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 レ・コスミコミケ/イタロ・カルヴィーノ

『レ・コスミコミケ』 ハヤカワ文庫 epi/イタロ・カルヴィーノ (著), 米川 良夫 (翻訳)
新書: 295 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 早川書房 ; ASIN:4151200274 ; (2004/07/22)
内容(「BOOK」データベースより)
いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。

目次
月の距離
昼の誕生
宇宙にしるしを
ただ一点に
無色の時代
終わりのないゲーム
水に生きる叔父
いくら賭ける?
恐龍族
空間の形
光と年月
渦を巻く


復刊を待ち望んで、やっと復刊されたときは、すごく嬉しかった。本のオビにはこうある。


「宇宙の生成って?最初に地上に出てきた生物は?恐竜はなぜ滅亡したの?本の中でこれらの質問に答えてくれるのは、ビッグバンのとき居合わせた掃除のおばさん、硬骨魚類の大叔父さん、昔恐竜だったQfwfq氏などなど。なにしろ宇宙が始まった時から生きていた人たちですから、臨場感に満ち満ちた話ばかり。そりゃあもう、類のない本なんです」─作家・川上弘美


特に冒頭の「月の距離」など、昔、月と地球の距離はとても近かったので、月に行くには脚立を上っていったものだなんて設定が、たまらなく好き。実際に、月と地球の距離は、昔はもっと近かったわけで、年々離れていっているのは誰でも承知のことだから、まんざら嘘でもないわけだが、なにしろ語り手のQfwfq氏は宇宙ができた頃から生きていて、宇宙空間を漂っている時に知人に会うと、「この前会ったのは、二億年前だったかな」なんて感じだし、5千万年前には氏自身も恐竜だったりするわけで、とにかくスケールが大きい。

さらに、ベリウムだのニュートリノだのという科学的な用語が出てくるかと思えば、バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の話が出てきたりする。というわけで、「日本は宇宙ができる前から存在した」などと書いてある『竹内古文書』にも勝るとも劣らない、まさに、奇想天外、荒唐無稽、破天荒な大法螺話なのだ。

カルヴィーノは、他に 『柔かい月』 も好き。これもやはりQfwfq氏の話だが、『レ・コスミコミケ』より、いくらか難しい話になっている。しかし、これにもまた唐突に 『モンテ=クリスト伯』 なんかが出てくる。そんなところから、カルヴィーノが 『なぜ古典を読むのか』 という本を書いた理由が、ちょっとわかるような気もする。「図書館で眠っている世界文学の古典を甦らせる面白くてためになるエッセー」ということで、タイトルは知っていたが未読。古典を読もう!という主旨のブッククラブをやっているのだから、これはマジに読んでみなくてはならないだろう。

とにかく、これはすごい本だということを、再読しながら改めて実感している。ファンタジーとかSFとかといった言葉では言い表せない、やはり「幻想文学」と呼ぶべき本だろう。もともと私はSFファンだったが、そもそもファンタジーにはまったのは、この『レ・コスミコミケ』のせいだ。こんな法螺話があっていいのか!と思い、この手の本を読むようになったわけだから。

こうした法螺話は、目の付け所で大きく面白さが変わってくる。ロバート・オレン・バトラーの 『奇妙な新聞記事』 も目の付け所は面白いし、カルヴィーノ風の法螺話だと思うが、やはり大法螺吹きのカルヴィーノには、全然太刀打ちできないといった感じ。

カルヴィーノのオリジナリティに匹敵するのは、私が知っている限りでは、宮沢賢治くらいしかいない。もちろん内容もスタイルも全然違うけれども、どちらもその独自性においては、天才だと思う。目の付け所がいいという点では、T.C.ボイルも、もっと鉱物的な嗜好を取り入れ、かなりぶっ飛んだ状態になれば、もしかしたらカルヴィーノ的な感覚を開花させるかもしれないなと思ったりもして、非常に楽しみにしている。


●「水に生きる叔父」

『レ・コスミコミケ』の中で、「月の距離」同様に大好きな話。
カルヴィーノの目の付け所が好きなのだが、これもそのひとつで、地球上の生命が、魚類から両生類、そして陸生の動物へと変わっていく、まさにその瞬間を描いた話。

