ビー玉日記 | きのう もくじ あした |
2003年05月19日(月) 落とし物はなんですか? 朝。 ちょっと遅れ目に駅に到着。 やべえ。遅刻だ。 早足で会社を目指していたら、道に髪の毛の束が落ちていた。 と言っても、エクステンションってポイントで自分の髪の毛にひっかけて使うやつね。 急いでたんだなあ。 と(自分だって急いでるくせに)ちょっとおもしろく思いながら、また先を急ぐと、今度は、ヒールの裏に刺さっていたであろう黒い小さな物体(名称は不明)がひとつ転がっていた。 同じ人だったとしたら笑える。 私も、気をつけよ。 なるべく急がないですむようにゆとり通勤するように心がけなきゃ。 はー。 |
2003年05月18日(日) 渋谷 渋谷は正直私のホームグランドではない。 (最近あまり行けずにいるけど、私のホームグランドは新宿だ。 ただし、知っているところだけを徘徊するので、詳しいとは言えない。) 渋谷はどちらかというと苦手。 なぜって、人は多いし、変な客引きがうっとうしいし、音があふれかえっている。 人が多いのは新宿だって同じだけど、新宿の人ごみの方が幾分やさしくてスマートな感じ。 渋谷の場合、ぶつかったらやばそうな人が多い。 集まる人の年齢層が低めだから偏見に過ぎないのかな。 そう。集まる人たちが若い。 喩えて言うなら、新宿にいるのが社会人以上とすれば、渋谷は学生以下。 そのせいか、いつも異常なパワーが高まっていて怖いような気がする。 だけど、嫌いではない。 気になる場所。 刺激を受ける場所。 昨日、駅前で待ち合わせをして、ぼーっと通り過ぎる人を眺めてた。 そうするうちに、私の心の中にあるストーリーが、現実味を帯びてくる。 輪郭がハッキリ見えてくる。 夕方の渋谷のワンシーン。 彼女は確かに実在しないけど、この中にいる。絶対に。 今、ここで、想像したとおりのことが起こりそう。 そういう感覚。 |
2003年05月17日(土) LIVE REPORT 久保田利伸のライブに行ってまいりました。 東京でやる時は大抵、代々木体育館。 一度ビックサイトでもあったけど。 今回はなんと初アリーナ!万歳。 ほぼ一番後ろだったけど、段が高くなっていて、真ん中で見えないよりずっといい席でした。 チケットをとってくれたKちゃんに感謝。 Kちゃんとは長年彼のライブに通い続けている。 思い返せば高校時代、学校帰りに制服を着替えて参加したことも。 当時に比べれば最近は曲も聴かなくなった(だって新曲出さないし……。いや、出してるかもしれないけどチェックしてないだけだろう)。 今日に備えて復習しておこうと思いつつ結局一度もCDを聴くこともないまま、(踊りのお稽古を済ませてからだから)三味線と鼓の音を聴いてから参加した次第。 客層は私たちとほぼ同じ世代の人たち。 学生以下の人たちはあまり見かけなかった。 せいぜい親に連れられた子供くらい。 昔から聴いているファンだけだろうね。 だって露出少ないから私たちより若い人たちは知らないよ、きっと。 それでも会場をすっかり埋めてしまうのってスゴイ人だな、と思う。 前回のライブから既に2年以上経っているようだ。 オリンピックみたいだね。 本人も十分認識しているようで、今日は本当に何度も深々と頭を下げてお礼を言っていた。 彼の服とか髪型のセンスはいつも微妙。 奇をてらいすぎなのか、派手好きなのか、オリジナリティを出しすぎなのかわかんないけど。 ピンクのスーツとか黄色のジャケットとか。そりこみ入れたポニーテールとか。 今回はどうかと思ったら、意外とかっこよく黒いスーツに白いシャツで決めてきてた。さすがに40代だしね……。よしよし。 今回はNYのクラブとかライブハウスをイメージした演出だったようだ。 なかなかいけてる。 この路線で落ち着くかな? それとも次回はまたオリジナル攻めでくるか?? 曲は最近出た曲なのか、一部知らない曲もあった。 今度CDショップで見てみよう。 