読書の日記 --- READING DIARY
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 グッドナイト・ムーン/マギー・ロブ

内容(「BOOK」データベースより)
イザベルはニューヨークで活躍する写真家。年上の恋人ルークと一緒に暮らしはじめたが、彼には子供が二人いて、とつぜん子育てをすることに。仕事と家事を両立しようと努力するイザベルだが、子供たちはなついてくれず、しかもルークの先妻ジャッキーとは子育てをめぐって対立状態に。そんなある日、ジャッキーの病気が再発し、彼女たちの関係に大きな転機が訪れた…親子の愛情をこまやかに描く涙と笑いの感動のドラマ。


本書は、ジュリア・ロバーツ主演の映画のノヴェライゼーション。あれこれ考えなければ、結構泣ける本。一気に読めた。

主人公のイザベル(ジュリア)と、彼女が付き合っている男ルーク(エド・ハリス)の元妻ジャッキー(スーザン・サランドン)との子どもをめぐる熾烈な戦いといった話。でも、ジャッキーが癌になって・・・あとは泣いてくださいといった感じ。

何がかわいそうって、ルークの描写のところで、「薄くなりかけた頭」とか、「額が後退しつつある」とかって書かれてあること。映画のノヴェライゼーションなので、エド・ハリスが念頭にあるのは間違いない(はっきり言えばエド・ハリスそのもの)。で、エドは確かにそのような頭の状態であるわけなんだけど、そんなことはっきり書かなくたっていいじゃないかと。これはエド・ハリスなんだってわかってるんだし。。。エド・ハリス大好きなんだから、断固抗議したいよ!ぶぶぶ!

2004年09月30日(木)
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 カスターブリッジの市長/トマス・ハーディ

内容(「MARC」データベースより)
酒に酔った勢いでヘンチャードは妻と娘を見知らぬ男に売り飛ばす。深く反省した彼は18年後、カスターブリッジという町の市長となっていた。そこにかつての妻と娘が姿を現す…。1971年刊の再刊。


「情熱の荒野」ウェセックスの噴火のような魂をもったひとりの男ヘンチャードは、その烈しい魂のゆえに、世の「おきて」によってしだいに身を滅ぼしてゆく。しかし、彼は、そうした運命のもはやどうにもならぬことを明白に認めたあと、わずかに残された人生の終章を、運命を見すえながら、みごとに演じ抜いているのである。運命は、巨大な、人間の手のとうてい及ばぬ、ある絶対的な力である。そうした運命の前にひきすえられ、人間の無力を、打ちのめされるようにしかと思い知らされながら、しかもその無力にたじろがぬ、たくましいヘンチャードの最後の英雄的なすがたは、近代の悲劇とはあきらかに異なる強い感動をもって、われわれに、ソポクレスのオイディプース王や、シェイクスピアのリア王を思い出さずにはおかないであろう。
─(解説/上田和夫)


この物語は冒頭から衝撃的で、酒に酔った夫が、妻と子を見知らぬ男に売り飛ばすところから始まるのだが、その後意外にも早く彼らは再会する。「妻と子を売り飛ばす」ということについて、終始するのかと思っていたら、実はそうではなく、その後の展開もめまぐるしく、読者を飽きさせない、いかにも物語らしい物語だった。

もちろん「妻と子を売り飛ばした」という事実は、主人公ヘンチャードに死ぬまでつきまとい、その若気のいたりの酒の上の出来事が、彼の一生を苦悩と孤独で覆っていくのだが、タイトルにあるように、カスターブリッジという小さな村の市長になるまでは、運命は上向きで、順風満帆に進んでいたといってもいい。けれども、売り飛ばした妻と子に再会してから、彼の運命は、その罪を償うかのように、下降し始める。

私はヘンチャードが酒の上の過ち以外、他には何も悪い事をしていないように思うのだが(事実、その後彼は21年間、神に誓って酒は一切口にしなかった)、運命としか言いようのない人生の転落に、ただただ過酷な神の裁きのようなものを感じて、たしかに非道なことをしたと思うのだが、ここまで打ちのめさなくても・・・と、むしろ大いに気の毒になってしまったくらいだ。

訳者の解説にあるように、ヘンチャードの最後は感動的で、死んでもなお許されず、絶対的に孤独であるという運命に、全身が震える思いで、涙した。その運命に逆らうことなく、真っ向から受け入れたヘンチャードには、たとえどんな罪があろうとも、魅力を感じずにはいれない。

一方、ヘンチャードの愛人(とはいえ、妻子を探し回ったあげく死んだものと諦めた後のことなので、愛人という呼び名はふさわしくないかもしれない)ルセッタや、スコットランドから来たやり手の青年ファーフレーなどには、全く魅力を感じなかった。

ここにヘンチャードの娘エリザベス=ジェイン(のちに実の娘は死に、妻と娘を買った男との間に生まれた娘だと知るのだが)が加わり、この4人の間にさまざまなドラマが生まれるのだが、ルセッタやファーフレーがいなければ、こんなに過酷な運命にはならなかっただろうと思うと、なんと不運なめぐり合わせなのだろうと思う。

いかに罪深い主人公でも、読者はヘンチャードと一緒に嘆き、苦しみ、孤独な思いを味わう。描かれているエピソードは、なにも特別な出来事ではなく、世の中によくあることで、そのひとつひとつが誰にでも理解できる状況だと思う。しかし、それらが全部一人の人間に関わってきたとき、ましてや拭い去ることのできない罪の意識を抱えていた場合、いかに孤独を味わうものなのか、それは想像を絶するほどだった。以下に記すヘンチャードの遺言には、絶句であった。

マイケル・ヘンチャードの遺言

わしの死んだことをエリザベス=ジェイン・ファーフレーに知らせたり、わしのために悲しい思いをさせぬこと。
神聖な墓地にわしを葬らぬこと。
寺男に鐘を鳴らさせぬこと。
だれにもわしの死骸を見せぬこと。
葬式にはだれも参列させぬこと。
墓にはどんな花もそなえぬこと。
だれもわしを思い出さぬこと。以上のことに署名する。

マイケル・ヘンチャード



2004年09月29日(水)
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 ルーゴン家の誕生:ルーゴン・マッカール叢書/エミール・ゾラ

内容(「MARC」データベースより)
1851年12月7日、サン=ミットル平地で蜂起軍に参加しようとするシルヴェールの登場で物語は始まる…。バルザックに対抗して構想された、「遺伝と環境」をキーワードとする小説群・ルーゴン=マッカール叢書の第1弾。

※画像は原書 『La Fortune Des Rougon』


物語は1851年12月7日、サン=ミットル平地で蜂起軍に参加しようとするシルヴェールの登場で始まり、12月14日、同じ場所でシルヴェールが諸兄されたところで終わる。この平地はかつて墓であった。墓は満杯になり町の反対側に新しく作られることになり、遺骨の発掘が行われ、何の宗教的儀式もないまま運ばれていった。長い間、旧墓地は放置され自然の浄化作用を待ち、やがて公共の空き地として住民に利用されるようになった。聖なる地が俗化し、蘇り、新しいサイクルがはじまった。まさに「ルーゴン=マッカール叢書」20巻の巻頭を飾るにふさわしい設定である。叢書はルーゴン家から出た一族が様々に枝分かれして、社会のあらゆる階層に根を張っていく様子を各巻で描く構成になっている。一族の一人、パスカル博士は科学者として五世代にわたって一家の人々を研究観察し、記録していた。最終巻において、その母親フェリシテは研究成果が世に出ることを嫌い、膨大な記録を記したノートを焼却してしまう。ちょうど墓を空き地にしてしまったように。そして新しい家系の循環が始まる。

