2002年02月28日(木) |
疲れがたまる今日この頃 |
数日続いた頭痛から解放されたものの、なんだかだるだる〜という感じで、確定申告が終わりませぬ。こんなもの、ぱっぱとやっちゃえばすぐなのになあ。木の芽時のせいか、なんとはなしに気が落ち込むし。
気分転換にでたお散歩の途中で、コンビニ予約していたゲームの「ゼノサーガ」をひきとり、ゲームやさんで、サントラ(マキシ)CDを購入。CDはきいてますが、ゲームはいつするのやら、想像もつかない。寿命があるうちに、プレステ2の蓋を開ける日が来るのでしょうか? しかし、主題歌が、本当にいいなあ。ゲームやさんの店頭のデモで使われている、あの曲ですよ、あの曲。耳に残るの。泣けてくるの。
お仕事の予定は、空から降るようにありがたく続いていますが、ちょっと予定がありすぎるので、昨夕きた話は、断ってしまいました。 ごめんなさい、Tさん。埋め合わせは今度何かの形で…。
これ以上、仕事いれると、ほんと死にそうなんだもの。 昔から、「理想の死に方」って考えていて、「執筆中に机に伏せて死ぬ」っていうのがあったんだけど(キーボードじゃなく、机、というところが年期が入っている妄想)、とりあえず、まだもう少しだけは生きていたいもんなあ…。
さてさて今夜も確定申告しなきゃ。 如月さんからお紅茶おくっていただいたから、ありがたくいただきながら♪ ありがと、如月さん。
#どーでもいいけど、とみーふぇぶらりー6って、まじで外国の女の子(あるいは帰国子女)だと、つい最近まで信じてました。弟夫婦に教えられて、びっくりしちゃったよ。ううう。だってだって、外国語で歌ってると思ってたんだもん! あの歌、日本語に聞こえますか? みなさん。何歌ってるんですか? あのお嬢さんは。
あーそれと、globeのこのごろ良くあちこちで鳴ってる曲って、シングルCDになってないんでしょうか? と、ここで書いておくと、たまに知っている人が教えてくれるので(笑)、瓶に入れた手紙のように、質問を流しておきます。
数日前にここで書いた、高校時代に作った短歌、「添削してほしい!」と書いていたら、作家にして科学者でカシオペアユーザー仲間の夏緑嬢が、手を入れてくれました!
さて、元の歌は…
「雪の下の 根ばかり残る雑草の 我が心かと 思ひぬるかな」
でしたね? これが、夏さんの添削の手が入ると…
「雪の下の 根ばかり残る雑草の 思ひにたりし 我の心に」
かっこいい〜! だささが消えて、優美になって、居住まいが正された感じですよね。
これが、この歌の完成形ということで、私は納得しました。 ありがとう、夏さん。 これで私も、安心して成仏…違うって(^^;)
#いやでも、なんかなかったっけ? 歌が完成しなくて、化けてでる幽霊の話。 道を通る人に、添削をたのむ話って。
村山は、三日連続の頭痛で、ちょいと死んでます。 やれやれ…。 朝起きられないものだから、一日の半分しか活動できないよう(涙)。
でも、そんな体力的には絶不調のなか、お仕事の予定だけは、次々とやってくる。ありがたやありがたや〜。 でもさ、正直、そろそろ分裂して二人に増えるとか、そういうことをしないとお仕事がこなせないような気がしてきたですよ〜。 うーむ。今からクローンchaykaを作っても、育つまで三十うん年かかって〜おまけにあれは双子みたいなものだから、そいつも同じ能力があるとは限らないわけで〜ああ、やっぱり、私が一気に二人に増えるのは無理ね(涙)。 私の代わりは、私しかできないのであった。がんばろ。
確定申告の書類を、今頃やっと作ってます。やれやれ。 去年は本当に、ドラマチックに忙しい年だったので、ろくに帳簿付けをしていなくて、それがここへきて、たたってます。
で、どこかにしまいこんでいたレシートが、どうしても三ヶ月分見つからなくて、あちこちひっくり返していたら、一枚の古いはがきがでてきました。 古い…といっても、2000年に来たものなのですが。
去年の夏、なくなった画家の、橋本淳子先生からのものでした。 私が当時の新刊を送ったときの、お礼状でした。
橋本先生は、私が毎日の童話新人賞を受賞して、その作品がこどもしんぶんに連載されたとき、挿絵を書いて下さった方でした。 子どもの落書きのようなダイナミックで、天真爛漫な絵を描く方で、色遣いがとても美しくて、とくに黄色の使い方は、まるで紙が輝くように見えたものでした。 その作品、「ちいさいえりちゃん」は、本になるとき、他の画家さんの絵で、出版されたのですが、私は橋本先生の書いてくださった、頭に大きなおリボンを付けたえりちゃんが、ずっと忘れられなかったのです。 その後、私は、幼年童話はほとんど書かなかったこともあって、橋本先生といっしょにお仕事をする機会はそれっきりめぐってきませんでした。 でも、橋本先生とは、ずうっと、新刊をさしあげたり、年賀状のやりとりをしたりと、おつきあいを続けていたのでした。