でも、やっぱり私は「MISSING」とか「Indigo Waltz」とか、昔の名曲が好き。 CDでは今更ヘビーローテーションにするほどではないくらい聴いた曲なんだけど、生の歌声だと鳥肌立つくらい感動する。マジで。 これだけスローバラードを聴かせる歌手はなかなかいないと言っていい。 泣く子も黙る、って感じ? これらの曲の間、みんなじっと動かずにそれぞれの世界に入ってた。 私もぼーっとなんか考えてた。かなり深いとこまでいっちゃってたね。(笑) それから、「永遠の翼」。 これは本当に好きな一曲。 がんばって日本語を覚えてくれたバックボーカルの人々に感謝です。 アンコールはいつもどおり、ダンスパーティ。 これが楽しみで来てる人も多いはず。 このあたりがやっぱりエンターティナーだなあといつも思う。 アンコール以外でも今日はかなり歌わされたし。 客をのせるのがうまい。 テレビみたいに一方通行ではなく、そこにいる人たちみんなで作り上げるのがライブ。 お客さんの反応がイマイチだとやっぱり楽しくない。 席が一番後ろで会場全体が見回せたから、曲に合わせてみんなが手を上げて回したり踊ったりするのがきれいで、ステージより人の波を眺めたりしてた。 とにかく、またなんか私の創造力にいい刺激を受けることができたので、そろそろなんか作りたいなあと思う。 それにしても久々に濃厚なブラックミュージックを聴いた。 いいね、やっぱ。たまには聴くべし。 (ブラックミュージックといっていいかどうかはマニアの人に言わせればどうなのかわかんないけど。私の認識の中ではそういう系統かな、と。) 前略 久保田利伸様。 今日はいいライブをどうもありがとうございました。 追伸。せめて1年に1度くらいはライブやりましょね。 Make us happy again soon!! |
2003年05月11日(日) 遊ぶに限る日 このところ気分が激オチって感じだった。 別に悩むような事件が起きたわけでもないんだけど、仕事はやる気なくて会社に惰性で通ってるようなもんだし、家帰って散らかっているものを片付ける気にもならなくてますます散らかるし、食事も適当だし、「2X歳の女としてこの生活どうよ?」って考えたらますますダウン、みたいな。 やっぱ疲れてるんだろうなーって思ってたら、友人も結構激オチだったようで、気分を変えに自由が丘に出かけた。 やっぱり遊ばないと! ぶらっと散策した後、昼間っからアルコールを注入。 私はフローズンマルガリータで、カキ氷の感覚だったんだけど、結構きついんだよね、これ。 友人が取引先の「見える人」に会った時に言われたそうだが、この飛び石連休で、今は誰もがやる気を失っているというか、気分的に落ち込んでいるらしい。 この状況は15日まで続くそうで、その後は元に戻るとか。 そうか。そんなら私だけじゃないし、落ち込むのもありね。 友人と別れた後、服とワイルドストロベリーの鉢植と小物いろいろを買って帰宅。 買い物依存症の私らしく、これでスッキリした! |
2003年05月05日(月) Go Home みんな明日から仕事や学校なので、今日それぞれ帰る予定になっていた。 朝からおじいちゃんが落ち着かない。 突然車のキーを握ってガソリンを入れに行く、とか言う。 どう見ても出かける格好ではなかったのでおいおいと思ったが、一人で行かせるわけにも行かないので、ついて出る。 叔母が「服喪中にふらふら出歩いたりするもんじゃなか」と怒るが、頑固な祖父はそんなのどこ吹く風で運転席に乗り込む。 今日まで大勢で騒いでいたのに急にみんながいなくなるのと、祖母の不在を実感してきてきついんだろうと想像する。 近所のガソリンスタンドに向かいながら、車中で話したのは、車の話。 車好きだもんねえ。 今回はじめて父に聞いたのだが、もともと祖父はバスの運転手だったそうだ。 今は働いてないけど、最後の職は車の販売をしていた。 帰ってきて車を降りてから、「休みは明日まで?」と訊かれ、返答に窮した。 今日帰ることは既に言ってあったかもしれないけど、あのバタバタで覚えてはいないんだろう。 