西方見聞録...マルコ

 

 

邪悪を作り出す邪悪な仕組み - 2010年02月27日(土)

 突然ですが子ども2人とウィキッドをみにいってきました。

 ウィキッド、「オズの魔法使い」の裏面史というか、「邪悪」とされた西の魔女側から見た世界というか、ドロシーがオズの国に来るより何年も前から続いてドロシーがさるまで続く(実は魔力のない)オズの権力にしがみつくための闘争の歴史というか、そういうお話ですね。USJで30分に縮小したものをやってますが、本編は休憩(20分)はさんで3時間の長丁場で、USJではカットされた恋あり、西の魔女の家族の長い格闘の物語ありで、USJでウィキッドみた気になってるともったいない!かも。

 予習用に「オズの魔法使い」の絵本を図書館で借りてきて3人で読んでから行ったんですが、帰ってきて、さらに2回、3人で「オズの魔法使い」を読み返してしまいました。

 はああ〜この場面の影ではこんな陰謀があったのか!とかドロシーに従う3人の男(かかし、ブリキのきこり、ライオン)たちの胸のうちはこんなにも違うベクトルのこと考えていたのか!とか子ども向けの物語が一気に愛と苦悩の大活劇に読めるようになります。

 それにしても秩序維持のために共同体の外部に邪悪なものを設定したがる権力者とか、報道による事実の捏造とそれに翻弄される大衆とか、それはおかしいと声をあげることの尊さとそれを貫く辛さとか、なかなか大人向けの味付けで観客も子どもより大人が多かったです。それにしても、四季、確かにお高い値段設定で、コレだけ満杯の客を集めるとはビジネス的にうはうはでしょうな〜。

 とりあえず原作読んでみようと思います。


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何食わぬ顔をして、どこでもドアで - 2010年02月26日(金)

 はい!本日ワタクシはいつもと同じように子どもを送り出したあと、まだお掃除の仕上げ作業中のあめでおさんを置いて「じゃあ今日はちょっと神戸のほうにいくから〜」と、家を出ました。

 んでJRなんば駅の湊町バスターミナル(家から30分)にいき、そこで某長距離バスに乗りました!

 どこへ行くマルコ!

 それにしても家のこんなご近所にどこでもドアのような便利なバスターミナルがあるとは知りませんでした。
 たくさんある乗り場から鳥取へ広島へ高知へ関空へとひっきりなしにバスが出ています。

 そんなたくさんある長距離バスのひとつに乗って、あめでおさんに言ったとおり神戸方面へ行き、そしてバスは海を渡るのです!
(ところで旅のお供に「かたつむり食堂」の文庫本持ってったんですが、神戸のあたりでラストのルリ子さんの手紙をリンコちゃんが見つけるくだりになって、泣けてたまらんかったです)
 


で、かたつむり食堂読んで泣いてるマルコを乗せたバスは鳴門海峡を渡り




大塚グループ企業城下町の



この結構大都会の



徳島にやってきました〜!



 徳島県入ってすぐの「高速鳴門」というバス駅でわたしのドラえもん、というか大学後輩のアイラグちゃんが待っててくれました。
 このとき時間は午前11時45分。

 そんでふたりで、ものごっついおいしい魚を食べさせてくれる店に行き、メバルの姿煮と鯛のアラ煮をたべて、そんで青春の残骸を拾うかのごとく、徳島県立鳥居記念博物館に行きました。昔の日本の文化人類学・考古学の草分け徳島が生んだ偉人、鳥居龍蔵さんがあっちこっちからネコババしてきちゃった遺物が展示されています。
 私もアイラグちゃんも20歳前後はマジメな文化人類学徒だったので(え?じゃあ今はナニ??)青春の残骸がいろいろ落ちてる博物館でした。

 ウィキを見てみるとなかなか面白い人生ですな

 なんか奥さんの方もすごい面構えの人で、奥さんがモンゴルに呼ばれたから、龍蔵氏はついていって、ちゃっかり調査しちゃったりもしたようでした。


 