去年の夏、ふとしたことから、とある出版社の編集さんに、「橋本先生の今の連絡先って、ご存じないですか?」と、きかれました。 「え、年賀状の住所なら知ってるけど?」というと、 「どうもそこでは連絡とれないんですよ。先生、どこにいっちゃったんだろう?」 そのときは、私はのほほんと、「行方不明になるって、画家さんらしくて、かっこいいかも」などと思っていたのです。 でも、編集さんは心配そうにいいました。 「具合が悪いんでなければいいんですけど」
それからしばらくして、先生の家族の方から、先生が亡くなったことを知らせるはがきがとどきました。お葬式はもう、少し前に、身内だけですませたので、と、書かれてありました。 まだなくなるような年ではなかったと思います。 編集の人に電話をかけて、ふたりで驚き悲しみました。 橋本先生はやはり、どこか仕事関係の人の目を離れたところで、病気療養中だったのでしょう。
どうしてなくなったのか、それは誰かに聞けばわかるのでしょうが、今も調べる気にはなれません。 一昨年いただいたはがきには、独特の絵のようにとびはねる字で、 「お体御大切になさって下さい」と、書いてあります。 「この先も(あなたの作品を)とても楽しみにしています」と。
ここのところ、なんだか、遠い世界にいってしまった人々からのメッセージがとどくようで、私も、今自分が生きているということについて、大切に考えて行動していかなくてはならないな、と、かみしめています。
たった14文字の言葉が浮かんでこない…。 むー。うー。
いやちょっと、ここ数日、詩を書いてるんですけどね。 どうしても、出だしの一行ほどの部分が書けないのです。 あーもー。長い文章を何千字も書く方が、死ぬほど楽かも。
14文字…。たった14文字なのになあ。
思い出した。 高校時代に、国語の宿題で作った歌。ここに書いておこう。
「雪の下の 根ばかり残る雑草の 我が心かと 思いぬるかな」
最後の「ぬるかな」が変で気に入らないんだけど、気に入らないと思いつつ、いまだに改変できないまんま。誰か、添削してくれないかなあ? 人生で、たったひとつ詠んだ短歌(笑)。他にも宿題で作ったの、いくつかあったんだけど、覚えてるのはこれくらいで。…えーっと、五月の坂道をかすみ草の花束抱いておりていくようなのも詠んだけど、前半忘れてるし。
これ、添削してほしくて、二十代の頃、バイト先にいた短歌が趣味の親父に見せたら、無言でメモされたんだけど、感想は聞かせてくれなかったなあ。 …下手じゃないですよね? 十代でこれ書いたのって、けっこうたいしたもんだと、自分をほめてやりたいんですが…。 てか、今考えると、メモして帰った親父に、なんのためにメモったんだ、と、ちょっとききたい気がするなあ、今では(^^;)。
短歌や俳句って、言葉が短くてあんまり使えないから、さほど好きじゃない。 あ、書くときの話です。読むのは好きだから。
私は、言葉を大量にちりばめて、ゴージャスな世界をおりあげてくのがすき。 ぎりぎり許せる長さが詩ですか。 十代の頃は、現代詩が好きで、「ユリイカ」とか、「現代詩手帖」は、毎号読んでいたものです。老後は詩人になってたりするかもしれません。…いやそれは、そこまで長生きすればの話ですけど。
…しかし、埋まらない。 14文字。 ああもう、二時をまわっちゃった。 今夜はあきらめるか…。どうしようか…。
先日、二週間ぶりにあった二歳半の姪に、ぎゅーっと抱擁されました。 なんていうのかなあ、無垢な暖かさと、いい匂いと、優しさがあって、「これって幸せかも」と、伯母さんとしては、思わず顔がにこーっとしてしまいました。
でも、抱擁というのは、また離れるためにすることなわけで。 いやまた再度、そして再度と抱きしめてくれたりもするんですけどね、姪は。 その日は都合、十回くらいはぎゅっとしてくれたなあ。 どうも、いま彼女のトレンドらしい。
なんていうか、人間関係の…人との距離の取り方って、人それぞれなわけで、私は始終、くっつかれていたら、それだけで疲弊してしまいますね。 たとえ、相手に善意があろうとも。なんか、べたべたされるのはいや。 だから、抱擁は、姪っ子の程度で十分だなあ。頼む、愛情は一瞬で伝わるから、次の瞬間には放してくれ。 もっというと、集団での人付き合いでも、必要以上に、「なかま、なかま」と、確認し会うような、人付き合いって、あとずさりして逃げたくなる。