語り手のQfwfqじいさんは、陸に棲むようになって間もないが、一族のほとんどは、すでに陸に上がっていた。だが彼の叔父(N';バ・N'ガ)は、かたくなに「サカナ」であることをやめようとしない。「サカナ」と言っても、シーラカンスのような古代の魚のことである。親類一同が叔父を説得するが、一向に耳を傾ける様子もなく、依然として悠々と水の中を泳ぎ回っている。

ある日、Qfwfqが婚約者(Lll─すでにかなり以前から陸に棲む様になった一族の娘だが、たぶんトカゲのようなもの)と一緒にいる時に、その頑固な叔父に出会い、彼女を紹介するのだが、彼女は叔父の話のとりこになり、いつの間にか叔父に泳ぎを教わるようにまでなっていた。

それと同時に彼女の様子が変になり、あせり始めたQfwfqだが、そんな彼の思い(水の中に棲むものは時代遅れで恥ずかしい)とは裏腹に、なんと彼女は魚類として生きることを決心し、叔父と結婚してしまうのである。

一見、荒唐無稽な話だが、古いものすべてが時代遅れの恥ずかしいものというわけではないということか。にしても、魚になるか、トカゲになるかという境目の状況で、古代の生物たちは、このような葛藤を繰り広げたのだろうかと思うと、非常におかしい。

また、『レ・コスミコミケ』の登場人物の名前は、皆ほとんど普通には読めない名前だ。語り手のQfwfqにしても、その友だちのKgwgk、Pfwfpや、Xlthlx、Vhd Vhd、Bブ'bお祖母ちゃん、ミスター・Hンw、Ph(i)Nko夫人、Pベルt・Pベルd氏、Z'zuさん、デ・XuアエアuX氏、などなど、よくもまあ、こんな名前を考え出したものだと感心してしまうが、実際に読むほうは、結構大変である。しかし、この名前がまた、時間も空間も越えたQfwfqのホラ話に、一種奇妙な味をもたせているのかもしれない。


●「恐龍族」

『レ・コスミコミケ』の語り手Qfwfqじいさんは、5千万年前には恐龍だった。だが、栄華を誇った恐竜も、その絶滅の原因は不明だが、Qfwfqただ一人となってしまった。

かつては世にも恐ろしい生き物として恐れられていた恐龍だが、新生物に会っても、一向に驚く様子がない。「恐龍」という言葉は恐れられているものの、彼らは本物の恐龍を知らないため、Qfwfqが恐龍であるとは思わないのだった。

そうしてQfwfqは、新生物の村で力仕事をして暮らすようになり、そこで皆と打ち解けて仲間になり、恋をし、次第に新生物の暮らしに馴染んでいくのだが、自分は恐龍なんだという思いは、けして忘れることがない。

新生物は、恐龍でもないものを恐龍だとして恐れてみたり、化石となった恐龍の骨を見て、驚いたりしているのだが、誰一人として、Qfwfqが恐龍であるとは思わないのだった。

絶滅したと思われる種が、今ここに現れたら、こんな風な対応になるのかもしれない。かつてはそういった種がたくさんいたのに、そんなことはあったのだか、なかったのだかと、新生物たちは、まるで自分たちこそがもともと地球上の生物の王であるかのようにふるまう。

この話は恐龍の姿を借りてはいるが、このまま今の人類にあてはまる話だろうと思う。消えつつある最後の一頭である恐龍の、郷愁に満ちた哀感漂う話である。


●「光と年月」

ある日、Qfwfqが天体望遠鏡で観測をしていると、「見タゾ!」というプラカードが見えた。計算をしてみると、その星雲の光は、1億年かかってQfwfqのもとにとどいたのであり、見ラレタ事件というのは、つまりさらに1億年前に起こった事件ということになる。このやりとりに要した時間は2億年。

だが、宇宙は膨張をつづけているのだから、Qfwfqが返事を示したところで、今度もまた2億年というわけにはいかない。数千年のずれが生じるというわけだ。やりとりが長引けば長引くほど、さらに時間はかかる。

しかし、事件(何の事件かは不明だが、Qfwfqとしては見られたくないものであった)を目撃したのは、1億年向こうの星雲だけではなく・・・

というわけで、Qfwfqはさんざん考えた末に、第一の目撃者には「ソレデ?」という答えを返したのだが、そのほかの目撃者にも、それぞれ実にどうでもいいような答えを返している。宇宙規模の膨大な時間と空間を使って、とってもくだらないやり取りをしているという話なのだが、このやりとりに要する時間を考えただけで、気が遠くなる。それでも、こんなやり取りを、広大な宇宙空間でやっているかと思うと、もう笑うしかない。


