ほころびるセーフティネットを縫いながら走れ - 2005年02月26日(土) 本日、マルコはフィールドワークに出馬する日でした。年度末ということもありちょっと特殊な会合にも出るので今日は夜遅くまで出歩くということでファミリーの承認を得ておりました。 あめでおさんも季節ものの行事(国立大の2次試験ですな)関係で朝から夕方までお出になるというので、さて2児はどうしようということで前からいろいろと思案を重ねていました。 1号さんは学童が土曜日も平常営業しているのでまあいってもらうと。しかし保育園は土曜日はなぜか半日営業なのでつかえません。とりあえず王寺のステーション保育園のタイムステイに予約を入れておきました。 さて前日の25日、1号さんが微熱を出されてちょっとどきどきしたんですが大事をとってみんなで学校だの保育園だのを休んでおうちに引きこもっていた甲斐あって26日朝には1号さんのお熱は下がりました。 駄菓子菓子、おKさん代わりに発熱です。こっちは微熱じゃなくて本熱です。 むーこういうのなんていうの?あちらを立てればこちらが立たず?いやもぐらたたき? さてどうするか、保育サポーターさんにお出まし願うしかないのですが、21世紀職業財団ご紹介のMさんはいろいろとあってMさん自身が就職してしまい保育サポーターを引退してしまっていました。そんでその後、おKさんが健康面で快調だったため後任の保育サポーターを探していなかったのですわ。 1年前に21世紀職業財団から近隣で保育サポーター登録をしている方々の名簿をもらってたのでそれをひっくり返して片っ端から電話をすることにします。 そんなことをいろいろしているうちにあめでおさんの出勤時間になってしまいました。今日はあめでおさんが早く帰るので保育サポーターさんを頼むにしろ、保育サポーターさんとの夕方の引継ぎをするのはあめでおさんだし、学童への1号さんのお迎えに行くのもあめでおさんなわけです。 マ「じゃあ、帰ったら誰がいるかわからないけど、よろしくね。」 あ「あんまりとっぴな人でないと嬉しいです。あ、でも4時ころ携帯に電話いたします。状況を教えてください。」 というちょっと抜けた会話をし、送り出します。 午前9時になるのと同時に保育サポーターさんにローラー電話作戦開始です。とにかく12時には家を出たいマルコとしてはあんまり余裕はないのですが、電話をするほうにしろ、受けるほうにしても「はじめまして、本日なんですが3時間後に来てください。」ってのはけっこうハードルの高いお願いですな。 でもでも子どもの熱はいつだって突然で3日前から発熱が予報できて予約入れられるようなものではないのですわ。まあここで前任のMさんのあとのセイフティーネットのほころびを治しておかなかったのはマルコの失策なわけですが。 とにかく片っ端から断られます。「ごめんなさい持病があって今保育サポーターお休みしているんです。」という形の断りが多かったですな。そういう方には「そうですかご快癒をお祈りしております。また何かの機会にご縁がありましたら。」とほとんど営業トーク状態に入るマルコ。そんな中ある保育サポーターさんが 「私は今日は今から出かけるのでだめですが、21世紀職業財団で保育サポーターの研修を受けたとき、同期の仲間でグループを組んでます。そのなかでいける人を必ず探してあげて折り返し電話します。しばらく待ってください。お名前とお電話番号を教えてください。」 それまで完全に営業声で断られても平気だい!ってかんじの冷静な声を出してたんですが思わず「お、お、おねがいします〜。」と情けなくも声が涙で震えました。 そして15分後お仲間のNさんから電話をいただき、11時45分に拙宅に来てもらえることになりました。 その時点で午前10時。ふうと一息つくマルコ。しかしはっとして部屋を見回し「あること」に気づきました。 さああ!掃除だ!家中大掃除だ〜!! 教訓一、トイレ掃除くらいは週に1回はしておこう−。 ... 