私は人から、数に入れられてるのって、嫌いなのです。 「今度、どこどこにいくけど、chaykaさんも行くよね?」みたいなふうに、あらかじめ集団にくみこまれちゃうのがいやなの。 で、若い頃、よくそれで「人の意向を聞く前に、勝手に決めないでほしい」とか私が不機嫌になると、みんな理解してくれなかったものでした。
世の中には、人といっしょににこにこしてるのが苦痛だったり、やだったりする人間もいるんだよ〜。 ひとりで自由にひらひらしてるのが好きで、ちょっと離れて、幸せそうな人々を見守ってるのが好きな人もいるんだよ〜。 わかってください。私はそれで、幸せなんだから。 でも、とりあえずは、友人知人のみなさんのことは、大好きなんですからね。
さっき、福音館のTさんからのメールで、ある編集者の方が亡くなったと知りました。 元福音館の、八鍬典子さんです。昨日、亡くなったそうです。
八鍬さんは、私がまだ19才だったとき、原稿を読んでくれた人でした。 当然、デビュー前のこと。そのときの私は、そう、生まれて初めて、出版社に原稿の持ち込みをしたのでした。 当時、福音館は、土曜日文庫という名前の長編童話のシリーズものを刊行していて、私はそこに入っているような本を書きたくて、無謀にもはじめて書いた長編(私にとっては)を、紹介もないのに福音館に送りつけたのでした。 忘れもしない、180枚のハイファンタジーでした。 今の私なら、それくらいの枚数を、十日から二週間くらいで(場合によってはもっと早くでも)書いてしまうでしょう。でも、19才の私は、一年くらいかけて、せっせと180枚書いたのです。 180枚の原稿は、すぐに読んでもらえて、感想を書いた手紙といっしょに、送り返されてきました。 原稿を読んでくださった人、手紙を書いてくださった人が、八鍬さんでした。
その手紙は、今も手元にあります。 読み返さなくても、内容は覚えています。何度も何度も読んでいるからです。 しっかり構想すること、客観的に書くこと、細部まで想像をめぐらせること…。 ファンタジーを書くのなら、そういうことを注意するようにと、万年筆の青色の文字で、丁寧に書いてくださっていました。 それはどれも、とても大切なことでした。当たり前のことではあるのですが、自分宛の手紙に書かれた言葉は、重みが違いました。 そして、終わりの方に、「ファンタジーの本を出版するのなら、350から400枚の枚数は必要です」とも書いてありました。 180枚をやっと一年がかりで書き上げた当時の私に、どうしてその枚数が書けるでしょう。私はそれから、すぐに次の持ち込みをするのはあきらめて、勉強のために、いろんなコンテストに作品をだすようになったのでした。 でも私は、「いつかきっと、長いファンタジーが書けるようになって、また八鍬さんに原稿を読んでもらって、福音館から本を出すんだ」と心に誓ったのでした。
さて。このあたりの話は、いろんな場所で話しているので、きいたことがある方もいるでしょうが、結局、最初の本がでて、作家になるまでには、それから十年かかったのでした。 デビューはあかね書房です。で、そのころには、理論社にも担当の編集者さんがいました。その後も、いろんな出版社から、私の本はでましたが、福音館から単行本がでたことはありません。 福音館には、19の時の、たった一回しか原稿を持ち込むことがありませんでした。私がやっと長い原稿を書くことができるようになったときには、八鍬さんは、編集部を離れ、販売部に配置転換になっていたからです。 私は、「原稿を読んでくれて、手紙をくれた八鍬さん」にまた作品を読んでもらうのが目標だったので、八鍬さんがいなくなったあとの福音館の編集部に、原稿を持ち込む理由がなくなってしまったのでした。 今の私なら、もう、350でも400でも、軽く書けるのに。 しっかりとした構成の長編ファンタジーも、たぶん書けているのに。
八鍬さんは、編集者として、優秀な方だったようです。 理論社のYさんに、何かのきっかけで、八鍬さんのことを話したとき、 「最初に原稿を読んでもらったのが、八鍬さんだったなんて、幸運でしたね」 なんて、いわれたことがありましたから。 八鍬さんが、フリーの編集者として、本を作ってらしたときいたこともあります。 他社の編集者や本好きの方々といっしょに、子どもの本を研究するための勉強会もなさっていたようです。
私は、デビューしたあと、八鍬さんにお礼の手紙を書きました。 新刊も、お送りしていました。 八鍬さんは、本当に喜んでくださって、いつも感想をくださっていました。 「百年目の秘密」が、お好きだったようです。
