西方見聞録...マルコ

 

 

国勢調査の想い出―ケニア編― - 2005年09月30日(金)


 さて国勢調査の秋である。わずかな賃金でボランティアしてらっさる調査員の皆さん、まことにご苦労様でございます。いろいろと楽しくあんな個人情報やこんな個人情報を記入していると思い出されるのは今から12年ほど前のアフリカでの乾季の終わり、マルコが青年海外協力隊からの派遣でケニアの内務省国家人口審議会、メルー県人口局次長を勤めていた時代のことである。

 1993年のことだ。世銀が出資し、Usaid(アメリカ版JICAね)が実施主体になってアフリカのリプロダクティブへルスの知識やサービスの普及具合を調査する大規模統計調査が行われることになった。前回は10年前だった。このときは10年ぶりの大規模調査ということになる。

 アフリカの国々でやるのだが、わがケニアでも行われることになり、ケニア側のカウンターパートは私が所属していた内務省の国家人口審議会が勤めることになった。(KDHS Kenya Demographic Health Survey とよばれておった)

 そんで20ページほどの分厚い調査票のまず各国共通版で作られ、それを各部族語に訳すのに先だって、パイロット調査が行われた。このときアメリカ本国から派遣された専門家のANNEさんと私の上司のニャンバティさんとパイロット調査員のカレミさんとで村でちょっと数件調査してみて、ケニアの農村部の概念と質問票の概念がうまく適合しないところをチェックした。
(例えば「子どもが熱を出したときどうしますか?」と言う質問の「熱」をメルーでは「マレイリア」なのだがそのまま使うとただの熱とマラリアの熱と混同しちゃうからどうしようかとかそんなかんじ)。

 ANNEさんはUsaidの結構大物で10年前の調査のときもかなり関わったが今度はケニアでの調査の総指揮をとっていた。ANNEさんがパイロット調査の様子を見ながら「ケニアは10年で変わった。10年前は多くの人が避妊の知識も保健の知識も伝統的なもののみを持っていたけれど、いまでは伝統的なものも近代的なものも両方持っている。すばらしい変化だ。」と語った。毎日本当の末端でケニアの人とがんがん意見調整しなければならない立場にいてとても奇麗ごとを語れない気分だった私から見るとANNEさんの支援の相手国を尊重する態度はなんだかすごかった。

 私見だが、長期滞在の国際協力関係者と言うのはわりと癖のある人物がおおい。しかしこのANNEさんはかなり珍しい、高潔で相手国への尊敬を(表面的にであれ)揺るがす事のない人物だった。短いパイロット調査を終え、彼女はナイロビに帰っていった。『よい協力活動をしてね』と、短く励ましてもらったのを憶えている。

 さて、その後各県でのパイロット調査も終わり、各県7名ほどの調査員の選抜のための面接試験が実施された。当時ケニアはIMFと世銀による構造調整政策の真最中で失業者が町にあふれ、とくに高学歴の女子は上級の学校を出てもよい就職口がなくてみんな困っていた。そんなわけでこのリプロダクティブヘルス統計調査の調査員の応募者はものすごい数になった。採用者のなかには前のパイロット調査のときのカレミさんや巨体のアグネス、県保健局の上層部の娘のムカザなどなかなか個性的な面々が選ばれ、そして彼女達は州都ニエリで開催される調査員のための研修会(一ヶ月)のために旅立っていった。

 一ヶ月後、彼女らは戻ってきてメルー県に於ける統計調査が始まった。メルーの人口の大半は公共交通の発達してない海のように広い農村に散在している。それで統計調査は全戸調査ではなくサンプル調査で行われる。100万人を越すメルーの人口のうち3000世帯ほどを調査し、傾向を見ようというわけだ。

 人口局のジープに7名の調査員と監督官を乗せ、毎日海のような農村に出かけ、ターゲット世帯の前で調査員を下ろし、一時間ほどしたら調査員を回収しまた別の世帯の前でおろす。留守の場合は畑まで探しに行ったり、教会の前で待ち伏せしたりするのである。農民の多くが字が読めないこともあり、調査票にある質問を調査員は読み上げ調査対象者はそれに答えていく形式だった。