(中略)

『ルーゴン家の誕生』は叢書に登場する主人公たちの紹介とも言える。

(中略)

単なる家系図ではなく、それぞれの生涯のダイジェスト、遺伝のタイプつきである。それゆえゾラは読者の興味を殺ぐことになるからと、公表を延ばしたのである。─(訳者あとがきより)


「ルーゴン・マッカール叢書」については、何の知識もないので、本書がどのような役割を果たしているのか正確な判断はできないが、上記の訳者あとがきにあるように、その後の物語に登場する主人公たちの紹介であるということである。「読者の興味を殺ぐことになるから」というゾラの推測は正しいと言える。このあと、20巻にもおよぶ「ルーゴン・マッカール叢書」を読む気にはなれない。

しかし、たまたま気分が乗らないのと、フランス革命関連の物語に飽きが来ていたこともあり(デュマやユゴーなどの作品を集中的に見たり読んだりしたため)、丁寧には読めず、これもざっと読み。もっとじっくり読めば、その後の物語にも興味がわいたかもしれないが、英語圏以外の小説の固有名詞を頭に入れるのが面倒で、今現在は、まるで興味がわかない。それと、個人的な好みでしかないが、フランス革命時期の話は、どうも好きになれない。

翻訳もまた、ああ、古典の翻訳ってこうなんだよねとがっかりしてしまうようなものなので、ここでもまた翻訳の壁に突き当たってしまった。会話部分以外はいいのだが、会話でいつもがっかりさせられるのだ。またか!と。どうせなら、『アイヴァンホー』のように、思いっきり時代がかった口調であったほうが、まだいい。変にくだけていたりして、新しいのだか、古いのだか(古いんだろうが)、どうにも奇妙で落ち着かない、すんなり入り込めない文章なのだ。これはなにも本書に限ったことではないのだが。


2004年09月28日(火)
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 エドガー・ミント、タイプを打つ。/ブレイディ・ユドール

出版社/著者からの内容紹介
ぼくは7歳のとき、郵便配達の車に頭を轢かれた。
傷つき、負け犬と呼ばれ、はみだしそうになっている登場人物たち。切なくて可笑しくて、じわりとあなたの人生に染み込んでくる、不思議な味の傑作小説。

◆ときに細部にわたり、ときに走る……完璧なバランスで積み重ねられる言葉と文章。ちょっと変わった主人公を中心に展開するストーリーは、希望であり、痛みである。
   Los Angeles Times
◆この主人公には実在のモデルがいるのだろうか……。そう思わずにいられないほど、心を強くつかんで放さない、まれにみる傑作。
   The Times(UK)
◆甘くせつなく、そしていつしか元気づけられる
   New York Times Book Review
◆一歩下がって、深呼吸をしよう。そして携帯の電源を切り、友達にもしばらく会えないと連絡しよう。エドガー・ミントが体のなかに入ってきて、脈動をはじめる。そして、人生のたまらなく可笑しくて切ないものが目の前で繰り広げられる。
   Santa Monica Mirror

内容(「MARC」データベースより)
白人とアパッチのハーフの主人公エドガー・ミントは7歳の時に郵便トラックに頭を轢かれる。奇跡的な回復を遂げるも波乱万丈の人生が彼を待ち受けていて…。切なく可笑しく、じわりと人生に染み込んでくる、不思議な味の物語。


自分は知らない自分の死。七歳で郵便集配ジープに頭を轢かれたエドガーは、自分が死んでいるあいだに起きたできごととして、みずからの人生を語り始める。物語の主人公はまちがいなく自分自身なのに、それは自分から永遠に失われた「あの少年」の物語であり「彼」の物語だ。

「ディケンズがアリゾナに生まれていたらこんな小説を書いていただろう」「ジョン・アーヴィングの感覚の鋭さと創意」などと評されたこの『エドガー・ミント、タイプを打つ。』原題“The Miracle Life of Edger Mint”は、新鋭の作家ブレイディ・ユドールの長編第一作である。

冒頭は衝撃的な事故のシーンにはじまる。誰もが死んだと思い込んだアパッチと白人のハーフの少年が、奇跡的に命をとりとめ、やがてながい昏睡状態から目覚める。病院から全寮制のインディアン学校へ、そしてモルモン教徒の家庭へと、少年エドガーの人生は転がって行く。頭の怪我のせいでタイプでしか文字を書けなくなった主人公は、どういうわけか戻ってきてしまったこの世界をたしかめるように、あやうい自分の存在をたしかめるように、ひたすらタイプを打って人生を書き留めるのだ。─(訳者あとがきより)


これは、読みながら「いいぞ、エドガー・ミント!」と声援を送りたくなるような本。7歳で死にかけて、その後辛いことがたくさん降りかかってくるにも関わらず、まだほんの幼い子どもであるにも関わらず、飄々と生きていくエドガー。その姿は、どこかけなげで、またユーモラスでもあり、読んでいる者に、なにかしみじみとした感じを与える。

白人とのハーフであるがために、インディアン学校では残虐なイジメを受けるのだが、それさえも日常の当たり前のことのような感じで、淡々とかいくぐってくる。普通の家庭で普通に育った子には考えられないような災難が、次々に襲ってくるのに、エドガーが悪人にならなかったのは、奇跡に近い。

実はエドガーは、殺人も犯しているのだ。けれども、それは周囲の人間を守るために、どうしても必要なことだった。エドガーの父親は、生まれる前に姿を消し、母親は飲んだくれで子どもの面倒など見れない人間だった。事故で昏睡状態になっていても、誰一人見舞いになど来ない孤独な子どもだった。

そんなエドガーには、どこか特別なところがあって、エドガーに関わった人たちは皆、彼に愛情を注ごうとするのだが、たいていは不幸な結果に終わってしまう。エドガーが殺した元医師も、なんとかエドガーを守ってやろうと奔走していたのだが、それが裏目にでてしまった形になる。親を失い、友達を失い、自分に関わる人たちがどんどん消えていくのを、まさに自分のせいだと苦悩するエドガーだが、彼の選択は、いつも正しいように思う。

事故で頭を轢かれたからといって、エドガーが馬鹿だったわけではない。むしろ頭のいい子で、ただ事故の後遺症で文字が書けなくなり、時折意識を失う発作に見舞われるといった具合。

病院で知り合ったアートという男に、タイプライターをもらって以来、エドガーは思いつくままに文字を打ってきた。それが彼のすべてだ。時には手紙であり、時には祈りであり、時には意味のない文字の羅列であったりする。口にこそ出さないが、積み上げられたタイプ用紙を見れば、いつが辛い時期だったのか、いつが幸福なときだったのかが一目瞭然なのだ。

物語の最後にはどんでん返しがあるのだが、自分はインディアンと白人のハーフで、孤児で、人生なんてこんなものだと半ば諦めながら生きてきたエドガーが、初めて心の底から悲しみを吐き出す。自分の轢いた郵便配達人に、生きていることを知らせて気持ちを楽にしてやりたいと、ただそれだけを目的にしてきたエドガーが、彼の死を知ったときに、初めて感情を露にするのだ。

その郵便配達人は、エドガーの里親になろうとしていた人物であり、惜しみない愛情を注いでくれていた人間だったことがわかり、その人さえも、自分のせいで殺してしまったようなものだと思ったからだ。

