西方見聞録...マルコ

 

 

ハリーポッターの10年‐子育て年代記として‐ - 2011年07月31日(日)

 はう〜日記の書ける日常よ、うぇるかむばっく〜。

 さてちょっと過去日記ですが、この日私と娘1号(中2)とおKさん(小3)でなんばパークスシネマに「ハリーポッター死の秘宝2」を観にいきました〜。

 2001年に第1作が封切られてから10年の年月を経て完結を迎えたわけですが、そういえば娘1号さんの初映画館作品って、このハリーポッターの第1部「賢者の石」でした。

 子役達も大きくなりましたが、うちの子ども達も大きくなりましたので、ちょっと7プラス1、合計8本の映画公開時私たちはナニしていたのか少し年代記風にまとめておきたいと思いました。

 まず第1作目賢者の石、2001年の公開ですね。このころは川崎市民だったので1号さん@4歳児と南大沢の映画館に行きました。あめでおさんが当時南大沢在勤だったので帰りに待ち合わせて帰ったような。1号さんのたっての希望で観にいったんですが、暗くて怖くて、全然映画見ないでマルコに抱きついて小刻みに震えていて上映時間が終わったのを覚えています。マルコはすごい久しぶりの映画館での映画鑑賞で物凄く興奮しました。当時日記をつけていなかったんですが、この日のことは未来から振り返った日記としてこんな記述がありますな。 


 で、2作目と3作目が2002年と2004年に公開されていますが、おKさんが生まれたばっかりで映画館から遠ざかってたので観にいきませんでした。4作目が公開された折、テレビで宣伝っぽく過去の映画が放映されたのでそのときに録画してみました。

 そして4作目(2005年末〜)はこんな感じで1号さんだけが夫実家滞在中にあめでおさん母上とともに映画鑑賞されました。

 そして5作目(2007)はなんだか我が家のハリーポッター熱が高まり家族4人で行っちゃいました。こんなかんじ

 で、2009年の6作。第5作のとき本格的な映画初めてだったおKちゃんが第5作の長さに飽きちゃったので、この第6作は1号さんと私で二人で行きました。この日のことは、記録に残ってないですね〜。2009年ってD論提出の年なので、多分日記かいてなかったんだな〜。

 そして第7作のパート1は今度はおKちゃんと二人で行きました。1号さんは「友達と行く〜」といってついてこなかったのです!(しかし友だちの多くがハリーポッター映画を6作までフォローしてなかったので結局1号さんは映画いけなくてあとでDVDでフォローしてました。)

 そんで最終回は、おKちゃん、1号さん、そして私の3人でなんばまで行って映画見て天王寺Q'sモールでショッピングしたんですな。映画に関しては英語でも日本語でもバッチし読んだ内容なのでイロイロわかっていて安心してみました。映画の内容よりこの10年の我が家の激動を走馬灯して万感胸に迫りました。

 いやいや、ダニエル・ラドクリフ君もこの10年いろいろあったでしょうが、うちもホントにイロイロあったよ〜。





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小豆島-過ぎて行く夏3 - 2011年07月30日(土)

 さて以前、こんなふうに二十四の瞳の再読感想を日記に綴っておりましたが、あれ以来、壺井栄、気になる人でありノロさんの小豆島旅行記の第4話第5話あたりを読んで、小豆島行って二十四の瞳映画村行きたいな〜と激しく思っておりました。

 そんで今回は旅行直前の斑鳩町の商工祭りであったノロさんネルさんご夫妻に旅の話を伺い、そんでもって参考図書随筆・小説 小豆島もお借りして、これは小豆島行ったら壺井栄ゆかりの地に行かねば気が済まぬ、と思っておりました。ところが、おKさんは「もう1日も海いきたい〜」とのたまうし、1号さん&あめでおさんにいたっては「またあのバスで福田港までかえるのしんどいから土庄から岡山行きのフェリー乗って、岡山でスイーツでも食べて新幹線で帰ろうよ」と言い出す始末。

 ええ〜ん、せっかく小豆島まで来たのに、もうこのメンバーでは二度とココ来ないよ!と母はオトナゲなくがんばり、なんとか二十四の瞳映画村に最終日参上することになりました。

 そんで若き日の大石先生は自転車で岬の分教場に向かいましたが、私どもは息子に手漕ぎ舟で分教場に送ってもらうラスト近くの晩年の大石先生を真似て渡し舟で映画村に参上しました。