んで、そのあと、阿波十郎兵衛屋敷というところに阿波人形浄瑠璃の資料を見に行きました。ここでも二人で青春の残骸を拾い中。

 そんでものすごく美味しいシュークリームを出してくれるコーヒー屋さん「ケストナー」でマシンガントーク。


 いやいや、青春の残骸も面白かったけど、断然今のあなたの話のほうが面白かったわ>アイラグちゃん。

 アイラグちゃんはものすごくいろんな映画、を見ていて知っていていっぱいいろんな世の中の見方にアクセスしている人なのだ。3〜4年単位で任地の変わる夫殿とともに全国行脚をしながら、どこの土地にいても、映画上映会運営に関わったり、地元が支える映画ロケのボランティアで活躍したりしてる。どこに行っても、ちゃんと自分らしく自分のやりたいことにむかって爆走するアイラグちゃんは20歳のころよりほんとにずっと素敵でイイ女だった。

 そんで最後に素敵なおみあげをちょこっとずつたくさんもらって、なんかパワフルなだけじゃない気持ちいい気遣いの出来るヒトになっていて、パワフルさに磨きをかけるだけの私の半生をちょっと振り返ってしまったよ。


 20歳のころお互いに鼻っ柱だけはものすごくて、いろいろ激しかったけど、まさかこんないい具合に年が取れるとは思ってなかった。きっと次の10年も今よりずっと素敵になるだろうって実感できる再会だった。

 またどっか思いもかけない土地の空の下で会って、がははと笑えますように。そのときキミに負けないくらいおもろいおばちゃんをめざしてわたしも生きていくよ。

 んで、15時50分のバスに乗って学童保育終了時間の18時30分までに帰宅できました!完全犯罪!

 でもお土産出しながら「実は今日徳島いってきてん」と家族の者どもに告白すると「なに〜!」と皆のもの驚いていました。

 大人になると、どっかでドラえもんが手引きしてくれて、何食わぬ顔でどこでもドアを使えるから、いいな〜大人になるってとしみじみするのび太であるところのワタクシでした。

 



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凧の行方 - 2010年02月20日(土)

 夜中に突然、「君のためなら千回でも」を観た。

 どこに行くかわからない、凧の行方を正確に見抜いて走っていった、少年ハッサンの残像がしばらく頭から離れなかった。

 1970年代の繁栄するカブールとタリバン支配下の同じ町の対比。タリバンの非道ではなく徹底的に個人間の葛藤としてドラマを展開させることで「悲惨なアフガン」ではなくてそこに生きる、あるいはそこから逃げ、悔恨し、生き直そうとする人々の物語が伝わってきた。

 主人公のパパがすごい多面的で魅力的で「アフガンの男」「アフガン難民」なんてステレオタイプをぶっ壊して個人として、俺の顔を見ろ!って感じで画面からはみ出してくる感じがよかった。

 登場人物が「アフガンの人々」である前に代替不可能なオダマコト的にいうと「非真正性レベル」での人間描写がされているように感じた。

 ところで今回すごく感じたのは難民として国を逃れた人が資本主義大国で表現者としての技術を得ることで祖国と映画消費者の二つの世界を結びつける「媒介力」を発揮する、ということだ。

 ちなみにこの媒介力って私のD論のキータームだったんですが、あえなく没になって「異文化間リテラシー」って既存タームに書き換えて論文通したんだっけかな〜 

 「その名にちなんで」や「テヘランでロリータを読む」なんてのもそうか、オリエントで生を受けた人が移民として難民として移動した先で獲得した表現の力で祖国をパワフルに語ることで生み出される感動。

 そういう「媒介力」が世界に与える影響を感知させる映画だった。

 原作、買って読もうと思った。


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看守としてのワタクシ - 2010年02月19日(金)

 「マンデラの名もなき看守」を観た。

 インビクタス鑑賞記で書いた「見る白人」「見られるアフリカ系」の構図の中の作品で、アパルトヘイトを描く難しさとか、マンデラでなくても他のアフリカ系指導者でもこの作品は成り立つ(それほどマンデラは感銘を投げかけるような言動を作中してないけど看守はアパルトヘイトの非道に目覚めている)とか、いろいろ不満もある。いとなんちゃんが言うように「南アではみんな怒ってる」ていうのも、まあわかる。あくまで人間ドラマは白人社会の中で起こり、マンデラさえも「映画を売るための記号」でしかないということに愕然とする。

 人間ドラマを演じるのは「白人」とくくるけど、少し低い社会階層に属する人が主人公で、「黒人びいき」とののしられても、看守を辞めて生きられないというポイントがこの映画のミソか。「遠い夜明け」や「ワールドアパート」の主人公達のように命をかけて、英雄的に国を去れない人々がアパルトヘイトに疑問を持つことの難しさが描かれている。

「黒人びいき」はアパルトヘイトが瓦解していく中で「重要人物」へと立場がシフトしていく。作中「告訴されなかった唯一の看守」ということばが出てくるけど、他の看守に何が起こったのかな?

