蝙蝠の悦楽 - 2003年05月30日(金) 18歳のとき、「何故大学に進学したか」と問われて 「嫌なこと(勉強)しなきゃいけない状況だと、遊ぶとき、100倍楽しいから」 という私の人生で出合ったベスト10に入る名言をお吐きになられたのは私の心の友・人生の師、どんパッチをチョコレートに仕込む女、ななへちゃんである。 今日私は久しぶりにオフである。 基本的に金曜日は大学にはいかず、自宅学習日にしているのだが、ゼミの発表、エルザの来襲や研究計画提出なんてのが重なってたので、このところ金曜日はたいてい近場の公立図書館や奈良のスタバでごそごそ勉強していた。 今週は水曜に懸案だったゼミ発表も終わったし、来週専門学校は文化祭でお休みで講義の準備の必要はないし、次の修羅場の研究会でのD論構想発表会(6月半ば)まで少し余裕が出来たので今日はゆっくり、家中を掃除して午前11時現在パソコンに向かってたりするわけである。 それなりにデューティーに拘束された日々を送ってると、平日、家で家事をゆっくりしたり、ネットで遊べるのはそれはそれはほのぼのとうれしい。 昨年9月から今年3月までの6ヶ月間の専業主婦時代、何が切ないって「毎日がオフだと週末が楽しくない」ことだった。プレッシャーや胃がきりきりするようなことがあって初めてオフは輝く、とマゾ体質の私は思う。 ちなみにフルタイムで超ハード、薄給NGO職員時代はオフなんていったらヨロコビで目がくらんでボーっと家事するなんて考えられず、娘1号を保育園休ませて向ヶ丘遊園あたりに繰り出していた。 まあ、そんなわけで学生さん+非常勤講師なんて専業主婦とフルタイムWMの中間の気楽な立場だとなんでもない1日をしみじみと楽しんだりできるのだ。まあ本音をいえば、繰り返し言うがマゾ体質の私としてはフルタイム側に今後進路をとっていきたいと思ってる。理由は冒頭のななへチャンの至言の通り、遊ぶとき(さらに)ギラギラ出来るからだ。 ... ONE先生の至言 - 2003年05月29日(木) 木曜日である。今日はお勤めの日である。 勤め先の専門学校講師室で同僚のW先生@あらためONE先生(仮名)とお話するのがこのごろの私の楽しみの1つである。ONE先生は中国からの留学生で20代後半のかわいい感じの女性である。 さて、先週から全講師に対して学校側から指導が入った。「生徒が飽きているのでより面白い講義を」というのがその趣旨なのだが、まあ面白い授業ばっかりやっててもしょうがない。ロールプレイゲームや参加型学習なんてのも取り入れてるが、そればっかりでは授業は構成できない。理論が頭に入ってなければ楽しい応用はむつかしい。 ONE先生もそれに対して 「勉強は厳しいものです。厳しさを避けて、楽なことばっかり、おいしいことばっかりに逃げていてはいけません。専門学校はサービス業かもしれないけど、こういう若者を甘やかすことが今の日本の痛みを先送りする社会システムを作ってるんじゃないですか?」 ONE先生に言われると本当にその通りだよ。臍で茶を沸かしながら真理を探究せいなどと以前書いたけど、臍で茶を沸かしてたら真理様に申し訳なかったよ。 ところでマネージャーするからそういう中国からの視点で日本社会論を一発著して一山当てない?とすかさず提案してしまった。目指せ、モウバンフ(莫 邦富)。 ... サルベージ「世界の男求愛紀行・アフリカ編(一部日本)」 - 2003年05月25日(日) そう、それは「アフリカ男性に特徴的な求愛行動ってあるか?」といういとこの職場の学生さんの無心な問いから全ては始まりました。皆様からお寄せいただいた世界の男の求愛紀行、まずはアフリカ編からアップさせていただきます。 投稿者:マルコ 投稿日: 3月17日(月) ♪いとこよ おおお、またでたな!しかも何だその質問は? いいぞ、その調子で突っ走ってくれたまえ。 アフリカ男の求愛か。 うーんんん。 まず彼らの辞書に「ほんのり」という言葉はない。 