とても言いにくかったけれど、「明日から仕事だから今日の午後帰るよ」と答えた。 「また来るよ。四十九日もあるしさ」 「そうね。また来んしゃい」 正直四十九日は来ると決めてたわけじゃなかったけど、これで来るのを決めた。 おばあちゃんの供養のためというよりは、おじいちゃんの方が心配。 やっぱね、夫婦でいたうちはいいけど、一人になるとどうなのかなと思う。 その後、父の運転でおみやげを買いに、近所のスーパーに連れて行ってもらう。 帰ってきたら、おじいちゃんたら焼酎飲んでた。 あー、やっぱりぃ。 ちょっと席をはずした時を狙ってお湯で薄めておく。 この一家と来たら、ホントに酒飲み。 今回聞いたところによると、祖父の父は酔っ払って川に落ちて死んだとか、なんかそういう死に方をしたらしい。結構若い時に。 この3日で何本ビール瓶と焼酎の瓶を家の裏に運んだことだろう。 何しろ墓石に酒を酌み交わす図が彫ってあるのには驚いたね。 帰り際、祖父に「飲み過ぎないようにね」と言ったら、 大丈夫、とうなずきつつ、「飲んで気を紛らわせんば」などと言う。 これで大丈夫と言うべきなのか……。 まだ父が数日残るので、一応見ておくんだろうケド。 さて。 福岡空港でいざ飛行機に乗ろうという時、搭乗口の脇に 「予約がいっぱいで座席が足りない可能性があります。 次の便にしてもよいという方はお申し出ください。 ご協力金:10000円」 とある。 それを見た私と母は、「行く? 行っちゃう?」 とすかさず1便遅らせて10000円ゲットの道を選択。 1便遅らせても東京福岡間は便が多いので1時間の待ち時間で済む。 1時間10000円は買いでしょう。ゲッツ!!(ダンディー風) 早めの便を予約しておいてよござんした。 羽田に着いてからちょっとお店をぶらっとして、ビッグバードの中のイタリアンレストランで夕食。 このところ精進料理ばっかりだったから、久々に下界の食べ物って感じでうまかった。 (まあ初日はちゃんぽんと皿うどんを食べたけど。 ちなみに今日のお昼は博多でうどんを食べた。スープが激ウマね) もうしばらくゴマ豆腐はいりません。見たくねー。 |
2003年05月04日(日) さよならの儀式 怒涛の一日でした。 なんかもう忙しくて、よくわかんない。 なんで忙しいかというと、「女手が足りない」の一言に尽きる。 もうホント男って役立たず。 酒飲んでるのはいいけど、こっちは忙しいんだから自分で酌しろっちゅうねん。 笑顔の下でかなりぶち切れの私でした。 何しろ主な戦力は、母と叔母と私。 叔母(父の弟のお嫁さん)2人は運悪く足を痛めていてあまり動きがとれない。 イトコたちも働いてくれるんだけど、やっぱりそこは学生。 自分で何をしたらいいかというとこまでは気付かないので指示待ちロスが多すぎ。 つくづく葬式って大変だなと思いました。 これでかなり葬式のプロかもね。(いいのか、それで?) それもこれも葬儀屋が使えないせいです。マジで腹立つ。 東京でやった時は何もしなくても全部やってくれたから楽だったんだよね。 ちょっと愚痴でした。 さて、ここからが本題です。 叔母が気を使って私をぎりぎりまで眠らせてくれた。 昨日までは年寄に合わせて(?)7時に叩き起こされて、夜はお風呂の順番を待って遅くて、睡眠不足だったからかなり助かった。 告別式は、滞りなく終了。 喪主代理の父のスピーチも、通夜の時と基本は同じだったけど、いいまとめ方でよかった。 グッジョブ。さすが営業マン。 これほど父のすることを認めたことは他にないかもしれない。 もう何度か肉親の葬式に立ち会っているけれど、一番涙が衝動的にあふれそうになるのは、出棺と骨拾いの時だ。 なんなんだろう。 出棺の時、昨日の冷たい感触が忘れられなくて、寒がりのおばあちゃんの首にスカーフを巻いた。 おしゃれだった祖母のために叔母がお気に入りの服と帽子とスカーフをお棺に納めていたのだ。 