●「渦を巻く」

一個の軟体動物であったQfwfqじいさんは、ただ意志と思念の分泌のみによって、美しい螺旋形の貝殻のなかに閉じこもってしまうという話。

訳者あとがきによれば、法螺話というのは、だいたい語り手が奇想天外な行動をするものであるから、この「渦を巻く」のような静的な話は、その対極例と言えるろのこと。だが、螺旋状の貝が、浜辺で森羅万象の一体性を瞑想するといった内容は、動的な法螺話に劣らないものである。

<訳者あとがきから引用>
確かに、Qfwfqじいさんとカルヴィーノ氏とは、ひどくよくウマが合ったのだと思う。じいさんの羽目のはずしようを見ていると、まさにカルヴィーノ好みとしか言いようがない。じいさんが得意になって大風呂敷をひろげるのを見ていると、うまい具合にカルヴィーノに乗せられているな、と思われてくる。カルヴィーノも人がよいのか悪いのか、実に根気よく親切に、この気の良い老人と付き合っている。たぶん百科事典や、天文学・古生物学などの書物を漁って探し出してくるのだろうが、もっともらしい顔をして、興味をそそらせる学説やら仮説、あるいは数字をちょいと引用してみせる。すると、じいさんはてもなく罠にひっかかり、得々として、「そのとき、わしはそこにおったのだ!」と語りだす。


というわけで、宇宙を飛び回った時も、水の中にいた時も、恐龍であった時も、そして貝になってただじっと分泌しているだけの時も、いつだってQfwfqじいさんは「そこにおったのだ!」というのである。この大法螺吹きが、私は大好きだ。

2005年02月25日(金)
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 Last Chance Saloon/Marian Keyes

『Last Chance Saloon』/Marian Keyes (著)
ペーパーバック: 528 p ; 出版社: Perennial ; ISBN: 0060086246 ; (2003/05/27)
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マリアン・キースお得意の、30代シングル男女が本音でぶつかりあう恋愛小説。登場するのは、タラ、キャサリン、フィンタンの幼なじみ3人組だ。彼女たちは、屈辱だらけで思いどおりにいかない人生を、それでもなんとか生きている。それは、30代女性ならだれもが経験する思いといえよう。ただ彼女たちの場合、フツーの30代女性よりも、耐えるべきものがやや多めかもしれないが。

タラの恋人は、完全に「ヒモ」状態のトーマス。彼はダイエット中のタラをあざ笑い、どうみても若くてスリムな女の子と比べては、冷酷きわまりないコメントをするサイテー男だ。一方、キャサリンはバリバリのキャリア・ウーマンだが、プライベートは散々。これまでに、恋人にふられること計6回。しかも、そのどれもが、ゴミのように捨てられるという悲惨な結末なのだ。そのたびにキャサリンは恋愛戦線から後退、とうとうリモコン操作でしか恋愛できないようなところまで引きこもってしまう。そんななか唯一、ファッション業界人のフィンタンだけは、イタリア人の恋人サンドロとラブラブ。しかし、順調そうに見えたこのカップルに、突如として「健康危機」が襲いかかる…。

ローカン、マンディーら奇妙な友人も含め、タラ、キャサリン、フィンタンたち全員が、とにかく必死で生活し、恋愛し、なにかを学んでいく。結局、それが彼女たちの生きる道なのだ。キースは、今という時代をシングルで生きる人びとの実像に、痛々しいまでにせまっている。トータルで見れば、彼女たちの人生も捨てたものではない。屈辱的なことよりも、真の友情へのめざめなど、すてきなことの方が多いのだ。『Last Chance Saloon』は、そんな彼女たちのおかしくて、あつかましくて、ちょっとホロリとさせる物語。ゆったりした気分の休日にはもってこいの作品だ。


少し前に読んだ『Lucy Sullivan Is Getting Married』よりは、こちらのほうが面白かった。相も変らぬ「BJ系」の話ではあるのだが、登場人物のクアラが、こちらのほうが際立っていたせいか?