お、見えてきたぞ、映画村。



そんで映画村はお土産ものありの映画セットありのちょっと面白い空間でした。



なぜか村の入ったところを流れる川には海の魚が居り、おKさん100円の餌を購入して海の魚とコンタクト中。コブダイさんと対話しておりました。



こんな二十四の瞳の像があったり、あと映画館では私たちが行ったときは高峰秀子主演の二十四の瞳が上映されていました。子ども達がアキレス腱を切った大石先生をお見舞いに来て、そんで大石先生が本校に転任しちゃう場面まで観ました。
あ、でもこの映画村は高峰秀子じゃなくて、田中裕子主演の二十四の瞳の撮影のために作られたオープンセットが土台になっています。




で、民俗資料館みたいな感じで昭和初期の民家が再現されていて、



ついに撮影セットとして作られた村の分教場へ。



中には教室が再現されていて、そこには田中裕子主演の二十四の瞳撮影で使われた自転車が展示されてあったり、写真パネルで大まかなストーリーが紹介されていたり、撮影秘話が紹介されていました。撮影秘話として小豆島の子も登場してもらおうと子役オーディションを行い、小豆島の子で小学校1年生と6年生の同性の姉妹、兄弟が募集されて分校時代(1年生)と5年後の本校時代(6年生)を撮影したのだと。

1年生と6年生の同性姉妹、、うちにいたな〜。当時小豆島の子どもだったら結構難しいオーディションの応募資格をゲットしていたのに〜。



このほか、レトロなお土産物屋があり、レストランでは昭和の給食が再現されて840円で売られていました〜。

また映画関連の展示場があって、最近小豆島で撮影された「8日目の蝉」に関する展示も多数ありました。「8日目の蝉」のポスターを見ながら、壺井栄の時代から「母」への社会からのまなざしの変容にしみじみいたしましたわ。(あ、でも「8日目の蝉」原作読んだだけで映画のほうは観ていないのでした。観なければ)



さらに敷地内にある壺井栄文学館では自筆原稿や壺井栄と夫、壺井繁治の書簡が見れます。また壺井夫妻の略歴が展示されています。小豆島の出身の二人がいかに文筆家への道をたどっていったのか、興味深かったです。あと壺井栄の近影を見ることができます。なかなかたくましくて頼りがいのありそうな女性でした。

そんでまた渡し舟に乗ってオリーブビーチまで戻り、そこからバスで再び福田港を目指し、行きと同じ経路で帰路に着きました。

なんか、、2児には母がなんでこんなに「二十四の瞳」にこだわってんのかわからないだろうし、私自身説明も難しいんだけど、この日の「ひっかかり」からいつか自分で壺井栄の本を手に取って、その世界に触れてほしいな、とおもいました。

こうして今年の夏の旅行は幕を閉じました。

私の人生の夏は過ぎていくけれど、やがてくるあなた達の夏があなた達らしく輝きますように。

さあて秋もがんがん攻めるぞ!ってまだ夏も終わってないし!




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小豆島-過ぎて行く夏2 - 2011年07月29日(金)

 さて次の朝。5時におきて恒例の旅先ランをいたします。
 6時にはみんなでお散歩を始めるからね、とあめでおさんに言われたので、1時間でかえれるコースと言うことで、地図をにらみます。宿泊しているのは小豆島の中では岡山との航路のある港を持つ土庄地区。丸く半島状に海に突出している土庄の南岸部分に宿があります。
 で、マラソンコースとして、土庄の海に突出している部分を一周するのは難しそうだったんで、土庄の直径の部分で山越えして、半周をまわるコースを地図で確認します。

 ふむこれならいけそう。

 そんでまず土庄南岸の海沿いを西へ1キロも走らないうちに山道に入ります。高台に上ると海が大変きれいです。


 
 そして北岸に出て東に走り土庄の<半島>の付け根の部分にある世界一狭い海峡に至ります。(つまり土庄は半島のような顔して実は狭い海峡に仕切られた島だったのです)このへんの海峡はまあちょっと海峡らしいです。