 矛盾に気づきながら、でも逃げることはかなわずにそこでそれを見守るしかできない主人公。彼はアパルトヘイトに嫌悪感を持ちながら積極的には何もしない。

 とてもよくある話ではある。例えば、ナチスの大量虐殺に、何かの拍子にわれに返ったナチス親衛隊はいなかったのか。おかしいと思いながら戦争に突入していくしかなかった父母や祖父母。そして WTO体制の中でアフリカの貧困が生み出されるという構図を、認識しながら、フェアトレードコーヒーを買うようなささやかなことでしか抵抗できない私たち。

 

 


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絵画の庭、アマークド、牛の鈴音 - 2010年02月17日(水)

 この日は、ランチオフでした。
 そんでいろいろ逼塞中ニンジンにしてた私の夢をかなえるべく、before lunch に国際美術館の絵画の庭展に、after lunchに映画牛の鈴音を観にいきました。

 お付き合いいただいて、いろいろ語り合った皆様、ありがとうございました。

 絵画の庭は、、ううむ芸術とはなんだ!という命題の前に立ち尽くすというか、未来の古典が約束されてるのは誰だ!(←は吉田秋生の「海街ダイアリー3」のあおり文句です)単なるラクガキなのはだれだ!って感じでした。
 んで、畏友Akikoさんにどの作品が面白かったか3つあげよ、という宿題をいただいてたので、3つじゃないけどあげると

栗田さんの愛チロリン、
森さんの九品仏、
中山さんのサファリズムフライ、
OJUNさんのオチルコとカタルコ、
町田さんの題名忘れたけど、耳からなんか出てくる絵、

あたりが印象に残りました。

 また小林さんの「私たちを夢見る夢8」で、あ〜この絵画群もそれ観て驚いてる私ももしかしたら、み〜んなこの人の夢なのかも、と思いました。

 何が芸術か、「現代芸術」を評価し批評することの難しさにAkikoさんの日常のご苦労を思いました。
(ちなみにマイナス評価に関してはミクシのランチオフのスレの35番コメントに書きました。公開の場なので悪口は避けます)

 題名が文学的だった小沢さんも、畏友Sさまのお知り合いのお嬢様の作品も背景を聞くと大変心惹かれました。って知り合いの娘さんってことはかなり若い世代の作品が展示されてるわけです。ほんとに今生み出されつつある、ビビットな作品群なんだな、とおもいました。評価の定まった名作古典を見るのに比べ、これから歴史と対峙していく現代芸術ってのは見る側の目も試される場なのだな、と思いました。

 そして心斎橋に移動してものごっつう楽しかったランチのあとに、映画「牛の鈴音」を観にいきました。これまたものごっつい上級者向けドキュメンタリー(コピーby kumakoさん)でした。
 福島のフィールドの奥のほうにああいう人(あの爺さんまですごくないけど)いたな〜、とか、地域格差とか農村老齢化とかいろいろ考えるけど
婆さんの口と裏腹な爺さんへの愛に満ちたまなざしと全編流れる婆さんの愚痴にこういう人居るな〜とか、婆さんに「三毒追放」とか言う人がいたら笑うな〜とか、いろいろ由無しな感想を抱きました。

 それにしても現代の生活はどれだけ土(農業生産)と遮断されているか、土から逃げれたものこそ勝者のような価値観が蔓延していることに改めて気づきます。

 学歴競争とは土から離れるためのイニシエーションなのか、とか。

 絵画の庭、牛の鈴音、いずれも渋いチョイスでしたが、なかなか楽しかったです。





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インビクタス(ネタばれ注意!) - 2010年02月16日(火)

