年、インドネシアのマスコミは、オランダ女王を迎えるにあたって、次のような意見を載せた。

「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」

 こういう国に私達は遊びに行っているということを覚えて置いてもいいだろう。










2002年10月14日(月) 訂正



下の「阿波藩にいたペテン師」を読み返していてまた、間違いをしていることに気がつきました。文中「貝原益軒なども、その名とは裏腹に空虚な存在である」はまちがいです。ごめんなさい。
正しくは貝原益軒ではなく、安藤昌益が正しい。名前の思い違いは前にも書いた通りですが、この場合、共通項は「益」しかない。我ながら頭の構造を疑う。貝原益軒先生は「養生訓」や「大和本草」を著して、多くの人々に読まれました、貝原先生まちがってごめんなさい。

 一方安藤昌益はカナダ人、E・Hノーマンという共産主義者がその考え方を持ち上げ、その著書に書いた。それで日本の左翼の方々の間で英雄になった。
 「万人が耕す世」というのが安藤の言い分で、農本主義(農業をもって立国の基本とし、社会組織の基礎とすると言う考え)の極端なもので、ちょっと考えれば、みんな百姓だったら、誰が、着物や、家を建てるのか分かりそうなものなのに、それを無視して、日教組などの人達が教科書に載せた。
という事があって、そう言う事で、ついでに書いたつもりがまーた!名前を思い違いしてしまい、書いてしまった、訂正しておきます。


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 今日は体育の日。祝日に掲げる我が家の玄関の国旗は、北朝鮮問題が解決するまで、当分の間、半旗を掲げることにした。









2002年10月13日(日) 阿波藩にいたペテン師



 展覧会を終えて、来ていただいた方々に記帳してもらった芳名録をぱらぱらと見ていて、ふと蜂須賀という苗字が目にとまった。蜂須賀といえば阿波徳島の殿様である。展覧会を見に来られた方がその子孫であるかどうかはわからない。その名前の連想から、しばらく忘れていた人物の名前を思いだした。ほとんどの中学歴史教科書にも名が出ている。

 残念ながら今年初めて愛媛の公立中学に採用された新しい歴史教科書をつくる会の、扶桑社の教科書にも載っている。

佐藤信淵(さとう・のぶひろ1769−1850・明和6年−嘉永3年 )という人物がいた。

 出羽国雄勝郡馬音内に生まれ、家は代々鉱山農業の学問を研究。一六歳のとき父に死別して江戸に出、蘭学、儒学、天文地理暦算測量を学ぶ。諸方を遍歴して見聞を広め、諸藩に出入りして説を講じる。上総大豆谷に閑居して著述をしていたが、再び江戸に出て幕府の神道方吉川源十郎に入門し、さらに平田篤胤に就いて学ぶ。国学の古道説に西洋天文学を交えた宇宙論を哲学的基礎として、農政経済論を説き、空想的な社会改革論を展開した。
                  『日本政治思想史講義録』

 その佐藤信淵、十三歳で蝦夷地探検!?、十八歳で津山藩に招かれ財政改革!!を成功させ、後に阿波藩蜂須賀家に赴き、徳島滞在の一年とちょっ との間に、火術(砲術)を研究し、数十の大砲を作り、自走火船(エンジン付きの船)を発明し、異様船(一種の潜水艦)も 発明したという。その他実行不可能、夢物語が履歴に五万と書かれているのだ。
 さらに、「三銃用法論(さんじゅうようほうろん)」や「西洋列国史略」を著述し、当時阿波藩の家老、集堂氏に請われて 淡路の産業視察までしたのだという。
まるで日本のレオナルド・ダヴィンチだ。だが、ダヴィンチと佐藤信淵とは、天才と詐欺師ほどの違いがあった。ダヴィンチは総じて天才と言われているが、中途半端にやり残した仕事も多い。が、紛れもなく実績が後世に伝えられ残されている。
 ところが佐藤信淵は、その全てがペテンで、大嘘であった。本人は、先祖の学問の集大成をし、著したとしているが、すべて自作自演であった。
 
 この人物を、進歩的文化人の羽仁五郎が「佐藤信淵に関する基礎的研究」で、かつぎあげて、これがきっかけで ペテン師が大思想家になってしまったのだ。
とにかく自称天才といってはばからない のに、当時の蜂須賀家の公文書など、あらゆる記録にこの人 物が載っていない事を証明したのが、「森銑三(せんぞう)」 だった。

ここまで明確に分かっているにも関わらず、教科書に載ってしまうのである。貝原益軒(は、まちがい。安藤昌益に訂正10/14)なども、その名とは裏腹に空虚な存在である。

  羽仁五郎 明治34年生まれ 東大法学部中退
  日本におけるマルクス主義歴史学の確立(講座派)
  近代革命における百姓一揆、農民戦争、農奴解放の意義の発見(人民史観)昭和58年没

  森銑三  明治28年生れ。
大正15年、文部省圖書館講習所卒業。
東京大學史料編纂所、尾張徳川家蓬左文庫、反町弘文莊に勤務。昭和60年沒。



参考文献:「こんな「歴史」に誰がした」谷沢永一・渡部昇一
      森銑三著作集









2002年10月10日(木) 個展終了



 徳島そごうでの個展は無事終了した。今回の個展は出身地の事もあり、友人達の暖かい心遣いが嬉しかった。皆それぞれに地場で着実に、俗に言う出世していた。会場にでんと贈ってくれた特大の花束、これなくしては、今回の会場入り口の華やぎはありえなかった。また、高校時代の有志が催してくれた宴は、数十年を経てもなを、昨日別れたばかりのような感覚で、とても近しく、嬉しいものであった。人のためにこれほどのことが出来る友人達というのは、何ものにも代え難い有り難い存在である。

 後で知ったが、目が飛び出るような高価な花、それもあちこちかけまわって、個性のあるものを探してくれ、贈ってくれた友人達とその家族。超有名人でも何でもない一絵描きにこれ以上の事があろうか。

 論語に、益者三友(えきしゃさんゆう)というのがある。意味は、人には交際して益になる三種類の友人があり、それは、正直な友、誠実な友、見聞の広い友の三種だという、また逆に、損者三友(そんしゃさんゆう)というのもあり、
交際すると損になる三種類の友人を言い、不正直な友、不誠実な友、口先だけうまい友の三種を言う。

いずれにしても、今回の展覧会に尽力してくれた友達には、益者三友でなければいけないと心から思った。

  皆さんありがとう。

個展会場がどんなだったか、見たい方は以下、初日朝だったので、花などの置き方にまだ不具合があり、完全ではありませんが、ご勘弁。

  会場風景










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