しかしこのあたりに来るとこれは海峡って言うより小川では?って感じになります。ギネスブックに認定された世界最侠海峡。ありがたや。



 でこのへんは土庄の街中なんですが迷路の道って辺りでしゃれじゃなくて本当に迷いました。街中の細かい道は頭に入れてなかったのでどっちが旅館か本当にわからなくなりました。すでに5時45分、あめでおさんのお散歩隊が出発するまであと15分。
 さっき自分が山越えした山を見てあの山の南麓を目指そう。お日様があっちだから南はこっち、と「山あて」をする漁師の様に自分の位置と目的地を割り出します。
 で、走ると言うことは健康つくりのためではなく、急いで目的地に到達するためなのだ!という走ることの本質に立ち返るような勢いで走ったら、宿屋に着きました。



でも宿屋の部屋に戻ったら他の家族メンバーはぐうぐう眠っており、全然お散歩にいかなそうだったので、たたき起こして散歩に行こうよ!と誘いました。1号さんは途中姫路のジュンク堂で買った「図書館戦争外伝1、を読んでるからいいわ」と言うことでおいていきましたが、残りのメンバーが起きたので、3人で散歩しました。



 この日はもうずっぽり、朝の9時から海にいました。10時くらいまで私たち家族がビーチ占有。



 1日いたら、日焼け止めを塗らなかった部分はやけどしたみたいになりました。毎年のことなんですが、学習しないんですよね〜。おKさんとあめでおさんは全身黒こげ、私は顔は日焼け止め塗ってたんですが足と手は大変なことになりました。
 しかし、そんな間抜けな家族メンバーの中で1号さんだけは1人で日焼け止め塗りまくり、涼しい顔して日焼けしてませんでした。1号さんは部活休んでこの家族旅行に参加しているのであからさまに海で遊んできたって体になるわけには行かないのだそうです。お疲れ様です。




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小豆島-過ぎて行く夏1 - 2011年07月28日(木)

 子どものころ、夏休みは爆発するような喜びには満ちてはいたけれど、1日1日がするすると過ぎてしまい、7月が終わるとああもう4分の一が過ぎてしまった!旅行に帰省に夏祭りと行事満載の前半が過ぎてしまうと、ああもう半分!ああもうお盆!とその終了が予感されて切なくなったりした。そしてクーラーなんて無い時代の昭和の子どもだったので、暑くていまいち勉強の能率があがらないといらいらして秋が恋しいと思ったりしたことも、実は、あった。

 さて子育て旬の時期というのはなんだか夏休みに似ている。その喜びに満ちて、行事満載で、いまいち能率上がらなくていらいらして、そしてするすると指から砂が零れ落ちるように終わっていこうとする様子などが。

 毎年家族旅行をすると、今年のココもよかったけど来年はドコに行こうかね?なんて家族の時間は永遠に続きそうに「次の相談」をするのだが、今年は1号さんから「こういうスタイルの旅行は今年が最後なんじゃない?来年はとにかく受験だから、行くんだったら3人で行ってね」とクールなご託宣をいただき、過ぎて行く私の人生の夏休みの終わりがまざまざと幻視できた。

 まあ、秋になったら能率取り戻してがっつり働くからいいもん。と強がってみてもちょっと鼻の奥がつんとした。

 つうわけで今年の夏休みの最大イベントは小豆島行きでした!

 まずはJR神戸線の新快速乗って姫路へ。ここは私が5年間非常勤講師を務めた職場のある街なんだが、家族旅行で行ってみると遠いね〜



 姫路名物駅そば。岡山で中高校生やってて、そんで三重に両親実家を持つあめでおさんは夏休みはてっちゃん(鉄道マニア)の兄と二人で三重で過ごすべく鉄道に乗ったらしいのだが、快速で岡山ー大阪間を走り、ココ姫路でホームに降りて駅そばを食べるのが楽しみだったとか。



 そんで姫路駅で駅そばじゃない、座って食べられるラーメン屋で昼ごはんをたべ、バスで姫路港へ。ココから小豆島行きのフェリーに乗ります。
 このへんの経路はこのノロさんの小豆島旅行記がかなり参考にされています。この旅行記はシリーズモノなのですが、マルコかなりしつこくコメントしています。当時「二十四のひとみ」にはまっていて、小豆島行きたい熱がマックスだったのだと思われます。