本日はおKちゃんの授業参観で『何でもチャンピオン』と言う子ども達一人ひとりが得意技を披露すると言う1年生の終わりの恒例行事に行ってきました。

 でも今日はその話でなくて、昨日の朝近所のシネコンで見たインビクタスの映画の話ですな。

 ネタばれ注意です!これから行く予定のある人はココから先は観たあとで読んで!
 すごくお勧めなので、ネタばれしないでね!
















































 インビクタスは南アでアパルトヘイト後の思わず復讐に燃えちゃいたい抑圧されてきた人々と、どうせ俺達は復讐されちゃうんだろ?ってかんじでびびってる抑圧してきた人々が民族融和に向けて旗を振るマンデラのもと何とかやっていこうかと言う時代、1995年が舞台。話はその年、南アで開催されるラグビーのワールドカップで、アパルトヘイトの象徴だった南ア・ラグビーナショナルチームを国を挙げて支援しようと呼びかけるマンデラ(モーガン・フリーマン)とその支援に答えアパルトヘイトの象徴から融和する南アの象徴たろうとするナショナルチーム主将ピナール(マット・デイモン)を軸に展開する。

 とにかく国際世界から疎外されて世界レベルから置いてかれていたラグビーチームがワールドカップで優勝するのがすごい困難なんだけど、困難を乗り越えて不可能を可能にしようとするピナールの姿に、こんなに憎しみあっちゃって融和なんて無理無理!だけどその不可能を可能にしようとするマンデラの融和への道が重ねて描かれる。

 ところでアパルトヘイトってコレまでいくつも映画化されてきたけど、すごくアパルトヘイトそのものを描くのって難しいな、と思ってる。

 映画っていくつもの魅力的なコンテンツがあって、忙しい現代人がその中から厳選してみるわけだから、商業ベースでビジネスをなりたたせてその上アパルトヘイトをちゃんと描くなんて出来るのかな?ってのが私のずっと抱いていた疑問だ。

 興行的にそれなりに成功を見た、「遠い夜明け」、「ワールドアパート」っとかってアパルトヘイトを背景にしているけど主題はアパルトヘイトじゃなくて「白人主人公のヒューマニズムへの目覚め」のような気がする。

 「白人のヒューマニズムの目覚め」で切り取られるアパルトヘイト映画では『見る白人』『見られるアフリカ系指導者』『改心した白人が見直すアパルトヘイトの現実』って構図が強固にあってその世界観で描き出される「救ってあげねばならない」=アフリカ系と「救わなければならない」=私たち(映画の消費者、であるところの人々)」って構図の再生産にちょっと懸念を持ってる(もちろんアパルトヘイトがそこにある!という警鐘の役割は大事だった。特に遠い夜明けの歴史的に果たした役割は大きかったと思う。だけど警鐘が必要な時代はもう終わってる)。

 最近の作、マンデラの看守はどうなのかな?明日ディスカスから届くはずなので、楽しみ。

 アパルトヘイト下で戦うアフリカ系高校生を描いた「サラフィナ」なんかはどういう風に世間=映画消費者は迎えたのだろう?大ヒットした?私はアレが公開された1992年はケニアにいて、ケニアで上司の家でサラフィナのビデオを見た。町のお医者さんとかいわいる町の上流階級の人々が集まったパーティの後みんなで見たんだ。みんなは涙流してみてたけど、主流映画消費者はアレ見て泣けたかな?あのケニアの友人達が(ワタシのいた町は独立闘争の激しく戦われた地域だった)サラフィナから受けた衝撃が全世界で共有されたとはちょっと思えない。

 で、ドラマチックな背景として扱われ続けたアパルトヘイトが、映画消費者の主流の人々に共感される形で、背景ではなく、そのものとして、そして商業ベースで成功できる形で、描かれるって可能なのかな?とずっと思ってた。で、私はこのインビクタスはラグビーを媒介にすることで、マジョリティが共感的にアパルトヘイトを体感するのに成功してると思う。

 インビクタスの映画世界ではアパルトヘイトはもうそこに存在していない。でもそれを乗り越える一見不可能に見える困難さによってたびたび明示的に、あるいは暗示的に描かれる。

 マンデラのプライベートな生活の孤独感、妻ウィニー・マンデラの不在、娘との不和にもそれは色濃く描かれる(マンデラとウィニーが当時どういう状況にあったかはこちらに詳しい。)