キャリアウーマンのキャサリン、恋愛命のタラ、ゲイのフィンタンの3人の友人たちが繰り広げる恋愛模様なのだが、主人公はキャサリンで、10代の頃に手痛い失恋を経験し、流産までしたキャサリンは、男なんて・・・という醒めた感覚から抜け切れない。それは、とりもなおさず、二度と恋愛で傷つきたくないという恐怖心の裏返しでもあるのだが、ちょっと堅物すぎるかなといった感じ。

むしろ、脇役の男がいなければ生きて行けないといった感じのタラのほうが、女としてはかわいげがある気もする。男に依存するということでなく、自分の感情に素直に生きていくタイプだからだ。しかしタラの彼は、どうしようもない男で、タラにはもっといい男がみつかるはずだと皆が思っている。

そして、ゲイのフィンタン。彼が恋愛においては一番幸せな状態なのかもしれないが、不幸なことに、彼は癌になってしまう。だが、友人たちの励ましのおかげで、とりあえずは元気を取り戻す。痛々しいまでのフィンタンの姿の変わりように、友人たちはひどく心配し、毎日彼の病室を訪れるのだが、そんな先の短いフィンタンに、彼女たちはいろいろなことを教えられたりもする。

さて、個人的な感想をいえば、主人公キャサリンには可愛げがない。好きなのに突っぱねてしまうという、付き合うには厄介なタイプ。しかも、昔の痛手を今も引きずっており、たまたま合ってしまった昔の彼に、今でも未練がある様子。彼に会った時のために、冷酷な女を演じるのを練習していたのに、突っぱねることができない。

最後にはタラの助けを借りて、なんとかまともな精神状態に戻るわけだが、女って、昔の男をここまで思っていたりしないものじゃないかなと思う。特に今現在、素敵な、ほぼ完璧な男がそばにいる場合、昔の男は単なる過去でしかない。それがいつまでも尾を引いているという状態は、ちょっと理解できない。

タラは、かわいい。今のダメ彼と付き合いだしたときには、痩せていてかわいらしかったのに、いつの間にか太ってしまい、それを彼に責められて、必死でダイエットしようとするのだが、なかなかうまくいかない。このあたりは経験があるだけに、わかるわ、その状況!といった共感を感じる。それに、太っていると言って責めるダメ彼は、何様だと思っているんだろう。自分は世界一カッコイイとでも?冗談じゃないわ!って感じ。こちらのほうが、タラと一緒になって、一喜一憂できるタイプだ。

でも、この本の主人公はナイスバディで美人のタラ。たいして努力しなくても、男の目を引くタイプなのだが、それなのに、ぐちぐちしてるところが、むかつく。『ブリジット・ジョーンズの日記』が世界的ベストセラーになったのは、ブリジットがちょっと太めだったからだ。けして絶世の美女でもなく、バリバリのキャリアウーマンでもなく、ごく普通にダイエットの悩みなんかを抱えている女の子だったからだ。一見完璧な女に見えるキャサリンでは、多くの人の共感を得るのは難しい。そうは言っても、スタイルはいいし、美人なんだから、それだけでもいいじゃないのと思ってしまう。これって、読者のひがみかも?(^^;


2005年02月16日(水)
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 オリヴァー・トゥイスト/チャールズ・ディケンズ

『オリヴァー・トゥイスト〈上〉』/チャールズ ディケンズ
文庫: 403 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480024999 ; 上 巻 (1990/12)
内容(「BOOK」データベースより)
18××年初、イギリスのとある町の救貧院で、一人の男の子が生まれ落ちた。母親は、子どもを産むとすぐ、ぼろ布団の中で息をひきとった。孤児オリヴァーはその後、葬儀屋サワベリーなどのもとを転々、残酷な仕打ちに会う。ついにロンドンに逃れたオリヴァーを待ちうけていたのは狂暴な盗賊団だった…。若いディケンズが、19世紀イギリス社会の暗部を痛烈に暴露、諷刺した長編小説。


『オリヴァー・トゥイスト〈下〉』/チャールズ ディケンズ
文庫: 390 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 筑摩書房 ; ISBN: 4480025006 ; 下 巻 (1990/12)
内容(「BOOK」データベースより)
主人公の孤児オリヴァーの運命の星は、いっそう酷薄に、光を失ったままである。盗賊団の仲間ビル・サイクスに従って強盗に出かけた夜、オリヴァーは瀕死の重傷を負って仲間に置き捨てられる。かろうじて篤志なメイリー夫人に救われたオリヴァーの運命はしかし二転三転して…。『ピクウィック・クラブ』でユーモア作家として成功したディケンズが、ジャーナリト的立場をとって挑戦した初の社会小説。