福音館とは、本を出版してもらうご縁はいまだありませんが、雑誌「おおきなポケット」で、短期連載を、その後することがありました。 そのとき、担当のTさんといっしょに、八鍬さんはいつも私の原稿を楽しみにしてくださっていたそうです。また、私の本について、Tさんとよく話したりもしていらっしゃったそうです。
八鍬さんとは、毎年、年賀状の交換もしていました。 でも、今年にかぎって、お互いに年賀状のやりとりをしませんでした。 私は今年、はじめて年賀状を誰にも出せないくらい時間と気力のない状態に追い込まれてしまって、それでたくさんの人に不義理をしたのですが、八鍬さんからこないというのは、不思議なことでした。
そういえば、この年末にでた本を、八鍬さんにおおくりするのを忘れていました。 ポプラ社の「ささやかな魔法の物語」。 あの本を、八鍬さんに読んでいただきたかったなあ…。 なぜ、今回にかぎって、著者代送のリストにいれるのを忘れていたのでしょう。
どうして亡くなったのかは、わかりません。 たぶんまだ、四十代の終わりか五十代くらいのはず。 亡くなるような年令ではなかったと思うのですが…。
八鍬典子さんの冥福を心からお祈り申し上げます。 「よい作品を書かれますように、お励み下さい」と書いてくださった、あの手紙の青い字は、ずうっとこれからも忘れません。
この先、どんなにたくさんの名編集者と出会い、お仕事をするとしても、私の原稿をはじめて読んでくださったのは、八鍬典子さんだったということは、忘れません。ありがとうございました。
<追記> 1.長編ファンタジーが出版されるにあたって(児童書の場合の話ですが)、300とか450などという枚数が要求されたのは、今は昔の話です。現在ではむしろ、180から250くらいまでの枚数の方が、出版されやすいと思います。 (この枚数は、四百字詰め原稿用紙換算です)。
2.私は、誰の紹介もなしに、かつて福音館に原稿を持ち込んだわけですが、これは実は、勝つ可能性のほとんどない賭けのようなものです。まともな出版社なら、編集者は常に忙しく、得体の知れない新人(の卵)の原稿など、読んでいるひまはないのです。そう、新人の卵の持ち込み原稿は、ほったらかしにされてしまう可能性が大きいのです。原稿のレベルを判定してもらえる以前の問題になってしまうのでした。「持ち込み原稿も読むことにする」と決めている出版社の場合でも、編集者に時間ができるまでは、そうそう読んでもらえるものではありません。数ヶ月から数年も、原稿が埃をかぶったままになることもあり得ます。 私があんなに早く原稿を読んで指導してもらえたのは、運が良かったか、八鍬さんが熱心で、良心的な方だったということなのでしょう。
新人作家になりたい人は、出版社主催のコンクールに投稿するか、作家先生の紹介で、出版社に持ち込んでもらいましょう。 で、「先生の紹介で持ち込み」というのも、いきなり自分がつきあいもない作家に原稿を送りつけて、「これを出版社に持ち込んでください」といったって、まず百パーセント持ち込んでもらえませんので、念のため。 すなわち、「作家に頼んで原稿を持ち込み」してもらえる人というのは、たまたま作家に知り合いがいて、その人があなたの才能を見込んでくれている場合だけ、ということになります。
したがって、普通の作家の卵は、新人賞デビューをねらいましょうね。 私もデビューのきっかけは、新人賞です。
いや、具体的に、どこがどうというわけでもないんですが。 ちくちく体中のあちこち痛かったり、重かったり、ひりひりしたり〜。 でも、ちょこちょこなので、寝込むほどでもないという。 風邪の前触れかなあ? 昨日は久しぶりに鼻血でたしなあ。 ああ、貧血気味なのに、貴重な血液が…。
昨日、シェーラ10の再校ゲラを返しました。 おお、これでなんとか、本がでるはずだ。三月に。やったあ。 あとは画家の佐竹さんと、編集さんの仕事だし。 で、今日は、児童文学者協会からの依頼原稿を書きました。 「インターネットと児童文学」についてのエッセイ、四百字で五枚。 これは企画の段階で、私のところに来るだろうな、と思っていたら、やっぱりきたのでした。「日本児童文学」の5.6月号に掲載される予定です。
…で、力尽きてるところ。 チャットの過去ログを作るためにパソコンを立ち上げたんだけど、そのあとがもう体力ないや。するべきことしなきゃいけないことはあるんだけど…。 やはり、今夜は寝てしまおう。 で、明日、童心社からの打ち合わせの電話とメール、ファックスのやりとりと同時進行で、いろいろやろう。あ、そうだ、確定申告もしなきゃだったなあ…。