好きだったという蘭の花、母の日が近いのでカーネーション、ユリの花。 たくさんの花に埋もれていく祖母の体を目に焼き付けながら、私も年をとっても女としてきれいにしていようって思った。 おじいちゃんが、「よう頑張ったね」と祖母の顔を覗き込みながら話しかけていた。 そんな風に愛されて逝けるって、幸せだよなあ。 骨は、その人の生き様を表している気がする。 たくさん子供を生んだ曾祖母の時は、骨盤がしっかり残っていた。 今回祖母の骨はどうだったかというと、大腿骨が太くしっかり残っていたのが印象的だった。 私は足が強いと整体の先生に言われたことがある。 たぶん祖母譲りだな、と思った。 死者を弔う儀式というのは、以前は長ったらしくて同じことばかり繰り返して無駄なように思ってたけど、実は大事なステップなのだとわかった。 それは、生き残った人がその人の死を受け入れるために必要な期間と過程なのだ。 私は祖父母との心の距離がちょっと遠いままだったのでかなり客観的な視点で見ていたのだけど、ずっと近くにいて面倒を見ていた末っ子の叔母の様子を見ていると、それがすごくよくわかった。 少しずつ少しずつ死者との距離を離していって、段階を踏んで心に折り合いをつけていく。 そういうものなのだ。 葬儀が終わって家に帰り、おばあちゃんの祭壇の前で食事をする。 もうみんなすっぱり割り切っていて、体調の悪そうだったお坊さんの悪口なんか言って笑っていた。 (何しろこのお坊さん、マイク使って読経してたし、訓話の時に自分の体調の話なんかするんだもん。なんじゃそりゃ、でしょ?) 酒飲み一家の中でも一番酒豪の叔父さんが「ばあちゃんが俺に何か言いたそうなんだよな」と遺影を見上げては気にする。 「あれはね、みんなで平戸に行った時にるう子ちゃんが撮った写真なのよ」 と叔母。 「いい顔して。あの時気に入って焼き増ししてもらったのを伸ばしたと」 なんでも祖母は別の写真を自分で用意していたのだが、それがあまりにも若い時のものだったので変だったので、叔母が自分の気に入っていたこの写真を使ったらしい。 あの時のことは私も覚えてる。 祖父の喜寿だか米寿のお祝いで一族揃って平戸のホテルに泊まりに行った時、祖父母の部屋で二人並べて私がレンズを向けた。 メガネかけてるし、写真なんかよか、みたいなあんまり気乗りしないようなことを言ってた気がする。 確かにそう言われて見ると、今にも何かしゃべりそうな口をした写真だ。 「なんだ、孫に向かって言いよっとか」 叔父はほっとして言う。 「やましいことがあるからそんな風に思うんですよね?」 と私は笑った。 要するに飲みすぎってわかってるんでしょ。 初孫の特権でかわいがってもらったこともあるけど、小さいイトコたちが生まれてからは政権交代(?)で自然と距離が離れていた。 それでもやっぱりちょっと特別な気持ちってあったのかな、と今になってみると思う。 最後に言葉を交わしたのは正月の電話だったと思うけど、その前に私が踊りの写真を送った時、わざわざ私の家に電話をかけてきてくれた。 何を話したかは残念ながら記憶にないけど、うれしそうだったことだけ覚えてる。 ありがと、ばあちゃん。 最近ちょっと離れてたけど、結構私、好きだったよ。 最後に。 人間の行き着くところは、あの箱の中なんだ。 だから、生きてる間に思うことをしないとね。 一瞬一瞬を大事にしないとね。 箱の中に入った時、後悔で死んでも死にきれない人生なんか、やだ。 あんな風に穏やかな顔して死んでいきたい。 |
