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2002年06月28日(金) 山野草



 喧(かまびす)しきサッカーも、電源を切り、新聞を読まなければ存在しない。一人静かな梅雨の午後である。制作の合間、雨に濡れた庭のテーブルに置かれてある、単植(たんしょく)鉢植えの山野草に目をやると、いつの間にか三時草(爆蘭)が花をつけている。小さな紫色の花弁でつつましい。
西洋人の好む、派手でけばけばしく大層な、ガーデニングとやらとは世界が違う。午後三時過ぎにひっそりとその花弁を開く。別名三時の貴公子とも言うらしい。
 写真にすると小さすぎ、かといってズームで撮ってみても野暮になる。

やはり目に置け山野草

外に今咲きかけているのは、うつぼ草、花茄子、不如帰(ほととぎす)草。
どれも、日本の山野草である。目立たないけれども、一草一花凜とした控え
めな存在感がある。雨に濡れるとその緑は冴えかえる。

 6月は、あじさい(別名:手毬花)、を手始めに、甘茶、鹿子百合、姫百合、笹百合、、矢車草、野あざみ、露草、螢袋、山法師、白雲木、白山木(はくさんぼく)、しま芦、熊谷草、岡虎尾(おかとらのお)、月見草、敦盛草、宵待草、下野(しもつけ)、金糸梅、破れ傘、風露草、未央柳(びようやなぎ)、くちなし、黒花蝋梅(くろばなろうばい)、石榴(ざくろ)、花菖蒲、浜梨、半夏生、等々が順番交互重複して咲く。

 * 山野草
日本に自生する草や草花、小灌木などを、それぞれ単独であるいは複数を意匠を凝らした鉢へと寄せ植えして、しかも何年もそのまま栽培を続けて、美しさだけではなく渋さ、時代感をも表現しようという、植物への思い入れの強い日本伝統の植物栽培法。









2002年06月22日(土) 純日本製OSを使う。



下のように、日本製のBtronOS(超漢字4)で、書けてしまう。各国語のどれかに切り替えながら書いていく。各国の言葉は勿論、点字もエスペラント、字に関するあらゆる表記が出来る。
ただ残念なことに、普通のブラウザ(ネットスケープやエクスプローラー、i-cab他)には表示能力がない。だからこれは映像)。そこにあるものをちょちょっと利用して済ますよりも、せっかく日本の足下にこんないいOSがあるのだから、もっと使ってみたらどうだろうか?


他に、点字、変体仮名、梵字、字喃(チュノム。ベトナム発祥漢字)、六十四卦(易の世界で用いられる文字)、源氏香(香道の世界の独特な文字)甲骨文字、中国伝統漢字などが標準装備されている。
世界中の人が一つのコンピュータを共有出来る、こんな素晴らしいOS他に無いゾ。

 なんでも、そこにある一見便利そうでハイカラなものに目がいってしまうのは仕方がない。だが、少し前のプラザ合意(プラザ合意とは、1985年9月にニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5カ国蔵相中央銀行総裁会議)における「ドル高是正のための協調介入」に関する合意のことを言う。後、円相場は「1ドル=260円台」から「1ドル=120円台」に急騰した。
 
要するに、当時の「円安ドル高」を「円高ドル安」に誘導しようというのがプラザ合意。プラザ合意によって、ドルの切り下げによりアメリカは、自国の借金の負担を軽減することに成功し、日本は大幅な円高を選択し、製造業における競争力を放棄することをみずから選択した)にまんまとやられてしまった日本経済と同じようにならないためにも、日本製の優れたOSをもっと使いたいものだ。特に、中高年の人達は使いやすいだろう。

 マレーシアのマハティール首相は、73年に訪れた日本で、「街にあふれる高品質の製品も、秒単位の正確さの新幹線も、質の高い教育がもたらしたものである。」と悟り、1981年、首相に就任すると、「ルック・イースト」政策を打ち出した。 私達の足下に素晴らしいものがあるのだ。近すぎて気づかないだけなのだ。


You must go into the country to hear what news at Kyoto
      (京都のニュースを聞きに田舎へ行く)













2002年06月18日(火) 今日の敵、トルコを知る



 トルコは日本とよく似た習慣がある。家庭では大和座りと同じ、正座をする。靴を脱いで部屋に上がる。床に座り、ちゃぶ台で食事する。亭主関白である(日本はほとんど亡びたが)。トイレはその言う和式(フランスではトルコ式という)と同じ。

