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■ ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団/J.K.ローリング
Amazon.co.jp ホグワーツ魔法魔術学校5年目の新学期を目の前にして、15歳のハリー・ポッターは思春期のまっただ中にいる。なにかというとかんしゃくを起こしたり、やつれそうなほどの恋わずらいをしたり、強烈な反抗心でいっぱいになったり。
鼻持ちならないダーズリー一家と過ごす夏は、相変わらず腹の立つことばかりで退屈きわまりなく、しかもこの休み中は、マグルでない級友たちと連絡をとる機会がほとんどなかった。ハリーはとりわけ、魔法界からなんの知らせもないことにいらついていた。復活したばかりの邪悪なヴォルデモート卿がいつ襲ってくるかと、気が気ではなかった。ホグワーツに戻れば安心できるのに…でも、本当にそうだろうか?
J・K・ローリング著「ハリー・ポッター」シリーズの5作目は、前の年に経験した一連のできごとのあとすっかり自信を失った若い魔法使いハリーにとって、大きな試練となる1年間を描いている。ハリーが3大魔法学校対抗試合でヴォルデモートと痛ましくも勇敢に対決した事件は、どういうわけか、夏のあいだに広まったうわさ話(たいていの場合、うわさ話の大もとは魔法界の新聞「日刊予言者新聞」だ)では、彼をあざ笑い、過小評価するネタになっていた。魔法学校校長のダンブルドア教授までが、ヴォルデモートがよみがえったという恐ろしい真実を公式に認めようとしない魔法省の取り調べを受けることになった。
ここで登場するのが、忌まわしいことこのうえない新キャラクター、ドロレス・アンブリッジだ。ヒキガエルを思わせる容姿に、間の抜けた作り笑い(「ヘム、ヘム(hem, hem)」と笑う)が特徴のアンブリッジは、魔法省の上級次官で、空きになっていた闇の魔術に対する防衛術の教授職に就任したのだ。そして、たちまちのうちに魔法学校のうるさいお目付け役となった。ハリーの学校生活は困難になるばかり。
5年生は普通魔法使いレベル試験の準備のために、ものすごい科目数をこなさなければならず、グリフィンドールのクィディッチ・チームでは手痛いメンバー変更があり、長い廊下と閉じたドアが出てくる鮮明な夢に悩まされ、稲妻型の傷の痛みはどんどんひどくなり…ハリーがいかに立ち直れるかが、いま厳しく試されているのだ。
『Harry Potter and the Order of the Phoenix』は、シリーズ前4作のどれより、大人への成長物語という意味あいが強い。これまで尊敬していた大人たちも過ちを犯すことを知り、はっきりしているように見えた善悪の境目が突如としてあいまいになるなかで、ハリーは苦しみながら大人になっていく。
純粋無垢な少年、『賢者の石』(原題『Harry Potter and Sorcerer's Stone』)のときのような神童はもういない。そこにいるのは、ときにむっつり不機嫌な顔をして、しばしば悩み惑い(とくに女の子について)、いつも自分に疑問を投げかけてばかりいる若者だ。またもや死に直面し、信じられないような予言まで聞かされたハリーは、ホグワーツでの5年目を終えたとき、心身ともに疲れはて、すっかり暗い気分になっているのだ。いっぽうで、読者は本作でたっぷりエネルギーをもらい、このすばらしい魔法物語シリーズの次回作が出るまでの長い時間を、またじりじりしながら待つことになるだろう。(Emilie Coulter, Amazon.co.uk)
●原書『Harry Potter and the Order of the Phoenix』の感想はこちら
これまで、ほとんど一気読みできた「ハリポタ」なのに、日本語版でなぜこんなにかかっているんだろう?弟のところからは、「朝四時半までかかって読み終えた」というメールが来たが、なぜかそこまでのめり込めないこの「不死鳥の騎士団」。面白いか?と聞かれても、すぐに「うん」と言えないもやもや感もある。
これって、ハリーが大人になってきて、これまではハリー自身がとまどっていた「有名なハリー・ポッター」に慣れてしまい、天狗になってる部分なども描かれているからだろうか?
これまでは、だいたい「いい子のハリー」しか描かれていなかったのだが、5巻目では「悪い子のハリー」も描かれているので、そこにとまどいを感じるのかもしれない。自分が「例のあの人」と戦ったのに!とか、自分は「あのハリー・ポッター」なのに!とか、ずいぶん自意識過剰じゃないの?と思う。もっとも、実社会ではあんな状況でそう思わずにいられる子など、一人もいないだろうなとも思うが。
だけど、やっぱり「いい子のハリー」のほうがイメージとしてはいいわけで、自然にそういうハリーを期待しており、そのあたりが、こんなはずでは・・・と納得できずにいるのかなと思う。それと、これまでは何気なく書かれていたストーリーの伏線(あとで、あそこが伏線だったのか!と思う)が、あからさまに書かれているのも、ちょっと興ざめしてるかも。
ダンブルドアが魔法省の圧力に負けているというのも悔しい(実際には負けてはいないのだが、一見そう見える)。「例のあの人」が唯一恐れるダンブルドアなのに、なぜ体制には負けてしまうんだろう?と。ダンブルドアに、「指輪」のガンダルフのようなイメージを求めるのは間違いかもしれないが、ハリーがいかにも人間くさいキャラだから、そこにない、絶対的な強さとカリスマ性をダンブルドアに求めてしまうのは、しょうがないことだ。ダンブルドアは、何者にも屈してはならないと思う。
この巻で初めてダンブルドアとヴォルデモートが戦うのだが、ダンブルドアは、なぜもっと早くに(ヴォルデモートが弱っているうちに)戦わなかったのかな?と疑問に思う。いずれ力を増してくることはわかっているのだから、早々にやっつけておけばいいのに、と。それじゃ主人公のハリーの立場がないか?
この5巻目は、最後のダンブルドアとハリーの話し合いに全てが要約されている。はじめからダンブルドアがこの話をしていれば、ハリーも嫌な思いをしなくてすんだし、シリウスだって、はたまた4巻で死んだセドリック・ディゴリーだって、死なずにすんだかもしれない。どうもここで、これまでと、これからの、つじつまあわせをしているような気がしてならない。ここに持ってくるのに、アンブリッジなどというガマ女を出して時間を稼いでいるのも、非常に無駄な感じ。
ダンブルドアは唯一ヴォルデモートに対抗できる偉大な魔法使いであるはずで、ガマ女のアンブリッジなど、何の脅威もないはずだし、魔法省だって、もっと敬意を持っていいはずなのに、なぜ虐げられるのだろう?
ちなみに、昨年原書で読んだときに読み落としていたようなのだが、ルシウス・マルフォイは、アズカバンに入れられたようだ。しかし、だとしたら、お家断絶、一家離散になるんじゃないのか?ドラコが監督生として、いまだに幅を利かせているのはなぜ?
2004年09月08日(水)
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