あ、明日は病院に行く日だったか…。
うう。なんだか、覚え書きのような日記になってしまった。
私は、人の幸せを、「よかったね」と、喜ぶのが得意です。 知らない人の話でも、幸せな人の話題をきくのは好き。そういう話だけを、ずうっときいていられたら、どんなにいいだろうと思います。 一方で、ねたみそねみ関係の心情は、よくわかりません。 こういう性格は、自分でとっても楽なので、嬉しいです。
でもこれって、自分と周りの人たちを、同じ地平線の上の存在としてみていないというだけのことかもしれないと思ったりもします。 なんていうか、子どもの頃から、私と周りの人のあいだには、見えない壁みたいなものがあるというか、どこかでまじわれないと思いこんでいるというか…。私ひとり、違う世界を生きているというか。
私が人の幸せな話を聞くときって、なんとなく、こんな感じのような気もします。 …私はよその家の外にたっている。家の部屋の中には、友だちがいて、私に嬉しい話をしてくれる。私は良かったね、といって、窓越しに手を取り合って喜ぶんだけど、そのうち、「じゃあまた」といって、道へ帰っていく。 「ああ、いい話を聞いたなあ」とか、ハッピーになりながら。
私は相手の家の中に入らないし(呼ばれても)、すぐに立ち去ってしまうし(近所にはとどまるんだけど)、どこかにある私の家に人を招いて話を聞くことはない。 ないと思う…たぶん。
他人の幸せは、ガラス窓の向こうの人たちの幸せで、「絶対に私のものにはならない」幸せだから、だから私は最初からうらやましいとも思わないし、家の中に入ろうとしないのかもしれない、という気がするのです。 だから、神様が見守るような気持ちで、幸せを祈れるのかも、と。
で、私はそういう自分のスタンスが嫌いじゃなかったりもする。 情念の世界で、人に執着したり、人を恨んだりして、どろどろになるのってあまり好みじゃないし、そもそも自分が、感情の振幅が激しい状態になるのは好きじゃない。なるべくでいいから、自分を客観視できる程度に冷静でいたいので。
これは、うちの母親が、どっちかというと「他者の幸福をうらやましがる人」(といっても、普通の人のレベルかとも思う)で、なおかつ、感情の起伏が激しい人、だったから、というのもあると思います。
うちの母親は、機嫌がいいときと不機嫌なときの差が激しい人で、なんの前触れもなく、何もいわないうちに、気分が入れ替わっていたりするから(急に子どもに口を利かなくなったり、子どもが幸せそうに笑ってると、怒り出したりする)、子どもである私は大変でした。いつも怯えていたものです。捨てられそうで。 (まあ、母にはそれ以外には美点もあるんですけどね)。 いまだに、私は、いわゆる「感情的な」タイプの人とのつきあいは苦手です。その人への好悪の感情は別にして。 どう接していいのかわからなくなって、悲しくて、途方に暮れてしまう。 なんていうのかな、「いつかは捨てられる」と、無意識のうちに思うからかもしれない。気分が変わったときの母親は、ほんとに怖ろしい人に変身していたので。あの恐怖を思い出す。
たまには私だって、ガラス越しの、部屋の中の世界に憧れることもある。 でもやっぱり、人と密接に関わり合うことは怖ろしい。 誰かを好きになるのは幸せなことだけれど、それがいきすぎてその人に執着してしまうことで、自分が変化するのも怖い。おだやかに生きていけなくなりそうだから。
通りから、自分が好きな人をガラス越しに見て、ずっとずっと幸せを祈っていられたらいいのにな、と、いつも思っています。いや実際、私は好きな人がそこに生きているというだけで、幸せでいられるから。 人と深く、関わり合うことは怖い。 捨てられるのがいやだから。
でもやっぱり、ガラスの向こうの世界には、憧れてしまうこともある。 だって、道は寒い。部屋の中は暖かそうだし、みんな幸せそうだから。 少しずつ、少しずつ、近づいちゃおうかな? あの人、呼んでるし…。
…で、たまに、ガラスの中の世界に接近してみて、やっぱりがらじゃなくて失敗して、ないちゃったりもするのでした。 ついでに部屋の中の人をひっかいて怪我させたりして。<猫だったらしい あうあう(涙)。 人恋しい気持ちだけ胸に抱いて、北風吹きすぎる道にたたずむしかない自分が悲しい。 ほんとは私だって、寂しいんだよう。かっこわるいからいわないだけで。 ひとりで道にいるのは、そんなに楽しくもないんだよう。
いいなあ、ガラスの向こうの人たちは。
…ええ、わかってるんですよ、中に入らないのは自分の意志だってこともね。