 で、フェリーなんでたくさんの車が載っていきます。わたしたちは徒歩なので比較的簡単に乗船。 



 時間が来れば船はあっけなく出発します。



 姫路もですし、途中の島々も、そして小豆島にもこういう砂利とりで削られている場が散見されます。銀河鉄道999で土が食べられておいしい惑星があってどんどん削られていき、人々もそのおかげで生活は豊かだけどついにはよって立つ大地を失う、というストーリーがあったように思うのですが、なんだかその話を思い出し「メーテル、砂利取りで失われた島(ほし)はどうなるの?」と思わず999ごっこしてしまいました。家族メンバーの誰にも理解されませんでした。
 砂利は重量比で言うと最大の鉱物資源として最も激しくやりとりされているのでございます。

 大阪城の石垣にも小豆島の花崗岩が使われているそうな。



 はい、で接岸。



 この後船が到着した島北東の福田港からバスに乗って、対角線上にある南西の土庄港近くの宿屋に参りました。小豆島、でかいです。大変遠かったです、福田港-土庄港バスのたび。それでもうこの日は疲れちゃったので、なんもせずおKちゃんと私だけ宿の目の前の海辺で貝拾いをしました。




 そんで瀬戸内海の海の幸をいただいて、ぐうぐう眠りました。


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風鎮祭 - 2011年07月16日(土)




まったり土曜日。

本日はおKちゃん(小3)と図書館行って涼んで、、もとい、読書に親しみ、1日を終えるはずだったんですが、夕方部活から帰宅した1号娘(中2)が友達と夕食後、龍田神社の風鎮祭行きたい!8時半には帰るから、と申します。

龍田神社は同じ町内ながら、私どもの地区の氏神ではないのでこれまで風鎮祭行ったことなかったんですな。町内アウェーと申せましょう(あ、でも七五三はやったな)。

そんでおKちゃんもいきたい〜というので。1号さんは7時過ぎにご友人と神社に向かい、私とおKちゃんは8時頃神社に参上し、8時30分に神社前で待ち合わせして3人で帰ることにしました。

そんではじめていったんですが、ヨーヨーツリとか焼き鳥とか、みんな100円均一で屋台が出ていて、どうも地元の青年会系の人々によって運営されている祭りのようでした。

盆踊り台の上ではおじさんが朗々と地域の民謡系の歌を歌い、結構難しい盆踊りを平均50歳代以上のお姉さまが激しく踊っておられました。

うちの小学校校区から外れているので知っている子には会わなかったんですが隣の校区の子ども達がたくさん来ていました。子ども達は踊らず夜店専門なんですが、50歳超えたら、やおら踊りだすのかな〜とか思いながら祭りを見ました。

そんで神社の本宮の奥には冒頭写真のようなお灯明があり大変幻想的でした。写真にも写ってますが人文系カメラマンが赤鉢巻カメラを構えてバシャバシャ写真取り捲ってました。

ちなみに三郷町にある龍田大社の風鎮祭とは別のお祭りですのでご注意ください。


用語解説
人文系カメラマン:主に人を被写体とするカメラマン。通りすがりの他人にも容赦なくカメラを向け、「8日目の蝉」では主人公、逮捕の原因にもなった。木や建造物を被写体とするあめでおさんによると「無礼」だそうです。おKさんも法隆寺で転んでえ〜んと泣いたら、ドコから湧いた!ってかんじで人文系カメラマンに囲まれて泣き顔をいっぱい写真に取られたことがあります。観光地に住む市民だから経験する風景としての経験と言うやつですね。

赤鉢巻カメラ:赤ハチマキで検索するといろいろ出てきますが、要するにカメラマニアが持つレンズの立派なでっかいカメラのこと


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困ってるひとー当事者主体 - 2011年07月14日(木)

さて、困ってるひとについて語る再挑戦。7月3日に読み終わって心が熱いうちに、が〜と感想を書きましたが、あまりにも自分の興味にひきつけて書きすぎたとちと反省(題名もまちがってましたよね)。ちょっと心を落ち着けて再挑戦。

 いろんな書評が出ました。朝日新聞もでました。

 またTWITTERでも話題になったこのきたがわともこさんの書評は、テキストを丁寧に読まれた良い書評です。脱帽です。

 そう、支援者を志してきた、そして今はその支援活動をテーマに研究しちゃってる私にとって、この本はとても衝撃だった。何にそんなに衝撃を受けたかと言うと、当事者(被支援者)と支援者のその非対称性が当事者側からかくも明快に丁寧に明らかにされたことに対してだ。