 江戸末期頃、世界では、欧米諸国以外で、まだ憲法政治を実現した民族はなかった。1870年代後半にトルコが立憲政治を始めたが、わずか一年足らずで憲法停止・議会解散に追い込まれた。キリスト教白人国家以外では立憲政治は不可能というのが世界常識だった。その常識を破って成功したのが日本の明治維新であった。
 オスマン・トルコ帝国は明治23年同じような立場にあったこともあり、エルトゥールル号を仕たてて、総勢約700名を使節団として日本に派遣した。目的も達成し帰国となったが、台風の季節と重なり、船が巻き込まれ大惨事となる。日本は官民挙げて救護、捜索、船の引き上げなど献身的に行い、義捐金の募集も広く行われ、遭難地近く、和歌山県大島の樫野崎に慰霊碑も建てられ、生き残った人々は軍艦「金剛」「比叡」により丁寧に送還された。だから、イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた追悼歌の楽譜などが展示されている。

 現代のトルコは、国歌が町中で演奏されると、例え信号の途中であろうと、車はそのまま止まり敬意を表する。同国内で日の丸を巡って賛成反対などどもめている国とは対照的である。
外国はどこに行きたいかと聞かれると、トルコ人は半数以上が日本と答える国柄である。親日の国でもある。東郷平八郎に敬意を表して、通りにその名前をつけている。肝心の日本の教科書には数行しか出てこないが(扶桑社の教科書は除く)。
敵を知り、頭に入れて観戦するのもまた楽しからずや。









2002年06月15日(土) チュニジアにあった別の国



 サッカーのチュニジア・日本戦を見ていて、思った。

かって.カルタゴ(814B.C.〜)という歴史に名を残すほどの国があった。

場所は今のチュニジアの首都、チュニスの北東にあった。
今のチュニジアとは直接関係はない。カルタゴはローマ帝国に完全に滅ぼされたからだ。
フェニキア(「フェニキア」とは、元来は暗赤色あるいは紫がかった褐色を意味する語であるギリシャ語の「phoenix」に由来)の民は滅ぼされてしまった。
カルタゴは、栄耀栄華を極め、武勇(傭兵制を創設)に優れ、海洋通商国家として栄え、文化爛熟、今でも、円形の伝説的な港、商港と軍港の跡は遺跡で残っている。
 シチリアをめぐって、ローマとカルタゴは戦争を始める(ハンニバル率いる第二次ポエニ戦争)、そうして大敗する。そこからが問題なのだ。

 その時、ローマ帝国がカルタゴに突きつけた、降伏文章は次の七項目から成っている。

一、完全武装解除=商船を除いて全船隊をローマに引き渡す。

二、本国以外の全ての領土を放棄する。

三、カルタゴの安全はローマが保障する。

四、但しカルタゴに駐留するローマ軍の給与・食料等の費用はカルタゴが支出する。

五、脱走兵・捕虜等をローマに引き渡す。

六、賠償金、一万タレントをローマに支弁すること。

七、14歳以上の男子百人を人貫としてローマに送ること。

  以上、カルタゴを日本に、ローマをアメリカに置き換えてみよ。

 これは、敗戦国日本がアメリカに突きつけられた、降伏条件(日米安保を含む)と全くよく似ている。六番目、日本の場合賠償金は、当時の金で七十五億円、七番目は「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(戦争の罪悪感を日本人の心に植え付けるための情報宣伝計画)」を徹底するため、二年半にわたって極東軍事裁判を開廷し、そして日本の指導者二十五人を断罪(うち七名を処刑)して、さらに戦争協力者と称して実に二十一万人を公職から追放した、事に置き変えるといい。

 で、後、カルタゴはローマ帝国に完全依存、かって英雄ハンニバルを生んだカルタゴ民族は、もともと聡明で勤勉な民族で武勇にもすぐれていたが、しかし、軍備と交戦権を失った彼らは、もっぱら貿易と金儲けに走った。当時カルタゴは、地中海のみならず、アフリカの海岸まで手を延ばし、世界最大の貿易国にまで成長した。文化面では、食道楽のようなものが流行り、観劇・ファッションなども、巷あふれた。

 そうして、いつのに間にか独立国家としての気概も、自尊自立の民族精神も失い、金儲けにうつつを抜かし、金で済むならそれで済ましてしまおうという風潮を生みだす。祖国防衛の意志さえ失ってしまった。経済繁栄に酔い痴れて、驕慢になったカルタゴに対して、ローマは三たび戦争を仕掛けた。

シーレーンをおさえ、港湾を封鎖した(第三次ポェニ戦争(前一四八:一四六))。この戦争によってカルタゴは職滅(せんめつ)させられる。カルタゴ民族はこの地上から消滅して、再び蘇生することはなかった。永久に滅んでしまった。そうして、そのあと、今のチュニジア国が建国される。つながりはなにもない。

 いまの日本の風潮が、あまりにも二千年前のカルタゴの姿に似ていると思わないか? 