秩序の向こう側 - 2005年02月24日(木) 22日の事件なのですが、当日の朝日新聞の夕刊にも出ていたようです。続報を読むとやっぱりおばあさんは殺されてしまって、おじさんが行方不明なようです。 人は何のきっかけで罪を犯して秩序の向こう側に行ってしまうのかな、と考えます。いや、おじさんが犯人と決まったわけではないけれど。 とても働き者で優しそうなおじさんだったし、事実とても誠実に生きていたのだと思います。でも何かのきっかけでひょいと人は向こう側に行ってしまうのでしょうか。 学校でも子供達になんと説明してよいか本当に困ったようで「駅前でおばあさんが殺されてしまいました。すごい悪い人ではなくちょっとだけ悪い人が殺してしまったようです。」と説明した模様。駅前の自転車屋さんのおじさんといえばみんな知ってるものねえ。 1号も学校で聞いてきたその話をしていたが、まさかいつも挨拶を交わしていた、頭をなでてくれたあのおじさんと『ちょっとだけ悪い人』が一致していない模様。 おじさんも死んでしまったおばあさんも残されたおじさんの奥さんやお姉ちゃんも皆が心安らかになれる日は来ますように。 おじさんには生きて戻ってきて罪があるなら償ってまた町に戻ってきて欲しい。わたしとあめでおさんは40年は斑鳩に住む予定なので(その後は学園前のケア付老人ホームにでも行くかも)自転車をまたお願い出来るようになるまで待っているから。冷たい雨が降っているのでとても心配しています。 ... 事件 - 2005年02月22日(火) 2002年の8月、そのころ稲田堤在住だった私たちはまだ生後4ヶ月だったおKさんと4歳児の1号さんをマルコとあめでおさんそれぞれの実家にあずけて、関西に家探しにやってきた。インターネットの不動産屋さんサイトで大体の目星はつけていたのでまっすぐJR法隆寺駅を目指し、駅前の自転車屋さんで観光用のレンタル自転車を借りて現在私たちがすんでいるマンションを目指した。自転車屋さんのおじさんに「土地の小児科のお医者さんの評判」や「救急病院はどこがお勧めか」や「保育園や小学校の評判」等を聞いて「秋に引っ越してくるのでよろしくお願いします。」と語るとおじさんは「こちらこそよろしう。」と言ってくれた。 9月の末、実際に引っ越してきた私たちがまず最初にしたのは自転車を購入して子ども用の椅子を取り付けることだった。そしてその自転車屋さんが経営している駐輪所と契約して毎朝、その駐輪所に自転車を預けて、私たちは北へ南へと通勤やら通学やらへと出かけていった。会うとおじさんは必ず「いってらっしゃい」「ようこそおかえり」と声をかけてくれた。地縁のない私たちが一番最初に挨拶するような関係になったのがこのおじさんだった。 おじさんの家には腰の曲がったおばあさんがいて、日曜などはとなりの喫茶店の貸し出すレンタル自転車に対抗して看板娘として駅を降り立った観光客に対してがんばって客引きをしていた。 おじさんはそうした観光客相手の仕事より純粋に自転車が好きらしく、毎日町の人が持ちこむ自転車がらみのトラブルを楽しそうに解決していた。私たちもパンクや鍵のトラブルを相談すると帰りに自転車を引き取るときはいつもちゃんと解決してくれていた。おじさんは働き者だな〜といつも思ってみていた。 今日の朝、自転車屋さんのおじさんのうちで事件があった。10時前に自転車を預けに駅前のおじさんのうちへ行くと「KEEP OUT 立ち入り禁止」と書かれた黄色いテープを警察の人がたくさんで張り巡らせていた。「その家に自転車を預けているのですが」というと「出来るだけ左の方、歩いてね」といわれてテープの中に入れてくれた。動転していて鍵をかけるのを忘れてしまった。頭上では何台ものヘリコプターが飛んでいた。駅に行くと町の人が「おばあちゃんが殺されたらしい」と話しているのが耳に入った。 近隣の町の図書館で勉強していると携帯電話に学校の下校班の連絡網がまわってきて「犯人が逃走中なので下校時間に子どもを迎えに校門まで来るように」といわれた。 