だが、おそまきながら、彼の妻と親子として暮らしていくうち、エドガーは心の平穏を得るようになる。幼い頃から打ってきたタイプが役に立ち、新聞記者にもなれた。自分の人生を振り返ったとき、エドガーはこう思う。

「僕にとってなによりすばらしいこと、それはこの13年間(郵便配達人の妻を母として一緒に暮らした年月)にとりたてて言うほどのことがないということだ」

たしかのエドガーの人生は非凡であった。であったからこそ、平凡で静かな生活がいかに幸福か、しみじみと伝わる言葉である。

本書は、悲惨なイジメにあう描写なども多いのだが、全体的にそこはかとないユーモアが漂い、けして陰惨な話ではない。むしろエドガーが苦労しているときには、かえって笑いが生じてくるくらいで、反対に彼が平穏無事に暮らすようになると、何か胸を打つ熱いものが感じる。

2004年09月27日(月)
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 月ノ石/トンマーゾ・ランドルフィ

内容(「MARC」データベースより)
休暇に郷里の村を訪れた大学生で詩人でもあるジョヴァンカルロは、山羊の足をした美しい娘に出会い、彼女を通して自然の神秘に触れていく。イタリア文学の孤高の奇才といわれるランドルフィの詩情に満ちた代表作。


月は私の好きなモチーフで、この本にはかなり期待していたのだが、思ったようなものではなく(イタリア語の固有名詞もすんなり入ってこなかった)、じっくり読まずにざっと読んだだけ。当然、感想もたいしたものはないので、訳者あとがきから参考になると思われる箇所を抜き出すにとどめる。本書が面白いとか面白くないとか以前に、こういう詩的なものは、気分が合わないと全然ダメなものだから、また機会があれば読み直したいと思う。日本語訳もあまりきれいだとは思えなかったので、そのあたりにも気分が乗らない原因があるかも。


本書は1937年に執筆され、一部が文芸誌に掲載されたあと、1939年に、それ以降72年までランドルフィの作品を出版することとなる、フィレンツェのヴァレッキ社から刊行された。原題の La pietra lunare (月の石、月にかかわる石、月光のような輝きをもつ石)は、月長石を意味する pietra di luna のランドルフィ独自の変形である。このどこかあいまいな言葉には、月光のなぞめいた影響力がうっすらと感じられる。この物語が月明かりの力のもとに生まれたことを暗示しているようでもある。そして、第一章冒頭にかかげられたひとつめのラテン語の引用句も、これが月をめぐる物語であることを強調している。「トンマーゾよ、汝よく我を語れり」これは月が著者に向けて言った言葉としてあげられているが、もともとは『神学大全』を著したトマス・アクィナス(ラテン語のトマスがイタリア語ではトンマーゾになる)にキリストがかけた言葉として、聖人伝に伝えられるものである。時代をさかのぼっていくとランドルフィの家系がトマス・アクィナスの家系に連なるとされていること、同盟のトンマーゾの描いた本書の内容が、別種の聖なる世界に達する物語であることを考え合わせると、この短い一句がなんとも含蓄のあるものに思えてくる。そして天空の星々にあって月こそが、もっともわたしたちの対話の相手になり得る、遠くにあって近しき存在であったことを思い出させる。

(中略)

原著には「田舎暮らしの光景」(Scene della vita di provincia)という副題が添えられている。詩的な表題に、このいかにも日常的な副題はどこかアンバランスに感じられるが、 実際に物語は、退屈な田舎の日常風景と月の魔法にかけられたような世界が交差して進んでいく。大学生で詩人でもあるジョヴァンカルロは、一家の郷里である田舎の大きな館に休暇を過ごしにやってくる。そして山羊の足をした美しい娘グルーに出会い、彼女を通して自然の神秘に触れていく。ある月夜の晩、ジョヴァンカルロはグルーにつれられて山の奥深くまで分け入り、そこで彼の先祖だちの時代に一帯を荒らしていた(今は亡き)山賊たちの宴のさなかにいざなわれる(思えば、ファウスト博士も馬の足をもつメフィストーフェレスに導かれて魔界の宴に赴いた)。そして夜の果てに「母たち」と対面する。

(中略)

ジョヴァンカルロはこうして母なる大地の洗礼を受ける。長い長い月夜の幻想的なイニシエーションを経て、物語はまた、いつもの田舎の光景に戻っていく。

2004年09月26日(日)
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 停電の夜に/ジュンパ・ラヒリ

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ジュンパ・ラヒリのデビュー短編集に登場するすべての人物の病を誰かに通訳させるとしたら、この表題作の主人公、カパーシがまさにうってつけの人物といえる。たとえば、「停電の夜に」の若い夫婦、ショーバとシュクマール。2人の結婚生活は子どもが死産したことによって徐々に崩れ落ちていく。あるいは、「セクシー」のミランダ。彼女は既婚男性との何の望みもない情事にはまり込んでいる。しかし、カパーシもまた彼自身の問題を十分抱えこんでいるのだ。

患者の言葉を理解できない医師のために通訳として働くかたわら、カパーシは旅行者を地元の観光スポットに連れていくタクシー運転手もしている。ある日、彼はインド系アメリカ人1世のダス夫妻とその子どもを車に乗せる。彼らを車で案内しているうちに、カパーシはダス夫人に心魅かれていくことになる。そして、夫人が通訳という彼の仕事の意味を深読みしたことによって、カパーシは不本意にも彼女の秘密を打ち明けられることになる。「私はあなたの才能を見込んで話したのよ」と、驚くべき秘密を漏らした後で夫人は彼に告げる。

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もうずっとこんなひどい気分でいたのにウンザリしちゃったのよ。だって8年よ、カパシーさん、8年も苦しんできたの。あなたなら私の気分をいくらか楽にしてくれるんじゃないかなって、そう思ったの。適当な言葉をかけてくれるとか、なにか療法みたいなものを勧めてくれるとかしてね。
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もちろん、カパーシには、夫人の悩みに対しても、あるいは彼自身に対してもさえ、処方箋を出すことなどできない。

こうしたほろ苦い結末はラヒリのこの短編集全体を貫く特徴である。9本の短編のうちいくつかはインドを、それ以外はアメリカを舞台に設定しているが、それらのほとんどがインド系の人物に関したものだ。しかし、ラヒリの描きだす人物が直面する状況には、それが不幸な結婚生活であっても内戦であっても、民族性の枠におさまりきらない広がりがある。短編集最後の作品「3度目で最後の大陸」の語り手は次のように述べる。

「これまで長い道程を旅し、数えきれないほどの食事もし、たくさんの人たちと知り合い、いくつもの部屋で眠りを重ねてきた。人生の歩みと共に積み重ねられてきたこれらのひとつひとつに、私は戸惑いをおぼえることがある」。

成長を遂げ、家を離れた者、恋に落ち、また破れた者、そしてとりわけ、家族を持ち、その中にいながらも自分を異邦人のように感じてしまう者、そんな誰もが人生のどこかでふと感じることになる不安や戸惑いを、ジュンパ・ラヒリはこの中に見事に要約している。