 開発援助の業界で、ロバート・チェンバースらが当事者主体、住民参加型開発と言う言葉で開発、支援プロジェクトのオーナーはその地域に暮らす住民、当事者であり、支援者は当事者が自らの力で行う変革の触媒(カタリスト)にすぎないと世に宣言したのはもうずいぶん昔だ(チェンバースのRural Development: Putting the last first が出版されたのが1983年だからそのあたりから)。以来開発に携わる人はこの「当事者主体」と言う言葉を金言として胸に刻んできたはずだ。

 でもでも、実際どうだろう。情報も資金もそして発する声の通り具合も支援者と当事者の関係はとっても非対称で、その中で行われる「当事者主体」の支援は本当に当事者主体でいられたのだろうか。

 「困ってるひと」では難病者が選ぶべき道として下記の二つが示される。

1)決して永続はしない友人の善意や年老いていく両親の支援
2)そのモンスター並みの複雑さを持ってはいるが制度としての福祉による支援。

その道を選ぶにいたって、さまざまなアクターが登場する。
友人、両親、難病仲間、医者、行政のケアマネ

でで、読んでてイタタタなのはやはり、支援者側の「自立」観が当事者のソレとすれ違いながら、すれ違ったまま強者として支援側が考える「自立」を当事者に押し付けようとする医者群像なのだ。(このイタイ感は全然他人事ではなくて、もとNGO女子として、現在も在日外国人活動現場の界隈を歩きながら、ぼんやりとした既視感とともに胸に刺さってくるイタイ感なのです)

とりあえず著者はその良く響く声で当事者の望む未来を明確に提示し、その実現のために、福祉モンスターをハムスターくらいに弱体化してもうちょっと使い勝手の良い福祉制度設計の必要性を訴え、その戦いの第一歩としてこの本を世に送り出した。

この本を受け取った私たちに出来ることは、自らの身の回りの「当事者」の声に耳を澄まし、そしてさまざまなモンスターをハムスター変えるために何が出来るか、ともに考え、行動を始めることだ。


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かたまり - 2011年07月12日(火)

 手をつける前の仕事と言うのはなんかとぐろ巻いた不気味な巨大物体って感じでドコからどう手をつけていいのかわからなくて、ちょっとイヤ。この時期が一番逃避行動の激しい時期。

 手をつけ始めて因数分解していくと、結構かわいいやつだったりしてワーカホリック気味に夢中になったりするけど、やっぱり途中でブラックボックスが何個かあって手が止まるとまた逃避行動してしまう。

 結構夢中で仕事する時期と逃避してる時期がこうまだらになってる感じ。

 でも締め切りが切羽詰るとブラックボックスもかわいい部分もバターになって、わ〜!と片付けないと俺たちには明日が無いので、なんか片付く。締め切りってありがたい。

 まあ締め切り様に勝負をつけていただく前に、手をつけないでじりじりしてないで、とにかくとりあえず火中に手を突っ込んでみないと栗は拾えないんで、相手が巨大物体だろうがブラックボックスだろうがとりあえず手を突っ込んでみるのだ。具体的にはパソコン立ち上げてファイル開いて資料広げてなんか書くのだ!




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日盛りの奈良 - 2011年07月09日(土)

 はい、お暑うございます。太平洋高気圧にずっぽり覆われまして夏でございます>日本列島。今年はいつもより気圧配置の夏配置になったのが早かったですな。この勢いで早めに秋配置に移行していただきたいものでございます。

 さて、本日はおKちゃんの「絵画教室」が午前中奈良であったので、午後はあめでおさんも合流して、久しぶりに奈良散策をしました。1号さんは部活なので不参加ざまス。




 奈良公園の春日大社への参道も日差しが強く、緑の影が濃いです。



 そんで7月10日まで行われていた、鹿の赤ちゃん公開にこの日は行きました。ここは鹿愛護協会が運営している鹿苑角きり場の入り口です。大人300円中学生100円小学生無料で入場できます。