私がホームページをはじめたとき、それは、「読者のみなさまへの感謝と、新刊情報を載せる場を作るため」であったのですが、同時に、「私はここにいる」ということを発信したいという気持ちもあったのでした。 懐中電灯を、夜空に向かって、振り回しているような感じ。 光の信号で、「ここにいるよ、ここにいる」と、遠い誰かに連絡するような気持ち。
それで今は、上記の二つの願いは、どちらも満たされていると思います。 読者のみなさまとの出会いは、日々あるし、今まで知らなかった、素敵な人たちとも、たくさん出会うことができた。 それで、けっこう、世の中の見方や、人生観が変わったりもしました。
ここ数年、時がたつごとに、仕事が忙しくなってきています。 それはありがたいことなのですが、ホームページ作成に、開設当初ほどは、時間を割けなくなってきています。 でも、私は、ホームページを閉じることはないと思います。
友人知人の方は、まあ、サイトを閉めるとしても、話せばわかってくれると思うのです。でも、まだ見ぬファンの方々は、そういうわけにはいかないでしょう。 うちのサイトは、検索サイトでさがしてきてくれる人や、自著に書いているアドレスを見て訪ねてきてくれる人が多いのですが、そうして訪ねてきた人々が、もしかして、サイトがない、なんてことに気づいたら…。
と想像すると、私はとてもサイトを閉めることができないのでした。 まだあったこともない、どこかにいるファンの人をがっかりさせないためには、まあ、少々大変でも、サイトは運営していこうと思っている村山なのでした。 やっぱ、作家として、自分の本を好きでいてくれる人のことは、がっかりさせちゃ、だめだと思うしね。
ほんというと、あんまり人と接するのは得意じゃないし、本来は気むずかしい方なので、ホスト役は向かないし、ついでにいうと、人の善意や愛情を受けるのはめちゃくちゃ苦手で逃げたくなる方なんですが…。 でも、このネットの宇宙の中で、私はこの先もずっと、「私はここにいる」と、小さな光を発信していきたいと思っています。
#「忙しいのに、このごろ日記をよく書いてらっしゃいますね。大丈夫ですか?」と、とある常連さんから案じていただきました。ありがとうです〜。 でも私ね、日記は、これくらいの量なら、十分かからないで書いてしまうの。気分転換にちょうどいい分量なんだよ。エッセイ書くの、嫌いじゃないしね。
#お友達の夏緑さんが、この日記のことを、メールで、「日々泡」と、縮めて読んでくれていました(笑)。…ひびあわ。どことなく、アワビみたいでかわいいじゃないですか! というわけで、この日記の略称は、「日々泡」と決定しました♪
私は、このごろ、小指用の指輪を集めるのが趣味になっています。
実は私は、小指が短くて、ちょっと曲がってもいるので、なんとなくマイナスにとらえていたのです。なるべく、人には見せないようにしていたし、ましてや、指輪なんて、という感じで。 でも、最近の、あれはいつだったか、某お店で、店員さんに、「わあ、かわいい小指!」と、いわれたのをきっかけに、「そっかあ、私の小指、かわいいかも」と、思い始め、そこへもってきて、風水のどれかの本に、「小指の指輪は幸せを招く」とあったもので、「よし、かわいい小指に指輪をしよう」と、宗旨替え。 ピンキーリング(小指の指輪)は、デザインも、お値段もかわいいのが多いので、気がつくと、もう七本。
で。 小指のサイズ。右が5号。左が4号だったのですが…。 このところ、指がやせていくので、指輪が落ちるんですねえ。 右の小指が4号になってしまったの。 で、右手用は左手用のをつければいいとしても、左手の小指が寂しくなってしまうので(3号の指輪はうちにはないからです)、今日、外出のついでに、銀細工やさんで、指輪を見たのです。
ぼーっとして、きれいでかわいい指輪を見ながら、 「うー。このままやせていって、3号よりも指が小さくなってしまったら、もうつける指輪がなくなるんじゃないかなあ…。どうしよう?」 とか、冗談半分で考えていたんですが、ふとみると、やけに小さな指輪がある。
…1号?
多分、生まれて初めて、見ましたよ。 1号の指輪。 ジルコンが一粒、光ってました。ちっちゃくて、かわいかった。
面白いから、お店の人にウインドウからだしてもらって、つけたらば。 …左手の小指に、入るじゃん。
一瞬、しゃれで買おうかと思いましたが、1号の指輪なんか買った日には、この先も指ばかりやせていきそうで、怖かったので、やめました…。 3号の、ハート形にカットされたアメジストがかざられた指輪を買ったんですが、かわいいんだけど、うー。ちょっとまわるなあ…。 うーうー。左手の小指のサイズって…いくつなんだろう? まさか本当に1号?