内容(「BOOK」データベースより)
毎夜1時間の停電の夜に、ロウソクの灯りのもとで隠し事を打ち明けあう若夫婦―「停電の夜に」。観光で訪れたインドで、なぜか夫への内緒事をタクシー運転手に打ち明ける妻―「病気の通訳」。夫婦、家族など親しい関係の中に存在する亀裂を、みずみずしい感性と端麗な文章で表す9編。ピュリツァー賞など著名な文学賞を総なめにした、インド系新人作家の鮮烈なデビュー短編集。

目次
停電の夜に/ピルザダさんが食事に来たころ/病気の通訳/本物の門番/セクシー/セン夫人の家/神の恵みの家/ビビ・ハルダーの治療/三度目で最後の大陸


この本は、読んだ人が皆「面白い」という本。天邪鬼な私は、みんながそう言うならやめとこうなどと思ってしまうタイプなので、この本の話題も出なくなった頃にやっと読んだ始末なのだが、避けていたのはそればかりではない。

短編集であるというところに、単なる愉しみとは別に、昨年短編の勉強をしたために、何やら学習的なイメージがつきまとってしまい、いい加減な感想では許されないのでは?という強迫観念が生まれてしまうというのもある。

とはいえ、いざ読んでみたら、世間の評判どおり面白かったと言えるだろう。インド系の作家というのは、ちゃんと読むのはおそらく初めてだったと思うのだが、白人以外の作家が増えてきているアメリカの出版界の事情を考えれば、不思議でもなんでもないことだ。

ただ、アメリカでアメリカ人と同じ生活をしているのに、インド人である。あるいはインド系であるというところに、何か不思議な感じがするのである。それは何系かに関わらず、どこの出身の作家にでも感じることではあるのだけれど、特にインド系は、サリーなどの民族衣装を着て、しかしながらしっかりアメリカ人と同じ生活をしているというところに、妙な違和感を覚えたりするのだ。けれども、それはそれとして、とても観察力のある上手い作家だと思う。

それぞれの作品の感想は、「Short Stories Review」に書いているので、そちらを参照のこと。タイトル、あるいは作家名で検索可能。

2004年09月25日(土)
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 The Princess Diaries : Third Time Lucky (PRINCESS DIARIES #3)/Meg Cabot

内容(「MARC」データベースより)
突然、王位継承者と知らされた女子高生・ミアの日記大好評第3弾! 本当に好きなのにうまく話もできないマイケルとの恋のゆくえ。どうなるプリンセス? ユーモアたっぷりのはちゃめちゃコメディ。


今回は、ちょっと切ない場面もある、恋に目覚めたミアのお話。ミアの恋はどうなってしまうの?とハラハラしつつ、やっと、やっと、大好きなマイケルと相思相愛だとわかって、読んでる方もほっと一安心。

でも、ミアって、まだまだ成長途上なのに、すでに175センチくらいあって、足も大きいし、髪の毛はベリーショットだってことがわかって、ちょっとイメージが狂った。勝手に、ちっちゃくてかわいらしいプリンセスというイメージを抱いていたんだけど、全然違った。

最後にダンスパーティでマイケルとキスまでいって、めでたしめでたしなんだけど、その図を想像すると、ちょっと興ざめかも。

2004年09月23日(木)
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 チボー家のジャック(新装版)/ロジェ・マルタン・デュ・ガール


左=箱、右=表紙

出版社からの内容紹介
20世紀フランス小説史上に残るマルタン・デュ・ガールの大作『チボー家の人々』は、1920年に書き起こされ、19年もの歳月を費やして完成された。舞台は第一次世界大戦前後のフランス。時代が大きく変動する不安と動揺の時に身をおいた若者たちが、鋭い感受性ゆえに悩み傷つき、そして苦悩の末にそれぞれの決断をしていく。

わが国では、1938年に第一部『灰色のノート』が翻訳され、途中第二次世界大戦のため出版が一時中断したものの、1952年、遂に最終巻『エピローグ』が刊行された。その後、何度も版を重ね、またサイズや装丁も変わり、現在では手軽な白水Uブックス(全13巻)でお求めいただける。しかし、かつて黄色い装丁で5巻本だったころの『チボー家の人々』をなつかしく記憶している読者も多いのではないだろうか。この小説の世界に心酔する女子高生を描いた、高野文子氏の手塚治虫賞受賞コミック『黄色い本――ジャック・チボーという名の友人』(講談社)を、自らの読書体験と重ねて読んだ人もけっして少なくないだろう。

今回、高野文子氏の装丁により「黄色い本」となって新装復刊する『チボー家のジャック』は、主人公ジャックに焦点を当て、作者自身が若い読者のために抜粋、加筆、編集を行ない一冊にまとめたものである。分量はおよそ5分の1とコンパクトになっているので、チボー家の世界をちょっとのぞいてみたい方、もう一度読み直してみたい方、またかつて大著を前に挫折してしまった方にお勧めである。そして、本書でジャックと友だちになった読者は、ぜひあの大作に挑んでいただきたい。

●白水Uブックス
チボー家の人々(全13巻)/マルタン・デュ・ガール作、山内義雄訳

1 灰色のノート
2 少年園
3 美しい季節1
4 美しい季節2
5 診察
6 ラ・ソレリーナ
7 父の死
8 一九一四年夏1
9 一九一四年夏2
10 一九一四年夏3
11 一九一四年夏4
12 エピローグ1
13 エピローグ2


先日、ロジェ・マルタン・デュ・ガールの 『チボー家のジャック』 を読んだのだが、読み始めてすぐに、ドキッとした。

これって、ホモ小説?

って感じで・・・でも訳者の解説を読むと、小学校高学年にも読めるようにうんぬんとあったので、まさか小学生にも読ませる本が、「ホモ小説」のわけがないだろうと。。。(^^;

男の子同士が「灰色のノート」をやり取りしていて、それが先生に見つかってしまったために、二人で家出しちゃうんだけど、それでまあ、うちは新宿二丁目の近くだし、すぐに想像がそっちのほうに行っちゃったわけ。

その頃、本を読んだり、詩を書いたりするのは、男の子としてはあまりいいことと思われていなかったようで、ノートには、そういうことが書いてあったのかもしれない。だからそれが見つかったことで、家出しちゃったんだろうとは思ったけれど・・・でも、大人になっても、男同士で 「愛してる!」 なんていうのは、やっぱりそうなのかなあ・・・と、最後まで疑いが晴れなかった。

というのも、「灰色のノート」の内容については、何も書かれていないから、つい想像をたくましくしてしまうのだ。全13巻ある『チボー家の人々』には、「灰色のノート」の中身がちゃんと書かれてあるんだろうか?そっちも全部読まなきゃいけないのか?

古典の名作を、こんな風に想像しちゃうなんて、なんと不埒な!って感じだし、ましてや、その時代にそんなことがあからさまになるなんて・・・とは思うけれど、家出しただけで、感化院なんかにやられちゃうんだろうか?と思うと、やっぱり疑いは晴れない。

ゲイだったからどうこうってことではないんだけど、それに、大いにあり得ることだとも思う。でも、この本でそういうことを考えるとは、思いもよらなかったので、ドキっとしたのだ。

この本は、横広の変形版2段組で、中身も濃くて、ページ数と実際に読む大変さがつりあわないほどなのだが、だから真面目な文学的な感想を書かなくてはならないとは思うものの、とりあえずこんな軽薄な感想しか出てこなかった。もっと若い頃に読んでいたら、たぶん違う感想になっていたことだろう。

理不尽に厳しい父親と、それに反発せずにはいれない、秘めた情熱と力を持ったジャック・チボーが、少年から大人になっていく過程が描かれたものだが、折りしも社会では戦争の色が濃くなって、最後は政治運動に手を染め、悲運な最後を迎えるわけだが、解説を読むと、ジャックは死んでいないらしい。つまり、その後を知りたければ、全13巻の『チボー家の人々』を読めと。

2004年09月20日(月)
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 The Princess Diaries : Take Two (PRINCESS DIARIES #2)/Meg Cabot

内容(「MARC」データベースより)
フツーの女子高生ミアが突然プリンセスだと知らされて、はや1ケ月。おばあさまからのプリンセス教育真っ最中のミアに届いた匿名のラブレターは一体? 映画「プリティ・プリンセス」原作、「プリンセス・ダイアリー」第2弾!