白黒はっきり突撃タイプ、ダメでもともとあたって砕けろ! というお方が多いように思います。 はじめまして、お名前は?未婚ですか既婚ですか? 未婚?年は?え??26歳??どうして結婚してないんですか? ぼくとつきあいませんか? という人が時々います。その比率は日本人よりかなり高いです。 思慮深い賢者のような人も突然暴走することがあります。 断っても「わははだめか。じゃあ次の人!」 って感じで大変からっとしています。 ストカーにはあまりなりません。時間の無駄だからでしょう。 投稿者:いとこ 投稿日: 3月17日(月)) 適切な答えをありがとう。でも、それって大体わたしも経験した範囲だな。 それを言ってしまうと女子大生たちは絶対「アフリカ男=節操がない」と思うから、別の例も与えておいたよ。それは。。。本人がちょっといくじがない時におばさんとかお姉さんに仲をとりもってもらったり雰囲気を作ってもらうというやつ。これは私がジンバブエで経験し、ウガンダ女性にそれを話したらウガンダにもあるといっていた。 ジンバブエ人のミュージシャンと日本人の女性の結婚式に招かれた時、新郎の逞しいど迫力のおばさんたち数名が私を囲んでソファーに座り、おもむろに聞く。 「あんたジンバブエにまた来たい?」 「はい、もちろん」 「じゃあ、ポルトガル語で「ジンバブエにまた来たい」と言って御覧。Repeat after me! $%&#’Richard!」(ポルトガル人の血が入っている人々でした) 「$%&#’Richard!」 「がはははは!もう一回!!$%&#’Richard!」 「$%&#’Richard!」 「だははははは」 ???とここで私は自分のわけのわからん文章に新郎の一番若い未婚のおじさんの名前が含まれていることに気付く。。。それまでその存在すら忘れていた地味なそのお方は壁のすみっこからこちらを見ている。 あ”ーーー!!!! 私は一体なにを言わされていていたのだー?! 「あのー。。わたしホテルにそろそろ帰りたいのですが」 「もっちろん、Richard! 送ってお行き がははは」 かくして私は彼と車の中で2人きり。。。泣きたい。。。 その結末は、残念ながら私が今だに独身であり、日本で生活しているということで、推測いただけると思います。でもこの例だと結構奥ゆかしく紳士的だと思いませんか? ちゃんちゃん! 投稿者:マルコ 投稿日: 3月18日(火) ♪いとこよ!!! どわははははは! ソレと全く同じ目に遭ったことがあるぞ!福島県裏磐梯ヒバラ地区での民俗調査中だ!!! さすがにみなさん日本語をしゃべっていたので >「$%&#’Richard!」 と、言うことはなかったけど裏磐梯ヒバラ地区はウガンダ・ジンバブエと地続きなのか??世界のビッグママは裏でつながってるのか?? ヒバラ地区を舞台に修論かいてて、ある村にとまりこみでのべ6ヶ月ほど調査したんだけどその村は農業を商業的に展開していて秋は直売所で観光客相手に農産物やきのこなんかをじか売りしてたのよ。 そんで安くで泊めてもらってた農家も国道沿いに直売所を出すんで私も2週間ほど直売所の売り子をやってたわけよ。とうもろこしとか焼きながら。 その直売所にきのこを卸してたきのこ屋のおばちゃん(これがビックママ)が息子@22歳と「お見合いしてみんか〜」とか言って他の直売所の農家のおばちゃんみんなに応援されて、直売所からムラまでの10キロほど軽トラで送ってもらっちゃったよ。 でも知ってるんだ。私の前にまりちゃん(他の家のお嫁さんの妹@20歳・仮名)にも 同じことしてたの。 軽トラの中で私も話題もないのであんまりお話も弾まないでいたら 「もっと自分をリードしてくれる女の人がいい」 という理由で断られました。全く私の意思表示がないまますべてが進みすべてが終わり以後長く私の話の種として活用させていただいてるよ。 ところで求婚と求愛の間には巨大な隔たりがあるのだよ。 