ところで、「やせるのは指ばかり」と書きましたが、顔は丸くなってるんです。 どうやらこれは、今飲んでいる治療用の薬のせいらしい。むくんでるの。 顔が丸くて指だけやせていくって、なんつーか、賽の河原の絵の、亡者のようで、ひじょーに、ビジュアル的に情けないです…。 「ねえ、指がこんなにやせて」と、誰かにいっても、顔が丸いんじゃあ、誰も同情してくれる人はいないでありましょう…。
#その他のお買い物 限定品の、ハリーポッター香水を買ってしまいました…。 魔法的な瓶と箱と、限定版という響きにつられた…。 香りはグレープフルーツみたいな感じで、さっぱりしていて、男女関係なしに使えそうな感じでした。香りも淡いしなあ。 香水やさんには、青林檎の香りの、アモーレ・ミオを買いに行ったんだけど、そっちは今一、香りが大人っぽい(私のイメージと違ってた)ので、今回は買わずに帰ったのでした。予定外のハリポタ香水も買ったしね。
わたしは人と争うことが嫌いです。 いやその、喧嘩やトラブルは…自分でわざとまきこまれてるところもあるんだけど(と、人からつっこまれないうちに、書いておこう)、人と争って何かを手に入れるというのが、嫌いなのです。体に拒否反応がでちゃうくらいに。
子どもの頃、かけっこが大嫌いでした。 走るのが嫌いだからというのもあったんだけど、周りのクラスメートが、他人を押しのけて走るときの、あの顔が怖かった。 人によっては、自分の前に誰も来ないように、肘を横に広げて走ったりするでしょう? ああいうのを見ると、胸が重くなるのでした。吐き気がするの。 だから、みんなを前に走らせてから、最後に走り出したりしていました。 それでよく、親や先生に叱られたものです。 そのときの気持ちは、今も覚えています。今も性格変わってないしなあ。
今も、人と競争するのは嫌いです。 「とりあう」のがいやなわけ。 くじびきやじゃんけんで、何かを取り合うというのも、マジな感情が入るようならいやだなあ。某出版社のクリスマス会で、五百円をかけるじゃんけんゲームがあるのですが、そんなのも、友人知人にお金渡して最初から棄権します。 人が何人かいて、「この中のひとりにこれをあげよう」という場面があれば、真っ先に降ります、私。 でまあ、それに関連して、スポーツ観戦も、嫌い。勝ち負けがあるから。
今の職業が、天職だと思う理由はいろいろありますが、わりと大きな理由に、「人と争わなくていいから」というのがありますね。 自分で納得のいく作品を、一生懸命書いていれば、必ず、読者も出版社も認めてくれるから。私はそれで、ずうっとやってきたから。でもう、今年で九年目。 これがもし、毎度、出版のためのオーディションのようなものがあるシステムだったら、私は作家はやれてないと思う…。 そりゃ、オーディションがあっても勝ち抜く自信はあるけど、だんだん心がすり減っていって、しまいには、書けなくなると思う。 だって、自分の本がでる代わりに泣く人がでるシステムなんて、いやだもん。そんなのじゃ、出版されても、私は嬉しくない。ていうか、それで勝利を喜べる人間に、自分が変節するようなら、私は私を嫌いになると思います。
私には、人を押しのけようとする欲が、欠如しています。 誰かを押しのけてでも、傷つけてでもほしいものなんて、何もないです。 生きる意欲に欠けていると、いわれたことがあります。 そもそも、「作家になりたい」というただひとつの夢が叶ってしまった今では、本当に、自分のために心底ほしいものって、ないのですから。 だから、祈りはいつも、自分が好きな人や、自分の友だちや知っている人や知らない人が、幸せでいてくれること、それだけで…。 で、その祈りも、本人たちが知らないうち、忘れているときに、ひっそり祈りたいほうなんで…。
でも、私は、自分のこういうところが、ささやかーに好きなんです。 こんな自分で良かったと、少しだけ、誇りに思っています。
#ささやかといえば。 「ささやかな魔法の物語」の二刷りが、もう決まりました。 今の時期、とくに推薦にもはいっていないのに、増刷が決まったのは、店頭で売れているからということだそうです。みなさま、ありがとうございました☆
久しぶりに、ローカルFMをお昼にききました。 もうずうっと昔に、FM局で、はがきを読むお姉さんのアルバイトをしていたことがあるので、なんとなーく照れくさくて、ふだんはFMはきかなかったのです。 しばらくぶりにきいたFMは、懐かしいような面はゆいような感じでした。でも、いやじゃなかったので、これから、たまにはきくようにしようかな?
FMでのバイトの思い出は、いろいろあります。 でも、その中でも、とくにひとつ、小さな思い出だけど、心に残っているエピソードがありまして…。 二月の、今の時期になると思い出すんだよなあ。
うん。これはもう、時効だろうから、書いちゃおう。
私は、早朝から、FM局で働いていました。 朝、六時半だったか、七時だったかに、天気予報をひとりで読み、曲を一曲かけ、なにやらドライバーのみなさんに一言声をかけるのが、私の一日の始まりでした。 で、番組が始まる前、当時はファックスが普及するか普及しないかの頃だったのですが、当日のお天気をきくために、気象協会に電話をかけていたのです。 長崎支部(支局?)か、福岡支部のようなところだったと思います。 何しろ昔のことで、ちょっと記憶があやふやなのですが、ファックスで気象情報を送ってもらった上で、電話でも何かを聞いていたような記憶があります。あれはなにをきいていたのかなあ? 気温? 注意報とか警報の関係?