 監督官は多くの場合上司のニャンバティが勤めたが、不在のときは県統計局のワンジャさんや不肖、ワタクシが勤めたりした。

 一日農村を回って7人の調査者が3〜5人の被調査者を捕まえて話を聞く。そんな日々が何ヶ月も続いた。私は当時進行中のJICAのプロジェクト(やっぱり農村を経巡るやつ)の傍らそちらの仕事もしたのでホントに現場に出たのは10日にもならなかったと思う。

 統計調査の項目はまったく多岐にわたっており、村のお母さんたちの年齢や結婚暦、子どもの数、その子どもが現在どこで暮らしているか、今誰が同居しているか、なんの仕事をしているかといったそれこそ国勢調査的な質問から、子どもの病気のときの対処法への知識、避妊の知識やAIDS予防知識の有無、性経験性行動の実態調査までが聞かれた。質問票の英語版を片手に現場について行ってメルー語で行われる調査をじっと聞いた。おもしろかった。

 もうかなりな年のおばさんが最近6ヶ月の性交渉の相手の数を問われて6人と答えて照れたり、その地域では珍しい中学出の若いお母さんが『握手でエイズは感染する』にYESで回答しちゃったりしていた。

 調査員たちの調査は一応トレーニングされているのでそんなに大変な大間違いとかはないのだが、私はカレミの調査が一番うまいと思った。いろんな聞きにくいことを「そっと」聞いて、被調査者をとても思いやってるように見えた。他の調査員はわりと偉そうな態度だった。

 
 何ヶ月も村部での調査が続くうちに、調査員のみんながいろいろと変化していった。アグネスは髪が金髪になった。地味な印象のムカザも髪につけ毛をしてなんか派手になった。どうしたの?と聞くと、調査員には日当が日本円で500円ほど出ていた。それでみんなでおしゃれを競っているのだと言う。日本から見れば、また出資者の世銀から見てもそれははした金だろうが、一日500円、一ヶ月で15000円の仕事と言うのは当時ケニアの地方部、特に女性の仕事にはめったになかった(内務省の管理職だったニャンバティの当時の月給がそれくらいだったと思う)。そんなわけで毎日地方を巡りあるく調査員たちは毎日きらきらときれいになっていった。そのうち巨体のアグネスが私の上司のニャンバティと恋仲になった。ニャンバティには奥さんも子どももいたし、アグネスの方も遊びらしいのでその後どうにかなったという話は聞かなかったがパイロット調査から付き合ってくれてたカレミも当時ニャンバティさんと付き合っていたのでなんだか調査に行くジープの中はすごく険悪になった。

 また若いきらきらした女性たちが何ヶ月も朝夕人口局に出入りしたので森林省の外部スタッフ(わずかな日当で森林省からのお知らを村部に持っていく有償ボランティア)の人が『独身の女性がこんなにたくさん給料をもらってるなんて非常識だ。誰か一人を私の嫁にしたい』と人口局に申し出て、人口局の秘書のドリーンが「キャリアをもって働いている女性に対して差別的なこといわないで!」と激しく怒り、2人はすさまじいケンカをした。私が帰国するまで森林省のおじさんは人口局ではあんまりやさしくしてもらえなかった。

 そんなこんななたくさんの狂想曲のもと、めでたく調査は終了し、7人の調査員はまた新しい職場を探さねばならなくなった。ニャンバティさんはアグネスを私が抱えていたJICAプロジェクトの助手にしようとして、私とケンカした(そんな予算はなかった)。でもアグネスが新しい会社の求人に応募するときはCVを私のワープロで打ってあげた。なんかきらきらしてたみんながどんどん地味になっていった。カレミがこっそり「わたしたち随分マルコの面倒を見てあげたわ、私たち日本にボランティアに行ってあげたいな、マルコがケニアにボランティアに来ているみたいに(注1)」と言われた。
(注1:青年海外協力隊は現地ではジャパニーズボランティアと呼ばれていた。)


 そうだね、カレミみたいに誰とでもそっと仲良くなれて、うまく話しを聞いてくれる人が国勢調査のボランティアに来てくれたら助かるね、と今思う。でも日本はみんな字が読めるから、聞き取り調査じゃなくて被調査者が自分で書いて封筒に封入して送るんだよ。

 ところでANNEさんはこういう現場の修羅場とは多分最後まで無縁だったのだろう。調査のデザインはしても実施現場に長期間、踏み込んではいないはずだ。私だって垣間見てみただけなのだが、なんだかホントに大変な日々だった。でも面白かった。そしてマルコはケニアの人に対しての認識はANNEさんほど高潔ではなくなってしまった。でも「大変だけど面白い。」と、いうあの日々への認識はそのままマルコのケニアに対する認識でもある。