アフリカ男性は外国人相手の求愛に関してはかなり節操なしでほとんど挨拶状態だけど求婚に関してはかなり慎重で紳士だよ。 ケニアの村のええとこの青年は外国人なんて結婚相手に考えないしね。 同じ部族の異なるクラン(氏族)の女の子を狙ってるね。 (都市部の外交官とか上流階級だと外国人との結婚に理解のある場合もある。 リチャードはこのケースかな?) 結婚可能な女性の範囲と捕食可能な動物の範囲を同心円状で示した人類学者がいるんだけどさ、 円の真ん中は家族とペット(近すぎて食べられない) その外側に家畜と親戚(普通は食べないけど儀式とかあるルールの上で食べることもある) その外側に近場の野生動物と近隣の村の女の子(食べるのに適正) さらに遠い野生動物と遠い地域の女性(出会う機会がない) つまり外国の女なんて出会う機会のない野生動物で村のルールが適用されない場合もある。 村では紳士な青年たちも外国女性には節操がなかったりするわけです。 それが親戚ルートの紹介だったり、仕事仲間だったりそれなりの社会関係が介在すると本来の紳士振りを取り戻すこともあるわけだ。 私はアフリカでは紳士に真正面から求婚されたことはなかったよ。残念。 ... 果物と花の庭 - 2003年05月24日(土) そしてマルコ母、エルザは関西に遊びにまいりました。 もともとエルザの夫=マルコの老父が神戸方面に仕事があり、その仕事の前後エルザとエルザの夫は有馬温泉やら神戸フルーツフラワーパークでぶいぶい遊んで、そこにマルコ一家もジョイントしないか、という計画だったのです。 そんで4月末にエルザさんは心不全を起こしてばったり倒れになり救急車で運ばれたり、一時的にペースメーカーさんのお世話になったりしたのですが、この「神戸で遊ぶ計画」は1mmも変更されずに実行されたのでした。こちらが写真です。 計画実行に関してはお医者さんとの激闘もあった模様ですが「月日(つきひ)は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行(ゆき)かふ年も又旅人也。」というエルザの人生観により(ナンだソレは!)、命よりも遊ぶほうが大事ということで旅は実行に移されました。ちなみにエルザの夫@健康オタクは「健康のためなら死んでもいい」という人生観を持っております。 私はそんな二人の老親を神戸にてどきどきとお迎えしたのですが、生まれ変わったら、この2人の娘であることにはそんなに異議はありませんが、この二人の主治医にだけはなりたくないと思いました。 エルザを知ってる人は知ってることですが、エルザさんは昔、某短大の教授で話術のツボをよくご存知で、面白おかしくいろんなことを語るのが得意なのですが彼女の語る自らの臨死体験はかなりつぼにはまっておかしかったです。 ぶっ倒れて、歯が折れて、口が切れてペースメーカーをつけている処置中に「処置が終わったら家に帰りますので。」とうわごとのように口走り、医療関係者を一気に脱力させたそうです。 またエルザさんの亡母がエルザさんが病室で寝ているときにお見舞いにきたそうです。実は似たような時間帯にうちの娘1号がお昼寝から覚めて「今夢でおばあちゃんが遊びに来た」と口走り、マルコは思わず「そ、それは目白のばあさん(エルザのこと)だった?三鷹のばあさん(あめでおの母のこと)だった?」と1号の肩をつかんで聞いてしまいました。1号はよく覚えておりませんでしたがなんだかばあさんが挨拶にきたそうです。 まあそんなわけで臨死体験直後の方とぶいぶい遊ぶという特異な経験をさせていただきました。私は悟りました。「トラは死んで屍を残し、人は死んで話のネタを残す。」せいぜい私も楽しいネタ作りに励む老年を目指したいものです。 ... わが町 - 2003年05月17日(土) あめでおさんが金曜から播州方面に出張し、この土曜日は2匹の幼子を一手に引き受けねばなりません。