2003年05月03日(土) 私のルーツ 祖母の顔は、まるで眠っているようだった。 最後は大分痩せていたそうだが頬に綿をつめていたのと、看護婦さんが薄化粧をしてくれていたので、病気の人のようには見えなかった。 本当に、今にも寝息が聞こえてきそうなくらい安らかな顔で、安心した。 その顔を見ていて、ああ私も年をとったらこんなふうになるんだな、と悟った。 私は母に似てると言われることがあまりない。 「笑うと似てるね」とか言われることはあるけど、顔のつくりや体質は完全に父方の血らしい。 かと言って父には似てるわけじゃなく、叔母によく似てるらしい。 祖母の死に顔を見た時、自分が祖母似であることに気付いた。 体に対し顔が小さいこととか、頬骨の高さとか。 考えてみたら目も(当然今は閉じているけど)似ていたと思う。 冷え性で寒がりなところとか。 おそらく性格も。 正直、母と祖母の関係があまりよくなかったこともあり、性格を認めるのはどうかとも思うけど、祖母の考えることが最近わかってきてたのは、やっぱり似てるからだろう。 祖母の遺体が横たわる仏間の壁にある祖母の母と祖父の母の遺影を見て、なんとなく彼女たちが迎えに来ているのを感じた。たぶんね。 霊感というより想像だろうけど。 ろうそくと線香の火を絶やさない。 それは、最後の対話の時間なんだろうか。 ちょっと不思議な感覚だ。 弔問客のお茶だしや弔電と香典の管理をしているうちにあっという間に遺体を運ぶ時間となる。 最後に母と私と一番下のイトコとで、メイクをする。 口紅とチークの色を入れたら、ホントにきれいだった。 祖父が「いつもしてるとわからないくらいうまく化粧をしてた」とつぶやいたのが耳に残る。 叔母が「少女のようだ」と泣いた。 男性陣の手でお棺に祖母を横たえて、ドライアイスを置く前に新聞紙をかけるのを見て、つくづく、人間の体は魂が抜けた瞬間からモノになるんだ、と思った。 口紅を塗る時に触れた祖母の頬の冷たさとか、感触を、当分忘れられないだろうと思う。 もうこの家に来ても、おばあちゃんはいないんだ、って思ったらちょっと切なくなる。 生きている間にもう1度来ておくんだった、って、足が遠のいていたことを残念に思う。 お通夜は車で5分くらいのところにある葬儀場で行った。 私は受付を担当したのだが、田舎の人との見解の違いには結構辟易した。 葬儀場のおっさんはマジ切れするし。 受付の向きが弔問客に対し明らかに変だったので動かしたところ(入ってくる客と同じ向きに立つ形だった)、「ここの人たちはみんなこれで慣れてるから元に戻せ」と言うんで、だったら仕方ないか、と戻したところ、他にも私たちがやりやすいように机の上を整理していたのが気に入らなかったらしく、 「お香典はその場で開くところもあるようだけども、ここではやらないからね」 「とんでもない。そんなの見たことないですよ!」 「いや、私は見たんですよ。勉強でいろんなところの式を見たもんで。都会ではそういうことをやるところがあってね」 都会……? 東京では見たことねーよ。(お手伝いの父の会社の男性と顔を見合わせる) 「佐賀で私は見たんでね」 佐賀かよ! せいぜい福岡って言ってくんない? いやー、まいった。 要するに、香典の額に合わせてお返しをするところがあるらしいんだけど。 知ってると思うけど、香典返し、お茶しかないから。 しかも、近所の人たちは、受付だけ大量に手伝いをよこした。 他のことは何も手伝わないで、受付。 5人も何すんだよー。 「私たち、手伝い頼まれたんだけど、いらなかったみたいね?」 とか厭味を言うし。ちっ。 普通通夜って言うと、決まった数時間の間に弔問客が訪れて、それぞれ焼香して出て行く、っていうスタイルのものだと思っていたけど、ここではちゃんと1時間式を行った。 司会あり、お坊さんの読経とお話あり、喪主の挨拶あり。 それだけ見ると、知らない人は「これは葬式?」と思うだろう。 司会者は「最後のお別れです」とか言ってるし。 じゃあ明日は何なんだ、と心ひそかに突っ込みを入れてみた。 この地域でもこういうお通夜を知らない人もいて、時間を過ぎて来たら式典をやっていてびっくりした、って感じの人も。 ちょっとお焼香のつもりで来て1時間も拘束されたら、確かに迷惑だろうな、と思う。 通夜が終わってしばらく、私は一人で受付の番をしていた。 みんなは別室で食事やおしゃべり。 おばあちゃんにお茶をあげて、私もお茶とお菓子をいただいた。 最後のお茶の時間と言ってもいいかもしれない。 まるぼうろ、はおばあちゃんのお菓子。 おばあちゃんの家に行くと必ずあって、子供の頃から食べていた。 そんなことを思いつつ。 その夜はくたくたで、夜中2時くらいに家に戻って、お風呂に入って床についた。 |