ほんの一言二言のやりとりでした。 朝の忙しいときですから、当然、私も相手の人も、無駄な会話はしません。 名前も名乗らなかったと思います。 でも、何人か変わる少数の人の声の中で、ひとり、きれいな声の若い男の人がいました。少し高い、澄んだ声で、優しく話す人でした。 「ああ、この声、いい声だなあ」と、ずっと思っていたのです。
その後、私は、アシスタントをやめて、番組の原稿を書くライターになることになりました。二月のことです。 最後に気象協会に電話をかける朝、電話をとってくれたのは、その声でした。 この声を、もう二度と聴くことはないんだなあと思った私は、手短に別れの挨拶をしたあと、思わず、いってしまいました。 「あなたの声、とても好きでした」 電話の向こうの声は、一瞬、沈黙しました。そして、いいました。 「私も、あなたの声が、好きでした」
それだけの話です。 それだけの話なんですが、今も、あの人の声が、耳に残っています。
お互いに名前も知らないままでしたし、だからあの人が、今どこで何をしているか私が知らないように、あの人も、私が児童文学作家になったなんて、知らないのでしょう。 あの人はあのあと、ちゃんと年をとって、きっと結婚もして、子どもなんかもいて(いや当時すでに、家庭があった可能性もあるんだけど)、私の本だと知らないままに、私の本を買ってきて、子どもに読んであげたりしているかもしれません。
この二月の空の下、幸せでいてくれるといいなあ、と、思います。 人の目には見えない、良い妖精のように、私はそれを祈っていたいと思います。 素敵な思い出を私に残してくれた、そのささやかなお礼みたいな気持ちで。
シェーラ10の初校ゲラがきてます。 ルルー6は、引き続き直しをしなきゃいけない状態。 むー。でも、ちょっと風邪気味で、眠気が差していて、仕事が進まないのでした。 いや実は、二月中旬はちょっと上京してこようかなあとか思っていたので、それにあわせてスケジュール進行を早めにしようとか思ってたのに、チケットを買い損ねて旅行中止になっちゃって、そしたら気が抜けた…。
こういうとき、自由業は自由がきく分、面倒なのです。 お勤めしている人なら、いやでも毎朝出勤しなきゃだけど、私は在宅。仕事しろと叱る人もいない。 「仕事やりたくない」と思ったら、どこまででーも、なまけられちゃうのです。 (もっとも、後でしわ寄せが来る覚悟はいりますが)。 むー。うー。だるいねむい仕事したくない。 また夕べから、シーツを冬物のふわふわのにかえたら、むやみやたらと暖かくて、快適で。ああ、ずーっと眠っていたい。春になるまで…いやいっそ、一生。
でも、シェーラ10のゲラは、7日必着でもどさなきゃだ。 ルルー6の直しは、10日〆切だ。 寝てるわけにはいかない(涙)。
昨日、気分転換に散歩してて、ついでに中古のCDショップに行ったのです。なんかBGM用にいいのないかなあ、とか思って。知ってるのやら知らないのやら、メジャーなのやらマイナーなのやら、いろいろ買い込んできたのですが、ふとみると、テレビゲームのコーナーで、新作ゲームのデモが公開されていました。 ナムコの「ゼノサーガ」。未来SF(?)風、RPGです。宇宙空間と戦闘用宇宙船と、戦闘用アンドロイドと、魔法の話のような…。 このごろ、ゲームするひまないし、雑誌も読んでないのですが、いまだにやっぱりゲームは好きです。小説と違って、絵と音楽と効果音が楽しめるしなあ。 で、美しい宇宙空間とか、耳に残る音楽とか、繊細になったポリゴンとか、かわいいキャラデザとかみて、ひさしぶりに、わくわくする気持ちを味わいました。 人様の作った物語でどきどきする機会も、このごろなかなかなかったなあ。
今年は、SFものの新シリーズを起こす予定があるので、よけいに美しい画面効果に見入ってしまったということもあります。 やっぱり今年は、SFやろう。かっこいいのを。
しかし、喉が痛いなあ。 この痛さは、非常に不吉なんですが、今は寝込めない。 でも猫みたい。もとい、寝込みたい…。 九度とか熱だして、点滴打って寝ていたい〜。 浮き世の辛さも何もかも忘れて、寝ていたい。
とか、書きつつ、童心社からの電話を待っている私。 シェーラ10の表紙カバーのデザインができてきたので、その感想をいわなきゃなのと、シェーラ第二部のキャラデザの打ち合わせがあるのです。 電話、まだかなあ?
#いま買いたいゲーム。 日本一ソフトウェアの「ラ・ピュセル」<かわいいSLG ナムコ「ゼノサーガ」
今、実に、三十分のあいだだけ、公開されていた日記がありました。
が。
なんだか表示が変だったんで、とりあえず、削除してしまいました。 まあ、いずれ、再び公開するかもしれませんけれど。
…でも、いったいなんだって、あんなふうな表示のされ方になったのかは、 謎。
うーむー。
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