昼まで家の片付けをしたり、3人で「いないないばあ」をし、昼ごはんをルーフバルコニーで中華ちまきを食べて、午後2時3人で大阪に向けて出発! 大阪は1号がどうしても大阪城がみたいというので参上することになりました。 しかし、大阪城が見えてくると次第に1号は無口に。どうしたのか聞いてみると 「1号はシンデレラ城みたいなお城を想像していたの。こんな法隆寺みたいな建物嫌。」とのこと。ありゃまあ。 しかし気を取り直して天守閣に上ろうと、極楽橋を渡るとそこに、1号の理想の黄な粉砂がたんまりあるのを発見。 黄な粉砂。 わかる人にはわかるけど、わからない人にはわからない。 「光る泥団子」という伝説の泥団子を作るのに必要な白いさらさらの砂です。 光る泥団子がわからない人は検索してください。 前の保育園はみーんな光る泥団子つくりに熱中していました。現保育園ではあんまりポピュラーではないみたいですが1号は地道に泥団子つくりに励んでます。どうしてもこの砂を集めて保育園にもっていきたいというので、ペットボトルのお茶を買い、中身を持参した水筒に移し、そのペットボトル1杯に黄な粉砂を採取。1号は超満足で大阪城公園を後にしました。 その後当HPの掲示板でお馴染みの某Dさんと働くお母さんのサイトのみなさんと子連れオフ会に出席すべく千里中央へ。千里ニュータウンは東京の多摩ニュータウンと凄く感じの似た町でした。千里の中華料理の名店「桃の花」にて5時からオフ会でしたが、黄な粉砂採取に意外に時間がかかったので少し遅れて、さらに千里中央で道に迷ったので30分ほど遅刻してしまいました。 でもね。とても面白かった。こうやってちょっとづつちょっとづつ、関西に友達が増えていって、私は関西を自分の町にしていくんだなあ、と思いました。1号は相変わらず知らない人の前では寡黙でしたが、帰りの電車では「たのしかったねえ!また連れてきて!」とのことでした。 帰るとあめでおが播州出張から戻っており、日曜と月曜の食事の作り置きに精を出しておりました。「オフ会行っちゃったよ!」というと「こっちにきても、あんたのほうがわしより友達多いなあ、えらいなあ」とほめてくれました。 1号は興奮して以下に今日採取した黄な粉砂が自分の理想どおりかをあめでおに語っていました。 ... 木曜日の大阪 - 2003年05月15日(木) マルコは毎週木曜日は大阪で先生をします。この日は大和路快速で天王寺まで出て、地下鉄の御堂筋線に乗り換え、心斎橋駅でおります。 天王寺、御堂筋、心斎橋、関東人のマルコにはわくわくする地名続出です。 心斎橋から1駅分ほど歩くのですがここは「クリスタ長堀」という大変おしゃれな地下街の中を歩くのでとっても気分がいいです。大体10時ころにクリスタ長堀に到達するのですがマルコの担当授業開始の11時まで時間が有るので、ミロの絵が飾ってあるおしゃれなカフェでその日の授業の最終チェックをするのが日課。 (前日の水曜日は夜9時半まで神戸でゼミがあるので、自宅にたどり着くのは夜11時半になってしまい、講義の準備が十分出来ないときもあるので、このカフェでの1時間弱の最終チェックは時々涙目になるほど真剣なり) 専門学校で同僚の先生の友達もできました。会った瞬間この人と仲良くなれそう!と思ったのは某尾苧差可大学(仮名)の博士課程院生をしている某W先生。W先生は中国の人。はじめてあったときはあまりの流暢な日本語に絶対日本生まれの華人だと思ったら、日本に来てまだ5年目の留学生ということでどびっくり。その華麗な日本語能力の裏の必死の努力に脱帽ですわ。 マルコは大学3年の夏に中国語を取ってる友達3人とバックパッカー旅行で中国を回ったことがあります。船で神戸から上海に上陸し、なぜか各駅停車の汽車で西安に至り(上海ー西安、2泊3日かかりました)、さらに敦煌へいき、北京を回り南京で南京大虐殺館を見て上海に戻リ再び船で日本に帰りました。この間1ヶ月。1ヶ月間私たちは中国で買った服に着替え、中国人を装い、中国人料金で中国人用の宿に泊まり、旅をしたのです。