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ダウンサイジング再び―ダブルブロッカー― - 2005年09月29日(木)


 ワタクシの体重は自慢じゃないがここまでの前半生ほとんど右肩上がりの成長曲線を描いてきた。唯一の例外が子どもを産んでからしばらくの授乳期の一年とちょっとの間。その母乳と言うかたちで脂肪が直接、対外に排出されるという天然脂肪吸引みたいな期間の激痩せをのぞくと常に膨張を繰り返してきたことになる(ある時期、膨張が止まる事はあるけど絶対減らないのだ)。

 ところがこの二ヶ月ほど、体重がじりじりと落ちているのである。

 おKさん出産後の激痩せ期間も終了し、再び体重は成長曲線をたどって、今年7月の某畑全国オフ時にピークの体重を記録した後(あのときは徹夜で飲んだしね)、毎日100グラムくらい減っている。時々行きつ戻りつしているが、現在あの全国オフの夜と比べて4〜5キロの体重減に成功している。これまで授乳期以外で体重減量に成功したことのなかった私としてはかなりの快挙である。

 勝因は一言で申し上げると『貧乏』である。

 ご存知マルコは今年で扶養家族の立場になって3年目。この2年半、洋服はユニクロ以外で購入する事はほとんどなかった。しかしこの夏こじゃれたエスニック洋品店でとってもイカした(死語)スカートを購入した。そのとき、なんかじんわりと感動したのだ。そりゃユニクロも良い。コストパフォーマンスがとくに。でもやっぱ時々はおしゃれしたい。よしこれから一シーズンに一着は(ユニクロ以外で)洋服を買えるようにお金を節約するぞ。と天に誓ったのだ。

 そんなわけで、緊縮経済政策を採用している。お金の節約と減量という二つの命題を同時に抱えるのはなかなか食欲の誘惑に打ち勝つには有効である。


 夏休みに一号さんの学童通いのためにお弁当を毎日作っていたのだが、そのとき以来のお弁当作りを現在も続けている。さらにあめでおさんとマルコで新しいお弁当箱を新調したのだが、マルコはダイエット必勝を期してかなり小ぶりのお弁当箱を購入した。

 お弁当を持って、一人用ポットにコーヒーを入れて通学定期の経路内で活動を終えて帰宅すると、おや、今日は一回もお財布を開けなかったな、なんて日もあり単純にうれしい。

 夕方お腹がすいて、無意味な喫茶店で一服(コーヒー+ケーキ)とか、帰りの大和路快速で天王寺名物のベアードパパのシュークリームを買い食いするとかそういう誘惑にかられたりするとき、ダイエット中!と理性が叫んでも、まあちょっとのカロリーだけだから良いじゃん、とまけそうになる。そんなとき「節約してあとでユニクロ以外の洋服購入!」ともう1つのDFが理性を助け、食欲と言う敵のアタッカーを粉砕するのである。

 また、大した距離じゃなくて、時間もあるのにバスに乗って移動しようかななんて思うとき、「節約!」と思っても「でもここで200円ケチって疲れて夜勉強できなくなっちゃうといけないから」とかまたもや理性がまけそうになっても「歩けばウォーキング効果でダイエットにもなるぞ!」と第二の理性がおきあがり、わたしをわりと近い目的地まで歩かせてくれるわけである。

 皆さん、貧乏はいいぞお!

、、って力説してもみんな、「はい、そうですか」って真似できないのが『貧乏』のつらいところである。でもほら、お金節約して、ダイヤモンド買うぞ、とか仮想貧乏設定でダイエットがんばってみてはいかが? 授乳ダイエットよりも設備投資がいらないと思うし。


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彼岸過ぎ - 2005年09月25日(日)

 運動会の次の日で疲れたのでとくに何もせず、すごしました(でも大貧民は20回ほどやった)。
 あめでおさんが焼いたパンがあまったので、法隆寺の池の鯉を手なずけに午後でかけました。




 彼岸過ぎると彼岸花は急に色あせるけど、その一気になえていく感じもまた秋っぽいな〜、と法隆寺境内の彼岸花群生地を激写。





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秋だから運動会 - 2005年09月24日(土)