 で鹿の角きり場の中はこんな感じになっています。ここは毎年秋に角きりが行われるところです。

 ここに妊娠した鹿は集められ出産と子育てをして2ヶ月ほど子育てをした後、7月に母子鹿は奈良公園でデビューします。
 全部の妊娠鹿を集められるわけではないのですが、鹿が安心して出産子育て出来るように、また妊娠子育てで気が立った雌鹿が観光客に襲い掛からないように、観光客が小鹿を触ると、母鹿が人間のにおいを嫌って子育てを放棄する事故が起こるのでソレを防ぐためにも母子鹿はココに集められます。


 100円で餌を売ってたので、餌を買って



 与えてみました。しかしいつもボディアタックを受けながら手からせんべえやってる鹿さん、かなり遠いですな。動物園みたい〜。鹿は町にいるものな奈良県民には新鮮な遠さです。



 角きり場の反対側にはまだ鹿苑が広がっていて、怪我をした鹿、病気の鹿が収容されて保護を受けています。白い鹿がいるんですがちょっとこの写真じゃわからないかな。このほかこの角きり場のそばの鹿愛護会の建物で要予約ですが鹿の角キーホルダーつくりをさせてくれるらしいです。

 これらの情報は1号さんが中学校の体験学習で班行動で奈良の名産をいろいろ探して体験すると言う「奈良まほろ場体験学習」と言うのでゲットしてきた情報でした〜



 角きり場の外には松雄芭蕉の句碑。この句は鹿男あおによしの原作のほうにも出てきますな。
「びいと啼(な)く 尻聲(しりごえ)悲し 夜乃(の)鹿」



 



 あんまり暑いのでその辺にあったなぞのテントと椅子で涼みました。誰もいなかったので。テントの下から見上げた夏の日差しが、カコクですが美しかったです。


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困ってる人ー世界は視点によってこんなにちがうー - 2011年07月03日(日)

 さて今話題の困ってる人を読んだ。


 こ、これは、、こんなに人をわらかしながら、ものすごい大事なことをさらっといっちゃってるよ、この26歳は。と言う茫然自失の1冊である。

 とにかく笑って泣いて誰でもきっとすごく短時間でこの1470円の本を読みきってしまうと言う筆力がまずすごい(ところで泣き所と笑い所が、ココ笑うところですか?ココ泣くところですか?とちょっと呆然とするくらい常識と逆転してるんですが、病のクライマックスで人を爆笑させてアンタどうする)。

 しかし、そんな読ませ力を持って、訴えているコトの内容がすごいのだ。

 <困ってる人>の支援者から当事者へと立ち位置を転置させた作者がみた支援者のときの世界像と当事者のときの世界像のその変容のすさまじさ。

 <支援者>(元気な頃の作者や医者群像)は「困ってる人」を助けることでものすごい勢いで自己効力感(BYバンデューラ)と居場所と生きがいとそして報酬を得ている。その証拠にみんなぶいぶいのワーカーホリックだ。
 <当事者>(病気な頃の作者やビルマ難民)はそれらを惜しみなく支援者に提供することでなんとか生き延びようとするが、支援者の都合の良い自己効力感提供マシーン以外の何者かになろうとすると「自立」と言う言葉で支援者との関係を変容させられ(ときには切られ)、世界の奈落との断崖絶壁すれすれの道を1人で歩まねばならない。

 支援者・医者様の考える自立(福島県の親元での庇護)と当事者・作者の目指す自立(病院の近くに引っ越して福祉サービスを得ながら執筆活動と恋人とデート)の隔たりは最終章の作者の大爆発によって、それぞれの社会的バックグラウンドや世代の格差として、これでもかとわたし達の眼前に姿を現す。

 当事者(ビルマ難民や難病者)は多くの場合、支援者側の世界に響く言葉を持たずに支援者に都合の良い代弁者によってその声を捏造されるケースが多い。それを作者は支援者から当事者と言う「向こう側」に立つ場所を移動させたことによって大声で言ってのけたのだ「向こう側から見るとこの世界はこんなことになってるぜ!」と。

 「困ってる人」と言う奇書(貴書)は「困ってる人」をかきながら「支援者」の姿をエスノグラフィックに描き出した書でもある。

 これが二つの世界の異なる視点を双方に響く言葉で言語化することによって共通理解を生み出すという「媒介力」(注)なのだと思う。

 
 (注)「媒介力」わたしのD論のキータームでありながら、主査に却下され、現在日の目を見る確率のすごい薄い言葉なんですが、ちょっとこんな世界の片隅でつぶやいてみました。

 
 
 


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