プリンセスとはいえ、普段の生活は一般の少女と同じ。でも、おばあさまのプリンセス教育にはうんざりというミア。親友のお兄さんに憧れ、ラブレターはてっきりそのお兄さんからだと思っていたのだが・・・。

ミアはいい子だし、相変わらず面白いが、1作目のような強烈な印象はなくなった。いい子といえば、ミアが熱心な動物愛護家で、そのためベジタリアンになっていたなんて、びっくり!という感じ。

2004年09月18日(土)
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 西瓜王/ダニエル・ウォレス

内容(「MARC」データベースより)
孤児として育った少年が過去を知るために戻った母の故郷。そこで町の人びとが話してくれたのは、選ばれた女に童貞を捧げ、豊かな実りをもたらすという伝説のスイカ王の話。嘘と現実とほんとうの愛をめぐる現代のおとぎ話。


タイトルの響きから、かわいらしいファンタジーかと思っていたら、これが大間違い。町の古くからの祭りで、「選ばれた女に童貞を捧げる」というのは、思いのほか大変なことであり、また悲しくもあり、実際選ばれた人間は、冗談じゃない!という感じだろう。

『ビッグ・フィッシュ』 でも描かれていた「嘘」が、ここでも物語のスパイスのように用いられているが、テーマがテーマだけに、『ビッグ・フィッシュ』のような爽やかさはない。

主人公の少年も、状況に流されやすいタイプのようで、今ひとつ捕らえどころがないし、母親と祖父(母親にとってみれば父親だが、少年の父親でもある)の関係の秘密がわかった頃には、何ともやりきれない気持ちになっていた。

『ビッグ・フィッシュ』の父親と、この作品の祖父は、同じ嘘つきな人間である。何箇所か、これは同じ人物ではないかと思える部分があり、実在のモデルがいるかどうかはわからないが、ウォレスが気にいっているキャラクターなのだろうと思った。嘘を並べ立てている場面はユーモアもあっておかしいのだが、やはりこの話は暗い話なのだ。

2004年09月15日(水)
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 ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり/ダニエル・ウォレス

内容(「MARC」データベースより)
病気が進行して、やがて父はただの人となった。仕事もなく、話すこともない父について、何一つ知らないことにぼくが気づいたのは、その時だった。豊かなアラバマの自然を背景に、父と子の絆を描いたおかしくて切ない物語。


映画化された、ダニエル・ウォレスの『ビッグフィッシュ』を読み終えたが、死にゆく父親とのまじめな話(父親はジョーク好きで、最後まで息子に真面目な顔を見せなかったのだが)と、父親が主人公のホラ話とが交互に書かれている。

この父親と息子が、ウォレス自身のことなのかどうかはわからない。どこにも自分のことであるということは書いてないし、解説などでも触れていない。全くのフィクションだとしてもおかしくはないが、親を描く場合には、どうしても自分自身の親のイメージは投影されるのではないかなと思う。

ウォレスの文章は、あまりにもスルリと通り過ぎてしまい、脳が文字の意味を認識する前に、字面だけで進んでいってしまうので、途中で何度も戻って読み返さなくてはならなかった。これは一体どういうことだろう?

たしかに、大きな事件が起きるわけでもなく、ホラ話もかわいげのある話で、特にびっくりするようなことでもない。全体的に宙に浮いているような感覚の中で、ただひとつ、父親の死だけは事実なのだ。最期のときも、あれは真実なんだろうか?これもホラ話なんだろうか?という疑問を残して終わる。

全体的に、映画的な作りじゃないかと思う。話の中心は父親なのだが、今現在の父親と、若い頃のドン・キホーテのような父親とが交互に現れてくるので、あちらこちらに話が飛んで、時折、何の話してたんだっけ?ということもしばしば。

映画は見ていないが、映画会社の人が絶対にお薦めだと言っていた。この本に関しては、映像で見たほうがいいんじゃないかと思える。実は、次に読む予定の『西瓜王』も同じスタイル。

私は、ちゃんと順を追って書かれた作品のほうが安心して読めるのだが、こういうスタイルもあるのか・・・という感じ。「父親の死」というテーマは個人的には非常に弱いテーマなのだが、その悲しみをあまり表に出さず、むしろ父親の類まれなキャラクターに焦点をあてて書いているのが、しめっぽくならずにすんでいる要因かもしれない。これは泣くかな?と思っていたのだが、なんとなくすがすがしい気分なのだ。このお父さんは、なかなかたいした人物だと思う。

最後に、「父親として何か教えようと心がけてきたつもりだが・・・うまくいったんだろうか、どう思う」と胸のうちを問いかけるのだが、それもまた謎の中に消えていく。結局、息子にとって、父親はあまりにも謎だった。だから答えられなかったのだ。私にとっても、父は大きな謎のままだ。考えてみれば、父の何を知っているというんだろうか?

2004年09月13日(月)
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 奇妙な新聞記事/ロバート・オレン・バトラー

出版社/著者からの内容紹介
ピュリッツァー賞受賞作家が「タブロイド新聞」の記事にヒントを得て展開する12編の物語。
「沈没の瞬間を回想していると、自分がとうの昔に死んでいたと気づくタイタニック号の死者……」「実は生きていたケネディ。脳に障害がのこり、国家機密を口走ってしまうので、幽閉されていた元大統領が、お忍びでジャクリーン夫人の遺品オークションに参加する……」など12編の〈奇妙な味の物語〉。

目次
「タイタニック号」乗客、ウォーターベッドの下から語る/夫の不倫を目撃した義眼/エルヴィスの刺青をつけて生まれた少年/クッキー・コンテスト会場で自分に火をつけた女/オウムになって妻のもとに戻った男/車にひかれて淫乱になった女/九歳の殺し屋/キスで死をよぶ女/地球滅亡の日は近い/捜していますわたしの宇宙人の恋人/JFK、ジャッキー・オークションにあらわる/「タイタニック号」生還者、バミューダ三角水域で発見さる


「タブロイド新聞」の記事にヒントを得て・・・というのが面白そうだと思って読んだのだが、予想外に文学的(?)で、いわゆる三面記事的な話ではなかった。それぞれの話が、面白いと言えば面白いのだが、起承転結がはっきりしていなかったり、ユーモアがおかしく感じられなかったりした作品もあって、全体的には印象が薄くなってしまった。アイデアは奇想天外でよかったのだが、個人的好みには今いち。

私の場合、短編集は1冊全部読み終えてから感想を書こうと思うと、ほとんど忘れ去っていたりするので、どうも良くない。短編は、長編よりも時間をかけてじっくり読まないと、読んだそばから忘れていく。よほどでなければ、記憶に残らない。短編のほうが簡単に読めると思うのは、大きな間違いだ。

2004年09月11日(土)
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 Summerland/Michael Chabon

<邦訳上巻>
内容(「MARC」データベースより)
気弱な少年イーサンは、野球の試合でいつもエラーばかりしていた。そこに野球好きの妖精があらわれ、自分たちの世界を救ってほしいという。不思議な仲間たちとの旅がはじまった。冒険ファンタジイ。

<邦訳下巻>
内容(「MARC」データベースより)
世界を滅ぼそうとするコヨーテのせいで、妖精たちの世界はめちゃくちゃになっていた。イーサンは仲間たちと力を合わせて、野球で戦いつづける。そして、ついに最後の試合が開始された。イーサンたちは勝利できるのか?