 さて運動会でございました。
 地域に密着した運動会ということで宴会が始まっちゃってる場所もありましたが、学童の胸打つ演技の数々に大人も襟を正して、思わず観戦しちゃいました。

 マルコ的におおおと思ったのは5年生の団体競技『がんばって引きまっしょい』



 なんと、円柱状の木材が11本真中に並んでおり、それを東西の2陣営に分かれた30名ほどの学童がよ〜いドンの掛け声とともに木材にかけより、出来るだけ多くの木材を自陣営に引っ張り込むという競技でした。前半、機敏な子どもはたくさんの木材を自陣営に引っ張り込み、後半は力自慢な子どもが人海戦術で木材を引っ張り合って自陣営まで敵ごと引き釣りこむというなかなか野趣溢れる企画でした。

 これはやってみたい〜。
と、言う競技でしたな。

 あとは5、6年生が迫力あるソーラン節を踊ったのもかっこ良かったです。高学年になると観戦の楽しみは増す模様です。たのしみ。

 しかし海のない奈良県でなにゆえ「にしん漁」の様子を歌ったソーラン節なのか?と疑問におもっていたら隣で観戦していたあめでおさんが

「『地域オリジナル・聖徳太子節』とかやらんかのう」

 とおっしゃいます。Aちゃんママが聞きとがめて

「なんや?みんなで尺もって静かに行進するんか?」
と男前につっこむと

「ちがいます。聖徳太子の波乱に満ちた人生ドラマの再現踊りをしますのや。物部氏との戦いとか17条憲法とかいろいろやって最後は蘇我入鹿に焼き討ちされて全員ぐったりして終わるんですわ〜。」

、、、、難しそうな表現活動ですね>あめでおさん。


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扶養を離れる - 2005年09月23日(金)

 忘れも致しません。稲田堤からこちらに引っ越して、雇用保険の支給も終わった2003年3月7日私は夫の軍門に下り、子らとともに夫の扶養家族という身分に落ち着いたのでございます。(こういうときWEB日記があると細かい日付まで記録されていて便利です)

 さて何の変哲も無い夕方その電話はなりました。

 現在マルコが非常勤講師を務めている、拙宅より123キロほど離れた遠いところにある私大からでございます。専任の先生が退官するにあたり、彼の担当の複数の講義をやってくれる人を探している。マルコ先生と似た分野だと思うが、非常勤のままコマ数を増やすということで引き受けてはもらえないか。という打診電話でした。

 瞬間、喉元まで

「コマ数増やすなら、ポジション(正規)をくれ!」

 と安達祐美ちゃんの名台詞がこみ上げてまいりましたが、ここは大人になって退官する先生の講義を私が引き取ることにさせていただきました。

 ご存知、非常勤はOOにあらずなポジションですのでメール一本で切られることもありますし、今後が約束された訳ではありません。しかし、とりあえず、夫の扶養家族というポジションは終了しました。

 扶養家族というポジションはやってみていろいろと学ぶべきこともありました。3号被保険者の単純ではない社会への後ろめたさというのも非常に意義ある経験だったと思います。 

 まあとにかく4月から元気に国民年金と国民健康保険を払って、自分の保険証を持ち歩きたいと思います。


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旗を振るワタクシ - 2005年09月22日(木)

秋の交通安全週間。わが町では各小学校幼稚園保育園で旗振り当番が回ってくる。幼稚園と保育園は保護者会役員さんがなさるのだが、小学校は各町会ごとに全員参加でやるのである。黄色い旗に黄色いたすきをかけて街角にたって、通学する学童に声をかけ、進入禁止の通学路に侵入しようとする原チャリや車を旗で制してよそに行かせるというなかなか楽しい業務である。

車との戦いに命をかけているあめでおさんはこれがやりたくてたまらない。

でもマルコも独りでやるわけでなく相棒のAちゃんのままとの朝の楽しい会話のひとときでもあるのでそう簡単には譲ってあげられまへん。

進入禁止の細い通学路に結構入ろうとするバイクが多くて大変だった。わりとゆっくり入って来るおばちゃん(原チャリ)ライダーや女子高生(原チャリ)ライダーはなんとか阻止できたのだが、確信犯の兄ちゃん(原チャリ)ライダーが逆の方向指示器を出してフェイントをかけた上で突入してきたのには、まんまと突破されてしまった。