季節はおりしも酷暑の8月、すごいハードでございました。 旅行同行者の1人が「もうあなたがたにはついていけません」と、途中帰国者してしまったのだから、そのハードさは押して知るべし。でも私はこのハードな中国旅行で中国の事が大好きになったのも事実。 さて、W先生に出身を聞くと「西安、知ってます?」とおっしゃる。 「知ってます!1988年に碑林(ペーリン)の近くの招待所に100円くらいで泊まりました!」とこたえると「わあ、私、大学が西安外語大学なんです!1988年は私まだ高校生で故郷の延安にいました。延安はわかります?」というので 私「毛沢東の長征で有名な町ですね。そうするとご両親は共産党幹部??」 W先生「いやー両親はもともと違う町にいたんですけど農村支援で学生が大量に地方に移り住んだときに延安に行ったんですよ、私たち兄弟3人はそこで生まれて育ちました」 私「げげ、それは、ひょっとして文化大革命の下放運動??」 W先生「なんで知ってんですかそんなこと!」 それからしばらくして 私「W先生、3人兄弟の末っ子って、1人っ子政策はどうしたんですか?」と聞くと W先生「気付くのが遅いですよ!3人兄弟というと、皆さんすぐ気付きますよ。1人っ子政策は私が生まれたあとから始まったので、私たち兄弟は3人いてもOKなんですよ。」とのことでした。 というふうにW先生はとっても生きた中国現代史な方だったのです。W先生との会話は今後も面白いことになるので引き続きレポートいたします。乞うご期待。 ... 食欲ではわからない君の苦しみ - 2003年05月10日(土) さて、おKさん。4月は保育園皆勤0歳児、改め1歳児。 保育園に縁のある人生を送ってきた皆様にはこの偉業の意味がお分かりだと思います。5年前の1号の保育園デビューの4月は1ヶ月の病欠20日くらいでしたか?つまりはじめての社会生活で病気の免疫をいただく保育園デビュー時の0歳児は病気で満足に通園できないケースが多く、育休から復帰したての母親は早くも職場で危機に陥るように世の中なっているのです。 5月9日金曜日。 大学院のほうも専門学校のほうもどうにか軌道に乗ったので、この日一日私は自主的にオフにしておKも保育園お休みにして家でまったりしようと計画しました。その動きをかぎつけたテレパスの1号が「私も休ませろ!」と泣き叫ぶので、しょうがないので子ども2人と金曜日は家でまったりする事にしました。 昼ごはんはパン買って我が家から至近の「上宮遺跡公園」へ参りました。1号が自転車に補助なしで乗れるようになったので、自転車の練習を兼ねて参りました。1号は補助なし自転車を保育園で習ったのですが、私自身が自転車の補助を取ったときの血と涙と汗の根性物語を思うと、1号さんスマートです。いきなり 「ねえ、1号ちゃんコマなし自転車乗れるようになっちゃたんだけど、カミヤ公園に自転車で行こうよ」 という自己申告でコトが判明したのですから。 公園でパンを食べました。おKさん、大変よく食べました。5歳上の姉@1号の分までがりがり侵食して食べました。 この日の夕方隣町の王寺まで電車でTSUTAYAにビデオを借りに行きました。このとき抱っこしているおKさんちょっと体温高いかな?と感じました。帰宅してご飯の準備の間ビスケットを与えるとものすごい勢いでビスケット食いにはまるので 「ブレイク、ブレイク」と食卓から彼女を引き離します。 このとき私は思いました。 「さっき体温が高いように感じたのは、眠かったのかな?」と カレーの夕食。食べました。すごいです。おKさん。さすが食欲に導かれたあなたです。そして念のため検温。 がーん。 40℃越えてます。 何故笑っている?何故カレーを皿までなめる?何故ハイパーはいはいで廊下を往復している? 速攻、最寄のお医者さんダンディーK医者に駆け込み抗生剤と解熱剤を処方していただきました。 