そんなわけで早く帰宅しニュースを検索してみるとこんなニュースになっていた。地域のテレビでは報道もされたらしい。また校門に迎えに来ていたおかあさんによると「おじさんの車が大和川の河川敷でみつかって、川の中を捜索中らしい。」とも聞いた。 でもニュースを見る限り、わかっているのはおばあさんが死んでしまったこととおじさんがいなくなってしまったことだけだ。おばあさんが死んだ原因もわからない。おじさんがその死にどんなかかわりがあったかもわからない。 たくさんの憶測と不確かな情報の中、おじさんが無事に帰ってきてくれることをとても願っている。 いろんな人が「出来事」を語るが、私にとって大切なのは、「おじさんが新しく町に来たばかりの私たちに毎夕『ようこそおかえり』と声をかけ続けてくれていた」ということだ。 ... こんな週末 - 2005年02月20日(日) 土曜日は1号さんの友人のAちゃんと我が家のメンバー4名と計5名で近くのK公園に行った。ドッジボールをしたあと「たかおに」をした。高いところの面積が広い公園だったので鬼が全然鬼以外の人にアプローチできないので、途中からルールを変えて、鬼が投げたボールにあたったら鬼を交代することにした。それでもなかなか鬼が交代できなかったので鬼を2人にして2人の鬼がボールをパスしながら、真ん中の高いところにいる人にボールをぶつけるという遊びにしたら、ドッジボールと同じことになってしまった。 日曜の朝、あめでおさんがジョギングしながら法隆寺に行き朝もやの法隆寺を撮影していると続々と寺僧が夢殿に集っていた模様。今日は公式の行事は無いのだが 法隆寺のホームページによると明日が聖徳太子の命日なので寺内部で何かあるのかもしれない。 そんで朝食後、10時に今度はおKさんのクラスメートMちゃんが2時間ほど我が家に遊びに来る。Mちゃんのパパとママは仕事だったり自治会の役員会だったりするのでちょっこりお預かりしたのだ。Mちゃんはもうすぐ2歳の1歳児さんなので「親がいなくなったら泣くかな〜」と覚悟してたのだが全然ご機嫌で2時間余裕でクリアし、持ってきたお弁当とあめでおさんの焼いたパンで昼ご飯を食べて元気に帰っていった。 そんなわけでいろんな年代の女の子がたくさん遊びにきてくれた週末だった。1号さんはあんまりMちゃんが可愛かったので「赤ちゃんがほしくなってしまった」そうです。「おKさんじゃだめなのか?」ときくと「正直言っておKさんよりMちゃんがかわいい。」そうな。 まあ共通の親の愛やらおやつやらをゼロサムで奪い合う妹より、利害関係の無いマレビトのMちゃんが可愛いのはわかる気もする。 ... 勝ち犬が勝ち誇る - 2005年02月19日(土) 前日の日記で誤読があったのでちょっと補足。 しーちゃんが「女ネタ」をはじめたきっかけは不特定多数の社会からの圧力に対する批判からではなくてMLで「オニババネタ」を流してきた特定の子持ちの女医さんの勝ち犬のおごり的「感じ悪さ」への批判からでしたな。 えーっと人にある生き方を押し付けたり、他人の生き方を否定する人というのは多分他者を否定することでしか自分を肯定できない人なんだと思います。本当に自分の生き方を肯定できてたら、他者にいちゃもんつける必要は無いと思うんですわ。 まあ完全に自分を肯定できる人ってのはけっこうマレですが。 とにかく他人の生き方に難癖つけてる人がいたら、「あ〜貴方不幸なのね」ととりあえず哀れんであげればいいのでは。 私も自分の生き方に対する肯定感に満ち満ちているわけでないのでときどき他人の生き方にいちゃもんつけちゃうこともありますが、恥ずかしいので気をつけたいと思います。 あと既婚者が未婚者に無責任に「結婚のススメ」とか「子作りのススメ」をしちゃうのは単に勝ち犬が勝ち誇ってんじゃなくて、多数派工作的側面もあるかも。東京のTFR(特殊合計出生率)が0.99になったとかでついに子持ちは社会のマイノリティに落ちようとしているわけですわ。全国ではまだかろうじでマジョリティだけど。