参考文献:田中正明「歴史思想講座第一集」
   :森本哲郎 『ある通商国家の滅亡』 PHP研究所

   









2002年06月10日(月) 礼儀



 いつも病院の帰りは、丸太町通りから梶井基次郎(作家。明治34年〜昭和7年31歳没)が歩いた散歩道を歩いて、寺町を下がっていくことにしている。寺町丸太町から二条通の交差する所までの町並みが好きで、良く歩く。梶井基次郎が書いた「檸檬」を売っている果物屋は現在の寺町二条の角にあるそれとは違う店だが、それはともかく、角には、ブラスリー・ブションがあって、それが目当てで散歩道にしている。梶井の足跡を辿る文学散歩とはほど遠い。

 病院に行くと、院内感染が怖い。常々セルフデイフェンス(自己防衛)座右の銘としているので、これはもう自分でちゃんとしなければいけない。どうするか。そうだ、身体をアルコール消毒すればいいという事で、医者に行った後は、必ず飲む!(なんかちょっと違うような気がするが…)

 その日も、軒を連ねて並ぶ和紙屋・古書店・茶舗などを見ながら歩道を歩いていた。ちょっと先の歩道の真ん中で中学生くらいの女の子達が、自転車を支えたまま、もぞもぞして、立ち往生している。近くまで行って事情がわかった。一人の女の子のふわっとした丈の長いスカートが後車輪に巻き込まれていた。見ていると、いたずらに引っ張ってますます食い込んでいく。見かねて、ちょっと見せて見ろといって、ハンドルをもう一人の女の子に支えさせ、そうしておいて、後輪を持ち上げ、逆方向に車輪をまわしたら、存外簡単にスカートの端ははずれた。

よかったねと二人の顔を見た。もう、頭の事はいわない。例の色である。それはいい。しばらく目を見たが何もない。問題が解決してしまえば、こちらも用はない。それじゃねとその場を去って、また、二条通りに向かって歩き出した。
 やがて、先ほどの二人が自転車で後方から追い越して行った。 
その際も、何もなかった。何がなかったかというと、人にしてもらった親切に対して、当然自然に出てくる感謝の言葉「有り難う」がなかった。まったく全然、おくびにもにも出さなかった、二人とも。自転車で後ろから追い越すときも何もなかったように走り去った…。

 前にも書いたように思うけれど、最近一部思想的に偏った教師達が、給食の際の「いただきます!」や、人へ挨拶をしろと教える事が強制にあたるという、とんでもない解釈で、子供達にそう言うことを教えていないと言う。先の子供達はあわれな犠牲者だろうか?どうするのだろうか?社会に出て。教えている教師は、目上の先輩教師や教頭校長に挨拶しないのだろうか?

 学校で教える前に、親はどうしているのだろうか? 何でもそうだが、「礼に始まり、礼に終わる」のである。なんで?という疑問に答える必要はない。昔から決まっていることだからである。

「学級崩壊」とか「学力低下」とか言われているが、勉強できなくても、少々やんちゃでも、最低の礼儀は昔の子供達はもっていた。はにかみながらも挨拶はした。極道の世界でもそんなことは常識である。

 戦前の日本には、古今東西の偉人の伝記などを教えた「修身」という教科があった。敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって禁止され、昭和三十三年、「道徳」が設けられた。 が、日教組(日本教職員組合)などの反対(上に書いたような理由も含め)で、形骸化した。

 子を持つ親は子供達のために「嵐の中の灯台」(小柳陽太郎・石井公一郎 監修 明成社)を読んで聞かせてやってくれ。









2002年06月06日(木) 幻の逆転ゴール



 昨夜、日本ベルギー戦の最中、いつものブラッスリー、ブションで立ち飲みしていた。いつもなら、この時間、不況にもかかわらず、ここは盛況なのだ。しかし、一組のカップルと、いつも来ている常連の客一人以外はだれも来ない。がらがらなのだ。サッカーは好きだが、自分の時間を潰してまでテレビにかじりつくほどではない。カウンターに肩肘ついたままぼんやりしている方をとる。心なしか、二条通りの車も少ない気がした。
音楽もなく、戸も開け放しのこのブラッスリーは、走り去る車の音、話しながら、通り過ぎる人達の気配が伝わってくる。内と外の境界が無く、つながっている。だから何時間いても疲れない。

 家に帰ってから、サッカーは引き分けだったと聞いた。最後逆転の幻のゴールはファールだったためだという。最後のゴールの事をいろいろ聞いている内に、これは「金髪」のせいだと思った。
どうしてかというと、いろいろな情報をあわせてみると、それまでとっていなかったファールを時間寸前にとったという。サッカーの審判で有名な日本人審判員の一人が、「審判員もミスをする」「もし、当地で審判していて、迷ったなら、とっさに審判員はそこのチームの肩をもつ判断をする」ということを言っていた。