翌朝、朝ごはんでバナナを口に詰め込みすぎて吐きました。 何故吐くまで食べる?39℃越えているのに。 ... 教養しりとり - 2003年05月06日(火) 連休が終わりました。皆様の連休はいかがでしたざんしょうか。 我が家の連休はこんな感じでした。 起床〜マルコ洗濯、あめでお布団の掃除機かけと布団干しと朝食つくり。 朝食 朝食後〜ご飯後1号ルーフバルコニーで遊ぶ、マルコ御握りを結ぶ、あめでお部屋の掃除機かけ 昼前〜1号とおKルーフバルコニーでビニールプールで水遊び。あめでおプール監視員。マルコ新聞とネットで遊ぶ。 ルーフバルコニーで茣蓙しいて御握りで昼食。 昼食後〜シャワーを浴びて昼寝 夕方〜法隆寺に散歩。参道でソフトクリームなぞ食す。 帰宅後〜あめでお夕食作り、マルコと1号とおKはテレビ視聴。 てなかんじ。3日間こんな感じでした。あんまり暇なんで1号とマルコはしりとりをします。普通のしりとりだとマルコが飽きるので教養しりとりというのをしました。これは1号はりんごとかパンダとか普通の言葉を言いますがマルコはちょっと普通は使わない言葉のみをいうという単純なものです。 例えば 1号「ごみ」 マ「ミトコンドリア」 1号「アギト」 マ「トラヤヌス」 1号「スイカ」 マ「カレワラ」 1号「ラッキョウ」 マ「ウガンダ」 1号「大工」 マ「クシャトリア」 1号「あり」 マ「リパーゼ」 1号「ゼリー」 マ「イグナチウスロヨラ」 1号「ラッパ」 マ「パトリオットミサイル」 1号「ルビー」 マ「イフゲニア」 1号「アンドーナッツ」 マ「ツエツエバエ」 ってな感じ。一応1号にはマルコの言った言葉の意味は説明しています。しかしあんまり理解してはいないようです。ツエツエバエがアフリカ眠り病を媒介する虫ということは理解した模様です。 ... エルザの帰還 - 2003年05月05日(月) 実家母がみどりの日の前日に入院したりしましたが、なんだか復活したようです。心不全・救急車で入院・ペースメーカーと不穏な単語が目白押しでしたが心不全の原因も究明できたようでひとまずめでたいことです。 しかし意識を取り戻すや、実家母の病院脱出作戦が始まりました。 さすがです。「野生のエルザ」と今後実家母を呼ぶことにします。 エルザはお医者さんの「念のためペースメーカーを入れといては?」という提案も「ペースメーカー入れてまで長生きしたくない」と断り、「5月24日には関西に遊びに行く」と主張しました。お医者さんも「大丈夫と太鼓判は押しませんが止めても無駄でしょうからもしものときに備えて旅行先の付近の医療機関への紹介状を出します」と早くも諦念の境地です。 そんな爆発物が遊びにくるとはマルコもどきどきです。でもエルザらしい猛進振りにちょっとマルコはほっとします。エルザが向こう側に行かずにこっちに戻ってきてくれて心からうれしいよ。父も兄もお疲れであったよ。遠くにいて何にも役に立たないマルコであるがお祈りだけしていたよ。 エルザよ。引退後は再びめぐってきた青春だという人が多いので、たっぷりしゃぶり尽くしてから向こう側に行くように。一緒にスペイン旅行でもしましょう。私は君とまだ一緒に遊びたいし、語り合いたいことがたくさんあるので勝手に遠くに行ってはいけないよ。帰って来てくれて心から感謝。 ... サルベージ「世界怪談紀行」 - 2003年05月01日(木) この週は研究計画提出締め切りで明日香で苺狩りした以外は毎日研究室でお勉強いていてあんまり楽しいことが無かったので、以前掲示板で募集した世界怪談紀行のサルベージをいたします。怖い話、いつでも掲示板に投稿してね。世界の男求愛紀行のほうも近日公開予定なのでおいしいネタのある人は迷わずディスクロージャーいたしましょう。 それでは怪談です。 怪談1 日本 つくば市 BY マルコ 私がその昔すんでいた竹馬(ちくば)大学(仮名)の学生宿舎にはそれはたくさんの怪談があった。