けっこう瀬戸際なわけですな。そういうあせりから、子どもをもった人向けの政策をスムーズに手に入れるためにも多数派工作が必要性を感いちゃうことがあるんですが。多数派工作、逆効果ですわね。 ... 対岸にかける橋 - 2005年02月18日(金) 「なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げ込んでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。」(P.282) 上記は今期、直木賞受賞の対岸の彼女のクライマックスの1文だ。 負け犬論争を待つまでも無く、女たちはその置かれた社会的状況で何重にも分断される。既婚者か未婚者か、有職者か無職者か、子どもをもっているのかいないのか。 そうした他者との分断を生み出す習性のルーツをこの本では中学校、高校時代の少女達の仲間はずれゲームに重ねていく。 「いくつも年齢を重ねたのに、机をくっつけて弁当を食べていた高校生のころと全くかわらない。架空の敵を作り、一時強く団結する。けれどもその団結が驚くほど脆いことも小夜子は知っている。」(P.271) 中年と呼ばれる年代にさしかかり、今、このときこそ本当の友情を結ぶ相手が必要なのに、友情は常に状況に囲い込まれた人間同士の間でしか結べないとしたらんなんだかむなしい。 ある意味この分断の閉塞感を突き破るひとつのツールとしてインターネットの個人サイトはあるのかもしれない。勿論ネット上でも働く母は某畑に集ったり、主婦サイトのカリスマが多くの信奉者を集めたりと、ネット上でも共感を基礎においた分断は発生する。それでも自分とは違う形の人生を歩んだ人の喜びや痛みにリアルに接することのできるブログや日記というツールはとても得難いものだと思う。 最近しーちゃんのページで独身女性に向けられる社会からの圧力の不快感が炸裂しており、時折社会への怒りは異なる人生の局面を迎えている女性にも及んだ。はらはらしてみていると、みんみんさんやぴよたさんがそっとそれぞれの立場からそれぞれの喜びと社会からの思わぬ反応を語っていくなかでしーちゃんが「(正論とは)誰にとっての正論かってこと」でひとつの定見なんてないんだ、という述懐をし、最終的に「みんな、それぞれの喜びと悲しみを抱えて生きている」という結びの言葉で議論をとても上手くまとめていた。その過程は「しーちゃん心の旅路」と題名をつけたいような劇的な場面だった。 働く子どもを持つ女にも喜びもあるが、やっぱり痛みはある。痛みを大声で書いちゃうと子どもを持ったことを後悔していると自覚したり、思われたりするのが怖くて、あんまり声を大にしていえないのだが。 子どもを持つとリストラのターゲットになるのは誰でも知ってる事実だ。だから子どもをもつことを理由に解雇されないような法律が出来たんだが理由を変えていくらでもそういう圧力は迫ってくる。リストラされないまでも閑職に回されるなんて当たり前に行われる。そしてそれがその当事者のためだとか平気で第3者が語る。 「電車で子連れでのって舌打ちをされる。」「面と向かって老年女性に何か言われる。」もっと書けばいろんな場面がある。 最前線で戦い続ける畏友さるとるさんがメールで「こと仕事に関する限り、両足に重い荷物くくりつけて、さあ飛んでごらん、っていわれてるような気がするときがあるなー」と語った時は「そうだろうな〜」と心から思った。子どもを生んだことで得た物があり、また失ったものがある。 インターネットのウェブ日記や掲示板は自分とは異なる人生を歩んでいる人の体験をバーチャルにするっことで異なる視座を手に入れるためにもあるのだろうと思う。その機能を果たすためにもどんな立場の人が読んでも「読めるもの」を書くのって大事だなと思った。 ... 戦いのち安息 - 2005年02月15日(火) 11:00より三宮で研究会。発表者はワタクシ、マルコでございました。 ちょっとこの日のために、ワタクシがんばりました。