<邦訳>
サマーランドの冒険〈上〉
サマーランドの冒険〈下〉

<あらすじ>

夏には雨の降らない不思議な場所サマーランド。そこには球状があり、いつもリトルリーグの試合が行われている。11歳の少年イーサン・フェルドは、リーグの<ルースターズ>の選手だが、いつもエラーや三振ばかり。おかげでチームは連敗中だ。

そんなイーサンのもとに、ある日突然キツネ男のカトベリー(別の世界に自由に行き来できるというシャドーテール)が現れる。そして、世界は滅びつつある、一緒に自分だちの世界に来て欲しいと言う。カトベリーの説明では、イーサンたちのいる世界=ミドルランドのほかに、カトベリーたち妖精のいるサマーランズ、世界を滅ぼそうとしている悪人コヨーテのいるウィンターランズ、そして封印された世界の3つの世界が存在し、そのすべてがコヨーテに消し去られようとしているのだそうだ。

一方、イーサンの父親がコヨーテの手下に誘拐されてしまう。世界を守り、父親を救うために、イーサンはコヨーテの居場所を目指してサマーランドからキツネ男たちの世界サマーランズへ飛び込み、旅を始めた。道連れは、ルースターズのチームメートのジェニファー・T(インディアンの血筋の女の子)とトール(実はフェリシャーとの取り替え子で、カトベリーと同様のシャドーテール)、そしてフェリシャーという妖精の一種で3つの世界のホームラン王でもあるシンクフォイル。一向は巨人に出会い、食われそうになるが、イーサンが野球で戦い、見事に勝利した。そして、巨人にとらわれていたタフィーを仲間に加える。

喜びも束の間、今度はタンポポの丘族というフェリシャーたちにつかまり、地下室に閉じ込められる。フェリシャーたちに弓で射られたシンクフォイルの傷を治すために、イーサンが持っていたトネリコの枝が必要となり、トールの不思議な力を借りて、丘の中の探索に出かけたイーサンとトール。しかし、冷たい声の主に見つかってしまう。

その後、イーサンたちは仲間を加え、トネリコの枝をバットに作り変え、野球チームとして様々なチームと試合をしながら道を進んでいく。道を進みながら、イーサンは様々なことを学んでいく。親子の愛情、人を信じる心、物事を冷静に判断する力などなど・・・。最後にコヨーテたちと試合をし、イーサンたちが勝ったことで、世界は救われる。


<サマーリーディング>用に読んでいた、マイケル・シェイボンの『Summerland』を、やっと読み終えた。シェイボンが自分の息子たちのために書いたというだけあって、内輪ネタである。自己満足の世界。

普通、自分の子どものために書いた本というのは、ただ子どもに楽しんで欲しいという愛情が原点で、仕事とかお金とかがからんでいないから、だいたい面白いものなのだが(トールキンの『指輪物語』も、『ハリー・ポッター』もその類)、シェイボンの場合、仕事やお金がからんでいないと、際限なく自分の好みに走ってしまうんだろうなあという感じ。シェイボン一家には面白いネタでも、読者にとっては不要という部分も多々ある。

つきつめて言えば、話が洗練されていない。シェイボン一家が面白いと思うものは、何でも詰め込んである。そういうことは、一般の日常生活の中にはよくあることだが、とりあえずシェイボンは、プロの作家だし。

シェイボンの知識の豊富さは驚くほどだし、頭脳の中身も並ではないと思うのだが、同じく知識が豊富なトールキンなどとは全く異なる次元のような気がする。もともとシェイボンの作品には、ファンタジックな部分があると思うが、正真正銘のファンタジーは向かないと思う。トールキンのように、すっかりその世界にはまりきれないところがある。

ファンタジーは荒唐無稽でいいのだから、「・・・なんて、それはちょっと大げさだろう」などというのは不要なのだ。「・・・」の部分で止めておけばいいのに。大げさでも、とんでもないホラでも、そもそもがファンタジーなのだから、そんなことはどうでもいいんじゃないかと思う。むしろ、いかに荒唐無稽か、そちらのほうを楽しみにしていたのに、と。

そういう意味では、併読しているロバート・オレン・バトラーの『奇妙な新聞記事』のほうが、はるかにファンタジーとしての要素が濃い。第一印象で、「これはカルヴィーノじゃないか!」と思ったように、こちらのほうが数倍荒唐無稽である。シェイボンの非凡さは認めているものの、彼は児童向けのファンタジーには向かない、どちらかといえばSFのほうがいいんじゃないかという気がしてならない。彼の興味は、一般に言うファンタジーではなく、SF的幻想なのだと思う。

ま、我が子のために書いたのだから、自分の子どもさえ気に入ってくれればいいんだろうけど、期待していただけに、ちょっと残念。無理やり言うなら、『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』を読みやすくした(『カヴァリエ・・・』のほうがはるかにいいが)感じ?そこに、子供向けということで教訓めいた話がちらほら見えていて、それもまたシェイボンらしからぬと思う部分なのだ。


<読書途中のメモ>

シェイボンは好きな作家だが、どうもマニアックに書き込みすぎるきらいがある。それが気にいれば問題ないのだが、本書は児童書で、そういうマニアックな部分は必要ないだろうという気がしている。シェイボンのマニアックな書き込みは、それが彼の特徴であるとも言えるし、つぼにはまれば、すごく面白いと思うのだが、こんなこと書いてるから、児童書なのに、こんなに分厚くなってしまうんだぞ!と。

これは、本が面白くないと言っているわけではない。野球の話だが、私は野球は好きだし、十分興味を持って読めるのだけど、児童書であるということを考えると、ちょっと削ったほうがいいんじゃないかと思う部分がたくさんある。児童書だから簡単な文章でいいというわけでもないし、どこがどうシェイボン的マニアックなのかと言われると、ここがそうだとはっきり言えないのだが、そういう部分があるおかげで、遅々として進んでいかないのだから、困ったものだ。これは悪い意味で困っているのではなく、そういう部分に、その都度感服してしまい、何度も読み直したりしてそこで止まってしまうから、困ったものなのだ。

シェイボンの知識の豊富さにはいつも感服するし、この人の頭の中身はどうなているんだろう?という驚きもあるのだが、こと本書に関しては、そういう部分はあまり必要がないと思うし、それぞれ面白い知識だとは思うものの、話の思考を妨げている。それに4つの世界の構成や、繋がり方、ミドルランドとサマーランズの共通性などなど、今ひとつ練れていないようにも感じる。

シェイボンはこれまでの作品にもファンタジー的な要素を感じさせてきたが、正真正銘のファンタジーであるとする本書では、むしろ逆に現実から離れられない面が見えてしまう。完璧にファンタジーの世界に浸りきっていないような感じがする。知識の豊富さということで、トールキンとも肩を並べるだろうが、トールキンとシェイボンの頭の中身、思考のプロセスは全く異質のもので、架空の異世界を描くのには、シェイボンは不向きかもしれない。壮大さとは無縁な、SF的なマニアックな記述が、シェイボンの持ち味なんだろうと思うので。

2004年09月10日(金)
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 ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団/J.K.ローリング

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ホグワーツ魔法魔術学校5年目の新学期を目の前にして、15歳のハリー・ポッターは思春期のまっただ中にいる。なにかというとかんしゃくを起こしたり、やつれそうなほどの恋わずらいをしたり、強烈な反抗心でいっぱいになったり。

鼻持ちならないダーズリー一家と過ごす夏は、相変わらず腹の立つことばかりで退屈きわまりなく、しかもこの休み中は、マグルでない級友たちと連絡をとる機会がほとんどなかった。ハリーはとりわけ、魔法界からなんの知らせもないことにいらついていた。復活したばかりの邪悪なヴォルデモート卿がいつ襲ってくるかと、気が気ではなかった。ホグワーツに戻れば安心できるのに…でも、本当にそうだろうか?