多感なお年頃の若者が数千人も暮らしているのであっちこっちでいろいろ出ちゃうのよ。 一番私の心を深く打ったのは 「マラソン幽霊」 学生宿舎はベニヤ板の壁で仕切られた何十もの個室が並んでいるというたいへん安い構造なのですがその個室の壁を通り抜けて宿舎内を夜な夜なマラソンする幽霊が出たんですって。 よる宿舎の個室で勉強をしているものもマージャンをしているものも突然壁からあらわれてもう一方の壁へと消えていく幽霊にびっくり。悲鳴が1列に並んだ個室から順々に上がっていくんだわさ。 学生たちは除霊をこころみて一番最後の部屋でゴールテープを張って幽霊が現れるのを待った。 果たして幽霊は現れ遠くの部屋から順番に学生の悲鳴が聞こえてくる。そして一番最後の部屋を幽霊が駆け抜けようとしたときゴールテープが!その部屋に集まった学生は「ゴール!」と叫ぶ。 幽霊は両手を挙げてゴールポーズを決め、昇天したんだとさ。 こりゃあすでにフォークロアの世界だけどさ。 みなの衆もご存知の怪談を教えてちょ。 あ、PCは憑くから気をつけてね。 怪談2 ドイツ ベルリン BY chikoさん もう10年以上も前になるのですが、ベルリンの壁崩壊直後のベルリンを訪れたときのこと。あまりに旧東側と西側の町並みの色合いが違うので、両側が見えるようにパノラマで写真を撮りました。 そして日本に帰って現像してみたら、ベルリンの壁があったあたりにぼうっとした影が......。 壁を突破しようとして狙撃された人達が大勢いたあたりだったようです。 霊感など全くなく、そういうものに無縁な私の唯一の体験かな。 怪談3 日本 稲田堤 BYべらち はっはっはー。 インフルエンザにかかってしまえば、もう怖いものなし。 とか言ってじゃんじゃんばりばりお出かけすると B型とかにかかっちゃって泣きをみるのよねぇ。切ないわ。 (中略) あまり公にはしていないけれど「見える」し。「見える」と言うより「感じる」の方がぴったりくるかな。 「あ、ここに頭だけが浮いている」とか。 今までで一番怖かったのは、犬(もちろん実体はない)の集団でした。その近くを車で通った時に、金縛りとは違うんだけど足が動かなくなって、でもオートマだったから車は進むしでんもーどうしようかと思ったよ。でも、追いかけてはこなかった。 怪談4 ケニア メルー市 BYマルコ 皆様の怖さの琴線はなんざんしょ? 私は圧倒的に死人だね。死んだあとの霊とかそういうのがとてもこわい。 日本の村はたいてい墓地を村の境界とか村を外れた山ん中に設定して死後もしつこく供養して死霊を祖霊に換えてが村に祟らず村に恵みをもたらす存在に転換させてる。 でもね、ケニアのメル-では死人はあんまりこわくない。 庭先に埋めちゃうんだよー。 ケニア人はあんまり死体が怖くないみたいで県立病院の裏とか通りかかるとなんともいえない甘い匂いがする。死臭だよ。 病院で死んだ人を家族がとりに来るまで置いて置くので家族が葬式の準備金ができるまでにくさっちゃう。でも平気。怖いのは死人じゃないから。 葬式もタムタム(太鼓)ならして結構楽しくやってる。そんなケニア人の友達が 「きいてすごい怖い話があるの」 っていうから、「何々?」と身を乗り出すと 声をひそめて「インド人って死んだら死体燃やしちゃうの!こわーい」 、、、、すいません。私たちも燃やしてます。 マジな話、アフリカでは怖いのは生きている人です。 象が人を踏み殺したのも誰かの悪意が原因でその人は踏み殺される。自覚的な悪意の場合もあるし無意識のうちの嫉妬とかが悪意になって人を殺す。 その悪意の源を探り出し、災厄を防いでくれるのがお医者さんを兼ねる呪術師。呪術師は守ってもくれるけどうらまれると自覚的な悪意を持って呪うから、怖くもある。だから職業的な呪術師はたいてい村の怖い存在なのでその村の出身者は勤められない。 ウガンダから来た呪術師とか遠くから来た人ほど得体が知れなくてとても怖い。