 そしてラグビーのシーン。

 「遠い夜明け」や「ワールドアパート」ではアパルトヘイトに仮託して白人のヒューマンドラマが描かれてきたが、インビクタスではラグビーに仮託されて「アパルトヘイト後のマンデラと南アの困難」が描かれる。

 決勝戦でもう絶対優勝なんて困難と思われていた南アナショナルチームがニュージーランドチームを相手に激しいスクラムを繰り返し、敵のタックルを乗り越えてゴールを目指す。ゴールを目指すどころか、ニュージーランドの悪魔的に強い選手があっという間にラインを破ってくるのを身を挺して阻止する。

 長い肉と肉がぶつかり骨がきしむようなシーンはラグビーのシーンではあるが、ラグビーではないもののイメージが仮託されている。

 さて、映画はナショナルチームの奇跡的勝利と人々の民族融和への明るい希望を描いて幕が閉じる。でもみんな知っている。そのあとの南アが今もまだどんな困難な状況にあるかってことを。映画の結末が明るければ明るいほど、今の南ア状況を思い、人々の胸はぎゅっとする。

 
 南アでサッカーのワールドカップがもうすぐ始まる。固唾を呑んで見つめようと思う。ワールドカップと、この国の未来を。

 


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いつもの道 - 2010年02月15日(月)

お休み日記

今日は朝一に近所のシネコン行ってコレだけは見たかった「インビクタス」をみました〜。インビクタス鑑賞記はまたゆっくり書こうと思います。

で、そのあと、近くのパン屋の2階のレストランで一人で昼食。ここは3月の子ども会の遠足(35人とか参加)でお昼ごはんの会場にならないか執行部役員の間で話題になってる店の一。役員は暇を見つけて候補の店を食べ歩きすると言う、なんか美味しい業務なのだった。いちおう店の人に団体受付が可能か、とかその場合の注意点とかを聞く。

そのあとJRで奈良に移動してそして私がドコへ行ったかというと





まさか、平日一人でドコへ行く気だ、、わたし!





って一人芝居してないで




東大寺の二月堂に行きました。




2月13日っておとといか、花粉症治療で、興福寺下のアレルギー医に行ってその帰りに奈良公園で遊んで二月堂にも行ったのですが、そのとき娘1号さんがお財布入りのショルダーバックを二月堂の無料休憩所に忘れてきたのです。で社務所に電話してみると、しっかり、発見されて保管されているというので、それを貰い受けに行ったのですね。




いつも家族で大体1月に1度は行ってる奈良公園と二月堂ですが、一人で来るとなんか別の場所に着たみたいでした。いつもは一生懸命喜びを探すというか、がんばって楽しみを漁るというか。でも一人で来る平日の奈良公園なんかとてもゆったりとして細胞が生き返るような感じでした。





家族と来るときは病院→お食事→それで奈良公園なのであんまり喫茶店とかはいらないのですが、入ってもソフトクリームのある店とかをチョイスするのですが、本日はワタシが私の魂の支配者(インビクタスより)なので自分の好みで二月堂の受納所脇の茶店に入りました。行法味噌を売ってるお店ですが、おいしかったです。


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甘い生活 - 2010年02月14日(日)

 バンアレン帯ン、、じゃなくてバレンタインデーでした。
 2月11日に1号さんは30名分ほど友チョコつくりに精を出しました(今年はカップケーキをホットケーキミックスで作って、クッキーも本見ながらやいてましたな)。



 一応材料買出しだけは先週の日曜に付き合ってましたが(結構お値段張るしさ、お菓子作りグッズって)、あとの制作、ラッピングに関しては昨年くらいから母はノータッチです。勝手にやってます。で、2月12日の金曜日、女子友人28名とお菓子のやりとりをし、そして男子2名にもあげてました。1名が本命で1名がカモフラージュだそうです。本命もほかの子とまったく同じものを作ったそうなので、本命でも本命じゃなくても、ちょっとよくわからんだろうし、カモフラージュ君なんていつもカモフラージュで年賀状上げたり、グループデートに誘ったりしてるので、いろいろと混乱してると思います。まったくご迷惑な話です。

おKさんは1号さんに指導されて手作りチョコを作ってました湯煎だけマルコが関与しましたが型に入れたりデコレーションしたりはチョコ職人の1号さんのほうが上手なので、ご指導をよろしくしました。なんで11日2児がチョコ作りに精を出している間暇だったのであめでおさんと二人でソリティアとかしちゃいましたよ。