J・K・ローリング著「ハリー・ポッター」シリーズの5作目は、前の年に経験した一連のできごとのあとすっかり自信を失った若い魔法使いハリーにとって、大きな試練となる1年間を描いている。ハリーが3大魔法学校対抗試合でヴォルデモートと痛ましくも勇敢に対決した事件は、どういうわけか、夏のあいだに広まったうわさ話(たいていの場合、うわさ話の大もとは魔法界の新聞「日刊予言者新聞」だ)では、彼をあざ笑い、過小評価するネタになっていた。魔法学校校長のダンブルドア教授までが、ヴォルデモートがよみがえったという恐ろしい真実を公式に認めようとしない魔法省の取り調べを受けることになった。

ここで登場するのが、忌まわしいことこのうえない新キャラクター、ドロレス・アンブリッジだ。ヒキガエルを思わせる容姿に、間の抜けた作り笑い(「ヘム、ヘム(hem, hem)」と笑う)が特徴のアンブリッジは、魔法省の上級次官で、空きになっていた闇の魔術に対する防衛術の教授職に就任したのだ。そして、たちまちのうちに魔法学校のうるさいお目付け役となった。ハリーの学校生活は困難になるばかり。

5年生は普通魔法使いレベル試験の準備のために、ものすごい科目数をこなさなければならず、グリフィンドールのクィディッチ・チームでは手痛いメンバー変更があり、長い廊下と閉じたドアが出てくる鮮明な夢に悩まされ、稲妻型の傷の痛みはどんどんひどくなり…ハリーがいかに立ち直れるかが、いま厳しく試されているのだ。

『Harry Potter and the Order of the Phoenix』は、シリーズ前4作のどれより、大人への成長物語という意味あいが強い。これまで尊敬していた大人たちも過ちを犯すことを知り、はっきりしているように見えた善悪の境目が突如としてあいまいになるなかで、ハリーは苦しみながら大人になっていく。

純粋無垢な少年、『賢者の石』(原題『Harry Potter and Sorcerer's Stone』)のときのような神童はもういない。そこにいるのは、ときにむっつり不機嫌な顔をして、しばしば悩み惑い(とくに女の子について)、いつも自分に疑問を投げかけてばかりいる若者だ。またもや死に直面し、信じられないような予言まで聞かされたハリーは、ホグワーツでの5年目を終えたとき、心身ともに疲れはて、すっかり暗い気分になっているのだ。いっぽうで、読者は本作でたっぷりエネルギーをもらい、このすばらしい魔法物語シリーズの次回作が出るまでの長い時間を、またじりじりしながら待つことになるだろう。(Emilie Coulter, Amazon.co.uk)



原書『Harry Potter and the Order of the Phoenix』の感想はこちら


これまで、ほとんど一気読みできた「ハリポタ」なのに、日本語版でなぜこんなにかかっているんだろう?弟のところからは、「朝四時半までかかって読み終えた」というメールが来たが、なぜかそこまでのめり込めないこの「不死鳥の騎士団」。面白いか?と聞かれても、すぐに「うん」と言えないもやもや感もある。

これって、ハリーが大人になってきて、これまではハリー自身がとまどっていた「有名なハリー・ポッター」に慣れてしまい、天狗になってる部分なども描かれているからだろうか?

これまでは、だいたい「いい子のハリー」しか描かれていなかったのだが、5巻目では「悪い子のハリー」も描かれているので、そこにとまどいを感じるのかもしれない。自分が「例のあの人」と戦ったのに!とか、自分は「あのハリー・ポッター」なのに!とか、ずいぶん自意識過剰じゃないの?と思う。もっとも、実社会ではあんな状況でそう思わずにいられる子など、一人もいないだろうなとも思うが。

だけど、やっぱり「いい子のハリー」のほうがイメージとしてはいいわけで、自然にそういうハリーを期待しており、そのあたりが、こんなはずでは・・・と納得できずにいるのかなと思う。それと、これまでは何気なく書かれていたストーリーの伏線(あとで、あそこが伏線だったのか!と思う)が、あからさまに書かれているのも、ちょっと興ざめしてるかも。

ダンブルドアが魔法省の圧力に負けているというのも悔しい(実際には負けてはいないのだが、一見そう見える)。「例のあの人」が唯一恐れるダンブルドアなのに、なぜ体制には負けてしまうんだろう?と。ダンブルドアに、「指輪」のガンダルフのようなイメージを求めるのは間違いかもしれないが、ハリーがいかにも人間くさいキャラだから、そこにない、絶対的な強さとカリスマ性をダンブルドアに求めてしまうのは、しょうがないことだ。ダンブルドアは、何者にも屈してはならないと思う。

この巻で初めてダンブルドアとヴォルデモートが戦うのだが、ダンブルドアは、なぜもっと早くに(ヴォルデモートが弱っているうちに)戦わなかったのかな?と疑問に思う。いずれ力を増してくることはわかっているのだから、早々にやっつけておけばいいのに、と。それじゃ主人公のハリーの立場がないか?

この5巻目は、最後のダンブルドアとハリーの話し合いに全てが要約されている。はじめからダンブルドアがこの話をしていれば、ハリーも嫌な思いをしなくてすんだし、シリウスだって、はたまた4巻で死んだセドリック・ディゴリーだって、死なずにすんだかもしれない。どうもここで、これまでと、これからの、つじつまあわせをしているような気がしてならない。ここに持ってくるのに、アンブリッジなどというガマ女を出して時間を稼いでいるのも、非常に無駄な感じ。

ダンブルドアは唯一ヴォルデモートに対抗できる偉大な魔法使いであるはずで、ガマ女のアンブリッジなど、何の脅威もないはずだし、魔法省だって、もっと敬意を持っていいはずなのに、なぜ虐げられるのだろう?

ちなみに、昨年原書で読んだときに読み落としていたようなのだが、ルシウス・マルフォイは、アズカバンに入れられたようだ。しかし、だとしたら、お家断絶、一家離散になるんじゃないのか?ドラコが監督生として、いまだに幅を利かせているのはなぜ?

