宇佐美彰朗の雑記帳

2005年04月12日(火) 「びわ湖毎日マラソン」60回記念を迎えてーーその3

第60回「びわ湖毎日マラソン大会」記念
 「歓迎の夕べに招待を受けて」―連載その3「琵琶湖3橋を走破」―

 びわ湖毎日マラソン大会、メキシコ五輪「プレ大会・本番の経験」、そし
てミュンヘン五輪大会に向けたトレーニング効果を、「高所トレーニング」
に定め、世界に目を向けたつもりでいました。ところが、1970年4月のレー
スでは終盤に追い込めず第5位がやっと。そこで「富士山五合目合宿」(標
高2300〜2400m)を決行(!)。これはかなりのトレーニング効果を挙げ、
約半年後の大会では2時間10分37秒8の記録をマークしました。この記録は
当時世界歴代第3位、日本記録を達成することができたのです。71年開催の
ミュンヘン五輪「プレ大会」では運良く優勝、自他共に本番に向けての期待
が膨らみました。

 いよいよ日本代表選手の選考となり、72年3月ミュンヘン五輪・最終選考
会:びわ湖毎日マラソン大会(第27回)がスタート。余り調子も上がらない状
態で、レース全体はスローペース、たまりかねた原選手が後半に入った途中
で抜け出した。相当にリードするも、終盤でペースを維持できなくなったの
か、宇佐美に抜かれついて来れませんでした。ところがリードした宇佐美も
逃げ切れず、40km近くで君原さんに追いつかれ、デッドヒート。

 少しばかり走り進んだ頃、君原さんのスピードはこれ以上上がらないよう
に感じられたので、宇佐美も苦しい中、自分なりに切り替えたらリードでき
ました。それからはひたすら逃げる体勢で、どうにか逃げ切りトップでゴー
ル(!)よかった、よかった!!これで2度目のオリンピック代表となれた
のです。

 この経験は宇佐美の心の中に、「高所トレーニングの効果あり!」を刻み
付けました。その背景には、実際に日本大学大学院教育学専攻体育学コース
博士課程に在籍し、世界に通用するランナーをめざして模索するなかで、富
士山五合目合宿は必要不可欠と感じ、そして決行したのでした。

 オリンピック本番の結果は、君原さんが第5位の入賞を果たされるも、宇
佐美は第12位でゴールできたのが精一杯の状況でした。なんとも残念、無念
!!! この大会後、宇佐美は西ドイツ(当時):ケルンスポーツ大学に半年間
留学することに。こうした刺激や鍼灸師:野村巖先生(故人)のアドバイスも
あって、ランニングフォームの改善・改良への取り組みを決行したのです。

 それを一言で表現すると、「前傾姿勢を維持するランニングフォーム」
で、歩幅を数センチでも広げることを目的としました。1年近くの時間が費
やされ、一応フォームが完成に近づいたので、2年ぶりの第29回びわ湖毎日
マラソン大会のスタートについたのでした。

 スタート後間もなく、一人旅となりとうとうゴールまであと数キロの地点
に来た時、曇り空が急変、真っ暗になり激しい雨、雨、雨。その豪雨の中、
センターラインの白さだけを手掛かりに走り続け、ゴールの競技場は「踝ま
で水溜まり」状態の中、トップでテープを切りました。

 翌年の第30回は、完成したばかりの「近江大橋」を通るコースとなり、こ
の橋に帰って来さえすれば、残り距離はないのだからとだけ考え、フォーム
改良のこともあり無心に走った結果、トップでゴール。ラッキーでした!