※画像は原書 『Oliver Twist』 (Penguin Popular Classics)/Charles Dickens


<上巻>

ブッククラブの課題であるディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の上巻をやっと読み終えた。ううう〜ん、やっぱりディケンズだなあ・・・。読むのが面倒。日本語でも、読むのに手間取る。

それでも、『大いなる遺産』とか『二都物語』などに比べたら、まだ読みやすいほうなんだろうけど、しつこいほどの情景描写の書き込みが、ディケンズの特徴か。時代が時代だからと言ってしまえばそれまでなんだけど、彼独特のユーモアや風刺が、面白くない。いや、面白い部分もあるんだけど、時代に合わないというんだろうか。登場人物がみな馬鹿に思えてしまって、感想を何と言っていいのやら、だ。

もちろん、登場人物が馬鹿者に描かれているのは、ディケンズ独特の痛烈な風刺で、馬鹿に見えてもいいわけなんだけど、それにしても、イギリス人てこんなに馬鹿なの?って感じがしてしまう。オリヴァーは、これでもかというくらいにいじめられるし、それが、レモニー・スニケットの<不幸な出来事シリーズ>のように笑えるものではないのだ。何度も死にかけるほどの、本当のイジメなのだから、笑ってはいられない。

この本は分冊で出版され、好評を博したものなのだが、その出版形態を真似したのがスティーヴン・キングの『グリーン・マイル』。ディケンズも当時は大衆小説の作家だったわけで、同じくエンターテインメントのキングに通じるところはあるんだろうけど、だからといって、分冊にして儲けようというキングの主義は、賛成できない。それでも売れる公算があるからそうするんだろうし、キングほど売れている作家でなくてはできない形式ではある。

でも、ディケンズはほかに『デヴィッド・コパーフィールド』と『荒涼館』が残っている。どちらも4巻ずつ。ジョン・アーヴィングがディケンズファンなので、きっと面白いに違いないと思い込んで買い揃えたのだが、正直言って、個人的には好みではないなあ。そのうちどれか面白い作品に当たるだろうと期待しては、毎回こんなはずじゃなかったと思う。

アーヴィングもそうだが、詩的な描写を連ねるのではなく、きちんとした文体で、詳細に書き込む作家というのは好きなのだが、ディケンズはどうも合わない。『二都物語』の翻訳をした中野好夫さんでさえ、「昔はこんなのを教科書に使っていたんだから、ひどかった」なんてことを言っているくらいだから、これで英語の勉強をしようなんて、間違っても思わないほうがいい。もっとも、『オリヴァー・トゥイスト』は、『二都物語』よりも数倍面白いとは思うけど。


<下巻>

やっとディケンズの『オリバー・トゥイスト』を読み終え、ずっと悶々としていた気分がすっとした。ディケンズは、Dover とか Wordsworth といった安い出版社で原書を揃えてあるのだが、おそらく一生箱入りのままお蔵入りなんだろうな・・・と思ったら、クラっときた。

『オリヴァー・トゥイスト』そのものが面白くなかったわけでもないのだが、日本語でも面倒だなと感じた文体を、原書で読むなどという難儀なことができるかしら?と、ぐうたらな私は即座に思うわけである。書き込まれた文章というのは好きだけれども、ディケンズはどうにも面倒。

それでも、翻訳が絶版になっているものの場合は、どうしても読みたければ原書しかないわけで、『Pickwick Papers』なんかは、やっぱり読んでみたいと思うし、どうしてまだまだ捨てるわけにはいかない。翻訳の出ていないものもあるし、アーヴィングが心酔しているディケンズだから、何とかもう少し付き合おう。

とはいえ、ディケンズの作品は、どれもこれも翻訳が良くないのでは?という思いが捨てきれない。『オリヴァー・・・』も、けしてひどい翻訳というわけでもなく、時代とか作家の癖を考えれば、こういう風になるのだろうなとは思うものの、もう少し日本語がなんとかなっていたら・・・と思わずにはいられない。そういう意味でも、箱に入ったままの原書も、そのうち機会があれば、読むべきだろうとは思っている。

肝心の内容のほうだが、風刺小説なので人物の性格がかなり誇張されて書かれているとは思うのだが、「風刺」という前提があるにも関わらず、最後はすべての善人は幸せに、悪人は地に落ちるといった感じで、なにやらあっけない感じもする。生まれたときから虐げられていたオリヴァーが、最後まで苛め抜かれる世にも不幸な結末というわけではなかった。