2004年09月08日(水)
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 Bag of Bones/Stephen King

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『Bag of Bones』(邦題『骨の袋』)は、どこかダフネ・デュ・モーリアの名作『Rebecca』(邦題『レベッカ』)を思わせる作品だ。しかし、この小説のホラーやロマンスには、『Rebecca』への単なるオマージュにとどまらない奥行きがある。デュ・モーリアの描いたマンダレーと同様、本書の恐怖の舞台となる古い土地(メイン州にある、人里離れたダーク・スコア・レイクの湖畔)にも、以前亡くなったはずの領主夫人の幽霊が出没する。だがそればかりか、この湖畔には、男、女、泣き叫ぶ子どもたちなど、血みどろの幽霊がぞろぞろと出現するのだ。主人公であるミステリー作家は、妻の突然死の原因を調べながら多くの疑念をつのらせ、憤怒の情にかられていく。実は、妻は彼にうしろ暗い秘密があったのだ。それはダーク・スコア・レイクに秘められた、ある恐ろしいスキャンダルに関係があるらしい。前作『Wizard and Glass』(邦題『魔道師の虹』)と同じく濃厚に広がる非現実感のなか、好奇心旺盛の主人公はこの世からはじき出され、敵意に満ちた別の世界へと追い込まれる危険にさらされる。

『Bag of Bones』は、さまざまな作家の影響が感じられる作品でもある。ハーマン・メルヴィルやレイ・ブラッドベリらの精神があちこちから伝わってくる。ふたつのロマンス(主人公は妻との結婚生活の思い出にふける。また、のちには霊感の強い不思議な娘をもつ、若いシングル・マザーに夢中になる)の描写もしかりだ。また、主人公がベストセラー偏重の世の中に対してさり気なく皮肉を言う場面もある。「出版社の奴らは、生きのいい作家ばかりをちやほやする。スシのネタじゃあるまいし」。愛情、ばらばらの家族、作家生活、危険に脅かされる子どもたち、そしてどこか昔のスタイルにのっとった話の展開。これらの多くの点から言えば、この作品はジョン・アーヴィングの小説にも通じるものがある。

本書は、いきな言い回しやきわどいユーモアがちりばめられた、まさに典型的スティーヴン・キング作品である。布団の中でちぢこまって読んでいれば、ベッドの下からぬっと突き出た悪霊たちの手につかまれ、身も凍る思いをすること間違いなしだ。

内容(「BOOK」データベースより)
ある暑い夏の昼下がり、妻が死んだ。最愛の妻を襲った、あっけない、なんのへんてつもない死。切望していた子供を授からぬまま、遺されたベストセラー作家のわたし=マイク・ヌーナンは書けなくなり、メイン州デリーの自宅で一人、クロスワード・パズルに没頭する。最後に妻が買ったもの―妊娠検査薬。なぜ。澱のように溜まっていく疑い、夜毎の悪夢。作家は湖畔の別荘を思い出し、吸い寄せられるように、逃れるように妻との美しい思い出が宿る場所、"セーラは笑う"へと向かう。そこでわたしを待っていた一人の少女が、すべての運命を変えていく―。『グリーン・マイル』のスティーヴン・キングが圧倒的な筆力で描く、哀切なまでに美しい、重量級のゴースト・ラヴ・ストーリー。


これはホラーなんだけど、主人公がロマンチック・サスペンス専門に書いている作家という設定なので、冒頭は「現代アメリカ作家事情」みたいな内容。舞台は1994年なので、10年前の話とはいえ、ほほう〜!と思うところがたくさんあって、「ホラー」ということはしばし置いといても、なかなか面白い。その「事情」が真実なのか、フィクションなのかは定かではないが、おおかた真実なんだろうと思う。

で、この作家マイクル・ヌーナンの妻ジョアンナが、出だしでいきなり心臓発作で死んでしまうのだが、そこから順調だった執筆活動に陰りが見えてくる。ライターズ・ブロック(いわゆるスランプ)に陥ってしまうのだ。その原因に、どうやらこの世のものではない何かが関わってくるような様子。。。まだ全然ホラーっぽくないのだが、時折、「あとで気づくのだが・・・」という思わせぶりなことが書かれている。

妻のベッドの下から、読みかけのサマセット・モームの『月と六ペンス』が出てきた時、しおりがはさんであったところを開き、妻はこの先を読むことなく逝ってしまったのだ・・・というところを読んで、うわっと思った。いろんな死の感じ方があるけれど、読みかけの本を見たときの思いは、これはまた特別な思いがあるだろうと。私もあの本を読んでおけばよかったと後悔しないように、やっぱり好きな本から先に読もうっと。(^^;

この作品は、Amazonのレビューに「どこかダフネ・デュ・モーリアの名作『Rebecca』(邦題『レベッカ』)を思わせる作品だ」とあるように、至るところに『レベッカ』が出てくる。それも、『レベッカ』を読んでいて当然という書き方なので、『レベッカ』を読んでいないと、理解できない部分もある。途中、何度も出てくる「きのう、私は<マンダレイ>の夢を見た」というような一節は、それだけで、その場の状況というか、主人公の心中を物語っているので、当然『レベッカ』の内容を知らないと、全く理解できないということになる。読書会で『レベッカ』を読んでいて良かったと、普段嫌だなあと思っている読書会を、このときほど有難いと思ったことはない。

また、小説にはよく、他の作家の作品が出てくるが(例えば登場人物が読んでいる本や、部屋に置いてある本など)、そういう場合、だいたい古典の名作だったりするのだが、ここでは、ジョン・アーヴィングやエレン・ギルクリストなどという名前が出てきて、古典の名作が出てくるよりも、リアリティがある。日本人が皆、いつも夏目漱石や川端康成などを読んでいるわけではないように、欧米人だって、シェイクスピアやディケンズなどばかり読んでいるわけじゃない。むしろ現代文学が出てくるほうが自然だと思った。キングはアーヴィングと友だちだから、「ちゃんとしたほんとうの本」としてアーヴィングを出したのは、サービスのような気もするが。

半分以上も読んで、やっと幽霊登場。冷蔵庫の扉につけてあるアルファベットのマグネットで、幽霊が文字を書くのだ。その前から、そういった現象や、他のなんとなく不気味な感じの雰囲気は書かれているのだが、マグネットがひとりでに動いているというのを目撃されたのは初めて。これって、全然ホラーじゃないじゃない!と思っていたところなので、ホッとしたというか、何というか・・・。(^^;
ここに描かれている不気味な感じというのは、やっぱり『レベッカ』を読んでいないと、想像できないだろう。『レベッカ』のマンダレイが下地にあって、その上で不気味さを出している。

冒頭は面白いと思えたのだけど、なかなかホラーにならないし、ホラーっぽくなってからは、その超常現象がどうして起こるのか、全然理由がわからず、イライラした。

キングは頭の良い人だなとは思うのだけど、ホラーのエンターテインメントとしては、これは凝りすぎ?他の作品とちがって、ホラーはホラーでもゴースト・ラブストーリーだというので、中には様々な愛情(特に死んだ妻に対する愛)が描かれているのだが、とにかく最後はお化けたちと戦わざるを得なくなった主人公の作家ヌーナン。あとからあとから出てくる過去の死者の霊。さすがホラーの帝王キングだとは思うものの、今いち怖くもないし、すごい!という驚きもなかった。

それにしても、あそこまでお化けが出てくる家に、なんでいつまでもいられるのかしらね?という感じだった。私だったら、さっさと逃げ出します。そもそもヌーナンはよそ者なのだから、その街の呪いを解いてやる義務も何もないわけだし。やっぱりホラー系では、マキャモンのほうが個人的には好きだと、改めて認識した次第。

2004年09月03日(金)
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