8ヶ月に及ぶフィールドワークの成果を研究費出してくれてる共同研究者の皆様にご披露する席でございました。 そんなわけでここ1週間ほどいろいろ緊張したり突然絶望し「もーいい。仏門に入る」とか意味不明なことも呟きましたがなんとかこの身にINPUTしてきたものを吐き出すことが出来ました。共同研究者のお歴々からも「このままGO!」のお墨付をいただきまあほっと胸をなでおろし帰路についたのが午後2時半でございました。 お、今日はもうこの後フリータイムだ!と、マルコはりきって街に繰り出すことにいたします。JR大阪で途中下車して資料や文献で膨れ上がった巨大かばんをコインロッカーに押し込み、ちっこいショルダーバックひとつの身軽な姿になったマルコが向かったのは中之島の国立国際美術館の中国国宝展でございます。我らがしーちゃんが今週関東から出張してくるかもしれないあのパイプで出来た建物です。 中国国宝展よございました。 平日昼間なのに結構コアなファンが1つ1つの展示に足をとめて見入ってらっしゃいましたが、マルコはまずざっと順路どおりに全体の展示室を歩いて、展示の構造をつかんだ後、入り口にもう一度戻り、心に留まったお気に入りの展示を集中的に見てあるきました。このときはガイド音声機を使いました。 展示は大きく分けると、考古学の間と仏教美術の間に分かれていたように思います。(いや展示室はもっとたくさんあるんだけど)。 そんで考古学空間では漆器というか、漆でコーティングされたランチボックスというか食器入れ<酒具合/皿>(合と皿はひとつの漢字なんですがパソコンで出てこなかったのです。なんて読むんだ?)これは豚の顔がついてとっても可愛いというか不思議です。貴族が野外でピクニックする際に食器を携帯するための運搬具だったとか。雲南の山奥で漆器が生まれ照葉樹林文化の重要な構成要素となって中国平野部へそして日本へとひろがっていったと照葉時樹林文化論者はいいますがこんなところで豚の顔つきイレモノになって貴族の野外ランチを支えていたとは感無量。 あとは西安の兵馬俑はおなじみだけど、兵士や馬だけでなく、いろんな俑(像・人形のこと?)が出土されたとかで船漕ぎ俑、雑技俑、文官俑などの展示がとても面白かったです。西安は21歳の時にバックパッカ-で通りかかって始皇帝の兵馬俑、見に参りました。そして、かの地はももこせんせいやさるとるさまや現在来日中のステイシー様などが青春を炸裂させた土地、幾重にも重なる運命のアヤをいろんなポーズの俑に見るマルコでした。 仏教美術の間では、リンクページでも紹介されている菩薩立像、菩薩半跏像(中宮寺の弥勒半跏像の源流?)も素晴らしかったけどマルコ的には鉄造弥勒如来寄像がなんだか心に残りました。 見終わったあと少し時間があったので常設展も行こうかなと思ったけどなんか余韻が混ざっちゃうともったいないので帰路につきました。 ... 謎の物体X - 2005年02月13日(日) え〜っとついに焼きました、パン。 本日はあめでおさんが休日出勤だったので2児とバレンタインチョコ作りなんて乙女なことをしておりました。そんで午後から1号さんの友、Aちゃんとその母上と妹@2歳児さまがお見えになり、それぞれが作ったチョコの味見会なんかをしていました。 そんで来客中に焼きあがって、みんなで食べれたらいいな〜と思ってPM3:00ころに焼きあがるようにセットしました。 今日はチョコレート作りの材料が余ってたので生クリームとちょっこりホワイトチョコレートの細かくしたものなんかも入れて甘い系のパンになる予定でした。 駄菓子菓子、マルコ最もやってはいけないことをしました。パン職人あめでおさんから「あんさんは目分量とかアドリブとかテキトーをこよなく愛する女とは思うが、パン作りはしっかり計量し。テキトーしてはなりませんよ」と忠告をいただいていたのですが、ドライイースト2.5gというのをはかりで測ったところ5gからしか反映されない秤だったので2.5gがいまいちアバウトになってしまいました。 