2003年05月02日(金) 通夜前夜 朝1番の飛行機で田舎へ向かう。 飛行機は昨日の夜、インターネットで手配した。 ゴールデンウィークの最中なのに今日の便は平日だからか、座席指定までできた。 実感がないからか、第三者から見たら家族旅行かと思われるくらい、陽気な私たち。いいのか、これで。と思いつつ。 経済的な理由からいつも新幹線を使うので、飛行機で行くととても早くて、遠くに行った気がしなかった。 これは、とても楽。病みつきになるな。 昔より断然安いし。 今日がお通夜だと思っていたら、火葬場が連休で休みの日があるとかで、明日が通夜と判明。 弟は仕事の都合で明日の朝東京に帰らなくてはならないので、あ然。 どうも母親の死にあわてた父兄弟の伝達ミスのせいらしい。 着いたら祖母の顔を見るのも束の間、みんな会社に連絡をはじめる。 弔電(どうしても祝電と言ってしまう。なんでだろう。あまりにもブラックジョークなのでなるべく口にしないようにしてた)の関係で住所を言わなくてはならないらしい。 そういうもんか。私も遅ればせながら上司に連絡すると、メールで送って、と言われたので、頑張って携帯メールで住所を打った。 田舎らしいびっくりエピソードだが、葬儀場の住所が「○×市○○通り」とパンフレットに書いてあって、それをみんな知らせていたんだけど、実はそれだと電報が送れないことが判明。 というのは、その住所はあくまで名称(ニックネーム)であって、本当は「字(あざ)」のつく正しい住所じゃないとダメなんだそうだ。 頼むよ、葬儀屋。 久々に会うイトコたちは、大きくなっていた。 父は長男で、弟が2人、妹が1人の4人兄弟。 うまくできているもので、長男が女男、次男が男2人、3男が女2人、長女が男女、と見事に女4人、男4人の配分で子供を作った。 私はこの中で一番上で、祖父母にとっては初孫である。 小さい頃はまだ父の兄弟はみんな一人者で、物心ついてから結婚式に出席したわけで、イトコたちとはちょっと年齢に開きがある。 軽いショックだったのは一番下のイトコは16歳だった。わ、若い。 そんなわけで、大きくなっていた、といってもみんな学生だった。 社会人である3男のイトコ、女の子二人が仕事で来れなかったことが、この後の私の苦労につながるとは、この時はまだ考えもしなかった。 祖母の最後を看取った叔母が、死ぬ前に、今年はじめに私が祖母に送った病気治癒のお守りを握らせてた、と教えてくれた。 たぶんそれが最後に私と祖母をつないでいたんだろう。 そう、思った。 送った時はそれほど深く考えてたわけではないけど、できることはしておいてよかった、と思う。 |
2003年05月01日(木) When she went to heaven 今日の午後、祖母が亡くなった。 私は普通に仕事をしていたんだけど、午後はなんだかお腹がむかむかして気分が悪かった。 後で死亡時刻を聞いたら、6時過ぎで、最も気持ち悪く感じていた時間で、ただの偶然でなんてことはないことかもしれないけど、ちょっとはつながってたのかなと思うと不思議な感じがした。 まあもう81歳だし。 長いこと入院していたし、今年は年明け早々から、何があるかわからないから、と親には予告されていたし。 遠くにいて、特に下のいとこ達ができてからは私とはあまり接点がなかったので、感情的になるようなことはなかったんだけれど。 ただ、先週両親が祖母に会いに行った時、「私も行った方がいいかな」って一瞬でも思ったんだから、行っておけばよかったかな、とは思う。 今となってはあとの祭り。 人が死んだ後というのは、いつもそんな後悔があるものだ。 |
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