まあ突破するのも阻止するのも同じ町内の人間なので、ぜひみなの衆交通ルールは守っていただきたい。でも今朝指摘されて始めてその道が進入禁止だったということに気付いた姉ちゃんライダーもいた。そういう楽しい進入阻止活動をマルコとAちゃんままで「このへんではどこのマッサージ屋が気持ち良いか」とか楽しくだべりながら行ったわけである。

 見まわりに小学校の校長先生が来てくれたのだが、その眼前でライダーとの戦いが繰り広げたりして、校長先生も感心してくれたマルコとAちゃんままの熱い戦いの朝だった。




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老師 ザ アンカーマン - 2005年09月21日(水)



 さて脱臼おKさん、その日のうちに「ほねつぎ」に保育園の先生が連れて行ってくれて、治ってるということだった。しかし、夜、左手はだらんとしたままで、動かそうとしない。動かしてごらんと促すと「いたい」という。就寝中も何度か起きて「おてていたい」とつぶやいてそれで寝る。

 これは完治してないなあ、と言う判断のもと春の脱臼のとき同様、翌朝、近所の整形外科I先生のもとに再治療に行く。I先生の病院は開業九時でその随分前に行ったのだが、整理券番号はすでに「14」だった。いつもの様に老人でごった返す待合室。そんで1時間以上待って、やっと見てもらえた。

 I先生はまたもやかっくんと脱臼関節を入れてくれた。「あ〜プチっと言った、これはちゃんと入ってませんでしたな」とのご託宣の通り、おKさんは次の瞬間から左手を動かすことが出来るようになっていた。

 老人はさすがに名医を知っているなあ。この病院の込み具合には理由があるなあ。I先生自身かなり老人なんだけど、「どうか長生きしていつまでも町の名医として君臨してください。」と心でお願いしてしまうマルコなのであった。




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モーゼの海を行く - 2005年09月20日(火)

 帰り道、天王寺を電車が出たところで保育園から電話。
「Kちゃんがどうも脱臼してるようなので、今から病院にいきます」
と。

 20分後、保育園に到着すると園長先生はじめすべての先生に「もうしわけありませんでした〜」と頭を下げられる。まるで海を行くモーゼのごとく。

 それに対してマルコは「いえいえ、そんな春先に1回脱臼してたのでくせになってたんですね」と鷹揚に答える。

 そんで腕に湿布張ったおKをつれて保育園を後にします。1号さんの学童に行き1号さんと一緒に帰る帰り道、事の顛末を1号さんに話し「まあ春にお母ちゃんが脱臼させちゃったからね、ぬけやすくなってんだな」と自嘲気味にいうと

1号さんはじっと考えた後、冷静に

「おかあちゃん、春におKがやったのは右手だよ。いまおKは左手に湿布はってるよ」

はああ!そうだったのねええ!!今気づきました〜。

とにかく両手要注意人物ですおKさん。


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現実の解釈について -女王の教室を見て- - 2005年09月17日(土)

 さて、巷でうわさの「女王の教室」というTVドラマ。本日が最終回でございました。基本的に見てなくて、8月後半の東京帰省中に、ワタクシの実家で一回みました。なんか怖い先生の話で3歳児おKさんが「こわい〜こわいせんせ〜」とおびえました。そしてやはり東京の夫実家宅でその1回だけ視聴した1号さんが『最終回だけでもみたい』と懇願するので、この最終回を視聴いたしました。

 怖い先生は突然良い先生という評価になっていました。

 途中をすっ飛ばしてみるとその評価の逆転にはキツネにつままれた気分になります。賛否両論だった番組掲示板も、絶賛の嵐になっており、はて?というかんじ。

 なんかね、物事の光の当て方で見える景色は180度変わったりすることはまあ、ありうることかもしれないけど、まるで「ほんとのこと」がひとつの既定の事実としてあり、そこに居合わせた全員が共通の視点でその「ほんとのこと」に到達するというドラマの作り手の世界観に寒イボがたちました。

 現実とは、さまざまな意味の重なり合ったバームクーヘンのようなもので、そこにあるのは見る人による無数の解釈、といったのはクリフォード・ギアツだったかな?いろいろな人がいろいろな情報を元に現実を見ます。それぞれの立場でその現実を解釈します。広い視点で見る人も深い視点で見る人もさまざまに存在し、見る人の数だけ現実は存在するのです。

 とくに先生像なんて子どもの個性によって受け取られる情報もまちまちで、相性はあっても万人にいい先生や悪い先生っていないのではないかしら。(多数と相性が合う先生というのはいるかも)そしてそれこそが子供時代に学ぶべき「人間という存在の不確かさ」なのではないのかな?