イーストが多すぎてHBが破裂するのと、少なくって膨らまないのとどっちが悲惨かな〜あはは、とか思いながら適当な量のドライイーストを入れました。 出来上がったパンは膨らみませんでした。通常のパンの3分の1くらいの高さにしかなりませんでした。 Aちゃんのままは「よっしゃ、家にもって帰って食べるわ。反応がダイレクトでないほうがええやろ」ということでちょっこしお土産にもって帰ってもらいました。 そして家でも2児と食べてみたんですが、、、 おいしい!!!! なんつうか不思議なんですが砂糖の超抑えられたケーキって言ったらいいでしょうか。 Aちゃんままからも速攻電話が入りました。「おいしいやん、あれ蒸しパンやろ?」 、、、、いえ、焼きパンです。 まあ、そんなこんなのマルコHBデビューの冬の午後でした。 ... 瓦研究 - 2005年02月11日(金) 何の予定もない今日。午前中はパンを焼くあめでおさんを応援し、お昼にパンを食べ、午後は法隆寺に参りました。1号さんが法隆寺の瓦の真ん中の丸の部分の模様に興味をもたれたのでちょっといろいろ集めてみました。 まずこれが基本形。でも基本形も1400年の歴史のなかでいろいろ作られたらしく右の瓦と左の瓦と微妙に違います。こういうのって型にはめて作るので、いくつものに似たような型があるってことでしょうかね? これが、3箇所くらいに発見できた法隆寺瓦。 これが夢殿の近くの「法皇教会」瓦。聖徳太子のことを法皇(仏法の最高位の者)、推古天皇を天皇と呼び分けたらしいので、法皇=聖徳太子の教会、つまり法隆寺のことなんじゃないの?というのがあめでおさん説。そうかローマ法王が瓦を寄進したんじゃないのね。 最後に中門のパルナス文様。 この他に徳川家との関係で三つ葉葵のかわらもある模様。でも見つけられなかった。 ... 法螺貝の音をきいて後に厳島神社のお宝を見に行く - 2005年02月05日(土) 本日は法隆寺にて三蔵会。一昨年にも行ってます。その時の写真はこれ。 三蔵法師の遺徳を偲んで、三経院で法戦が闘われるのです。そんでその前に法戦の始まりを告げる法螺貝が吹かれるというので是非開始の午前10時前に現場に到着したかったんです。 しかし、子どもらは(特に1号さん)がなんだかゆっくり準備しているので、おKさんだけ小脇に抱えて「じゃあ、先に行ってっから」と家を出てチャリに飛び乗ります。 途中、法隆寺の10時の鐘の音がなり始めます。10回なるんですが、間でお祈りしながらならすのでけっこう時間があります。8回目の鐘の音あたりで法隆寺の南大門に到着して再びおKさんを小脇に抱えて三経院にダッシュ。10回目の鐘の音で見事目的の三経院に到達。 そしてその10回目の鐘が終わるのと同時に武者役2名と僧1名が法螺貝を吹き鳴らし始めます。 その法螺貝後に三経院の奥から寺僧が現われ、法戦が始まりました。一昨年は先導役の二人組がいたので僧の行列があったと思われるのですが、今年は経費削減したのかな?? あめでおさん&1号さん10分ほど遅れてこられました。法螺貝吹くところは見れなかったけど法戦は見れました。 その後、1号さんの定期検診を受けに私どもは奈良に移動し、病院に行った後、興福寺の宝物殿をみて、阿修羅や須菩提像に挨拶をし(ここも友の会員なのでタダ)、今日は国立博物館で厳島神社の宝物展をやっているのでそっちも行きました。 重文国宝総動員でこれじゃあ厳島神社に何も残ってないな、今は。と思ったら昨年の台風で被災した厳島神社再建のためのチャリティ的意味合いのある特別展でした。 厳島神社は平家縁の神社なので、平清盛の直筆写経とかあって現在大河ドラマで義経にはまっている1号さんに「これが六波羅様(大河ドラマ内で清盛さんがこう呼ばれている)の書いた字だって」と言うとけっこう喜んでいました。 こっちに来てから聖徳太子の直筆、鑑真の直筆、清盛の直筆といろいろ見ました。 