 ファールを最後の三点目ゴールの直前に出したコスタリカの審判員は、どうも、瞬間的に日本人側とベルギー側がどっちか迷ったらしい。わかりやすく言うと、本人はベルギー側がファールしたと思ったふしがあるというのだ。
ここからは、勝手な推理。そうだろう。一瞬の判断をしなければならないときに、例えば、選手が後ろ向きだった場合、無意識で髪の毛が目に映らないか?最後の幻のゴールをいれた選手をはじめ、殆ど全員に黒髪がいない。これでは、審判、とっさに迷った時には開催国の肩を持とうにも、瞬時のことで判断出来なかったのかもしれない…。
 少し遅れて始まった韓国の試合は、一人目立った茶髪がいた他は、普通の黒髪だったのはやっぱりナショナリズムの世界一強い国韓国だなぁと感心した。おまけに、その茶髪は日本で活躍している選手らしい(未確認)。阪神戦同様、あんまり客がうるさいので、途中でみるのやめてしまった。

 ま、どちらにしても、世にサッカーに興味があまり無い人も一杯いるのだ。全国民が同じように関心があるかのごとくに、新聞の一面トップに出すのは優勝したときだけにしてくれ。そのために、各社スポーツ新聞、もしくはスポーツ欄があるんだから。









2002年06月04日(火) ほたる狩り(歴史的かなつかひにて)



   行く螢雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁に告げこせ  在原業平
                        
   草の葉を落つるより飛ぶ螢かな  松尾芭蕉
            
   川ばかり闇は流れて螢かな  加賀千代女
          
 家の裏、哲學の道疏水沿ひには今、螢が出てゐる。防犯のための街路燈と、民家の異常に明るい門燈のおかげで、螢も影がうすい。數も十數匹ゐるかゐないか。流れの上に枝を伸ばしてゐる木の暗い場所に集まつてゐる。見物が、「わーきれい!」と聲をあげるも、街路燈や門燈の光を受けながら見る螢は、晝日中や螢光燈の下で見る、舞子と同じで興ざめである。
舞子の白塗りは、夜のろふそく明かりの反射で、はじめて肌色に見える。あんなもの日中みたくない。
 それと、螢を見てゐる人逹のポケット、バックから攜帶電話の電子音樂がなる。遠慮なく出ては大きな聲で喋る。都會の生活をそのまま引きずつて螢狩りにくる。とにかく、喋らないと我慢できないらしい。
 
 小さかつた頃、ほたるが出ると、中庭で大きな盥(たらひ)に手押しポンプで水を入れ、お湯を割り入れ、行水をして、首囘り、からだを天花粉で眞つ白にした後、浴衣に着替へ、うちはと蟲かごを持つて、近くの河原に家族と螢狩りにいつた。螢はそこかしこに亂舞してゐた。その頃は田舎のこともあつて、街路燈なぞ無く、懷中電燈をさげて出かけた。螢は簡單にうちはでたたき落とせた。それを、近くの竹藪でむしつてきた笹を入れた蟲かごに入れる。さうしてひとしきり遊んだ。星空のやうに螢はゐた。
 家に歸ると、蟲かごに霧吹きし、井戸に冷やしてあつた西瓜を切つてもらつて食べた。その頃、テレビなんて普通の家には無かつたから、その後はすぐ寢る準備、蚊帳(かや)を部屋に釣つて布團を敷く。さうしておいて電氣を消し、この蚊帳の中で、螢を放す。螢が飛び交ふ中で眠つた。
 
 偶然、南佛で、借りてゐたジット(貸し別莊)に深夜、螢が一匹飛び込んできたことがあつた。捕まへてみると、日本の螢の螢光部は大きな一つの固まりだけど、フランスのそれは、直徑二ミリ位の發光部が腹に2つ竝んで分かれてつゐてゐることを初めて知つた。

          水鏡映えし螢や着信音  淡譚齋

             ****

 これを書いた後、行水・すいかと、ほたるはをかしいのではないか、記憶違ひではないかと思ひ、調べてみたら、螢は7月下旬でも出ると云ふことで、記憶まちがひではなかつた。何せ4.5歳の頃のことです。









2002年06月01日(土) あははは…!



面白い。力作 座布団5枚!!
A新聞の戦後から今日までの矛盾に満ちた報道を音楽とアニメーションで風刺


http://www1.raidway.ne.jp/~huguruma/dschinghis_khan.swf












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