 自分なりの視点を持つ、という作業はけっこうしんどいと思います。それを避けて誰が見ても確かな「真理」があたかもそこにあるようなペテンはまったくうそくさいと思えてなりません。


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泥縄ドランカー - 2005年09月16日(金)

さてこの日、やっと研究会の発表を乗り切りましたわ。そんなにフォーマルな研究会ではないのですが、やっぱ講座での自分の立ち位置を考えると、ここでつまずく訳にはいかん!ってかんじでテンション上がっちゃうのでした。

でも今回は前日が3コマ連続講義の日でかなり長時間、教壇に立ってなきゃいけない日だったってこともあり、まじで準備が出来なくて結局、発表日のあさ3時に起きて何とかレジメがかたちになりました。

 そんで発表が終わった訳ですが、出来的には、投入した時間や体力やその他もろもろの量に比すれば、まあそれなりにまとめることが出来たのですが、なんつうかね、いつもの発表後の、脳内で炸裂するようなドーパミンが感じられないっていうか、カタルシスが足りないんですわ。

 やっぱもっと時間かけてホントに自分を追い詰めてこそ、発表後、大きい開放感というごほうびをいただけるわけですな。まあそういうわけで次回はより大きなカタルシスを求めて、もっと長く深く事前に苦しみたいと思います、って研究動機がどっかで捻じ曲がったような気もするんですが、ま、いいか。人生そんなもんです。

 




















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マイノリティとしていきる覚悟 - 2005年09月13日(火)



ところで自民圧勝でございます。

そうか、そんなにみんな誰かの言いなりになりたいのか、というくらい不安な勢いのコイズミくんの独り勝ちでした。
掲示板の方には皆様が脱力の弁を述べてくれました。とくにどらちゃんとぱるたさんの息子さんたちに語った暗い時代の予感とよく考え、そして生き抜けという痛切なるメッセージにはちょっと泣けました。

いとなんからは掲示板での書きこみプラスDMでも現与党の中で進んでいる教育基本法改正の動きが憲法論議とあいまってかなりきな臭いことになってる、もし与党が大勝したら一気に世の中は危ない方向に走るだろうというタレコミもいただきました。もう『もし』では無くなってしまいましたが。

法が私たちを守ってくれない時代、私たちは少数者となって生きる覚悟をしないといけないのかもしれません。

アメリカのブッシュ再選のときは「もおお、アメリカ人!イラクは正しい戦争だったとでもいうのか!まったくイリタラシ―なやつら!」と怒りもしましたが、あちらは49%くらいはしっかりNOといったわけで、それに比して私たちは30%くらいしかNOと言えなかったのか、と切なくなります。

ええ、少数派として、立派に生きてやろうじゃありませんか。
せっかくマイノリティになれたのだからここでマイノリティの気持ちをしっかり学びたいとおもいます。

以前、在日韓国人の方と結婚された女性が「子どもが生まれて、国籍をどちらにしようかと考えたとき、韓国籍を選んだ。でも普通の日本の学校へやったので韓国語はしゃべれない。私が子どもに与えたのはみんなと異なる国籍だけ。でもマジョリティの中でただ何も考えずに生きるよりもマイノリティとして生きることによって世の中について深く考える機会を持って欲しい。親のエゴかもしれない。でも深く考える人になって欲しい。それは必ず彼の力になるから。」と語られたことを思い出します。

マジョリティは総じて少数者の痛みに鈍感です。

せっかくマイノリティになれたのだから、マジョリティでいるとき気付かないさまざまな痛みに気付き、耳を傾けられる人間になりたいとおもいます。

前に少数意見がくみ上げられてこその民主主義の成熟、なんてを書きましたが、政府があくまでアジアに背を向けてアメリカのかさにすがって生きるというならオールタナティブなアジアとの連帯の道を草の根レベルで探しましょう。

しかしマイノリティとしては30%って結構大集団じゃあありませんか。耳を澄まして、さまざまなマイノリティの皆さんと手を結び合って、これから来る冬の時代を乗り越えてまいりましょう。



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