そこまでしたら、ディケンズも「クリスマスのおじさん」とは呼ばれなかったことだろう。しかし、同時代の作家エリザベス・ギャスケルも、ワンマン編集長だったディケンズと喧嘩をしているくらいだし、人間的にはとても立派な人物というわけでもなかったようだ。ただ、自分も子どもの頃から悲惨な貧乏時代を送ってきたため、貧乏人に対する社会の冷酷さや理不尽さについては、一言も二言もあったに違いないと思う。そういう部分では、『オリヴァー・・・』は、そういった社会悪を鋭く描いているのだろうと思う。

ああ、そうだ!なぜディケンズが好きになれないのかな?と考えたところ、悲惨な話を、妙に喜劇じみた状況(いかにもイギリス的な喜劇)として描いているところが好きではないのだろうと思ったんだっけ。

『オリヴァー・・・』の場合、レモニー・スニケットの<不幸な出来事シリーズ>に設定が似ているとも言えるが(というか<不幸・・・>のほうが『オリヴァー・・・』に似ているのだろうけど)、イギリス的感覚と、アメリカ的感覚の違いか、はたまた作家の性格の違いか、その喜劇の感覚がディケンズのほうはどうもしっくりこないのだ。

2005年02月14日(月)
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 ハリー・ポッターと賢者の石(携帯版)/J.K.ローリング

『ハリー・ポッターと賢者の石』(携帯版)
J.K.ローリング作・松岡佑子訳・ダン・シュレシンジャー画

出版社 静山社
発売日 2003.10
価格  ¥ 998
ASIN:4915512495
緑の眼に黒い髪、そして額に稲妻型の傷を持つ、魔法学校1年生のハリー・ポッターが、邪悪な力との運命の対決に打ち勝って行く、夢と冒険、友情の物語。スマーティーズ賞ほか受賞作。99年刊の携帯版。 [bk1の内容紹介]

bk1で詳しく見る オンライン書店bk1



すでにコレクター化している「ハリポタ」。何を集めているかを再度確認して、驚いてもらおう。というか、馬鹿だなあと思われるのがオチだろうが。

●英版ハードカバー&ペーパーバック
●米版ハードカバー&ペーパーバック&別バージョンペーパーバック
●日本語版ハードカバー&携帯版
●映画DVD
●文具&グッズ山ほど

そもそも、英版と米版は表現が違っている部分があるというのが、両方買うことになったきっかけ。それにハードカバーの初版本は高くなる可能性がある(出版部数が多くなったため、あまり期待はできないが)。ペーパーバックはやはり手頃に読めるというのと、ハードカバーを美しく保っておくために必要。別バージョンは、ただの好み。日本語版の携帯版は、翻訳の修正が入っているため、これもまた最初のハードカバーとは中身が微妙に違うのだ。読み返す場合にも、大きなハードカバーより読みやすい。

などなど、理由(言い訳?)はたくさんあるのだが、途中でやめるわけにもいかなくなって、毎回1作につき7冊(分冊は1冊と数えて)買うということになっている。もちろん、まだ出ていないものもあるので、全部揃っているわけじゃないし、実は、米版のハードカバーの1作目をまだ入手していないのだ。

さて、今回、何度目かに1作目を読み返してみたが、やっぱり映画よりも本のほうが断然面白い。1作目の原書を読んで、魔法にかかってしまったことを、昨日のことのように思い出す。ストーリーの細かいディテールは当然ながら、中に出てくる様々なグッズ類の豊富さ、いかにも魔法がかった言葉や道具などなど、映画では味わえない面白さがある。

私個人は、この1作目が一番好き。オリヴァー・トゥイストみたいに虐げられている普通の孤児が、あっという間に魔法の世界に入っていく過程は、子どもだけでなく、大人だってわくわくする。

何度も読み返すと、たしかに穴も見えてくる。トールキンの『指輪物語』ほど緻密ではないし、どんどん疑問もわいて来るのだが、すでに5巻まで読んでいるので、そういった疑問も、あとで解決されるのだと思って、また次も読み返したくなる。

それに、映画にだいぶ感化されてしまっていて、原作がどうだったのか、完璧に忘れ去っているところもあり、意外に新鮮な驚きみたいなものもあった。「ハリポタ」恐るべしだ。映画はいいけど、本は読みたくないという人も、絶対に読んで損はないと思う。本のほうが、はるかに面白い。さらに、日本語よりも原書のほうが、もっともっと面白い。携帯版も3巻まで出ているから、大きな本は嫌という人は、携帯版でどうぞ!