そういうとき某文化人類学者(日本人)がザンビアの呪術師の国家資格をとったの 「日本から来た呪術師」!こりゃあ、村では最凶の存在だったみたい。得体の知れないことおびただしい。 でもね、医者も今じゃヨーロッパ留学したり、キリスト教がばりばり村の隅々まで 普及されてあんまり伝統的な話は聞けなくなっちゃったね。 私の住んでた町では神は雨と同義で(ンガイって同じ単語使ってた)雨が降らないと作物が実らず、人が困って犯罪がおき易くなる。 そうすると嫉妬や恨みやいやな雰囲気になるのでとても怖がられていた。 だからバリバリのクリスチャンも雨を呼ぶと言われている木を凄く大切にしてたし雨を呼ぶために黒やぎを堵殺とかしてたよ。 ケニアの怖い話「空雨季(カラ雨季)」 、、、、こわくねー!!! 怪談5 タイ スリン県 クリークリン村 BY マルコ そこんとこいくと、タイはもう少し怖い。 件の苦労人のおばちゃんは夕暮れ田んぼで魚をとってたら、かえるのお化けに会ったんだってどんな風に飛んで、自分のほうに来たか実演して見せてくれたけど凄い面白かったよ。 あと、夜中にお寺で柳みたいな木に引っ掻かれて肩を切り裂かれたお坊さんの話とか全部実名入りで話してくれてリアリティいはあったかな。 あと農村実習に来たバンコクの大学生が村の悪霊を若いきれいな女の人と思って夜通しタイダンスを踊って、翌日村の呪い師に 「あんた死ぬで、お払いしときましょか」 と言われてお払いされたんだって。少しは琴線に触れますでしょうか? 怪談6 日本 京都と県名不明 BY らいむさん 2月3日、ヤヒロ向かいの京樽は太巻きを買う人でにぎわっていたよ。 節分は楽しんだのかな。豆はまきました?奈良や京都のような古い都には鬼や妖怪の生き残りが隠れているから、豆まいて本気でしっかり結界張っておくように。かつて京都に住んでる友人が近所の神社で写真をとったら、キツネの顔をした女(としか言いようがない)が後ろに映り込んでいたという。「京都にはほんとに妖怪がいるんだー」と感心していたよ。 いや、笑いごとじゃありません。覚悟して私の話を聞いて下さい。 20年くらい前の節分の日、TVで京都の寺の住職が「鬼はいますよ。ときどき夜中に雨戸を叩く」と不思議なことを話していてね。「そういう時は雨戸を全部開け放ってやるんです。鬼めは叩くものがなくなって、悔しそうな顔をして向かいの建物の屋根からこっちを睨んでましたよ」 昼間この番組を見た時はこの坊主大丈夫か?と笑ったんだけど、夜になったらちょっとばかし怖くなってきちゃって。「今日は節分だし、いつもより多めに豆まいておくか」と自室の入り口から盛大に豆まきをしたのだった。当時の私の部屋は実家の離れの2Fにあった。1Fは自転車置き場になっていて、部屋には鉄製の外階段から上がる仕組みになっていた。 今も忘れない。あれは冷たい風がヒューヒュー吹くとても寒い夜であった。真夜中の2時頃、明かりを消してベッドにもぐった私の耳に信じられない音が聞こえてきたのだ。 風が雨戸を揺らすガタガタいう音に混じって、誰かが外階段を登ってくるのだよ。ゆっくり、カツーン・・・カツーンと。それは人間の足音じゃなく、猫や犬とも違っていた。木の枝が風にあおられて落ちてくるのかと思ったけど、そんなたくさんの枝が落ちるとも思われない。 布団の中で私は震え上がった。あんなに念入りに豆まきしたのに、なんで来ちゃうのよ。私には坊さんみたいに雨戸を開け放つ勇気なんてないわよ。あああどうしよう!もうすぐ扉の前に立つ! ・・・でも足音はなかなか扉の前まで来ないんだ。何故か階段を行ったり来たりしてるんだよね。そして私はいきなり悟った。 「ま、マメ?」 そーだよ。じゃんじゃんばりばりまいた豆が風にあおられて外階段を落ちる音だったのだよ。かんべんしてよホントに。いやー、あの晩で私の寿命は3年縮みました。きゃーこわい! ...
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