 その後モントリオール五輪「プレ大会」があり、日本から5,6名が参
加。ところがこの大会当日、直射35度を超える(コーチ陣が手元の温度計で
確認・報告)条件の中で実施され、途中棄権者が続出、日本選手の一人も病院
に収容され、夕食時に宿舎に帰ってきました。このことから、「マラソンレー
スの給水は、スタート後5km地点から給水できる」との世界ルールができま
した。それまでの給水地点は10km以降だったのです。このような重大局面に
も遭遇できました。

 翌年の第31回びわ湖マラソン大会は、これまたモントリオール五輪最終選
考会でもあり、その前年に経験した「近江大橋」を渡るコースに気をよくし
たこともあってか、またまた幸いなことに優勝することが出来ました。これ
も高所トレーニングを継続した効果であることは確かな上に、ランニングフ
ォームの改良による成果でもあったと自負したものでした。しかし本番は32
位に終わってしまいました。

 以上、びわ湖毎日マラソン大会7回の参加で5度の優勝は、ラッキー以外
の何者でもありません。その上、今日琵琶湖に架かる「琵琶湖大橋」「瀬田
の唐橋」「近江大橋」の3橋とも走破出来たのは幸いでした。最近の「南郷
洗堰」コースは、橋の高低差をなくした素晴らしいコースのようですが、こ
れでは「橋」といわないのでは(?)、そう考えると宇佐美選手は文字通り
琵琶湖の橋を「制覇(走破)!」したのでした。

 以上3回にわたって、思い出の「毎日マラソン」を連載させてもらいまし
た。この文章についてお気づきの方、感想などをお寄せください。宇佐美



2005年04月04日(月) 「びわ湖毎日マラソン」60回記念を迎えてーーその2

「びわ湖毎日マラソン大会」60回記念ーー「歓迎の夕べに招待を受けて」
     ―連載その2:「初優勝・五輪代表」:―

 「びわ湖マラソン」初出場の第3位が評価されて以来、全日本クラスの「マラソン強化合宿」に参加することが出来るようになりました。合宿では憧れの国際レベル級の選手と一緒で、それらの先輩から、私は強烈な「カルチャーショック」を受けたのです。

 先輩たちの「競技者生活」は、自分とは比べようがないほど厳しく、その行動の一つ一つは無論、マラソンに対する「考え方」、「食生活」へのこだわり、「トレーニング」への取り組み、世界に照準をあわせたその内容は、宇佐美には到底追いつくことは不可能であると思えたのでした。

 しかしここで受けた刺激のお陰で、翌年の「メキシコ五輪・プレ大会年」として、丁度この時期にメキシコ合宿のメンバーに加わることが出来ました。これが宇佐美の「海外遠征」初体験だったのです。何もかも珍しく・・あれよあれよという間に時間が経過して遠征は終了、あっという間に帰国しました。しかし具体的には表現できないものの、遠征に出かける前と後では、宇佐美の心身の中で何かが違っていました。

 こうした経験が効を奏してか、1968年4月の「びわ湖毎日マラソン大会」(「メキシコ五輪最終選考会!」)では驚いたことに「初優勝!!」に遭遇(?!)。まさかの出来事でした。

 いまでもそのレースの細部は刻銘に記憶しています。レースは終盤に入り、トップグループは「瀬田の唐橋」を渡り、35km地点。給水するときに足でも絡んで「コケないように!」と考え、先頭に出て宇佐美のスペシャルドリンクを取って飲み干し周囲を見ると、誰もいない! まさか「トップ!」なんて。ありえない! すぐ後に先輩達が続いているはず、でも見なかったのです。後を見るのが怖いのと、後を見るエネルギーがあるなら前に進むエネルギーに使え、という先輩の言葉を思い出したりしていたわけです!

 後続を待つこともなくこのまま自分でペースを維持し、いけるところまでいこう!と考えて走り進みました。ゴールまであと5km、まだ誰も脇に来ない!あと3km! それでも誰も来ている気配がない! それからは、逃げる体勢となりなんだか硬さ、苦しさが感じられ、以後残りの数キロがとても長く感じられました。
どうにか逃げ切って、一等賞! 大会記録で自己最高記録の達成でもありました!記録は2時間13分49秒でした。

 この成績で「メキシコ五輪・マラソン代表選手」の切符を手にすることとなりました。10月までの約半年間、夏は強いて暑い場所で負荷を強くした合宿をしたり、富士山五合目で高地トレーニングをして準備、大会にそなえました。

 本番のレースではアベベ選手(エチオピア)が途中リタイアするハプニングなどもありましたが、僚友のマモウ ウオルデ選手が優勝、日本の君原健二選手が第2位となり、宇佐美は第9位でした。


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