2005年02月13日(日)
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 リボーン―ナイトワールド・サイクル/F・ポール・ウィルスン

『リボーン―ナイトワールド・サイクル』/F・ポール・ウィルスン (著), F.Paul Wilson (原著), 中原 尚哉 (翻訳)
文庫: 528 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 扶桑社 ; ISBN: 4594018734 ; (1995/12)

内容(「BOOK」データベースより)
売れないホラー作家ジム・スティーヴンスは、ある日一通の奇妙な手紙を受け取った。なんとジムが、事故死した遺伝学の世界的権威ハンリー博士の遺産相続人に指名されているというのだ。自分とハンリートのつながりを調べはじめたジムは、やがて自分の驚くべき出生の秘密を知ることになった。だがそれは、ジムと妻のキャロルを待ちうける、恐るべき運命の序曲にしかすぎなかった。

2005年02月07日(月)
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 ミッドナイト・ブルー/ナンシー・A・コリンズ

『ミッドナイト・ブルー』/ナンシー・A・コリンズ (著), Nancy A. Collins (原著), 幹 遙子 (翻訳)
文庫: 396 p ; サイズ(cm): 15 x 11
出版社: 早川書房 ; ISBN: 415020229X ; (1997/01)
内容(「BOOK」データベースより)
Tシャツの上に黒の革ジャン、懐には銀のナイフを忍ばせ、美しいその顔には常に瞳を隠すサングラス…彼女の名はソーニャ・ブルー。彼女には、人の目には見えぬこの世界の真の姿を見ることができた。この世界に重なって存在する「真世界」―そこは、吸血鬼、人狼、オーグルが人の身体をまとって闊歩する驚くべき世界だった。そして彼女こそ、この「偽装者」たちを次々と倒してゆく、怖るべき力を秘めたハンターであった。英国幻想文学賞、ブラム・ストーカー賞受賞。


主人公のソーニャ・ブルーは、本名デニーズ・ソーンという大金持ちの令嬢だったが、ロンドンで遊んでいたところ、見知らぬ男性にさらわれ、血を吸われて捨てられる。そこからソーニャ・ブルーとしての人生が始まる。つまり、彼女もまた吸血鬼となったのだ。だが、様々な条件が重なり、単なる吸血鬼ではなく、ものすごいパワーを持って、悪い奴らをやっつけるモンスター・ハンターとしても活躍する。

こう書くと、善の側のヒロインみたいだが、実はそうではない。ややこしいのは、もとの姿であるデニーズ・ソーンと吸血鬼ソーニャ・ブルーという二つの人格の裏に、<彼女>というとてつもない人格がひそんでいることだ。<彼女>が表に出ると、とんでもなく凶暴なキャラになってしまうのだ。そして、見境もなく周囲の者を殺戮していく。その殺し方も半端ではない。

ソーニャ自身は、人を襲って血を吸うことをよしとしないし、悪者のモンスターをやっつける「吸血鬼ハンター」あるいは「モンスター・ハンター」と言われてはいるものの、結局は自分を吸血鬼にした男と、自分を探している両親を苦しめる、インチキ伝道師に復讐するために動いているだけだ。つまり、人類のためにモンスターを退治しているわけではないのだ。

解説には「なぜ吸血鬼だけがそれほどもてはやされるのだろう。・・・さまざまな理由が考えられるが、何よりも彼らには<吸血鬼>という属性の前に誇示としての名前があるからではないだろうか」とあるのだが、いくら名前があっても、3重人格では、個人のキャラとしてのインパクトが弱いんじゃないだろうか。ソーニャが主人なのか、凶暴な<彼女>が主人なのか、読者は迷ってしまう。

吸血鬼ハンターと聞いて、『ドラキュラ』のヴァン・ヘルシング博士を思い浮かべていた私は、こんな極悪非道な吸血鬼ハンターなんて、認められない!という感じになってしまった。だって、この人自身がモンスターなんだから。それに、夢の中の話を織り交ぜるというのは、とにかく好きではない。何でもありになってしまうから。

2005年02月02日(水)
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