個性的な丸文字の聖徳太子、物凄い勢いのある鑑真の筆、それに比べると六波羅様の字は書写の教科書の楷書のようなまとまり方でした。 博物館の庭にある日本庭園と茶室で遊んでから帰りました。 ... ドキュメント節分2005 - 2005年02月03日(木) さあ!今年もやってきました!この日が。太巻き丸かぶりのこの日が!日本最古の追難会が法隆寺で催されるこの日が! ちなみに2003年の様子と2004年の様子の記述はこちらです。全国節分フリークの皆様(いるのか?そんなん)はどうぞ! で、今年の節分なんですが、今日はホントは1号さんはダンスのお稽古の日なんですが「今日は節分なのでお休みします」というよくわからない連絡をいつも送り迎えをしてくださるAちゃんママにします。 家族全員午後6時半には家に集い、太巻きを丸かぶりいたします。いつも購入しているスーパー万代のお惣菜売り場の太巻きだったんですが、今年は大人用の太巻きが昨年より微妙に安かったです。そんで子ども2名には2本入りのネギトロ巻を購入いたしました。おKさん太巻き丸かぶりに初挑戦です。 黙って家族4人でひとつ方向(西南西です)を向いて太巻きを食べる私たち。思わずいろいろ考えます。「安くなった分だけネタが落ちたな」とかしょうもないこと考えていると、1号さんがなにやらジェスチャーで訴えています。見ると1号さんのネギトロ巻にわさびが! 無言のまま1号さんのわさびを御箸で除いていると、おKさんが 「からいよ〜」 と訴えます。無音の中おKさんの声は異様に大きく響きます。あ、おKさん声出しちゃいけません。しかしそれに続いて1号さんも。 「1号さんもご馳走様、辛くて食べられないもん。」 ああ許せ娘たち。母がサビ抜きかどうかを確認しなかったばっかりに、今年の福を君たちは逃してしまったんでは??ま、いいか。所詮イベントの消費者な私たち。次行こ次。 そして7時から始まる法隆寺の西円堂での追難会に参加すべく、みんなで着膨れます。去年のデジカメ画像をチェックしてみると7時18分から写真はあるんですが、鬼が登場しているのは7時46分なので、今年は午後7時半頃を目指して出発します。 ここんとこ関西は非常に寒かったです。北極の寒気団がシベリアを経由しないで、直にお出ましになったそうで最高気温2度。最低気温マイナス2度なんて感じで普通小さい子どもがいる家が夜中にうろうろ外出するような気候ではありませんでした。しかし、節分の神、毘沙門天はわれに味方しました。今日の午後から寒気団は去り、微妙にあったかな夜となったのです。 普段は午後5時以降門が閉まってしまうので非常に珍しい法隆寺ナイトショット。↓ そんで小高い丘の上にある西円堂に人々が続々と集っています。 はい、鬼登場。今年はこの青鬼さんが大変ハイテンションでした。この巨大松明を高さ3mほどの金網越しの観客めがけて投げつけるんですが、この鬼は3mの金網を越えて観客の真ん中に松明を落としました。わたくしどもちょうどそのあたりにいて、必死で子どもを抱いて火の粉と一緒に落下してくる巨大松明から逃げ惑いました。しかし観客のテンションは最高潮に!「こっちにも投げてくれ〜」とか口々に叫びます。 松明をこっちに投げてもらうと火の粉が炭になって落ちてるんですがそれを拾ってもって帰ると1年息災でいられるそうです。下はかなりマジに炭を拾う1号さんと、偶然出会った学校のお友達。 炭は結構おっきい固まりもあるんですが、私たちが拾えたのはこんなもんでした。 忘れてましたが、ここは国宝のお堂なんです。斑鳩消防団の皆様かなりマジで警戒中。 で、まあ赤鬼も黒鬼もハイテンションな青鬼も、規定数松明を投げ終わり、毘沙門天が鬼を追い払い、儀式は終了。西円堂から見たわが町の夜景。 で、まあ帰宅して、豆まいてココア飲んでホットケーキ食べて、風呂に入って寝たのでした。おしまい。 今年1年みんなが息災でいられますように。ナム。 ...
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