で、おKさんは誰にあげたかというと、お父ちゃんと、クラスで野生児仲間として突出しているR君に上げました両方本命です!!
あと、近所の夕焼け番長3年生女児に「友チョコ頂戴。あげるから。」といわれて、お姉ちゃんの余ったラッピングと自分制作チョコで友チョコデビューも果たしてました。

そんな甘い日々を子どもらは送ってましたが、私も甘い日々でした。
実は私は科研報告書の締め切りでぎゅうぎゅうクビがしまってました。(なのにあめでおさんとソリティアやってるとは何事??)
で、この2週間ほどはひたすら自分に甘くすごしました。正月からランニング再開してたんですが、それもお休み。甘い缶コーヒーとかは普段買わないんですが(自分で作った砂糖抜きコーヒーをポットに入れて持ち歩いてます)結構頻繁に買ったり、自分用にチョコレートかって食べたり。
なんか『大事な体だから』←妊婦か!とか『脳が糖分欲している』←糖分は脳に行かずに腹の脂肪になった!とか様々に言い訳し、時にセルフツッコミしながら甘く暮らしました。

、、おかげで太りました。先ほど、原稿は共同研究者の先生の元に旅だって行ったので、この次の週1週間はランニングしたり研究以外の雑文書きとか映画見たりとかなんか楽しいことをして過ごそうと思います。

 は!締め切り終了後もやっぱり甘い生活??


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未踏の北壁 - 2010年02月08日(月)

 本日、ワタクシわが町内の行ったことのないところにいきました〜
 それは、それは、来年から1号さんが通学予定の中学校でございます。

 体育館は現在2名の娘が通ってる小学校と構造的に非常に似ていました。あれって文科省がなんか標準設計案とか持ってるんでしょうか?はるか500キロ離れたワタシの母校の体育館もこんな感じだったかと。

 しかし小学校と中学校の最大の違い、それは先生方の面構えでございます。

 体育館で校長、教頭、教務主任、生活指導主任、の計4名の先生方のお話を伺います。全員強面!中年男子!
 中学校の先生方はこれまでの保育園の先生方、小学校の先生方とくらべて断然「強そう」でした。

 中学校の先生を志望するヒトってどういう人なのかな?小学校・保育園の先生は子ども好き、高校・大学の先生は勉強好き、じゃあ中学は?思春期疾風怒濤好き?

 なんぞと呆然とよしなしごとを頭にめぐらせながら話を聞きました。きっと大事なことはプリントに書いてあるから大丈夫でしょう。

 そういうわけで、中学生の母デビューでした。


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師、研究を語る - 2010年02月04日(木)

 論文の締め切りが近づき、過ぎようとしているのにフィールドワークがとまらない。「フィールドで重要行事があるので参与観察したい。」とか「コレまでの付き合いもあるからぷっつり行くのをやめられない。」とかいろいろ理由をつけてフィールド通いを続けている。

 ある朝、あめでおさんとチャリを連ねて行く駅までの道で「私、調査の方が好きで論文まとめなきゃいけないのにフィールドばかりに行ってる」とあめでおさんに言ってみると、あめでおさんはニヒルに笑い、

「フィールド調査は子作り、論文書きは子育て。あんたは子どもを作りっぱなしで育てない親みたいやな。子作りは誰だって楽しいし、学生だってできる。でも子育てが上手で、偉人を育てられる親ってのはめづらしい。フィールドが好きで論文が進まないっていうあんたは大人の研究者としてはかなり恥ずかしい。」

と、ご託宣を下さる。

が〜ん

 た、確かに子作りが好きで子育て拒否って、なんかオールド世代が想像するイマドキの若者像みたいで、オトナ的に駄目かも〜!

 ちなみに電車一駅分でもちょっと詳しく語ってもらったら調査は個人的な行為で自分の中で「分かった!」とか「ひらめいた!」でいいけどそれを万人に理解できるように表現する論文書きは社会的な行為なんんだってさ。

 って、どうでも良いけどあめでおさん、そのメタファーは上手いけど、学生さんには言わない方が良いよ、セクハラで懲戒食らうからね。


 


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